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田川市・福智町
  田川市・田川郡福智町  [2010/05/22]
 

筑豊は遠賀川の下流域を除く、支流を含めた広い流域です。鞍手・嘉穂郡(明治29年に嘉麻・穂波郡が合併してできる)と田川郡の3郡の地域を指し、かって日本最大の炭田地帯でした。旧藩時代の筑前(前の2郡)と豊前(後の1郡)の国名をとって明治以降筑豊と呼ばれました。筑豊は直方・鞍手の直鞍地区、嘉穂・飯塚・山田の嘉飯山地区、田川郡の田川地区に分かれます。その田川地区の中心が現在の田川市です。
支流を含めた遠賀川流域の筑豊は、古代より開けた地域でした。江戸時代、筑豊で石炭が発見されると、遠賀川流域から舟で河口の芦屋や若松に運びました。江戸時代には、現在の田川市域には16村ありました。明治に入ると19村になり、1889(明治22)年には4村に合併されました。そのうち3村が後藤寺町・伊田(いた)町になり、1943(昭和18)年2町が合併して田川市が誕生しました。1955(昭和30)年、田川市は残り1村の猪位金村(いいかねむら)を併合しました。
田川郡福智町は、2006(平成18)年3月田川郡赤池町・金田町(かなだまち)・方城町(ほうじょうまち)の3町が合併して発足しました。福智町は田川市の北に位置し、福智町の北東が北九州市小倉南区と接します。
八幡西区馬場山から国道200号線バイパスを南下します。田川方面の案内がある所からバイパスを下りて行き、下の県道22号田川・直方線バイパスが交差している直方市下境の交差点を左折して、田川方面に進みます。しばらく進むと福智町に入ります。県道田川・直方線バイパスの下り坂を下りた、上野焼(あがのやき)の里の案内がある宮馬場交差点を左折します。
左折するとすぐ右手に福智下宮神社があります。福智山の山頂には福智権現が祭られた石祠の上宮があり、上野峡近くに福智中宮神社があります。福智下宮神社は、福智権現の下宮です。
福智下宮神社の鳥居を入ったすぐ左手に、河村光陽生誕地の石碑が立っています。
河村光陽は「かもめの水兵さん」「うれしいひなまつり」「グッドバイ」「船頭さん」「赤い帽子白い帽子」「仲よしこみち」「リンゴのひとりごと」「早起時計」などの童謡を作曲して、昭和10年代に活躍しました。光陽は神社の隣接地で誕生しました。
進行方向に山々が見えます。中央の山の右奥が標高901mの福智山の山頂です。山頂は北九州市・直方市・福智町の境に位置し、一帯は北九州国定公園になっています。左は標高633mの鷹取山です。
先を進みますと左手に上野の里ふれあい交流会館があります。交流会館は、この建物の上野焼陶芸館と、左奥の農産物直売所のふれあい市からなっています。陶芸館では上野焼の展示と即売を行っています。上野焼の窯元は交流会館の手前やバイパス沿いにも数個所ありますが、主にここから上野峡にかけての山沿いにあります。4月下旬には上野焼窯元では、春の陶器祭りが開かれます。
陶器祭りや陶芸館の展示会については、下の上野焼協同組合(陶芸館)の公式サイトをご覧ください。
 http://www.earthland.jp/agano/
1602(慶長7)年、細川忠興(ただおき)は小倉城を築きました。忠興は朝鮮から渡来した陶工尊楷(そんかい)を招き、福智山麓上野(あがの)で窯を開きました。尊楷は上野喜蔵高国と改名しました。忠興は三斎(さんさい)と号するように風流人でしたので、三斎好みの作品がつくられました。喜蔵は小堀遠州の茶事を学び、その意匠を受けて作陶しましたので、上野焼は高取焼と並んで遠州七窯の一つに数えられました。
すぐ横は庚申窯で、先は高鶴窯です。この手前に八幡窯がありますが、その手前を右折すると、興国寺が左手にあります。そこから東北の山手に4・500m上った所に、喜蔵が上野で最初に開窯した釜の口窯跡があります。
1632(寛永9)年、細川家が肥後熊本に移封されると、喜蔵は肥後八代に移り八代焼を始めました。三男孫左衛門(改姓し十時氏、とどき)が上野に残り、新たな小倉藩主小笠原家に仕え、藩窯として栄えました。
この先、道は狭くなり、曲がりくねって上って行きます。上野峡入口の手前に十時窯がありますが、その付近に皿山本窯跡があります。釜の口窯開窯15年後頃に開窯され、1887(明治20)年頃まで続きました。上野焼と高取焼の第一窯の釜の口窯と永満寺宅間窯は、お互いに山や谷で阻まれ、真っ直ぐには行かれませんが、直線で1km程度しか離れていません。10年程、この近距離でお互いが作陶していました。
更に上って行くと、福智川に架かった城山橋があります。同じ福智山を水源にする川、福地川は隣の直方市を流れ、その上流に福智山ダムがあります。城山橋の手前から右手に山道が伸びています。車1台が通れる道路です。途中に駐車場があり、その先のカーブを曲がると、右手に福智中宮神社の鳥居が立っています。十時窯から真っ直ぐ福智中宮神社に向かう道もあります。
鳥居の側を通って行った先が駐車場になり、そこからは徒歩になります。駐車場の手前に、有料ですが天然ラドン鉱泉水を汲める所があります。
駐車場の先を行きますと、すぐに下り坂になり、谷川に架かった橋に下りて行きます。その先を渓谷沿いに登って行くと、白糸の滝に着きます。白糸の滝は落差25mで、山伏の行場でもあります。
上野の里ふれあい交流会館の前を通って、県道22号田川・直方線バイパスに戻り、左折して先に進みます。バイパスの坂を上った所に風呂ヶ谷交差点がありますので、右折して坂を下って行きます。坂を下った所の右手に迎接院定禅寺があります。4月下旬から5月上旬にかけて定禅寺境内で藤の花が咲きます。迎接(こうじょう)の藤と呼ばれ、藤の樹齢は500年を越えるといわれています。
定禅寺の前を進むと、彦山川に架かった宝見橋に出ます。上流から宝見橋を見ています。川を挟んで、こちら側が方城で、向こう側が金田で、川を下ると中元寺(ちゅうがんじ)川が合流し、そこから彦山川の両岸が赤池になります。
江戸時代、福智町の赤池は小倉藩の田川郡における物資の集散地でした。石炭も焚石会所が置かれて集荷され、下流の遠賀川に川ひらた(五平太船)で輸送されました。1891(明治24)年筑豊興業鉄道は若松‐直方間の鉄道を開業しました。遠賀川の支流彦山川と中元寺川が赤池と金田の境で合流しますが、川が浅いため赤池で小型船から大型船に積替えていました。中継基地であった赤池は賑わっていました。赤池には赤池炭坑がありましたので、直方から赤池に鉄道を延長しょうとしましたが、船頭達が反対したため、1893(明治26)年その先の金田に延長し、駅をつくりました。金田は一時期この周辺の中心として活況を呈しました。方城には三菱が進出し、1902(明治35)年方城炭坑は第1・2竪坑の開削に着手しました。
宝見橋を渡った先に平成筑豊鉄道の金田(かなだ)駅があります。
1893(明治26)年筑豊興業鉄道は、直方から金田まで支線を開業しました。九州鉄道は筑豊興業鉄道を合併し、1899(明治32)年豊州鉄道の伊田まで延長しました。この直方-伊田が伊田線になりました。1895(明治28)年豊州鉄道は行橋‐伊田間を開業しました。1897(明治30)年伊田から後藤寺に伸ばし、後藤寺から炭坑のある3方向に延長しました。その1本が宮床(現在糸田)に延長されました。後、豊州鉄道は九州鉄道に吸収され、1907(明治40)年九州鉄道は国有化されました。1927(昭和2)年金宮鉄道が糸田と金田間を開業しました。後この線は九州産業鉄道(のち産業セメント鉄道)となり、1943(昭和18)年国に買収されて、国鉄に編入され、金田と後藤寺間は糸田線になりました。
国鉄は民営化されJRになりますが、1989(平成元)年直方‐伊田間の伊田線、行橋‐伊田間の田川線、金田‐後藤寺間の糸田線は第三セクターの平成筑豊鉄道になりました。
金田駅の前を左折します。しばらく行った左手奥に福智町役場があります。旧金田町役場跡地になります。
伊田線の反対側に中元寺川が流れています。金田駅が開業すると、後藤寺・糸田方面から中元寺川を下って来た川ひらたは、ここで石炭を鉄道に積み替えました。金田には金田炭坑があり、駅ができると金谷炭坑が開坑しました。その後開坑された方城炭坑からも金田駅に石炭が運ばれました。一大石炭輸送基地になった金田駅の周辺には、商店が並び市街地が形成されました。
福智町役場の前を進みますと、敷島交差点に出ます。そこを左折しますと、彦山川に出ますので、伊方橋を渡り直進し、最初の十字路を左折して坂を上ります。
右手に天満宮がありますが、その前に法華屋敷遺跡があります。前の道路工事中に発見されたもので、約2200年前の弥生時代前期末の遺跡です。米の貯蔵穴や土器が発掘されました。この先道路沿いに方城中学があり、並んで伊方小学校があります。その小学校周辺からも弥生時代の遺跡が発見されています。弥生時代前期末のものと、約1800年前の弥生時代後期後半の竪穴住居跡が発掘されました。
伊方小学校の先を行くと、右手に伊方古墳があります。
伊方古墳は約1400年前の古墳時代後期の直径32mの円墳です。墳丘を取り巻く周溝があります。道路の反対側に石室入口があります。石室は前室と玄室の複室構造の横穴式石室です。馬具や須恵器など副葬品が発掘されています。
古墳の先の道路側に伊方石丸遺跡の案内板があります。古墳の手前にあった遺跡で、道路工事に先駆けて発掘され、現在は道路の下に眠っています。約2100年前の弥生時代中期の土壙墓(どこうぼ、素掘りの穴に木や石で蓋をした墓)、木棺墓、甕棺墓が発掘され、時代が流れて鎌倉時代の井戸などが発見されています。
伊方古墳の前の道路を道成りに進みますと、県道22号田川・直方線バイパスの交差点に出ますので、右折してバイパスを進みます。
県道22号田川・直方線バイパスの東長浦交差点を過ぎると、左手にスレート葺きの工場群があります。その先の交差点に岩屋(ごうや)公園の案内板あります。そこを左折し、次の交差点をまた左折して、田川新生病院の前を通り、岩屋公園の案内板の所を右折します。右折すると左手に須佐神社の鳥居があります。鳥居をくぐって、須佐神社の社殿の方に向かいます。
須佐神社の社殿の左横からあぜ道に通じています。そこを行くと、岩屋(ごうや)鍾乳洞があります。その入口です。
入口の上の方に博打(ばくち)の木があります。亜熱帯から温帯にかけて分布する常緑樹で、この様な内陸部に生育するのは珍しいことだそうです。樹皮がうろこ状に剥がれ落ちるのが、博打に負けて身ぐるみをはがされる様を連想させることから付けられたようです。
岩屋鍾乳洞の入洞は、案内板に表示されているお宅を訪ねて、氏名・住所・連絡先を記入して鍾乳洞の鍵を預かります。
この付近は田川市夏吉で、香春町に隣接した石灰岩地帯です。この付近には鍾乳洞が他にもありますし、岩屋は洞穴を意味するようです。岩屋鍾乳洞は入口から約160mは整備されています。
来た道を戻ります。田川新生病院の前を通り、県道22号田川・直方線バイパスから入って来た交差点を直進します。県道456号金田・夏吉・伊田線との交差点に出ます。その先、金辺川の夏吉橋の手前を左折すると、その先に若八幡神社があります。
若八幡神社です。その由緒の概略は次の通りです。
景行天皇の熊襲平定に、この地の神夏磯姫(かむなつそひめ)が協力しました。姫の後裔の夏羽は、妹が神功皇后暗殺を企てたのを援けようとしますが、失敗して逃げ帰った所を焼き殺されました。それ以来夏羽焼から村は夏焼と呼ばれました。のち夏羽の霊を鎮めるため、宇佐より八幡宮が勧請されました。八幡神の応神天皇とともに若宮の仁徳天皇も祀られましたので、若八幡と呼ばれました。江戸時代、藩主小笠原忠真(ただざね)が巡国の折この神社に詣で、夏焼を夏吉に村名を改称しました。
4月第4土日の2日間、若八幡神社の神幸祭があります。神幸祭とは、神体や依代を神輿に移し、氏子がいる地域に行幸し、お旅所に御渡りする五穀豊穣を祈る神社の祭礼です。
神輿の行幸には山笠が随います。お旅所の前で勇壮に山笠を前後に倒すガブリを繰り返し、橋を渡って行きます。
金辺川の右岸に若八幡神社はありますが、お旅所は上流の片辺橋の左岸の広場にあります。前日にお旅所に渡った神輿は、2日目に神社に戻ります。バレンで美しく飾られ山笠も随伴し、橋を渡って行きます。後に香春岳が見えます。
田川地区の神幸祭は4・5月に行われます。田川郡添田町の英彦山神宮の神幸祭が4月第2土日に行われのが最初で、若八幡神社の神幸祭は田川市内のものでは最初の日程になります。
若八幡神社のお所がある片辺橋の先に行き、金辺川の上流の堤防方向を眺めています。向こうに香春岳の三山があります。
一ノ岳は石灰石採掘で切り取られています。五木寛之の「青春の門 筑豊篇」の冒頭は、「香春岳は異様な山である。」です。この一ノ岳を含めた香春岳の描写から始まります。標高491mあった一ノ岳は、1935(昭和10)年以降セメント会社により石灰岩が採掘され、現在は半分切り取られたようになっています。その後が二ノ岳、そして三ノ岳になります。その所在は隣町の田川郡香春町(かわらまち)です。
若八幡神社に来た県道456号金田・夏吉・伊田線の夏吉橋まで戻り、橋を渡り直進します。国道201号線の夏吉交差点を通り過ぎ、そのまま直進し、国道322号線の東町交差点に到ります。東町交差点を左折し、右先方の高台に伊田中学校が見える所に、右に入る道があります。そこを入り、坂を上って行くと、道が伊田中学校方向にカーブする所から右に入る道があります。そこを右に入って行くと、左手に公園があり、その一角にセスドノ古墳があります。
セスドノ古墳は5世紀末頃の古墳時代中期の円墳です。墳丘は直径37mある田川地区最大級の円墳で、横穴式石室があります。馬具や鉄製武器などの出土品は、田川市石炭・歴史博物館の2階に展示されています。
国道322号線の東町交差点まで戻り、そのまま国道を進みます。次の鉄砲町交差点で、国道は右に行きますが、左を進みます。先に行きますと彦山川に架かった新橋に到りますので、渡り直進します。
新橋の先、道はJR田川伊田駅の前を右にカーブします。駅はカーブにある信号を左に入るとあります。駅前をそのまま進むとカーブのもとの道に戻ります。
田川伊田駅はJR日田彦山線と平成筑豊鉄道の駅です。
1915(大正4)年小倉鉄道が東小倉(現在駅はありません)と上添田(現在添田)間を開業しました。1895(明治28)年豊州鉄道は行橋‐伊田間を開業しました。後、豊州鉄道は九州鉄道に吸収合併され、1907(明治40)年九州鉄道は国有化され、小倉鉄道の開業時には、国鉄田川線は伊田の先の添田(現在西添田)まで開通していました。田川線は彦山まで延長され、1943(昭和18)年小倉鉄道は国営化され添田線になりました。戦後の1956(昭和31)年更に南へと、九大線の夜明から分岐された北への線路と結ばれました。その後短絡線が設置されたり、一部を廃線し、並行している香春と添田間は添田線とし、城野と夜明間が日田彦山線になりました。列車は小倉から日田まで運転されます。国鉄は民営化されJRになりますが、1989(平成元)年直方‐伊田間の伊田線、行橋‐伊田間の田川線、金田‐後藤寺間の糸田線は第三セクターの平成筑豊鉄道になりました。
田川伊田駅の西側に伊田商店街が広がっています。アーケードは東西に長く、その先南北に伸びています。
JR田川伊田駅の前を右にカーブする道の右手に風治(ふうじ)八幡宮はあります。
社伝によりますと、海津見神(わたつみのかみ)を祀った地主神は、伊田大神と称していました。神功皇后がこの地で休憩していると暴風雨になったため、皇后が伊田大神に祈願したため、風雨は治まりました。平安時代、旱魃時に最澄(伝教大師)が伊田大神に祈願しますと、五穀豊饒になりました。社殿が造営され、この霊験を後世に伝えるため、風の一字が与えられ、風宮となりました。江戸時代に入ると、藩主小笠原氏の崇敬は厚く、風治の字を贈られ、風治八幡宮と称しました。
鎌倉時代の伊田別符(いたべっぷ、別符は別納徴符や国司免符により開発された所領)は弥勒寺(宇佐神宮の神宮寺)の所領でしたので、荘園守護神として八幡神が勧請されたと思われます。
風治八幡宮の道路の前の鳥居の左手に神功皇后御腰掛石があります。
神功皇后が朝鮮より帰還し、長門の豊浦宮に帰られる途中、この石に腰掛て休憩していると風雨が強くなり、先に進めなくなりました。そこで皇后が伊田大神に太刀を献じて祈願されたところ、風雨が治まりました。
北部九州には神功皇后伝説が広く残されています。そのひとつに神功皇后御腰掛石があります。
5月の第3土日曜に風治八幡宮の川渡り神幸祭があります。1日目の午後、風治八幡宮の神輿が通りに下りて来ました。白鳥神社の神輿と合流します。
戦国時代の永禄年間(1558-70)、伊田村に悪疫が流行した際、氏神の風治八幡宮に祇園社(祭神は須佐之男尊、すさのおのみこと)を勧請し、終息を祈願したのが川渡り神幸祭の始まりと伝えられています。祇園祭と八幡宮の神幸祭が習合されたと思われます。
川渡り神幸祭は県無形民俗文化財に指定されている筑豊を代表する祭りで、彦山川を11台の山笠が勇壮に渡ります。川渡り神幸祭の日程や各山笠について、駐車場の案内などについては、下の川渡り青年友志会による「福岡県無形民俗文化財指定 風治八幡宮 川渡り神幸祭」の公式サイトをご覧ください。
 http://kawawatari.com/
川渡り神幸祭の山笠は幟(のぼり)山笠です。前には神殿があり、周りを上幕と下幕で囲まれていて、下には車輪が付いています。白と緋色の旗幟が20本ほど立てられ、中央には真棒が立てられ、それに100本以上のバレンが取り付けられ、その上に箱、三つ輪、御幣が付けられます。山笠が風治八幡宮に集まった時に真棒やバレンは取り付けられ、各地元に戻る時に取り外されます。山笠のお囃子は、鉦(かね)、太鼓、笛です。
川渡り神幸祭1日目、白鳥神社では例大祭、更に神幸祭祭典の神事が行われ、白鳥神社の神輿が風治八幡宮に向かいます。風治八幡宮でも例大祭の神事が行われます。その後に神幸祭祭典の神事が行われます。各山笠が風治八幡宮に集まって来ます。白鳥神社の神輿が風治八幡宮に着き、風治八幡宮の神輿とともに彦山川に向かいます。獅子舞が奉納されて祭の安全が祈願されます。川渡り神事が行われ、川渡り競演会があります。神輿が彦山川から上陸し、対岸のお旅所に入ります。神輿、山笠はお旅所で一晩過ごします。
2日目、還幸祭の神事があり、無事を祈っての獅子舞が奉納されます。神輿、山笠が彦山川に入って川渡り神事が行われます。神輿、山笠は上陸し、神輿は風治八幡宮と白鳥神社に還ります。各山笠も各地元に戻ります。
彦山川に入った山笠の向こうの山は香春岳です。半分削られた一ノ岳の手前に見える屋根が風治八幡宮のお旅所です。風治八幡宮の対岸に当たります。川渡り神事・競演会の会場は上流の新橋と下流の番田橋の間の彦山川周辺になります。白と緋色の旗幟と五色のバレンに飾られた山笠は華麗ですが、その動きで勇壮と表現されます。山笠を前後に倒すガブリを繰り返す動きを水中でも行います。
風治八幡宮の鳥居の前の道を先に進みます。国道322号線との交差点を左折し、2つの踏切を通り越すと、田川小学校交差点に到ります。そこを左折して坂を下り、更に坂を上って道が右にカーブする所をそのまま直進すると、石炭記念公園に入ります。
田川伊田駅の南側の高台に当たり、その一角に田川市石炭・歴史博物館があります。
1889(明治22)年田川採炭会社が伊田より2kmほど西南西に位置する後藤寺に設立されました。1900(明治33)年三井が田川採炭会社を買収して進出し、後藤寺に本拠を置いたので、後藤寺から発展しました。1909(明治42)年伊田竪坑が完成し、伊田が発展していきました。1943(昭和18)年田川市が発足し、伊田と後藤寺が田川市の中心となりました。
石炭記念公園は三井田川鉱業所の伊田竪坑跡地です。田川市石炭・歴史博物館の1階に三井田川鉱業所伊田竪坑の模型があります。中央左前の柱は、現在の炭坑夫之像の位置を示し、右後の柱は石炭・歴史博物館の位置を示しています。
石炭・歴史博物館の1階には石炭関連の資料や炭鉱の歴史、採掘の様子や道具・機械が展示され、2階の半分では炭鉱を題材にした絵画や文学作品が紹介されています。残り半分は郷土の歴史資料が展示されています。2階に炭鉱画の山本作兵衛の作品が展示されています。
田川市石炭・歴史博物館の開館時間や観覧料については、下の田川市石炭・歴史博物館の公式サイトをご覧ください。
 http://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/sekitan/
屋外には採炭・掘進・運搬などに使われた大型機械類が石炭・歴史博物館の屋外に展示されています。
田川市石炭・歴史博物館の屋外展示場の先に産業ふれあい館があります。産業ふれあい館は2棟の炭鉱住宅を模した木造の建物です。右の棟には明治・大正期の炭住の間取りが再現され、左の棟には昭和期の炭住の間取りが再現されています。
ここまでが有料の田川市石炭・歴史博物館の区域です。
石炭・歴史博物館の前に炭坑夫之像が立っています。昭和10年代の服装をした坑夫と選炭婦の夫婦像です。この像の後方には香春岳三山が見えます。炭坑節に「一山 二山 三山 越え」と歌われているのは香春岳のことです。
炭坑夫之像の側に炭坑節の歌碑が建てられています。また近くには炭坑節発祥の地の碑が建てられています。
炭坑節の元唄は、三井田川伊田坑の選炭婦によって唄われた場打選炭唄でした。仕事唄は宴会などで唄われ、しだいに座敷唄として洗練されていきます。世間で唄われていく中で、ルーツに関しての本家争いがありましたが、ここが炭坑節発祥の地と認められるようになりました。正調炭坑節を下に記します。

香春岳から 見下ろせば 伊田のたてこうが 真正面 12時下がりの サマちゃんが ゲージにもたれて 思案顔 サノヨイヨイ
ひとやま ふたやま みやま越え 奥に咲いたる 八重つつじ なんぼ色よく 咲いたとて サマちゃんが 通わにゃ 仇の花 サノヨイヨイ
月が出た出た 月が出た 三井炭坑の 上に出た あんまり煙突が 高いので さぞやお月さん 煙たかろ サノヨイヨイ
格子窓から 月がさす サマちゃんの寝顔の 愛らしさ はずした枕を すけさしょか 思案なかばに 明けの鐘 サノヨイヨイ
下は田川市の公式サイトの炭坑節のページです。
  http://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/tankoubushi/list.html?pg=1
「炭坑節を歌おう」から「炭坑節を聞く」のファイルを開くと正調炭坑節を聞くことができます。
石炭・歴史博物館の横に伊田竪坑櫓があります。1909(明治42)年に完成しました。櫓の高さ23m、竪坑の深さ300mでした。
下の手前の鉄のかごのようなものが見えますがゲージです。これは2段式のゲージで、人や炭車を載せて地上と地底を往復しました。
当時は、次の大煙突との間に、竪坑櫓はもう1基ありました。
石炭・歴史博物館の後方に大煙突2本が立っています。1908(明治41)年に完成しました。高さ45m余りです。21万余枚の耐火レンガが使われ、主にドイツから輸入されました。2つあった竪坑の巻上機の動力に蒸気が使われ、その燃料に使われた石炭の排煙用に建てられました。戦後巻上機の動力に電気が使われるようになると、病院や炭住の風呂などに使われました。1964(昭和39)年三井田川炭鉱が閉山となり、煙突も使用されなくなりました。
ゲージも竪坑も煙突も炭坑節に唄われています。
石炭記念公園に入って来た所を左折して、南に進みます。次の信号のある交差点を左折します。先の信号機のある交差点の向こう角に鳥居が立っています。白鳥神社です。
最澄(伝教大師)が唐より帰朝の途中、夢に日本武尊(やまとたけるのみこと)が現れ、航海の安全を守るので、高羽川に自分を祀るように告げました。景行天皇やその子の日本武尊は熊襲征伐で田川にも赴いています。景行天皇の巡幸の際、天皇の盃に鷹の羽が落ちてきたことで、鷹羽、高羽が生まれ、田川の地名になったと伝えられています。高羽川は彦山川といわれています。最澄が帰朝し、高羽川を尋ねると、白鳥がこの山に止まったので、白鳥大明神として祭ったといわれ、最澄が豊前・豊後に建てた18の寺院の総鎮守として創建されたと伝えられています。この先の成道寺(じょうどうじ)は最澄によって建立された寺院の一つです。
白鳥神社の後方の山手は、現在は成道寺公園として整備されています。4月下旬にはつつじが一斉に咲き、谷あいには菖蒲園もあります。
白鳥神社の前の信号を過ぎ、次の交差点を右に入りますと、成道寺の山門が見えます。そのまま進むと成道寺公園に到ります。
平安時代初め、最澄が唐より帰朝した後、豊前・豊後に18個所の寺院を建てますが、その内の一つが成道寺(じょうどうじ)です。最初は浄土寺といっていたようですが、兵火にあい、庇護を受けていた領主の没落により、寺も衰退していきました。安土桃山時代、曹洞宗の寺として再建され、江戸時代に成道寺と改められました。
山門を入ると本殿があります。その左手が庭園になっていて、池があります。最澄がこの寺で修行していた時、池の蛙がうるさく鳴くため、これを封じました。このことを忘れて最澄が下山したため、この寺の蛙の鳴き声を聞かなくなりました。世の人はこの池を「鳴かずか池」と呼びました。
成道寺の池の右奥の高い所に、小督局(こごうのつぼね)の墓といわれている石造七重塔があります。
高倉天皇の寵愛を受けていた小督局は、中宮徳子の父平清盛の怒りを買い、追放されました。天皇は腹心を使って小督を宮中に呼び戻しました。しかし、これも清盛に知られてしまい、命からがら大宰府の縁者を頼りに逃げて来ますが病に倒れ、この地でこの世を去りました。この塔は鎌倉から南北朝時代にかけて建立されたと思われ、かっては九重の塔であったといわれています。一般には「小督局の供養塔」と呼ばれています。
国道322号線の田川小学校交差点に戻り、左折して先に進みます。国道322号線はかっての秋月街道の上や近くを通って、秋月に向かいます。田川市役所交差点を過ぎ、跨線橋の鉄橋を過ぎると突き当たりの交差点になります。国道はそこを左折します。
国道322号線の後藤寺本町交差点を左折しますとJR田川後藤寺駅があります。左は後藤寺交番です。
田川後藤寺駅はJR日田彦山線・後藤寺線と平成筑豊鉄道の糸田線の駅です。1895(明治28)年豊州鉄道は行橋‐伊田間を開業しました。1897(明治30)年伊田から後藤寺に伸ばし、後藤寺から炭坑のある3方向に延長しました。北に行くのは平成筑豊鉄道の糸田線、北東から来て南東に行くJR日田彦山線については説明しました。ここから西にJR後藤寺線が伸びています。後藤寺線は田川後藤寺と筑豊本線の新飯塚間です。1897(明治30)年豊州鉄道は後藤寺から貨物支線を西の起行に伸ばします。反対側は、1902(明治35)年九州鉄道が筑豊本線から分岐して、東の三井山野坑に貨物支線を敷きます。豊州鉄道は九州鉄道に吸収され、1907(明治40)年九州鉄道は国有化されました。東からの線路は、その先の炭坑が開坑し、延伸されました。このように東西からの線路は国鉄でした。麻生商会(のち麻生鉱業)は船尾山で石灰石を採取してセメント製造を始めます。1922(大正11)年九州産業鉄道(のち産業セメント鉄道)を設立し、船尾と東の起行間に線路を敷設します。1926(大正15)年には西にも延伸してつながりました。1943(昭和18)年この私鉄も国に買収されて、国鉄に編入され、後藤寺線になりました。
国道と田川後藤寺駅の間に、アーケードのある本町商店街の入口があって南に伸びています。
国道322号線の後藤寺本町交差点に戻り、左折して国道の先を進みます。田川病院下交差点の一つ先の信号機のある交差点を右折して、中元寺川に架かる橋を渡った先の右の田圃の中に、位登(いとう)古墳があります。
位登古墳は、全長52mの田川地区で最大で最古の古墳時代前期の前方後円墳です。箱式石棺に赤色顔料が付いた人骨が残っていました。
国道に戻り、先に進みます。
国道322号線の三ヶ瀬交差点の右側の国道を進みます。右手にある猪位金(いいかね)中学校の横を過ぎ、その先の猪位金小学校の横を進みます。その先に、信号はありませんが右に入る道があります。こちらが秋月街道筋です。この辺りでは猪膝(いのひざ)街道と呼ばれます。右に入るとすぐに、猪膝宿の北構口ですが、当時のものは残されていませんが、道標や灯籠が再建されています。
秋月街道は、江戸時代以前より豊前と筑前・肥前・筑後を結ぶ主要道でした。江戸時代に入っても、筑前との国境近くにある猪膝は、豊前の領主にとっては重要地であったので、すでに宿場の役目を果たしていたと思われます。後藤寺や伊田が繁盛する以前に商業地として栄えていました。
旧宿場筋を進むと、このような醤油醸造元があります。炭坑が繁栄していた時代、この町には3軒あったといわれています。この店の横には、宿場の守護神の石祠の蛭子社があります。
蛭子社の前を通り、先に進みますと、右手に公民館があります。その奥に保育園があります。その前に猪膝宿跡案内絵図が掲示されています。絵図の町並は明治末から大正期のものです。その先左折すると、国道に出ます。その反対の右側は庄屋の屋敷で、藩主が休憩する時に出入りした御成門があります。
その前を通り旧宿場筋を進みますと、右手の高い位置に安養寺があります。急な石段を上って行きます。
更に旧宿場筋を進みますと、太刀洗の井戸があります。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が猪折(いおり)を討った太刀を、この井戸で洗ったとの伝説が残っています。その横の石垣は、猪膝宿南構口の石垣です。反対側はなく、こちら側だけ残されています。構口を出た所からの眺めです。北構口からここまで850mの宿場町でした。
猪膝宿の前は香春宿で、この先は豊前国から筑前国に入り大隈宿になります。
猪膝宿南構口を出た先は、道が少し狭くなります。右手に大きな鳥居が見えてきました。
白鳥神社です。田川市と山田市の境界に帝王山(摺鉢山)があります。そこに、景行天皇が来られたとの伝説が残っています。そこに鎮座していたのをこの地に移し、王太子宮と称していました。1692(元禄5)年藩主小笠原忠雄が訪れ、国境のこの地にあることにより、鎮守大明神と改めました。その額が社殿にあります。更に、1871(明治4)年には白鳥神社と改めました。祭神として景行天皇や子の日本武尊らが祭られています。社殿にはたくさんの絵馬が残されていて、見ることができます。
白鳥神社の先を行くと、国道322号線に出ますので、左折して戻ります。出た所が国道322号の田川バイパスの部分ですので、次の交差点で左折して、通って来た国道322号線に戻ります。猪位金交差点を左折して県道458号線位登・糸田線に進みます。弓削田交差点で左折して県道95号添田・赤池線を進みます。左手に見立病院がありますので、その駐車場付近から左後方、南西の方向の眺めです。
船尾山の石灰石の船尾鉱山です。中央左下の踏切はJR後藤寺線です。
麻生鉱業は、1872(明治5)年に麻生太吉が炭坑開発に乗り出したのが始まりです。その隆盛は麻生を筑豊御三家の一つと呼びました。麻生は、1934(昭和9)年ここで九州セメント鉄道のセメント工場として操業を開始しました。戦後は、麻生鉱業と九州セメント鉄道が合併して麻生産業になりました。しかし、石炭産業は次第に斜陽化し、次々と閉山していきました。現在、多業種が株式会社麻生の下に麻生グループとして活動しています。セメント工場は、フランスのセメント会社と提携して、麻生ラファージュセメント田川工場として、田川地区で唯一のセメント工場として操業しています。
船尾鉱山の北に石灰石の関の山鉱山があり、三井鉱山セメント田川工場がそこでセメントを製造していました。石炭の旧三井鉱山田川鉱業所の離職者を吸収するために設立し、1964(昭和39)年に操業を開始しました。輸送は鉄道の会社専用線を国鉄伊田線の金田まで敷き、門司港まで運んでいました。国鉄民営後も、平成筑豊鉄道を経由してJRで運んでいました。
しかし、公共事業の縮小とともに合理化を進めましたが、立地や生産規模で赤字化は止まらず、2004年(平成16)年会社は清算されました。


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