大正時代

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大正時代
4.三・一運動と五・四運動
 

第一次世界大戦の講和会議が、1919(大正8)年1月18日から5ヶ月余り27ヶ国(のち28ヶ国)の代表が集まりフランスのパリで開かれ、6月28日ベルサイユ宮殿で条約は調印されました。日本の全権は元老の西園寺公望と元外相の牧野伸顕(のぶあき)でした。
会議の主役はアメリカ・イギリス・フランス・イタリアの4ヶ国で、これに日本を加えた5ヶ国が全般的な利害を持つ交戦国として全ての会議に参加する権利を有していました。ベルギー・ブラジル・オーストラリア・インド・中国・ルーマニアらその他の国は、特殊的利害を持つ交戦国として自国に関係がある会議だけに出席しました。
特に主導権を発揮したのはアメリカとイギリス・フランスでした。アメリカのウィルソン大統領は、1918(大正7)年1月議会への教書の14ヶ条に立脚していました。それは秘密外交の排除、軍備縮小、植民地要求の調整、バルカン諸国の回復、国際連盟の結成などが内容でした。
イギリスのロイド=ジョージ首相とフランスのクレマンソー首相はドイツから償金を取り立て、植民地を保全することを目標にしました。
植民地支配の原則は変りませんでしたが、ドイツの旧植民地を分割するにしても、委任統治という形を取ったり、民族自決の原則を謳いました。ドイツからの巨額な償金も、戦費への賠償という形を取りました。従来の植民地主義を露骨に表すことはできませんでした。また集団安全保障機構の国際連盟が創設されました。

パリ講和会議における日本は、会議をリードする立場には立ちませんでした。列強のおもむくところに従おうという、当時の日本の国際な力関係をあらわしたものでした。議事の大部分はヨーロッパに関するものでしたが、アジアに関することについては、日本は積極的に発言しました。
南洋のドイツ領植民地については、日本はその赤道以北を占領しており、その割譲を要求しました。これに対しウィルソン大統領は領土併合に反対し、国際連盟による委任統治を主張しました。長い議論の後、日本は赤道以北のドイツ領植民地を委任統治するようになりました。
ウィルソンが14ヶ条の理念に立つこともありますが、南洋諸島がハワイから当時アメリカの領土であったフィリピンへの通路に当たっていました。
山東省を占領していた日本は、山東省におけるドイツの利権の継承を主張しました。これに対し中国はその返還を要求しました。
日本の参戦の目的はここにありました。日本の会議からの離脱を阻止するため、ウィルソンは日本に妥協しました。そのため中国は条約に調印しませんでした。
日本は人種的差別待遇撤廃問題を提起しました。日本はアジア人の立場で、民族主義・反植民主義への同情的立場を示しましたが、実際にはアメリカにおける日本人移民への差別待遇を廃止しょうという狙いを持っていました。この移民の問題は日露戦争以後、日米間の競争・対立が激化する中で大きな問題になっていました。
しかし結局は不成立に終わりましたが、これに日本はそれほどこだわりは持っていませんでした。反対に問題は足元から起きてきました。
朝鮮では独立万歳を唱える三・一運動が起きました。中国では日貨排斥を唱える反植民地運動の五・四運動が起きました。

1921〜22(大正10〜11)年開かれたワシントン会議は、軍備制限問題・中国問題・太平洋問題を討議するためアメリカ大統領ハーディングの主唱で開かれました。日本・イタリア・オランダ・ポルトガル・フランス・イギリス・中国・ベルギー・アメリカの9ヶ国が参加しました。会議の結果海軍軍縮条約・四ヶ国条約・九ヶ国条約が取り決められました。
軍縮問題は世界大戦の直後でもあり、世界的な問題になっていました。1921(大正10)年2月尾崎行雄は衆議院に軍備制限の決議案を提出しました。しかし否決され、その後尾崎は軍縮を唱えて全国を遊説して歩きました。
海軍にとっての念願であった戦艦8・巡洋戦艦8の八・八艦隊案は1920(大正9)年に成立していました。この反面無制限な軍拡は財政を破綻させるという声もありました。こうした中、主力艦の比率をアメリカとイギリスは5、日本3、フランスとイタリアは1.67とすることに決めました。
4ヶ国条約は日本・アメリカ・イギリス・フランスの4ヶ国間の条約で、太平洋地域での現状維持を図ろうとする列強間の条約で、住民の意向は反映されませんでした。条約発効とともに日英同盟は破棄されました。
9ヶ国条約は全参加国によって結ばれた中国問題に関する条約で、中国の主権・独立・領土保全を約束し、門戸開放・機会均等の原則を打ち立てました。日本だけの勢力範囲設定を認めませんでした。

 

朝鮮総督は陸海軍大将が任じられました。天皇に直隷し、朝鮮内の行政・立法・司法権を与えられ、軍の統率権まで与えられました。大日本帝国憲法は朝鮮では適用されませんでした。その代わり犯罪即決令・朝鮮笞刑(ちけい)令などが出されました。
犯罪即決令は、3ヶ月以下の懲役や100円以下の罰金などの罪に対しては裁判手続きを経ないで、警察署長または憲兵隊長が即決できる制度でした。
朝鮮笞刑令はむち打ちの刑で、この刑は懲役や罰金などへの換刑として行われました。
日本は治安維持のために、警察の主要な職を憲兵将校が兼任するという憲兵警察の制度を採りました。憲兵警察は諜報収集、犯罪即決、反乱鎮圧をはじめに、差押え・山林監視・徴税援助などの行政事務にも関与しました。
憲兵警察の最下層には朝鮮人から巡査補・憲兵補を任用して、人々の監視に当てました。
憲兵・警察だけでなく、普通の文官や教員まで金筋の入った制服を着用し、サーベルをぶら下げて執務し、授業をしました。
1910(明治43)年韓国併合当時の人口は1,300万人でした。朝鮮支配の中枢であった朝鮮総督府の庁舎は、10年の歳月を要して1926(大正15)年に完成しました。

1911(明治44)8月に出された朝鮮教育令は、朝鮮の教育を教育勅語をもとに、日本語の普及を目的にしました。朝鮮人に対する教育は、日本人子弟に対するよりも程度が下げられ、小学校に当たる普通学校は4年間で、週に修身1時間・日本語10時間に対し、朝鮮語及び漢文5〜6時間で、地理・歴史はありませんでした。地理・歴史は、中学校に当たる4年制の高等普通学校や女学校に当たる3年制の女子高等普通学校に進学してはじめて教えられました。
韓国併合前後に、言論統制のための諸法を発動して新聞・雑誌・書籍の多くを発禁にしました。人々の民族意識を警戒した処置でした。
1924(大正13)年最高学府の京城(けいじょう)帝国大学が設置されます。西洋史の講義はありますが、西洋史学科は設けられませんでした。
新聞に対しては、ソウルでは総督府御用の日本字紙「京城日報」、朝鮮字紙「毎日申報」、英字紙“The Seoul Press”だけに限定しました。その他の大都市でも御用紙を発行しました。

1908(明治41)年設立された国策会社の東洋拓殖株式会社に、韓国政府は田畑を提供し、資本家が出資し、日本政府が補助金を出しました。総裁は長州出身の宇佐川一正陸軍中将でした。
東洋拓殖の目的は土地特に田畑を獲得し、そこに農民を送り込み、経営することでした。東洋拓殖は外資を導入し、土地を担保に金融を行い、結果的に土地の獲得に大きな役割を果たしました。
明治43年の1万1,035町歩が大正8年には7万8,520町歩と、9年間に7倍に増え、朝鮮最大の地主になりました。
1917(大正6)年には東洋拓殖の会社法が改訂され、ソウルにあった本社は東京に移転し、東北地方をはじめとする中国や南アジア各地に事業を拡大していきました。
東洋拓殖の事業の一つが土地の収奪であり、もう一つは土地調査事業でした。これは1912(大正元)年に制定された土地調査令により、官憲と地主を委員として行われました。
土地の有力者が一括して自分の土地として申告したり、書類の不備を口実に農民の申告を差し戻したりすることが頻繁に行われて、申告漏れの土地は国有地になりました。一般農民が大量に土地を喪失する契機になりました。
土地調査事業は一般農民の没落を促し、朝鮮における地主制を促進して、土地を基礎とする収税体系を樹立し、総督府の財政の基礎を固めました。
また1911(明治44)年に制定された土地収用令は公共事業のための土地を取り上げることを容易にしました。これ以前の1908(明治41)年の森林法では、森林山野の所有者の届出を義務付け、届出がなかったものは国有地とみなしました。

 

パリ講和会議のウィルソンの14ヶ条は朝鮮の人々を鼓舞しました。講和会議では朝鮮の独立問題が討議されつつあるとか、ウィルソンがやって来るとの噂も飛びました。
国王高宗の世継ぎの李垠(りぎん)と日本の皇族梨本宮方子(まさこ)とを結婚させ、その新婚旅行をヨーロッパにし、講和会議開催中のパリに行き合わせて、日本と朝鮮の融和振りを世界に誇示しょうとしました。
1919(大正8)年1月25日に結婚式を予定していましたが、その直前の22日に高宗が突然死去しました。高宗は日本に抵抗していましたので、毒殺や自殺説が広まりました。
こうした動きの中、1919(大正8)年3月1日午後2時ソウルの群集であふれるパゴダ公園で、一人の青年が壇上に立ち、独立宣言書を読み上げました。読み終えた青年は独立万歳を唱えました。人々はこれに呼応し、公園内外で万歳が高唱されました。軍隊が出動しましたが、この動きは朝鮮全土に波及しました。
独立運動の波は朝鮮だけでなく、中国やソビエトの朝鮮人、更に日本にいる留学生達にも広がりました。
軍隊や警察は弾圧しましたが、運動は半年続き、約200万人が参加し、死者7,907人、負傷者1万5,961人、逮捕5万2,770人にのぼりました。この運動により朝鮮内外の独立運動は恒常化しました。

従来の武断政治によっては朝鮮の統治が続けられないことが、三・一運動によって日本は認識させられました。植民地経営は威圧より懐柔、差別より同化をと考えていた原敬首相は、長谷川好道総督を更迭し、海軍の斎藤実(まこと)を後任に任命し、内相を務めたことがある水野錬太郎を、総督の下で政務を統轄する政務総監に任命しました。
さらに官制を改定し、朝鮮総督は文官でも就任できるとし、憲兵警察を廃止して普通警察制度とし、官吏や教員の制服と帯剣を廃止し、学務局を昇格させて教化に力を入れるとしました。
こうしたことで、斎藤実の政治は武断政治に対し、文化政治といわれましたが、植民地支配を更に強化していきました。
組織的抵抗は1919(大正8)年9月に鎮圧されましたが、抵抗運動は恒常的になりました。9月2日斎藤実は南大門駅頭で爆弾を投げつけられました。10月31日の天長節には爆弾の噂が流れ、朝鮮人巡査のストライキも起こりました。
翌1920(大正9)年3月1日の三・一運動1周年には警戒をしましたが、3月2日にはアメリカ人経営の中学校で独立万歳を叫ぶ事件が起きました。
日本は威圧と懐柔を使い分けて、内鮮一体をスローガンに支配を行いました。こうした中、1920(大正9)年からソウルに伊勢神宮を模した朝鮮神宮を造営し(大正14年完成)、天照大神と明治天皇を祀りました。

米騒動で米不足を痛感した日本政府は、朝鮮での米の増産で補おうとしました。この産米増殖計画は、1920(大正9)年から第1期15年間で、水田の改善・畑の水田への地目変更・開墾・干拓などで42万7,500町歩の土地を改良し、これと農事改良とあわせて900万石を増収し、800万石を日本に移出するとしました。
この当時の朝鮮の産米は1,300万石で、実現不可能と思われましたが、総督府はこの計画を強引に進めました。しかし資金不足と朝鮮の農民が協力しなかったため失敗に終わりました。
1926(大正15)年大幅に計画を縮小した第2期計画が発足しました。郵便貯金からの低利融資を受け、ある程度成果を挙げましたが、その時には日本は豊作になっていて、計画は放棄されました。
米は徐々に増産されましたが、日本人のためであり、朝鮮人のためでなかったので、朝鮮人1人当たりの米の消費量は逆に減っていきました。このため満州から粟が輸入されました。 

朝鮮人の土地を奪って、彼らを強制的に労働させて鉄道や道路の建設、官庁や企業を中心にした都市計画が行われて開発は進められましたが、彼らの生活向上には役立ちませんでした。
生活が破壊された朝鮮人の多くが、職を求めて日本に渡って来ました。1917(大正6)年の約1万5,000人が1926(大正15)年には約14万4,000人に達しました。彼らは関西や福岡・北海道に多く住み、関西では職工や土建業の人夫に、福岡・北海道では炭坑夫や仲仕として働きました。その労働条件は劣悪で、差別的な賃金で働かされました。
こうした状況の中で、朝鮮や朝鮮人に対する日本人の優越感が決定的になっていきました。

 

台湾では日本の統治下に置かれて、長い間武力反抗が続きました。1915(大正4)年頃にやっと武力反抗は消息し、言論による民族運動が興ってきました。その契機になったのは前年1914(大正3)年の板垣退助の台湾訪問でした。
台中庁参事林献堂の招請で訪問した板垣は、参政権・結婚・教育・言論など全ての面で差別する統治を批判しました。そして同化主義を主張し、大隈重信首相の賛同を得て台湾同化会を結成しました。しかし同化会は、在台日本人から激しい反感を買い、1ヶ月後に解散しました。
世界大戦を契機にする民族自決の気運に、台湾の人達も突き動かされました。まず日本の留学生の間に六三法撤廃のための組織ができ、中華民国の年号を使う気運も出てきました。1896(明治29)年台湾を領有直後に日本政府が公布した法律第63号は、台湾総督に法律と同じ効力を持つ律令を発布できる権限を与えました。当初は時限立法でしたが、形を代えて延長されてきていました。
こうした情勢の中、1919(大正8)年1月総督府は教育令を発布して、初めて専門学校を置きました。同年10月には初めての文官総督田(でん)健治郎が赴任し、同化政策を掲げました。
台湾の人達は同化でなく自治を要求しました。林献堂を中心に、1921(大正10)年以来15回にわたって、台湾議会設置を帝国議会に請願しました。しかし帝国議会は無視しました。
日本は台湾経済のモノカルチャー化を進め、日本への砂糖供給地としました。同時に日本から大資本の製糖会社が進出し、産業面でも絶対的優位に立ちました。

パリ会議で中国代表の主張は退けられ、日本による山東省の旧ドイツ権益の継承は承認されました。山東省の権益返還が絶望的になったとの報せは、1919(大正8)年5月1日北京に届きました。北京大学の学生は直ちに行動を開始し、5月4日天安門前の大集会とデモ行進を行いました。さらに親日政策推進の中心人物の曹汝霖宅を打ち壊しました。この民族運動はのちに五・四運動といわれます。
軍閥は民族運動を弾圧しました。しかし五・四運動をきっかけに民族運動は広まり、深まっていきました。1925(大正14)年5月30日上海で日本の紡績工場の争議への武力弾圧に対する抗議として反日デモが起き、そののち3ヶ月間全市のゼネストとなりました。この五・三○事件などはその典型でした。
早くから中国革命運動を起こしながら、議会内主義から抜け出せなかった孫文は、五・四運動から大衆運動の威力を認識し、列強からの援助という幻想を捨てていきました。

 

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