大正時代

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大正時代
3.米騒動と社会
 

富山県の魚津は富山湾に面した魚の町であるとともに、南に広がる富山平野の米の集散地でもありました。漁民町は神明川の北側と角川の南側、町の中心を挟んだ両側にありました。
1918(大正7)年この辺りの漁師達は、北海道・樺太(サハリン)の遠洋漁業などに出稼ぎに行って留守でした。この年は豊漁だったため魚価は下がり、家族への送金はままならない状態でした。
前年1月1升20銭2厘の米価がこの年6月34銭2厘に上がり、8月には45銭2厘になりました。米価の高騰を見越して、米どころの富山県では買付が盛んに行われ、その米は魚津や他の港から積み出されました。
送金のない留守家族は困窮しました。また出稼ぎに行ってない漁民は仕事するのに1日1升の米が必要でした。一家で1日の米代は1円以上が普通でした。当時の漁民の1日の収入は1円足らずでした。
町の中心部の米屋や米問屋は好況の様子を呈していました。魚津は町の中での好況と窮乏の様子が対照的でした。

1918(大正7)年7月22日の夜から魚津の漁民達は集会を催し始めました。翌23日北海道への米の積み出しのために汽船に荷役中と聞き、米が品不足になると群をなして人々が海岸に駆けつけ、米の積み込みをさせまいと大騒動になりました。船は積み込みを中止して北海道へ出航しました。
これがきっかけで、7月27・28日頃から騒動は富山湾に接する富山や高岡に広がり、8月4日には滑川に及び、富山地方の騒動は頂点に達しました。そのあと騒動は県内各地に及びました。これらの騒動の中心は主婦でした。そのため越中の女一揆と呼ばれました。

米価高騰は世界大戦下の物価騰貴の一環をなすものとして予想されるものでした。しかし1914〜16(大正3〜5)年と豊作が続いた結果、他の商品の値上がりにもかかわらず、米価は1升10銭台に留まっていました。
これまで麦・粟・さつまいもなどを常食にしていた農家がやっと米が食べられるようになり、小麦粉の輸出でその価格が米より高くなり、運賃が高騰し、輸入関税があったことにより米価が高騰しました。
予想されたことに対して政策的な処置は何も採られませんでした。1918(大正7)年になると米価は商人の思惑買いと地主の売り惜しみにより急騰しました。これに7月政府がシベリア出兵を決めたことが拍車をかけました。

魚津で発生し、富山県下に広がった騒動のニュースは全国に伝えられました。米価引下げ要求の運動は、騒動や市民集会の形をとって京都・名古屋・大阪・神戸・東京・名古屋の6大都市で起きました。更に仙台・福島・会津若松・甲府・静岡・浜松・豊橋・岡崎・金沢・福井・津・奈良・和歌山・境・尼崎・姫路・岡山・福山・呉・広島・高松・丸亀・松山・高知・下関・門司・小倉・佐世保・新潟・長岡・長野の都市や多くの町村で起きました。
8月13・14日がピークでした。更に8月17日から9月17日までは山口や北部九州をはじめとする炭坑で騒動が続きました。
1918(大正7)年の夏、青森・岩手・秋田・栃木・沖縄の5県を除く1道3府38県で騒動は発生しました。
新聞は寺内正毅内閣の無策を批判しました。これに対し政府は発売禁止や掲載禁止を行いました。これに記者達は反発して、記者大会を開き、言論擁護・内閣弾劾を決議しました。
早くから「非立憲(ビリケン)」内閣とその専制性を攻撃されていた、長州閥・陸軍閥の寺内内閣の退陣を記者達は要求しました。

貯蔵米の強制買収する寺内内閣の処置は遅れました。また国内の米価維持のため制限していた外米の緊急輸入の方針を決めましたが、それは朝鮮で人々の飯米を奪うことでした。
騒動が広がるにつれて、当初はその動きを軽視していた県や市町村は無視できなくなりました。公費の救助を待たずに、有力者の寄付を募り、寄付金による救済を行いました。
1918(大正7)年8月13日天皇は300万円を寄付し、その後三井家や岩崎家など各地の富豪からの寄付が相次ぎました。
済世会は、1911(明治44)年天皇が150万円の基金を出して、恩賜財団として発足した救療事業団体です。10月貴族院議長で公爵の徳川家達(いえさと)が、済世会会長として米騒動の発祥地の富山や北陸地方の視察をしました。
米騒動は一時的な人心の高揚ではなく、国民思想の変換の機会であったと捉えるのが一般的です。米騒動は政界や思想界に大変動を引き起こしていきます。
これを機に人々の俸給や賃金がかなり大幅に引き上げられました。
またこの年から翌年(1918〜19)にかけてスペイン風邪が流行り、死者は15万人に及びました。

 

寺内正毅内閣の後継に、西園寺公望に再出馬を願い、挙国内閣の声が高かったのですが、西園寺にはその気はありませんでした。大隈重信・後藤新平、あるいは官僚の平田東助・清浦圭吾の名が挙がりました。
後継首班の選考は9月いっぱい続きました。結局西園寺の推薦に山県有朋も異議を唱えないということで、原敬に決まりました。
1918(大正7)年9月29日、外相と陸・海相を除いた閣僚を政友会会員で固めた原内閣が成立しました。原敬は爵位を持たない初の首相で、平民宰相と呼ばれました。この平民宰相と政党内閣の出現は、人心を捉えました。

政友会には教育施設の改善充実、交通機関の整備、産業及び通商貿易の振興、国防の充実の4つの基本政策がありました。この他に原が熱意を持っていた政策は、郡役所を中心とする官僚閥に打撃を与える郡制の廃止、衆議院の政友会の絶対多数を目的に小選挙区制を実施しょうとする選挙法の改革がありました。
更に原は、米騒動の直接の原因になった米価問題を解決しなければなりませんでした。国際問題としては、シベリア出兵の処置、世界大戦の終結とその講和会議などがありました。
こうした中で原は、選挙法の改革、教育制度の改革、交通機関の整備を重点政策に選びました。政策推進のために、原は腹心の床次(とこなみ)竹二郎を内相兼鉄道院総裁に、大阪商船社長だった中橋徳五郎を文相に登用しました。
原内閣の1920(大正9)年、初めて国勢調査が行われました。人口は5,539万1,481人でした。

世界大戦を背景とする民本運動の潮流は、地方の中小都市まで広がり、政治参加の要求は一段と強くなりました。
1889(明治22)年大日本帝国憲法と同時公布された衆議院議員選挙法では、選挙人の資格は直接国税15円以上支払う25歳以上の男子に与えられ、小選挙区が採られました。1900(明治33)年の改正では、国税支払いが10円に引き下げられ、選挙区は大中小の様々なものになりました。
原は小選挙区を主張しました。大選挙区であればいつか中流以下に実権が取られてしまうと、原は危惧していました。
1918(大正7)年暮れから翌年3月までの第41議会に、国税支払い資格を3円に引下げ、小選挙区制に復帰する選挙法改正案を原内閣は提出しました。野党の加藤高明の憲政会と犬養毅の国民党は、2円案で対抗しましたが、政府案が両院を通過成立しました。第2次西園寺内閣の小選挙区制案に反対した貴族院も、中流以下に恐れて賛成しました。
しかし時代の奔流はすさましく、1919(大正8)年末から翌年にかけての第42議会を迎え、普選運動はこれまでになく盛り上がりました。こうした情勢に憲政会と国民党は、普選法案を議会に提出しました。
このため第41議会で成立した選挙法は一度も実施されないことに、原は危機感を抱きました。1920(大正9)年2月23日衆議院は解散され、選挙の結果は、政友会が117議席増の464議席中279議席を占めて圧勝しました。

教育制度の改革は中・高等教育機関の拡張を意味しました。
近代公教育は1872(明治5)年の学制に始まります。ここで目指したのは国民皆学でした。義務教育である初等教育は日清・日露戦争間に定着しました。男子は兵役に従事するため文字を知ることが必要になり、両戦争の10年間に就学率は61から96%に急上昇しました。
大正になると、世界大戦を契機に資本主義の急成長があり、専門教育を受けた管理者・技術者はこれまで以上に求められました。文部省は高等教育機関増設の具体案の作成を急いでいました。
1918(大正7)年12月天皇から1,000万円がその費用として与えられ、中橋文相は計画の大要を発表しました。
官立の高等学校10校、実業専門学校17校、専門学校2校を増設し、既設の学校も拡張する、その卒業生を収容するために大学の学部の増設を行い、東京高等商業学校など6校を単科大学に昇格させるといったものでした。
この構想は大正8年から6ヶ年計画として立案され、議会を通り実行されました。経費は4,455万円で、先程の内帑(ないど、皇室が所有する財貨)金と公債及び借入金で賄われました。

1918(大正7)年12月原内閣は従来の帝国大学令の他に大学令を制定しました。これまでの分科大学を学部とし、単科大学の成立を認め、公私立大学を認めることにしました。
この結果、1919(大正8)年には大阪医科大学(現在国立大阪大学)が公立大学として設立され、1920(大正9)年には慶応大学・早稲田大学・明治大学・同志社大学などが創設されました。これらはそれまで大学と称していましたが、専門学校の資格しか与えられていませんでした。
1918(大正7)年東京・京都・東北・九州・北海道の5帝国大学しかなかった大学は、1932(昭和7)年には官公私立あわせて47校に達し、学生も7万人を超えるようになりました。
それと同時に中学校・高等女学校・実業学校も増えました。増加したのは大正後期に集中しました。原内閣の拡張政策の影響がありました。しかしその拡張策には、政友会の党利党略があり、政友会の地盤育成が配慮されました。

日露戦争後の財政困難な時でも、鉄道は国有化され、公債を発行してその拡張に努めました。これにより明治末期には幹線はほぼ整備されました。
世界大戦下の好況により、国鉄の旅客・貨物とも激増しました。国鉄は黒字で、国鉄黄金時代をもたらしました。
1920(大正9)年5月原敬首相は鉄道院を鉄道省に昇格させ、鉄道相に政友会の元田肇を登用しました。幹線から地方線に重点を移して、更に鉄道網を拡張するために、翌1921(大正10)年鉄道敷設法の改正案を議会に提出しました。この案は一旦審議未了になりますが、1922(大正11)年に成立しました。
この法律には多くの政治路線が含まれ、我田引鉄とよばれました。
この他原内閣は1919(大正8)年道路法を成立させ、翌1920(大正9)年には道路公債法を成立させ、道路の改良に公債を発行できるようにしました。
この様に従来の官僚内閣と違い、原内閣は積極的な政策を、ある意味強引に行いました。
しかし、世界大戦後の1920(大正9)年から始まる恐慌を解決することはできませんでした。原の独裁ぶりのみが目立ちました。その結果1921(大正10)年11月原敬は東京駅頭で、中岡良一に刺されて暗殺されました。

 

この頃貧民・細民・窮民という言葉が生活苦とともに新聞紙上に頻繁に載りました。この様な国民の窮迫化に対し、なんら公的な共済措置を採らなければならないという認識は、日露戦争後社会にある程度高まっていました。
1909(明治42)年内務省は東京・京都・名古屋・神戸・横浜の6大都市に職業紹介所の設置を奨励しました。1911(明治44)年東京市は浅草・芝に日本で初めての公設職業紹介所を設けました。
1911(明治44)年5年後の施行の工場法が公布されました。済世会も設立されました。世界大戦とともに社会政策への要望が高くなりました。
米騒動は、政府・国民側双方に、社会政策の必要性を痛感させました。

1916(大正5)年から最初の労働者保護法である工場法は施行されました。しかしその適用工場は常時15人以上の労働者を使用している工場に限られ、大正後期で工場総数の50〜60%台に留まりました。労働時間は12時間を限度とし、施行後15年間は2時間以内の延長が認められました。
米騒動後の社会政策的な施策は、米価の安定でした。公設食堂・公設市場が各地に設けられ、米価調節基金が農商務省に積まれ、外国米の輸入税は解禁になりました。
1919(大正8)年12月床次(とこなみ)竹二郎内相の企画で、労資協調の協調会がつくられ、徳川家達(いえさと)が会長になり、争議の調停などを行いました。
1921(大正10)年借地借家法・住宅組合法・職業紹介法などが公布されました。しかし職業紹介法は労働争議関係者を公設の職業紹介所から締め出しました。
1922(大正11)年借地借家調停法・健康保険法などが公布されました。健康保険法は1926(大正15)年に実施されました。

社会政策実施のための実態調査が地道に行われました。大阪府と大阪市は先駆的にこの仕事に取り組みました。
大阪市は労働人口や労働条件、労働者の生計費や余暇や住宅問題の内容を「労働調査報告」に載せ、のち「社会部報告」と改題して刊行し、1919(大正8)年から1942(昭和17)年まで続きました。
米騒動直後の1918(大正7)年10月大阪府は方面員制度を設けました。その役割は要救護者の状態をつかんで、適切な対策を採ることにありました。今日の民生委員の前身に当たります。
大阪市は1917(大正6)年に最初の結核療養所を設けたり、1921(大正10)年には市民館を設けたりしました。
結核は好況の下での労働強化によって一層広まりました。死者は1918(大正7)年に14万人を超え、推定患者数は50万人以上にのぼりました。トラホーム患者は1,000万人以上で、精神病患者は1918(大正7)年には6万4千人を数えました。乳児死亡率は1916〜20(大正5〜9)年人口1千人に対し、23.6人に達しました。
政府は衛生関係の法令の整備に力を入れました。1919(大正8)年結核予防法・トラホーム予防法・精神病院法が公布され、1922(大正11)年には伝染病予防法が改正されました。しかし乳児の死亡率には何の処置も講じられませんでした。

原内閣の積極策と社会政策の開始は、道府県及び市町村への国政委任事務を増加させ、地方自治体の財政を窮乏させました。
その内容を見ていきますと、まず社会政策費の支出が増えました。職業紹介法・結核予防法・トラホーム予防法・精神病院法・伝染病関係の予防法などの負担は市町村に最も重く、次いで道府県、国が最も軽かったのです。
米騒動以後警察官が大増員され、治安対策のための警察費が増加しました。
道路法では道路は国道・府県道・郡道・市道及び町村道の5種に分けました。しかし地方議会はほとんど関与できず、新設改築費用は国道は1/2、府県道以下は1/3の補助があるだけで、それぞれの地方自治体の負担となりました。
1918(大正7)年4月に施行された市町村義務教育費国庫負担法により、政府が市町村立尋常小学校教員俸給の一部を負担することになりましたが、米騒動の結果教員給与が引き上げられ、以前に増して教育費の負担が増えました。

 

1916(大正5)年津田左右吉(そうきち)の「文学に現はれたる我が国民思想の研究 貴族文学の時代」が出版されました。これまで思想といえば高尚なもの、実生活からかけ離れた学究的な対象でしたが、津田は生活に根ざしたものとしました。生活者である国民一般を思想の担い手としました。また思想とは無縁と考えられていた文学が思想の題材として取り上げられました。
更に津田は「武士文学の時代」「平民文学の時代」を刊行し、「文学に現はれたる我が国民思想の研究」は日本思想史の一大金字塔となりました。

柳田国男は貴族院書記官長の公務の余暇をぬって、1913(大正2)年3月から1917(大正6)年3月まで雑誌「郷土研究」を刊行しました。人々の間に語り継がれてきた物語を考察しました。
民衆の文化に取り組んでいた人々を勇気づけました。彼らは「郷土研究」を購読し、寄稿しました。「郷土研究」は民俗研究についての情報や成果を交換する場となりました。
地方に在住する研究者としては、京都の梅原末治、茨城の小川芋銭(うせん)、名古屋の尾佐竹猛(おさたけたけき)、大阪の折口信夫(しのぶ)、和歌山の南方熊楠(みなみがたくまぐす)がいました。
東京在住としては、津田左右吉・中山太郎・生方(うぶかた)敏郎・新渡戸(にとべ)稲造・小野武夫・喜田貞吉・金田一京助・松村武雄・早川孝太郎がいました。
柳田国男は民俗学を創始しました。柳田が無形の伝説を掘り起こしたのに対し、これまで見捨てられていた種々の日用的な道具に美を見出したのが、白樺派同人で宗教学者の柳宗悦(むねよし)でした。無名の工人がつくりあげた雑器に豊に創造性を見出し、それらを民衆的工芸として民芸と呼びました。
柳は各地の民衆の間に埋もれていたそれらの造形美を訪ね歩きました。その過程で木喰(もくじき)上人の木彫仏を甲州で発見しました。

生活者の視点は人文科学だけでなく、自然科学にも現れました。
宮入(みやいり)慶之助は日本住血吸虫の中間宿主の貝(のち宮入貝と命名されました)を発見し、その根絶に大きな役割を果たしました。
石原修は、宮入から病気の発生を防止する予防医学の存在を教えられ、宮入の衛生学教室に入りました。
医学者となり、内務省嘱託になった石原は農村に衛生調査に赴きました。調査の結果、結核が急速に広がりつつありました。工場の苛酷な労働条件と不衛生な居住条件の下で結核は発生し、病魔におかされた労働者が帰郷して、結核は農村地帯で広がっていました。
1913(大正2)年石原修は調査結果を「女工と結核」の表題で、国家医学会の例会で講演しました。

生活者の視点は社会科学の分野でも進みました。1919(大正8)年に設立された大阪の民間研究機関の大原社会問題研究所は、倉敷紡績などを経営する大原孫三郎が寄付したものでした。
大原は東京帝大で統計学を講義していた高野岩三郎に運営を一任しました。高野は労働運動の先覚者高野房太郎の弟でした。
高野岩三郎は1916(大正5)年「東京ニ於ケル20職工家計調査」を行い、1918(大正7)年には東京月島地域の労働者の出生・死亡・衛生状態・住宅・教育・娯楽・家計についての総合調査を行っていました。
大原社会問題研究所には櫛田民蔵・森戸辰男・久留間鮫蔵・権田保之助・戸田貞三・細川嘉六・笠(りゅう)信太郎など若手の社会科学研究者が集まりました。研究・調査や労働者教育に功績を残しました。

 

この頃官庁の公式文書は文語体でしたが、それ以外は口語体が文語体にとって代わっていきました。この変化は新聞に典型的にみることができます。
現在の毎日新聞の前身の一つである大阪毎日新聞で、1918(大正7)年9月で口語体を採用したのが、部分的ですが統一的に採用した最初でした。
第一次世界大戦を契機とする新聞購読者の急増に応えるものでした。大正末期には大阪朝日、大阪毎日ともに部数が100万を突破しました。また夕刊を発行しました。夕刊は朝刊より市井記事や娯楽の強いものでした。
新聞の新時代を開いたのは第一次憲政擁護運動でした。かっての大記者の時代は去り、社説の地位は低くなりました。かわって取材に駆け回る探訪記者やコラムに筆をふるう雑報記者が珍重されはじめました。

東京高等師範学校付属小学校の教員芦田恵之助(えのすけ)は、1913(大正2)年「綴り方教授」を発行しました。芦田はこれまでの文部省により指導されていた型にはまった作文教育を否定し、同時に新しい綴り方教育運動の中の個人主義的な志向も否定しました。
特に後者が主張していた自由選題を否定し、随意選題を提唱しました。随意選題は実生活に即した形での、実生活を客観化するための、主題の探求と表現の深化を目指すものと芦田は考えました。
この後芦田は綴り方行脚に専念します。芦田は各地の教員に感銘を与えました。赤井米吉もその一人でした。赤井はのち明星学園を創立します。

自分に理念に従い、国家の統制の枠外で教育したいという人々がいました。その中で学校令によらない、そのためなんの資格も公認されない学校をつくろうとする人々も現れました。
東京神田駿河台の文化学院の創始者は西村伊作でした。西村はキリスト教信者の家に生まれました。長女が小学校を卒業する時、堅苦しい昔風な女学校に入れるのは嫌でした。紀州新宮の大山林地主の西村は、与謝野寛・晶子夫妻や画家の石井柏亭(はくてい)らと語らって学校を創立することにしました。まずは芸術教育をすることを標榜し、文化学院と名付けました。何も規則がなく、規則がないので処罰のない学校でした。
羽仁吉一と結婚したもと子は、日本で最初の婦人記者でした。結婚後、1903(明治36)年羽仁もと子は「家庭之友」を創刊しました。5年後「婦人の友」となり、もと子は主筆として活動しました。夫妻は学園の創立を思い立ち、自由学園と名付けました。全ての学校生活を生徒に任せ、自由と自治を掲げて、いかなる資格からも無縁の教育機関としました。

明治は抑圧的な時代でしたが、大正はそれが少しが薄くなった時代でした。異なる価値意識も出てきて、モラルの変化もありました。
この様な変化に敏感なのは女性でした。女性の絵を描いた竹久夢路は時代の寵児として現われました。
竹久茂次郎は岡山の造り酒屋に生まれました。母と姉に虐げられた女性の姿を見て育ちました。上京し、平民社に出入した青年は、幽冥路からの夢二を名乗りました。閉塞の時代に暗い想いと現実離脱への希求が青年の中に渦巻いていました。
夢二はこののち華やかに女性遍歴とともに、ひたすら女性を描きました。最初の妻たまきのために開いた、自分のデザインを売る東京日本橋呉服町の港屋は、若い女性で賑わいました。
夢二の絵は不健康な女性を描いて、退廃との評価もされます。しかし悲しみを背負った生活は、当時の女性の多くが免れ難いものでしたし、肺病を患った女性が多かったのも真実でした。夢二が弱者の視点で世の中を見ようとする姿勢は、終生続けられました。

20歳になった吉屋信子は、1916(大正5)年雑誌「少女画報」に「花物語」を連載を始めました。女学生でその中でも多くは寄宿生を主人公に、花に託した物語でした。
女学校という女性だけの社会を場に、同性間の憧れにも近い遂げられない恋の追求でした。しかし女学生時代は4・5年間でした。意志を抑圧された社会にいよいよ入っていかなければなりませんでした。
女性は吉屋によって自らが檻の中の存在であることを自覚させられました。これは女性解放の道程をなしていました。抑圧を天与のものと必ずしも思わなくなった女性も出てきました。
このような時代相を捉えた資本は、1914(大正3)年宝塚少女歌劇の第1回公演を行いました。

1916(大正5)年吉野作造編の「婦人問題」が刊行されました。婦人問題の啓蒙書でした。同年嶋中雄作により女性雑誌「婦人公論」が創刊されました。
「婦人公論」は創刊3年目の大正7年頃から、婦人労働・性教育・貞操・恋愛・情死・妻としてのありようなどが読者から求められ、女性の論客の間で盛んに論議されました。
1918(大正7)年「婦人公論」と雑誌「太陽」を舞台に、与謝野晶子・平塚らいてう・山川菊栄の間に、女性解放の方向が女権か母権かをめぐっての母性保護論争がありました。
このほか「主婦之友」・「婦人くらぶ」・「女性改造」などの女性向けの雑誌が創刊されました。
こうした傾向の中で多くの女性解放の先駆者が出現しました。婦人参政権運動の市川房枝、女教員問題の木内キャウ、社会問題・貞操問題に取り組んだ伊藤野枝、廃娼運動の久布白落実(くぼしろおちみ)、消費組合運動の奥むめお、母性保護の山田わか、婦人記者の神近市子・金子(山高)しげり、文学の中条(宮本)百合子らでした。

 

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