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芦屋  
遠賀郡芦屋町  [2015/11/26]
 

   
遠賀郡芦屋町は、北は響灘に面し、遠賀川河口の東西に広がっています。海岸は、東が奇岩、西が白砂青松で、玄海国定公園の一部になっています。芦屋は古くから開かれた土地で、海・川・陸の交通の要衝でした。芦屋町は、大きく遠賀川の東岸の山鹿と西岸の芦屋に分けることができます。

山鹿には縄文時代の遺跡が残されていて、古くからこの地域には人が住んでいたことを物語っています。遠賀川流域と洞海湾岸の遺跡には貝塚があります。海進時、遠賀川流域は海面の上昇により深い入海となり、東の洞海湾と通じ、岬や小島が散在し、複雑な海岸線になっていました。このような遠賀川流域の状態を古遠賀湾、洞海湾も平野部が入海になっていて、古洞海湾と呼びます。古遠賀湾口は広く開いており、それは砂の堆積、季節風や隆起によって砂丘が発達して、その発達によって湾口をせき止め、山から運ばれて土砂が内海を埋め、干潟となり、湿地帯となり、現在の地形となっていきました。この古遠賀湾岸の10m程度の等高線上に貝塚群があります。響灘に面した山鹿貝塚(芦屋町)、その反対に内海深くにある楠橋貝塚(八幡西区)・新延貝塚(鞍手町)・天神橋貝塚(直方市)、古洞海湾岸にある黒崎貝塚・永犬丸貝塚(八幡西区)があります。

縄文人の生活は、照葉樹林から堅果・根茎類を採集し、外洋や内海で漁労し、野山で狩猟していました。一定地域に定住するようになっていて、漁労と狩猟を男が、採集を女が主にやっていたと思われます。住居は地面を掘り、それに屋根をのせた竪穴住居で、それが幾つか集まって集落が形成されました。集落の中央には広場があり、それを囲む住居群がムラになってゆきました。このムラにはまだ身分の差がなかったと思われます。山鹿貝塚からは18体の人骨が発見されていますが、その中で約3000年前の3体の人骨が発掘され、2体は女性で、1体は乳児でした。2体の女性には、大珠のある首飾り、耳飾り、かんざし、貝輪などの呪術的な装身具で飾られ、大自然に恵みが多いことを祈り、自然の脅威から守るための祭祀を行い、ムラの人々から畏敬の念を集めた巫女であると思われます。

山鹿の山鹿貝塚から北東方向の夏井ヶ浜の丘陵地には、縄文・弥生・古墳時代にかけての遺跡が残されています。現在の芦屋町の平地は、これらの時代まだ水面下でした。そして、陸地は砂丘が多く、稲作に不適な土地でした。これらの時代は、芦屋町の西隣の岡垣町に多くの遺跡が残されています。芦屋では大城の台地上に円墳がありましたが、戦時中、陸軍飛行場が建設されたため、石室部分の石組は芦屋町役場の東側の高台に移築復元されています。出土品から5・6世紀のこの地方を支配していた岡県主(おかのあがたぬし)の一族と思われます。

北部九州には神功皇后の伝説が数多く残されています。「古事記」「日本書紀」によりますと、神功皇后は14代仲哀天皇の妃であり、15代応神天皇はその子であり、16代仁徳天皇は孫に当たります。仲哀天皇は九州の熊襲の謀反の知らせで、穴門(あなと)の豊浦の津(山口県下関市)に到着し、角鹿(つぬか・敦賀)にいた神功皇后に穴門に向かうように使いを出します。九州に向かって出発の際、岡県主の先祖、熊鰐(くまわに)が出迎えにやって来ます。岡とは遠賀のことです。岡田神社(八幡西区)には県主の祖神が祀られています。仲哀天皇と神功皇后は関門海峡を通ります。神功皇后は仲哀天皇とは別の船で、彦島から関門海峡を南下し、洞海(くきのうみ・洞海湾)に入って行きます。

仲哀天皇の船は響灘から山鹿岬(若松区遠見ヶ鼻)を回って、岡水門(おかのみなと)から岡浦に入ってきますが、ここで船は進めなくなります。水先案内を務めていた熊鰐は、この浦のほとりの男女二神のせいだと言います。そこで、お祓いをすると、船は前進し、岡浦から上陸します。この二神を祭神とするのが高倉神社(岡垣町)と岡湊神社(芦屋町)です。男神の大倉主は高倉を本拠にした遠賀地方の豪族で、遠賀・企救郡を支配していたと思われます。神功皇后は岡津(芦屋)で仲哀天皇と合流します。

神功皇后は江川を通って岡津に来ました。当時の江川は現在よりずっと広く、深く、この川により山鹿そして若松は、響灘・遠賀川・江川に囲まれた山鹿島とみなされていました。山鹿の名の最初は「日本書紀」に出ています。平安時代初期の観世音寺の荘園の中に、「遠賀郡山鹿林東山」の記述があります。これは塩を作る時の燃料を切り出す山で、若松の東部の山を指すといわれ、若松も山鹿と呼ばれていたことが分かります。

奈良時代、全国の道路網が整備され、駅家(うまや)が設けられ、公務で往来する者に馬や食料が提供されました。特に中央と地方の間を結ぶ経路は、国によって整備されました。これを官道と呼びますが、九州内には大宰府を中心に設けられた官道がいくつかあります。その一つが南隣の遠賀町にあった島門駅(しまどのうまや)を通る官道でした。東隣の駅家は夜久(やく、八幡西区上津役)でした。官道や駅家を望む芦屋競艇場近く、浜口町の月軒の丘にこの時代の建物の跡、月軒(浜口)廃寺跡があります。この時代の芦屋の船着場は島津付近にあったと思われます。

芦屋は古くは葦屋とも書かれ、海人の住む葦で屋根をふいた家に由来するといわれています。平安時代中期、鞍手・嘉麻の豪族粥田氏の一族は芦屋を支配し、物資輸送の基地として遠賀川河口に船着場を設けました。これが芦屋津です。その一族が芦屋に住み山鹿氏を名乗ります。平安末期、山鹿、芦屋を領有する山鹿城主は山鹿兵藤次秀遠(やまがひょうどうじひでとう)でした。遠賀川の側にある城山に、山鹿城は平安中期に築かれたといわれています。

1183(寿永2)年、平氏一門は安徳天皇、生母建礼門院(徳子)を擁して、都落ちして西国に向かいます。九州に入った平氏を原田種直・宇佐公通・山鹿秀遠らが迎えます。拠点を大宰府にする予定でしたが、九州の反平氏勢力が意外と強いことが分かります。そこで、瀬戸内海を中心とする勢力を形成するようにします。その前線基地が一ノ谷でした。九州に入っていた安徳天皇一行は大宰府を発ち、山鹿秀遠の山鹿城を経て、門司区大里に柳御所を構え、その後一ノ谷に向かいます。

平氏は一ノ谷の戦いで敗れ、屋島では平氏はほとんど戦わず、彦島に逃れます。同年3月24日彦島を出て、田野浦(現在北九州市門司区)に集結した平氏の軍船と源氏の軍船の間で戦いが始まります。この関門海峡の潮流の中での戦いを壇ノ浦(現在下関市)の戦いと言います。山鹿秀遠、松浦党等の平氏方の海の勇者の奮戦もむなしく、壇ノ浦で平氏は滅亡します。

山鹿秀遠は平氏方につき、山鹿水軍を率いて奮戦しますが、壇ノ浦で源氏に敗れました。山鹿から出兵した兵と船頭は1000人といわれています。戦いの犠牲になりました。明治の中頃、堂山で石塔が三百数十基見つかりました。これは平家の残党が一門の供養にために建てたといわれてきましたが、地元の壇ノ浦の犠牲者に対し、遺族により建てられてともいわれています。

平氏と運命を共にした山鹿秀遠の領地は没収されます。その後、この山鹿荘には、鎌倉幕府により下野の豪族宇都宮氏の一族が下向し、山鹿氏を名乗りました。山鹿氏から麻生氏を名乗る一族も出て、現在の北九州市の西半分の洞海湾沿岸と遠賀川下流域を含む遠賀郡を支配します。南北朝以降は、麻生氏が領地を支配しますが、北部九州は大内氏、後には毛利氏と大友氏の勢力争いの場になります。

この時代、廻船人や商工民が遍歴する浦・浜・渡・津・泊・宿には寺社が建てられ、関所が設けられました。これらの津・泊には年貢などを保管する倉庫があり、問丸(といまる)と言う人々に管理されました。廻船人や商人の根拠地であり、問丸・酒屋・借上などの金融業者が集まった津・泊は都市を形成していきました。主要道沿線や道と海上交通の接点には多くの宿が成立しました。宿の機能を持つ遊女・傀儡(くぐつ、曲芸・歌舞をする人々)・白拍子(歌舞を歌い舞う遊女)達の屋(や)、接待所と呼ばれた寺院などが集中して都市を形成していきました。

時宗の開祖一遍上人は念仏を唱えるだけで、全ての人は救われると説き、念仏を唱えて念仏踊りを踊り、時宗を布教して、諸国を遊行しました。室町時代初め、時宗の金台寺(こんだいじ)が芦屋に建立されました。創建時は垂間野(たるまの)道場と呼ばれる宗教施設とともに僧や芸能・商工者の宿泊施設でもありました。時宗の信徒を時衆といい、芸能者が多かったといわれます。金台寺の周辺に居住し、念仏踊りで収入を得たり、求めに応じて念仏を唱えて供養をするなど半俗半僧の生活をしていました。

応仁の乱後、連歌師の宗祇は大内政弘から山口に招かれます。大内氏は北部九州を支配していました。1480(文明12)年宗祇は大宰府を訪れる旅に出て、博多、宗像を経て同年10月芦屋に着きます。紀行文「筑紫道記(つくしみちのき)」に芦屋の記述もあります。この時代、麻生氏は芦屋や山鹿の船乗りを支配下に置き、中国や朝鮮に進出して貿易を行っていました。

室町時代、芦屋鋳物師(いもじ)により芦屋釜が鋳造され、茶の湯が広まるにつれ珍重されました。中国から元や明の戦乱を逃れた工人達が渡来し、高度の鋳造技術を日本に伝えました。芦屋には、茶の湯釜をつくるための原料の砂鉄、鋳型をつくるための鋳物土があり、鉄を溶かすための木炭を遠賀川の上流から調達できました。また芦屋津は鉄や他の原料を調達したり、鋳造した品々を運ぶのにも便利でした。芦屋釜は「真形(しんなり)」と呼ばれる端正な姿や優美な文様で茶人の垂涎の的になりました。現在国指定の重要文化財の茶の湯釜は9点ありますが、そのうち8点は芦屋釜です。

芦屋鋳物師は茶の湯釜だけでなく、梵鐘、鰐口、毘沙門像などを鋳造しました。その最盛期は室町時代後期だといわれています。その庇護者は麻生氏であり、大内氏でした。1551(天文20)年、大内氏は家臣陶晴賢(すえはるかた)に討たれます。1555(弘治元)年安芸の毛利元就は陶晴賢を破ります。大内氏が滅亡し、毛利氏に取って代わられます。1587(天正15)年豊臣秀吉は九州を平定します。麻生氏の当主麻生家氏は小早川隆景の与力として筑後に行きました。山鹿城は廃城になり、庇護者を失った鋳物師達は新たな庇護者を求めて四散します。芦屋釜の鋳造は鎌倉時代末期に始まり、江戸時代の初めに途絶えたといわれ、約300年間続きました。

金台寺には二巻の過去帳が残されています。そこから、麻生氏、その家来達、近隣国人領主の香月氏や鋳物師、船番匠(船大工)、紺屋、紙衣屋(かみこや)、念珠屋、桶屋などの職人が中世の芦屋津にいたことが分かります。芦屋釜を鋳造した所を金屋といい、その場所は芦屋橋付近とされ、1993(平成5)年度から芦屋町は調査していました。そこから大量の鉄滓、鋳型、鋳造用具等が発見され、その遺跡を金屋遺跡と呼びます。また1971(昭和46)年、芦屋町役場の新築に際して調査され発見された、旧芦屋小学校跡遺跡の巨大な石塁が旧金台寺の遺構と推定されます。

江戸時代、筑前国は黒田氏の領国になり、福岡(黒田)藩は長崎街道に筑前六宿、藩内主要街道に二十一宿を設けました。芦屋宿は二十一宿の一つで、小倉、若松、芦屋、赤間、そして博多を経由して唐津に到る唐津街道の宿場町でした。芦屋津は福岡藩の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波郡の年貢米の集積地になりますが、のち若松の修多羅に移されます。その後、芦屋津は陶磁器、櫨蝋、石炭等の積出港として隆盛を誇り、「芦屋千軒、関千軒」と下関と並び称せられるようになりました。

黒田長政が筑前に入国した当時、遠賀川は現在の鞍手町と中間市の間で二つに流れが分かれていました。西側は遠賀町虫生津から遠賀町を通って芦屋に流れていました。東側は下流で今の曲川の流れになって、八幡西区三ツ頭で江川と合流しました。そして二つの流れは一緒になって、遠賀川河口になりました。遠賀川が流れる遠賀平野は、豊かな穀倉地帯でした。しかし、遠賀川の河床は高く、蛇行していましたので、度々洪水の被害に見舞われました。黒田長政は、1613(慶長18)年、鞍手郡南良津(ならつ、現在小竹町)から御牧郡(後、遠賀郡)芦屋の河口までの遠賀川(当時の御牧川)の拡幅と直線化の大改修工事を始めました。この当時の遠賀川本流は、現在の鞍手町と中間市の間から底井野を通って旧西川につながっていて、西側を流れていました。

遠賀川の河口部は二つの流れがありました。西は現在の遠賀町を通って芦屋町の祇園橋付近に注ぎました。東は水巻町古賀を経て八幡西区三ツ頭に注ぎました。東の流れで、東西二つの流れの間の猪熊・島津間を、その辺りの排水を目的に、寛永年間掘削が行われましたが、水の流れはほとんどありませんでした。これを1685(貞享2)年拡幅し、古賀で遠賀川に合流していた曲川の排水を円滑にしょうとしましたが、洪水時には、その目的は果たせず、曲川沿岸の村は浸水しました。

遠賀川河口部の猪熊・島津間の水路が、十分機能を果たさず、大水の時に曲川沿岸が浸水するため、立屋敷村庄屋入江喜太郎は、命を懸けて改修工事を郡役所に願い出ました。工事は、1744~50(延享元~寛延3)年までの大工事になりました。遠賀川本流を古賀で堰き止め、猪熊・島津間の水路を本流とし、左岸は広渡から島津、右岸は古賀と猪熊に大土手を築き、河口部を直線的にしました。1763(宝暦13)年堀川は開通し、中間の遠賀川から洞海湾まで貫通しました。1804(文化元)年、遠賀川の上流の楠橋村寿命(じめ)まで堀川は延長されました。

江戸時代に入ると、金台寺の時宗信徒は町内を集団移住させられ、最終的に岡湊神社の神宮寺の千光院内に移住させられ、境内に居住するので、寺中(じちゅう)と呼ばれました。金台寺から切り離され、神社に仕えるために芸能者の傾向が強くなりました。彼らは、芦屋歌舞伎と呼ばれる福岡藩最大の芸能集団になりました。遠賀川流域はもちろん、藩外にも役者達は旅興行を行いました。

遠賀川流域の嘉穂・鞍手・田川郡では古くから薪の代用として、石炭が使われていました。石炭はそのままでは臭気が強いため、粗製コークスであるガラが1730年代には福岡の城下町でも燃料として使われました。若松の庄屋和田左兵衛により塩焼釜のロストル(火格子)が開発され、塩田の製塩燃料としての需要が増えました。このため福岡城下では石炭が不足する事態となり、1788(天明8)年、石炭を統制下に置きました。

遠賀川の水運に使われた川舟は、底が浅く、平たい川艜(かわひらた)が使われ、五平太船とも呼ばれました。荷を多く積み、浅い川を航行できるように造られていました。堀川が完成すると、石炭の輸送は一層便利になりました。1837(天保8)年、福岡藩は、新たに制度を強化した焚石会所を芦屋・若松に設け、松本平内の献策した仕組法により、筑豊の石炭の採掘から売りさばきまで藩直営としました。会所では買取と販売価格を決め、その差額は藩の財政に入れました。抜荷がないように遠賀川を下る川艜(五平太船)には庄屋から証明書が発行されました。

1869(明治2)年の「鉱山解放宣言」により石炭の採掘・販売は自由になりましたが、その取締機能は県に引き継がれました。1872(明治5)年、芦屋・若松の焚石会所が廃止され、石炭の水運の川艜は自由化されました。翌年からは他県移出も認められました。松本平内の親族の一人であった安川敬一郎に芦屋の焚石会所の建物は譲渡され、1877(明治10)年、安川敬一郎はここに石炭販売業の安川商店を開きます。1886(明治19)年には若松に移転し、中央資本と伍した地場資本の筑豊御三家(他は、麻生と貝島)と呼ばれる道を進みます。

1873(明治6)年行政区画の大区の官庁の調所が芦屋に置かれました。1878(明治11)年郡制が施行され、芦屋調所は遠賀郡役所になりました。、当時の遠賀郡は、北九州市の洞海湾に接する西半分と中間市及び現在の遠賀郡を含む区域でした。1875(明治8)年、ここに福岡県第5大区芦屋警察掛巡視所が設置されました。1879(明治12)年芦屋警察署と改称され、若松・黒崎・赤間に分署を置きます。1889(明治22)年若松分署が若松警察署となり、芦屋分署となります。そののち黒崎分署は八幡警察署になり、芦屋分署は折尾警察署になりました。1898(明治31)年郡役所は折尾に移されました。江戸時代から1891(明治24)年まで芦屋村で、1891(明治24)年に芦屋町になり、1905(明治38)年山鹿村と合併して芦屋町になりました。

エネルギー源として石炭の需要が拡大するにつれ、筑豊の石炭が注目を浴び、中央資本も進出してきました。この輸送のために北九州では鉄道と港湾の建設が行われて、近代産業が勃興する基盤が構築されました。筑豊の石炭輸送を目的に筑豊興業鉄道が設立され、1891(明治24)年8月直方-若松間が開通しました。同年2月には、九州鉄道によって現在の鹿児島本線の遠賀川-黒崎間が開通していました。遠賀川を川艜(五平太船)によって運ばれた筑豊の石炭は、江川、洞海湾を経由して若松に運ばれました。しかし明治になって芦屋に鉄道が敷設されなかったため、しだいに石炭積み出しは若松に集中しました。

1900(明治33)年大国座が建てられました。1000人以上を収容する本格的な劇場でした。東京歌舞伎、関西歌舞伎、川上音二郎一座、松井須磨子一座の公演がありました。芦屋歌舞伎と呼ばれた寺中町の芸能集団は。1903(明治36)年解散しました。職業的差別があったことが挙げられますが、経済的なことが大きかったと思われます。自由競争が厳しくなる中、大国座が開館して人々が新しい娯楽芸能に触れ、古典芸能で一座を維持することが厳しくなりました。

1911(明治44)年芦屋鉄道は設立され、1915(大正4)年に開通しました。鹿児島本線遠賀川駅から西芦屋駅を結ぶ全長6.1kmで、軌間762mmの軽便鉄道でした。西芦屋駅は大国座近くに設置されました。しかし、乗合バスとの競合で経営不振となり、1932(昭和7)年には廃止になりました。大国座は1944(昭和19)年に焼失しますが、1968(昭和23)年に再建されました。しかし、経営不振のため1966(昭和41)年解体されました。

明治に入っても、遠賀川は何度も洪水の被害を受けました。遠賀川流域の声は、なかなか政府には届きませんでした。1905(明治38)年の水害では、まだかなりの割合、石炭の輸送を遠賀川の舟運に頼っていたため、川岸に坑口や関連施設があり、炭鉱が大きな被害を受けました。石炭産業発展のため、国営事業として、遠賀川の改修工事が行われました。しかし、石炭輸送の形態もしだいに変っていき、遠賀川舟運の川艜(五平太船)はしだいに衰退の道をたどり始めました。鉄道の安さ、早さ、そして安全に負け、1938(昭和13)年に川艜は姿を消しました。戦後になると、石炭採掘により地盤低下で堤防が下がり、石炭水洗や坑内排水の遠賀川への流れ込みにより、河床が上がって、水害が起こりました。改修工事は続き、炭鉱閉山後も続けられました。

1939(昭和14)年陸軍は芦屋に飛行場建設の工事を始めます。1943(昭和18)年芦屋飛行場は完成します。しかし、1945(昭和20)終戦になり、戦後、芦屋飛行場は米軍に接収されます。廃線になった芦屋鉄道の跡は、1947(昭和22)年の米軍芦屋基地への国鉄芦屋線に利用されます。芦屋線は基地への物資を運びましたが、客車は基地の日本人労働者を運びました。のち普通の乗客も乗せるようになります。朝鮮戦争に際しては芦屋基地は出撃基地になりました。芦屋基地は1961(昭和36)年米軍から返還され、国鉄芦屋線も同年廃止になりました。芦屋基地は返還後、航空自衛隊芦屋基地となりました。現在芦屋基地は町域の1/3を占めています。

遠賀町の催事の案内は、下の芦屋町の公式サイトをご覧ください。
  http://www.town.ashiya.lg.jp/
国道3号線から遠賀川西岸の堤防上にある県道27号直方・芦屋線を北上し、遠賀川河口堰の横まで来ました。これは1982(昭和57)に完成した可動堰です。治水と利水を目的にしています。直線の遠賀川が上流に伸びていますが、江戸時代以来延々と河川の改修工事が続けられてきました。河道も替えられ、毎年のようにあった洪水も、抑えられるようになりました。下流の祇園橋を渡ると芦屋町の市街地に入ります。祇園橋を渡ると道は直進と左折に分かれます。
祇園橋を渡って左折します。商店街を過ぎた所に正門町交差点があり、そこを直進した先に、航空自衛隊芦屋基地があります。一般の人が基地内の入れるのは航空祭の日です。当日は、用意された芦屋競艇場や遠賀川の河川敷の駐車場はいっぱいになります。遠賀川駅からはシャトルバスも運行されます。
   
航空祭の一番の呼び物は、ブルーインパルスのアクロバット飛行です。約40分間の曲技に酔いしれました。  
   
祇園橋の手前まで戻り、橋から直進の道に入って行きます。左手に神社があります。古代、遠賀川河口は岡水門(おかのみなと)と呼ばれましたが、それに由来する岡湊神社です。仲哀天皇の船は響灘から岡浦に入って来ますが、そこで船は進めなくなります。水先案内を務めていた岡県主(おかのあがたぬし)の先祖熊鰐(くまわに)は、この浦のほとりの男女二神のせいだと言います。そこで、お祓いをすると、船は前進し、岡浦から上陸します。この二神が大倉主・菟夫羅媛(つぶらひめ)で、岡湊神社はこの二神を祀っていて大倉社と呼ばれました。のち素盞鳴命(すさのうのみこと)を祀り、祇園社と呼ばれました。
   
岡湊神社の横の道路を隔てて、千光院大蘇鉄があります。島原の乱の際、芦屋より出陣した黒田藩支藩東蓮寺藩(のち直方藩)の藩士が原城内より持ち帰ったものといわれています。ここに明治の神仏分離で廃寺になった千光院がありました。千光院は岡湊神社の神宮寺でした。その境内の寺中町に役者達がいました。  
   
千光院大蘇鉄の南隣に時宗の安長寺があります。当初、空也堂として、役者町の人達が建立したものでした。平安中期、空也は諸国を遊行し、市で念仏の功徳を庶民に広めました。このため、空也は市聖(いちのひじり)と呼ばれました。空也は踊念仏の始祖といわれています。鎌倉時代の一遍は、空也に倣って踊念仏で全国を遊行しました。一遍は遊行上人と呼ばれました。寺中町の芸能集団は芦屋歌舞伎と呼ばれました。しかし、1903(明治36)年解散してしまいました。
   
岡湊神社の鳥居横の駐車場から北に進むと突き当りに中央公民館があります。その裏手の庭へは、建物の中に入らずに、道路沿いの一段高い所を奥に入ります。その奥に、長さ13.8m、幅2.46mの川艜が展示されています。遠賀川の水運に使われた川舟は、底が浅く、平たい川艜が使われ、五平太船とも呼ばれました。荷を多く積み、浅い川を航行できるように造られていました。
川艜は戦前に姿を消しました。この川艜以外は、北九州市八幡西区の折尾高校に保存されているのみです。
川艜については、「八幡のまちかど」の「堀川」をご覧ください。
中央公民館の庭にこれらの石造物が展示されています。
右端の石造宝塔(せきぞうほうとう)は、1956(昭和31)年当時の町役場庁舎建設の際、この地の土中から発掘されました。総高約140cm、花崗岩製で、正面基礎に供養者の男女の像があり、左側面に建武四年(1337)の年号が刻まれています。塔身部には如来座像・四天王立像が刻まれています。
他の石造物は、1977(昭和52)年城山の西側中腹で、公園道路の工事中、宝篋印塔、五輪塔、地蔵菩薩像が発掘されました。南北朝時代の火葬墓群で、領主一族のものと思われます。
 
   
中央公民館から西に進み、白浜町交差点を右折し、次の芦屋町役場前交差点を右折すると、右手に芦屋町役場があり、その前が広い駐車場になっています。見学場所が多く、路地が多いので、車は一時駐車して、この周辺は歩きます。芦屋町役場の東の一段高い所の崖の上に、大塚古墳の石室があります。1943(昭和18)年陸軍飛行場の工事のため、大城にあった5~6世紀の円墳の大塚古墳は発掘され、石室のみここで復元されました。横穴式石棺で、ガラス製小玉を付けた遺体、短甲刀剣を帯びた遺体などが発掘されています。
   
芦屋町役場の東の一段高い坂道を北に昇って行きます。安養寺の裏に当たる所に、この海雲寺(かいうんじ)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は立っています。高さ6m強で、赤味がかった花崗岩でつくられています。1797(寛政9)年の山鹿・芦屋大火の被害者の供養のため、1803(享和3)年豪潮寛海が発願して造立されました。塔身の中に経筒、銅板文が納められています。
豪潮(ごうちょう)は肥後の人(現在の熊本県玉名市)で、天台宗の高僧で、諸国に多くの塔の造立を発願しました。能筆家としても知られています。九州各地を巡り、晩年は尾張徳川家に招かれ、名古屋で亡くなりました。
 
   
芦屋町役場から芦屋橋に向かいます。芦屋町役場付近から芦屋橋にかけての道路の両側は金屋と呼ばれ、往時は、この一帯で芦屋釜が鋳造されました。この一帯で調査が行われ、金屋遺跡の新しい発見もありました。芦屋橋は3代目で、2010(平成22)年に竣工しました。その周辺は整備され、橋のたもとの金屋公園に芦屋の歴史を紹介した展示物が設置されています。
   
江戸時代には橋はなく、芦屋の渡し場がありました。芦屋橋の近くに立っているその跡を示す石碑です。東岸の山鹿と西岸とは舟で行き来しました。この碑の左を北に行くのが唐津街道筋になります。  
   
芦屋橋から遠賀川に平行して北に伸びる道に入ります。道は車が離合するのにやっとの道ですが、古くからの街道筋です。
その通りの右側に石碑が立っています。福岡藩焚石会所跡です。1837(天保8)年、筑豊の石炭の採掘から売りさばきまで藩直営としました。1872(明治5)年、焚石会所は廃止されました。安川敬一郎に建物は譲渡され、1877(明治10)年、安川敬一郎はここに石炭販売業の安川商店を開きます。
   
少し先に行くと、芦屋宿の街道筋の雰囲気の景観になります。ミラーの所から左折します。すぐ先に、街道筋と平行してもう一本の通りが西側にあります。そこも宿場内の通りになります。  
   
街道筋と平行している西側の通りを右折し、少し先を左折して、坂道を昇ります。右手に観音寺があり、左手に金台寺(こんたいじ)があります。金台寺本堂です。1368(応安元)年、金台寺は創建されました。当時、金台寺は垂間野(たるまの)道場と呼ばれていました。時宗の道場は芸能・商工を生業にする人々の拠点としても使われました。その当時は、現在の町役場付近にあったことが分かってきました。金台寺は麻生氏の保護を受けていたと思われます。室町時代の1462(寛正3)年から1588(天正16)年までの記載のある、時宗の信徒である時衆過去帳が残されていて、麻生・香月氏の国人領主や芦屋鋳物師達が記載されています。
   
西側の通りに戻り、北に進みます。突き当たりを右折し東に行きます。先に進むと、川に近い街道筋に突き当たります。この通りはそこを曲がった街道筋になります。道路の横に芦屋警察署跡の石碑があります。1875(明治8)年、ここに福岡県第5大区芦屋警察掛巡視所が設置されました。1879(明治12)年ち芦屋警察署と改称されました。  
   
芦屋警察署跡からUターンし、西に向かいます。この通りに入ってきた所を通り過ぎます。道は上り坂になります。上り切った所の左手に愛生幼稚園があります。そこから右の路地に入った所に遠賀郡役所跡の石碑が立っています。1873(明治6)年行政区画の大区の官庁の調所が芦屋に置かれました。1878(明治11)芦屋調所は遠賀郡役所になりました。
   
路地からもとの道に戻ります。道は下り坂になります。道が一本交差しています。右手に大国座跡の石碑があります。横の建物は幸町公民館で、奥に公園があります。その奥は芦屋中央病院です。大国座は1900(明治33)年に建てられた本格的な劇場でした。1944(昭和19)年に焼失しますが、1968(昭和23)年に再建されました。しかし、経営不振のため1966(昭和41)年解体されました。  
   
先に進みますと、地蔵堂があります。その前に芦屋宿場構口跡の石碑が立っています。江戸時代、若松からここ芦屋に来て、赤間を経由して博多に至る道は唐津街道と呼ばれ、博多から唐津に伸びていました。ここに構口を設け、旅人を監視していました。坂を下りると芦屋小学校前交差点です。その辺りに芦屋鉄道の終点の西芦屋駅がありました。唐津街道はそこを直進し、芦屋基地の中に伸びていました。
芦屋小学校前交差点を左折し、南に行きます。次の芦屋町役場前交差点を左折して、芦屋町役場に戻ります。
   
芦屋町役場から先程の芦屋町役場前交差点、芦屋小学校前交差点を通って北進しますと、右手に中央病院があります。その先の交差点を右折して西進しますと、ウォータースライダーや流水プールがあるレジャープール、アクシアンがあり、夏にはオープンします。ここで「あしや砂像展2015」が開かれていました。テーマは産業革命でした。2015年は明治日本の産業革命遺産が世界遺産に登録されました。官営八幡製鐵所本事務所や遠賀川水源地ポンプ室の砂像もありましたが、産業革命の母国はイギリスです。その巨大な砂像です。
アクシアンの西側は海浜公園です。そこからの眺めです。手前が芦屋海岸です。先の左は岡垣町の海岸です。右の島は宗像市の地島(じのしま)で、間の遠くの島は同じく宗像市の大島です。  
   
中央病院の先の交差点まで戻り、左折して道なりに進むと、なみかけ大橋が遠賀川の最下流に架かっています。なみかけ大橋から南側を見ています。橋は芦屋橋で3代目です。初代は現在より175m上流に、1917(大正6)年に架けられました。2代目は1940(昭和15)年に架け替えられました。江戸時代には芦屋の渡し場がありました。若松から左の東岸の山鹿に来て、渡船で右の西岸に渡り、川の近くを唐津街道が通っていましたので、手前の方に来ました。高台に寺が見えます。橋の東岸近くに小山が二段に見えますが、二段目が山鹿城跡の城山です。芦屋橋の上流で、夏には「あしや花火大会」が開催されます。
なみかけ大橋上から北側を見ています。右側の建物は国民宿舎マリンテラスあしやで、魚見山は魚見公園になっています。国民宿舎の左手の山上に展望台が小さく見えます。左手の先方にあるのが堂山と洞山です。魚見山の下の方は響灘の波によって浸食され、波懸の岸と呼ばれています。冬には大陸からの北西の季節風を受けた波が、この岸に打ち寄せます。波懸の岸には、堂山から遊歩道があります。
なみかけ大橋を渡った先に国道495号線のなみかけ大橋東交差点があり、そこを左折します。すぐ左に魚見公園に昇る道があります。山上には料亭かねやすと国民宿舎マリンテラスあしやがあります。徒歩で国民宿舎の横を昇りますと、広場になっています。そこを更に奥に進みますと展望台があります。展望台から西方向です。手前は遠賀川河口で、その西側に芦屋港があります。その向こうは芦屋海岸です。海岸に沿った松林は三里松原で、その左奥に航空自衛隊芦屋基地があります。三里松原の先からは西隣の岡垣町になります。
魚見公園の展望台から北方向です。後程行く堂山が見えます。
国道495号線に戻り、北に行くとすぐ左手に芦屋釜の里があります。芦屋釜の里は、芦屋釜の歴史をたどり、芦屋釜の復興と茶の湯文化の振興を図る施設としてつくられました。入口正面は、長屋門のつくりになっています。
   
芦屋釜の里に入って右側は資料館になっています。ここでは芦屋釜の歴史が紹介され、室町時代の芦屋釜、工房で制作された茶の湯釜が展示され、その制作工程が紹介されています。  
   
芦屋釜の里に入って左側は立礼席で、有料ですが、抹茶が用意されています。立礼席の前に、地下に埋められた甕に落ちる水音を楽しむ水琴窟(すいきんくつ)があります。立礼席の左奥に、芦屋釜復興工房があります。芦屋釜の里の奥は、日本庭園になっています。池の上に張り出して建てられた、左手の大茶室の蘆庵(ろあん)があります。池の周りは回遊式の日本庭園になっています。その一段高い生垣の中に、露地もある本格的な茶室の吟風亭があります。先方の山は魚見公園です。
芦屋釜の里の前の国道495号線を北に進みますと、すぐに道は右にカーブします。その先に芦屋歴史の里前交差点があります。そこを左折して進むと左手に海の家・柏原漁協活魚センターがあり、食事処になっています。道の正面が堂山です。今は満潮時です。
   
堂山の石段を昇って行くと、左側の高い所に蛭子神社があり、右側の低い方にお堂があります。お堂の左に石塔が並んでいます。1897(明治30)年頃、延命地蔵堂を建立する際、地中から出土した石塔です。地中から五輪塔・板碑・石仏などが出土しました。これらの石塔は、壇ノ浦の合戦後、落人達が平家一門のためにひそかに祀ったものとか、山鹿秀遠の下で多くの犠牲を出した山鹿水軍の遺族が、供養のために祀ったなどの説があります。  
   
干潮で姿を現した堂山の西側の、波に浸食された岩場を歩いて行きます。浸食が激しく、落石のため山際は立ち入り禁止になっています。
   
堂山の先に洞山はあります。洞山は波の浸食で洞穴ができています。洞穴の中に、東側の狩尾岬の先端が見えます。  
   
堂山の東側に波風を防ぐように柏原漁港があります。右端に対岸の狩尾神社の鳥居が小さく見えます。
国道495号線の芦屋歴史の里前交差点に戻ります。斜め前に芦屋歴史の里・歴史民俗資料館があります。ここでは、古代以来の芦屋の歴史が学べるようになっています。
2階の展示室に八朔の馬が飾られています。八朔とは旧暦の8月1日のことです。その八朔の節句に、子供の成長を祈って、初めての男子には藁馬が、女子にはダゴビナ(団子雛)が飾られました。ダゴビナは、まず米粉と水を混ぜ、蒸してすり鉢でこねます。それに色素を入れて、白・黒・緑・桃・黄・水色などの団子を鶴などの動物や花などに形作ります。それらを膳に並べて飾ったものです。現在では、この行事は9月1日に行われ、翌日には子供達が藁馬やダゴビナをもらいに回ります。県内では芦屋だけに残された行事として、この八朔行事は福岡県指定文化財に指定されています。
   
芦屋町最古の遺跡、山鹿貝塚の出土品が展示されています。一室で古代から近代までの歴史を見ることができます。  
   
芦屋釜の里開園20周年・芦屋歴史の里改装10周年記念事業「復興芦屋釜と金屋遺跡展」が行われていました。芦屋釜が鋳造された中世芦屋津の金屋の様子のジオラマが展示されていました。また、金屋遺跡の調査結果が写真と図で説明されていました。
   
江戸時代芦屋の商家の展示で、桑原久子が紹介されています。桑原久子は代々続く商家米伝(こめでん)の女主人として、早く亡くなった夫の跡を継いで、幼い跡取りに代わって家業にいそしみ、隆盛に導きました。桑原久子と同じように、上底井野村(現在中間市)小松屋の小田宅子(いえこ)も、両替・質屋の商家を女主人として経営していました。二人とも伊藤常足(つねたり)から和歌の指導を受けていました。伊藤常足は儒学・国学者であり、教育者でした。1841(天保12)年、桑原久子・小田宅子に2人を加えた女性4人に、従者3人の計7人で、伊勢参りに出発しました。久子51歳、宅子53歳でした。善光寺や日光へも足を伸ばしました。伊勢から先は通行手形を持たないため、裏を抜ける旅でした。久子はこの旅の3年後に「二荒詣(ふたらもうで)日記」を、宅子は10年後に「東路(あずまじ)日記」を書きました。
小田宅子・伊藤常足については、「北九州の近隣」の「中間市・鞍手町」をご覧ください。
 
   
芦屋歴史の里の前の国道495号線を東に進みます。右手に重岡商店があります。その手前を左折します。右手に丘陵地があり、三叉路に出てきました。来た道を振り返っています。左の丘陵地が山鹿貝塚です。遺跡は東西160m、南北約70m、標高12mの砂丘上にあります。山鹿貝塚からは多くの人骨が発掘されていますが、3体の人骨が一緒に発掘されました。2体の女性には、大珠のある首飾り、耳飾り、かんざし、貝輪などの呪術的な装身具で飾られ、大自然に恵みが多いことを祈り、自然の脅威から守るための祭祀を行い、ムラの人々から畏敬の念を集めた巫女であると思われます。数次の発掘調査が行われていますが、それらで解明されたことは、芦屋歴史の里・歴史民俗資料館で展示されています。
   
三叉路の先の左側に、狩尾中継所入口という案内があり、左に入って行く道は8:00~17:00の時間制限になっています。入って行った先は、柏原漁港から見えた海辺の鳥居の一段高い所の駐車場です。その横に行くと、鳥居が立っています。その先の林の中は狩尾神社の参道になっています。狩尾神社の社殿は失くなっています。手前の石段の上には拝殿が、後方の石垣の上には本殿があったと思われます。  
   
駐車場の横の鳥居まで戻り、海辺の鳥居の前まで降りて行きます。そこから狩尾岬の先端付近まで千畳敷が続いています。波に浸食された岩場で、千畳敷といわれる景観になっています。千畳敷は若松北海岸にもあります。満潮になると鳥居の下まで海水が満ちて来ます。海岸横の遊歩道を狩尾岬の先端に進みます。岬の先端近くの東側の眺めです。先方に洞山の洞穴が見えます。その左手のテトラポットの左側は、柏原漁港になります。手前は千畳敷が続いています。
   
狩尾岬の先端にやって来ました。北東の眺めです。左側の島は白島です。中央部分の海に突き出た所は、北九州市若松区の遠見ヶ鼻です。
遠見ヶ鼻については、「北九州のみどころ」の「若松北海岸」をご覧ください。
狩尾岬の先端から東の眺めです。海岸は夏井ヶ浜です。夏井ヶ浜の岬の反対側に、はまゆうの群生地があります。
駐車場まで戻り、狩尾中継所入口を左折して東進し、夏井ヶ浜近くに建っている建物の前を進みます。
夏井ヶ浜の側の坂を昇り、その先を下って行くと、左手の道路脇にはまゆうの群生地があります。8月上旬の様子です。はまゆうは海流によって南方から運ばれたと思われます。花は7月下旬から8月上旬に咲きます。ここは、はまゆうの九州最北端の自生地で、福岡県指定の天然記念物になっています。また、はまゆうは芦屋町の花に指定されています。
この先は八幡西区になり、若松乗馬クラブの前を過ぎて、若松ゴルフ倶楽部の入口への交差点に出ます。
 
   
国道495号線のなみかけ大橋東交差点まで戻ります。交差点を直進し、南に向かうとすぐに右に入る道があります。実はこの細い道が国道495号線です。芦屋町内は、古くからある道が国道になっているため、細い道の方が国道になっている所が結構多くあります。その右に入る道の手前から右折して坂を昇ると法輪寺に到ります。
法輪寺の西の谷から、1927(昭和2)年銅製経筒が発掘されました。1308(徳治3)年の銘があります。銘文に、鎌倉幕府2代将軍で、伊豆修善寺で謀殺された源頼家の子で、非業の死を遂げた千寿丸の供養のために写経を納めたとあります。千寿丸の母は宇都宮氏の出であったので、ここで供養されたと思われます。
   
国道495号線に戻り、更に南に進みます。道が右に曲がる所の先に、大願寺の駐車場があります。そこから大願寺に入って行きます。大願寺は山鹿麻生氏の菩提寺といわれています。本堂側から山門側を見ています。大願寺の山門のすぐ横に、珍しい六角堂があり、六体の仏像が安置されています。  
   
細い国道495号線を進むと、遠賀川沿いに出ます。左折して遠賀川沿いを南下し、芦屋橋の東岸の山鹿交差点に出ます。国道495号線は芦屋橋を渡って行きます。山鹿交差点を直進し、少し南に行った所です。その先は行き止まりになります。遠賀川東岸にあるこの山が山鹿城跡の城山で、現在城山公園になっています。正面が城山公園入口です。坂を上って行くと、すぐお堂があり、そこを左に行きます。突き当たりを右に行き、更に突き当たりを右に行くと石碑が立っています。
   
石碑には、「山鹿兵藤次秀遠之城址」と刻まれています。黒田家第13代当主、侯爵黒田長成(ながしげ)の書によるものです。ここは二の丸で、すぐ南が本丸になります。この城は平安中期に築かれたといわれる古い城です。
山鹿秀遠は平氏方につき、山鹿水軍を率いて奮戦しますが、1185(元暦2)年3月24日壇ノ浦で源氏に敗れました。
鎌倉時代になると、下野の豪族宇都宮氏の一族が入城し、山鹿氏を名乗りました。のち、山鹿城は山鹿麻生氏の本城となりました。1587(天正15)年九州を平定した秀吉は、大名の国替えを行います。しかし、大名になれなかった在地領主もいました。麻生氏も国を与えられず、筑後に移りました。この時、山鹿城も廃城になりました。
 
   
山鹿交差点を右折して東に向かいます。総合運動公園入口交差点を右折し、県道202号水巻・芦屋線を南に進みますと、右手に3階建ての団地の先に、大君交差点があります。そこを左折した先の左手にフェンスに囲まれた所があります。、そこを入った先の正面の山の下に大君(おおきみ)神社の鳥居が立っています。山上の拝殿の奥に石の祠があり、安徳天皇を祀っています。1183(寿永2)年7月、源氏の攻勢により、平氏は都落ちします。8月には平氏は大宰府に入ります。しかし、ここも攻撃され、10月には大宰府を出て、山鹿城に入りました。その時の行宮(あんぐう)が大君にあったといわれ、大君という地名もこのことに由来するといわれています。大君交差点の西側を江川が流れています。かっては、川艜(五平太船)が江川を通って、遠賀川と洞海湾を行き来しました。
江川については、「北九州点描」の「江川」をご覧ください。


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