大正時代

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7.大正時代の北九州
 

1912(大正元)年12月19日東京で第1回憲政擁護大会が開かれました。1913(大正2)年1月17日福岡市で憲政擁護福岡県民大会が開かれました。同年1月24日第2回憲政擁護大会が開かれ、2月13日には小倉市で憲政擁護青年団の政談演説会が開かれ憲政擁護の声が各所にあがりました。2月11日第3次桂太郎内閣は総辞職し、山本権兵衛内閣が成立しました。
護憲運動が活発な1913(大正2)年2月孫文は長崎に着きました。辛亥革命に成功した孫文は中華民国を建国し、北京政府の袁世凱に臨時大総統を譲って来日しました。宮崎滔天(とうてん)を同道して上京し、帰路北九州や福岡に立ち寄りました。
孫文訪日中に革命党領袖の宗教仁が暗殺され、袁世凱が武力支配を企て、中国は再び内戦になりました。革命軍は敗退し、孫文は日本に亡命しました。1914(大正3)東京で中華革命党を結成し、第3次革命に乗り出しました。
1914(大正3)年1月23日、ドイツ・シーメンス社員が海軍高官に贈賄したと一斉に報道しました。シーメンス事件で山本内閣は糾弾され、福岡でも立憲同志会有志主催の海軍問題政談演説会が開かれました。3月24日に山本内閣は退陣しました。

1918(大正7)年9月29日我国最初の政党内閣、政友会の原敬内閣が誕生しました。
1920(大正9)年に第1回国勢調査が行われました。当時激しい物価騰貴と労働争議頻発などの社会不安の中で、全国で普通選挙実施の声が高まりました。2月2日八幡市で日本労友会が八幡製鉄所購買会前広場で普通選挙促進大会を開きました。これは3日後に起こる八幡製鉄所大争議の序章でした。
翌1921(大正10)年11月4日原敬首相は東京駅頭で刺殺されました。次の高橋是清政友党内閣は閣内不一致で総辞職し、1922(大正11)年6月加藤友三郎内閣が成立し、海軍軍縮を手がけました。1923(大正12)年9月1日関東大震災が起こり、翌日第2次山本権兵衛内閣が成立しますが、年末虎の門事件で引責辞任し、1924(大正13)年1月枢密院議長の清浦奎吾内閣が成立しました。
政友会・憲政会・革新倶楽部(のち国民党と改称)の有志達は清浦内閣打倒を目指して第2次護憲運動を開始しました。1924(大正13)年5月総選挙の結果憲政会が第一党になり、6月第1次加藤高明内閣が成立しました。この間普通選挙法が成立し、5月5日に公布されました。
大正末期には無産政党結成が続きます。1925(大正14)年12月農民労働党が結成されますが、直ちに解散命令が出されます。1926(大正15)年3月労働農民党が結成され、同年12月大山郁夫を委員長に左翼無産政党として再出発します。10月に日本農民組合右派などで日本農民党、12月安部磯雄を委員長に社会民衆党、同月三輪寿壮を書記長に日本労農党が誕生しました。安部と三輪は福岡県の出身です。

 

1911(明治44)年出光佐三は、門司市に個人経営の出光商会を開店しました。佐三は1885(明治18)年宗像郡赤間で生まれました。炭坑や工場に機械油を販売しましたが、成果は上がらず、発動機漁船の燃料油の販売に成功しました。他方早い時期から満州に進出し、中国・朝鮮に支店を開設していきました。1940(昭和15)年出光興産を設立し、出光商会は内地担当としました。

大正と改元される直前の1912年6月に製鐵所の隣接地枝光で安田製釘所が操業を開始しました。製鐵所の二次加工工場との関連の最初だといわれています。
1914(大正3)年7月第一次大戦が起こるとヨーロッパの経済は麻痺状態になり、日本もその影響を受けましたが、戦争が長期化するにつれて景気は盛り返してきました。
三菱の2代目総帥岩崎弥之助の次男俊弥は旭硝子を創立しました。旭硝子は戸畑牧山に新工場を建設し、1914(大正3)年7月操業を開始しました。大戦の影響で原料のソーダ灰が不足がちになると、隣接地に工場を新設し、ソーダ灰の国産化に成功しました。

1877(明治10)年頃大阪の砂糖商辰巳屋の神戸支店番頭鈴木岩治郎は、独立して鈴木商店を開業しました。岩治郎の没後は鈴木よねが店主になり、番頭金子直吉が采配を振るいました。台湾総督府民政長官後藤新平に協力して、樟脳専売を実現し、鈴木商店が独占しました。

1903(明治36)年門司大里に大里製糖所を建設し、翌年操業開始しますが、1907(明治40)年大日本精糖に売却し、この資金を拡充資金に当てました。その多くは大里に集中しました。
1912年鈴木商店は大里に帝国麦酒を創立し、翌1913(大正2)年4月醸造を始めました。1929(昭和4)年桜麦酒と改称しました。また1913(大正2)年帝国麦酒用に瓶製造の大里硝子製造所や大里酒精製造所を設立しました。
1915(大正4)年大里酒精製造所の隣に冶金工場を建設し、神戸製鋼所伸銅工場に原料供給しました。1917(大正6)年門司小森江に合金工場を建設し、神戸製鋼所門司工場として銅・真鍮の管・棒・板製造を行いました。

大里の麦酒工場跡


安川・松本家が経営する明治鉱業は明治・赤池・豊国炭坑を経営していましたが、鉱山事業を拡張していきました。1913(大正2)年多久炭坑、1917(大正6)年高田炭坑(粕屋)を買収し、国内各地、朝鮮、中国の満州・華北に各種鉱山・校区を獲得しました。
安川敬一郎の次男の松本健次郎が創設した安川松本商店は、明治鉱業の石炭販売を一手に担っていました。
安川敬一郎の五男の安川第五郎は日立製作所やアメリカのウェスティング社に入社して経験を積み、筑豊の炭鉱への製品納入を念頭に、1915(大正4)年安川電機製作所を創立しました。
輸入に依存していた製鉄・伸銅・製紙用のロールの国産化を目指した松本健次郎は、若松にあった戸畑鋳物の工場を買収し、1917(大正6)年帝国鋳物を創立しました。また松本健次郎は、耐火煉瓦製造の黒崎窯業を1918(大正7)年創立しました。
このほか安川・松本は九州製鋼や九州銑鉄などを創立し、製鉄関連事業に進出しました。

筑豊の石炭産業において、安川・松本、貝島、麻生を筑豊御三家といいます。その名は明治末には確立していました。
貝島太助は、1845(弘化2)年直方の貧農の子として生まれました。8歳から坑夫として働きました。1885(明治18)年鞍手郡宮田の大之浦炭鉱を開き発展しますが、炭価下落により苦境に陥ります。しかし、知り合った井上馨を通じて融資を受け、危機を脱しました。日清戦争の好況にも援けられ、大辻炭礦を買収して、貝島礦業を設立しました。
1916(大正5)年太助が亡くなると、子の太市が継ぎ、太市の妻の兄で、井上馨の姪の子の鮎川義介が顧問になりました。貝島鉱業・貝島商業・大辻岩屋炭礦・貝島木材防腐・貝島乾留・貝島石灰工業・貝島林業などの企業を創立しまし、これらグループ企業を貝島合名が管理しました。

1857(安政4)年麻生太吉は嘉麻郡立岩村(現飯塚市)に生まれました。父は庄屋で、明治初期は戸長を務め、太吉も立岩村長を務めました。1872(明治5)年父とともに目尾炭坑を採掘しました。その後鯰田・忠隈・本洞などの炭坑を開発し、それらを三菱・住友・三井に売却しました。
その資金で、山内・上三緒・綱分・赤坂・吉隈・豆田などの炭坑を開発していきました。石炭の他に、銀行・電力・鉄道・セメントなどの事業に拡大していきました。
事業の多角化による地方財閥になるのは安川・松本が明治末期、貝島が大正10年頃、麻生は昭和に入ってといわれています。
 

田川郡の石炭を小倉に輸送して船積みしょうと、1896(明治29)金辺鉄道が創立されましたが、金辺トンネルが難工事で挫折しました。これを引き継いだのが小倉鉄道で、金辺トンネルを開通させ、1915(大正4)年4月東小倉‐上添田間が開通しました。そして、小倉高浜に石炭積み込みの施設を設けました。
1943(昭和18)年国有化され、国鉄添田線になりました。現在は始発の小倉東駅はなく、次の駅の石田までの路線も変り、ほかに途中の路線変更や延長などもあって、現在は小倉‐日田間のJR日田彦山線になっています。

金辺トンネル


第一次世界大戦による世界的品薄により、日本製品が世界中に浸透し、日本商船はイギリスに代わって世界中で活動しました。大戦景気で世間では成金が続出しました。筑豊は未曾有の石炭景気で石炭成金達は博多で散財しました。
大戦景気で各種の工業が興りました。北九州では重化学工業が新興し、八幡製鐵所をはじめとして既設工場の拡張が行われ、増産されました。
製鐵所は1916(大正5)年度から第3期拡張を行うことになり、東田第5・6高炉を増設し、第3製鋼・第2中板工場を新設することにしました。しかし、小形条鋼・中板・薄板の拡張は民間鉄鋼業と競合し、批判を受けました。
そのため政府は鋼片工場を建設し、その製品を民間に払下げることにしました。このため尾倉海岸に用地を買収しましたが、この買収で地元と紛糾し、製鐵所が船入場を築造し、通用道路を設けることで解決しました。この時から洞岡(くきがおか)の埋立が始まりました。

九州・山口の電燈会社(九州電燈鉄道・九水・九軌・鹿児島電気・山陽電気など)は電球を自給するために、1916(大正5)年小倉市室町に大正電球を設立し、タングステン電球の生産を始めました。のち譲渡し、東京電気小倉工場になりました。1927(昭和2)年には板櫃(現在下到津)に移転し、1939(昭和14)年には東芝の工場になります。

1917(大正6)年日本陶器(現在ノリタケ)を経営していた東京の大蔵和親が、衛生陶器を工業化するために東洋陶器(現在東陶機器)を設立しました。筑豊の石炭と天草陶土・朝鮮カオリンなどの原料の入手が容易で、中国大陸・東南アジアへの輸出が有利な板櫃村篠崎に工場を建設しました。
同年大豆を原料に硬化油・グリセリン・石鹸などを製造する日本油脂工業の工場が、原料輸入を考慮して、若松築港北端に建設されました。社長は松永安左エ門でした。この工場は、1918(大正7)年買収され、日華製油若松工場になりました。
日華製油は、中国大陸や朝鮮半島に工場を建設し、そこで営業していました。若松工場は初めての内地の工場でした。

1887(明治20)年設立された東京製綱は、鋼索(ワイヤロープ)を製造していました。企救郡足立村砂津に小倉製鋼所を建設し、1906(明治39)年に操業開始しました。
1916(大正5)年東京製綱は、小倉市許斐(このみ)町に小倉製鋼所を新設しました。1918(大正7)年浅野総一郎はこの工場を買収し、浅野小倉製鋼所を設立しました。当初は東京製鋼所向けの素材の製造しましたが、のちに電信線やワイヤーロープを製造しました。1936(昭和11)年には小倉製鋼と社名を変えました。戦後は住友金属小倉製鉄所になりました。

朝鮮を本拠とする海運業の中村組は、門司・八幡・徳山で荷役・構内作業を請負っていた下請の磯部組を再建するため、1918(大正7)年山九運輸を設立しました。
山九運輸は、若松での鉄道炭の積出し、石油輸送、海軍の指定業者、土木請負と業容を拡大し、のち製鐵所の運搬請負・製品荷役業者に指名されました。

北九州を横断する九軌の市街電車の開通とともに北九州の呼び名が生まれ、定着していきました。世界大戦の好況の中で、北九州では工業の集積が行われました。
鹿児島本線の沿線沿いに工場が帯状に並び、工場群が形成され、電力網による集積利益が地域結合をもたらしました。こうして北九州工業地帯が形成されました。北九州は京浜・東海・阪神とともに四大工業地帯と呼ばれました。
1918(大正7)年11月第一次世界戦争は終結し、翌1919(大正8)年6月ベルサイユ講和条約が調印されました。株式・綿糸・生糸相場は高騰し、熱狂的な好景気でした。
しかし、1920(大正9)年3月15日株式相場は大暴落し、各種商品相場も暴落し、銀行の取付・休業が相次ぎました。この戦後恐慌で北九州の産業も深刻な打撃を受けました。工場の閉鎖・休業・事業縮小が続出しました。

大戦後の金融不安に対処するため、1923(大正12)年安田系銀行11行の大合同がありました。福岡には百三十銀行、日本商業銀行支店がありましたが、安田銀行になりました。系列の十七銀行は合併には加わりませんでした。
博多商人の太田清蔵が経営する福岡銀行と十七銀行は、地方銀行強化を目指した日銀総裁井上準之助の斡旋で、同年の安田銀行設立前に合併しました。この合併で十七銀行は県内一の銀行になりました。

北九州の電力は、九州電気軌道(九軌)と九州水力電気(九水)が分け合っていました。九軌は火力、九水は水力発電で配電しました。1924(大正13)年両社の顧客獲得競争は激化しました。1925(大正14)年名古屋の東邦電力の北九州進出が明らかになり、三つ巴の競争となりました。
1928(昭和3)年麻生太吉が九水の社長になると、九軌・九水両社の株式の持合を行い、1930(昭和5)年九水が九軌を買収して、九軌は九水の傘下に入りました。

 

日露戦争中に陸軍は4個師団が新設され、戦後2個師団が増設されました。増設されたうちの第18師団が久留米に置かれました。それに伴い小倉の第12師団は編成替えされました。
1914(大正3)年7月第一次世界大戦は起きました。日英同盟により日本も参戦し、ドイツに宣戦布告しました。神尾光臣(みつおみ)中将の久留米第18師団が青島を攻略し、ドイツ軍は降伏しました。青島陥落によるドイツ軍捕虜は福岡と久留米に収容されました。

1918(大正7)年8月2日寺内正毅(まさたけ)内閣はシベリア出兵を宣言し、翌3日小倉12師団・姫路10師団に動員を命令し、派遣軍はウラジオストックに上陸しました。シベリアで孤立するチェコスロバキア軍援助が名目でした。
日本は限定的出兵という各国との協定を無視してシベリアに派兵し、北満からの派兵を含めて3個師団7万2,000人にのぼりました。各国は年末には撤兵しましたが、権益確保を狙って日本は駐留を続けました。
1919(大正8)年2月26日ユフタ付近の戦闘で、田中勝輔少佐指揮の田中支隊が全滅しました。翌1920(大正9)年3月12日尼港事件が起きました。赤衛軍がニコライエフスクの日本守備隊を攻撃し、守備兵・在留邦人600人が死亡しました。日本軍がパルチザンと戦って敗れた手痛い経験となりました。
撤兵は1922(大正11)10月25日に完了しました。失うものが多い4年余のシベリア出兵でした。植民地獲得は幻想で、シベリアで主導権を確保しょうとする日本は、各国から反対され、アメリカとの角逐に終始し、国際的不信を招きました。

第一次大戦後軍備縮小が世論となり、大戦後の不況で財政は窮乏し、転換を図ることが必要になりました。1922(大正11)年陸軍大臣山梨半造大将による山梨軍縮が行われ、兵員の整理が行われました。
更に1925(大正14)年陸軍大臣宇垣一成大将による宇垣軍縮が実施されました。この時点で第20師団まで増設されていたものを、4個師団を削減して、近衛師団以下17個師団に縮小されました。
久留米の第18師団は削減されました。12師団の管区が改正され、福岡・佐賀・長崎の3県と山口県の西部が管轄になり、久留米がその中央に位置するため、師団司令部を小倉から久留米に移転することになりました。これに伴い1個旅団と5個連隊が廃止または移駐し、2個連隊がよそより移駐してきました。小倉の軍都としての地位は低下することになりました。

1898(明治31)年小倉に第12師団司令部が設置されると、小倉兵器支廠が設置されました。1913(大正2)年門司兵器本廠・門司兵器支廠が廃止され、小倉兵器支廠門司出張所に改組されました。
1916(大正5)年小倉城内東側に小倉兵器製造所が開設され、門司兵器製造所は小倉に移転し、大阪砲兵工廠小倉兵器製造所に改組されました。
小倉兵器支廠門司出張所は廃止され、1918(大正7)年小倉兵器支廠は城野に移転しました。
1923(大正12)年陸軍造兵廠が設置され、小倉兵器製造所はその直轄になりました。

 

1910(明治43)年市制施行申請が却下された若松町は、戸畑町との合併交渉に力を入れました。その交渉は一進一退で推移しました。1913(大正2)年若松町は内務省関係者から市制施行の内約を取り付けました。
合併は漸次進めるとして、この年市制施行を申請しました。1914(大正3)年4月1日若松市が発足しました。この年の人口は36,915人、男20,019人、女16,896人でした。

製鐵所の設立以来、八幡町に隣接する遠賀郡戸畑町・黒崎町、企救郡板櫃村には大きな影響が及んでいました。特に黒崎町大字前田と板櫃村大字槻田字荒生田には製鐵所の官舎が建設され、この地域を八幡町に合併しょうとする動きが活発になりました。
背景には製鐵所の希望が働いていました。1916(大正5)年黒崎町前田と板櫃村槻田の一部を八幡町に編入しました。人口は71,519人になりました。
県下で人口は福岡・門司市に次いで3位であり、学校教育施設・上水道・市区道路整備などの事業をを急ぐものが多いとして、この年八幡町は市制施行を申請しました。
1917(大正6)年3月1日八幡市が発足しました。福岡県は7市で全国一となり、2番目の広島県は4市でした。7市のうち4市が北九州に集中しました。八幡市はこの年の年末には人口8万人を突破し、門司市を抜いて、福岡市に次いで県下2位となりました。

1889(明治22)年戸畑村と中原村が合併して、戸畑村になりました。人口1,875人の農漁村で、1899(明治32)に町制が施行されましたが、それでも人口3,019人でした。
その間に幾つかに鉄工所ができ、筑豊炭田の下請工場として炭鉱用具を製造しました。またコークス工場や煉瓦工場ができました。更に隣の八幡町に製鐵所の設置が決まると、戸畑町は工業都市として出発しました。
その後戸畑町の財政悪化が表面化し、若松・戸畑の合併問題、更には八幡・戸畑合併問題も起こりましたが、実現に到りませんでした。
明治鉱業・明治紡績・戸畑鋳物の工場や明治専門学校が戸畑に設置されました。しかし設置の間がなく、町勢発展を助長するまでにはいきませんでした。
旭硝子、明治製糖、東洋製鉄の工場が次々と建設され、1914(大正3)年世界大戦が勃発すると、好景気になりました。町の財政危機は一転しました。一攫千金を夢見て各地から人々が戸畑に押し寄せました。
1921(大正10)年4月12日郡制廃止法が公布され、1923(大正12)年4月1日施行されました。1890(明治23)年5月郡制公布以来36年ぶりの改革で、郡役所は姿を消すことになりました。
郡制廃止が契機になって、戸畑町は市制施行を申請しました。1924(大正13)年9月1日戸畑市が発足しました。

1917・8(大正6・7)年頃北九州では人口の増加、市街地の過密化、その周辺や隣接地への拡散、地価の急上昇、住宅不足、住宅と工場の混在などの問題が起きていました。土地・住宅・衛生・交通・公害などの都市問題が顕在化してきました。しかし、都市の整備が計画的に行われるようになったのは昭和に入ってからになります。

1902(明治35)年のコレラ大流行を契機に、門司市は水道敷設の調査機関を設置し、1905(明治38)年に水源を企救郡中谷村大字頂吉(かぐめよし)字福智渓を水源とする計画が決定されました。
1909(明治42)年福智貯水池、導水・浄水・排水施設の建設に着工し、1912(明治45)年全面給水が始まりました。
しかし急激な都市化と、1923(大正12)年の大里町との合併により水不足が著しくなりました。1925(大正14)年上水道の拡張計画が立案されました。これにより1939(昭和14)年頂吉貯水池が築造されました。
福智貯水池と頂吉貯水池は、現在はます淵ダム内になります。

若松町では飲料水は井戸水、船舶用水は対岸の戸畑町牧山の井戸水が供給され、若松駅の水は直方町からの鉄道輸送に頼っていました。
工場や人口増加により用水不足は深刻化しました。近くに適当な水源がなく、八幡製鐵所が遠賀川からの揚水設備拡張計画があったため、製鐵所と交渉し、原水の分与を受けることになりました。
戸畑町牧山に浄水場を造り、牧山海岸から葛(かつら)島を経て岬(はな)の山海岸に達する洞海湾を横断する鉄管を海底に敷設しました。
若松市になった1914(大正3)年に、牧山浄水場の隣に予備の貯水池を建設しましたが、翌年決壊しました。この決壊で、隣接する旭硝子のアメリカからの新鋭機械が壊れ、市の歳入を超える額の損害を与えました。弁償できず、吉田磯吉が三菱本社に詫びを入れ、弁償なしで解決しました。
吉田磯吉は1867(慶応3)年芦屋で生まれ、遠賀川の石炭輸送の川舟(川ひらた、五平太船)の船頭となり、船頭仲間の中で頭角を現してきました。その後、故郷を出て、京大阪で遊侠の徒と交わり、大親分と呼ばれます。しかし、帰郷して正業につき、炭砿経営や石炭販売に努めます。1915(大正4)年、突如総選挙に出て、衆議院議員に当選します。中央・地方のために尽力したといわれています。火野葦平の小説「花と龍」にも登場します。
入港する船舶の増加や人口の増加により水量が不足し、故障も多く度々断水するため、上水道の拡張計画が立案され、1920〜25(大正9〜14)年に菖蒲谷貯水池・畑谷浄水場が新設されました。

かって農漁村であった戸畑町は、大正初期まで飲料水はすべて井戸に頼っていました。八幡に製鐵所が設置された頃から建設された工場の用水は、若松市から給水を受けていました。

1908(明治41)年九州電気軌道(九軌)が創立され、同時に軌道敷設工事に着手しました。1911(明治11)年6月門司東本町2丁目‐八幡大蔵間が開通し、7月には大蔵川‐黒崎駅前が開通しました。8月には門司東本町3丁目まで延長され、全線が開通しました。この路線がのちに西鉄電車北九州線になります。
大正時代まで交通・運輸の手段は鉄道と船舶でした。
空の便は1924(大正13)年日本航空会社が福岡‐大阪間の定期旅客便を開設しました。翌1925(大正14)年には福岡‐東京間に逓信省の飛行郵便機が飛びました。

 

1918(大正7)年8月3日富山県で起きた米騒動は全国に広がりました。8月15日夜門司市で大群衆が米屋を襲い、家屋を破壊し、略奪しました。食料品店・呉服屋・雑貨屋なども襲われました。
警察署では対処できず、翌16日夜小倉12師団の2個大隊が出動し、鎮圧しました。騒動は戸畑町にも波及し、倉庫・精米所などを襲い、軍隊の出動で平静化しました。
8月17日には炭鉱地域にも波及し、福岡県添田町・山口県宇部村で騒動は発生しました。ダイナマイトを投じる騒ぎとなり、翌18日12師団から出動しましたが、これに対してもダイナマイトを投じて抵抗し、軍も発砲して鎮圧しました。
8月22日から27日にかけて炭鉱騒動は福岡県下に広がりました。

全国的な労働運動の高まりの中で、1920(大正9)年2月5日官営八幡製鐵所は争議に入りました。浅原健三の著書「鎔鉱炉の火は消えたり」で有名な大ストライキでした。
2月4日日本労友会(会員3,000人)のメンバーである職工代表が白仁(しらに)武長官に、臨時手当及び臨時加給の本俸引き直し、勤務時間の短縮、職夫賃金の3割増など5項目を提出し、拒否されました。
5日朝事務所前広場で1万4,000人の工員が職場集会を開きました。全工場でストライキに入り、溶鉱炉も作業中止になりました。
争議発生とともに官憲の弾圧が始まりました。八幡警察署をはじめ応援を含めて500人の警官が動員され、憲兵隊も派遣されて製鉄所内の警戒と鎮圧に当たりました。浅原健三労友会会長・西田健太郎同副会長らが検挙されました。浅原検挙とともに加藤勘十が東京から呼び寄せられ、争議指導に当たりました。
2月8日まで休業が続き、9日から一応作業が再開されました。東京での話し合いは決裂し、2月24日に再度各工場はストライキに入りました。争議は先鋭化し、投石などの破壊行動も起こりました。
職工達は市中に繰り出し、街でデモを行いました。デモ隊は普選実行の示威運動であると叫んだといわれています。
2月24日には加藤勘十らが検挙され、争議は終了しました。3月2日作業は再開されました。8時間労働・三交代制・賃金増などの職工優遇案は大半が認められました。
この年1920(大正9)年5月2日我国最初のメーデーが東京上野公園で行われました。

世界大戦の戦後処理が終わると戦後の不況が訪れ、1920(大正9)年6月アメリカで恐慌が発生し、戦後恐慌は世界中に広がりました。米価暴落は農民にとっては大打撃でした。
農村各地で小作農は団結して、小作料の減免を要求する小作争議を繰返しました。1922(大正11)年4月賀川豊彦・杉山元治郎らによって日本農民組合(日農)が結成されました。日農結成とともに農民運動は政治的色彩を強めていきました。

1922(大正11)年3月3日京都市岡崎公会堂で、全国水平社の創立大会が開催されました。翌年1923(大正13)年5月1日福岡で松本治一郎を委員長とする全九州水平社(のちに水平社九州連合会と改称)が創立されました。
ここに福岡における部落解放運動が本格化し、差別事件の摘発・糾弾闘争・小作争議が頻発していきます。そうした中で福岡連隊事件は起きます。
1926(大正15)年1月10日井元麟之(りんし)は福岡第24連隊に入隊します。入隊後1ヶ月もしないうちに約100人の部落出身者を調べ上げ、兵卒同盟を組織しました。本来軍隊内の差別は日常的でしたが、井元の入隊とともに水平社に連絡され、連隊内の差別問題は表面化し、問題化されました。再三の交渉で、連隊は差別撤廃講演会開催などで水平社と合意しました。
しかし陸軍の大演習の前に、水平社に不穏な計画があるとの情報が流され、福岡県の特別高等警察(特高)は爆破陰謀事件をでっち上げました。1926(大正15)年11月12日水平社九州連合会委員長松本治一郎以下17名が検挙されました。

 

1911(明治44)年医科大学と工科大学が併置された九州帝国大学は、1919(大正8)年の大学令改正で学部と改称されて農学部が加わって3学部となり、1924(大正13)年に法文学部、1939(昭和14)年に理学部が加わり、総合大学となりました。
福岡県には官立高等学校(旧制)がなかったため新設を申請し、1921(大正10)年11月9日福岡高等学校の設置が決まり、翌年1922(大正11)年4月に開校しました。戦後九州大学教養学部になります。
1921(大正10)年戸畑の私立明治専門学校は官立明治専門学校に移行しました。この際、採鉱学科は鉱山工学科に改称されました。
同年西南学院高等学部がキリスト教の専門学校として開学しました。戦後西南学院大学となります。
1914(大正3)年4月行橋出身の国永正臣が福岡市に私立九州歯科医学校を開設しました。1921(大正10)年7月に九州歯科医学専門学校に昇格し、1936(昭和11)年8月小倉市真鶴町に移転し、1944(昭和19)年4月福岡県に移管され、福岡県立医学歯学専門学校と改称されました。戦後は九州歯科大学になります。

大正ロマンを代表する異色の画家竹久夢二が、1900(明治33)年遠賀郡八幡村枝光に移り住み、八幡製鉄所の図工として働きました。八幡製鉄所の創業期で、翌年1901(明治34)年11月18日に作業開始式が開催されました。
夢二は上京するまでの短い期間枝光に住みました。明治から大正にかけては、福岡日日新聞にも寄稿しました。夢二の代表的な作品が発表されるのはその後になります。
 

1922(大正11)年相対性理論のアインシュタイン博士は雑誌「改造」を発行する改造社の招きで来日しました。東京などで講演し、12月24日福岡で講演し、翌25日門司に向かいました。12月29日アインシュタイン夫妻は郵船榛名(はるな)丸で離日しました。

夫妻の宿泊した旧門司三井倶楽部

 

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