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大島
  宗像市大島  [2014/08/16]
 

 
大島は玄界灘東端の福岡県下最大の離島で、筑前大島とも呼ばれます。大島は宗像市神湊(こうのみなと)から北西約7km、沖ノ島は更に北西約48kmの日本海にあります。沖ノ島には沖津宮があり、大島には中津宮があり、宗像市田島には辺津(へつ)宮があり、この三宮をあわせ宗像大社です。

天地開闢(てんちかいびゃく)の最後の神の男神イザナギと女神イザナミによって日本の国作りが行われます。スサノオ(素盞鳴命)は、父イザナギから海原を治めるように命じられますが、母イザナミがいる根の国(黄泉の国)に行きたいと願います。スサノオは父の怒りを買って追放され、根の国に行く前に、姉アマテラス(天照大神)のいる高天原にやって来ます。アマテラスはスサノオが攻めて来たのではないかと、武装して応対します。スサノオは姉の疑いを解くために姉と誓約します。その誓約の際、アマテラスはスサノオの剣を噛み砕き、その息の霧の中から三女神が生まれます。スサノオはアマテラスの珠を噛み砕き、その息の霧の中から五男神が生まれます。アマテラスは三女神はスサノオの子、五男神はアマテラスの子と宣言します。この三女神が宗像三女神です。沖ノ島の沖津宮に田心姫神(たごりひめのかみ)、大島の中津宮に湍津姫神(たぎつひめのかみ)、神湊から約4km内陸にある宗像市田島の辺津(へつ)宮に市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)が祭られています。天照大神から宗像三女神は天孫降臨の際の道案内を命じられます。

海北道中は朝鮮半島への海路でした。古代、沖ノ島は海上を往来する人々に神の島として崇拝され、胸形(宗像)氏の神として崇敬されていました。672年の壬申の乱の後、大海人皇子は即位して、天武天皇となります。天武天皇と宗像君徳善の娘の妃との間に高市(たけち)皇子が生まれました。胸形(宗像)氏が天皇家と婚姻関係を持つに到り、その氏族の神が朝廷の内に入っていきました。のち三女神は海北道中の守護神として、道主貴(みちぬしむち)という尊称が与えられています。

沖ノ島は海を渡る人々から多くの信仰を集め、宝物が奉納されました。そして、沖ノ島での祭祀は、朝鮮半島へ航海の安全と対外的交流を願う国家的祭祀になりました。沖ノ島からは縄文時代や弥生時代の土器や石器が発見されていますが、祭祀遺跡は古墳時代からです。祭祀の形態は、4世紀後半~5世紀には巨岩の上で行われた岩上祭祀、5世紀後半~7世紀の巨岩の岩陰で行われた岩陰祭祀、7世紀後半~8世紀前半の半岩陰・半露天祭祀、8世紀~9世紀末の巨岩から離れた平坦地での露天祭祀と変遷しています。沖ノ島で見たり聞いたりしたことは口外してはならない、島から一切持ち出してはならないという禁忌が現代まで引き継がれました。奉納された宝物は約8万点にも及び、シルクロードからの渡来もあり、それらは国宝になっているため沖ノ島は「海の正倉院」と呼ばれます。国家的祭祀が9世紀末に終わると、宗像地域の人々から神の島としての信仰が継承されていきました。社殿が建立されたのは江戸時代に入ってからです。現在も一般の人の立ち入りは禁止されています。

大島には中津宮がありますが、7世紀後半~8世紀後半の奈良時代には沖ノ島・田島と同様の奉納があり、祭祀地域であったことが分かります。平安時代、前九年の役がありますが、その戦いで敗れ、投降した安倍宗任(あべのむねとう)が大島に流されました。10世紀頃から律令国家に帰順した蝦夷である俘囚の長である安倍氏の勢力が拡大しました。1051(永和6)年、源頼義は陸奥守に任じられ、頼義と安倍頼時の間で戦いが1056(天喜4)年始まります。安倍頼時は間もなく戦死しますが、その子貞任(さだとう)は屈せず、抗戦します。源頼義の軍も大きな犠牲を出します。その中で、頼義の子の義家は奮戦します。しかし、戦いは長期になり、諸国からの軍兵や兵糧は届けられなくなりました。そこで、頼義は出羽国の俘囚清原光頼・武則兄弟に助力を要請します。清原氏の軍の参戦により、貞任は戦死し、その弟の宗任は投降し、1062(康平5)年戦いは終わります。流された安倍宗任は大島の景勝地に持仏を安置する安昌院を建てました。

中世、宗像大宮司家は宗像大社の宮司であるとともに、宗像地方の豪族でした。大島の住民は漁業に従事していましたが、、この島を支配していた宗像大宮司家の水軍の主力でした。室町時代、応仁の乱後、連歌師の宗祇は大内政弘から山口に招かれます。大内氏は北部九州を支配していました。1480(文明12)年宗祇は大宰府を訪れますが、その帰途宗像を訪れ、大島を眺めて歌を詠んでいます。戦国時代、宗像氏貞は大規模な築城を行いました。宗像市赤間の北にある蔦岳(つただけ)城は宗像氏の本城になりました。豊前・筑前の国人領主達は大内氏にとって代った毛利氏と大友氏に翻弄されますが、氏貞はその中で勢力を保持していました。しかし1586(天正14)年宗像氏貞は病死します。氏貞には嗣子がなく、翌年豊臣秀吉が九州に出陣すると、家臣は離散し、蔦岳城も破却されました。

江戸時代の1639(寛永16)年、福岡藩は大島の津和瀬と岩瀬に遠見番所を置いて、異国船の監視を行いました。1643(寛永20)年ポルトガル船が津和瀬に漂着しました。島民が結集して船を捕え、江戸に送りました。17世紀後半から18世紀前半にかけて、中国や朝鮮の船が来航しますが、砲撃して追い払いました。1811(文化8)年朝鮮通信使、1850(嘉永3)年には琉球王使節が大島に立ち寄り、安昌院に宿泊しています。また、大島は福岡藩の流刑地でもありました。福岡藩の2代藩主黒田忠之は、大島駒と呼ばれた馬の牧場をつくりました。また大島は役牛の大島牛の産地でもありました。海では網で鯨を浜に追い込む捕鯨も行われました。捕鯨は明治時代まで続きました。1905(明治38)年大島牧場が開設されました。牧場はその後発展継続されます。1970(昭和45)年大島村営牧場が開設され、現在は宗像市営牧場になっています。

明治時代、関門海峡を守るための砲台や堡塁群が関門地区に築かれ、下関要塞として防衛機能を果たしていました。昭和になると、戦闘能力の向上した艦船や航空機に対応して、本土の外側の離島に砲台が築かれました。大島・白島(北九市若松区)・蓋井島(ふたおいじま、下関市)などに砲台が築かれ広い海域をカバーしました。1937(昭和12)年大島砲台は完成しました。1940(昭和15)年沖ノ島砲台が竣工しました。明治期の本土の砲台群も、昭和期の離島の砲台群も、一度も敵艦隊と交戦することなく終戦を迎え、廃棄されました。

大島は、江戸時代は宗像郡大島村で、明治時代になると神湊村の一部になりました。1889(明治22)年、大島と沖ノ島で大島村となりました。村営渡船が許可され、1952(昭和27)年渡船事業が開始されました。1956(昭和27)年にはフェリーが就航しました。2005(平成17)年3月大島村は宗像市に合併されました。
本土の宗像市については、「北九州の近隣」の「宗像」をご覧ください。
宗像市の国道495号線神湊交差点から北に入って行くと、神湊渡船ターミナルがあります。神湊と大島の間を、1日7便程度、市営の大島渡船が往復します。今回は車を利用して、大島渡船のフェリー「おおしま」に乗って神湊から大島に向かいます。フェリー「おおしま」は194トンで、所要時間は25分です。フェリーの他に、大島渡船には旅客船「しおかぜ」が就航しています。旅客船「しおかぜ」は79トンで、所要時間は15分です。
下は、宗像市公式ホームページの大島渡船運航時刻表のサイトです。
 http://www.city.munakata.lg.jp/tosen/oosima.php
   
神湊を出港します。北西の海に突き出た山の先端は草崎といい、神湊を季節風から守っています。神湊を出ると左手に島があります。勝島です。現在は無人島ですが、過去には居住していた記録もあるようです。  
   
右手に地島(じのしま)が見えてきます。大島の東に位置します。同じく神湊から地島への宗像市営渡船が出ています。
   
左手に大島が見えてきました。大島は、周囲約13.5km、東西3.2km、南北2.7km、面積7.45平方km、最高峰は224mの御嶽(みたけ)です。
往路のフェリーからは島の全景を撮ることができませんので、復路の船上からです。
大島港に入って来ました。大島港ターミナルです。  
   
ターミナルの反対側に大島漁港があります。
大島の主要道路は県道541号大島循環線で、主要地を通って島を一周しています。大島港から県道大島循環線に出ます。県道を左折し先に進みますと、宗像大社中津宮の鳥居があります。鳥居の先の石段を昇りますと門があり、先に社殿が見えます。
   
宗像大社中津宮の社殿です。沖ノ島の沖津宮に田心姫神、この大島の中津宮に湍津姫神、宗像市田島の辺津宮に市杵島姫神がそれぞれ祭られていて、三宮の総称が宗像大社です。
中津宮の鳥居の前の道路を反対側に行きますと、うみんぐ大島があります。うみんぐ大島は海洋体験施設で、釣りや色々な海洋体験ができます。海釣りを海上釣堀や釣防波堤で行い、シーカヤック、シュノーケル、ろこぎや海中観察などの体験ができる有料施設です。
うみんぐ大島の公式サイトは以下の通りです。
  http://umi-ing.com/
 
   
中津宮の鳥居の前まで戻ります。県道大島循環線は中津宮の横の坂道を上って、中津宮の裏手を通って島の西側に伸びています。中津宮の裏手の先に、木の鳥居が見えます。その横に御嶽宮参道の石碑が立っています。標高224m御嶽への登山道になります。
   
緑の中の県道を西に進みます。視界が開け、海辺に出ます。津和瀬の海岸です。江戸時代、ポルトガル船が漂着した海岸です。
ここから県道は北に向かいます。
 
   
県道に案内板が出ています。大島灯台・三浦洞窟・馬蹄岩は右折です。右折した道路は舗装されていますが、車1台が通れるくらいで、離合は広い所ですることになります。しかし、県道や市街地以外で、車が行き交うことは余りありません。
突き当たりに大島灯台があります。海上保安庁の表示は、筑前大島神崎灯台になっています。1926(大正15)年11月点灯されました。この辺一帯を神崎といいます。出雲の神様が初めて大島に来られた場所ということで付けられた地名だといわれています。
   
島灯台の左手を降りて行きます。灌木の林を抜けると海が見えます。
岩山があります。岩山の裏側に洞窟があります。小道は先の木立の中に続いています。そこを過ぎると海側に出て、下に石段が続いています。  
   
海より高い所に洞窟があります。三浦洞窟といい、1643(寛永20)年弾圧を恐れて長崎から逃れて来た、キリシタン神父のヨハンが隠れ住んだといわれています。現在はお地蔵さんが祀られていました。
   
大島灯台まで戻り、反対の右側を降りて行きます。途中分かれ道になっていて、遊歩道入口と馬蹄岩の道標がありますので、馬蹄岩の方向に進みます。
ここは大島灯台の右手の海に突き出た神崎鼻といいます。一帯はハマヒサカキ(別名イソシバ)を主体とする海浜植物群落地です。その中を進んで行きます。
 
   
神崎鼻から左手に大島灯台が見えます。
   
神崎鼻の先端の左右は断崖絶壁です。先端は一段高くなり、旧陸軍省の石標が立っています。右手の断崖の下に、波に洗われている岩が見えます。馬蹄の形をした穴が点在するので馬蹄岩といいます。沖津宮に祭られている田心姫神が、馬に乗って沖ノ島に飛んで渡った時できた蹄の跡といわれています。
神崎鼻から右手、東を見ています。丘の上に小さく見えるのは風車展望所です。
県道に戻り東に進みますと、標高121mの風の峠になりますが、その手前左右に入る道があります。まず右折します。灯台への道と同じように、車1台が通れる程ですが、対向車はほとんどありません。山頂展望台が見えてきました。御嶽宮は右手の一段高い木立の中になります。御嶽宮は中津宮の奥院になります。
御嶽宮前の一段低い所が広場になっていて、展望台があります。ここは大島港ターミナルの西の方向になり、距離的には1km程しか離れていません。歩いて来れば、御嶽宮参道を登って来ることになります。御嶽宮がある東方向を除いて、視界は開けています。
南東方向です。左の島は地島で、対岸は鐘崎です。右端の島は地島で、その背後に神湊はあります。
御嶽山頂展望台から北西方向の眺めです。右の丘の上に風車展望所が見えます。
県道まで戻り、反対側の道に入って行きます。牛舎やサイロの前を通り抜けると、広々とした丘の上に出ます。右手に砲台の監視所跡があります。1937(昭和12)年に大島砲台は完成しました。  
   
監視所内部です。
   
監視所跡を横から見てます。監視所の下の左右に部屋があります。  
   
監視所前の砲座です。約20km射程の15cmカノン砲が配備されました。前方に風車展望所が見え、その先は玄界灘です。この砲座の右手にも2つ砲座跡があります。
   
先方に風車展望所が見えます。風車展望所の周辺は市営牧場で、ここは北の牧場になります。山肌の急斜面を利用した牧草地が広がっています。肉牛の黒毛和種が飼育されています。
海に面した丘の上は風が強く、風車が似合います。羽根は6mあります。  
   
風車展望所からの神崎鼻です。馬蹄岩が見えます。
   
風車展望所から東側丘の上に砲台の監視所跡が見えます。
県道に戻り、風の峠から県道を下りて行きます。かなりの下り坂です。海岸近くまで下りて来ました。この辺りは岩瀬です。
左手に沖津宮遥拝所があります。海上遥か48km先に沖ノ島があります。その沖ノ島の沖津宮には宗像大社の神職がいるだけで、住む人はいません。島全体が神域ですから、上陸するには禊をしてからになります。
宗像大社の三姫神は海北道中の守護神です。海北道中は朝鮮半島への海路であり、対馬と九州本土の中間が沖ノ島です。古代において島は標識でもありました。沖ノ島は神域ですので一般の人は簡単には行くことはできません。また女人禁制ですから、女性の沖津宮参拝はこの遥拝所からになります。  
   
県道を先に進み、漁火橋の手前を右折して坂を上ります。しばらく上ると、下り坂になります。そこを下って行くと、右手に大島小・中学校があります。更に進むと海水浴場に出ます。
   
そこを右折すると、前に赤い鳥居が立った小山の島があります。夢の小夜島です。満潮時には島になります。
室町時代応仁の乱後、京都にいた連歌師の宗祇は、大内政弘の勧めで山口に西下します。山口で厚いもてなしを受けていた宗祇は、大内領国内の豊前・筑前の国人領主達の招待を受けて、領国内を旅行します。その紀行文が「筑紫道記(つくしのみちのき)」で、その中で「浜千鳥 聲(こえ)うちわびて大島の 波の間もなく誰を恋うらむ」と歌ったのはここのことだといわれています。
 
   
夢の小夜島の左横の、波に浸食された景色です。
   
大島漁港の背後の高台に安昌院は建っています。安倍宗任が建立したと伝えられています。  
   
安昌院から右手、北に少し坂道を下った所に安倍宗任の墓はあります。宗任は伊予に流され、その後大島に流されました。そして、この地で1108(嘉承3)年77歳で亡くなりました。


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