明治時代3

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明治時代3
7.日露戦後社会と韓国併合
 

日露戦争に勝利したといっても賠償金はなく、戦中から巨額の外債を抱え、非常特別税は戦後も継続され、戦後すぐには経済状況が良くなることはありませんでした。
株式市場は1905(明治38)年後半期から上昇の兆し、その傾向がはっきりするのは、翌年の鉄道国有と満鉄創立の満鉄ブームからでした。
紡績業や製糖業が増資や合併合同などで大企業化しました。電気・鉱業や肥料・豆粕・レンガ・セメントなどの化学工業で企業が勃興しました。紡織・船舶などの企業が発展しました。
電気は動力用電気の需要が急増し、都会の家庭電燈も普及しました。
鉱業は石炭需要が増大し、他の鉱業も重化学工業の発展に伴って原材料の需要が増大しました。肥料は農事改良の普及とともに金肥の依存が高まり、満州の独占的支配により豆粕製造が注目されました。
紡績業は朝鮮・満州市場への輸出増が期待されました。
造船業は軍艦建造の需要と、戦後の貿易・海運業の発展によって基礎が確立されました。
1906(明治39)年から官営八幡製鉄所は大拡張が行われました。翌1907(明治40)年海軍と三井、イギリスのアームストロング・ヴィッカース社の合弁で日本製鋼所が室蘭に設立され、両者で軍需用鉄鋼の大半を自給できる態勢が整えられました。
1907(明治40)年になると株式市場は変調を示し、翌1908(明治41)年上半期にかけて中小銀行の取付や支払停止が跡を絶たない状態になりました。
1908(明治41)年秋からは、アメリカで始まった恐慌がヨーロッパに波及し、日本の輸出は減退し、製糸・紡績業は深刻な打撃を受けました。恐慌の影響は他の産業にも広がり、慢性的不況となりました。これを契機に企業合併は一層進み、独占資本の成立が促進されました。

1905(明治38)年10月社会主義運動の平民社が解散になりました。弾圧と財政難、内部の思想対立が理由に挙げられます。解散後は思想的にキリスト教社会主義者と唯物論社会主義者に分裂しました。
しかし、普選問題は依然として共通の目標でした。12月第22議会を前に団体代表が集まり、普通選挙連合会を結成しました。
桂内閣に代わり西園寺内閣ができると、1906(明治39)年1月14日西川光次郎らは普通選挙実現を綱領に掲げる日本平民党の結社届けを提出しました。これが受理されると、堺利彦らは社会主義を標榜する日本社会党の結社届を1月28日に提出し受理されました。
普選運動の中心になって運動してきた社会主義者らは、2月24日日本平民党と日本社会党の合同大会を開き、片山潜・堺利彦・西川光次郎らを評議員に選び、党則を改正しました。これが第1回日本社会党大会となり、我国で初めての合法的な社会主義政党が出現しました。

この頃東京市内の電車は3つの民間会社が経営していました。3社は収益の低下を理由に運賃の値上げ案を提出しました。
日本社会党はこの問題を取り上げ、反対運動を決定しました。
1906(明治39)年3月11日日比谷公園で値上げ反対の市民大会をを開くこととし、市民に参加を呼びかけました。
大会では値上げ反対と3月15日第2回市民大会を開くとの決議を採択し、散会を宣言しましたが、日本社会党の堺利彦が立ち上がり、示威行動を呼びかけ、デモ行進をしました。
電車賃の値上げ反対の気運は広がっていきました。東京市会でも反対する者が多く、会社申請額を半分に修正してかろうじて可決しました。この様な状況の中、原敬内相も値上げ案を却下する処置をとりました。
3月15日の大会は分裂して開催されました。日本社会党の西川光次郎が市会に出かけようと叫んだため、群衆は後に従い、電車会社を襲い、電車を停め、市会庁舎に投石しました。この事件で西川ら日本社会党の幹部10名が検挙されました。

1906(明治39)年6月3社の電車会社は合併し、電車賃値上げを再度申請しました。日本社会党は反対運動を開始しました。他の団体と共闘せず、社会党は電車ボイコット運動を行いました。この運動日の9月11日から3日間は電車の乗客は大変少なかったといわれています。
日本社会党の運動の他にも反対運動は行われました。電車問題連合同志会が結成され、府知事・警視総監、更に内相・首相に反対決議を申し入れました。他の団体は示威行動を行い、電車を焼打ちしました。
社会党はこの様な民衆の力を結集することも、他の団体と提携もできませんでした。
9月11日内務大臣は当初通りの電車賃の値上げを許可しました。この前後から社会党の運動に対する弾圧は強まり、直接行動に傾斜していきました。

幸徳秋水は、1905(明治38)年2月の週刊「平民新聞」の筆禍事件により入獄し、出獄後渡米していました。入獄中より、幸徳は今までの議会主義に疑問を抱き、アメリカで無政府主義の影響を受けました。
1906(明治39)年6月幸徳秋水は帰国しました。そして、合法的議会主義を批判し、革命手段としては、無政府主義的な直接行動論の有効性を主張しました。
幸徳の主張は青年党員に受け容れられました。しかし、片山潜は普通選挙と議会主義による社会主義の立場を取りました。西川光次郎も幸徳を批判しました。
1907(明治40)年2月17日開催の日本社会党の第2回大会で、その対立は鮮明となりました。決議案で激論となり、結果、直接行動論が議会主義より優位になりました。こうした路線変換は、欧米の社会主義運動の新しい潮流やロシア第1革命が大きく影響していました。
しかし、大会報告を掲載した「日刊平民新聞」が2月20日に発売停止になり、22日には日本社会党も結社禁止となりました。

日露戦後も戦中の非常特別税が継続され、物価は高騰を続け国民生活は困窮していました。特に労働者は事業の縮小による人員削減や残業の減少、賃金引下げで深刻な状況になっていました。
労働争議は、1906(明治39)年2月の石川島造船所のストライキから呉海軍工廠・東京砲兵工廠・大阪砲兵工廠と続きました。
翌1907(明治40)年は、足尾銅山から長崎三菱造船所・別子銅山・横須賀造船所・夕張炭鉱などの当時の代表的な官営・民営の大企業で争議が発生しました。
これは、大企業では教育を受けた職工が増え、新しい機械設備や技術の導入に当たって従来の労務管理体制を変更しょうとしたことから争議になったケースが少なからずありました。

こうした労働争議の中で、明治時代で最も激しかった足尾銅山暴動を見てみます。
夕張炭鉱で労働至誠会を結成して活動していた永岡鶴蔵は、1904(明治37)年に足尾銅山に移ってきます。永岡は坑夫達に団結の必要を説き、活動しますが、飯場頭らの工作で組織は広がりませんでした。
1906(明治39)年秋夕張での同志の南松助が足尾に移ってきて、坑夫500人を組織し、至誠会足尾支部を結成しました。これに対し飯場頭がこれを抑えようとして対立しました。
1907(明治40)年2月4日坑夫達は見張所を襲いました。6日には賃上げをはじめ24ヶ条の請願書を会社側に提出しました。ところが警察は永岡・南らを逮捕したため坑夫らは見張所を破壊し、鉱業所長を襲い、鉱山内の建物を焼き払いました。
2月7日軍隊が出動し、坑夫らの逮捕が始まり、足尾暴動は鎮圧されました。
東京から西川光次郎が派遣され、足尾暴動は「日刊平民新聞」に毎日掲載されました。
6月の別子銅山の争議でも軍隊が出動して鎮圧されました。こうした労働争議に資本家や政府は驚き、これ以降労働者対策に取り組みました。
足尾銅山を除いては労働組合はなく、明治40年に高まった労働争議の多くは自然発生的な闘争に留まりました。社会主義者達も争議に関心を寄せながら、足尾銅山を除いてはほとんどその影響を与えることはできませんでした。
社会主義者自身路線上の対立から分裂し、警察の弾圧は強化され、その活動は急速に衰退していきました。

商業会議所連合会は朝鮮・中国への進出政策や国債償還問題を政府に要求し、地方の商業会議所が要求する営業税の廃止や地方産業振興などは取り上げませんでした。
しかし、経済は不況から脱却できず、非常特別税廃止の要求が大きくなってきました。1906(明治39)年10月連合会は織物消費税、塩専売、通行税の廃止を要求しました。
明治40年に入ると戦後恐慌が始まり、後半期は世界恐慌の影響で不況を深刻化し、11月連合会は再度廃止の要求を出しました。
しかし、西園寺内閣における明治41年度予算案作成に当たって、山県有朋・松方正義・井上馨らの元老の介入により軍事費は減額されず、増税による財源確保を支持されました。そのため、酒税・砂糖消費税の増徴と石油消費税の新設、たばこの値上げなどの間接税で歳入不足を補おうとしました。
これに対し連合会は増税反対を表明し、緊縮財政を要求しました。連合会会頭の中野武営(ぶえい)は商業会議所による悪税反対運動を国民的運動とし、各商業会議所の尽力を訴えました。
増税反対運動は、商業会議所の会員よりも下層の商工業者を含む広範な運動に発展していきました。

1908(明治41)年2月4日与党政友会と官僚派の大同倶楽部が賛成で、増税案は衆議院を通過しました。2月22日増税案は貴族院で成立しました。
広範な商工業者を動員した非増税運動は所期の成果を上げることはできませんでした。中野武営がいうように、今までの政党とは違う実業団体から立ち、議会で代弁する代議士を選出する必要があるとし、その選定に着手しました。
特権的財閥資本家はこの運動に同調せず、軍拡政策を支持し、非増税より国債償還の実現を政府に要求しました。
連合会は幾つかの地方から出されていた営業税廃止の要求を取り上げなかったため、非増税運動は全国の零細な商工業者をも含んだ運動とはなりませんでした。

1908(明治41)年5月の総選挙で与党政友会は過半数を獲得しましたが、増税反対運動の舞台となった東京市や都市選挙区では議席は減少しました。商業会議所などが推す中野武営ら実業派議員が進出しましたが、増税反対運動に関与した他の野党は議席数を減らしました。
選挙民の大多数が農業地主で、商工業者はほんの一部に過ぎない選挙制度の下では、都市を中心にした非増税運動は選挙結果に直ちには反映しませんでした。
しかし、度々の増税によって有権者が増えていったことにより多少の変化は起こっていました。腐敗選挙の改革と選挙権拡大を主張して当選した人達が出てきました。
増税反対運動や政界革新運動は西園寺内閣を倒す力にはなりませんでした。しかし、与党政友会の勝利にもかかわらず、元老達の介入もあり、次年度の財政計画に対する見通しが立たず、11月西園寺内閣は総辞職しました。

 

1908(明治41)年7月山県系官僚を中心に、第2次桂内閣が発足しました。新内閣にとっても財政問題が当面の問題であったため、桂首相は蔵相を兼任しました。
政府は、既定の事業計画はできるだけ繰り延べ、公債財源には依存しない、明治42年度以降に年5千万円以上の公債償還に充てるなどの徹底的緊縮財政の方針を示しました。
桂内閣の衆議院での与党は大同倶楽部だけでした。政府は総選挙で過半数を占めた政友会と妥協を試みました。桂首相の「ニコポン」主義といわれる妥協政治が行われます。
1909(明治42)年にはいると、織物税、塩専売、通行税の廃止を求める運動が再び起こってきました。こうした動きに野党は議員立法で第25議会に三税廃止案を提出しました。しかし、政友会の反対で大差で否決されました。
こうした広範な要求に対し、桂内閣も対応せざるを得ず、明治43年度予算編成に際し、非常特別税の減税を行うようにしました。同時に金融界には組閣以来の公債償還政策を維持し、官僚勢力には官吏増俸案を提出しました。
減税の中心は地租の軽減におかれました。地主階層を支持基盤とする政友会の要求に応えました。全国商業会議所連合会は第26議会を前に三税廃止、営業税・所得税の抜本的改革を要求しました。政府の減税政策から疎外された一般実業家・商工業者には不満が残っていました。

桂内閣は財閥資本家・特権的実業家を優遇する政策を取りました。1910(明治43)年にはいって、政府は金利負担を減らすため、償還期限の迫った金利5分の内国債5億2千万円を金利4分で借換えようとしました。
桂首相は東京・大阪の主な銀行家を官邸に招き、協議しました。16銀行による公債引受シンジケートが結成され、2月に第1回として1億円を引き受けました。
3月の第2回には48銀行が扱銀行となり、1億円の借換えが行われました。しかし、第3回分の1億6千万円については成功せず、イギリス・フランスでの外貨公債に依存しました。
公債借換えは株式騰貴を招きましたが、経済一般の沈滞は一層深刻となりました。
桂首相の「ニコポン」政策は一部の特権実業家と政友会のためのもので、一般実業家や都市民衆には重い負担と不況が残されました。

奢侈に流れている社会の風潮に対し、1908(明治41)年9月戊申(ぼしん)詔書を発布しました。天皇の名において国民に節倹と勤労を呼びかけました。立案者は平田東助(とうすけ)内相でした。
詔書の趣旨は節約を行いことだけでなく、勤勉努力の精神を発揮して行う地方改良運動にこそ詔書の精神が表れていると主張しました。
地方改良運動は日露戦争前より内務官僚によって構想されました。戦時下挙国一致の総動員体制を経て、日露戦後に継承されました。
その内容は多様でした。主なものに町村財政を安定させる施策がありました。町村の基本財産を造成するため、部落有林野の植林・開墾が行われ、有力者からの土地や金銭の寄付がありました。そして、町村に納税組合が組織されました。
農事改良や産業の奨励、副業の普及など生産活動の工夫や努力がおこなわれました。漁業組合、各種労働組織、品評会規則を決めている町村もありました。矯風会を組織し、時刻励行規約を決めたり、勤倹貯蓄組合を結成する町村もありました。
青年会は部落毎に組織され、江戸時代以来の若衆組の流れをくんでいましたが、日露戦争に際しては戦争協力のために活動しました。戦後内務省は青年団体を地方改良運動の有力な担い手とすべく再編に着手しました。
部落毎の青年会を町村単位の青年会に統合し、その上に郡青年団を設置し、会長に町村長や学校長、郡長などが多く就任しました。
1910(明治43)年に全国青年大会で「青年団12則」が制定されました。教育勅語・戊申詔書の遵奉(じゅんぽう)、忠君愛国の精神涵養(かんよう)、国体を重んじ祖先を尊ぶ、父母に仕え一家に和合を図る、勤労・質素を旨とするという期待する青年像の諸規範が羅列されていました。

地方改良運動を展開するのに内務官僚が注目した組織が報徳社で、イデオロギーが報徳主義でした。
報徳社は二宮尊徳(そんとく)の教えをもとに、社員らが資金を積み立て、それで農具・肥料を購入、荒蕪(こうぶ)地を開墾、山林植樹、道路・橋梁・堤防の修築、商業や家政整理の資金を貸し付ける事業を行うものです。
それと同時に、至誠と勤勉を道徳の基本にし、それを経済の上で自分の所得と消費に限度を加える分度の精神で生活を律し、その余剰で他の人に譲渡する推譲の精神でお互いの生活を守り発展させる報徳主義を社員に徹底させました。
この報徳社運動は二宮尊徳の教えを基礎にした独自の道徳観に立つものであり、この実践においては自立できる条件を持った地域でなければ発揮できないという限界がありました。そのため、関東以西のある程度商品作物が栽培できる地域に限られました。

 

韓国皇帝退位、韓国軍隊の解散などに対する朝鮮民衆の怒りを緩和させるため、新皇帝の即位式を盛大に行い、1907(明治40)年10月には皇太子嘉仁(よしひと)親王を朝鮮に派遣しました。
12月には幼い韓国皇太子を日本に留学させ、伊藤博文統監がその傅育(ふいく)係をつとめ、日韓両国皇室の良好な親善関係を装いました。
1909(明治42)年1月から韓国皇帝が朝鮮国内を巡幸し、伊藤統監は同行して各地で演説して、日本の真意は朝鮮民衆の幸福の実現にあることを説きました。
日本により政治的支配とともに経済的支配も強化されていきました。
1906(明治39)年ソウル―義州間の鉄道京義(けいぎ)線を建設しました。これで京釜(けいふ)線とともに朝鮮を縦貫する幹線が完成し、南満州と連絡する交通体系が整備されました。
他にも馬山線・平南線が敷設されました。通信事業も日本の支配下に置かれ、郵便局や電信取扱所が設けられました。これらすべて統監府が管轄しました。

渋沢栄一の第一銀行は早くから朝鮮に進出していました。海関税取扱い、韓国政府への貸付、日本貨幣の韓国内での流通などを行いました。
1902(明治35)年からは銀行券を発行し、この第一銀行券を1905(明治38)年から法貨として認めさせ、韓国における中央銀行としての業務を行いました。
正式の中央銀行設立が計画され、1909(明治42)年2月韓国銀行が設立されました。資本金10万株のうち3万株を韓国政府が引き受けましたが、総裁をはじめ行員は第一銀行員が業務を担当しました。1911(明治44)年の朝鮮併合後、朝鮮銀行と改称されました。
1908(明治41)年12月東洋拓殖株式会社が設立されました。株式募集は日本国内が約460万株、朝鮮人は6万株足らずでした。人事は陸軍中将宇佐川一正が総裁で、朝鮮人は副総裁1名、理事2名を選任しましたが、事実上は日本による半官半民の国策会社でした。
日本人の移民事業を中心に、土地経営、金融事業などを業務としました。その過程で朝鮮農民から土地を収奪して、植民政策の中心機関となりました。

退位した高宗の復位、統監の撤退、日本人官吏の罷免、外交権の回復を実現するための闘争を朝鮮民衆は行いました。
1907(明治40)年9月李麟栄(イ=リンヨン)は檄文を発し、ソウルへ進攻するように呼びかけました。12月集結した義兵部隊は1万人に達しました。李麟栄は一三道義兵総大将に推されました。
1908(明治41)年1月行動を起こし、先発隊がソウル近郊に迫りました。しかし、日本軍の先制攻撃を受け、これ以降各義兵部隊が個別に戦いを展開しました。
3月サンフランシスコで、韓国政府顧問兼統監嘱託として、日本の対朝鮮政策に加担してきたアメリカ人スチーブンスが朝鮮人に殺害されると、一時守勢になっていた義兵闘争は再び高揚しました。
日本政府は2個連隊を増派し、買弁的朝鮮人4千余人を補助憲兵として採用しました。明治41・42年が義兵闘争が高まった時期で、有名な義兵が戦死・刑死したりして、闘争はしだいに小規模化していきました。しかし闘争は民衆の支援により続けられました。
1909(明治42)年7月日本政府は韓国併合の方針を閣議決定しました。
9月から義兵闘争の活発な朝鮮半島南西部の全羅南道・北道の制圧に着手しました。日本軍により殺戮・放火・略奪・暴行が行われ、義兵部隊の指導者の多くが戦死・逮捕されました。
10月安重根(アン=ジュンクン)が満州ハルピン駅頭で前統監伊藤博文を暗殺しました。12月には首相李完用が襲撃されました。
韓国内の義兵闘争は散発的で小規模になり、主力は豆満(とまん、ドマン)江・鴨緑江を越えた満州やロシア沿海州を根拠地にしました。

日露開戦とともに日本に亡命していた宋秉o(そうへいしゅん、チョン=ピョンチュン)がソウルに戻り、旧独立協会の連中を集めて維新会を組織し、東学の流れの侍天(じてん、シチョン)教を指導した李容九(イ=ヨンク)が教徒を集めて進歩会を結成しました。
この二派が合同して一進会が結成されました。日露戦争中は日本軍の軍事行動を支援し、輸送・鉄道工事に従事し、密偵としても活動しました。
日露戦後、親日団体の一進会は朝鮮国内で売国団体として指弾されました。
1906(明治39)年黒竜会の創始者で、統監府嘱託の内田良平は一進会顧問に就任し、翌1907(明治40)年5月朴斉純(パク=チョチュン)内閣を攻撃して辞職させ、李完用を首相にし、宋秉oを農商工部大臣にし、裏から内閣を操縦しました。
一進会は幹部の宋秉oが閣内で、会長の李容九が閣外で合邦運動を推進しました。

1909(明治42)年4月伊藤統監は辞任し、9月韓国併合の方針が閣議決定され、9月桂首相・元老の山県・軍首脳と密接に関係がある政界の黒幕杉山茂丸が一進会の顧問に就任しました。
10月前統監伊藤博文が暗殺される事件が起き、12月一進会は日韓合邦を請願する上表文を韓国皇帝に提出し、曾禰荒助(そねあらすけ)統監と李完用首相にも請願しました。
この請願書は韓国国内に大きな波紋を呼びました。賛同する者は少なく、反対の声が大きく、一進会員に危害を加えるなど不穏な空気も高まりました。李容九は身を隠し、内田良平は帰国しました。
一進会自体の存続が危ぶまれ状況になったため、杉山茂丸は桂首相を説得し、日韓併合に消極的な曾禰統監の更迭を承認させ、一進会の合邦意見書を受け容れ、その忠誠を十分理解しているとの覚書を取り交わしました。こうして杉山は一進会を慰撫するとともに、政治批判をしないように警告しました。

1909(明治42)年になってアメリカは満鉄に対抗する鉄道として錦愛鉄道借款の交渉を清国と始めました。11月にはノックス国務長官が満州諸鉄道中立化案をイギリスに提案し、12月には列国に申し入れました。
しかし、ヨーロッパにおける利害対立激化の中、列国の満州問題の関心は薄く、アメリカの意図は挫折しました。
こうしたアメリカの動きは日露の利害を一致させ、日露の外交交渉が開始されました。10月伊藤博文がハルピンで遭難したのも、シベリア視察中のロシアのココフツォフ蔵相と会談し、提携の可能性を探るためでした。
1910(明治43)年7月第2次日露協商が締結されました。その秘密協約で、ロシアは北満州、日本は南満州における特殊権益を相互に認めあい、それが侵害された場合は防衛のため共同行動をとると確約しました。
この間に日本政府は日韓併合についてロシアに事前の了解を求め、イギリスにも覚書を送ってその承認を取り付けました。
桂内閣は曾禰統監を更迭し、1910(明治43)年6月寺内正毅陸相を現職のまま後任に就けました。
日本は韓国の警察権を掌握し、韓国駐箚憲兵司令官明石元二郎の憲兵組織の下に、日本人警官と朝鮮人警官を入れました。更に日本人憲兵と朝鮮人憲兵補助員を補強し、併合反対運動に対する態勢を整えました。
1910(明治43)年8月22日韓国併合に関する条約が締結されました。併合とともに朝鮮総督府が設置され、寺内陸相が総督を兼任しました。

 

日露戦争の勝利で日本は自らを世界の一等国の一つに数えました。維新以来の近代化に成功し、成長していった大日本帝国は一応の完成期を迎えました。
一定の完成が社会体制の完成とすれば、近代日本では天皇制が成立し、この明治末期に完成の域に達しました。
こうして一定の完成を達成すると、それを批判する眼が出てくるのを抑えることはできません。その反発の意識は天皇制の対極に現れ、社会運動としては無政府主義・社会主義、文学では自然主義が挙げられます。
自然主義は国家が押し付ける道徳に対し、肉体で反抗する形を取りました。田山花袋(かたい)の「蒲団(ふとん)」は妻子ある中年の小説家の女弟子への愛欲を描いています。
良識派といわれる側からは、自然主義は風俗を乱すとして非難を浴びました。しかし、逆に既成の道徳に対し個の確立に悩む青年達をひきつけました。家との葛藤は青年にとっては大きなテーマでした。自然主義は個の解放に寄与しました。しかし、非難に抗しきれず自然主義は現状容認に変わっていったり、脱落者が自己破綻を描く私小説に転じました。

1910(明治43)年4月同人雑誌「白樺」が創刊されました。そこに集まったのは学習院に学ぶ近代日本のハイソサエティの2代目達で、武者小路実篤・志賀直哉・木下利玄・有島武郎・有島生馬・里見ク・長与善郎・児島喜久雄・柳宗悦(むねよし)らでした。
ここで主張されたのは、国家を卑小にして個人を至高なものとする個人の権威の確立でした。白樺派の人々はそれぞれ個性的に生き、個性的な仕事をしました。
1911(明治44)年9月平塚らいてう達による雑誌「青鞜(せいとう)」を創刊しました。その表紙は長沼(のち高村)智恵子が描いた女性の横向きの立像が描かれ、巻頭では、与謝野晶子の詩があり、平塚らいてうの有名な発刊に際しての一文「元始、女性は太陽であった。」がありました。
「青鞜」には保持研子(やすもちよしこ)・中野初子・木内錠子(ていこ)・物集(もずめ)和子・田村俊子・野上弥生子ら若い知識階級の女性が集まりました。
のちに、岡本かの子・原田琴子・小林哥津・尾竹一枝・瀬沼夏葉・神近市子・西崎花世・伊藤野枝らが参加しました。

社会科学では天皇制という聖域をかかえていましたが、次代の大正デモクラシーの思想を代表する人々の若い芽が出てくるのがこの時期でありました。
吉野作造は宮城県古川の出身で、東京帝国大学で政治学を学びました。吉野は日露戦争を自由のための戦いと規定し、戦後も日本は自由を拡大していかなければならないと考え、しだいに民衆をもととする構想を打ち立てていきました。
1916(大正5)年1月一般民衆を貴族階級と資本家階級に対置する民本主義を立て、政権運用の目的は一般民衆のためという民本主義の有名な論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表しました。
河上肇は山口県岩国の出身で、東京帝国大学で経済学を学びました。河上は、これまでの経済学が欲望を基礎にするのに対し、それに変る何かを求めようとしました。
美濃部達吉は兵庫県高砂の出身で、東京帝国大学を卒業し、法学者になりました。美濃部は法を国民の立場から解釈しょうとしました。超然内閣論に対し、政党内閣論・議員内閣論を説き、貴族院に対して衆議院の優位性を主張して立憲主義の原則を打ち立てました。のちに美濃部は天皇機関説問題で受難します。

柳田国男は兵庫県で生まれ、東京帝国大学で農政学を学びました。農政官僚・農政学者の柳田は、農民を窮乏から救うのに情熱を傾けました。しかし、政府は農民への重税政策を改めそうになく、地主は農民へ譲歩しそうにありませんでした。
柳田は農政学をあきらめ、現実から一歩退きました。しかし、現実への批判をする学問の樹立を目指しました。それは過去に求めました。
日常生活の知恵を近代化がいかに捨て去っているかを、柳田は丹念に集めることで立証しょうとしました。西洋化を批判し、捨て去られている日常生活のしきたりの意味を復権することにより、内在的な力の再認識を目指しました。こうして民俗学が誕生しました。柳田は「遠野物語」「石神問答」「後狩詞記(のちのかりことばのき)」などを著わしました。

 

1910(明治43)年5月下旬大逆事件が起きました。
長野県明科(あきしな)の製材所職工宮下太吉が、天皇暗殺を計画して爆弾を製造したことを警察が探知しました。共謀者として新村忠雄・古河力作が検挙され、幸徳秋水の内妻管野(かんの)すがも逮捕されました。計画に関与しない幸徳秋水も逮捕され、8月までに関係者が次々と検挙されました。これを機に全国で数百名の社会主義者・無政府主義者が逮捕されました。
大逆事件で26名が逮捕されました。12月から大審院の特別裁判所で非公開で裁判は行われました。1911(明治44)年1月18日死刑24名、有期刑2名の判決が下され、翌19日勅命で死刑12名が減刑されて無期懲役となりました。1月24日幸徳ら11名の死刑が執行され、翌25日は管野の死刑が執行されました。
この事件は、天皇暗殺を直接計画したのは4名で、十分な証拠もなく秘密裁判で多くの処刑者を出しました。
この事件で社会主義者は徹底的な弾圧を受け、日本の社会主義運動はなくなりました。
平田東助内相は社会主義化意見の出版物の発売禁止処分を強化しました。小松原英太郎文相は全国の図書館所蔵の社会主義に関する書物の閲覧禁止を命じ、社会主義を論じる教員を解雇し、学生・生徒を退学処分にするように指示しました。

満蒙政策で日本とアメリカが対立している状況で、海軍力の強化は不可欠でした。世界の潮流は大艦巨砲主義になっていました。
この建艦計画に加えて韓国併合にともなう植民地経営費の増大があり、八幡製鉄所の第2期拡張計画や治水事業などの施策が控えていて、桂内閣は財政整理と非募債政策を維持するのは不可能になっていました。更に議会での大逆事件の責任追及は必至でした。
桂内閣は第27議会を乗り切るために政友会との提携が必要でした。桂首相は西園寺政友会総裁に次期政権を譲ることを約束して提携しました。
第27議会で経営者側からの抵抗によって修正を受けながら、日清戦争直後からの十数年来の宿題の工場法が成立しました。大逆事件に衝撃を受けて社会主義の浸透を阻止する方策として成立しました。
また、天皇からの下賜金を基礎に寄付金を集めて恩賜財団済世会を設立したのもそのためでした。
普通選挙法案が衆議院を通過すると、政府をこれを危険思想として貴族院で否決しました。1911(明治44)年5月末には10年間活動した普通選挙同盟会を解散させました。

1912(明治45)年7月20日明治天皇の病気が官報で発表されました。29日午後10時に死去しましたが、践祚の準備があり、公式には7月30日午前0時43分崩御と発表されました。数えの61歳でした。直ちに皇太子嘉仁親王が践祚し、大正と改元されました。
9月30日御大葬が執り行われました。この日陸軍大将乃木希典・静子夫人が殉死しました。

 

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明治時代3

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