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長府    
下関市  [2011/01/29]
 

長府(ちょうふ)は古代長門(ながと)の国府があった所で、地名はそれに由来します。江戸時代には毛利氏の長州藩の支藩、長府藩が置かれました。その城下町の趣が現在も残っています。
長門は本州の西端にあり、北・南・西が海に面し、東が周防(すおう)、東北は石見(いわみ)で、南西は関門海峡を挟んで、九州の豊前になります。長門は初め穴戸・穴門(あなと)と記され、それは関門海峡を表していました。
九州の熊襲の謀反の知らせを受け、仲哀天皇は穴門の豊浦(とよら)の津に到着し、敦賀にいた神功皇后に穴門に向かうように使いを出しました。神功皇后も豊浦に着き、豊浦宮(とよらのみや)を建てました。
大化改新前に、長門国には地方官の穴門国造(あなとのくにのみやっこ)と阿武国造が置かれました。穴門国造の支配区域は豊浦郡を中心に、厚狭郡(あさぐん)、美祢郡(みねぐん)に到っていました。長府は豊浦郡にありました。平安時代この地にも豪族が台頭し、割拠したため、豊浦郡(とようらぐん)は豊西郡(ぶんざいぐん)・豊東郡(ぶんとうぐん)・豊田郡(とよたぐん)に分立し、江戸時代まで続きます。
南北朝時代になると厚東氏が長門守護になり、長府に入りますが、その後大内氏に厚東氏は追い出され、大内氏が長門守護として長府に入ります。室町・戦国時代最盛時には6国を支配していた大内氏も、戦国時代毛利氏に滅ぼされます。。毛利秀元は輝元の養嗣子でしたが、嫡子秀就(ひでなり)が生まれると別家を興し、山口を本拠に20万石を領有していました。しかし、毛利輝元が関ヶ原の戦では豊臣方についたため、領地を減封され、長門・周防の二国のみになりました。秀元は長府に移り、豊西・豊東・豊田郡で長州藩の支藩、長府藩が成立しました。5万石の領内には、赤間関(あかまがせき、下関)・長府の町方と豊浦・東豊浦・西豊浦・厚狭の郡方ありました。赤間関(下関)は関門海峡に面する交通の要衝で、城下の長府から離れた独立の商人町を形成しました。その経済的地位から、幕末には本藩の長州藩は直轄地にしょうとするほどでした。
3郡に分かれていた豊浦郡は江戸時代の1664(寛文4)年に統合されました。江戸時代、長府は城下の府中と長府後地からなる豊浦郡長府村でした。明治になると、府中は豊浦町になり、長府後地は豊浦村になりました。1889(明治22)年、豊浦町、豊浦・高畑・前田村が合併して長府村が成立しました。1911(明治44)年長府村は長府町になり、1937(昭和12)年長府町は下関市に併合されました。
車で北九州から長府に行くには、関門トンネルか高速道の関門橋を通って、下関インターから国道2号線を進みます。印内交差点を左に行けば国道2号線を北に進みます。右に行けば国道9号線を南に進み、長府を南下します。下関の市街地からは、関門海峡沿いを東に進んだ所になります。国道9号線沿いに下関市立美術館が見えます。その手前の交差点を右に入ると、道路を挟んで左が美術館で、右に長府庭園があります。
長府庭園は長府藩家老、西運長(にしゆきなが)の屋敷跡です。
長府庭園には書院・茶室・あずま屋が残されています。庭は回遊式日本庭園です。池があり、その水を利用した滝と流れがあります。
長府庭園には桜・松・つつじ・もみじ・菖蒲などが植えられていて、四季折々が楽しめます。
長府庭園から国道9号線の交差点に戻ります。交差点の反対側は豊浦高校の正門です。国道9号線を北に進み、次の交差点を左折します。道は左に曲がります。その先は、左右に城下町の趣がある練塀が続きます。先に坂が見えますが、その手前から右折する道があります。そこを右に入って行きます。
右折すると北に真っ直ぐな道が伸びています。この付近は侍町(さむらいまち)です。藩政時代には上級家臣の役宅がありました。
この通りの途中の左手に、旧野々村家表門があります。野々村家は130石の馬廻格の家柄といわれています。
通りを北に進むと、壇具(だんぐ)川に架かった橋のたもとの左手に長府藩侍屋敷長屋が建っています。家老職西家の分家で、220石の長府藩馬廻役の武家長屋を移設したものです。
壇具川沿いの石畳の道を上流、西に進みます。神功皇后伝説によりますと、この地で皇后が祭祀を行い、その際の祭壇と祭具をこの川に流したといわれています。
道を左に曲がると、山門が見えます。笑山寺(しょうざんじ)です。長府藩初代藩主毛利秀元により建立されました。
毛利秀元は毛利元就の孫に当ります。毛利元就の四男毛利(穂田、ほだ)元清の次男として生まれ、毛利藩の支藩長府藩を興しました。
笑山寺境内に十三重石塔が立っています。鎌倉時代後期の特徴が残された石塔です。
笑山寺前の橋を渡ると功山寺が見えてきました。
鎌倉時代に創建された寺で、当初長福寺と称し、足利氏・厚東氏・大内氏の崇敬を受けました。毛利元就に追われた大内義長が、ここで自刃しました。
功山寺は一時荒廃していましたが、長府藩祖毛利秀元により修営されました。二代藩主光広により、秀元の霊位が安置され、秀元の法号に因んで、功山寺と改称されました。
この大きな山門は、江戸時代に再建されました。最初の門からこの山門までの間は、新緑や紅葉がきれいな所です。
山門をくぐると、正面に仏殿があります。仏殿は、鎌倉時代に建てられた唐様建築で、美しい典型的な禅宗様式として国宝に指定されています。
仏殿の背後は墓地になっています。右奥は藩主の墓所になっています。左の奥に行くとたくさんの墓石が並んでいますが、その一角に三吉慎蔵(1831-1901)の墓があります。
長府藩士三吉慎蔵は宝蔵院流の槍の使い手でした。坂本龍馬と知り合い、1866(慶応2)年1月藩の命令で龍馬と共に情勢を探りに京都に入ります。共に身を潜めていた伏見の寺田屋が伏見奉行の配下に踏み込まれます。慎蔵は槍を奮って応戦しますが、龍馬は負傷します。龍馬を材木小屋に隠し、慎蔵は単身脱出して薩摩屋敷に救援を求め、窮地の龍馬を援けました。この寺田屋事件は「三吉慎蔵日記抄録」に詳しく記されています。その後、翌年龍馬が長崎から高知に戻る際、妻お龍を廻船問屋伊藤屋に預け、後事を慎蔵に託しました。大政奉還があった後の1867(慶応3)年11月15日龍馬は中岡慎太郎とともに京都近江屋で暗殺されます。翌年3月慎蔵はお龍を高知の坂本家に送り届けました。大河ドラマ「龍馬伝」では、筧利夫が三吉慎蔵を演じています。
維新後、宮内省御用掛に就き、北白川宮家の家令を務めた後、辞して晩年は長府で過ごし、1901(明治34)年に没しています。
功山寺境内に馬上の高杉晋作の像があります。1864(元治元)年12月15日夜半、高杉晋作は功山寺で挙兵しました。その時の高杉晋作の姿をこの像はあらわしたものです。
幕府と対峙していた長州は、この年禁門の変で敗れ、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国艦隊から下関は砲撃を受け、戦わずして幕府軍の第一次長州征伐に敗れました。藩内は保守派が台頭していました。前年都落ちしていた三条実美ら五卿も、大宰府に移されることになっていましたが、その前にこの功山寺に滞在していました。そこで、功山寺で高杉晋作は挙兵したのでした。奇兵隊の力を背景にしたこの挙兵により、高杉晋作らは藩の実権を握り、倒幕へと向かいました。
3年後の1867(慶応3)年4月15日、高杉晋作は明治維新直前に病死しました。享年29でした。
功山寺仏殿の左隣に下関市立長府博物館があります。この建物は、1933(昭和8)年長府藩士の家に生まれた実業家の桂弥一が、長門尊攘堂として建設したもので、戦後博物館として活用されています。長府毛利家遺品や幕末維新関係の資料が展示されています。
長府博物館の左手に万骨塔があります。長門尊攘堂と同じく、桂弥一が建設しました。有名・無名の勤皇の志士を府県別に祀った慰霊塔です。「一将功成って万骨枯る」の石碑と全国から寄せられた石が供えられています。
功山寺の門前を左に曲がり北に進むと、長府毛利邸があります。長府毛利家14代当主元敏(もととし)により建てられました。1898(明治31)年着工し、1903(明治36)年に完成しました。長府毛利邸は完成後、1919(大正8)年まで長府毛利家本邸として使われました。
1902(明治35)年、明治天皇が熊本での陸軍特別大演習にお出での際に、長府毛利邸は行在所(あんざいしょ)して使われました。
長府毛利邸には書院庭園・枯山水庭園・池泉回遊式庭園があります。左に見える石灯籠の左手にある書院庭園は邸内から見るだけですが、前に見える枯山水庭園と奥の池泉回遊式庭園は庭に出ることができます。
長府毛利邸を出て、横の道を左折してに北に行くと、石畳の古江小路が右、東に伸びています。左右に石垣の上の練塀が続いています。
左に長屋門があります。侍医を勤めた菅家の長屋門です。
古江小路に入ったもとの道に戻り、さらに北に進みますと、左手に長府中学校の校門がある交差点に出ます。そこを左折します。一段上に中学校の敷地がある通りを進むと、アパートが2棟ある前に右折の下り坂の道があります。そこを右折して行くと、左手に覚苑寺(かくおんじ)があります。
その境内の参道を進みますと、右手に狩野芳崖の像があります。狩野芳崖(1828-1888)は長府の狩野派の絵師の家に生まれました。明治期に活躍した代表的日本画家で、岡倉天心、橋本雅邦らとともに日本画の近代化を推進しました。「悲母観音」はその代表作です。
覚苑寺本堂が見える石段の右下に、長門鋳銭所(ちゅうせんしょ)跡の石碑が立っています。覚苑寺一帯は、奈良・平安時代に鋳貨を鋳造した工房跡で、国指定史跡になっています。奈良時代の和同開珎(わどうかいほう・かいちん)や鋳貨鋳造用具が出土しています。
石段を昇ると覚苑寺本堂です。覚苑寺は黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で、3代長府藩主毛利元綱により建立されました。本堂は、1794(寛政6)年に三田尻(現防府市)の黄檗宗海蔵醍醐寺の本堂として建立されたものを、1875(明治8)年に移築したものです。
覚苑寺本堂の裏手に乃木希典(のぎまれすけ)大将の像が立っています。
覚苑寺の前の道を真っ直ぐ進みますと、十字路に出ます。手前左角に、国分寺跡の石碑が立っています。奈良時代聖武天皇が国家平安を祈願して諸国に建立した国分寺のひとつです。ここから北にかけてが寺域でした。大内氏・毛利氏の庇護を受けましたが、明治維新後寺勢は衰え、1890(明治23)年下関市南部町に移転しました。
十字路の向こう右角にあるのが吉岡家長屋です。この長屋は江戸後期の建築と思われます。ここには長府藩馬廻大久保家の屋敷がありました。
十字路を右折して進みますと、左手に横枕小路があります。狭い小路に練塀が続きます。左の塀の内は乃木神社の境内になります。
横枕小路を通り抜けると、忌宮(いみのみや)神社の幾つかある小さな鳥居の一つの前に出ます。そこを左折しますと乃木神社の鳥居の前に出ます。日露戦争での203高地攻撃の司令官で、のち学習院院長を務め、明治天皇に殉じた乃木希典(1849-1912)を追慕して、1919(大正8)年乃木神社は創建されました。後、静子夫人も合祀されました。
203高地の戦闘中は乃木無能論もありましたが、乃木自身2人の息子を戦いで亡くし、敵将スッテセルとの水市営の会見における紳士的な乃木の態度などで武人の鑑として、その名を高めていきました。後、学習院院長に就き、昭和天皇の教育にも携わりました。
乃木神社本殿の裏手に乃木大将御夫妻像が立っています。
1912(明治45)年7月30日午前0時43分明治天皇崩御と発表されました。数えの61歳でした。9月30日御大葬が執り行われました。この日陸軍大将乃木希典・静子夫人が殉死しました。
1877(明治10)年、乃木少佐は陸軍14連隊(小倉)連隊長心得として西南戦争に出動しますが、戦闘中連隊旗を薩摩軍に奪われます。乃木は責任を感じて自決を試みますが周囲に押し止められました。このことは終生心にあり、殉死の理由といわれています。日露戦争で2人の息子を亡くし、多くの戦死者を出し、その責任から自決を申し出た乃木に対し、明治天皇は乃木に対し自分の子のように教育するように学習院院長に就任させ、自分が死ぬ前に死んではならないと命じたといわれています。
乃木神社本殿の裏手、左奥に行った所に乃木旧居があります。乃木神社創建以前の1914(大正3)年に復元されました。乃木希典は1849(嘉永2)年江戸長府藩邸で生まれ、10歳の時父と共に長府に戻りました。旧居は6畳と3畳の2間に土間という狭い家屋です。6畳間に3体の木像があり、父母と希典で、父から訓話を受けている様子をあらわしています。
横枕小路の前の忌宮(いみのみや)神社の鳥居に戻り、その西の鳥居から神社境内に入って行きます。右手に集童場場長室の小さな建物があります。集童場は長府藩士熊野則之が1864(元治元)年古江小路の益田邸に開いた、藩内の子弟の教育のための私塾でした。その古江小路にあった場長室を、1928(昭和3)年ここに移築しました。乃木希典や長門尊攘堂の桂弥一などが塾生でした。
集童場場長室の前に豊浦皇居趾の石碑が立っています。
仲哀天皇は熊襲平定のため、この地に豊浦宮を建てました。仲哀天皇と神功皇后は九州に向かいます。途中仲哀天皇は香椎宮で急死します。神功皇后は朝鮮へ出兵し、帰国された神功皇后は出産されます。出産されたのは男児で、後の応神天皇です。この後、神功皇后は豊浦宮に戻ります。北部九州には神功皇后の伝説が数多く残されています。
忌宮神社は、豊浦宮の跡といわれている地に、仲哀天皇を祀りました。その後神功皇后を祀って忌宮とし、応神天皇を祀って豊明宮として三殿別立でしたが、中世兵火で焼失した後は忌宮に合祀しました。忌(いみ)は斎(いみ)と同意で、神霊の奉斎を意味します。
忌宮神社は長門国の二の宮で、一の宮は住吉神社(下関市一宮住吉)です。
忌宮神社の社殿の前の門を出て、石段を下りると、広場になっています。そこに鬼石があります。
熊襲に扇動された新羅の塵輪(じんりん)が豊浦宮を攻撃しました。仲哀天皇は自ら弓を手にとって塵輪を射殺しました。歓喜の兵士達は塵輪の屍の周りを矛をかざし、旗を振って踊りまわりました。塵輪の顔が鬼のようだったので、塵輪の首を埋めて覆った石を鬼石といいます。
神功皇后の朝鮮出兵や凱旋の折、鬼石の周りで踊ったのが数方庭祭(すほうていさい)の起源といわれ、8月7日から13日まで毎晩行われる祭りです。
鬼石のある広場から石段を下りると、大鳥居が立っています。そこを出て左折して進むと商店街に出ます。そこを左折して進みます。その通りは乃木神社の参道前に当たり、乃木さん通りと名付けられています。その通りにお寺が幾つかありますが、その中の正円寺の境内に天然記念物の大イチョウがあります。
1766(明和3)年正円寺の本殿が建立された際イチョウの大木が伐採されました。その残された根元から枝が伸び現在の姿になっています。正円寺大銀杏樹は下に気根が垂れ、3mの高さから枝が四つに分かれて伸びています。枝から下は樹齢が1,000年にもなるといわれています。
乃木さん通りを戻ります。忌宮神社から出てきた地点に戻りますが、そのまま通り過ぎて進みます。壇具川の橋を通り、侍町を過ぎ、国道9号線の交差点に戻ります。そこを国道を横断し、右手に豊浦高校の校舎、左手に運動場の間の道を東に進みます。
豊浦高校を通り過ぎて、道が上り坂になる所の右手に櫛(串)崎城址石垣があります。
坂道を登りますと、道は左折し登りつめた高台に豊功(とよこと)神社があります。
ここは満珠・干珠二島を展望する絶景の地になっています。
満珠(先)・干珠(手前)は神功皇后が海中から得た玉を納めた島と伝えられています。この二島は忌宮神社の飛地境内です。また二島の樹林は、西瀬戸内海の原生樹林の植生を示すものとして、国指定天然記念物になっています。
豊功神社から下りて行き、櫛崎城址石垣の一つ上の小路を左折します。家の間の小径を道なりに進みますと、左の下りと、右の上りの三叉路に出ます。まずは左に下って行きますと砂浜のある海岸に出ます。ここは櫛(串)崎城跡の下になります。
東方向の眺めです。左に干珠が一部見え、その横に満珠が見えます。
櫛(串)崎城跡の下にある海岸から南方向の眺めです。この付近が関門海峡の東口で、対岸は北九州市門司区です。左から部埼(へさき)、太刀浦、田野浦になります。
三叉路に戻り、山手に登って行きます。この辺り一帯は櫛(串)崎城跡です。その一番高い所に新たに石垣が築かれ、展望台になっていて、関見台公園になっています。
櫛(串)崎城は大内氏の重臣内藤氏によって築かれました。毛利秀元は、長州毛利藩の支藩長府藩の城として修築し、雄山城と称しました。しかし、1615(元和元)年の一国一城令により破却され、隣接する現在の豊浦高校の敷地に居館が置かれました。
関見台公園の南側にくじら館という建物があります。
下関はかって南氷洋の捕鯨基地でした。くじら館は、1958(昭和33)に建てられたシロナガスクジラを模した建物があり、ここに2000(平成12)年まであった下関水族館のシンボルでした。
水族館は、2001(平成13)年新たに、しものせき水族館・海響館として唐戸にオープンしました。海響館については「北九州の近隣」の「下関」をご覧ください。
関見台公園の展望台から西を見ると、交差点の向こうに下関市立美術館が見えます。その後が最初に訪れた長府庭園です。美術館右手前の小山の右に豊浦高校があります。
ここに登って来たのとは反対に下りて行くと、駐車場があり、そこを出ると下関市立美術館前の国道9号線に出ます。


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