明治時代3

北九州の歴史

ホーム

7.日露戦後社会と韓国併合


明治時代3
8.明治後期の北九州
 

1891(明治24)年九州鉄道の門司‐熊本間が開通した後、1901(明治34)年厚狭‐馬関(のち下関)間の開業で、山陽鉄道の馬関‐神戸間が開通しました。九州鉄道は関門海峡を渡船で連絡し、山陽鉄道と連結しました。1907(明治40)年九州鉄道は国有化されました。
筑豊の石炭は、1888(明治21)年から翌年にかけての撰定鉱区制の実施により地場資本が確立され、一方では中央資本の進出が盛んになってきます。1902(明治35)年の出炭は、貝島・安川・三井・三菱の4社で約半分を占めていました。
1891(明治24)年の若松‐直方間の筑豊興業鉄道の開通により、石炭輸送の形態もしだいに変っていき、遠賀川舟運の川ひらた(五平太船)はしだいに衰退の道をたどり始めます。
1902(明治35)年からは筑豊は大竪坑時代に入ります。これらの竪坑には発電所・汽缶(ボイラー)場が付属し、鋼鉄製櫓に昇降機を備えて深層出炭を行いました。三井田川・製鉄二瀬・三菱方丈などでは赤レンガの煙突から煙が勢いよく吐き出されました。

日清戦後の北九州における企業勃興の中心には守永・神崎グループがいました。しかし戦後の好況もそうは長く続かず、不況の波が襲い、彼らの企業は破綻しました。その原因は基盤となる銀行業の破綻にありました。
1898(明治31)年日銀西部支店が門司に移転し、門司には都市銀行の進出が集中しました。こうした中、預金獲得競争の激化で守永・神崎グループの87銀行は門司を支店にして、小倉に本店を移します。1900(明治33)年からは豊陽銀行は預金が半減し、経営は赤字となり、翌年には解散しました。守永・神崎家の人達は87銀行や小倉貯蓄銀行の役員から退いていきました。

石炭の筑豊で中央資本と伍した地場資本は筑豊御三家と呼びますが、それは麻生、貝島、安川・松本です。この中で安川・松本家は北九州で多く起業し、発展していきます。
福岡藩士徳永貞七の四男に生まれた安川敬一郎には徳永織人・松本潜(ひそむ)・幾島徳の兄がいて、長男織人を除いて養子になっていました。織人の嫡子は徳永純一郎で、潜の子が亡くなったため敬一郎の次男健次郎が松本家を継ぎます。
徳永織人は維新直後の太政官札贋造事件に関わって刑死しました。松本家が藩の石炭政策に関わっていたため、松本潜と幾島徳は穂波郡の相田炭坑を開坑し、更に鞍手郡の東谷炭坑を経営しました。
幾島徳は1874(明治7)年の佐賀の乱で鎮圧隊の小隊長として出動し、戦死してしまいました。このため慶応義塾に入っていた安川敬一郎は急遽戻り、松本潜から東谷炭坑の経営を任されました。松本潜は維新後郡役人になり、この当時は嘉麻・穂波の大区長をしていました。

西南戦争に巻き込まれるのを恐れ、安川・徳永は福岡から松本が住む芦屋に移り、芦屋焚石会所跡に安川商店を開きました。撰定鉱区では穂波郡の相田(あいだ)鉱区(のち嘉穂郡二瀬村)を獲得し、1891(明治24)年新坑を開坑して高雄坑と改称しました。筑豊きっての優良炭坑といわれました。
安川商店は神戸に支店を持っていました。1886(明治19)年には芦屋から若松に移転して、大阪に支店を設けました。
資金に行き詰まると、友人で政治家そして実業家である平岡浩太郎とともに安川敬一郎は三菱とかけあいました。2人は三菱の筑豊進出の案内役となりました。この三菱との関係が筑豊興業鉄道や若松築港会社を軌道に乗せることに、更に製鉄所の八幡立地に大きな役割を果たしました。

安川敬一郎の次男健次郎は1890(明治23)年松本家に入籍し、翌年グラバーの勧めでアメリカのペンシルベニア大学に留学します。1890(明治23)年松本健次郎は帰国し、敬一郎と相談し、安川松本商店を創設します。この後敬一郎は炭坑経営、健次郎は販売ルート拡大と分担した二人三脚体制をとっていきます。1896(明治29)年門司に洋風事務所を新築しました。

1887(明治20)年安川敬一郎は、嘉麻郡勢田(せいた)村(のち嘉穂郡頴田村、かいたむら)大城炭坑の開坑に取り掛かりました。1895(明治28)年隣接する木浦岐坑を買収しました。
大城炭坑の近代化と木浦岐坑の開坑の資金確保のため、1896(明治29)年大阪の資本家の出資を得て、明治炭坑を設立し、大阪に本社を置きました。大城炭坑を明治第1坑、木浦岐坑を明治第2坑と改めました。
1898(明治31)年鞍手郡下境村の日焼炭坑を買収し、明治第3坑としました。この前年明治第1坑で坑内火災が発生し、なかなか鎮火せず、嘉麻川からの注水で水没消火しました。復旧には長期間かかり、その影響は甚大でした。
1899(明治32)年敬一郎は、炭坑を直接経営しょうとする官営八幡製鐵所に高雄炭坑を譲渡しました。製鐵所は他から潤野炭坑を譲り受け、高雄炭鉱と潤野炭坑を二瀬炭坑としました。
炭坑経営で大阪の資本家とはそのうち意見の対立があり、大阪側の全株式を買い取り、会社を1902(明治35)年個人所有としました。
日露戦争後事業を拡張し、1906(明治39)年鞍手郡福地村に明治第4坑を開坑しました。

炭鉱経営者として安川敬一郎を語るときに納屋制度と採炭切符制度の廃止があります。
炭鉱経営者が炭鉱労働者の募集や取締の業務の全部または一部を、納屋頭に委託する一種の請負制度が納屋制度でした。
納屋頭は配下を使って労働者を集めました。納屋頭から労働者は旅費を支給されました。これは前借金で、これで労働者は拘束されました。労働者は納屋と呼ばれる粗末な住いに入れられました。労働者は厳しい労働を強制され、四六時中監視されました。
納屋頭から労働者は全て管理されました。賃金は納屋頭が一括して受け取り、労働者に分配しました。賃金は炭券と呼ばれる切符で支払われ、日用品は納屋頭が経営する売店の売勘場で購入するように仕向けられました。
1899(明治32)年明治炭坑では納屋制度を廃止し、1890(明治33)年には採炭切符制度を廃止し、賃金を現金払いにしました。

1887(明治20)年平岡浩太郎は撰定鉱区で田川郡赤池村の赤池鉱区を得ましたが、起業資金に窮して安川敬一郎に共同経営を依頼しました。中止や再開の後、三菱の融資を受け1890(明治23)年開坑しました。この後鉱区の拡張や施設の整備で事業は拡大しました。
1901(明治34)年平岡浩太郎が豊国炭坑の単独経営に乗り出したため、赤池炭坑の平岡の持分が安川に譲渡されました。安川のこの資金は、明治炭坑の大阪側の全株式買い取りと重なったため、日銀の高橋是清の援助で解決しました。

1889(明治22)年田川郡糸田村で開坑された豊国炭坑は平岡浩太郎を含めて当初3人の所有でした。その後2人の所有となり、規模は拡張され大炭坑となりました。1899(明治32)年坑内でガス爆発を起こし、215人の死者を出す筑豊炭田史上最初の大事故となりました。この処理に三井から資金を借入れました。共同経営者が死去したため、1901(明治34)年平岡浩太郎が単独経営に乗り出しました。
しかし、1906(明治39)年平岡浩太郎も死去したため、安川敬一郎は三井に引き継いでもらおうとしましたが、1907(明治40)年再度ガス爆発が起こり、365人の死者を出す明治期最大の炭鉱事故になりました。
三井の引き受けは不調に終わり、三井は一部債権を切り捨てたため、安川は豊国炭坑を引き受けることになりました。
1908(明治41)年明治炭坑・赤池炭坑・豊国炭坑を合わせて明治鉱業株式合資会社が設立されました。資本金500万円のうち、安川敬一郎が350万円、次男松本健次郎が50万円、三男安川清三郎50万円、残り50万円が株式でした。
同年、安川敬一郎は明治紡績合資会社を戸畑町牧山に設立しました。

日露戦争による好況で、安川敬一郎は予想外の利益をあげました。1897(明治30)年、筑豊鉄道(筑豊興業鉄道が創立3年後に改称)は九州鉄道に併合されます。更に1907(明治40)年九州鉄道は国有化されました。鉄道国有化によっても、出資していた敬一郎は資金を手中に入れました。
剰余金を社会に役立てたいと敬一郎は思い、以前から抱いていた人材の育成のために学校をつくる夢を実現しました。
1907(明治40)年技術者養成のための明治専門学校を戸畑に設立しました。学校設立に力を貸したのが、元東京帝国大学総長の山川健次郎でした。山川は後、初代九州帝国大学総長に就きます。
 

設立役員は安川敬一郎と松本健次郎ですが、学校経営は山川に任せました。山川は東大教授辰野金吾らを連れて来て、翌1908(明治41)年から学校建設に取り掛かりました。この時、安川・松本の自宅も学校敷地の奥に建設されました。
辰野金吾設計の旧松本家住宅が、現在戸畑区一枝の国指定重要文化財、西日本工業倶楽部会館です。
1909(明治42)年4月明治専門学校は開校しました。校長は的場中で、東京帝国大学教授と兼任でした。当時、専門学校としては珍しく4年制でした。
教職員と学生が交流しやすいように教職員の宿舎も敷地内に建設され、更に教職員の子供のために小学校も敷地内につくられました。この小学校が現在の明治学園になります。

西日本工業倶楽部

この後も、安川敬一郎・松本健次郎は私財を投じて、学校は発展します。しかし、第一次世界大戦後の経済不況により、経営維持が困難となり、1921(大正10)年安川敬一郎は学校を国に献納しました。1949(昭和24)年明治専門学校は九州工業大学になりました。

 

石炭と鉄は明治の近代産業発展の両輪でした。1901(明治34)年官営八幡製鐵所は東田第1溶鉱炉に火入れし、11月18日伏見宮・農商務相・国会議員や多くの来賓を迎えての作業開始式が行われました。
日本の近代製鉄は幕末に遡ります。
東北南部藩には鉄鉱石が豊富に埋蔵されていました。1858(安政4)年南部藩士大島高任(たかとう)は大橋(釜石市)に洋式高炉を建設し、日本で初めて鉄鉱石精錬による出銑に成功しました。従来の砂鉄銑では欧米の大砲の性能に太刀打ちできませんでした。
1871(明治4)年大島高任は遣欧使節に同行しました。1874(明治7)年官営製鉄所を釜石で起工し、1880(明治13)年に操業を開始しました。しかし大島の意見を聞かず、ドイツ人技師によるヨーロッパの技術をそのまま導入したため失敗し、1883(明治16)年廃業となりました。
1887(明治20)年海軍御用商人であった田中長兵衛に官営釜石製鉄所は払下げられ、釜石鉱山田中製鉄所になりました。操業は商業ペースに乗るまで2年を要しますが、成功しました。
田中製鉄所の顧問野呂景義により、1901(明治34)年の官営八幡製鐵所の作業開始以前に、製鉄試験が釜石の田中製鉄所で行われました。

1892(明治25)年政府は製鋼事業調査委員を任命し、一層の調査をするため1893(明治26)年臨時製鉄事業調査委員会を設置しました。議会が官営製鉄所設立を建議し、1895(明治28)年製鉄事業調査会を設置しました。
製鉄事業調査会の委員長には農商務次官金子堅太郎、委員に農商務省技師野呂景義、和田維四郎(つなしろう)、長谷川芳之助らが任命されました。
製鉄試験、製品の種類・製造高、製鉄所の位置、製鉄所組織、設立計画、予算案を検討して報告しました。1896(明治29)年議会で官営製鉄所設立が決まりました。

1895(明治28)年7月製鉄事業調査会は最初の製鉄所建設候補地を挙げました。防御・運搬・原料・用水・職工募集・製品販売の条件を検討し、東京横浜・大阪神戸・尾道三原・広島呉・門司馬関を挙げ、門司馬関の関門海峡を第一候補としました。全国から誘致運動が起こりました。
1896(明治29)年春若松の安川敬一郎宅に、平岡浩太郎・長谷川芳之助・芳賀與八郎若松町長・芳賀種義(與八郎の息子)八幡村長が集まり、八幡への誘致運動を始めました。枝光海岸を敷地とし、大蔵川(板櫃川上流)を用水としました。
1896(明治29)年4月金子堅太郎製鉄事業調査会委員長が視察し、5月には八幡村は10万坪の土地提供を決めました。6月山内提雲初代製鐵所長官と大島道太郎(大島高任の長男)技監が現地視察しました。
8月大島技監は建設地決定のため来訪し、枝光・板櫃・大里を精密に調査しました。洞海湾の水深が浅いということで、山内・大島は大里を第一に考えていました。
この年春若松築港会社社長に就いた安川敬一郎は、築港拡張工事を決め、三菱の同意を得て、金子堅太郎・渋沢栄一・和田維四郎を通して山内・大島を説得しました。
八幡に決定したのは、平岡浩太郎・長谷川芳之助・安川敬一郎そして三菱によってといわれています。平岡の義兄弟の的野半介が平岡・安川の手足になって東京で活動しました。誘致運動と政治工作が功を奏し、10月八幡に内定しました。
 

1896(明治29)年11月製鐵所の用地買収が始まりました。当初枝光の10万坪でしたが、大島技監の実地調査で尾倉海岸を増地し、20万坪が必要となりました。
この時尾倉の村民は元照寺(現在八幡東区尾倉)に「村長を殺せ」と槍を持って立て籠もりましたが、芳賀種義八幡村長がなんとか説得しました。
12月契約され、翌1897(明治30)年1・2月登記されました。
敷地の一部は無償の献納であったり、買い上げ価格が時価の半額であったり、買収費は低廉に抑えられました。

大隈重信の感謝状

創立予算の土地買収費が25万円であったのに対し、9万円で済んだため、大隈重信首相は芳賀種義八幡村長に感謝状を贈っています。高炉台公園(八幡東区中央)にある芳賀種義翁之碑の石碑に、この感謝状は刻まれています。
この買収地のほか作業開始までに官舎用地として、神田・大蔵・槻田・前田・門田(かどた)鬼ヶ原(おにがわら)の用地を買収しました。貯水池として大蔵・大谷を追加し、開業時の用地面積は26万坪近くにのぼりました。
構内の正門近くの小高い丘の高見高等官舎や南門近くの判任官(高等官の下の役人、天皇の委任を受けた行政庁の長が任命)官舎、門田の官舎、鬼ヶ原のお雇い外国人の異人官舎が建築されました。

大島道太郎技監らの欧米調査により、野呂景義による創立案は拡充変更され、1897(明治30)年に第2代製鐵所長官に就任した和田維四郎(つなしろう)は、同年10月大島の見解を和田意見書として提出しました。
その内容は、高炉建設を明確にし、近代的銑鋼一貫製鉄所とし、一般産業用普通鋼材の各種圧延工場を建設し、軍事用鋼材は第二期目標にしました。また製鐵所自身による原料確保を打ち出し、筑豊の高雄炭坑、新潟県の赤谷鉱山を買収し、中国の大冶鉄鉱との長期購入契約を結びました。

1896(明治29)年の欧米調査により大島技監らは多品種少量生産を目指すべきで、それにはアメリカよりドイツの技術がふさわしいと判断しました。大島技監には導入技術、顧問技師の雇い入れ、溶鉱炉・機械の注文などの権限が委任されていました。
ドイツ人の顧問技師や職工長が八幡に招かれました。1900(明治33)年ドイツ人設計の溶鉱炉(高炉)が東田に築かれ、翌1901(明治34)年2月5日ドイツ人技師の指揮の下に溶鉱炉の火入れが行われました。
溶鉱炉に続き、平炉・転炉の製鋼、コークス炉、分塊、薄板・中形圧延・小形圧延・軌条の圧延工場が完成し、作業を開始しました。
1901(明治34)年11月18日来賓800人を招いた盛大な作業開始式が行われました。この日を記念して、毎年起業祭が行われるようになりました。

高炉は火入れされたものの出銑状況は良くありませんでした。その状況は作業開始式を過ぎても同じで、出銑量は半分で、銑質は不良でした。
和田長官は第2溶鉱炉を建設し、出銑量を確保しょうとしました。しかし補正予算の見込みがないため、長官の責任で建設に踏み切りました。
1902(明治35)年2月和田維四郎は免官され、中村雄次郎陸軍中将が第3代製鐵所長官に就きました。6月には製鉄事業調査会が設置されました。
7月高炉作業は中止され、大島道太郎技監らは退任し、創業時の幹部は更迭されました。
製鐵所の創立案に関わった野呂景義は、ある事件に巻き込まれ帝国大学教授・農商務省技師を解任されていました。野呂は釜石鉱山田中製鉄所でコークス高炉操業を成功させていましたので、就任した中村長官は高炉再建を野呂に託しました。

野呂景義は高炉を改造し、コークス製造を改良し、1904(明治37)年7月製鐵所は生産を再開しました。
日露戦争時には設備を拡充し、和田前長官が手掛けた第2高炉は1905(明治38)年2月から操業を開始し、軍事用鋼材も供給するようになりました。
しかし鋼材自給率は20%に満たなかったため、自給率を高めるため第1期拡張工事が始まりました。1906〜10(明治39〜43)年の5ヶ年事業で、第3高炉が築かれ、各種工場が新設されたり、機械化が進められました。

急激に開かれた八幡の商業の状況は、並べて置けば何でも売れ、粗悪品でも高く売れました。製鐵所は職工達の生計に悪影響を与えると考え、自衛策のため、更に賃金の高騰を防ぐために購買会設置を打ち出しました。
これに対し八幡の商業者は死活問題として製鐵所と交渉しましたが、1906(明治39)年5月購買会を設置しました。
南門入口に事務所を開き、米・麦・薪炭の販売を始めました。取扱量は年々増え、日用品の多くを販売するようになりました。

製鐵所の高級官舎用地が1908(明治41)年に完成しました。大蔵川(板櫃川の上流)の北側で、企救郡板櫃村のこの用地は一条から七条に区分され、三条から七条の山手に長官・高等官・判任官の官舎と倶楽部が建設され、構内から移されました。元の名に因んで、高見町と町の名は付けられました。
職工用の長屋が槻田に、大蔵では神田・久保官舎に、前田官舎もつくられました。しかし、こうした官舎に入居できる職工は限られていていました。職工の多くは2〜4人同居の下宿に住むのが普通でした。

製鐵所が創立される以前、1896(明治29)年戸畑の牧山に筑豊骸炭製造が設立され、貝島太助の炭坑の粉炭を原料にコークスを製造しました。1898(明治31)年に三菱に買収されました。
日清戦争の頃、鋳物・器具修理工場として戸畑最古の鉄工所の高谷鉄工所が設立されました。のち製鉄所と関連のあった沖台鉄工街の中心となりました。

北九州やその周辺には石炭と並んで石灰石が埋蔵され、石灰石を原料とするセメント産業も発展しました。
1890(明治23)年黒崎で亜細亜セメントは設立されましたが、資金難のため中断され、1892(明治25)年大阪の川口セメントに買収され、1895(明治28)年中央セメントとなりました。昭和になって小野田セメントと合併し、八幡工場になります。
米穀を輸出するための精米所が全国各地に設立しましたが、その一つが門司白木崎の日本輸出米商社でした。大倉喜八郎が経営を担当しますが、赤字のため営業を中止していました。
この工場を浅野総一郎は買収し、セメント工場にしました。1894(明治27)年浅野セメント門司工場は操業を開始しました。

 

日清戦争を契機に関門の地位は向上し、山口県赤間関市と福岡県企救郡門司町の合併の話さえ話題にのぼりました。1898(明治31)年門司町の人口は25,280人となり、急激な都市化へ対応するため市制を布くことを申請しました。1899(明治32)年4月1日門司市になりました。
1896(明治29)年小倉に第12師団、そして西部都督部が設置され、小倉は軍都と位置づけられました。西部都督部・第12師団司令部は小倉城址に置かれ、企救郡役所が馬借町に新築され、公立小倉病院が開院しました。
小倉炭坑・足立炭坑・金辺鉄道・千寿製紙・小倉織物・小倉精米・九州麦酒・小倉築港・添田鉄道・小倉電燈などが創立され、既にあった八十七銀行・豊陽銀行に加えて小倉銀行が創立され、小倉は都市の集積度を高めていきました。
1900(明治33)年4月1日小倉町は小倉市になりました。

1889(明治22)年町村制が施行された時、戸畑村は中原村を合併して戸畑村になりました。人口1,875人の農漁村でした。
1899(明治32)年町制が施行され戸畑町になりました。人口3,019人で、筑豊炭田の炭鉱用具を製造する鉄工所ができたり、コークス工場などができていました。隣町の八幡に製鐵所が創立されると、工業都市戸畑が歩み始めます。
1891(明治24)年筑豊興業鉄道若松‐直方間が開通し、若松停車場は若松町の隣の石峯村大字修多羅(すたら)に設置されます。修多羅はすぐに市街化され、1898(明治31)年若松町に合併されました。
若松築港による築港工事により若松港の区域は拡大し、1906(明治39)年石峰村全域が若松町に合併されました。
1903(明治36)年市制施行運動が起こり、これと関連して戸畑との合併交渉も開始されました。しかし1909(明治42)年戸畑町から合併不同意の回答があり、その後市制施行申請を行いました。1910(明治43)年その申請は却下されました。

1889(明治22)年尾倉・枝光・大蔵村が合併し、八幡村になりました。村名については、三村の氏神が八幡神社であったことからといわれています。この時の人口は2,118人でした。
1897(明治30)年八幡村に製鐵所が創立され、翌1898(明治31)年九州鉄道の小倉・黒崎間に大蔵停車場を新設しました。人口は1898(明治31)年に3,014人、翌年には6,320人に急増しました。
2000(明治33)年2月八幡村は八幡町になりました。2001(明治34)年11月18日製鐵所の盛大な作業開始式が行われました。
日露戦争後、海外市場の発展と軍備の拡張、各種企業の勃興により鉄鋼需要が増大し、製鐵所は拡張していきました。それとともに八幡も発展していきました。

北九州の警察署の成立を見てみます。
1875(明治8)年小倉室町に小倉警察出張所が設立され、1877(明治10)年小倉警察署になります。
1891(明治24)年3月小倉警察署文字ヶ関分署が設置され、同年7月門司分署と改称されます。1893(明治26)年分署は門司警察署になります。1901(明治34)年水上警察を分離し、門司水上警察署が創設されました。
1877(明治10)年芦屋警察署の下に若松分署が設けられ、1889(明治22)年分署は若松警察署になります。管轄は若松町・戸畑村・八幡村などでした。
1877(明治10)年芦屋警察署が設けられ、若松と黒崎に分署が置かれます。1889(明治22)年若松が本署、芦屋と黒崎が分署となります。1906(明治39)年芦屋分署を折尾分署に改称し、1909(明治42)年分署は折尾警察署になります。
芦屋警察署の黒埼分署が若松警察署の黒崎分署となり、1906(明治39)年8月黒崎分署は八幡分署と改称され、同年12月分署は八幡警察署になります。
戸畑は若松警察署の管轄でしたが、1921(大正11)年戸畑警察署が新設されました。

 

1894(明治27)年8月1日日本は清国に対し宣戦布告しました。9月12日第12旅団を基幹に第6師団の騎兵・砲兵・工科・輜重(しちょう)などの特科部隊の一部を加えた混成第12旅団の編成命令が下されました。
混成第12旅団は大山巌大将の第2軍に編入され、仁川に上陸しました。10月5日旅順攻撃の命令が下され、10月20日第2軍は旅順を三方向から攻撃する態勢をとりました。翌21日総攻撃が始まり、24日には旅順を完全に占領しました。
日清戦争中、北九州は兵站基地として重要性を増しました。1894(明治27)年11月門司の古城山の北西麓を埋立て、兵器修理場が開設されました。1897(明治30)年には大阪砲兵工廠門司兵器製造所と改称されました。
1895(明治28)年1月門司に砲兵第3方面本署を開設し、1896(明治29)年9月門司兵器支廠と改称されました。丸山町に長谷弾薬庫、軍用倉庫が設けられました。
 

1895(明治28)年陸海軍の軍備拡張案が策定され、陸軍は6個師団及び騎兵2個旅団・砲兵2個旅団増設が決定しました。この師団増設に対し小倉は師団誘致運動を行いました。
1896(明治29)年3月第12師団の小倉設置が内定し、企救郡北方(現在小倉南区北方)で用地買収が始まりました。
1896(明治29)年8月東部(東京)・中部(大阪)とともに西部都督部が小倉に設置が決定し、12月小倉城内に開庁しました。都督部は所管内の師団の共同作戦計画を策定し、その練度を高めるのを任務としました。しかし日露戦争直前の1904(明治37)都督部は廃止されました。

小倉城内の第12師団司令部跡

北方では兵営が建設され、1897(明治30)年9月第12師団が創設されました。師団司令部は1898(明治31)年11月小倉城内に開庁しました。
第12師団指揮下の小倉の部隊を列挙しますと、歩兵第14連隊、歩兵第47連隊、騎兵第12連隊、野戦砲兵第12連隊、工兵12大隊、輜重兵第12大隊です。
他地区の指揮下の主な部隊は、福岡の歩兵第24連隊、久留米の歩兵第48連隊があります。
1899(明治32)年11月小倉陸軍兵器支廠を紫川沿いの小倉城東側に設置し、城野に兵器庫を設けました。
1898(明治31)年11月第12憲兵隊が創設され、のち小倉憲兵隊に改編されました。

日露間の関係は悪化し、1904(明治37)年2月5日第12師団に動員令が下され、第1軍の上陸支援の任務が与えられました。2月10日ロシアに対し宣戦布告し、師団は2月16日仁川に上陸し始めました。
3月13日師団主力は平壌に集結し、黒木為驕iためもと)大将の第1軍の指揮下に入り、3月24日軍の右翼として平壌を出発し、北進を開始しました。4月15日鴨緑江に達しました。
4月29日師団は鴨緑江を強行渡河し、5月1日の九連城攻撃ではロシア軍の側背を突き、ロシア軍は敗走し、それを追って鳳凰城を落とし、遼陽への路を確保する作戦を遂行しました。
8月に入ると、旅順攻撃の乃木希典(まれすけ)大将の第3軍を除いた第1・2・4軍は遼陽を目指して進撃し、第1軍は右翼を担当しました。正面攻撃では遼陽の攻略は困難と考えた黒木司令官はロシア軍の左側背に迂回攻撃をかけました。
9月4日ロシア軍は遼陽から撤退を始め、師団は追激戦を行いました。
遼陽会戦後補給が間に合わず、日本軍は補給を待っていました。これに対しロシア軍は新たに軍を編成投入し、沙河の会戦となります。
10月10日から3日間、第12師団は本渓湖方面で迎撃し、激戦となりました。しかし、日露両軍は沙河を挟んで対陣したまま越冬しました。
翌1905(明治38)年2月24日師団は行動を開始し、ロシア軍の沙河陣地を突破し、奉天を包囲しました。日露の大軍が対戦した奉天会戦は激戦となりましたが、しだいにロシア軍は退却を始めました。
敗走するロシア軍を師団は追撃しますが、戦闘は終わり、9月ロシア軍と対峙したまま休戦状態になりました。

陸軍省は九州鉄道に対し、鉄道はできるだけ海岸ルートを避けて内陸部に敷設するように通達していました。軍は敵の艦砲攻撃を恐れていました。
小倉・黒崎間の大蔵線はこれに従ったものでした。これにより、門司・小倉間の路線は手向山の南を通り、更に小倉城の南を通すことが必要で、小倉駅はずっと南につくることになります。そのため九州鉄道はその路線は後にし、海岸沿いに仮線をつくることで認可を得ました。
1899(明治32)年この海岸ルートを本線とすることを九州鉄道は願い出ます。これに対し陸軍省は、第12師団の機能を十分に発揮できるように軍用停車場を小倉の南に設置し、この停車場を本線と連絡すれば、仮線を本線にしてもいいということになりました。高浜(現在小倉北区)から分岐した小倉裏線の敷設に着工しました。
現在の小倉北区足立中学校付近の国道3号線一帯に、足立停車場は設置されました。
日露戦争により、1904(明治37)年2月12日足立停車場からの輸送が始まり、1週間程度で軍の輸送は終わりました。その後、1917(大正6)年小倉裏線も足立停車場も撤去されました。

 

門司は1889(明治22)年には人口3,060人の塩田が最大の産業の農漁村でした。1898(明治31)年には人口25,280人の貿易港に変貌していました。門司港には築港工事や港湾荷役の日雇労働者や石炭仲仕が多数移り住みました。
急成長した門司では多くの社会問題が発生しました。物価高による生活苦、飲料水不足、伝染病の多発、人身輸出、犯罪の多発などが起きました。
門司は新開地のため他の土地より物価は高くなりました。さらに門司港の市街地の多くが塩田埋立地であったため、井戸水のほとんどが塩分を含み飲料に不適でした。そのため買水をせざるを得ませんでした。
海外貿易を行う門司港には、海外からのコレラ・赤痢などの病原菌も入ってきました。また人身の輸出港でもありました。誘拐された女性が門司港から香港を経由して、印度・南洋諸島・シンガポール・豪州などに売られて行きました。
製鐵所が開庁した1897(明治30)年の八幡村の人口は2千人余りでしたが、作業を開始した1901(明治34)年の八幡町は1万人ほどになっていました。新開地の八幡では、労働下宿が急増しました。

門司には多数の石炭仲仕が移り住みましたが、仲仕には部屋仲仕と日稼ぎ仲仕がありました。部屋仲仕は仲仕小頭の下に所属し、小頭が経営する部屋や長屋に居住しました。日稼ぎ仲仕は別に住居を持ち通ってくる者で、特定の小頭に所属するものでありませんでした。日稼ぎ仲仕は地元の者が多かったと思われますが、その数は多くはありませんでした。
仲仕の賃金は歩合制で、組頭は石炭商から請負賃金から1割7分を差し引いて小頭に渡し、小頭はそれから1割を引き歩合で仲仕に渡しました。
仲仕の賃金は2割7分がピンハネされ、それ以外に部屋代・食費・草鞋(わらじ)代などが引かれ、前借している者はその分も引かれました。
がんづめ・バイスケ(かご)・担い棒・足場板・歩み板などの用具は小頭が貸与しました。

1895(明治28)年3月門司の石炭商32人によって門司石炭商組合が結成され、翌1896(明治29)年8月には石炭仲仕請負業者も門司石炭仲仕人足請負営業連合組合を結成しました。
請負業者組合が石炭商組合と交渉しましたが、配下の仲仕小頭の意向を無視する訳にはいけませんでした。日清戦争後石炭積み出しは激減し、1896(明治29)年9月小頭達は請負業者組合を動かして賃金2割引き上げを要求しました。
交渉は難航し、10月7日仲仕3,000人がストライキに突入しました。このため石炭商側が譲歩し、仲仕側は勝利しました。
労働争議はその後明治30年代も散発しますが、社会の関心は低いものがありました。1900(明治33)年の治安警察法の制定があり、明治30・40年代の労働運動は低調なものでした。

福岡県の本格的新聞は1877(明治10)年3月発刊された西南戦争戦況報道の「筑紫新聞」でした。この新聞の発刊に協力した博多の薬店の藤井孫次郎が、1878(明治11)年12月「めさまし新聞」を発刊しました。現在の「西日本新聞」の前身です。
「めさまし新聞」は翌年「筑紫新報」と改題し、更に翌1880(明治13)年4月「福岡日日新聞」と改題し、初めて日刊新聞となります。
「福岡日日新聞」は民権派の立場に立っていました。初代社長は藤井の協力者の諏訪楯本(たてもと)で、三井合名会社の理事長になった団琢磨は実弟でした。
1887(明治20)年8月頭山満が社長の玄洋社の機関紙「福陵新報」が発刊されました。1889(明治22)年に「門司新報」、1904(明治37)年「柳河新報」が発刊されました。
「福陵新報」は1898(明治31)年5月平岡浩太郎の義兄弟の的野半介を社主に、「九州日報」と改題して再刊しました。太平洋戦争中に「福岡日日新聞」と「九州日報」が統合され「西日本新聞」が発足されるまで、二紙が福岡県の新聞界を制していました。
 

森鴎外(鴎外の鴎の正字は區に鳥です)は第12師団軍医部長として、1899(明治32)年6月から1902(明治35)年3月までの2年3ヶ月小倉に着任して過ごしました。
この任期中に「即興詩人」を翻訳し、福岡県内各地を巡り、各界の人々と交わりました。「われをして九州の富人たらしめば」「鴎外漁史とは誰ぞ」「倫理学説の岐路」「小倉安国寺の記」「即非年譜」などを「福岡日日新聞」に寄稿しました。「門司新報」にも評論を寄稿しています。
「われをして九州の富人たらしめば」では、筑豊の炭坑主が物欲や酒色に浪費することを批判し、自身であれば、学問や芸術にこれを投じるであろうと書いています。

森鴎外旧居 小倉北区鍛冶町

のち鴎外は小倉時代を題材に「独身」「二人の友」「鶏」を発表しています。またこの時代の日記「小倉日記」が残されています。

1899(明治32)年2月岡倉天心は日本美術院展開催のため福岡を訪れました。天心は福岡日日新聞記者に、九州博物館設置の必要を説きました。この提唱は紙上に掲載されました。それから100年以上経った2005(平成17)年、九州国立博物館は大宰府に開館しました。 

 

7.日露戦後社会と韓国併合←|↑8.明治後期の北九州

明治時代3

北九州の歴史

ホーム