明治時代3

北九州の歴史

ホーム

5.日露戦争←|→7.日露戦後社会と韓国併合


明治時代3
6.日露講和と戦後政治
 

1905(明治38)年5月31日小村外相は、高平小五郎駐米公使にアメリカ大統領に講和の斡旋を要請する訓令を発し、翌6月1日ルーズベルト大統領に伝えられました。
6月2日セオドア=ルーズベルトは駐米ドイツ大使に講和の仲介を勧告し、5日には駐露アメリカ大使を通じてロシア皇帝に講和の勧告をしました。ロシア皇帝は最初は勧告に応じるつもりはありませんでしたが、ドイツ皇帝からの親書を受けて同意することにしました。
6月9日ルーズベルトは日露両国が直接講和交渉を始めるように勧告しました。日露両国は受諾し、7月日本の全権は小村外相と高平駐米公使、ロシア側はウィッテとローゼン駐米大使が任命されました。
交渉前に日本側が行わなければならないことがありました。、樺太の軍事占領と朝鮮東北部に進入していたロシア軍を国境外に押し戻すことでした。
6月中旬日本の先遣部隊は樺太南岸に上陸し、7月にロシア軍は降服しました。北朝鮮では、6月上旬に元山に集結した日本軍は鏡城(キョンソン)を経て、下旬に輸城(シュソン)を占領しました。
更に朝鮮支配について国際的承認を受けておくことが必要でした。
アメリカは日露戦後ロシアが東アジアから後退し、日本が強くなり、アメリカの植民地フィリピンに野心を持つことを恐れました。そこで、7月29日締結の桂・タフト覚書では、日本がフィリピンに対する侵略的意図のないことを確約し、アメリカは日本の朝鮮支配を承認することを取り決めました。
8月12日第2回日英同盟条約が締結されました。これにより日本はイギリスとのインドの共同防衛が義務付けられましたが、日本の朝鮮に対する独占支配がイギリスのよって保証されました。

 

桂内閣は、講和条約支持を条件に、政友会総裁西園寺公望(さいおんじきんもち)に政権を譲渡することを約束していました。
1905(明治38)年12月下旬桂内閣は総辞職しました。翌1906(明治39)年1月西園寺を首班とする内閣が組閣されました。
この頃はまだ元老を頂点とする藩閥官僚が力を持っていたため、政友会からは内務大臣に原敬、司法大臣に松田正久だけが入閣し、純粋な政党内閣ではありませんでした。
他の閣僚は、山県系閣僚としては、山県有朋の養嗣子山県伊三郎が逓信大臣、薩摩閥からは、大久保利通の次男牧野伸顕(のぶあき)が文部大臣、元老井上馨の推薦で渋沢栄一の女婿阪谷芳郎が大蔵大臣に就任しました。
内閣制度発足以来、薩長両藩出身者で占めらていた首相に、西園寺が就いたのは画期的なことでした。
これ以降、桂太郎を代表とする官僚勢力と西園寺が代表の政友会との妥協政治が展開され、桂と西園寺が交互に政権を担当します。このため、その期間は桂園時代とも呼ばれました。この間、両者は提携し、官僚は藩閥官僚からの脱皮、政党は安定した政治勢力への転換を迫られました。

西園寺内閣には、日露戦争中に累積した巨額の国債を抱え、戦勝国として強国になるため大規模な軍備拡張を行い、朝鮮・満州の植民地経営に着手するという課題がありました。
陸軍は朝鮮・満州駐屯軍は4個師団を新設して19個師団にし、騎兵2旅団・野砲兵1旅団・山砲兵3大隊が増設され、重砲兵2旅団が新設されました。海軍も戦中から建造していた新造艦や旅順軍港改修を行いました。これら軍備拡充予算は日露戦後の財政を圧迫しました。
更に大きな問題は巨額の国債を整理することでした。第22議会に国債整理基金特別会計法案が提出されました。この基金に当てるため、講和の翌年末とされた非常特別税法を、野党の反対を抑えて、永久税として存続させました。
明治39年度の財政規模は4億6千余万円で、戦前に比べて2億円以上も増大しました。戦後処理費と軍拡費にその大半が支出されたため鉄道国有や八幡製鉄所拡張、河川改修などは公債と関税収入によってまかなうこととなりました。

国有鉄道を運営・管理してきた鉄道官僚は、全国の鉄道を国有化して統一的に運営しょうとする考えを早い段階から主張していました。一方の民間では、景気後退で鉄道経営が困難になってくると、鉄道国有論が登場しました。
軍部は軍需品や兵員輸送で、幹線鉄道が国営と民営に分かれていると、運賃・車両構造・ダイヤなどが異なるなどが問題でした。
また産業発展の面でも、運賃の統一や低減化、統一的体系で輸送体系が整備されることは重要な問題でした。
鉄道国有法案は日露戦争中に桂内閣で立案され、西園寺内閣に引き継がれました。
この法案が閣議に提出されますと、加藤高明外相が反対しました。国有化は私有権を犯すものであり、鉄道買収で公債が発行されれば、公債過剰で経済界に混乱をもたらすというものでした。加藤は岩崎弥太郎の女婿でした。三菱財閥は鉄道国有化に反対でした。加藤外相は辞任し、法案は1906(明治39)年3月衆議院に提出され、成立しました。
法案が回付された貴族院で、政府案の32会社から政友会と関係の深い中小鉄道をはずした17社の買収案に修正されました。これに朝鮮の京釜(けいふ)鉄道を含めて、1907(明治40)年10月までに買収されました。
一時は金融市場が圧迫されましたが、景気変動で左右される民間鉄道株が安全確実な公債になり、日露戦争後の経済の刺激剤になりました。
この後、政党の影響が強くなると、鉄道政策を通じて政党の勢力拡大が図れることとなり、鉄道と政党政治は密接な関係となりました。

日露戦争下、市町村は役場経費の節約、建築土木事業の中止、教育予算の節減などの財政の緊縮が要請されました。一方では、徴兵事務、税金の完納、国債の割当、出征兵士の家族や遺家族の援護、農事改良などの事業を担当しました。
日露戦争後、義務教育が4年制から6年制になり、中止されていた事業が再開され、国政の委任事業は引き続き担当するなど市町村の役割は一層大きくなりました。
その財源負担は増えましたが、財源は限られていました。そこで原敬内相は、財源を安定させるために町村合併を促進し、機能が縮小されていた府県と町村を媒介していた郡制を廃止しょうとしました。
原内相の郡制廃止案には、地方行政の簡素化と町村の自治機能を高めることがありました。しかしその裏面では、郡長には官吏や警察署長などが任命され、官僚勢力の地方体制を形成していました。山県系官僚はこの法案に反対しました。
1906(明治39)年3月の第22議会で同法案は衆議院を通過しましたが、貴族院では審議未了に終わりました。翌1907(明治40)年2月の第23議会にも同法案は再提出されましたが、貴族院で否決されました。

 

1905(明治38)年11月枢密院議長で元老の伊藤博文は特派全権大使として韓国に派遣されました。伊藤は韓国皇帝に謁見すると、朝鮮の保護国化を規定した日韓協約案を提示しました。皇帝の前に大臣を集め、伊藤は条約案についての賛否を問い、あいまいな意見は賛成に数え、賛成多数で第2次日韓協約を承認させました。
この協約により、日本は韓国の外交権を奪い、その権限は日本が派遣する統監が管理するとなりました。韓国は独立国家の地位を失い、日本の保護国となりました。
12月伊藤博文が初代統監に任命されました。その結果、各国公使館は閉鎖されました。日本は行政・税制の改革や教育面でも指導を強め、内政面でもその発言権は強化されていきました。
協約の内容が国民に知れ渡りますと、怒りの声が上がりました。反対運動がおこり、それは民衆の武装闘争として展開されました。しかし、この闘争も日本軍によって鎮圧され、多くの指導者が逮捕されました。

反日気運が高まる中、韓国皇帝は反日勢力と連絡を取り合いました。このため日本側は皇帝の行動を厳しく監視しました。
1906(明治39)年6月ロシアのニコライ2世の提唱で第2回万国平和会議がオランダのハーグで開かれました。韓国皇帝はこの会議に密使を派遣しました。密使は各国代表を訪問し、第2次日韓協約は韓国皇帝の批准がなく不法なものであると訴え、代表3人を韓国代表として会議参加を要求しました。しかし、韓国には外交権がないとして各国代表は会議参加を認めませんでした。これはハーグ密使事件と呼ばれました。
7月伊藤統監は韓国皇帝に謁見し、密使事件について問い質しました。伊藤は日本政府に韓国皇帝を譲位させることを進言しました。韓国政府内の親日派は皇帝退位を工作し、皇帝を説得しました。遂に皇帝は皇太子に譲位しました。
日本政府はこの機会に、韓国政府と第3次日韓協約を締結し、朝鮮への保護権を一層拡大しました。ここでは、統監の指導権を明記し、法令の制定や重要政策の施行について統監の承認が必要になりました。また高級官僚の任用や外国人の雇用にも統監の同意が必要で、統監の推薦する日本人を韓国官吏として任用しなければならないとしました。
8月近衛兵を残して、韓国軍隊は解散されました。これ以降韓国政府各部次官に日本人官吏が任命され、警務総長・警視総監・大審院長・検事総長などに日本人が任命されました。こうして日本の朝鮮支配は事実上確立されました。

1906(明治39)年7月皇帝の退位まで強制され、皇帝側近から反対の声が上がりました。民間の愛国団体や兵舎から脱出した侍衛隊の兵士らが蜂起し、警察署や買弁的(外国と結びついて、自国の利益を無視しても利益を得ようとする)結社の機関紙を襲撃し、首相邸を焼打ちしました。
朝鮮駐留の日本軍が出動し、ソウルの各所に守備隊を配置し、巡察隊が市内を巡回しました。7月下旬1個旅団を増強しました。10月には朝鮮駐箚憲兵隊を設置しました。
保安法を制定して結社や集会の禁止・解散ができるようにし、新聞紙法で新聞発行を許可制とし、事前検閲が行われ、必要な時は発売禁止、発行停止ができるようにしました。
8月になって軍隊解散がはっきりすると、ソウルで侍衛隊の将兵が武器庫を破って蜂起し、日本軍と交戦しつつ、市民の援けもあって郊外に脱出して義兵部隊と合流しました。これに呼応して地方鎮衛隊も蜂起し、義兵部隊に参加しました。
武装した義兵部隊は全国的に広がっていきました。義兵部隊は民衆の支援を受けて山岳地帯で転戦したため捕捉も難しく、鎮圧に日本軍が投入されました。日本軍は義兵部隊の活動地域の住民を無差別に殺戮し、家を焼き、略奪したため、朝鮮の民衆の反日感情は一層激しくなりました。

1905(明治38)年11月小村外相は、日露講和条約で規定された、ロシアの満州における利権の譲渡を清国側に承認させるための交渉に北京に赴きました。
交渉は難航しましたが、12月になって清国が譲歩して、露清間の原条約を日本が受け継ぐということで妥結しました。
更に、日本軍守備隊の鉄道付属地内駐留を認めさせ、種々の利権を要求しました。結果、安東(アントン)―奉天間の鉄道を日本が使用すること、長春―旅順間の鉄道に並行する鉄道敷設の禁止、鴨緑江の満州側の森林伐採権、満州16都市の開市・開港を清国に承認させました。

満州に対してアメリカが日露戦争前から積極的な関心を持っていました。講和直後の1905(明治38)年9月アメリカの鉄道王ハリマンが来日し、旅順―奉天間の鉄道の日本政府の現物出資とアメリカ側の資金出資による共同経営を提案しました。ハリマンは世界一周の鉄道網を計画していました。
10月桂・ハリマン覚書が作成されました。しかし、ハリマンが帰国後、小村外相が講和条約調印から帰国し、これに反対しました。翌年1906(明治39)年1月覚書の無効を通告し、ハリマンの計画は挫折しました。

南満州の日本軍の占領地域では軍政がしかれ、通商活動が日本人に限られました。このため英米の商人達は不満を抱き、門戸開放を要求して抗議運動が起きました。
日本政府も何らかの処置を迫られ、西園寺首相は1906(明治39)年4月に密かに満州占領地域の視察旅行を行いました。
5月下旬伊藤博文・山県有朋などの元老、首相・外相・陸海相、児玉源太郎参謀総長、桂太郎陸軍大将・山本権兵衛海軍大将らにより満州問題協議会が開かれました。
伊藤は、英米から抗議があり、国際協調を維持して対中国政策を遂行するためには、軍政の早期廃止が必要であると主張しました。
この結果軍政が廃止され、8月には関東都督府が設置され、関東州を管轄し、南満州の鉄道の保護と監督に当たることになりました。
南満州の鉄道経営には、1906(明治39)年6月南満州鉄道株式会社が設立されました。このいわゆる満鉄は、会社組織で民間資本の参加を認めましたたが、国家による特権的保護が与えられ、同時に政府の命令や干渉権が認められました。そこには国家機関としての性格が付与されました。
満鉄の初代総裁には児玉源太郎台湾総督の下で民政長官として手腕を振るった後藤新平が就任しました。
この後満鉄は鉄道経営で満州農民の生産物を支配し、撫順炭鉱などの多角経営を行って南満州を経済的に支配しました。更に鉄道付属地の一般行政権を握り、徴税権を行使するなど企業の権限を越えて、日本の南満州支配の拠点となりました。
 

日本による独占的な満州経営が明らかになるに従って、アメリカの日本に対する不信が表面化しました。その結果、日本人移民の多いカルフォニア州で、1905(明治38)年移民排斥運動が起こりました。
反日気運は戦勝後に日本が飛躍することへの反感や警戒によるものでした。戦争中から戦後にかけてアメリカの対日感情は変化していきました。対米関係の悪化に対し、日本はロシアからの報復を避け、朝鮮・満州における日本の支配権を確立するためロシアに接近することになりました。

 

ロシアにとっても、戦争中に革命運動が高まり、鎮圧後も国内不安が続いていました。ドイツの積極的進出、バルカン・トルコ問題があり、ロシアにとって極東では日本と和解することが得策でした。
日露を接近させたのはフランスでした。フランスは露仏同盟を強化して対独包囲政策を展開しょうとしました。
フランスは日本に接近し、1907(明治40)年6月お互いの領土や権益を尊重しあう日仏協約を締結しました。
日仏の接近により日露の接近も進行し、7月第1次日露協商が成立しました。その内容は、清国の領土保全と同国での機会均等をうたい、日本の韓国での支配権とロシアの外蒙古における特殊利益を相互に承認し、満州の南半分は日本、北半分はロシアの勢力範囲とする秘密協定を承認しました。
8月末には英露協商が締結されました。日本は英仏・英露協商と日英同盟により英仏露三国協商の一環に位置づけられました。
日米関係も11月から翌1908(明治41)年2月にかけて、いわゆる日米紳士協定を取り交わして、日本側が対米移民を制限することで一応の妥協がなされました。

1905(明治38)年8月10日からアメリカのポーツマスで講和会議は始まりました。これ以降8月29日まで十数回の会議が開かれましたが、樺太割譲と償金が支障となり、会議は行き詰まりました。
ルーズベルトは斡旋に乗り出し、ロシアに対し占領されている樺太は割譲のほかはなく、償金問題で交渉の余地を残して妥協するように進めました。ルーズベルトはドイツ皇帝・フランス首相にも書簡を送って、ロシア皇帝の説得を依頼しました。
日本は樺太全島の割譲よりも、北半分を返して、その代償に償金を獲得しょうとしました。償金獲得は小村首席全権自身も困難なことと予想していましたし、政府首脳も同感でした。
しかし、財界は戦後経済を償金獲得を前提に考えていました。また領地と償金獲得は生活が窮迫する中、戦争を支持した国民各層の悲願でした。
ロシア皇帝は、賠償金支払いは余りに屈辱的で、容認できませんでした。会談は暗礁に乗り上げました。しかし、日本政府はこれ以上戦争を継続することは不可能として割譲・償金を放棄しても講和条約の締結を訓令しました。
この直後に、ロシアが樺太の南半分を譲渡する意思があるとの情報がもたらされ、8月29日最終会議で最後の妥協が行われ、9月5日日露講和条約は調印されました。
ロシアが日本の韓国に対する指導権を承認し、旅順・大連の租借権と長春(チャンチュン)以南の鉄道及び付属利権を日本に譲渡する、北緯50度以南の樺太を割譲する、沿海州とカムチャッカにおける日本の漁業権を認めるという内容でした。 

 

1905(明治38)年6月頃民間の講和論議も盛んになってきました。領土割譲と償金についての要求は過大なものでした。こうした中、対露同志会や国権主義者各派の動きは活発になってきました。そして、各派が連合して7月19日講和問題同志連合会を結成しました。その主張は、中途半端な講和に反対し、戦争を継続して所期の目的を達成すべきという強硬なものでした。
8月31日講和会議の妥結を各新聞社が報じると、同志連合会は東京で国民大会を開くことを決めました。これ以降新聞論調は講和への不満を唱え、政府の責任を追及する声が高くなりました。
9月5日の日比谷公園の同志連合会主催の国民大会は、警視庁が集会禁止を命じ、警察隊は大会参加者の入園を阻止しょうとしました。
数万の群衆が詰め掛け、公園になだれ込みました。河野広中が議長に選ばれ、講和反対を唱え、戦争継続を要求する決議を採択し、大会は約30分で終了しました。
大会参加者の一部が方々で警察隊と衝突し、逮捕者が続出しました。御用新聞と目された国民新聞社が衝撃され、内務大臣の官邸が焼打ちされました。
9月5日夜から7日にかけて東京市中は無警察状態になりました。警察署・派出所・交番が焼打ちされ、破壊されました。首相官邸・枢密院議長官邸、山県・松方ら元老邸、外務省・アメリカ公使館などにも群衆が押しかけました。
9月6日には東京全市と府下5郡に戒厳令がしかれ、警官は抜刀して弾圧し、軍隊が出動して鎮圧しました。政府批判の新聞・雑誌は発禁や停刊処分を受けました。
講和反対の運動は地方にも及び、各町村で大会や演説会が開けれ、講和反対や大臣問責の決議が行われました。民衆が暴動化して派出所・交番を焼打ちするという事件も起きました。

日露戦争は、日本とロシアが朝鮮・満州の支配権を確保を巡って戦いました。これは日清戦争後の東アジアの分割競争の一環であり、日露両国の背後には列強の利害が複雑に重なり合いました。
日本はロシアの極東進出を阻止しょうとする英米両国の利害を代弁しました。ロシアはフランスの援助とロシアに接近しょうとしていたドイツの支持を受けました。
日本は戦費の大半を英米両国に依存し、ロシアは仏独両国で募集した外債が戦費の中で大きな比重を占めていました。このため日露両国が決定的破滅に到らない前にアメリカを中心に、フランス・ドイツの斡旋で終結を見ました。しかし日露両国への戦争の影響は大きいものがありました。
ロシアは国内に顕在した矛盾を外にそらそうとしましたが、戦争に伴う生活の困窮と労働者・農民の戦争動員は民衆の中に不満を鬱積しました。
1904(明治37)年12月のバクーの石油労働者のゼネストに始まり、翌1905(明治38)年1月の「血の日曜日」事件を契機にロシア第1革命が勃発しました。こうした革命運動に対処するためにも戦争を終結する必要がありました。
ロシア第1革命はオスマントルコやイランの革命運動や中国・インドの民族運動に影響を与えるようになります。

日本にとってこの戦争は国力をはるかに超える戦争でした。戦争前は対露強硬論が国民各層に危機意識をかきたてました。戦争中は戦争協力のための組織を張り巡らし、国民に節約を奨励して、税金・国債を負担させ、出征兵士や遺家族を支援させ、挙国一致の体制がつくられました。
戦争遂行のための財政計画と重要法案を実現するため、政府は政党との協力が必要でした。ここに官僚と政党は提携・妥協していきました。
国民には重税と巨額な国債が課せられました。物価騰貴と不景気により生活が窮迫しました。青壮年108万人が動員され、8万8千人が戦死し、戦傷者37万人の犠牲が出ました。
国民の多くは戦勝の報道ばかりで、戦争遂行能力が限界に達したことなどは知らされていませんでした。
講和条件に過大な期待をしました。それが打ち破られると、民衆の怒りは日比谷焼打事件を起こし、その矛先は警察権力や御用新聞に向きました。
日露戦争は朝鮮の植民地化を進め、満州を中国から切り離し、日本の勢力範囲に入れました。そのため、朝鮮・中国で新しい民族運動が高まり、日本はそれを抑圧していきます。

 

5.日露戦争←|↑6.日露講和と戦後政治|→7.日露戦後社会と韓国併合

明治時代3

北九州の歴史

ホーム