大正時代

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大正時代
1.第一次世界大戦
 

中国では1911(明治44)年10月10日の武昌(ウチャン)蜂起に始まる辛亥革命がありました。秦の始皇帝に始まる2千年以上の王朝支配の歴史が閉じ、アジアで最初の共和制国家が実現しました。
清国政府が転覆し、中華民国が成立しました。革命の基本方針は、孫文の民族・民権・民政の三民主義でした。
しかし、反革命の力も強く、諸勢力が葛藤し、しだいに袁世凱(えんせいがい、ユアン=シーカイ)による政権奪取となり、革命は挫折します。
この辛亥革命は日本の政局にも大きな影響を及ぼしました。共和制を危険視し、干渉しょうとする議論が起きました。1912(明治45)年1月西園寺内閣は逆に革命軍を通じて日本の勢力の保全に努めることにしました。
日本の言論界では対中国政策が活発に議論されました。

日露戦争後軍備増強計画の中で、2個師団増設は早くから陸軍内部では打ち出されていましたが、朝鮮の植民地化とともに、その地に2個師団を置くという要望が強くなっていました。
1911(明治44)年8月成立した第2次西園寺内閣はそれまでの第2次桂内閣の放漫財政を転換し、行財政整理を掲げました。
財政は日清・日露戦争と通じて急激に膨張していました。しかし、官僚や軍の抵抗は強く、陸軍は反党意識が強く、その急先鋒になりました。
1912(明治45)年5月総選挙に大勝すると、西園寺内閣はこの問題に取り組みました。これに対し陸軍は上原勇作陸相を先頭に立てて、2個師団増設に固執しました。背後に山県有朋がいました。この年7月大正と改元されます。1912(大正元)年11月10日西園寺は山県と会い、繰り延べで打開を図りましたが、山県は応じませんでした。
11月22日上原は閣議に師団増設案を出しますが、30日否決されます。12月2日上原は単独で直接天皇に辞表を提出します。陸軍は後任を送りませんでした。このため陸軍大臣現役武官制の規定で、12月5日西園寺内閣は総辞職しなければならなくなりました。

政友会の方針は、行財政整理を行い減税を行うが、減税は小幅にし、剰余で海軍の拡張と産業基盤の整備に当てようとするものでした。産業基盤の整備で国家予算を地方に振り向けるのは、政友会の党勢拡張のための方策でした。
産業基盤の整備は港湾改良や鉄道建設を意味し、政友会の方針はそれらに公共事業予算を多くつけ、それぞれの地域の実業家や住民の要望に応えるものでした。
政友会の指導者原敬が力を入れたのは、鉄道建設でした。第2次西園寺内閣で内相に就任すると、原はこの頃独立していた鉄道院の総裁を強引に兼任し、行財政整理中でも鉄道建設に行いました。

軍は統帥権の独立と軍部大臣現役武官制で優越的地位を保っていました。日露戦争までは、山県有朋や桂太郎といった代弁者を通じて要求を実現していました。しかし日露戦後は、官僚や政党のほかに軍が政治勢力化してきました。
辛亥革命が起こると、勢力化拡大の好機とみた陸軍は、出兵干渉論を取りました。欧米特にイギリスと協調しょうとする第2次西園寺内閣には不満でした。陸軍は朝鮮に2個師団増設を要求しました。

内閣と陸軍の対立が報道されると、陸軍の横暴を非難する世論が盛り上がりました。内閣の総辞職とともに一挙に高まりました。後任首相の人選は難航しました。首相を事実上決定する元老会議は政党に政権を任せることは考えず、何人かに要請しますが、次々と断られました。
1912(大正元)年12月14日結局内閣総辞職の立役者の一人の桂太郎を後継者に選びました。桂は内大臣兼侍従長に任命されていました。政友会や国民党などの政党や実業家も桂内閣に反対でした。
政友会は軍閥打倒・増師反対の決議をし、各地の商業会議所は不況の下での負担増加となる師団増設に反対しました。言論・政党・実業界では反対運動が起こりましたが、一般国民はまだ立ち上がるまでにはいってませんでした。
12月19日東京で第1回憲政擁護大会が開かれました。壇上に並んだ政党人の中で、政友会の非主流派の尾崎行雄と国民党の犬養毅が人気を集めました。
この演説会をきっかけに、憲政擁護運動が各地に起こされていきます。この頃の尾崎の人気はすばらしく、憲政の神様と呼ばれるようになります。

1912(大正元)年12月21日第3次桂内閣が組閣され、24日第30議会が召集されました。これより翌年2月桂が辞任するまでが第一次憲政擁護運動になります。
憲政擁護運動が広がる中、桂太郎はこれに対抗するため新党の結成を図りました。新党の立憲同志会に、国民党の大石正巳(まさみ)・島田三郎・河野広中らが参加しました。
桂が首相後継者に選ばれる前に内大臣・侍従長に任命されていたため、宮中に入った人物を政権に就かせるために、それを正当化するため勅語が出されていました。
1913(大正2)年2月5日政友・国民両党は内閣不信任案を提出しました。尾崎行雄は、「玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代えて政敵を倒さんとするもの」との有名な弾劾演説を行いました。

議会は5日間の停会となりました。停会中の2月8日桂は政友会総裁西園寺公望に会い、不信任案の撤回を求めました。しかし西園寺はこれを拒否しました。
桂は天皇を動かし、西園寺に衆議院の紛議を鎮めよとの沙汰を出しました。これを受けた1913(大正2)年2月10日の政友会議員総会では、天皇の言葉であるが、不信任案を撤回しないことを決めました。
桂は議会の解散も考えましたが、薩摩出身の山本権兵衛に面責されたり、衆議院議長の大岡育造に、議会が民衆に取り囲まれている状況の責任を取るように迫られ、総辞職の決意をしました。
議会は3日間停会となり、東京では民衆が政府系新聞社や警察署・交番を襲撃し、軍隊が出動しました。暴動は大阪や神戸でも起こりました。

桂太郎のあとに山本権兵衛が首相に要請されました。この人事は、長州閥・陸軍閥の桂を薩摩閥・海軍閥の山本に替えるだけなので、不評でした。
政友会の実力者原敬は山本から協力の要請を受けました。党内外の反対を押し切って、原は山本と交渉を進めました。
1913(大正2)年2月19日政友会議員総会は、首相・外相・陸海軍相を除いた他はすべて政友会員が占めるとの条件で、山本内閣援助を決定します。
閥族打破を求める民衆におされて、政友会は第3次桂内閣打倒に向かいましたが、閥族の一人の山本をおして政権奪取を決めました。この夜この決定を知った人達が政友会本部を襲いました。翌2月20日原自身は内相に就任して、山本内閣は発足しました。

こうして発足した山本内閣は、人心の沈静化のために、一定の譲歩政策を行わなければいけませんでした。第2次西園寺内閣が軍部大臣現役武官制で倒れたため、1913(大正2)年6月13日軍部大臣現役武官制を改め、任命資格から現役制限を除く勅令を出しました。同日7,037万円の行政整理を発表しました。
8月1日文官任用改正の勅令が公布され、文官高等試験合格者以外にも勅任文官任用の道を開きました。同時に任用分限などの規定を適用しない文官に関する勅令も公布され、陸海軍省を除く各省次官・警視総監、勅任の各省参事官などは自由任用となりました。
軍部大臣現役武官制と文官任用令は、第2次山県内閣の時、政党勢力伸張への防壁として制定され、軍と官僚の権力独占のもととなっていました。

軍閥の一人袁世凱(えんせいがい、ユアン=シーカイ)が政権を独占にしょうとし、これに対して孫文(スン=ウェン)を含む反対派は各地で兵を挙げ、1912から13年にかけては中国は大変揺れていました。第二革命が始まったのでした。
しかし、第二革命は失敗し、孫文は亡命し、袁世凱の軍隊は南京を占領しました。
1913(大正2)年8月から9月にかけて、山東省で日本人将校を拘禁する事件や南京で日本人を殺害する事件が起きました。
9月7日対支問題国民大会が東京日比谷公園で開かれ、中国への出兵要望を決議しました。

1914(大正3)年年明け早々、憲政擁護会は営業税・織物消費税・通行税の三税の廃止を決議し、続いて全国三税廃止大会が開催され、廃減税運動は全国に広がりました。
営業税は1896(明治29)年日清戦争後経営のため新設され、営業している限り収益の有無を問わず課税しょうとするもので、創設当初から担税者と税務当局の間で紛争が絶えませんでした。
山本内閣に商工業者達は負担軽減を迫りました。与党となっていた政友会の反対で、廃税には成功しませんでした。
こうした中、1914(大正3)年1月下旬、軍艦や軍需品の購入をめぐって、海軍の軍人がドイツのシーメンス社や三井物産から収賄するという、シーメンス事件が発覚しました。
山本内閣は貴族院で予算案が否決され、1914(大正3)年3月総辞職しました。元老会議は首班候補として色々当たりますが行き詰まり、76歳の大隈重信を担ぎ出します。

 

1914(大正3)年6月28日オーストリア・ハンガリー帝国に併合されたボスニア州の首都サラエボで、併合に反感を持っていた隣国セルビアの青年が、訪問中の帝国の皇太子夫妻を銃撃しました。
この暗殺事件をめぐって、ヨーロッパ各国は外交上火花を散らしますが、1914(大正3)年7月28日オーストリアとセルビアは互いに宣戦布告します。
8月1日ドイツはオーストリアと結んでロシアに、翌2日にフランスに宣戦布告します。8月4日イギリスはドイツに宣戦布告します。ヨーロッパは戦火に包まれました。
ドイツは日本の動向を注視していました。ドイツ国内では日本が中立を守るだろうとか、ロシアの背後を突くのが有利だとかとの論調がありました。しかし8月8日ベルリン各紙は、日英同盟に鑑み日本は中立は宣言しないとの加藤高明外相の談話を伝えました。
8月20日ドイツ政府は日本の最後通牒を公表しました。8月23日日本は開戦に踏み切りました。

1914(大正3)年8月3日駐日イギリス大使カニンガム=グリーンは、第2次大隈内閣の加藤高明外相にイギリス参戦の可能性を伝えました。
翌4日、イギリスとドイツが開戦になった場合戦争が極東に波及し、イギリスの植民地香港と威海衛(威海ウエイハイ)が襲撃を受けたときは援助してほしいと、本国からの訓電をイギリス大使は連絡してきました。これに対し、加藤はその場合は自動的に日英同盟が発動されると答えました。
8月7日イギリスは、貿易に脅威を与えているドイツ仮装巡洋艦を捜索、撃破することを要請してきました。その夜から翌8日にかけて、大隈重信首相は臨時閣議を開き、日本の参戦を取り決め、大正天皇の裁可を受けました。8日夜元老・大臣の合同会議が開かれ参戦が決定しました。
8月9日加藤外相はカニンガム=グリーン大使に参戦決定を伝え、その目的がドイツ仮装巡洋艦撃破に留まることなく、アジアにおけるドイツ勢力の一掃にあるので、イギリス政府も日本の開戦理由に同意するようにとの覚書を手渡しました。
これは中国の山東半島にあるドイツの利権を日本が狙ったものでした。
8月9日イギリスは日本の軍事力を利用したかったのですが、日本がドイツの代わりになりたいということが分かり、ドイツへの宣戦布告の依頼を取り消してきました。しかし絶好の機会をつかんだ日本に対し、イギリスは参戦阻止より戦闘区域の限定に譲歩するしかありませんでした。
8月15日加藤外相はドイツに対し、極東からのドイツ艦艇の即時退去、膠州(こうしゅう、ジアオチョウ)湾租借地の日本への交付の内容の最後通牒を送りました。そして8月23日日本はドイツに対し宣戦布告しました。

ドイツのアジアでの拠点は、中国の山東省内の膠州湾租借地と南洋諸島でした。
1897(明治30)年2人のドイツ人宣教師が山東省で殺害され、これを機に翌年ドイツは99年間の租借に成功し、保護領としました。その中心地が青島(チンタオ)で、人口は1913(大正2)年軍人を除いて約55,700人でした。上海(シャンハイ)・天津(テンシン)に次ぐ中国第3位の貿易港になっていました。
南洋諸島は1899(明治32)年にドイツが領土にしていました。
ドイツはこれらの支配地を守るために守備隊を置き、東洋艦隊を派遣していました。

南洋諸島のヤルート島・クサイ島・ポナペ島・ヤップ島・トラック島・サイパン島を、日本海軍は1914(大正3)年9月末から10月中旬にかけて次々と占領しました。
ドイツ東洋艦隊に対しては、日本海軍はイギリス艦隊と協力して、遠くアルゼンチン南東洋上まで赴き撃破しました。
ドイツはアジアの権益を守るため青島の防備に力を入れ、要塞化しました。開戦当初青島の兵力は5千〜8千600で、日本軍は5万に海軍が戦艦4隻、途中からイギリスのウェールズ軍とインド兵が加わりました。戦闘は9月から11月まで続き、11月7日ドイツ軍は降伏しました。この間中国は局外中立を宣言していました。
第一次世界大戦での新兵器は飛行機・戦車・毒ガスでした。青島での戦闘でも日独双方で飛行機が使われました。この頃の飛行機は主に偵察、副次的に攻撃に使われました。

1914(大正3)年11月7日ドイツ軍の降伏を受け、11月16日入城式を行い、軍政を布きました。18日には青島市街のドイツ的な名称を日本的名称に改めました。
青島攻囲軍司令官神尾光臣(かみおみつおみ)陸軍中将は青島守備軍司令官に任命されました。
6千トン級の汽船が12隻同時に停泊できる青島の港は、それまでのヨーロッパに代わって日本内地と太く結びつきました。青島からの輸出品は塩・石炭・落花生など、輸入品は綿糸布・木材・砂糖などでした。

 

20世紀初頭の中国は列強の利権に蚕食されていました。ドイツが膠州湾、ロシアが遼東半島、フランスが広州湾、イギリスが威海衛と九竜(カオルン)半島を租借していました。日本は遼東半島の権利をロシアから、膠州湾の権利をドイツから引継ぎました。
外国が自治的行政権を行使できる租界は、上海・天津・漢口・広東をはじめ中国各都市に及びました。
鉄道利権はイギリス・フランス・ベルギー・アメリカ・ドイツ・日本が持っていました。
この様なきっかけになったのは、日清戦争でした。中国の敗戦で、列強は侵食を始めました。日本もその勝利で、列強の中国分割競争に加わりました。

1914(大正3)年11月10日加藤高明(たかあき)外相は大隈重信首相に臨時閣議の招集を求め、翌11日閣議に中国への交渉の訓令案を提出し、同意を得ました。
この訓令案は修正を経て、いわゆる対華21か条要求として1915(大正4)年1月18日袁世凱(ユアン=シーカイ)中華民国大総統に手渡されました。
山東半島のドイツの権益を日本に譲渡する、旅順(リュウイシュン)・大連(ダアリエン)や南満州鉄道などの租借期限を更に99年延長する、南満州及び東部内蒙古での土地賃借権・所有権、あるいは居住・往来権、鉱山の採掘権などを日本の独占的支配下に置く、漢陽の製鉄・大冶(ダアイエ)の鉄山・萍郷の石炭を一体にした会社の漢冶萍(かんやびょう)公司(コンス)を日中の合弁とする、中国沿岸の港湾や島々を他国に譲与したり貸与はしない、中国政府や地方警察に日本人を雇用すること、日本からの兵器の供給、日中合弁の兵器廠の設立、新しい鉄道利権などが要求内容でした。
これらの諸要求は外交史上余り類を見ないものでした。しかし、これらさえも日本国内の各方面からの要求を削り込んだものでした。
 
21か条要求を受けて、中国では各地に強い抵抗運動が起こりました。反日運動が盛んになり、言論機関も日本の要求を攻撃しました。日本に留学していた学生達は帰国し、上海で国民対日同志会を結成しました。
中国は日本の要求を欧米諸国に伝え、中国への日本の支配権の拡大を警戒する列強に訴えました。
一方日本国内は強硬論が占めていました。
交渉は1915(大正4)年2月2日から4月26日まで北京で行われましたが、結論に到りませんでした。
5月7日中国政府や地方警察に日本人を雇用すること、日本からの兵器の供給、日中合弁の兵器廠の設立、新しい鉄道利権などの要求は撤回した修正案をしめして最後通牒を突きつけて、居留民の引き揚げの準備を始めました。
5月9日袁世凱政府はこれを受諾しました。
中国では5月7日と5月9日を国恥記念日とし、民族運動・反植民地運動が高まりました。アヘン戦争以来イギリスがその矢面に立っていましたが、21か条要求以降は日本に代わりました。

1914(大正3)年から続いた第一次世界大戦の下で、1917(大正6)年に起こったロシア革命は、2月の労働者や主婦の自然発生的なパン寄こせデモから始まりました。
これに専制打倒や戦争をやめろなどのスローガンが加わり、兵士達が同調しました。これに対し一歩も譲らない皇帝ニコライ2世は退位に追い込まれました。
ケレンスキーを中心にした臨時政府は戦争継続を宣言しました。連合国側はこの革命政権の承認に動きましたが、ロシア民衆は失望しました。
亡命中のレーニンは帰国し、議会制共和国でなく、労働者と農民のソビエト共和国の樹立を主張し、兵士や労働者に呼びかけて臨時政府への敵対行動を起こしました。
このメルシェヴィキとポルシェヴィキの対立は半年ほど続き、その中で、レーニンは軍隊を反乱者の実行部隊とする方針をとり、十月革命に成功しました。
ポルシェヴィキ政府は社会主義に向かって進むことを宣言し、平和の回復と土地を農民に渡すことを告げました。
地主の土地所有を無償で廃止し、土地を農民ソビエトに引き渡しました。
連合国側に無併合・無賠償の和平を提案しました。これが拒否されると、領土と人口の1/4、鉄と石炭の3/4を失うという条件を飲んでまでも、1918(大正7)年3月ドイツとの間で単独講和を結びました。

連合国側にとって、社会主義国の出現は心理的に大きな脅威でした。またドイツとの講和で東部戦線が崩壊したことは、今後の戦況への不安が募りました。当初列強はソビエト政権が崩壊することを予想していましたが、ドイツとの単独講和を見て、武力干渉の方針を決めました。
ペトログラードで始まった革命はスムーズに進まず、反革命派の抵抗にあいました。特にウラルを越えたシベリアでは、その抵抗は大規模に行われました。連合国側の干渉は彼らを支援し、傀儡化することでした。
もう一つの干渉の手がかりは、ロシア領土内のチェコスロバキア軍の存在でした。スラブ人種のチェコ人とスロバキア人は16世紀にオーストラリア・ハンガリー帝国に併合以来独立を望んでいました。第一次大戦が勃発すると、ロシア居住のチェコ人・スロバキア人は5万の軍団をつくり、オーストラリア・ハンガリー帝国に敵対しました。
ところが革命の結果ソビエトがドイツを和平を締結すると、この軍団は微妙な立場に立たされました。彼らはシベリアに行き、そこから船でフランスに行き、連合国側に立って戦うことを決めました。ソビエトもその東進を承認しました。
しかしこの様な広大な国土の中での一大軍団の東進は、反革命派勢力になる可能性を含んでいました。ウラジオストックに到着したチェコスロバキア軍は、革命軍と戦いながら西進するようになりました。連合国側はチェコスロバキア軍救援を干渉の口実にしました。

1917(大正6)年の十月革命の最中、イギリス・フランスから日本にヨーロッパ戦線への参加が求められました。日本政府はその力がないと断りました。その一方、参謀本部はシベリアへの派兵に備えて、作戦計画を準備し始めました。
イギリス・フランスは日本軍のシベリア派兵で、東部戦線の再建を望んでいました。しかし1918(大正7)年3月ウッドロー=ウィルソン合衆国大統領は出兵反対を打ち出しました。これに対しイギリス・フランスはアメリカを説得しました。
そのため7月チェコスロバキア軍救援に目的を限定し、地域をウラジオストックに限定して日米それぞれ7千人の派兵をアメリカは提案しました。
日本の政界では、アメリカの意向に関係なく出兵するか、アメリカの意向を受けて出兵するかの自主的出兵論と協調的出兵論が対立していました。
政府は表面的にはアメリカからの限定出兵に応じ、実際は兵力も地域も限定しない全面出兵を実現しょうとしました。

日本はチェコスロバキア軍救援を目的にシベリアに出兵しました。1918(大正7)年8月2日出兵宣言をしましたが、宣戦布告がないため無限に拡大していく性格を持っていました。
派兵の中で、ニコライエフスクでのパルチザンによる700人にのぼる日本人居留民殺害の尼港事件が起きました。
大軍を送っても日本軍は点と線を確保するのが精一杯で、寒気とパルチザンが日本軍を襲いました。
出兵をめぐってアメリカと対立し、撤兵を遅らせたことによって各国から疑惑を招きました。

 

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