明治時代3

北九州の歴史

ホーム

4.日英同盟←|→6.日露講和と戦後政治


明治時代3
5.日露戦争
 

1903(明治36)年6月の御前会議で日露交渉開始の方針が決まると、日英同盟に基づいてイギリス側の意向を確かめましたが、その反応は消極的なものでした。
8月小村外相は栗野慎一郎駐露公使に日露交渉の基礎案を送りました。日本が朝鮮における独占的支配権を要求したのに対し、ロシアの満州における利益は鉄道経営を中心にしたものに限定するという内容でした。
ロシアでは、5月に国務大臣ペゾラゾフの立案した満州を独占的に確保するという方針が決定され、6月には軍隊が増派されました。8月極東総督府が設置され、アレクセーエフが総督に就任し、日本との交渉も極東総督が直接担当しました。
ロシアは交渉を東京で行うことを主張しました。日本もこれを受け容れ、9月に日本側全権委員は小村外相、ロシア側はローゼン駐日公使に決まりました。
10月3日ロシア側の対案が小村外相のもとに届きました。韓国における日本の優越的利益は認めるが、軍事的目的での利用や朝鮮海峡の自由航行を妨げるものを設置することは認めない、韓国領土の北緯39度以北を中立地帯とする、満州は日本の利益の範囲外であるという内容でした。
10月30日日本側の修正案をロシア側に提出しました。韓満国境の両側50kmの中立地帯を設置する、満州が日本の利益の範囲外である代わりに、韓国がロシアの利益の範囲外であることを認める、清国との条約で認められた満州における日本人の商業上の利益と居住権をロシアは認めるとの内容でした。
これに対するロシアの第2次修正案が12月11日提出されましたが、日本側の案を認めないものでした。そしてこの間にロシア軍は奉天を占領しました。
伊藤・山県ら元老は、日露戦争が日本の国力を超え、同盟国イギリスが開戦に消極的であることから、外交的解決を図ろうと考えていました。
12月21日日本政府は第2次修正案を提出しました。朝鮮海峡の自由航行を妨げる軍事施設は設けない、韓満国境両側50kmの中立地帯設定の条項は削除するというロシアに譲歩する内容でした。

元老・閣僚会議で韓国問題でロシアが日本の要求を容れない場合は開戦としていました。このため政府は開戦準備に着手しました。
1903(明治36)年12月28日戦時大本営条例を改正し、参謀総長が大本営の幕僚長として陸海軍の作戦を統轄していたのを、海軍軍令部長を参謀総長と同等の地位に置くこととしました。
軍事参議院が新設されました。これは天皇の軍事上の諮詢(しじゅん)機関で、元帥・陸海軍大臣・参謀総長・海軍軍令部長、特に親補された陸海軍将官を軍事参議官とし、議長と参議官で構成されました。陸軍大将野津道貫(みちつら)・黒木為驕iためもと)・奥保鞏(やすかた)・海軍大将井上良馨(よしか)が親補されました。
海軍は第1・2・3艦隊を編制し、第1・2艦隊で連合艦隊を組織し、海軍中将東郷平八郎が第1艦隊司令長官で、連合艦隊司令長官に就任しました。
12月28日の緊急勅令で、軍事支弁のために特別会計資金の繰替使用と一時借用を認め、国庫債券の発行や京釜鉄道の補助を認めました。
そして、12月30日の閣議で、対外政策の基本方針は朝鮮支配の実現と南清地方での利益範囲の設定で、清国には中立を守らせることにしました。
1904(明治37)年1月6日ロシア側の回答が届きました。韓国領土内での日本の軍事施設は認めない、中立地帯はロシア案のものとする、満州の清国と日本の条約上の権利は認めるが居留地は認めないという内容でした。
1月13日韓国におけるロシアの要求は一切削除し、満州のおける領土保全と日本の権利をロシアに要求する、ロシア側の回答が不満足であるか、回答を遅延した場合は開戦することとの修正案をローゼン公使に手交しました。

日露交渉において、ロシアは朝鮮における日本の軍事施設の造営を認めず、北緯39度以北の中立地帯案を要求しました。これは旅順を拠点に黄海における優位性を確保するものでした。
日本が朝鮮の独占的支配権に固執したのは、朝鮮が日本にとって不可欠な市場に位置付けられていたからでした。
日英同盟により、イギリスは日本の朝鮮のおける優越した支配権を認めていました。満州については、アメリカのこの地域への関心を利用して、領土保全と門戸開放の原則を掲げて、日本人の経済活動と居住の自由を要求しました。
ロシアは宮廷・政府内で激しい権力抗争があり、封建的土壌の上に急激な資本主義の発展があり、種々の矛盾が表面化し、革命前夜の状況でした。
日露両国の対立は、朝鮮・満州に自国の支配権を確立しょうとする帝国主義的な対立であるとともに、国内の矛盾を回避しょうとするものでありました。更に国際関係に規制されるため、容易に両国は妥協できませんでした。

ロシアは満州の兵力を増強しました。1904(明治37)年に入ると、旅順に艦隊を集結し、遼陽(リャオヤン)・旅順を中心とする関東州に陸軍兵力を集中させました。更に鴨緑江方面に部隊を移動させて防備工事を始めました。またシベリア方面の軍隊にも動員令を発令しました。
両国の軍事的緊張が高まると、今まで開戦に消極的なイギリスも日本に側面支援を行い、チリがイギリスで建造中の戦艦2隻を売り出すと、ロシアが購入しないようにイギリスは買い取りました。
時間の経過はロシアに有利と判断した日本政府は、ロシア側の回答を督促しました。1月30日伊藤・山県の元老と桂首相・小村外相の四者が会合し、朝鮮問題でロシア側が譲歩しても、ロシアの態度から数年間の小康が保たれるだけとして、開戦を決定しました。
 
開戦は海軍の開戦準備が整わないため遅れ、アルゼンチンがイタリアで建造した軍艦2隻をイギリスの仲介で買い入れ、日本近海に回航されるまで待つ予定でした。
しかし、2月3日ウラジオストックの要塞司令官が居住している日本人の引き揚げ準備を要請し、旅順の艦隊が出港したとの情報が伝えられました。
2月4日元老・閣僚による御前会議が開かれ、外交交渉を断絶し、軍事行動を起こすことが決められました。
2月5日第1軍に動員令が発せられ、連合艦隊に作戦行動開始が命じられました。2月6日栗野駐露公使を通じて国交断絶を通告しました。同日連合艦隊は佐世保を出港し、主力は旅順口に向かいました。一部は陸軍部隊の輸送を護衛して仁川に向かいました。
2月8日陸軍部隊は仁川に上陸しました。同日連合艦隊は旅順口でロシア艦隊を攻撃し始めました。翌2月9日仁川沖でロシア軍艦2隻を撃沈しました。2月10日日本は正式にロシアに対して宣戦布告しました。

 

司令官黒木為驕iためもと)麾下の第1軍を鎮南浦(ジンナンポ)に上陸させるには、黄海の制海権を握る必要がありました。1904(明治37)年2月14日連合艦隊は第2回旅順口攻撃を行いました。しかし、港内のロシア艦隊に有効な打撃を与えることができませんでした。
そこで港口に老朽した汽船を沈める旅順口閉塞作戦を行いました。2月下旬に第1回、3月下旬に第2回を行いましたが、予期した成果をおさめることはできませんでした。第2回作戦で福井丸指揮官広瀬武夫少佐が戦死し、軍神となりました。
この間に第1軍主力は鎮南浦に上陸して北上し、4月下旬には鴨緑江に到着しました。
司令官奥保鞏(やすかた)麾下の第2軍は予定の大狐山から閉塞作戦の失敗で変更し、第3回閉塞作戦を行って、塩大澳(イエンダアオウ)から5月上旬に上陸しました。

この作戦を援護するため第1軍は5月1日鴨緑江をを渡り、ロシア軍を撃破しました。
5月下旬独立第10師団を第1・2軍の中間大狐山に、両軍を連携させるために上陸させました。

5月26日第2軍は南山(ナンシャン)付近のロシア軍を攻撃しました。しかし抵抗が激しく、多くの戦死傷者を出して占領しました。
大本営は第3軍の編成を決定し、第2軍からさいた2個師団を中心に編成し、乃木希典(まれすけ)を司令官に任命しました。
独立第10師団に第2軍から第5師団と1旅団を加えて第4軍が編成され、司令官に野津道貫(みちつら)が就きました。
この第1〜4軍を統轄する満州軍総司令部が編成されました。総司令官に参謀総長大山巌、総参謀長に参謀次長児玉源太郎を任命しました。
大本営の作戦計画は、第1・2・4軍を速やかに北進させて、ロシア軍が増強されない前に打撃を与え、第3軍の旅順攻略を早めることでした。
ロシアはバルチック艦隊を極東に回航するとの情報が入っていました。ウラジオストック艦隊はしばしば出撃して日本の輸送船を撃沈していました。海軍は早く旅順港内のロシア艦隊を撃滅して黄海・渤海の制海権を掌握する必要がありました。そのためには陸軍の早期の旅順攻略が必要でした。

1904(明治37)年7月下旬第1軍は遼陽の東方に布陣しました。第4軍編入予定の独立第10師団は遼陽の南方に位置していました。第2軍は遼陽にはまだ距離がありました。その障害は補給が間に合わないことでした。武器・弾薬・食糧を補給する兵站輸送は、消耗戦の様相を呈する日露戦争において大きな鍵を握っていました。
8月上旬第2軍は遼陽南方に進出し、左翼に第2軍、右翼に第4軍が展開しました。
満州軍総司令部は遼陽攻撃を命令しました。8月25日夜第1軍が、第2・4軍は26日から遼陽を目指して進みました。
8月28日遼陽攻撃を開始しました。総司令官クロパトキンのロシア軍も応戦しました。日本軍13万4,500人、ロシア軍22万余人の本格的な戦闘でした。
第1軍はロシア軍の側面を脅かしました。しかし、南方からの第2・4軍はロシア軍の抵抗が激しく、ほとんど前進できませんでした。
クロパトキンは第1軍による退路の遮断を恐れ、9月1日後退を命じたため第2・4軍は前進することができました。しかし、第1軍の前面のロシア軍は増強され、予備兵力は底をつき、砲弾は不足しました。このため第1軍は前進することができなくなりました。
9月3日ロシア軍の指揮が混乱して全面的に後退し始めました。しかし、退路を断って打撃を与えることはできませんでした。

7日間の戦闘で日本軍の戦死者5,500人、戦傷者18,000人、ロシア軍の戦死傷者約2万人でした。日本軍の損害は決して小さくはありませんでしたが、外国観戦武官はその損害を誇大に伝え、ロンドンにおける公債応募は激減しました。
ロシア軍は輸送能力を発揮して兵力を増強していきました。大本営はこれに対応するために兵力の増強の必要に迫られました。特に不足していた将校の補充には、士官候補生を増員して、その教育期間を短縮したり、下士官に進級の道を開き、中等学校卒業生に適用する1年志願兵の制度を利用しました。
兵器・弾薬の不足も深刻でした。東京・大阪砲兵工廠はフル操業し、民間工場にも発注しました。更に砲弾をドイツのクルップ社やイギリスのアースストロング社にも大量に発注しました。
 
1904(明治37)年8月10日の黄海海戦でロシア艦隊は連合艦隊に捕捉され、その大半を失っていましたが、残余の艦隊が旅順港深くに残っていました。このため連合艦隊は旅順口の包囲網を解除するわけにはいきませんでした。
第3軍は旅順要塞攻撃を目的に編成されました。しかし、日本軍は要塞の防備についての情報を掌握していませんでした。大本営は要塞の西に迂回して旅順港の背後から攻撃する作戦を指示しました。しかし、第3軍は正面からの最短距離の作戦を主張し、実行しました。
8月19日砲撃を開始し、8月21日突撃を始めました。しかし、セメントの掩蔽(えんぺい)物の中のロシア軍の反撃を受け、死傷者が続出しました。第1回総攻撃の結果は、50,700人のうち死傷者15,800人の大きな犠牲を払いました。
大本営は内地の要塞に装備されていた28サンチ(砲の口径寸法、センチメートル)榴弾砲(破壊効果を高めるため、大量の炸薬を充填してある砲弾を発射する大砲)を使用するようしました。そして、旅順の背面の203高地攻撃を採用しました。しかし、9月19日からの攻撃は正面突破が主な目標でしたし、28サンチ榴弾砲の火薬の到着が遅れていて使用できず、22日までに4,700余人の戦死傷者を出しました。
 

遼陽会戦後、補給を待っていた日本軍をロシアの大軍が逆襲しました。クロパトキンの第1軍の他に、新たにグルッペンベルグを指揮官とする第2軍が編成されました。
1904(明治37)年10月8日夜ロシア軍が本渓湖(ペンシイフウ)の第1軍を攻撃し、沙河(チャーホウ)会戦が始まりました。第2・4軍は反撃しましたが、予期した成果を上げることはできませんでした。第1軍は苦戦しました。
10月17日になると、戦線は平穏になりました。しかし、ロシア軍に打撃を与えるには補給が必要でしたが、山・野砲の補給は12月以降ですし、後備軍の編成は翌年2月にしかなりませんでした。大本営の指示は、陣地を構築して対陣せよというものでした。
沙河会戦では20,400人の損害を出しました。戦闘力の回復を待つしかありませんでした。満州軍総司令部は旅順攻略が先決で、第3軍が陥落させて、北進するのを待つことにしました。沙河を挟んで、日露両軍35万の大軍が対峙して、厳冬を迎えました。

バルチック艦隊は1904(明治37)年10月15日にバルト海沿岸のリバウ軍港を出発したのとの情報が伝えられました。早期の旅順攻略が必要になりました。
10月26日から第2回総攻撃が始まりました。18門の28サンチ榴弾砲の砲撃でロシア軍の堡塁を破砕しました。10月30日に突撃を命じましたが、3,800人の損害を出し、堡塁1つも確保できず、31日に攻撃を中止しました。
バルチック艦隊は地中海・喜望峰・マダガスカル島を経由して翌年1月上旬には台湾海峡水域に達すると、大本営は判断しました。連合艦隊が迎撃するには艦艇の修理に2ヶ月ほど必要であり、それ以前に旅順のロシア艦隊を殲滅しておく必要がありました。
大本営は203高地の攻撃に主力を置くように指示しましたが、第3軍及び満州軍総司令部は正面突破の作戦に固執しました。
11月14日桂首相・陸海軍大臣・山県参謀総長・伊東祐亨(すけゆき)軍令部長・両次長が参集して御前会議が開かれました。バルチック艦隊が日本から1ヶ月程度の航程に達すると、旅順港の封鎖を解除せざるを得ないので、早期の旅順攻略を要請しました。

総攻撃を前に中村覚少将を指揮官とする特別予備隊を編成しました。要塞内部に突入することを任務として、敵味方を識別するために白襷(しろたすき)をかけました。
1904(明治37)年11月26日第3回総攻撃が開始されました。しかし、ロシア軍の陣地の守りは堅く、白襷隊の攻撃で松樹山(スンシュウシャン)砲台に突入しましたが撃退されました。
翌11月27日乃木希典司令官は攻撃を203高地に集中し、28サンチ榴弾砲の砲撃を203高地に集中させるように命令しました。
11月28日明け方第1師団は203高地の一角を占領しましたが、夜中にロシア軍に奪還されました。死傷者が続出し、同師団は突撃の余力を失い、内地から増強された第7師団が投入されました。突入・逆襲が繰り返されました。
この間満州軍総参謀長児玉源太郎が一時乃木司令官の指揮権を代行し、前線指揮に当たりました。
12月5日203高地東北山頂に突入し、ロシア軍の抵抗と逆襲を排除して、その山頂を占領しました。第3回総攻撃で戦死傷者は10,700人に達しました。

1904(明治37)年12月6日以降は旅順要塞が見渡せるようになり、28サンチ榴弾砲が停泊しているロシア艦隊を砲撃しました。更に坑道を掘って正面の堡塁を爆破するという戦術が効を奏し、12月31日ほとんどの堡塁を占領しました。
翌1905(明治38)年1月1日ロシア軍軍使が降伏を申し入れました。翌1月2日戦闘は停止され、1月13日日本軍は旅順に入城しました。
作戦開始から155日、日本軍は13万人が参加して戦死傷者は5万9千人を数えました。乃木司令官の息子2人も戦死しました。
後に崇拝された乃木将軍も、この戦地での将兵の反応は冷淡であったと伝えられています。戦術では当初の作戦計画に固執し、将兵の命を的にした突撃戦法は大きな犠牲を払いました。

旅順陥落後、第3軍を新しく編成替えして北進させることにしました。更に、新たに鴨緑江軍を編成し、川村景明が司令官に就きました。鴨緑江軍は韓国駐箚(ちゅうさつ、駐在すること)軍司令官の直属とし、韓国北西国境の防衛に当たらせました。
1905(明治38)年1月に入ると、ロシア軍の活動が活発になりました。ミシチェンコが率いる騎馬集団1万が営口を襲撃しました。
更に対峙しているロシア軍が左翼の日本軍を攻撃しました。雪中の黒溝台(ヘイチィアオタイ)の戦闘では日本側に9千人の損害が出ました。第3軍の北進の必要を痛感させられました。
鴨緑江軍が撫順(フウシュン)方面に前進し、ロシア軍の東側から圧力をかけました。2月27日から再編された第3軍は、ロシア軍の西側を迂回し、退路を抑えるという作戦の下に前進を開始しました。

1905(明治38)年3月1日全軍は総攻撃を開始しました。ロシア軍の抵抗は強く、各軍とも苦戦しました。日露両軍が激しい白兵戦を展開するという激戦でした。
3月7日になってロシア軍の一角に動揺が起こり、翌8日に退却を始めました。
各軍は奉天(フォンティエン)を中心にした包囲作戦を展開しました。3月10日午後第2軍の一部が奉天城内に突入しました。
日本軍約25万、ロシア軍約32万が結集した奉天会戦は、10日間の戦闘で、日本軍戦死傷者7万人、ロシア軍9万人の損害を出しました。
後退するロシア軍を捕捉できず、満州軍はロシア軍の主力を殲滅することはできませんでした。この戦闘に日本軍は動員できる戦力全てを投入しました。これ以上の戦争継続は相当な準備と覚悟が必要でした。

 

参謀本部は、戦争は1年、軍事費5億円と想定していました。実際に日露戦争に支出されたのは、軍事費17億4,600万円、各省の臨時事件費が2億3,800万円で、計19億8,400万円にのぼりました。戦前の予算規模が3億円足らずですから、国内での資金調達は不可能でした。
この外債募集を担当したのが、日銀副総裁高橋是清(これきよ)でした。
1904(明治37)年2月下旬高橋はアメリカに向かいました。しかし、外債応募の可能性はないと判断し、すぐにイギリスに渡りました。
日本の公債に対する信用はロシアと比較してかなり低く、交渉は容易ではありませんでしたが、5月ロンドンとニューヨークで計1,000万ポンド(9,763万円)の外債が成立しました。
特にこの中で、アメリカのクーン=レーブ商会が応諾したことが大きかったといえます。これはロシアのユダヤ人迫害に反発したことと、アメリカの金融資本の満州への関心がありました。日露戦争後、同商会系のハリマンが満州鉄道への進出意欲を示しました。
11月には第2回外債募集が行われました。前回同様米英両国同額で1,200万ポンドが発行されした。
1905(明治38)年3月の第3回外債募集は、奉天開戦直後で、前2回より有利な条件で引き受けられました。7月には第4回の外債募集が行われました。
4回の外債総額は8億円で、戦費17億円の半分近くを外国に依存しなければいけませんでした。
外債の一部は外国からの軍需品の購入代金となり、大部分は日銀の正貨準備に当てられました。その結果、兌換券の増発となり、戦時から戦後のインフレーションを引き起こしました。

第19議会は会戦直前に解散され、選挙戦は開戦の中で行われ、1904(明治37)年3月1日総選挙があり、政友会の議席は減少しましたが、第一党の地位は保持しました。
政友会は憲政本党と提携すれば、過半数を占めました。両党は桂内閣への批判を留保して、戦時下の挙国一致で第20議会に臨みました。
増税案が提出されましたが、増税分は臨時軍事費・予備費の中での割合は16%で、軍事費の大半は公債に依存するしかありませんでした。
議会は全法案を多少修正しただけで可決し、戦争遂行に全面的に協力することを表明しました。この議会と次の第21議会は軍国議会の役目を果たしました。
第21議会は1904(明治37)年11月末から始まりました。開会直後に政友会幹部原敬(たかし)は桂首相と会談しました。原は桂から戦後は政権に政友会を参画させることの言質を取りました。政友会の支持が政府には必要でした。
第21議会で成立した臨時軍事費は7億円と予備費8,000万円で、増税分は7,400万円で、公債と一時借入金は5億7,100万円にのぼりました。こうして公債や借入金という形で、将来にわたって国民が巨額な債務を負担することになりました。

政府は国民各層を挙国一致による戦時体制に組み込み、巨額の軍事費の負担に耐え、大量の働き手を動員させ、労働力不足の中で戦時経済を維持できる体制を確立させることが必要でした。
1904(明治37)年2月政府は臨時の地方長官会議を招集し、地方行政について基本方針を指示しました。内務省は地方行政団体の財政を大幅に緊縮することを指示しました。
府県・市町村の財政は圧迫され、経費は縮小されました。特に土木事業の中止や繰り延べが行われ、学校予算が削減されました。
一方では、町村の基本財産や学校基本財産の設置が奨励され、費用・経費が植林や開墾での利益で賄えるように指導されました。
納税組合が結成され、日掛・月掛で積み立てさせて税金の完納が図られました。また貯蓄組合をつくって勤倹貯蓄が奨励されました。

出征軍人や遺家族の生活を扶助する体制をつくることは非常に重視されました。帝国軍人援護会が結成され、有栖川宮威人(たけひと)親王が総裁、財界に親しい元老の井上馨と松方正義が副総裁に就き、各界から寄付を募りました。地方でも様々な名称の組織がつくられ、色々の救護が行われました。
市町村は出征軍人の送迎、慰問品の発送、傷病兵の慰問を行いましたが、それらを行うためにも救護組織が必要でした。特にその面で活躍したのが愛国婦人会でした。1904(明治37)年2月愛国婦人会に天皇・皇后から下賜金があり、政府の後援とともに中央・地方の名流婦人を網羅しました。
日本赤十字社は、医師・看護人を戦地に派遣し、兵站病院や病院船内での傷病兵の治療・看護に当たりました。また、一般会員による包帯製造や傷病者への慰問品寄贈などを行いました。

戦時下の農村は、政府が推進する政策に協力して、戦争を支持しました。地方長官会議で、清浦圭吾農商務相は応召による労働力不足はあるが、戦時下の農業生産の増収を要請しました。
全国農事会は農事改良の実行を決めました。更に各村に団体を設立し、11歳以上の男子は農耕の手助けをすること、地主も農業に従事すること、冠婚葬祭の費用を節約して勤倹貯蓄を実行することが掲げられました。
農商務省は、戦時の非常事態を利用して農事改良を推進しました。その成果は決して小さいものではありませんでした。米麦種子の塩水選・短冊形共同苗代・稲苗の正条植・緑肥の栽培・稚蚕共同飼育・改良牧草の栽培が普及していきました。

1904(明治37)年2月10日東京市中を宣戦布告の号外の鈴の音が駆け巡りました。仁川と旅順でロシア軍艦を撃沈すると、提灯行列が銀座を練り歩きました。この様な開戦の熱気の中に多くの国民は巻き込まれました。
この様な空気の中、額面1億円の第1回国債募集が発表されました。これに対し、4億5千万円が申し込まれました。これ以降1905(明治38)年4月までの4回の募集は4億8千万円に達しました。
しかし、この巨額の国債の消化には無理な面もありました。特に地方では、府県更に郡市に割当てられ、それを地価・所得税・生産力・預貯金額を参考に市町村に振り分け、郡長・町村長らが管内を廻って勧誘に努めました。資産家には知事が直接勧誘状を発送しました。下級官吏や工廠の職工も上司の勧誘で国債を買わされました。

巨額の増税と国債の負担は国民生活の大きな影響を与えました。非常特別税の多くが間接税の増徴と煙草専売の益金でした。このため、生活必需品が値上がりしました。
国債の応募を増やすため政府や地方行政機関は倹約を奨励しました。このため緊縮ムードとなり、経済活動は沈滞する結果となりました。
戦争の影響を大きく受けたのは、装飾関係や庭師、大工・左官・木挽・建具などの職人でした。また、紡績関係や製糖・印刷などの労働者に失業者が出たり、夜業廃止や休日が多くなりました。更に深刻だったのは、女中・人力車夫・屋台商・街路での商いをする人達ですし、この人達を相手に商売する質屋や米屋も困窮しました。
砲兵工廠の労働者、軍用品製造の労働者、軍服用の綿布職工、煙草職工、軍需に関係する職人は余り不景気には関係ありませんでした。
最も影響が深刻だったのは内地向け絹織物業でした。この様に業種・職種によって戦争の影響は一様ではありませんでした。しかし、下層の者に影響は大きく現れました。

農民は戦争で景気が良くなることは全くありませんでした。兵士として徴集され、農耕馬は軍用に徴発され、牛は缶詰用に徴発されました。大豆粕・にしん粕などの金肥(金銭を払って購入する肥料)が不足して高騰しました。牛馬が減少したため堆肥も増やせませんでした。過重な労働と勤勉さで農業生産は維持されました。
地租は直接農民に課せられるものですから、節約により負担を軽減することはできません。村からは税金の完納が指示され、国債の応募も強制的に行われました。機業地の不振は深刻で、その近隣農村では農家の副業が成り立たなくなりました。
その上で、村は倹約を奨励しました。そのため村内の商人や職人は深刻な影響を受けました。

開戦以来の連戦連勝の報道は国民的熱狂をかきたて、旅順陥落や奉天会戦の勝利に狂喜し、提灯行列や戦勝祝賀会が各地で開かれました。国民は重税や物価高騰、国債の割当などの重い負担に耐えていました。しかし、戦闘能力が限界に達していることは知りませんでした。
こうした熱狂の中で、平民社と社会主義協会は非戦論を主張しました。「平民新聞」は開戦直後の社説で、戦争の罪悪を糾弾し、戦争反対を表明しました。さらにロシアや英米独仏の平民も戦争反対の行動に出るであろうと、民衆の国際的連帯への確信を述べています。
平和のための政治をするには、軍国制度・資本制度・階級制度を改革して社会主義的制度を実現することだと主張しました。その方法は普通選挙を実現し、職工・小商人・小作人代表者を多数議会に選出ことだとしました。
それと同時に、ロシア社会民主党に対し社会主義者の国際的連帯を呼びかけ、共通の敵は愛国主義であり、軍国主義であるとしました。
1904(明治37)年8月アムステルダムで開かれた第2インターナショナル第6回大会に、渡米中の片山潜が日本代表として出席し、ロシア代表のプレハーノフとともに副議長に選出されました。2人は壇上で握手を交わし、大会は満場一致で戦争反対の決議をしました。

社会主義者の非戦の活動は政府にとっては好ましいものではありませんでした。「平民新聞」が発売禁止になったり、編集発行人の堺利彦は軽禁固2ヶ月に処せられたりしました。社会主義演説会は演説中止になったり、解散になったりしました。
1904(明治37)年11月社会主義協会は結社禁止になりました。翌年1905(明治38)年1月「平民新聞」は廃刊となりました。これ以降も平民社は色々な活動を行いましたが、政府の弾圧は一層厳しくなりました。
社会主義者の粘り強い活動によるものか、人間性に根ざすものを民衆は持ち続けていました。与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」は戦争否定の感情を表しています。

 

1903(明治36)年10月頃日本政府は密約を締結すべく韓国政府と交渉を始めていました。しかし、親露派と目される李容翊(りようよく、イヨンイク)らの反対で開戦前には成功しませんでした。
開戦とともに日本軍はソウルを占領し、これを背景に1904(明治37)年2月日韓議定書の締結にこぎつけました。
韓国政府は日本政府の忠告を容れて施設の改善を行う、日本政府は韓国の独立と領土保全を保証する、第三国の侵害や内乱の危険がある場合日本政府は必要な措置をとり、韓国政府は十分な便宜を与えるなどの内容でした。
日本政府はこの議定書を秘密条約にしょうとしましたが、韓国の新聞が掲載したため止むを得ず公表しました。
3月下旬枢密院議長伊藤博文が特派大使として派遣され、韓国皇帝に天皇の親書を届けました。そして、伊藤は皇帝に謁見して、日韓関係のありかたや政治改革についての意見を述べました。
5月に決定された「帝国ノ対韓方針」の内容は、日本政府が軍事・外交・財政の実権を握り、経済上の利権を掌握しょうとするものでした。それはまさに朝鮮の植民地化を目指すものでした。

1904(明治37)年8月22日第1次日韓協約が調印されました。
日本政府推薦の日本人1人を財政顧問に任用し、財政に関する事項の意見を聞く、日本政府推薦の外国人1人を外交顧問に任用する、韓国政府が外国と条約を締結したり、外国人に特権を譲与したり、契約を結ぶ際は日本政府と協議するという内容でした。
これに対し、朝鮮国内から反発が起こり、韓国政府部内からも批判があがりました。朝鮮国内に反日感情が広がりました。このため韓国駐留の憲兵隊により、ソウル周辺の治安維持を図ろうとしました。しかし、ソウル市内の不穏な空気はおさまらず、遂には軍隊を出動させて首謀者を逮捕して鎮圧しました。

開戦半年後の1904(明治37)年7月には、小村外相は講和条件についての意見書を桂首相に提出しています。
1904(明治37)年4月非公式にアメリカに派遣していた金子堅太郎特使に、セオドア=ルーズベルト大統領は講和を斡旋してもいいともらしていました。金子はルーズベルトとはハーバード大学の学友でした。
日本が満州からロシアを排除して門戸を開放することを期待すると同時に、日露両国が互いに牽制することがアメリカの利益にかなうことでした。
ルーズベルトが具体的に動き始めるのは、1905(明治38)年1月の旅順陥落からでした。しかし、ロシアは奉天付近に大軍を集結させ、バルチック艦隊は東航の途中で、講和に応じる可能性はありませんでした。
3月奉天会戦でロシアが敗退し、日本の軍事力も限界に達すると、講和問題は現実味を持つようになりました。
日本政府の方針を受けて、ルーズベルトは仏独両国を通じてロシア側に講和の勧告を行いました。これに対しロシア側は、償金と領土の割譲を条件に持ち出さなければ応じる意思があるとフランスを通じて伝えました。
しかし、ロシア皇帝はバルチック艦隊に期待し、戦争継続と満州への軍隊増強の方針を変更するまでには到りませんでした。

1905(明治38)年4月中旬バルチック艦隊はフランス領インドシナのカムラン湾に到着しました。ここで後発した増援艦隊と合流し、50隻の大艦隊となりました。
5月14日カムラン湾を後にしてウラジオストックを目指して出航しました。迎え撃つ東郷平八郎を司令長官とする連合艦隊にとって、バルチック艦隊がどのコースを採るのかは重大問題でした。
対馬海峡を通ってウラジオストックに入るのが最短コースです。他は太平洋側を迂回して津軽海峡または宗谷海峡を通って入るコースが考えられました。
日本海軍は対馬海峡を通過を予想しました。しかし,カムラン湾以降のバルチック艦隊の動静は確認されませんでした。
5月27日早朝五島列島の西方海上を哨戒中の信濃丸から敵艦隊発見の一報が入り、対馬海峡通過が確認されました。

1905(明治38)年5月27日午前6時30分過ぎ、南朝鮮鎮海(ジンヒ)湾に待機していた連合艦隊主力は出航して南下しました。午後1時過ぎバルチック艦隊を発見しました。旗艦三笠に「皇国の興廃此一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」のZ旗が掲げられました。
両艦隊が8,000mの距離に近づいた時、先頭の三笠はバルチック艦隊の進路をさえぎるように方向をかえ、これに続く各艦も方向を転換しました。これは参謀秋山真之(さねゆき)が考案した丁字戦法でした。
バルチック艦隊は一斉に砲撃を始めました。連合艦隊はこれに応じないで、6,000mまで接近して砲撃を開始しました。
砲撃の正確さと破壊力で連合艦隊がバルチック艦隊に勝っていました。27日夕方まで連合艦隊の攻撃は続けられました。夜には駆逐艦隊・水雷艇隊が肉薄攻撃を行いました。28日も連合艦隊は攻撃を続け、2日間でバルチック艦隊の主力は壊滅しました。日本は日本海海戦で大勝しました。
連合艦隊には、たゆまない訓練による艦隊行動と砲撃の正確さ、海軍技師下瀬雅充(まさちか)が開発した下瀬火薬の破壊力の大きさがありました。
これに対しバルチック艦隊は大遠征で将兵は既に疲労していましたし、戦術の甘さや司令長官の負傷により艦隊行動の統率が採れませんでした。
日本海海戦の日本の圧倒的勝利は講和を促進させました。

 

4.日英同盟←|↑5.日露戦争|→6.日露講和と戦後政治

明治時代3

北九州の歴史

ホーム