大正時代

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2.大戦景気
 

第一次世界大戦を挟んだ1910(明治43)年から1919(大正8)年までの10年間に、国民総生産は名目で3.94倍、実質1.46倍になりました。
この時期鉱工業が農林水産業の生産額を超えました。依然として農業人口が過半数を占めましたが、農業国から工業国へ転換されました。
特に製鉄業・造船業・化学工業の発達が顕著でした。官営八幡製鉄所は大戦中に大拡張を行い、民間の製鉄業も伸びていきました。造船所や造船台が激増しました。大戦前にほとんどなかった化学工業が発達しました。
機械工業や造船業の発達で鉄鋼の需要は増え、これに鉄道が大口の鉄鋼の消費部門で、戦時中には軍需耐久財が鉄鋼の需要を増やしました。
船舶の不足と需要の激増が戦火から離れた日本に現れ、造船業に活況をもたらしました。

ドイツの化学製品の輸入が止まったため、化学工業が勃興しました。染料工業・窒素工業・曹達(ソーダ)工業・カリ工業及び薬品工業が発達しました。
こうして重化学工業の発達が顕著になりました。
しかし、軽工業優位が変ったことにはなりません。大戦中も繊維工業、次いで食料品工業が製造工業の業種別構成では首位を占めていて、この構成が変るのは第二次世界大戦後になります。

1914(大正3)年日本が第一次世界大戦に参戦すると、染料の輸入ストップの危機に晒された繊維業界の声を代表して、東京商業会議所が化学工業の保護と育成の建議を行いました。
その結果1915(大正4)年染料医薬品製造奨励法が公布されました。染料や医薬品を製造する株式会社に10年間補助金を交付しょうとするもので、その対象は大資本に限られていました。
産業家達は団結して自分達の声を政治に反映しょうとし、1916(大正5)年日本工業倶楽部を創立しました。この組織は日本産業界のトップリーダーの結集体でした。
日本工業倶楽部の建議で、1917(大正6)年製鉄業奨励法が公布されました。年3万5千トン以上の銑鉄製造能力の製鉄所の敷地については、他人の土地を使用または収用できる道を開き、そのため国有林野は特売または長期貸与できるとしました。
更に新規の製鉄所は10年間営業税・所得税・府県税・市町村税一切を免除するという保護が与えられました。
重化学工業には政府の手厚い保護が加えられました。そして大資本の下に企業の集中が促進されました。

第一次世界大戦期に財閥は形成されていきました。
三菱財閥は岩崎弥太郎による郵便汽船三菱会社の創立に端を発します。1893(明治26)年三菱合資会社がつくられ、財閥本社の機構ができました。その資本金は設立当初500万円が1922(大正11)年には1億2千万円で、24倍になっていました。久弥・彦弥太・小弥太の岩崎家の3人が独占的に出資していました。
三菱合資を中核に三菱財閥は多数の同系会社で形成されていました。三菱製紙・三菱倉庫・三菱造船・三菱製鉄・三菱商事・三菱鉱業・三菱銀行などの同系会社は、最初は買収して合併・吸収したり、後には分離・独立したりして設立されていきました。三菱合資は持株会社即ち財閥本社としての形態を整えていきました。
住友の場合も住友本店から1895(明治28)年に住友銀行が設立され、日本製鋼・大阪製鋼・日本鋳鋼所が住友に合併・吸収され、住友鋳鋼所・住友電線が分離・独立されます。
1921(大正10)年には住友総本店は住友合資会社となり、その傘下で住友肥料・住友伸銅鋼管・住友別子鉱山・住友九州炭礦を設立しました。
1909(明治42)年三井の中核として三井合名会社が三井11家の共同出資で設立されました。1911(明治44)年三井鉱山が分離されました。
この後三井合名の傘下で、三井銀行・三井鉱山・三井物産を中心に三井コンツェルン組織体制を確立し、資本の集中が進められました。1926(大正15)年三井合名は資本金3億円に増資し、日本一の大会社になりました。
安田は規模も小さく時期も遅れましたが、1912(明治45)年合名会社保善社が設立され、これを中核に大正期企業の設立や買収を盛んに行いました。

日本の資本主義はこの時期に急成長します。これは戦争による海外からの需要の増大で支えられました。
明治維新以来の慢性的輸入超過は、第一次世界大戦により大幅な輸出超過に転換しました。また世界的な船舶不足で、日本の船舶による物資輸送で、貿易外収支も黒字を示しました。
日露戦争の戦費負担と戦後経営の負担で、日本は破産状態になっていたところにこの様な好況を迎えました。膨大な正貨を蓄積しました。
これにより日本は外債の償還につとめ、更にイギリス・フランス・ロシアなどの外国公債を引き受けたり、外国証券を買い入れたりし、対外投資に振り向けました。
これまでは日本の中国への投資はイギリスからの借款でしたが、対中国借款として自前の対外投資国になりました。
この結果、1914(大正3)年には11億円の債務国が、1920(大正9)年には外債は償還で16億円に減り、債権が43億7千万円になり、差引27億7千万円の債権国になりました。

 

大正期に本格的な電気の時代を迎えました。
明治後期、電燈は官庁や会社の事務所で使われ、それから深夜業が盛んであった紡績工場や花街に広がり、鉱山の換気や排水の動力として使われました。
しかし、家庭では石油ランプやガス燈があり、容易には普及しませんでした。それでも電気事業は有望な事業として各地で多くの会社がつくられ、日露戦争後電燈・電力ともしだいに伸びていきました。
この頃電燈を引くと、料金は定額制で、供給時間は日没から午後12時までの半夜燈、午前2時までの二時燈、終夜燈、不定時燈に分かれていました。終夜燈を引く家庭は稀で、深夜用のガス燈や石油ランプを併用しました。更に電燈が5燭光・8燭光・10燭光・16燭光と分かれていました。
5燭光の終夜燈で月1円、半夜燈で65銭と高い料金でした。当時は火力発電で、終夜の供給が難しかったことがあげられます。
しかし1908(明治41)年4月から終夜供給に切り替えられ、値段も引き下げられ、100燭光までの契約ができるようになりました。この後第一次世界大戦後の好況で電燈・電力需要は増大しました。

大正末期には全国の8から9割の家庭に電燈は引かれました。工場の電力は、1919(大正8)年には1914(大正3)年の倍になり、動力の60%近くに達しました。
電力需要の増大に応えて供給できたのは、水力発電の飛躍的な発達と高圧遠距離送電が可能になったことがあります。
電燈会社はあちこちに設立され、群雄割拠の状況でした。その中から優勢なものが出てきて、地方的な独占支配を形成していき、ブロック別の電力経済圏をつくりあげていきました。
この頃から京浜・京阪神・中京・北九州工業地帯が形成されていきます。自然のままに利水されていた河川は、発電や水道のための取水で人の手が加えられました。
一方では工業地帯形成とともに公害が発生しました。1917(大正6)年に完成した浅野セメント川崎工場が操業すると、降灰で農作物への被害が出始め、住民から被害補償の要求が出され、会社が見舞金を出すことで解決しました。

 

1918(大正7)年はシベリア出兵が開始され、、米騒動が起こり、武者小路実篤の新しき村が創設されました。この年日本の財政では、歳出が10億円突破しました。明治維新から日清戦争までは、日本の財政はゆるやかに増加し、1億円に到達しました。この後日露戦争までの10年間で3億円になりました。更に第一次世界大戦が始まる頃に6億円、大戦が終了するこの年に10億円になりました。
財政支出の内訳は、行政費・軍事費・国債費が大正3年度は51・26・23%で、大正14年度は58・27・15%でした。
軍事費と国債費で支出の半分弱を占め、軍事費の比率が目立ちますし、国債費が急増しました。
国債費は外国債を減らすことができましたが、積極策の継続で内国債が増えました。このため償還や利払いが財政負担となりました。その使途は軍事費が40〜50%で、残りが殖産興業費や植民地経営費でした。

戦争とともに増税が問題になり、国民の負担も増え続けました。租税収入の内訳も、日清戦争を過ぎる頃まで地租が半分以上を占めていましたが、時代とともに新たな担税者が出てきました。 

酒造税は明治10年代以降20%台を占め、日清戦争後酒税と改め財源の主要部分を担いました。
日清戦争とともに商工業者が負担する営業税が出てきました。
日露戦争前後からは砂糖消費税・織物消費税などの種々の消費税が現れ、通行税や相続税もこの頃登場しました。
これらの税の中で急成長したのは所得税でした。1987(明治20)年に所得税法が布かれました。この時は0.8%を占めるにすぎませんでした。
サラリーマン層の増加により、所得税負担者も激増しました。免税点の引き上げも影響なく、1917(大正6)年には22.0%となり、17.1%の地租を超え、その後は酒税と首位を競いました。大正後期には所得税を納める人たちは200万人近くになりました。

増税しても、政府にとって資金が足りることはありませんでした。そこで郵便貯金の運用と流用が行われました。
日本の郵便制度の創始者の前島密(ひそか)が1875(明治8)年頃始めた駅逓局貯金が郵便貯金の始まりでした。郵便の利用や郵便局の普及とともに、郵便貯金は庶民にとって身近な預金機関となっていきました。
1878(明治11)年には逓信省で駅逓局貯金は取りまとめられ、大蔵省に預けられるようになりました。
その額は明治末で約2億円、大正末では10億円を超えました。この頃には国民の半分が郵便貯金をしていました。
当初の運用は堅実を第一にして、国債の引受と買入のみでした。この方針が崩れたのは第一次桂内閣(明治34.6〜39.1)のときでした。
大蔵省に預金部ができ、郵便貯金は預金部資金の主要な部分でした。
預金部資金の第1の運用先は、日本興業銀行・日本勧業銀行を通じての貸付でした。興銀を通じては非財閥系企業に、勧銀を通じては耕地整理組合・産業組合・北海道拓殖銀行など農林業に貸付は行われました。
第2の運用先は、興業債券や勧業債券の買入によるこれら銀行事業への援助でした。
第3の運用先は、東洋拓殖会社・朝鮮銀行・南満州鉄道・朝鮮殖産銀行など植民地経営企業の社債・債券の購入や融資でした。
預金部資金は蔵相の裁断に任され、しばしば中国の借款に流用されました。そのため不良貸付を生み、回収不能になる場合もありました。

第一次世界大戦後の好況は成金を生みましたが、その代表は神戸の鈴木商店でした。鈴木商店をきりまわしたのが責任社員の金子直吉でした。世界大戦が勃発すると、金子は投機的経営を行い、結果大成功しました。
1897(明治30)年資本金10万円だった鈴木商店は、1920(大正9)年には資本金5,000万円になっていました。
鈴木商店は広範囲な業種の会社を経営するコンツェルンを形成していました。それらは次のようなものでした。製鋼をはじめとする金属精錬・造船・人絹(人造絹糸)・毛織・セルロイド・窒素肥料・染料・皮革・製糖・製塩・製粉・製油・樟脳(しょうのう)・ゴム・ビール・アルコール・マッチ・たばこ・鉱工業・イギリス領ボルネオのゴム栽培・海運・倉庫・保険業。

1916(大正5)年京都帝国大学助教授の河上肇(はじめ)は「大阪朝日新聞」に「貧乏物語」を連載して反響を呼びました。河上は貧乏を20世紀における社会の大病としました。
河上は貧乏をなくす対策として、社会の改造よりも人心の改造、金持の贅沢廃止を提示しました。河上を敬愛した大内兵衛によると、富国の学問であった日本の経済学を民衆の学問に転換したといわれています。
好況による物価上昇により成金を輩出し、他方では生活破壊に怯える人々をつくりだしました。
また企業間格差による賃金格差も発生しました。企業の規模が賃金に反映しました。
工業国日本が確立するにつれ、貧富の二重構造ばかりでなく、貧乏の中での二重構造も確定していきました。

 

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