北九州の近隣

ホーム


宗像    
宗像市  [2015/10/17]
 

宗像(むなかた)と表示する地域は、古代には現在より広い地域を表していました。宗像氏が支配する地域と同じでした。701(大宝元)年に制定された大宝律令によって国郡里制が施行されましたが、筑前国の宗像郡は、北は玄界灘、東は遠賀郡、南は鞍手郡、西は糟屋郡に接していました。宗像氏が支配する地域は隣接する郡を越えていました。近代になり、明治時代になっても郡は行政区域としての役割を担っていましたが、大正時代になると郡制は廃止され、単なる地域の名称となりました。宗像郡は、かっての郡域は宗像市と福津市になり、現在その郡名は無くなっています。ここでは宗像市域を紹介します。

宗像には海岸近くに縄文時代の遺跡があり、狩猟・漁労生活を営んでいたと思われます。釣川流域の平野を望む高台には弥生時代の集落跡があります。宗像は、古代、海人の豪族胸形氏(胸肩氏・宗形氏とも表す)が支配する地方でした。宗像大社に祭られている宗像三女神は、胸形氏が祭る神々でした。朝鮮半島との結びつきが強くなるに従い、海上交通を守護する神として、中央とも関係深い神となっていきました。隣接した福津市の北部の丘陵地や台地に津屋崎古墳群が分布しています。5世紀から7世紀にかけての前方後円墳、円墳等60基を数えます。胸形氏一族の古墳群といわれています。

海北道中は朝鮮半島への海路でした。古代、約60km離れた玄界灘の沖ノ島は海上を往来する人々に神の島として崇拝され、胸形(宗像)氏の神として崇敬されていました。672年の壬申の乱の後、大海人皇子は即位して、天武天皇となります。天武天皇と宗像君徳善の娘の妃との間に高市(たけち)皇子が生まれました。胸形(宗像)氏が天皇家と婚姻関係を持つに到り、その氏族の神が朝廷の内に入っていきました。

記紀の記述によりますと、天地開闢(てんちかいびゃく)の最後の神の男神イザナギと女神イザナミによって日本の国作りが行われます。スサノオ(素盞鳴命)は、父イザナギから海原を治めるように命じられますが、母イザナミがいる根の国(黄泉の国)に行きたいと願います。スサノオは父の怒りを買って追放され、根の国に行く前に、姉アマテラス(天照大神)のいる高天原にやって来ます。アマテラスはスサノオが攻めて来たのではないかと、武装して応対します。スサノオは姉の疑いを解くために姉と誓約します。その誓約の際、アマテラスはスサノオの剣を噛み砕き、その息の霧の中から三女神が生まれます。スサノオはアマテラスの珠を噛み砕き、その息の霧の中から五男神が生まれます。アマテラスは三女神はスサノオの子、五男神はアマテラスの子と宣言します。この三女神が宗像三女神です。

沖ノ島の沖津宮に田心姫神(たごりひめのかみ)、大島の中津宮に湍津姫神(たぎつひめのかみ)、神湊から約4km内陸にある田島の辺津(へつ)宮に市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)が祭られています。この三宮の総称が宗像大社です。天照大神から宗像三女神は天孫降臨の際の道案内を命じられます。のち三女神は海北道中の守護神として、道主貴(みちぬしむち)という尊称が与えられています。胸形氏は領主として、また宗像大社の神主としての役割を果たしました。宗像郡は全国で八郡ある神郡(しんぐん、かみのこうり)の一つで、宗像大社の所領で、神域でした。

律令下、全国の道路網が整備され、駅家(うまや)が設けられ、公務で往来する者に馬や食料が提供されました。大宰府道は久爾(くに、福岡市博多区)-夷守(はなもり、福岡市東区)-席打(むしろうち、古賀市)-津日(つひ、宗像市)-島門(しまと、遠賀郡遠賀町)-夜久(やく、北九州市八幡西区上津役)-独見(ひとみ、北九州市八幡東区前田)-到津(いたむつ、北九州市小倉北区到津)-杜碕(もりさき、北九州市門司区田野浦)に駅家があり、杜碕で関門海峡を渡って山陽道に入りました。宗像では辺津宮近くを通る海岸近くの道でした。辺津宮がある田島は釣川流域の農耕地域と海岸地域を結ぶ宗像氏の拠点でした。

平安時代になると、胸形氏は宗像の姓を受け、大宮司職が設けられました。平安末期になると、大宮司は武士化し、その後国人領主として活躍しました。大宮司は鎌倉時代には鎌倉幕府の御家人となり、日宋貿易で栄えます。南北朝時代には大宮司が宗像社領を一円支配します。室町時代になると、大内氏の勢力が筑前に及びその配下に入ります。15世紀には百年近く李氏朝鮮との間で貿易を行っています。

戦国時代、大内義隆は家臣の陶晴賢の謀叛にあいます。その頃大宮司家内でも内紛があり、宗像氏貞が大宮司家を継ぎます。大内氏は毛利元就により滅ぼされます。豊前と筑前は毛利元就と大友宗麟の勢力争いの場となり、両国の国人領主達も双方に分かれて争いました。宗像氏貞も両勢力の争乱の間で生き延び、領国を形成していきました。

山田にあった白山城は、372年間続いた宗像大宮司家の本城でした。宗像氏貞は白山城の南にある蔦岳城に本城を移しました。蔦岳城は平安時代に築城されますが一時廃城になり、南北朝時代に修築されました。1561(永禄4)年、氏貞は更に大規模な築城を行いました。この地は交通の要衝で、要害の地でした。築城後、氏貞は赤間を中心にした麓集落の整備を行いました。1587(天正14)年宗像氏貞は病死しました。氏貞には嗣子がなく、家臣達は家名維持を図りましたが、翌年、秀吉が九州に出陣の際、家臣は離散となり、居城も破却されました。宗像氏貞の死をもって、大宮司家は断絶しました。

1588(天正15)年豊臣秀吉が九州平定の際、筑前一国、筑後二郡、肥前二郡が小早川隆景に与えられました。古代より宗像を通る幹道は海岸近くでしたが、赤間を通る道に代わってきました。1600(慶長5)年関ヶ原の戦いの後、筑前国は黒田長政に与えられ、宗像は福岡藩の領国となりました。江戸時代になると、赤間に宿場が置かれました。赤間は筑前二十一宿の一つです。若松を出て、芦屋からここ赤間宿を経て博多、そして唐津に到るのが唐津街道でした。もう一つ、長崎街道の筑前六宿の一つの木屋瀬宿から分かれた街道がありました。遠賀川を植木(直方市)に渡り、鞍手を経て、赤間宿に到りました。

明治になっても、現在の宗像市域の中心は赤間でした。1983(明治16)年宗像郡役所は東郷に移ります。1890(明治23)年9月、九州鉄道により博多・赤間間の線路が敷設されました。11月には遠賀川まで延伸されました。現在の宗像市域の中では、開通時の駅は赤間駅が唯一でした。しかし、駅舎は赤間の西の土穴に置かれました。1913(大正2)年東郷駅が開業しました。これにより宗像郡の中心は東郷になっていきます。1988(昭和63)年、福岡教育大学の前に教育大前駅が開業しました。現在宗像市には3駅あります。

1954(昭和29)年、宗像郡の赤間・東郷町、河東・南郷・吉武村と神興村の一部が合併して宗像町が発足しました。福岡市と北九州市の中間に位置し、昭和40~55年にかけて町内の宅地化が進み、1981(昭和56)年宗像市として市制が施行されました。赤間駅の前を通るのが県道69号宗像・玄海線、東郷駅の前を通るのが県道97号福間・宗像・玄海線で、旧国道3号線です。1970(昭和45)年その南側に国道3号線宗像バイパスが開通しました。宗像市は、2003(平成15)年4月に宗像郡玄海町を合併し、2005(平成17)年3月には宗像郡大島村を合併しました。宗像市の西隣に、2005(平成17)年1月に宗像郡福間町と津屋崎町が合併して福津市が誕生し、宗像郡名は無くなりました。
国道3号線を西に行き、城山トンネルを過ぎた先の城山交差点を右折して県道69号宗像・玄海線を進みます。赤間駅を過ぎ、東郷橋の先を右折して釣川の左岸に出ます。川沿いの県道69号宗像・玄海線を下流に進みます。釣川は宗像を貫流して、神湊の東側で玄界灘に流れ込みます。古くは河口部が入海で干潟であったので、空潟でむなかたとの地名由来の説もあります。中央の山の右側麓に宗像大社はあります。
   
釣川から離れて左にカーブし、すぐ右にカーブした左手に宗像大社の駐車場とその奥に祈願殿があります。宗像大社は元来海上交通を守護する神様で、そこから交通安全の神様になっていますので、交通安全を祈願する人々が多くお参りします。祈願殿でお祓いの受付やお札の授与があり、駐車場で車両のお祓いがあります。
祈願殿の横から本殿に向かいます。石灯籠の先に、大きな鯉がいる心字池に太鼓橋が架かっています  
   
太鼓橋の先に左に手水舎、右に祓舎があり、その先正面に神門があります。神門を入ると拝殿になります。
沖ノ島の沖津宮に田心姫神(たごりひめのかみ)、大島の中津宮に湍津姫神(たぎつひめのかみ)、ここ宗像市田島の辺津(へつ)宮に市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)がそれぞれ祀られています。この三宮の総称が宗像大社です。
   
奥の本殿は、1578(天正6)年大宮司宗像氏貞によって再建されました。本殿・拝殿ともに国指定重要文化財です。この本殿は第一宮(ていいちぐう)で、宗像神の本宮です。本殿は五間社流造(ごけんしゃながれつくり)です。流造の構造は切妻・平入で、屋根が反り、流線的に前にのびています。屋根の棟と平行な面が平で、その面に出入口があるのを平入といいます。五間社は柱の間が五間ある構造になっています。
辺津宮の手前の拝殿は、1590(天正18)年筑前領主小早川隆景によって再建されました。拝殿は切妻入造(きりつまいりつくり)です。屋根の最頂部の棟から地上に向かって二つの傾斜がある山形の屋根が切妻造です。屋根の棟と直角な面が妻で、その面に出入口があるのを妻入といいます。拝殿・本殿とも板葺の一種の柿葺(こけらぶき)です。
 
   
拝殿の右側にある門を出て、森の中を本殿の後方に進みますと道が交差します。そこを先に進み、左の奥の石段を昇り、山中に入って行きます。そう高くない山上に高宮(たかみや)があります。宗像神の降臨の地といわれ、社殿が創建されない時代の祭祀の地といわれています。
   
道が交差した所まで戻り、右に行きますと、本殿の後方になります。そこに第二宮(ていにぐう)、第三宮(ていさんぐう)があります。第二宮には沖津宮の田心姫神が祀られています。  
   
第三宮には中津宮の湍津姫神が祀られています。
   
拝殿まで戻り、反対の左側にある門を出ると神宝館があります。沖ノ島の遺物が神宝館に展示されています。
沖ノ島は玄界灘に浮かぶ孤島で、沖津宮のある神域の島で、一般の人は近づくことはできません。縄文時代・弥生時代からの遺跡がありますが、4世紀後半より祭祀遺跡が登場します。あまりに大量で、貴重な遺物があるので、沖ノ島は海の正倉院と呼ばれています。
 
   
宗像大社の駐車場前の信号を右折します。釣川を渡り、右手に鎮国寺の案内がありますので、それに従って山手に入って行けば、鎮国寺に着きます。
806(大同元)年、空海が唐より帰朝後初めて創建したのがこの鎮国寺といわれています。中央に護摩堂があります。空海作と伝えられている、国指定重要文化財の秘仏の不動明王立像が安置されています。4月28日の紫灯大護摩供で開扉されます。
   
護摩堂の右は本堂です。本堂は、1650(慶安3)年福岡藩主黒田忠之により建立されたものです。五体の仏像が安置されています。  
   
県道69号宗像・玄海線に戻り、北の神湊(こうのみなと)に向かいます。国道495号線との神湊交差点を直進しますと、神湊渡船ターミナルがあります。市営渡船のターミナルで、神湊と大島の間を大島渡船が、神湊と地島(じのしま)の間を地島渡船が往復します。
大島は宗像市に含まれますが、別個に紹介しますので「北九州の近隣」の「大島」をご覧ください。
   
神湊から北東方向の鐘崎を見ています。左端は鐘崎の先端の岬で、織幡宮があります。
神湊から東方向を見ています。連なる山は宗像と遠賀の境の山です。左側が標高471mの湯川山で、右側が499mの孔大寺山(こだいしやま)です。海岸沿いの緑の帯は、釣川河口の先から東に伸びているさつき松原です。
神湊から国道495号線に戻り、左折して、東に向かいます。国道495号線の釣川に架かった皐月橋の手前を左折します。釣川の河口です。白波の先が玄界灘です。正面に地島が見えます。  
   
皐月橋に戻ります。対岸に道の駅むなかたがあります。国道495号線を東進します。右手にある玄海ゴルフクラブを過ぎ、坂を上り左手の玄海ロイヤルホテルの前を過ぎて坂を下ると、瀬戸交差点があります。そこを左折し、県道502号玄海・田島・福間線を北上し、上八(こうじょう)交差点を直進して鐘崎の港町に入って行きます。左手に入って行くと鐘崎港です。直進すると織幡宮(おりはたぐう)の鳥居前に着きます。背後の岬の山上に社殿はあります。
   
織幡宮前からの鐘崎港の眺めです。767(神護景雲元)年、宗像氏がこの地に船が波風を避けるための船瀬を築いたのが最初の記録のようです。この一帯は北西の季節風が強いため波止建設と破壊が繰り返されました。鐘崎港は福岡と北九州の中間になるため、沖合い・沿岸漁業の基地になっています。
   
織幡宮前からの神湊の眺めです。中央から右付近が神湊渡船ターミナルです。背後の山は北西の海に突き出た山で、その先端は草崎といい、この岬が神湊を季節風から守っています。この左手に草崎はあり、その更に左手に無人島の勝島があります。
織幡宮前から北西の眺めです。手前が地島で、先方が大島です。神湊から北西に勝島、大島、玄界灘のはるか遠くに沖ノ島と一直線に並んでいます。
織幡宮の鳥居をくぐると、右手に海女の像があります。鐘崎は海女発祥の地といわれています。海女達は能登・長門・壱岐・対馬に出稼ぎに行きました。先祖は鐘崎海人といわれ、航海術に秀でた人々でした。宗像氏は海洋豪族として宗像を支配しましたが、その配下には玄界灘沿岸の海人がいました。
   
海女の像の向かい側の左手に大きな岩があります。岬の先に神功皇后が三韓より運んできた釣鐘が沈んでいるという沈鐘伝説がこの地には古くから伝えられていて、鐘崎の地名のいわれともなっていました。過去にもこの地の領主達によって釣鐘を引き揚げることが試みられましたが、ことごとく失敗しました。1919(大正8)年山本菊次郎が引き揚げたのは、釣鐘でなくこの岩でした。  
   
古代より朝鮮半島との交流は盛んで、中国・朝鮮半島から渡来文化が入ってきました。特に任那や百済から多くの技術者が渡来しました。渡来した氏族を率いたのが、秦(はた)氏の先祖の弓月君(ゆづきのきみ)や阿知使主(あちのおみ)でした。阿知使主は勅命で中国の呉の国に赴き、染色、機織、裁縫の縫工女(きぬぬいひめ)を求め、4人を招きました。宗像に上陸した際、工女1人を宗像神が請われたため、一人が宗像に残り、技術を伝えました。
織幡宮の社殿です。祭神は神功皇后に従った武内宿禰(たけのうちのすくね)です。織幡宮は、縫工女が招かれる以前、神功皇后が三韓出兵の際、ここで武内宿禰が軍旅を整え、軍旗を織らせたことに由来します。
   
社殿前の石段の横の道沿いに沓塚(くつづか)があります。武内宿禰は神功皇后の子、応神天皇の代に風光明媚なこの地を訪れ、自分が死んだ時は、この地で安寧の守護神になろうといいました。筑紫に遣わされている時、天皇への宿禰の弟の讒言により、刺客が派遣されますが、忠臣の真根子が身代わりになりました。のち疑いを晴らします。宿禰の死後、真根子の子孫の壱岐氏が、宿禰が昇天した時、唯一残された沓(くつ)を葬り、異敵退散の守護神として祭ったことが伝えられています。織幡宮は、927(延長5)年成立した延喜式に記載がある式内社です。境内の裏山一帯は、県の天然記念物に指定されているイヌマキの天然林をはじめとして、種々の樹木が茂っています。  
   
上八(こうじょう)交差点に戻り、県道502号玄海・田島・福間線を南下します。すぐ先の右手にマルヨシ醤油があります。そこから左折して田地の中を進むと、集落があります。その中を道なりに進むと宗像氏貞の墓地の案内があります。林の中に宗像氏貞の墓地があり、その上に塔が立っています。氏貞は8歳で宗像大宮司職に就き、42歳で蔦岳城で亡くなりました。
   
県道502号玄海・田島・福間線に戻ります。瀬戸交差点の直進し、田向交差点を左折して県道75号若宮・玄海線を南下します。最初に国道3号線から入って来た県道69号宗像・玄海線のJR教育大前駅の西側の赤間西交差点に出ます。1988(昭和63)年、教育大前駅は開業しました。駅を設置する土地がないため、線路を跨ぐ舞鶴橋の横に線路を跨ぐように駅舎はつくられ、階段を下りてホームに降りて行きます。  
   
教育大前駅から県道69号宗像・玄海線を東に行くと左手に福岡教育大学があります。1876(明治9)年福岡師範学校として発足し、1949(昭和24)新制大学の福岡学芸大学となりました。大学は県内に分散されていましたが、1966(昭和41)年この地に統合移設されて、福岡教育大学と改称されました。キャンパスは、城山の南山麓にあります。
江戸時代、芦屋からは海老津を経て、城山峠を越え、福岡教育大学のキャンパスを横切って下って来ました。
   
教育大前駅に戻り、駅前の舞鶴橋を渡って南に行きます。この道は旧唐津街道筋で、この先に赤間宿がありました。道が狭く、一方交通で車は進入できませんので、先程左折した赤間西交差点をこちらからは左折します。  
   
坂道を下って行くと、左手に須賀神社の鳥居があります。その側に道標が立っています。「従是左芦屋」(これより左芦屋)は左に行くと唐津街道の芦屋宿に到る、「従是右木屋瀬」は右に行くと長崎街道の木屋瀬宿に到ることを示しています。
   
街道筋の鳥居を入って行くと、須賀神社の石段の前に出ます。素盞鳴命(すさのうのみこと)・事代主神(恵比須神)・菅原道真が祭神です。7月14・15日には祇園祭があります。  
   
手前の鳥居を入った左手に、節婦阿政之碑(せっぷおまさのひ)が立っています。江戸時代、政は後妻の娘として誕生します。両親が早くに亡くなり、政は家督を継いだ腹違いの姉夫婦に育てられます。政が18歳になると、姉夫婦から大庄屋の嫁の縁談が持ち込まれました。しかし、政には父が言い遺した許婚(いいなずけ)がいました。しかし、許婚は本家筋でしたが、貧しい家でした。政は義理と貞節の間で思い悩みました。婚礼の夜、遺書を残して、自害しました。現在の倫理観からは、理解の難しい説話です。
その碑の左側は、江戸時代の徳重村の篤農家の顕彰碑です。
   
街道筋の鳥居前に戻り、先に進みます。右手に浄土宗の法然寺があります。  
   
法然寺の先は赤間上町交差点です。交差点の手前を右に、法然寺の横手に行くと五卿西遷之碑(ごきょうせいせんのひ)が立っています。1863(文久3)年、八・一八の政変で、公武合体派に敗れた尊王攘夷派の七卿は、長州へ落ちました。途中二人が欠けた三条実美(さねとみ)以下五卿は、第一次長州討伐の結果、大宰府に配流となりました。大宰府への途中、1865(元治2)年1月18日五卿は赤間に入り、滞在しました。
   
赤間上町交差点を直進します。赤間宿の旧唐津街道筋は緩やかな下り坂の通りです。白壁の町屋が所々にあります。現在は十数軒になったといわれています。次の宿場は畦町宿(福津市)でした。  
   
赤間宿出身の一番の有名人は出光石油の創業者出光佐三です。ここが出光佐三の生家です。
   
旧赤間宿の中間に街道の駅赤馬館が2014年にオープンしています。観光情報を提供し、喫茶・休憩処、食事処、おみやげ処があります。建物は旧宿場にふさわしい町屋になっています。
その隣の建物が、清酒楢の露の勝屋酒造です。創業は1790(寛政2)年です。
下は勝屋酒造の公式サイトです。
  http://www.katsuyashuzo.com/
 
   
赤間上町交差点に戻り、そこから東に進みます。交差点を過ぎたすぐ左手に熊越池があります。周辺は公園になっていて、道路横に駐車場があります。国道3号線の下をくぐり、釣川沿いに進みます。木屋瀬宿への旧街道筋で、県道29号直方・宗像線です。武丸交差点を右折し、県道を離れ、吉武小学校の前を通り、案内板に従って左折し、山手に入って行きますと、正助ふるさと村があります。江戸時代実在した孝子正助に因んだ農村公園です。この洋風な建物はもやいの家といい、地元の農産物を直売したり、研修室などがあります。もあいは共同という意味です。
下は正助ふるさと村の公式サイトです。
  http://www.syosukemura.com/
   
もやいの家の奥、石段の上の左手は茶屋で、右手に正助資料館があります。石段の下を奥に進んで行きます。若い正助さんが父を背負った銅像が立っています。
1671(寛文11)年、武丸の貧農の家に正助さんは生まれました。あまりの貧しさに、父母とも別れ別れに人に雇われて暮らしていました。正助さんは一生懸命働きました。そのうち田を買い、やっと父母と3人一緒に暮らせるようになりました。父母に尽くし、その孝行ぶりは評判になりました。その噂は黒田の殿様にも伝わり、褒美を戴くほどになりました。
 
   
正助さんの銅像の先に、墓地があります。その中に手前の正助さんの墓があり、奥に父母の墓が並んで立っています。
   
もやいの家の前は田畑で、その先に花を栽培している花ハウスがあり、他に木造の農園売店や体験農園、市民農園などがあり、これらを含めて正助ふるさと村になっています。  
   
武丸交差点に戻る途中で、先方に標高369mの城山(蔦岳、つただけ)が見えます。この山上に蔦岳城がありました。宗像大宮司氏貞がそれまでの旧城に対し大規模な築城を行い、大宮司家の本城を白山城から蔦岳城に移しました。1587(天正14)年氏貞は病死しました。その後、蔦岳城は破却されました。
武丸交差点に戻り、県道29号直方・宗像線の横の鳥居をくぐって、坂を上り、坂を下って行った所に鳥居が立っています。鳥居の先の石段を上って行くと、八所宮があります。祭神がイザナギ・イザナミなど四夫婦の神ですので、八所宮といいます。
神武天皇の東征の際、神々が赤馬に乗って現れ、軍を先導したとのことから、赤馬そして赤間の地名が付いたといわれています。また吉(よ)き所に留まり給わったということで、八所宮がある所を吉留といいます。
   
八所宮から県道29号直方・宗像線に戻る手前で右手に入って行くと、清酒亀の尾の伊豆本店があります。創業は1717(享保2)年です。
下は伊豆本店の公式サイトです。
  http://www.kamenoo.com/
 
   
赤間上町交差点に戻り、直進して県道69号宗像・玄海線の赤間西交差点に出ます。左折して県道69号宗像・玄海線を西に進みます。左手にJR赤間駅が見えます。1890(明治23)年9月の九州鉄道の博多・赤間間の開業時に赤間駅も開業しました。その間の駅は、博多・箱崎・香椎・古賀・福間・赤間でした。現在の駅は新しくなっています。橋上駅になっていますので、改札口前の連絡橋を通って、南口に行きます。こちらは赤間駅南口です。南口の南側には、自由ヶ丘の住宅団地が広がっています。
赤間駅北口の前の県道69号宗像・玄海線を西に進みます。釣川の東郷橋を渡ると、県道97号福間・宗像・玄海線になります。
   
県道97号福間・宗像・玄海線の宗像警察署入口交差点を左折します。JR鹿児島本線の跨線橋を渡ります。右手の高台に宗像市市民活動交流館メイトムが見えます。市民学習ネットワーク、ボランティアセンター、男女共同参画推進センター、子育て支援センター、社会福祉協議会などの拠点になっています。  
   
案内に従って南に行くと、テニスコートの横を通って宗像ユリックス本館の裏手に出ます。ユリックス本館の西隣は古墳公園になっています。左が前方後円墳です。前方部分から見ています。古墳公園は5世紀頃の久原澤田(くばらさわだ)古墳群です。墳丘を囲む溝から埴輪が出土しました。先方に円墳3基が保存されています。宗像ユリックスの建設に伴って、1985・6(昭和60・61)年に発掘された、弥生から鎌倉に至る久原遺跡の一部です。
   
古墳公園から宗像ユリックス本館の前の道路に歩道橋が架かっています。この辺一帯は宗像市総合公園として整備をされ、宗像ユリックスはその中心施設です。総合公園は道路で南北に分かれています。ユリックス本館は北側にあります。南側に歩道橋を渡ると温水プールがあるこのアクアドームが見えます。他に広場などの野外施設があります。  
   
北側に戻ります。宗像ユリックス本館入口です。本館にはイベントホール・ハーモニーホールや展示室・会議室があります。
下は宗像ユリックスの公式サイトです。
  http://yurix.munakata.com/
宗像ユリックス本館前、宗像市総合公園を南北分ける道路を西に行くと、日の里3丁目交差点に出ます。そこを右折しますと、JR東郷駅日の里口に出ます。駅の南には日の里団地が広がっています。日の里口は線路より一段高い所にあります。駅の連絡橋を通って、東郷駅北口に降りて来ました。こちらが東郷駅北口です。東郷駅は1913(大正2)年に開業しました。
東郷駅日の里口から日の里3丁目交差点を直進して進みますと、国道3号線に出ます。


You Tube でこのページの動画がご覧になれます
この先をクリックしてください → 宗像


トップへ

北九州の近隣へ

ホームへ