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下関    
下関市  [2014/05/24] 

 
 
山口県下関市は本州の西端に位置します。関門海峡を間にして対岸は福岡県北九州市門司区で、双方の名をとって関門というように、関門は陸海の交通の要衝として古代より発展してきました。古代、関門は一体になった山で、その下に船が往来できる洞があったと考え、関門海峡は穴戸と呼ばれました。下関側の国名も穴戸でしたが、穴という字を忌み嫌って、長門になったという説もあります。

飛鳥時代の645(大化元)年大化改新以降、律令制が施行されていき、逐次全国に地方行政機関の国府が置かれていきます。長門の国府は、現在は下関市内になっている長府に置かれました。また、山口県の瀬戸内海から関門海峡にかけて、上関(熊毛郡)・中関(防府市)・下関(下関市)が、関門海峡の対岸には門司関(北九州市門司区)が置かれました。律令制度の下、貴族政治が長く続いてきましたが、平安時代末期武士が台頭してきます。平清盛は、父忠盛にならって宋との交流を深め、宋との貿易で財をなしていきます。この貿易路として瀬戸内海と関門海峡が注目されました。しかし、奢れる者は久しからず、源氏に都を追われた平氏は瀬戸内海を敗走し、1185(元暦2)年壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡します。

山口県はかって東の周防と西の長門からなっていて、鎌倉時代には周防には大内氏、長門には厚東氏という有力豪族がいました。南北朝時代に入ると、大内氏は厚東氏を討ち、周防・長門の防長2国を統一しました。室町時代になると、大内氏は中国地方を代表する守護大名となり、北部九州にも進出しました。足利将軍を庇護して、大内氏は明との勘合貿易を独占しました。1551(天文20)年、大内氏は家臣陶晴賢(すえはるかた)に討たれます。1555(弘治元)年安芸の毛利元就は陶晴賢を破ります。1557(弘治3)年豊後の戦国大名大友宗麟の弟が迎えられて大内氏の領主になっていましたが、毛利元就によって討たれました。毛利氏は防長2国を所領し、戦国大名として地位を築きます。北部九州をめぐって大内・大友両氏は争っていましたが、大内氏に代わった毛利氏と大友氏も争いを続けました。安土桃山時代になり、織田信長の夢の天下統一を豊臣秀吉が果たし、徳川家康が引継ぎ江戸時代になります。

豊臣政権下では中国8国を領有していた毛利氏は、関ヶ原の戦いでは西軍で、東軍が勝利したため徳川幕府の下では、防長2国の長州藩藩主になりました。江戸中期から明治初めにかけて西廻り航路に北前船が就航しました。北国で海産物、米、木材を積み、日本海を下り、関門海峡、瀬戸内海を経て大坂に運びました。大坂・兵庫で繊維製品、菜種、塩を積み、下関、山陰、北陸、東北、松前に運びました。日本海と瀬戸内海を関門海峡がつなぎ、下関は西廻り航路最大の中継交易港でした。下関は一大物資の集散地でした。ここから九州各地や四国に船が出ました。また、大坂と長崎をつなぐ航路も下関が中継しました。薩摩の黒糖、長崎からの舶来物が大坂に運ばれ、北国の海産物が長崎から中国に輸出されました。人の面では、江戸時代の朝鮮からの通信使は、12回来航していますが、そのうち8回下関に寄っています。長崎からのオランダ商館長は、陸路小倉に来て、関門海峡を渡って下関に寄りました。両者とも下関から北前船で瀬戸内海を大坂に渡り、陸路江戸に上りました。この他多くの人が下関を訪れました。下関港の繁栄により長州藩は財政改革を行うことができました。

1854(安政元)年再度ペリーが来航し、日米和親条約が締結されました。後、英・露・蘭とも和親条約が締結されました。1858(安政5)年日米修好通商条約が結ばれ、続いて蘭・露・英・仏とも締結され、安政五カ国条約と呼ばれます。翌年長崎・横浜・箱館が開港しました。幕府は攘夷派を弾圧しますが、世の中の混乱を招きます。幕府は公武合体で幕府の威令を回復しょうとし、朝廷に攘夷決行を約束しました。下関は長州藩の支藩長府藩の藩領でしたが、城下町から離れた商人の町でした。幕末、下関の廻船問屋の白石家には、各地の藩で弾圧された志士が隠れたり、藩主の命を受けて江戸に向かう西郷隆盛が泊まりました。坂本龍馬も白石家で薩長同盟を画策しましたが、オランダ商館長も泊まった豪商の屋敷、伊藤本陣に滞在しました。

1863(文久3)年、攘夷期限を期して、門司田野浦に投錨していたアメリカ商船を、長州藩は艦船で砲撃しました。その後も関門海峡航行の外国船に対し各砲台・艦船の砲が火を吹きました。これに対し、列強は報復に出て、長州藩の艦船や砲台が破壊されました。更に翌年の1864(元治元)年、英仏米蘭の四国艦隊による下関砲撃があり、全ての砲台が破壊されました。この後長州藩は、開国・倒幕に転換し、明治維新に突き進みました。

交通の要衝であった下関には、鎌倉時代に関が置かれ、赤間関と称されていました。赤間関は赤馬関とも記され、赤を略されて馬関(ばかん)とも呼ばれました。1889(明治22)年の市制施行時の名称は、赤間関(あかまがせき)市でした。当時の市域は、関門海峡沿いで、東は壇ノ浦に流れ込む御裳(みもすそ)川から、西は小瀬戸に面した伊崎まででした。1902(明治35)年下関市と改称されました。実は赤間関市が発足する以前から、下関の名は一般に使われ、国内外ともに知られていました。

1901(明治34)年山陽鉄道による神戸・下関間の鉄道が開通し、馬関駅が開業しました。同時に門司港とを結ぶ関門連絡船が開始されました。1902(明治35)年市名が下関市と改称されると、馬関駅は下関駅と改称されました。1905(明治38)年には朝鮮半島の釜山とを結ぶ関釜連絡船が就航し、下関駅横の桟橋から発着しました。1906(明治39)年、山陽本線は国有化されました。1942(昭和17)年関門鉄道トンネルが開通すると、下関駅は西側の現在地に移転しました。1945(昭和20)年8月終戦とともに、関釜連絡船は中止されました。1964(昭和39)年関門連絡船は廃止になりました。1958(昭和33)年関門海峡の一番狭い早鞆瀬戸の下を国道トンネルが開通しました。高速自動車道時代を迎えて、1975(昭和48)年早鞆瀬戸の上を高速道路の関門橋が架けられました。

下関市は中核市で、人口は県庁所在地の山口市を超える県下一の都市です。2005(平成17)年の合併で市域も広大になり、南部の関門海峡から日本海側の角島の先で長門市と接し、瀬戸内海側の小月の先で山陽小野田市に接し、内陸部で美祢市と接しています。
ここでは、関門海峡沿いの市街地のうち、下関駅周辺と唐戸周辺を紹介します。  
毎年5月3日の先帝祭で、赤間神宮への上臈道中と参拝が行われます。海峡沿岸の市街地の西から上臈道中が行われ、東の赤間神宮へ進んで行きます。
壇ノ浦の戦いで生き残った平家の女官達は、生活のために春をひさいで暮らしていました。その場所が赤間関稲荷町(現在の下関市赤間町の一部)といわれています。安徳帝の命日に、女官達がきらびやかな衣装で御陵に参ったのが先帝祭の始まりといわれています。
時代が下って江戸時代、稲荷町の遊郭から遊女達の上臈(じょうろう)参拝は行われました。花魁(おいらん)が稚児・禿(かむろ)らを従えて、赤間神宮への外八文字を描きながらの道行は豪華絢爛でした。
   
 
5月3日午後、赤間神宮の水天門から本殿に架けられた天橋を渡って、五人の太夫の上臈参拝が行われます。外八文字を描いての参拝で、悲しくも豪華絢爛の祭事がクライマックスを迎えます。
1986(昭和61)年から5月2日から3日間しものせき海峡まつりが開かれます。唐戸沖から壇ノ浦にかけて、源平船合戦が行われ、武者たちが乗った船が海上をパレードします。
昔からこの期間先帝祭が行われれていて、先帝祭を含んだ海峡まつりとして市街地各地で多くの催事が行われます。
赤間神宮は、海峡沿いの低い山の紅石(べにし)山の麓にあります。朱塗りの門は水天門です。
1185(寿永4、元暦2)年3月24日、彦島を出て田野浦に集結した平氏の軍船と、満珠・干珠の二つの小島の間に集結した源氏の軍船の間で戦いが始まります。戦いは当初平氏有利が、しだいに源氏有利となり、壇ノ浦で平氏は敗れます。平氏一門は海中に身を投じます。安徳天皇・二位尼(清盛の妻)は入水しました。建礼門院(安徳天皇の母)も入水しますが、救い上げられました。入水した幼帝の安徳天皇を祀ったのが赤間神宮です。
水天門の左横に安徳天皇阿弥陀寺陵があります。明治維新後、天皇を埋葬した墓所である御陵となりました。
赤間神宮の本殿です。祭神は安徳天皇で、5月3日の先帝祭と10月7日の例大祭が行われます。安徳天皇は、この地にあった阿弥陀寺に葬られました。明治維新後、阿弥陀寺は廃されて、天皇社と称され、その後、地名により赤間神宮と号されました。  
   
  本殿の手前を左奥に行くと、芳一堂があります。芳一堂に祀られているのが耳なし芳一です。
阿弥陀寺に芳一という琵琶法師がいました。夜毎に平家の亡霊がいずこかに誘い出していました。ある夜、番僧が後を追いますと、平家一門の墓の前で、芳一は壇ノ浦の曲を弾奏していました。周りには、鬼火が飛び交っていました。この様子を番僧は和尚に告げました。平家の怨霊が芳一を誘い出し、ハツ裂きにするのではないかと恐れ、和尚は芳一の身体に般若心経を書き付けました。その夜、亡霊が来て芳一の名を呼びますが、芳一は答えず、その姿は亡霊には見えませんでした。暗闇に見えたのは二つの耳だけでした。亡霊はその耳を取り去って、いずこかに消え去りました。これ以来、人々は耳なし芳一と呼びました。
小泉八雲(1850-1904)の小説「怪談」の中に「耳なし芳一のはなし」は収められて、耳なし芳一は有名になりました。英国人のラフカディオ・ハーンは松江に居住し、小泉節子と結婚しました。その後帰化し、小泉八雲と名乗りました。
   
芳一堂の横に、平家一門之墓があります。前列左から、平教盛・知盛・経盛・教経・資盛・清経・有盛の墓が並んでいます。  
   
平家一門之墓の横の塀越しに下を見ると、安徳天皇阿弥陀寺陵が見えます。
   
赤間神宮の前、国道9号線を挟んだ海側に赤間神宮の駐車場があります。駐車場の先の海に下りて行く石段の横が小公園になっていて、朝鮮通信使上陸記念碑が建てられています。鎖国の江戸時代、朝鮮からの使節団、通信使の本土の最初の上陸地であった赤間関(下関)に、善隣友好を願って記念碑は建てられています。碑文は漢文・ハングル・日本語・英語で書かれています。
駐車場の前の海は関門海峡で、左手に見える関門橋付近が早鞆瀬戸で、早鞆瀬戸に面した下関側の沿岸付近が壇ノ浦になります。壇ノ浦に、「浪のしたにも都のさぶろうぞ」と幼い安徳帝を抱いて、祖母の二位の尼は入水しました。
 
   
  赤間神宮から関門海峡沿岸を、西のJR下関駅まで紹介します。
赤間神宮の西隣に料亭の春帆楼があります。伊藤博文が河豚(ふぐ)を食したのはこの春帆楼で、河豚食解禁のきっかけになりました。ここで1895(明治28)年日清戦争の講和会議が開かれ、清国の李鴻章と伊藤博文・陸奥宗光の間で日清講和条約(下関条約)が締結されました。
春帆楼の前の右横に日清講和記念館が建てられています。日清講和記念館には、会議で使用された調度品や資料が展示されています。記念館の外には会議の日本側代表の伊藤博文と陸奥宗光の銅像が建てられています。
春帆楼の前の左側の石垣の上の小道は、李鴻章(りこうしょう)道と呼ばれています。日清戦争講和会議が春帆楼で行われた折、清国代表の李鴻章が危険を避けるため、宿舎の引接(いんじょう)寺から春帆楼に通った道といわれています。
   
李鴻章道を西に進みます。突き当りの左は下りの階段になり、右の坂道を昇って行くと、藤原義江記念館に着きます。記念館は、紅石山の西端の中腹にあり、山塊は赤間宮の先まで続きます。
藤原義江記念館は1936(昭和11)年に建てられました。この建物は英国貿易商ホーム・リンガ商会の初代フレデリック・リンガが子弟に建てた居館で、当初は臨峡館と呼ばれました。ホーム・リンガ商会の宿舎として建てられた「紅葉館」が老朽化で解体されると、「紅葉館」と呼ばれるようになりました。藤原義江記念館の前に芝生の庭がありますが、そこに白いペンキの洋館「紅葉館」が、1908(明治41)年に建てられました。
1898(明治31)年、藤原義江は、ホーム・リンガ商会の関門営業部門の瓜生商会の支配人、英国人のN・B・リードと琵琶が上手な芸者の母、坂田キクとの間に生まれました。認知を拒否され母方で育ちますが、人に預けられ転々とします。11歳のとき大阪から父を訪ねて下関に来ます。「紅葉館」での父との生活は波乱万丈の義江の生涯の中で夢のような生活だったかもしれません。
 
   
  藤原義江は、父の養育費で東京に移って学生生活をします。演劇に憧れ新国劇に入団していた時オペラに惹かれ、遂にはイタリア行きを決意します。父に援助を請いますと、父は快諾します。しかし、義江のイタリア行きの直前に急死しました。妻と子を日本に残して、父の遺産で洋行します。藤原義江は歌と恋に生きました。イタリア・イギリス・アメリカと巡って3年後の1923(大正12)年に帰国しました。「我等がテナー」と新聞で報道されていた義江は、帰国すると有名人になっていました。人妻だった宮下あき子とスキャンダルの末結婚しました。その間にアメリカビクターで吹き込みをします。1934(昭和9)年藤原歌劇団を創立します。戦後も義江はオペラ界の大御所として活躍します。しかし女性遍歴は続き、あき子と離婚します。あき子は、資生堂に勤務し、タレントとしてテレビに出演し、1962(昭和37)年参議院選全国区で、藤原あきの名でトップ当選します。しかし、1967(昭和42)年病死しました。1976(昭和51)年義江は死去します。享年77歳でした。
建物の前に、アリアを歌う藤原義江のシルエットの風向計が建てられています。下関在住の古川薫は、藤原義江の生涯を描いた「漂泊者のアリア」で、1991(平成3)年直木賞を受賞しました。
   
李鴻章道の西端まで戻り、李鴻章道を行かずに直進して石段を下ります。左折すると菓子店の梅寿軒の前に出ますので、右折しますと通りに出ます。右手に引接寺があります。左折すると、国道9号線の唐戸市場と東隣の市営駐車場間の交差点に出ます。そこを右折して西に行きますと亀山八幡宮があります。
亀山八幡宮は関の氏神として親しまれています。平安時代に創建された神社で、領主の大内氏や毛利氏から崇敬されました。亀山八幡宮の大鳥居の左側に、山陽道の石碑が立っています。ここが山陽道の起点で、九州渡航はこの前の堂崎の渡しからでした。
亀山八幡宮の祭事に五穀祭があります。五穀豊穣を祈念する祭りで、元来は8月の八朔祭であったといわれていますが、明治以降5月に行われるようになりました。八丁浜の開作と関連がありますから次をご覧ください。
 
   
  亀山八幡宮の本堂から左手に行くと、銀杏の神木の下に小さな社があります。お亀さんを祭ったおかめ明神です。500年程前、亀山八幡宮は島でしたので開発しょうとしますが困難を極め、お亀さんが人柱となって海底に消えました。これにより開作された土地を八丁浜と呼びます。お亀さんの功績を讃えて銀杏を植えました。銀杏は戦災にあいますが、焼跡から新芽が出て、現在のように茂っています。下関は、その後もこのような八丁浜を繰り返して発展していきました。
5月3日の五穀祭で、お亀さんの顕彰祭があり、その後亀山八幡宮の前のカモンワーフで、八丁浜総踊りがあります。「八丁浜(はちゃはま)えらやっちゃ、八丁浜えらやっちゃ」の合の手が入り、しゃもじを打ち鳴らして踊ります。そして、博多どんたくで有名な「ぼんち可愛いや寝んねしな 品川女郎衆は十匁・・・」が唄われます。明治20年代、下関の芸者が博多に移った際に、八丁浜踊りのお囃子が伝わったといわれています。
   
ふぐの本場は下関です。亀山八幡宮境内にふくの像があります。下関ではふぐとは呼びません。福に通じるのでふくと呼びます。おいしいが毒をもっているので、ふぐ(河豚)を食べることは禁止されていました。明治20(1887)年頃、伊藤博文首相が下関に来た折ふぐを食べ、そのうまさに驚き、山口県令に禁止を解かさせたということで、河豚食解禁のさきがけとなりました。
幕末、境内には亀山砲台がありました。1863(文久3)年5月11日午前2時頃、久坂玄瑞指揮の下、沖合いのアメリカ商船ペムブローグ号攻撃合図の砲弾を亀山砲台から発射しました。長州藩は海峡航行の外国船を次々と砲撃し、攘夷戦を開始しました。これに対し外国艦船からの報復攻撃を受けました。さらに1864(元治元)年8月英仏米蘭の四国艦隊の攻撃を下関は受けました。四国と停戦協定を結んだ長州藩は、この後攘夷から開国、そして尊王討幕へと進んでいきました。
 
   
 
唐戸の波止場の東端に唐戸市場があります。
唐戸市場の場内です。金土日と祝日に唐戸市場内で、一般の人も新鮮な魚介類を買物することができます。椅子とテーブルが市場内外に用意されますので、豊富な魚介類を材料にした食品を食べることができます。
 
唐戸市場の屋上から西側の眺めです。観覧車の手前の建物がしものせき水族館・海響館です。南部町(なべちょう)の南側を埋め立て、1996(平成8)年完成した下関港東港地区は、アルカディア(理想郷)とポート(港)を合成した愛称のあるかぽーとと呼ばれ、これが町名にもなっています。その埠頭の西端にしものせき水族館・海響館が建設されています。海響館の東側は、唐戸桟橋を中心にした波止場です。手前の唐戸市場から波止場沿いにボードの遊歩道が伸びています。右手の建物は商業施設のカモンワーフです。
左側に白い灯台が見えます。実はもっと左の手前には赤い灯台があります。波止場入口の堤防の西に白、東に赤の灯台に立っています。いつの頃からか、この入口の堤防の左右に並んだ、赤白二つの灯台を恋人灯台と呼ぶようになりました。
唐戸市場の横の関門海峡に面した所に、下関市出身歌手の山本譲二の歌碑が立っています。
歌碑の海峡側には、山本譲二作詞・作曲の「関門海峡」の歌詞が刻まれています。反対側には、自筆で「出逢い 友情 感謝」と書かれ、山本譲二のプロフィールがしるされています。
   
カモンワーフと唐戸市場の間に、ザビエルが下関に上陸したことを記念した石碑があります。1549(天文18)年ザビエルは鹿児島に上陸して、翌1550(天文19)年平戸を経て下関にやって来ました。
山陽道はここまでで、関門海峡を九州に渡る堂崎の渡しがここにありました。古くから下関の海の玄関口がここにあり、江戸時代には往来手形改めの番所もありました。後方右側に、国道9号線の向こうの亀山八幡宮の石垣が見えます。
 
   
唐戸市場の西側に、レストランやショップが入った2階建ての白い建物のカモンワーフがあります。その前に、5月3日亀山八幡宮の五穀祭の八丁浜総踊りのために、参加者が集まっています。
   
波止場内には2つの桟橋があります。この唐戸桟橋からは、関門連絡船や巌流島への船が発着します。唐戸桟橋から門司港には5分で、巌流島には10分で行くことができます。
下関市が明治時代に赤間関市として市制を施行した頃、唐戸は田中川が流れ込む唐戸湾を埋め立てて、市の中心地として開発されました。現在の田中川の河口部は暗渠になっています。
関門連絡船が連絡する門司港レトロについては、「北九州のみどころ」の「門司港レトロ」をご覧ください。
 
   
唐戸桟橋から巌流島へやって来ました。船は大体30分間隔で運航され、10分で着きます。
1612(慶長17)年、船の形に似たこの船島で、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われました。後にこの島は、小次郎の流派名を取って、巌流島と呼ばれるようになりました。この碑の横に、村上元三の「佐々木小次郎」の一節が刻まれた船の形の巌流島文学碑があります。
   
この石碑は、1910(明治43)年島の開鑿工事完成時に建立された佐々木巌流の碑です。桟橋近くの小山側にありましたが、小山の反対側に現在はあります。巌流島には、一番多い時には30軒ほどの家がありましたが、現在は無人島です。現在の巌流島は、決闘が行われた当時より6倍の広さになっています。  
   
 
巌流島は現在整備され、トイレ、休憩所、多目的広場ができ、遊歩道を先に進むと、展望広場や人工海浜があります。展望広場に武蔵・小次郎の像が建てられています。武蔵・小次郎の像は、2002年村重勝久氏作の小次郎像が建てられ、決闘の時と同じように遅れて、2003年廣瀬直樹氏デザインの武蔵像が建てられました。
宮本武蔵については「北九州のみどころ」の「手向山公園」をご覧下さい。
 
唐戸桟橋に戻って来ました。唐戸桟橋の西側がしものせき水族館・海響館です。入口の横に、「ペンギン村」が新設されました。下関には以前より長府に水族館がありましたが、2001(平成13)年しものせき水族館・海響館がオープンしました。
かっての水族館跡には、くじら館があります。長府については、「北九州の近隣」の「長府」をご覧ください。
  入館すると、映像が暗闇に映る所をスロープエスカレーターで4階に上がり、そこから下りて来るコースになっています。まず関門海峡が見える所に潮流水槽があります。関門海峡の下の海中という設定になっています。
天井に魚が泳いでいる海中トンネルを通り、3階に下ります。天井をイワシが群れで泳いでいます。
   
 
3階で、潮流水槽を下から見ることができます。
下関といえばフグですから、色々なフグも展示されていますが、やはりトラフグでしょう。  
   
下関の近海にいる鯨の一種のスナメリです。
   
「ペンギン村」に入って行きますと、屋内では水上と、水中のペンギンを見ることがでします。階下からとトンネルから、水上では想像できない水中の速い泳ぎのペンギンに驚かされます。屋外では、フンボルトペンギンとその巣穴を見ることができます。  
   
  3階から屋外に出て、屋根がある円形の水槽を上から見ています。イルカとアシカのショーがあります。
   
かって下関は南氷洋捕鯨の基地でした。1階にシロナガスクジラの骨格標本が展示されています。体長26mのメスで、1880年代にノルウェーで捕獲されたものです。シロナガスクジラの全身骨格標本の展示は、日本ではここだけです。  
   
しものせき水族館・海響館の西隣に、アミューズメントパークの「はい!からっと横丁」があります。2013(平成25)年9月オープンしました。
唐戸の波止場の前の国道9号線の唐戸交差点の東側に、旧下関英国領事館があります。1906(明治39)年イギリス人の設計で、英国製赤レンガを使って建てられました。1941(昭和16)年に領事館の役割を終えました。国の重要文化財に指定されています。
   
唐戸交差点の反対の西側に、旧秋田商会ビルがあります。海運会社の事務所兼住居だった旧秋田商会ビルは、1915(大正4)年に建てられ、2・3階が住居で、屋上に茶室や日本庭園があります。現在は観光情報センターになっています。  
   
  旧秋田商会ビルの西隣に、下関南部町(なべちょう)郵便局があります。レンガ造りの郵便局は、1900(明治33)年建築の国内最古の郵便局舎で、現在も現役の郵便局として使われています。
   
下関南部町郵便局の前を少し西に行き、次の交差点を右折し、さらに次を左折して西に行くと、金子みすゞ顕彰碑があります。奥は寿公園です。公園の左の道は港がみえる丘の径という散策路になっています。
1903(明治36)年山口県大津郡仙崎村(長門市仙崎)に金子みすゞは生まれました。生家跡に金子みすゞ記念館ができています。
20歳の時、母の再婚先の下関市西南部町の上山文英堂に移り住み、西之端町の同店の支店で働き始めました。この頃より詩をつくり、金子みすゞのペンネーム(本名金子テル)で投稿し、雑誌に掲載されました。作品は西条八十に絶賛されました。しかし、詩作を結婚相手から禁止されたり、病気をうつされたりして、1930(昭和5)年下関で自らの命を絶ちました。26歳の薄幸の人生でした。一時世の中から忘れ去られていましたが、矢崎節夫氏の手で512編の詩が発見されました。みすゞの詩は読んだ人々に感動を与え、次々と伝えられていきました。
 
   
  唐戸地区を離れて国道9号線を西に向かいます。1996(平成8)年海峡メッセ下関はオープンしました。国際貿易ビル、アリーナと地上30階の海峡ゆめタワーからなっています。
海峡ゆめタワーは153mの高さで、球形の展望室は3層になっています。最上層の展望室は30階で、143mからの展望になります。
   
海峡ゆめタワーから東方向の眺望です。手前の港は下関港本港の細江地区で、その先は岬之町(はなのちょう)コンテナターミナル、あるかぽーとです。あるかぽーとの先は唐戸地区です。その先の壇ノ浦に、関門海峡を門司とつなぐ高速道の関門橋が架かっています。
海峡ゆめタワーから南方向に巌流島が見えます。巌流島は当時は1万7,000u、現在は10万3,000uで、決闘当時の6倍の面積になっています。手前の左右に細長い部分が本来の島で、その先は埋立てられて、かっては住人がいましたが、現在は無人島です。
巌流島の右上に張り出しているのは彦島です。巌流島の向こうは関門海峡の大瀬戸で、その先の対岸は門司駅付近の大里地区です。
 
海峡ゆめタワーから西方向の眺望です。先方の水路が小瀬戸で、対岸は彦島です。小瀬戸は1937(昭和12)年左方向で締め切られ、現在関門海峡の潮流はありません。1932(昭和7)年着工し、小瀬戸を締め切り、1942(昭和17)年下関漁港は完成しました。小瀬戸を出た所は響灘で、左手の彦島の西端に、ふぐのセリで有名な南風泊(はえどまり)港があります。ふぐの水揚げ量日本一を誇ります。南風泊は、江戸時代、北から来た北前船が関門海峡を通り抜ける際、強い南風を避けるための停泊地でした。右手の響灘に六連島が見えます。
海峡ゆめタワー直下の西側です。右端の道路が国道9号線です。その左側が下関駅前の通りで、人工地盤(ペデストリアンデッキ)が見えます。左側の船が停泊している所が下関港国際ターミナルです。
海峡ゆめタワーを含む海峡メッセ下関の西側は、イベント広場の海峡ゆめ広場になっています。その南西角に、下関鉄道桟橋跡の碑があります。
神戸・下関間を開通した山陽鉄道により、1901(明治34)年馬関駅はここで開業しました。同時に門司港とを結ぶ関門連絡船が開始されました。1902(明治35)年市名が下関市と改称されると、馬関駅は下関駅と改称されました。1905(明治38)年には朝鮮半島の釜山とを結ぶ関釜連絡船が就航し、下関駅横の桟橋から発着しました。1906(明治39)年、山陽本線は国有化されました。1942(昭和17)年関門鉄道トンネルが開通すると、下関駅は西側の現在地に移転しました。1945(昭和20)年8月終戦とともに、関釜連絡船は中止されました。1964(昭和39)年関門連絡船は廃止になりました。関門連絡船・関釜連絡船のために、1914(大正3)年に本格的な岸壁が築造されたのが下関鉄道桟橋でした。
1970(昭和45)年、釜山との間に関釜フェリーが就航しました。現在、下関港国際ターミナルから発着します。
 
   
  下関駅の東方向のかって国鉄用地であった細江地区は、再開発されました。その方向に人工地盤は延伸されています。人工地盤jが南方向に伸びています。その先に下関港国際ターミナルがあります。ここから韓国釜山、中国青島及び蘇州への航路があります。
   
再開発された細江地区に海峡ゆめタワーを含む海峡メッセ下関はあります。そこから人工地盤を通って下関駅方面に進みます。左手の下関港国際ターミナル方向への人工地盤を過ぎると、正面が下関駅になります。  
   
  JR下関駅ビルを駅前の人工地盤の上から眺めています。1942(昭和17)年、世界初の海底鉄道トンネルである関門鉄道トンネルが開通すると、駅を西のここに移転して、三角屋根の特徴のある木造二階建ての駅舎を建てました。しかし、2006(平成18)年1月の放火事件で駅舎は焼失しました。その後、駅機能は回復していて、放火事件以前から計画があったJR下関駅ビルが建設され、2014(平成26)年3月16日開業しました。旧駅舎の三角屋根のデザインを駅ビルの正面に取り入れています。
   
 
人工地盤の下関駅前広場から、東の海峡ゆめタワー方向を眺めています。右側、南側に1977(昭和52)年、複合商業施設のシーモール下関が開業しました。シーモール下関は百貨店の下関大丸や大型店が入ったシーモールエスト、専門店街等からなります。左の建物は、結婚式場グランドパレス セントヴァレンタインです。1994(平成6)年、下関駅前に人口地盤が完成し、駅前の建物と連絡しています。


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