北九州の近隣

ホーム


香春町・赤村
  田川郡香春町・赤村  [2016/07/23]
 

 
田川郡香春町(かわらまち)は北九州市小倉南区の南と接し、田川郡赤村(あかむら)は香春町の南東と接します。両町村共に歴史のある地域です。香春町を南北に三つの山が連なる香春岳は、北九州市小倉南区の平尾台と同じ石灰岩の山です。両者の石灰岩は、約3億年前の古生代、赤道近くのサンゴ礁として堆積したものが、プレート運動によって移動して来ました。約6,700万前の中生代白亜紀後期、石灰岩はマグマにより熱変成を受けました。その後の新生代第三紀に地殻の大変動があり、大断層で平尾台の西にあった香春岳は分離され、南の約7km離れた現在地に移動しました。

527年筑紫国造磐井(ちくしのくにのみやっこいわい)は、大和王権に対し乱を起こしますが鎮圧されます。磐井の乱後の535年、大和王権の直轄地の屯倉(みやけ)が九州の8個所に置かれ、大和王権の力が強化されます。そのひとつが我鹿屯倉でした。吾勝尊(あがつのみこと)が岩石山(がんじゃくさん)に降臨し、この山を吾勝山と呼び、その東側の麓を吾勝野(あがつの)と呼びました。その後、景行天皇が熊襲征伐で来て、山に登った際、豊かな土地であるが南北に細長いので、二つの村に分けたがよいとのことで、北を「あか」、南を「つの」に分けました。「あか」は我鹿または阿柯になりました。「つの」は津野(添田町津野)になりました。中世、赤荘という荘園がありますが、我鹿屯倉に由来すると思われ、赤の地名が定着していきました。

香春から東に国道201号線を進むとその北側に鏡山があります。更に行橋方面に進みますと標高333.5mの七曲峠の下の新仲哀トンネルを通って、京都郡みやこ町勝山松田に出ます。七曲峠は別名を仲哀峠ともいいます。熊襲を討つため当地に来られた仲哀天皇に因んでいます。夫君の仲哀天皇が遠征途中に亡くなった後、神功皇后は朝鮮に出兵しました。その神功皇后がこの地で天神地祇を祀り、鏡を納めたことで鏡山と呼ばれるようになりました。

鏡山山頂に鏡山神社の社殿があります。鏡山神社の下の鳥居の左側に、「梓弓(あずさゆみ)引き豊国の鏡山 見ず久ならば戀(恋)しけむかも」 の万葉歌碑が建てられています。渡来系の鞍作りの技術者と思われる鞍作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)作です。古代の大宰府と豊前国府を結ぶ官道の田河道が鏡山の前を通っていました。大宰府からは、米ノ山(飯塚市)、関の山(田川市)を越えて香春に到り、新仲哀トンネルのある七曲峠かその北にあった石鍋越(廃道)を越えて豊前国府(京都郡みやこ町)に到るか、渡海の場合は草野津(かやのつ、行橋市草野)に到りました。

鏡山神社下の鳥居万葉歌碑の横を左に行くと河内王(かわちのおおきみ)の墓があります。その途中に、河内王を葬った時の手持女王(たもちのひめみこ)の「石戸破る手力もがも手弱き 女にしあれば術の知らなく」の万葉歌碑が立っています。河内王の墓は横穴式石室の円墳で、宮内庁の「勾金陵墓参考地」の立札が立っています。河内王は天武天皇の子長皇子(ながのみこ)の子で、686年新羅の使者の饗応役として筑紫に遣わされた者の中にいました。689年に大宰帥(だざいのそつ、大宰府の長官)に任じられ、694年に死去しました。次のような話が伝わっています。西下中の河内王は、大宰府への官道があったこの地で旅の疲れを癒しました。その世話をしたのが手持女王でした。二人は愛し合い、河内王は任務が終わった後はここに戻り、二人で暮らすことを約束して旅立ちました。しかし任期中に病気になり、ここに戻った河内王を手持女王は看病しますが、半年後河内王は死去しました。

香春神社は香春岳が御神体です。南の一ノ岳に辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめのおおめのみこと)を、その北の二ノ岳に忍骨命(おしほねのみこと)を、北の三ノ岳に豊比咩命(とよひめのみこと)を祀っていました。709(和銅2)年一ノ岳の南麓に社殿を造営して、三神を合祀した香春神社が創建されました。三ノ岳麓に祀られていた豊比咩命の分霊を香春神社で祀ったので、元の社を古宮(ふるみや)大神と称え、その後は古宮八幡神社となります。

香春神社の起源は、新羅の神が渡来して、杉坂山(金辺峠付近の山)から流れ出る川(金辺川)の河原に住んだので、鹿原(かわら)の神といったと伝えられ、地名の起源ともなっています。新羅の神は優れた採銅技術を持つ渡来人が祭祀したと思われます。石灰岩にマグマが貫入した際、地下水が加熱されてイオンが多量に溶解する熱水状態になります。この時二酸化炭素が発生して溶解度が低下し、鉄・銅・亜鉛が沈澱して、これらの金属の鉱床が生成されます。この鉱床をスカルン鉱床と呼びます。香春三ノ岳山麓にはこのようにして生成された銅の鉱床があり、露頭として認められやすいため、古代から開発されました。

香春三ノ岳で採掘された銅を使って、宇佐八幡宮に奉納した神鏡を三ノ岳麓で鋳造しました。最初は720(養老4)年で、1723(享保8)年まで80余度行われました。古代、香春三ノ岳山麓に銅を採掘・製錬する役所の採銅使が置かれました。それに由来する採銅所(さいどうしょ)が地名になっています。採銅所で産出した銅は、奈良東大寺の大仏鋳造にも使われ、752(天平勝宝4)年には大仏の開眼供養が行われました。

最澄が唐に渡る前、宇佐神宮に詣でました。香春の地に新羅の神がいるので、その教えを信じなさいとの八幡大菩薩の託宣がありました。香春神社に詣でて祈願し、最澄は804(延暦23)年入唐しました。帰朝後814(弘仁5)年に最澄はこの地を訪れ、7昼夜法会を行うと香春明神が現れたということです。本殿手前の山手の岩に梵字が彫られています。最澄は功徳を永劫に残すため梵字を彫りました。そして、七堂伽藍の神宮院を建立し、六坊を建立しました。そのうちの一坊が高座石寺(こうぞうじ)です。

香春町・赤村にあった中世の山城を紹介します。赤村と添田町の境にある全山花崗岩の標高454mの岩石山山頂には、難攻不落の岩石城がありました。平清盛の築城と伝えられていますが、豊前・豊後の国境近くにあるため、鎌倉時代以来、豊後の大友氏と九州を治めようとする周防の大内氏、後には毛利氏との争いが続きました。安土・桃山時代になると、九州を治めるほど島津氏の力が強くなります。豊臣秀吉は九州平定に乗り出します。1587(天正15)年、島津側の秋月古処山城主秋月種実は家臣に岩石城を守らせますが、豊臣軍の大軍に攻められ落城しました。その後この城は廃城になりました。

香春町とみやこ町との境の標高427.3mの障子ヶ岳は障子ヶ岳城跡です。豊臣秀吉の九州平定の際の宿舎になりました。後、1587(天正17)年廃城になりました。香春一ノ岳では1935(昭和10)年以降セメント会社により石灰岩が採掘され、現在は半分切り取られたようになっています。一ノ岳には鬼ヶ城と呼ばれた香春岳城がありました。戦国時代幾多の戦乱にあった山城でしたが、江戸時代初めに廃城となりました。中腹から山頂にかけて遺構が残されていましたが、今はほとんど消失しました。

1600(慶長5)年関ヶ原の戦いの結果、豊前一国と豊後国国東・速見郡の39万石が細川忠興に与えられました。戦国時代より香春岳城下には城下町が形成されていましたが、1602(慶長7)年忠興の弟忠之による新城普請に伴い城下町が本格的に整備されました。1615(元和元)年、一国一城令により香春岳城は廃城となりますが、香春は交通の要衝でしたので、宿場町として発展していきました。秋月街道は小倉城下と久留米城下を結ぶ街道で、土地によって小倉道、田川道、香春道、猪膝(いのひざ)道、松崎道と呼ばれました。香春町には採銅所と香春の宿場がありました。

1866(慶応2)年第二次長州征討戦の小倉口の戦闘に於いて、幕府軍は敗退し、小倉藩は小倉城を自焼して、田川郡香春に撤退します。この後、小倉藩は単独で、企救郡に進出して来た長州藩との間でゲリラ戦を繰り広げます。1869(明治2)年の版籍奉還で、小笠原忠忱(ただのぶ)は香春藩知事に任じられ、御茶屋に藩庁を置きました。1867(慶応3)年1月22日小倉藩と長州藩との間で止戦協定が締結されました。この小倉藩と長州藩との戦いを小倉戦争、豊長戦争と呼びます。香春藩は田川郡香春から藩庁を仲津郡錦原(にしきはら)に移し、1870(明治3)年1月錦原を豊津と改め、豊津藩と改称しました。1871(明治4)年廃藩置県されて豊津県になり、同年統合されて小倉県となり、1876(明治9)年福岡県に統合されました。

江戸時代から1887(明治20)年まで、香春町の北の採銅所には上採銅所村・下採銅所村・採銅所町があり、採銅所町は宿場町でした。1887(明治20)年上採銅所村・下採銅所村・採銅所町が合併して採銅所村になりました。1889(明治22)年、香春町の東の鏡山村、南の高野村・中津原村・柿下村の4村が合併して、中世にあった荘園名の勾金荘から勾金(まがりかね)村になりました。江戸時代から1887(明治20)年まで、香春岳の麓には宿場町の香春町と下香春村がありましたが、1887(明治20)年に合併して香春村になりました。1898(明治31)年香春村は香春町になり、1956(昭和31)年採銅所村・勾金村・香春町が合併し、香春町になりました。

明治になると、筑豊の他の地区と同じように香春町にも石炭産業が興りました。赤村は田川郡の東端に位置しまが、郡内で唯一石炭産業がありませんでした。江戸時代から1887(明治20)年まで上赤村・下赤村・山浦村がありましたが、1887(明治20)年合併して赤村になりました。1889(明治22)年、赤村と内田村が合併して赤村になりました。

1871(明治4)年廃藩置県となり、1876(明治9)年までに3府35県となりました。この府県の下にどのような行政区画を設けるかが問題でした。1878(明治11)年の郡区町村編制法により、地方では郡、都市では区が設けられました。郡の行政機関として郡役所、その長として郡長が置かれ、議決機関として郡会と郡参事会が設けられました。1888(明治21)年の市制・町村制と、1890(明治23)年の府県制・郡制が制定され、翌年公布されました。基礎となる町村を行政下部組織として強化するため全国の町村を合併しました。

郡制の実施は円滑にいかず、全府県が実施するのに時間がかかり、福岡県は1896(明治29)年以降になりました。そして、郡制は十分に定着しないまま廃止されることとなり、1923(大正12)年に郡会が、1926(大正15)年に郡役所・郡長が廃止されました。その後、田川郡の中心は香春町から発展してきた伊田町・後藤寺町に移っていきました。行政上の郡は廃止されましたが、地理上の名称として現在も残っています。

1891(明治24)年4月、九州鉄道により黒崎・門司間の鉄道が開通しました。1895(明治28)年4月九州鉄道は小倉から分岐させ、小倉・行事間を開業しました。行橋町に本社を置く豊州鉄道は、同年8月行橋・伊田間を開業しました。行事・行橋間の線路が敷設され、行橋駅が共同駅になりました。豊州鉄道による行橋・伊田間の開業は、田川地区の石炭を門司港に運ぶのが目的でした。

後、豊州鉄道は九州鉄道に吸収合併され、1907(明治40)年九州鉄道は国有化されました。行橋・伊田間は国鉄田川線になりました。1915(大正4)年小倉鉄道が東小倉(現在駅はありません)と上添田(現在添田)間を開業しました。小倉鉄道の開業時には、国鉄田川線は伊田の先の添田(現在西添田)まで開通していました。田川線は彦山まで延長され、1943(昭和18)年小倉鉄道は国営化され添田線になりました。

戦後の1956(昭和31)年に彦山から南への線路と、九大線の夜明から分岐された北への線路と結ばれました。その後短絡線が設置されたり、一部は廃線となり、並行している香春・添田間は添田線に、城野・夜明間は日田彦山線になりました。添田線は赤字のため、1985(昭和60)年廃止になりました。日田彦山線の列車は小倉から日田まで運転されます。1987(昭和62)年国鉄は民営化されJRになりました。行橋・伊田間は1989(平成元)年からは第三セクターの平成筑豊鉄道田川線になっています。

1935(昭和10)年浅野セメントが誘致され、香春一ノ岳の南麓でアサノセメント香春工場が操業を開始し、標高491mあった一ノ岳は、現在は半分切り取られたようになっています。1947(昭和22)年日本セメント香春工場と改称し、1998(平成10)年にはセメント会社の合併で太平洋セメント香春工場になり、更に2年後には分社化されて香春太平洋セメントになりました。2004(平成16)年セメント製造から撤退し、香春鉱業が石灰石の採掘を行っています。
小倉南区から国道322号線を南下し、金辺(きべ)トンネルを過ぎると香春町です。交差点は金辺峠で、道路は国道322号線です。交差点を右に行くと金辺トンネルになります。金辺トンネルの先の高台から南方向の眺めです。交差点から左方向の2つの道路の手前は香春バイパスで、先の南に行くと観音口橋交差点で合流します。先方の山は香春三ノ岳です。
国道と香春バイパスが合流する観音口交差点を過ぎた先を右折し、坂道を上るとJR日田彦山線の採銅所駅です。1915(大正4)年小倉鉄道が東小倉(現在駅はありません)と上添田(現在添田)間を開業しました。採銅所駅は、開通時に建築された中で唯一現存する駅舎で、香春町指定有形文化財になっています。
   
採銅所駅に来た坂道を戻ります。金辺川に架かった橋を渡ると国道に戻りますが、橋の手前を右折しますと、右手に古宮(ふるみや)八幡神社の鳥居が立っています。鳥居の前の道は江戸時代の秋月街道の道筋になります。奈良時代以降、古宮八幡神社に豊比咩命(とよひめのみこと)を香春三ノ岳の麓で祀っていました。三ノ岳の銅で神鏡を鋳造して宇佐八幡宮に奉納したことで、八幡神を勧請して八幡神社になりました。戦国時代大友氏が香春城を攻めた時、社殿を焼失したため、北のこの地に社殿は移されました。現在の社殿は1857(安政4)年に建築されています。  
   
古宮八幡神社の鳥居の横に里程標と採銅所村役場跡地の石碑が立っています。ここは江戸時代まで秋月街道の採銅所宿で、1887(明治20)年からは採銅所村役場がありました。香春町には採銅所と香春の宿場がありました。採銅所の一つ手前が呼野宿でした。
呼野宿については、「北九州点描」の「呼野」をご覧ください。
   
古宮八幡神社の前の旧街道筋を南に進みます。右手に採銅所小学校があり、そこを過ぎると、香春三ノ岳が右手に見えてきます。JR日田彦山線の踏切が右手にあります。そこを渡って進みますと、大木の横に木造の建物が見えます。清祀(せいし)殿といい、香春三ノ岳で採掘された銅を使って、宇佐八幡宮に奉納した神鏡をここで鋳造しました。最初は720(養老4)年で、1723(享保8)年まで80余度行われました。清祀殿は福岡県の文化財に指定されています。  
   
神鏡鋳造の任に当たっていた長光家の文書によりますと、清祀殿の屋根は茅葺で、内部は土間になっていて、中央に鍛冶台が置かれていました。清祀殿の後の左手に木が立っています。その背後に自然石が3つ立っています。これは鋳造された鏡を別棟の神宿殿で安置する御床石で、鋳造遺跡を伝える唯一の文化遺産です。
   
鉱石を掘り出した坑道を間歩といいますが、清祀殿で製錬・鋳造された銅鉱石が採掘された神間歩(かみまぶ)が150m離れた所にあります。清祀殿の前を左に入って行きます。案内板に従い、川を渡って行くとここに出ます。坂を下りて行くと神間歩に着きます。  
   
神間歩の坑口です。清祀殿での神鏡の鋳造に先立ち、古宮八幡神社の神官が香春岳を御神体とする山の神に対して神事を行った後、銅の採掘を始めたことが伝えられています。神間歩はその神事が行われた場所と思われます。神間歩の他にも香春三ノ岳山麓には多くの間歩がありました。
   
旧街道筋に戻り、南に進みます。坂を上った所の右手、西側に標高511mの香春三ノ岳が見えます。香春岳は南から一・二・三ノ岳の三つの山があり、三ノ岳は北に位置します。電柱の所をJR日田彦山線が通っています。
上と同じ場所の左手、東側の眺めです。左端に県道64号苅田・採銅所線が見えます。その先標高247mの味見峠の下の味見トンネルを通って、京都郡みやこ町勝山浦河内に出ます。味見峠は田川と京都を結ぶ主要路で、採銅所で鋳造された神鏡も、味見峠を通って宇佐八幡宮に送られました。その右横に国道322号線香春大任(かわらおおとう)バイパスが現在建設中で、完成後は香春・香春大任・田川バイパスがつながります。右端の鉄塔の左上が標高427.3mの障子ヶ岳です。中世の山城、障子ヶ岳城跡です。
旧街道筋の道は、この先下り坂になり、田畑の中を通って国道322号線に出ます。
国道322号線を南下します。国道の上をJR日田彦山線が通っている所を過ぎて少し行くと、右手に石灰石を採掘する香春鉱業専用の道路があり、その先に信号が点滅している神宮院交差点がありますので、そこを右折します。細い道を上ると、右側の道と接する所に出ます。その道は先程の会社専用の道路で、その横が数台の駐車場になっています。そこからの眺めです。山は標高468.2mの香春二ノ岳です。この場所から少し戻って、会社専用道路を渡った所に高座石寺(こうぞうじ)があります。  
   
最澄(伝教大師)が唐より帰朝後に神宮院を建立し、六坊を建立しました。そのうちの一坊が高座石寺(こうぞうじ)です。道路から本堂への参道脇に大きな岩が重なり合い、その上に仏像が置かれています。「そこもここも 岩の上には 仏さま」という山頭火の句碑が建てられています。
高座石寺の本堂です。この左手には池のある庭園があります。
   
車で道を上って行くと、道幅が狭く曲がりくねっています。先の方で会社専用道路と一緒になります。その先すぐ右手に神宮院への道がありますので入って行きます。手前に駐車場があり、奥に神宮院があります。
唐から帰朝後814(弘仁5)年に最澄はこの地を訪れ、神宮院入口の道路脇にある護摩石の所で7昼夜法会を行うと、香春明神が現れたということです。この地に七堂伽藍を建立しました。これが神宮院です。
 
   
神宮院本殿横に、福岡県指定木の大銀杏があります。樹齢は推定800年で高さは40mあります。この大木でさえも最澄は見ませんでした。神宮院はそれ以上古い時代に建立されました。
   
神宮院本殿と駐車場の間から下りた所に、福岡県指定木の石割ビワがあります。ビワの根が岩の間にあり、岩を割って生えたように見えます。この辺りにビワが群生しています。石割ビワの近くに最澄に関わる座禅石があります。  
   
国道322号線に戻り、先に進むと唐子橋交差点になります。そこを左折すると、行橋方面への分岐点になる交差点があり、そこを左折して国道201号線を行橋方面に進みます。国道201号線に入ってすぐ左手道路脇に、大きな鏡山神社の鳥居が立っています。左の小山が鏡山で、山上に鏡山神社の本殿があります。神功皇后がこの地で天神地祇を祀り、鏡を納めたことで鏡山と呼ばれるようになりました。古代の大宰府と豊前国府を結ぶ官道の田河道が鏡山の前を通っていました。
   
国道脇の鳥居を入って行き、鏡山神社の下の鳥居前から東側の眺めです。右側手前の山の麓に通る道が国道201号線です。その先を進むと、標高333.5mの七曲峠の下の新仲哀トンネルを通って、京都郡みやこ町勝山松田に出ます。七曲峠は別名を仲哀峠ともいいます。熊襲を討つため当地に来られた仲哀天皇に因んでいます。
鏡山神社下の鳥居の脇の万葉歌碑の前に河内王(かわちのおおきみ)の墓の案内がありますので、左奥に向かいます。先方の山が香春二ノ岳で、その下の田圃より一段高い所が河内王の墓です。  
   
河内王の墓への道の途中に、河内王を葬った時の手持女王(たもちのひめみこ)の「石戸破る手力もがも手弱き 女にしあれば術の知らなく」の万葉歌碑が立っています。
   
河内王の墓は横穴式石室の円墳で、宮内庁の「勾金陵墓参考地」の立札が立っています。  
   
国道322号線の唐子橋交差点まで戻り、細い道に直進しますと旧街道筋になり、交差点に里程標が立っています。4面は、東面(西方向)上野(あがの)迄2里22町、西面(東方向)久保新町迄1里、南面(北方向)採銅所迄1里、北面(南方向)猪膝迄2里24町と読めます。1里は36町で、1里は3.927kmです。
   
旧香春宿の街道筋を南下します。街道筋が左に曲がりすぐ右に曲がる、いわば、道筋が左側に移った所を過ぎると突き当りを右に曲がります。左に道があり、その先突き当りを左に曲がります。その右角に西念寺があります。その山門です。
西念寺山門は総欅造りで、1909(明治42)年に建てられています。
 
   
西念寺の前の街道筋を南下します。右手に数軒新しい住宅が建てられています。そこに入って行く道路の突き当りに、この石碑が立っています。住宅地になったこの一帯は1911(明治44)年5月~1926(大正15)年6月まで田川郡役所がありました。1926(大正15)年6月~1956(昭和31)年9月まで香春町役場がありました。
   
街道筋に戻った南隣に、この石碑が立っています。小倉藩主の巡視の際の宿泊や休憩のための御茶屋が設けられました。
1866(慶応2)年第二次長州征討戦の小倉口の戦闘に於いて、幕府軍は敗退し、小倉藩は小倉城を自焼して、田川郡香春に撤退します。1869(明治2)年の版籍奉還で、小笠原忠忱(ただのぶ)は香春藩知事に任じられ、御茶屋に藩庁を置きました。香春藩は田川郡香春から藩庁を仲津郡錦原(にしきはら)に移し、1870(明治3)年1月錦原を豊津と改め、豊津藩と改称しました。1871(明治4)年廃藩置県されて豊津県になり、同年統合されて小倉県となり、1876(明治9)年福岡県に統合されました。1880(明治13)年香春藩庁は改築され、田川郡役所になりました。1911(明治44)年には隣接地に田川郡役所は新築されて移転しました。
 
   
旧街道筋を更に南に行くと右手に「伊能忠敬測量止宿之地」の石碑が立っています。伊能忠敬は1812(文化9)年7月13日香春宿に泊まっています。添田から香春を経て小倉に向かいました。
   
石碑の後の傾斜地に大木が立っています。かってここに光願寺がありましたので、元光願寺大樟といわれる福岡県の指定木です。樹齢は800年で約42mの高さがあり、幹には空洞があります。光願寺では、江戸時代、田川郡のキリスト教禁令の宗門改めの踏絵が行われていました。  
   
更に南に進むと、国道322号線が見え、その先に金辺川に架かる清瀬橋があります。国道に出る前に右折する道があり、そちらが街道筋です。そちらに右折して西に進むと、左手に香春小学校があります。その校庭に瓦葺の香春藩庁の門があります。御茶屋の門として1847(弘化4)年建築され、小倉を退去した小笠原藩が香春に藩庁を置くと、藩庁の門となりました。その後田川郡役所の門となりましたが、1926(大正15)年に解体されました。1940(昭和15)年移築されて1996(平成8)年まで香春小学校の校門として使われました。
   
香春小学校の前を西に向かいます。左手に広い空地があり、そこから金辺川、国道201号線を隔てて工場が見えます。
1935(昭和10)年浅野セメントが誘致され、アサノセメント香春工場が操業を開始しました。戦後は日本セメント香春工場、セメント会社の合併で太平洋セメント香春工場、分社化されて香春太平洋セメントと改称されました。香春一ノ岳から左端のコンベアーで石灰石は運ばれました。2004(平成16)年セメント製造から撤退しました。
更に街道筋を西に進むと、右手に香春神社の鳥居があります。鳥居の中に一ノ岳が見えます。香春岳が御神体です。一ノ岳に辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめのおおめのみこと)を、二ノ岳に忍骨命(おしほねのみこと)を、三ノ岳に豊比咩命(とよひめのみこと)を祀っていました。709(和銅2)年この地に社殿を造営して、三神を合祀しました。  
   
石段を上ると、左右からの回廊に挟まれた拝殿があります。一ノ岳の南麓に位置します。辛国息長大姫大目命は、金辺川の川原に住みついた、三ノ岳の銅採掘に従事した新羅人が祀った新羅神でした。現在の本殿・拝殿・東回廊・石垣は江戸時代の文化・文政期(1804~30)に建て替えられたといわれています。
   
香春神社の鳥居の前を西に進みますと分かれ道になり、道標が立っています。右に西上野、左に南猪膝と刻まれています。南が秋月街道筋になります。香春宿の次は猪膝(いのひざ)宿(田川市)です。左に進み、金辺川に架かった橋を渡って進むと、国道201号線に出ます。金辺川は西に流れ、田川市と福智町の境で彦山川に合流し、彦山川は直方市で遠賀川に合流します。国道201号線を左折して東に進みます。国道322号線と交差する清瀬橋交差点を右折します。  
   
清瀬橋交差点を右折して国道322号線を進み、香春交差点から左折して県道52号八女・香春線を進みます。JR日田彦山線のガードをくぐって進みます。中津原交差点を左折し、県道204号田川・犀川線に入ります。左手に田が広がり、香春三山が見えます。一ノ岳は1935(昭和10)年以降セメント会社により石灰岩が採掘され、現在は半分切り取られたようになっています。一ノ岳には鬼ヶ城と呼ばれた香春岳城がありました。戦国時代幾多の戦乱にあった山城でしたが、江戸時代初めに廃城となりました。中腹から山頂にかけて遺構が残されていましたが、今はほとんど消失しました。一ノ岳の右手後に二ノ岳があり、三ノ岳はその右手後に重なって見えます。
県道204号田川・犀川線と県道418号英彦山・香春線県道の分岐点の交差点を右折し、県道204号田川・犀川線を進み、御祓川(みそぎがわ)に架かった橋を渡り、右手の向かいます。坂道になります。その手前で左に入って行くと、柿下温泉があります。1軒だけの天然ラドン温泉です。
   
県道204号田川・犀川線と県道418号英彦山・香春線県道の分岐点に戻り、県道418号英彦山・香春線を南下すると赤村に入ります。道路脇に内田駅があります。その先を進み、道が左にカーブしている所の右手に内田三連橋梁の案内があります。県道の左脇に駐車スペースがあります。坂道を下りると、平成筑豊鉄道の内田三連橋梁があります。1895(明治28)年8月豊州鉄道会社は行橋・伊田間を開業しました。内田三連橋梁はその際建設されました。左右が道路で、中央を川が流れる三連になっていて、みつあんきょと呼ばれています。小川の上流側、東側は切石造りになっています。
三連橋梁の西側の下流側はレンガ造りになっています。下流側は複線化を考えてレンガを継ぎ足せるように凸凹になっています。しかし複線にはなりませんでした。行橋・伊田間の鉄道は豊州鉄道から九州鉄道、国有化されて国鉄田川線になりました。1989(平成元)年からは第三セクターの平成筑豊鉄道田川線になり、レールバスが通っています。
内田三連橋梁の南側田圃の先、左右の山の先に、幻の油須原(ゆすばる)線の盛土が見えます。戦後復興期、石炭の需要が多く、筑豊から若松までの鉄道は輻湊を極めていました。そこで既設線を延長し、更に豊前川崎から油須原までの線路を新設し、筑豊から行橋への輸送を計画しました。しかし時代は石炭から石油へのエネルギー革命を迎えていました。新設の線路を列車が通ることなく、レールは撤去されました。  
   
県道418号英彦山・香春線を南に進みますと、信号機はありませんが、赤村役場などの案内があります。そこを右折し、跨線橋を渡ると赤村役場などの建物があります。その一段下に赤駅があります。2003(平成15)年に開業しました。駅の前は幻の油須原線の敷地でした。赤駅の前から赤村トロッコ油須原線の狭い線路が敷設されています。99%完成していて列車が通らなかった油須原線の施設を使っています。トロッコの運行は、原則として冬季を除いた月に1回、日曜日に行われます。赤村トロッコの会によって運営されていますので、運行日は下のホームページで確認してからお出掛けください。
 http://www.akatoro.com/
   
県道418号英彦山・香春線に戻ります。次の信号機がある交差点で県道418号英彦山・香春線と県道34号行橋・添田線が交差して重なります。直進して跨線橋を渡り、進むとすぐに信号がありますので、そこを左折します。直進が県道34号行橋・添田線で、左折が県道418号英彦山・香春線です。油木ダム・英彦山方面の案内がある県道418号英彦山・香春線を南下します。右手に今川が流れています。今川は北流し、先程の交差点付近から東流します。左手に赤村特産品センターがあります。その先の橋を渡り、左折して進むと我鹿(あか)八幡神社があります。赤の地名にゆかりのある神社です。  
   
我鹿八幡神社の前の道を先に進みますと、橋を渡って県道418号英彦山・香春線に出ます。そこから南方向を見ると、標高454mの岩石山が望めます。岩石山山頂には岩石城がありました。1587(天正15)年、島津側の秋月古処山城主秋月種実は家臣に岩石城を守らせますが、豊臣軍の大軍に攻められ落城しました。その後この城は廃城になりました。
   
県道418号と県道34号が重なった交差点まで戻ります。跨線橋を渡らずに、その手前から右折します。跨線橋を渡った先の右折の道は油須原駅前を通らない バイパスになります。右折して手前の道に入って行きます。しばらく行くと、左手に油須原駅があります。1895(明治28)年8月豊州鉄道は行橋・伊田間を開業しました。開業時の駅は行橋・豊津・油須原・香春(現在の勾金)・伊田でした。駅舎は開業時のものです。幻の油須原線では、油須原と西の豊前川崎間のほぼ完成の新設工事は中止され、レールは撤去されました。1907(明治40)年国有化され、行橋・伊田間は田川線となり、1989(平成元)年からは第三セクターの平成筑豊鉄道田川線になっています。  
   
油須原駅前を進みますと、左からのバイパスと合流します。源じいの森の案内があります。源じいの森駅があり、その先を右折して橋を渡ってすぐ左手に、源じいの森のほたる館があります。レストラン・交流センターやホール・宿泊施設があり、赤村の自然学習村の源じいの森の入口になります。源じいの森の「源」は赤村に生息する源氏蛍、「じい」は村花の春蘭の方言「じいばば」から、「森」は赤村の面積の7割の森林からとったそうです。しかし源爺の森と思ってもいいような雰囲気です。
源じいの森の詳細や問合せは、下の源じいの森の公式サイトをご覧ください。
 http://www.fcom.ne.jp/genjii/
   
ほたる館の横から源じいの森に入って行きます。横に平成筑豊鉄道田川線の線路が通っています。トンネルが見える方に下りて行きます。このトンネルの先にもう一つトンネルがあり、ふたつで石坂トンネルになります。このトンネルも1895(明治28)年8月豊州鉄道による行橋・伊田間開業時に建設されたもので、九州で一番古いトンネルで、赤レンガが使われています。第1トンネルは全長33.2m、第2トンネルは74.2mで、このトンネルは第2トンネルです。田川線は複線化が計画されましたが、複線化されることはありませんでした。トンネルも複線化を予定して建設されました。  
   
線路の下をくぐって、川辺に下りて来ました。木の橋が架かっています。今川の流れです。
   
今川は犀川とも呼ばれ、英彦山山地を源とし、この赤村、京都郡みやこ町を流れ、行橋市で周防灘に注ぎます。
今川の川辺から山手にかけてキャンプ場になっています。施設も完備しています。  
   
木立の中にはロッジやバンガローが点在しています。
   
源じいの森温泉はアルカリ性単純温泉です。源じいの森温泉の下に源じいの森駅があります。源じいの森のほたる館の反対側になります。


You Tube でこのページの動画がご覧になれます
この先をクリックしてください → 香春町・赤村


トップへ

北九州の近隣へ

ホームへ