大正時代

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5.新しい思想
 

1918(大正7)年白樺派の武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)は宮崎県児湯(こゆ)郡木城(きじょう)町石河内(いしかわち)に「新しい村」を開きました。
一種の共産制社会をつくり、余分の時間を各人が自由に生かすことにより、これまで少数の者に独占されていた文化が万人に共有されるような秩序の原型をつくろうとしました。
武者小路は雑誌「新しき村」を刊行し、公演で各地を回りました。武者小路の行動は、既存のものに懐疑を抱きながら自らの進路を決めかねていた人々に、大きな衝撃を与えました。当時の青年達に大きな影響を与えました。
新しい村は、個の追求をしていた知識人に対して共同体のへの回帰を、また都市文明に対して田園生活を教えました。

日本は日露戦争後思想的な激動を経験しましたが、それから10年余り後、世界大戦終結を契機に第2の激動期を迎えました。この時に人々が思いを託したのは改造という言葉でした。これに注目した山本実彦は、1919(大正8)年4月雑誌「改造」を発刊し、その動向に拍車をかけました。
筆者には社会問題を論じる山川均・賀川豊彦・高畠素之(もとゆき)らがいましたし、アインシュタイン・ウェップ・カウツキー・バルビュス・ゴーリキー・タゴール・ロマン=ローラン・魯迅・ショーら新しい時代を代表する思想家に寄稿を依頼しました。
こうした状況に、安定的にデモクラシーを論じていた老舗の「中央公論」も朝鮮問題・中国問題・労働問題などを強く打ち出し、表現に改造を含む論調が同誌及び姉妹誌の「婦人公論」でも多くなりました。
1919(大正8)年には、河上肇の個人誌「社会問題研究」、長谷川如是閑(にょぜかん)・大山郁夫(いくお)の「我等」、黎明会同人の「開放」が創刊されました。

民本主義を主張する吉野作造は、言論に対した暴力的な制裁でのぞむ団体浪人会を非難したため抗議を受け、逆に立会演説を提案しました。
1918(大正7)年11月23日東京神田南明倶楽部で立会演説会は開かれました。吉野は、浪人会が暴力で思想を圧迫する態度を追及しました。満員の人々はデモクラシーの勝利に歓喜しました。
これをきっかけに、吉野は経済学者の福田徳一・高橋誠一郎、農業問題・植民問題の専門家でクリスチャンの新渡戸(にとべ)稲造・法学者の穂積重遠(しげとう)、倫理学者の大島正徳、宗教学者の姉崎正治、政治学者の大山郁夫、哲学者の左右田(そうだ)喜一郎・朝永三十郎、ジャーナリストの大庭柯公(かこう)・滝田樗陰(ちょいん)らとともに知識人の団体の黎明会をつくりました。
吉野作造の影響受けた学生の赤松活麿(かつまろ)・宮崎竜介らが東大内に新人会をつくりました。新人会は社会主義の方向に移行させ、労働運動との結びつきを深め、更に朝鮮問題への関心をしめしました。
早稲田大学には民人同盟会がつくられ、更に各地の大学や高等専門学校にも同じような組織がつくられました。こうして学生運動が始まり、その中から多くの社会運動家が生まれました。

しかし知識階級は新時代の担い手ばかりでなく、自らを旧時代の存在として位置付けようとする人達もいました。知識階級の苦悩を代表する人に、作家の有島武郎がいます。
明治の高官であった父から、1922(大正11)年北海道の450町歩の広大な土地を受け継いだ有島は、同年小作人に開放しました。その狩太(かりぶと)農場は、羊蹄山麓を流れる尻別川沿いの高台にありました。現在のニセコになります。それ以来この土地は、1949(昭和24)年農地解放で分割所有されるまで、狩太共生農団の共同所有地として耕作されました。
複雑な感慨の中、財産放棄はかなりの決断を要したと思われます。こうした自己否定の考えは、翌年の有島の情死や、1927(昭和2)年の芥川龍之介の自殺につながっていきます。

知識人は社会の矛盾に目を向けましたが、身近な所に社会の矛盾があると感じる人々がいました。それは妊娠と貧困の問題でした。
人々はそれまで様々な堕胎の方法を密かに口伝えし、「まびき」でその問題を処理してきました。しかしそれは母胎あるいは胎児を損ない、闇の中で解決されるのみでした。
女性にだけ背負わされたくびきを解き、問題を公然化し、女性の権利の問題として捉えなおそうとしたのが産児制限論でした。
1924(大正13)年新潟の医師荻野久作は、医学界の常識を覆して、排卵があって月経がくるという受胎促進の法則を発表しました。世相はそれを避妊の方法と受け取りました。

アメリカの看護婦出身のマーガレット=サンガーはニューヨークのイースト=サイドの貧民街での過度の妊娠や堕胎を見て産児制限運動を起こし、迫害に抗して運動を続けました。
1922(大正11)年春マーガレット=サンガーは改造社の招きで来日しました。日本は産めよふやせよの政策でしたので、サンガーの講演は医師・薬剤師に対してのみ許されました。その通訳を頼まれたのが、医師の山本宣治でした。
サンガーの産児制限法には誤りも含まれていましたが、山本はサンガーの不退転の決意に感動しました。この年山本宣治はサンガーの著書を批判する学術書との体裁をとって、マーガレット=サンガーの「家族制限法」を全訳しました。
この小冊子は労働者の間で反響を呼び、普及版がつくられました。山本は産児制限の講演に招かれ、しだいに労働運動に関わってゆきます。
良家の子女として学習院に学び、卒業後石本男爵家に嫁いだ加藤シヅエは、夫からの影響で社会問題・労働問題に関心を持つことになります。夫は三井鉱山に就職し、夫婦は数年間三井三池炭鉱に赴任します。夫の勧めで二児を残して、シヅエはアメリカに留学し、1920(大正9)年マーガレット=サンガーに会います。
サンガーに会ったシヅエは坑夫長屋のおかみさんと子供達を思い出し、サンガーの運動についていくことを決意しました。シヅエは1944(昭和19)年労働運動家の加藤勘十と結婚します。

 

1923(大正12)年2月丸ビルができました。その年丸の内には、郵船ビル・日本興業銀行・永楽ビルが竣工し、ビル総数は62棟になっていました。
1923(大正12)年9月1日午前11時58分相模湾北西部を震源とする地震が発生しました。東京で震度7.9を記録し、被害は関東一円に及びました。
地震により家や建物が壊れましたが、それ以上にその後の火事により、物的そして人的被害ははるかに大きくなりました。東京・横浜市と神奈川県下に被害が集中し、壊滅状態になっていました。
この関東大震災の死者は9万1,344人、行方不明1万3,275人、重傷1万6,514人、軽傷3万5,560人にのぼりました。この中で、本所区(現在墨田区)の被服廠跡で4万4,030人が死亡しました。
焼死者がこれほど多いのは、朝食時であったこと、水道が破砕されて消火活動がほとんどできなかったこと、薬品が行き届かなかったこと、突風が起きて飛火したこと、逃げていた人達の荷物に火が燃え移ったこと、そのため退路が妨げられたことが挙げられます。

時の第2次山本権兵衛内閣は後藤新平内相を総裁とする帝都復興院を創設しました。後藤はアメリカの政治学者・歴史学者のチャールス=ビアードを招いて、復興についての意見を聞きました。
ビアードの意見は、道路の建設を第一にし、それまで焼け跡に建設を禁止するというものでした。その結果道路の拡張、京浜運河の新設、公園の増設、築港、土地区画整理などで総額7億円の案ができました。
その後金額の減増額など、また復興院の格下げなどがありましたが、1929(昭和4)年までかかって外形的に東京は復興しました。その過程で江戸以来の中心であった日本橋は、相対的に地位が低下し、かわって多くのビルが残った丸の内が東京の中心になりました。

関東大震災時に、社会主義者が警察で虐殺され、在日朝鮮人と中国人が日本人によって各地で惨殺されました。その数は6,000人にのぼるといわれています。
いうところの主義者や不逞鮮人へのテロは、それを見聞した人々は記録として残そうとしましたが、当時の大方の人々はこの事実を知りながら、なかったように振る舞いました。
この主義者へのテロの主役は警察や軍でしたが、鮮人へのテロは普通の市民でした。植民地を持つ国家の人間として、その地を支配する者の恐怖感が人々を深く冒していました。
関東大震災後の9月16日、無政府主義者の大杉栄、内縁の妻の伊藤野枝、それに甥が憲兵隊に連行されました。甘粕(あまかす)正彦憲兵大尉らによって彼らは虐殺されました。軍法会議の結果、甘粕は懲役10年の刑に処せられました。

 

第1次世界大戦後の日本は、新しい社会思想が現れ、社会運動が新しい段階に到来していました。そのきっかけになったのは、世界的なデモクラシーの勃興、ロシア革命、ウィルソンの14ヶ条、大戦中の国内矛盾の激化と米騒動などでした。
これらの動きは改革の機運だけでなく、反対に危機感をも発生させました。デモクラシーの蔓延による国体の危機、醇風美俗(じゅんぷうびぞく、人情が厚いすぐれた風俗)の危機、ロシア革命による赤化の危機、米騒動で露呈した革命の危機を支配層は感じました。
原敬内閣は思想の統制と善導に力を入れました。1920(大正9)年1月東京帝国大学経済学部助教授森戸辰男が学部機関紙「経済学研究」創刊号に「クロポトキンの社会思想の研究」を掲載し、発行人で同学部助教授の大内兵衛とともに新聞紙法違反で起訴されました。
床次竹二郎内相は浪曲の振興などを通して、思想の善導に力を入れました。更に与党政友会は、遊侠の輩(侠客)による市井(しせい、市中)の秩序を維持する団体として、大日本国粋会の創立に力を貸しました。博徒による社会運動への介入機関として発展して、各地に支部がつくられていきました。

大戦後の日本は、国内的には革命の危機感を強めていました。国際的には非白色人種として、また後進帝国主義国家として先進白色人種帝国主義国家から進路を阻まれていると感じ、更に植民地保有国として朝鮮人や中国人の民族主義運動によって脅かされていると感じていました。
ベルサイユ条約からワシントン会議への国際動向と三・一運動や五・四運動は日本の国際的閉塞感を深刻にしました。大正7から8年流行したスペイン風邪は一層不安をかきたてました。
国内は1920(大正9)年以来世界大戦の戦後恐慌に襲われ、1923(大正12)年の関東大震災によって慢性的な不況に突入しました。
国内外の閉塞感の打破をテロに求めようとする傾向が急速に台頭しました。1921(大正10)年9月安田財閥の創設者安田善次郎は神奈川県大磯の別荘で、同年11月原敬首相は東京駅でそれぞれ刺殺されました。1923(大正12)年12月には病気の天皇に代わって摂政をつとめていた皇太子裕仁(ひろひと、のちの昭和天皇)がアナキストにより狙撃される虎の門事件が起きました。

北一輝は1906(明治39)年著書「国体論及び純正社会主義」で明治国家を痛烈に批判しました。こののち北は中国革命に参加して自分の理想の実現を託そうとしましたが、革命の進展は民族的な自覚を高め、中国革命は排日に向かわざるを得ませんでした。
1919(大正8)年の五・四運動に始まるその動きを上海で眺めた北は、日本の前途に危機感を募らせました。北はこの年の夏、のちに「日本改造法案大綱」として知られる「国家改造案原理大綱」を書き上げました。
国民の革命志向と支配層の腐敗、また欧米列強の圧迫と中国の排日を内憂外患とし、その現状を未曾有の国難とし、その現状を打破するために、憲法の3年間停止を含むクーデター計画を構想し、上部に権力を集中する反面、下部に一種の平均主義を実行しょうとしました。この頃社会主義的改造と国家主義的改造は未分化の状況でした。
世界大戦期から戦後期にかけて天理教・金光教・大本教等の民衆宗教が急速に発展しました。社会が一変することへの人心の渇望でした。

 

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