北九州の近隣

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苅田町
  京都郡  [2011/04/23]
 

京都(みやこ)郡苅田(かんだ)町は、西は平尾台に、東は周防灘に面しています。北から西にかけては北九州市小倉南区、南は行橋市に接します。かっては行橋市を含めて京都郡で、景行天皇が筑紫に到り、豊前長峡県(ながおのあがた、現在の行橋市)に行宮を営んだので、みやこと呼ばれるようなったといわれています。苅田は古くから賀田・神田とも書かれ、かたとも呼ばれ、潟(遠浅の海岸)に由来するようです。
苅田町には縄文時代の遺跡をはじめ、弥生時代の遺跡が数多くあり、古くから開けた土地であったことが分ります。古墳時代に入ると、石塚山古墳などの大きな前方後円墳が出現し、周壕が完全に残っている御所山古墳からは有力な首長がこの地にいたと思われます。
苅田町の北東部の半島の松山に、奈良時代の740(天平12)年乱を起こした藤原広嗣によって松山城は築かれたと伝えられています。
平尾台の東、苅田町の西部に、734(天平6)年、奈良東大寺の慧空(えくう)が等覚寺(とかくじ)を開山したと伝えられています。平安時代、鎌倉時代には修験場として発展し、南北朝時代には隆盛を極めましたが、その後兵乱のため衰退します。江戸時代まで寺としての命脈を保ってきましたが、明治初年の神仏分離令により等覚寺は廃されて、白山多賀神社になりました。
苅田町域には、平安時代には宇原荘、鎌倉時代には苅田荘、南北朝時代には片島荘の荘園が成立しています。松山城は平安時代後期の古代末から中世にかけて争乱の場となり、次々と城主が替わりました。江戸時代に入ってすぐの1606(慶長11)年に廃城になりました。
江戸時代には現在の国道10号線に並行するように中津街道が通っていました。遠浅の周防灘の海岸では干拓も行われました。1895(明治28)年九州鉄道によって小倉‐行事(現在行橋市)間の鉄道が開通しました。これが日豊本線になっていきます。
1889(明治22)年、雨窪(あまくぼ)・松山・苅田・提(ひさげ)・光国・浜町・馬場・南原・集(あつまり)・尾倉の10村が合併して苅田村が成立し、与原(よばる)・新津(あらつ)・下片島・岡崎・下新津・二崎(ふたざき)の7村が合併して小波瀬(おばせ)村が成立し、稲光・葛川(くずかわ)・鋤崎・黒添・法正寺(ほうしょうじ)・谷・山口の7村が合併して白川村が成立しました。1924(大正13)年苅田村は苅田町になりました。1955(昭和30)年苅田町は小波瀬村・白川村を合併しました。
大正時代になると石灰石が採掘され、セメント工場が開業しました。昭和に入ると石灰石・セメント積み出しのための築港工事が行われ、戦後工業都市化が始まり、近年は自動車産業が進出して、操業しています。2006(平成18)年3月周防灘沖に新しい北九州空港が開港しました。
苅田町に伝わる祭りを二つ紹介します。まずは4月の第3日曜日、かっての白川村内大字山口の等覚寺地区の白山多賀神社で、山伏の祭礼の等覚寺の松会(まつえ)があります。
獅子舞を先頭に、神輿が本殿から松会が行われる境内の松庭に入って来ます。松会に参加する人々が続きます。

奈良時代、東大寺の慧空によって開山されたと伝えられる等覚寺は、平安時代の初めに焼失しますが、その後再興されます。平安時代の953(天暦てんりゃく7)年、谷之坊覚心が修験の法を始めました。南北朝時代の永和年中(北朝歴、1375-79)には、山中に300坊を数えるほどの隆盛を極めました。
室町時代の1398(応永5)年に始まった松山城での大友氏と大内氏の合戦に、大友氏の一族であった等覚寺座主は僧1,400人を率いて大内方と苅田潟で戦いますが敗死し、多くの僧が戦死しました。この後、等覚寺は衰退していきます。
江戸時代に入ると、豊前国には細川忠興が入り、等覚寺は忠興によって再興されますが、往時の面影はなかったようです。細川氏に代わって小笠原氏が豊前国に入国し、歴代の藩主が領国内を巡る際には等覚寺に参拝しました。
1868(明治元)年、神仏分離令により等覚寺は廃されて、上宮があったここは白山多賀神社になりました。
松会は、神輿行列、玉串奉納、獅子舞、鬼会(おにえ)、種子蒔き、田打ち、おとんぼし、はらみ女、田植え、楽打(らくうち)、鉞(まさかり)舞、薙刀舞、幣切りと続きます。
この鬼絵は節分行事であったが、廃れていたものを松会で復活して行われるようになりました。

豊前には英彦山霊仙寺を中心に、修験道の六峰がありました。そのうちの一つが普智山等覚寺です。
英彦山は、1729(享保14)年に霊元法皇より英の字が与えられるまで彦山でした。古代より山そのものがご神体として信仰されていて、神仏習合の修験道の霊場として多くの崇敬を集めました。その対象は彦山権現で、寺号は彦山霊仙寺と称しました。彦山霊仙寺は寺領を嵯峨(さが)天皇から与えられ、彦山神領が成立しました。彦山は彦山神領内の各村に、822(弘仁13)年鎮守神の大行事社を置きました。その数は48にのぼりました。
種子蒔き、田打ち、おとんぼし、はらみ女、田植えは田行事をあらわしています。おとんぼしは案山子(かかし)で、山の神をあらわします。そのひょうきんなしぐさの中で草刈り、代掻きをします。はらみ女は、田に植えた稲の実りをあらわします。楽打は五穀豊穣を願って、笛・太鼓・ささらを鳴らして舞います。
これらには地元の白川小学校の生徒達が参加しています。これは地元に伝わる田植え唄に合わせて田植えを行っています。
刀衆による鉞舞です。鉞(まさかり)の刃が合わさると鋭い金属音がします。重い鉞を振り回しながら舞います。

等覚寺の松会の始めは、修験の法を始めた谷之坊覚心によるものといわれていますが、現在の形になったのは鎌倉時代までは遡らないということです。1998(平成10)年に等覚寺の松会は国の無形民俗文化財に指定されています。
古代から山岳信仰があり、それに中国の道教の影響がある呪術と仏教が加わった山岳修験がありました。最澄や空海は中国から密教を持ち帰り、山中で修業を行いました。この結果、平安時代以来、山中で修行を行う者が増えていきました。彼らは山に籠って修業し、病人に対して祈祷を行いました。このような修験者を里人は山に伏す人、山伏と呼びました。
刀衆による薙刀舞です。まず二人による薙刀舞があり、四人による薙刀舞があります。

等覚寺地区の本谷に2戸、北谷には10戸ありますが、この地区の人々は山伏の末裔といわれています。等覚寺の松会の主人公である施主は、この地区の山伏の末裔しか勤まりません。
松庭に11m(33尺)の柱松が立っています。白地の上着に格子の袴で、五色の花傘をかぶり、榊の葉を口にくわえ、懐に祈願文を入れ、背中に大御幣を、腰に御神刀を差した施主が葛を巻いた柱松を登って行きます。柱松の頂上に立った施主は祈願文を読みます。その後、天地四方を祓い清め、腰の御神刀を抜きます。大御幣が取り付けられた二本の竹串を切り落とし、大御幣を切り落とします。これが幣切りで、祭礼のクライマックになります。切り落とされた御幣片は、施主が柱松の下に蒔いていた種籾の上に落ちていきます。松庭に集う人々が御幣片を求めて駆け寄ります。
次は10月の第1日曜日、苅田町役場駐車場で苅田山笠があります。宇原神社の神幸祭で、14基の山車が各所から集まって来ます。
午後1時には神輿2基、岩山13基、飾り山1基が勢揃いします。岩山は竹の骨組みで大きな岩の感じの山車を作ります。岩山の形態を古くから守り継いでいる地区もあれば、近年復活させた地区もあります。
神輿は宇原神社から御旅所(浮殿)がある苅田町役場駐車場の広場にやって来ます。これが神幸祭です。祭礼が終わり、再び宇原神社に戻るのが還幸祭です。
神輿が戻って行くと、高く立っていた山笠は折が倒されて、広場を練り回します。
苅田山笠は3度変わるといわれています。最初が灯山で、提灯を取り付けた山笠が2つ前の土曜の夜、苅田駅東口前の広場に集まっていました。次が幟山で、魔除けの赤い幟を山笠に取り付けます。そして岩山になります。
勇壮な練り回しで祭りの雰囲気を一気にかきたてます。更に山笠同士の激しいぶつかり合いがあります。いわゆる喧嘩山笠が始まります。
国道10号線を南下して小倉南区朽網を通り過ぎ、苅田町に入ります。高速道路の東九州道苅田北九州空港インターからの高架道が通る松山入口交差点を左折して北九州空港方面に向かいます。
左折した道路とインターからの高架道が合流する付近で、左手の歩道から草むらの中に伸びている道に入って行きますと、すぐに円墳の雨窪(あまくぼ)古墳があります。
雨窪古墳は、6世紀後半の横穴式石室の円墳です。羨道(せんどう、入口からの通路)を含めて10mの長さがあります。この付近には古窯跡がありますので、土器を作った人達の首長の墓と思われます。周りには小円墳群がありましたが、現在はなくなっています。
先程の道路に戻り、先に進みますと交差点になります。その空港IC入口交差点の1つ先の苅田臨空産業団地交差点を右折し、突き当りを左折します。眼前に松山城跡の松山が見えます。右下のガードレールの所を右折します。住宅地になり突き当りを左折します。更に右にカーブして行く所を左折し、狭い通りを通って行くと、左手に松山城跡の案内がある駐車場があります。そこから坂を登り、あぜ道を左手に入って行くと、山道になります。標高127.9mの松山城跡の山頂まで、20分程度です。
松山城は古い城で、奈良時代の740(天平12)年、乱を起こした藤原広嗣によって築かれたと伝えられています。江戸時代に入ってすぐの1606(慶長11)年に廃城になりました。周防灘に突き出した半島の山頂から山腹にかけて築かれた山城で、大内氏、長野氏、大友氏の争乱の場となり、何度も戦乱にあい、何度も城主が代わっています。
この石段は城跡に残されたものです。この上が山頂になります。
松山城跡の山頂から四方の眺めです。北方向は北九州市小倉南区になり、左の山は足立山です。左の海岸は曽根干潟で、満潮時の様子です。干潮時には中央右の小島、間島(まじま)まで潮が引きます。
曽根干潟については、「北九州点描」の「曽根干潟」をご覧ください。
東方向です。山麓は松山工業団地で、先の海に近い工場はトヨタのエンジン工場です。海上に架かった橋を渡って行くと、海上空港の北九州空港になります。空港の右側つまり南側は苅田町で、左側の北側は北九州市になります。
北九州空港については、「北九州点描」の「北九州空港」をご覧ください。
南方向です。松山の先に三菱マテリアルのセメント工場があり、その先に九州電力苅田発電所が見えます。その一帯が苅田港で、その左に神ノ島があります。右の奥の方に日産自動車の工場が見えます。
南西方向です。苅田町の市街地で、左右に伸びていて道路のように見えるのは、小倉南区平尾台から三菱マテリアルのセメント工場に石灰石を運ぶベルトコンベアーです。一番高い山は419mの高城山(たかじょうさん)です。
国道10号線の松山入口交差点まで戻り、そこを左折します。すぐに向山公園の案内がありますので、信号を左折して坂を上りますと、公園入口の駐車場に着きます。向山芝公園からの眺めです。
国道10号線に戻り、南下します。次の交差点の上を三菱マテリアルのベルトコンベアーが通っています。
その先の交差点を右折し、その先で左折して、国道10号線に並行した通りに入ります。
国道10号線の西側を並行するこの通りは旧中津街道筋です。途中左側に石柱の四面に里程が刻まれた里程標が立っています。通り過ぎた所から見ています。左に久保新町まで四里、右に椎田まで四里半、久保新町の左には小倉まで三里半、椎田の右には大里まで四里半と四面に刻まれています。
旧中津街道を進むと大通りに出ます。駅前通りで、右折すると日豊線JR苅田駅に突き当たります。2006(平成18)年3月北九州空港の開港を控え、橋上駅として整備され、駅舎の新築工事が行われ、同年4月完成しました。こちらがJR苅田駅東口で、連絡路で西口と通じています。
こちらがJR苅田駅西口です。
現在の日豊線は、1895(明治28)年4月九州鉄道が小倉‐行事(現在行橋市)間を開業したのが始まりです。開業時の途中駅は城野、曽根、苅田でした。駅名の読みは当初は「かんだ」で、途中セメント積出駅で有名になると、字で読みが分らないとか、東京の神田と間違いやすいとのことで「かりた」と呼ばれました。地元の大反対で、1959(昭和34)年「かんだ」に戻りました。
JR苅田駅東口を東に進み、国道10号線に出て右折します。すぐに苅田港の案内がありますので、苅田港入口交差点を左折します。県道25号線門司・行橋線の交差点を通り越し、左にカーブし、その先右にカーブして進むと、発電所前交差点に出ます。そこを左折し、先に行った先を右に右に曲がって進むと九州電力苅田発電所横の苅田港に出ます。
九州電力苅田発電所の沖に神ノ島があります。宇原神社の由緒によると、神社の祭神である彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)はいわゆる海幸・山幸の山幸ですが、海神の宮に行き、そこで豊玉姫(とよたまひめ)と結婚します。海神の宮から還り、日向の神田に着きます。その時の船が神ノ島になったといわれています。
発電所前交差点まで戻り、その交差点を直進します。右手は鉄工団地で、左手にセメント工場が続きます。麻生ラファージュセメントがあり、その先に宇部興産のセメント工場があります。宇部興産の先に海が見え、道が右に曲がります。その先の左手岸壁からの眺めです。ここは苅田南港で、対岸は苅田フェリー埠頭です。その背後の建物は日産自動車の工場です。道を更に進むと日立金属の工場があります。
発電所前交差点まで戻り、もと来た道を通って、国道10号線に戻ります。
苅田港入口交差点を左折して国道10号線を南下します。先方に見えてきたのは、殿川ダムの西にある採石所から、先程の宇部興産のセメント工場に石灰石を運ぶコンベアーです。その手前の苅田交番前交差点を右折し、中央公民館の横を通り、更に左折して中央公民館の裏を通ると、右手に苅田町役場が見えてきました。
苅田町役場の駐車場は苅田山笠の会場になります。駐車場横の社は、浮殿神社です。石塚山古墳の上にあります。
浮殿は宇原神社の御旅所になりますが、現在地に宇原神社が遷座される前の場所といわれています。
宇原神社の由緒によると、彦火々出見尊と豊玉姫が上陸した時、豊玉姫は懐妊されていて、産屋を造っていましたが屋根を葺き終わらないうちに御子が誕生しました。そのため、御子は鵜萱草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)と名付けられました。その場所が浮殿です。
石山塚古墳の東側の前方部には浮殿神社があり、西側の後円部の周りは森になっています。
石山塚古墳は4世紀初め築造された、全長約110mの九州で最大・最古級の畿内型前方後円墳で、国指定史跡です。
石山塚古墳の後円部は高さ23m、径約70mで、二段造りになっていて、墳丘部にはこのように石が葺かれています。この下に竪穴式石棺がありますが、江戸時代開口されています。現存する出土品の三角縁神獣鏡7面、素環頭太刀片、銅鏃は宇原神社の社宝で、国の重要文化財に指定されています。
この地方の権力者であった被葬者は、畿内の大和王権とは服属の関係にありました。副葬品の三角縁神獣鏡は大和王権から授けられたものと思われます。
石山塚古墳の後円部の北側、苅田町役場の東側の苅田町三原文化会館の前に庭園があります。1981(昭和56)年、東梅里(ひがしばいり)の作庭です。その中に国東半島に伝えられた宝篋印塔(ほうきょういんとう)が配されています。庭は宝篋印塔とともに苅田商工会議所会頭の三原晴正氏から寄贈されたものです。
後方は石山塚古墳の後円部で、左に苅田町歴史資料館があります。
苅田町役場の駐車場の前を右折して進むと、右手前角に苅田郵便局がある交差点を右折します。山手に上って行きますと県道254号須磨園・南原・曽根線に出ます。その交差点を直進します。工事している東九州自動車道の下を通り、箱型だった宇部興産のベルトコンベアーの外側が円筒形になっているのをくぐって行きます。右手に殿川ダムが見えてきました。
殿川ダムは1966(昭和41)年に完成したアースダムで、工場用水に供するダムとして、福岡県によって建設されました。堰堤部に車を乗り入れることができます。
左の高い山が標高419mの高城山です。
殿川ダムの堰堤から右手、貯水池の北側山腹に石灰岩の洞窟が見えます。その中にお堂があり、内尾薬師と呼ばれています。内尾薬師に向かって殿川ダムの堰堤を対岸に進みます。貯水池沿いの道を進むと、内尾山相円寺の石碑が立っています。内尾薬師はこのお寺の内になります。急な石段を昇って行きますと、洞窟が一つあり、洞内に石仏が安置されています。もう少し昇って行きますと、堰堤から見えた洞窟があり、洞内にお堂が建っています。
堂内に薬師如来座像が安置されています。お堂の扉を開けて内尾薬師と呼ばれる仏様を拝することはできますが、撮影はできません。
薬師如来座像は平安末期から鎌倉時代にかけて造られたもので、寄木造で3m近くあり、国東の仏教文化の系統に入ります。
この仏像は、現在はない壇林寺の本尊でした。その壇林寺は、これから訪ねる宇原神社付近にあったと推定されます。その辺りは、平安時代に成立した宇佐弥勒寺領の宇原荘内の大寺院でした。壇林寺は、室町時代の大内氏と大友氏の戦乱にあって焼失したと思われます。
洞窟は反対側に貫通していて、反対側は広場のようになっています。そちら側からのお堂の様子です。採石所の音が風に乗って聞こえてきます。
県道254号の交差点まで戻り、県道254号を左折して北に向かいます。
県道254号須磨園・南原・曽根線の馬場交差点に宇原神社の鳥居が立っています。ここは苅田町役場の約600m北西の位置になります。
宇原神社の秋祭りが神幸祭で、その祭礼の山車が苅田山笠です。祭礼は9月の第3土曜日の鉦卸し(かねおろし)に始まり、山笠組み立て、連歌奉納祭、灯山、例祭、汐かき(幟山)、そして10月第1日曜日の神幸祭当日になります。
神幸祭に参加する氏子が宇原神社に参拝しています。
社伝によれば、浮殿からこの地に遷座されたのは平安時代の1090(寛治4)年といわれています。祭神は、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと、山幸)、豊玉姫(とよたまひめ)とその子の鵜萱草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)です。
天地開闢から山幸、更にその子孫については、「北九州の催事」の「和布刈神事」の冒頭に概略を書いていますので、そちらを参照してください。古事記や日本書紀などで神々の名の記載が異なりますが、読みなどでほぼ想像がつくと思います。
県道254号須磨園・南原・曽根線を殿川ダムに行った交差点まで戻り、そこを左折して東に行くと国道10号線の殿川ダム入口交差点に出ますので、そこを右折して南に向かいます。かって日豊線から分岐して苅田港に向かう貨物専用線がありました。その線路跡を過ぎたすぐに左折する道があります。そこに入ると、左に行く道と右に坂を上る道に分かれます。右折して坂を上ると左側に番塚古墳はあります。5世紀末の前方後円墳で、わずかに後円部を残すだけになっています。
1959(昭和34)年宅地造成中に番塚古墳の横穴式石室が発見されました。海岸近くの丘陵地に造られ、全長は50mと推定されます。
古墳の前を先に進むと、道は右に曲がって、すぐに国道10号線に出ます。
国道10号線を南に進むと、交差点の右側にドラッグストアーのコスモスがあります。その先反対の左側に林があります。御所山古墳です。その手前の2階建てアパートの手前を左に入ります。右側は御所山古墳の周壕で、突き当たりを右折します。右折した通りは旧中津街道筋です。すぐ右手に白庭神社の鳥居があります。その脇に駐車できる場所があります。
歩いて周壕を一周します。鳥居の前の道を先に行き、右に入る路地に入り、国道10号線まで出ると、周壕が見えてきました。西側の周壕で、南から北の眺めです。現在周壕部は調査中で、ブルーシートがかかっています。手前が前方部で先が後円部で、5世紀後半築造された前方後円墳です。
周壕を一周し、鳥居まで戻って来ました。鳥居をくぐって行くと、道から見えなかった東側の周壕が見えます。もうひとつ鳥居をくぐって行くと、白庭神社の拝殿があります。御所山古墳の前方部に当たります。
拝殿の奥を進むと、後円部に白庭神社の本殿があります。
御所山古墳は、横穴式石室を有する、全長119mの九州で最大級の前方後円墳で、前方部82m、後円部の径73mで、国指定の史跡になっています。被葬者は県主(あがたぬし)クラスのこの地の権力者と思われます。
白庭神社の前の旧中津街道を南に進むと、交差点がありますので、そこを右折して国道10号線に出ます。国道10号線を右折してドラッグストアーのコスモスまで戻り、そこの交差点を左折します。西に進み、日豊線のガードをくぐった先の突き当たりが県道254号須磨園・南原・曽根線です。そこを左折して南に向かいます。県道254号は次第に右にカーブして、西に向かいます。
県道254号は小波瀬川の側に出ます。小波瀬川は、周防灘に注ぐ長峡(ながお)川の河口付近で、長峡川に合流します。
小波瀬川に架かる片島の天神橋付近からの北側の眺めです。山が連なっていますが、左側鉄塔の奥の山が標高711.6mの貫山(ぬきさん)です。鉄塔から右に茶色の山肌の山が連なりますが、その右端が531.2mの水晶山です。いずれも北九州市小倉南区に入ります。水晶山の左下、手前の丘陵地の上、緑の山腹にかすかに見える人家が等覚寺地区の北谷です。
天神橋の先、岡崎で小波瀬川は二つに分かれます。北側を白川といいます。白川沿いの県道は帯田橋で、左折して橋を渡る道と直進して白川沿いに行く道に分かれます。左折が県道254号須磨園・南原・曽根線で、直進が県道255号山口・行橋線です。直進して白川沿いに進みます。鋤崎橋の所は交差点になっていますが、道なりに進むと右に曲がって行きます。右手の西部公民館の前を通り、その先、左手の奥にある白川小学校の前を通って県道255号は北に向かいます。
県道255号からの眺めです。突き当たりが山口で、そこを右に行き、手前の山の奥に入って行きます。
県道255号山口・行橋線の突き当たりを右に行きます。集落の中を通って行くと、等覚寺や白山多賀神社の参道の案内がありますので、左折して坂道を上って行きます。カーブミラーがある所から右に入ると、山口ダムがあります。
山口ダムは1996(平成8)年に竣工したアースダムで、農業用水と上水道の用途に供するため福岡県が建設しました。左の山が高城山です。
もとの坂道に戻り、上って行きます。
山口ダムの横を過ぎて行くと、竹林や林の中を、所々に離合できる広い個所がある狭い道を上って行きます。
視界が開けてきました。つづら折の道を上って行きます。左山上の3つの高圧電線の鉄塔の右手の奥に水晶山の山頂があります。人家は北谷の集落です。下の白い花はスモモの花と思われます。
等覚寺地区北谷の集落まで上って来ました。集落の下には棚田が広がっています。
北谷の集落から更に進むと、林の中を進み、坂道を上りきった所が突き当たりになり左右に道が伸びています。そこから左に下って行きますと、左手に白山多賀神社の鳥居があります。その前が広場になって、駐車できます。坂道の途中で、左手に入って行ける道があります。林の中を通って、神社の本殿近くに出ます。
鳥居の先の石段を昇って行きますと、鳥居がもう一つあり、その先の左下に等覚寺の松会がある松庭が見渡せます。松会の6日前の様子です。
柱松が立てられ、その柱松には大葛が巻かれています。谷・山口・稲光地区で綱打ちされた大綱が、柱松に綱かけされています。三方に綱かけされた大綱は、龍を表現しているといわれています。この柱松の頂上で、等覚寺の松会のクライマックスの幣切りが施主によって行われます。
松庭の横の鳥居の先に山王権現の額が架かったお堂があり、その横を進むと白山多賀神社の本殿が見えます。その手前に、坂の途中からの道があります。
北谷の集落から坂道を上り切った突き当たりの所まで戻り、白山多賀神社に来た道の反対側に進み、青龍窟を目指します。道は砂利道になります。右手に水晶山に連なる山々が見えます。右側の奥が水晶山になります。
前の続きの山です。山上にNTT無線中継所の鉄塔があり、その左に九電無線中継所の鉄塔がありますが、それが右端に見えます。道は左から中央の山の下に到り、左に曲がって、左端の山の反対側に進みます。
砂利道の上り坂の先は下りになります。この山の斜面の下、道が左に曲がった所に青龍窟の案内があり、その横に駐車スペースがあります。山の斜面の林の先に青龍窟の入口があります。
山の斜面に登り道があります。そこを登って行くと青龍窟の入口があります。カルスト台地の平尾台の東に当たります。
青龍窟の入口は狭いですが、洞窟内に入ると下に広く広がっています。青龍窟は平尾台の鍾乳洞で、洞穴は3段からなっているといわれ、その規模は平尾台最大のものといわれていて、国の天然記念物に指定されています。
青龍窟のいわれは、等覚寺の奥の院で、豊玉姫の化身、青龍大権現を祀る祠があります。
洞窟内に下りて来て、入口を振り返っています。
明治の神仏分離以前には釈迦如来、菩薩、四天王、十六羅漢が安置されていました。施主が修行する場でもありました。明治初期に廃仏毀釈されましたが、現在も等覚寺の松会に先がけて、〆飾りや大御幣が奉納されます。


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