北九州の近隣

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直方市  [2016/05/14]
 
直方平野の中心の直方市を流れる遠賀川は、直方市街地で彦山川が、北の植木で犬鳴川が合流して三角州性の沖積平野を形成して北流し、響灘に流れ込みます。北の植木は、遠賀川河口から約13km離れていますが、標高は5m程しかなく、その下流では多くの貝塚があり、縄文時代にはその付近まで響灘が湾入していました。

遠賀川流域には横穴墓群が多く残されていますが、南西部の水町遺跡はその中でも規模が大きく、典型的なものです。水町遺跡は、弥生時代中期から古墳時代後期にかけての遺跡です。その中心は、低い丘陵地を利用した古墳時代後期(6世紀中頃から7世紀後半)の横穴墓(おうけつぼ)群です。

平安期、鞍手・嘉麻・穂波郡の遠賀川流域に在地領主の粥田経遠(かいたつねとう)が勢力を張っていました。芦屋の山鹿城主山鹿秀遠はその子です。平氏に加担した粥田・山鹿一族は滅亡しました。中世、直方はこの広大な荘園の粥田荘と植木荘に属しました。

直方市と田川郡福智町との境界にある鷹取山は鷹取山城跡で、平安時代に初めて築城されます。南北朝時代になると、筑紫氏の居城となりました。戦国時代になると、大友氏の武将の居城となったり、筑紫氏が戻ったりしました。しかしこの時代の北部九州は、大友氏と大内氏、その後の毛利氏との争乱の場となりました。この城も戦乱の場となり、更には大友氏と島津氏との戦乱で島津氏に攻められました。豊臣秀吉が九州を平定すると、黒田長政が筑前国に入り、黒田節で有名な母里太兵衛(もりたへい)が城主となりました。母里太兵衛は益富城に移り、その後、一国一城令で鷹取山城は廃城になりました。

1600(慶長5)年関ヶ原の戦いの後、黒田長政に筑前一国52万石が与えられました。長政は朝鮮出兵の折、陶工八山を連れ帰っていました。長政が筑前に入国すると、八山は鞍手郡鷹取山山麓永満寺宅間窯(現在直方市永満寺宅間)を開窯しました。これが高取焼の始まりです。高取焼の名は鷹取山に由来します。後、同郡内ヶ磯(うちがそ)に移りました。高取焼は、更に穂波郡幸袋(こうぶくろ、現在飯塚市幸袋)白旗山に移りました。

八山は高取八蔵と名を改め、彼とその子八右衛門が小堀遠州の下で茶陶高取の様式をつくりあげました。その後、上座郡(じょうざぐん、現在朝倉郡)鼓村(のち小石原村)に移り、隣の小石原村(現在東峰村)にも窯が開かれました。更にその後、鼓村の御用窯は福岡城下近くの麁原(そはら、現在福岡市早良区)に移されました。

長政の死後、秋月藩とこの地に東蓮寺藩(のち直方藩と改称)の2つの支藩が設けられます。初代福岡藩主黒田長政の遺言によって、1623(元和9)年四男高政に4万石を与えて東蓮寺藩が成立しました。東蓮寺の名は、新入(しんにゅう)の寺名からといわれたり、その寺は他の地にあったなど古くから諸説があります。初代高政・2代之勝・3代長寛まで藩主館は、殿町の双林院付近にありました。長寛は東蓮寺を直方に改めました。直方は新入の小村の名とも、易断による方向にある直方村からとったなどの説があります。

1677(延宝5)年福岡藩の世子綱之の廃嫡に伴って、直方3代藩主黒田長寛は綱政と改名し、福岡藩主光之の世子となりました。これにより直方藩は廃絶されました。直方藩主は2代、3代も福岡藩主の子の養子で、長寛も光之の三男でした。1688(元禄元)年福岡藩主を継いだ綱政(長寛)の弟の長清は、5万石を与えられ直方藩を再開しました。妙見山の多賀神社を現在地の北に移し、山上に藩主の居館を建てました。この頃一国一城令のため城と呼べず、御館(おたて)と呼びました。そのため妙見山は御館山と呼ばれました。1720(享保5)年長清が死去すると、継嗣がなく直方藩は4代で廃藩となり、本藩に併合されました。

御館山と遠賀川の間の直方の町はにぎわっていました。長崎街道を東から来ると、遠賀川の東岸を上流の南に行き、彦山川が遠賀川に合流する地点からは彦山川の東岸を南に行き、上流の下境店屋渡しで彦山川を渡り、赤地店屋渡しで遠賀川を渡りました。直方藩の廃藩で直方の町の衰退が心配されました。1925(享保10)年、町年寄が福岡藩主に願い出て、直方の町を通る経路に変更されました。

江戸時代、河川を灌漑利用するには、相当な土木事業が必要でした。1658(万治元)年犬鳴川の西岸で取水する花の木堰が築かれました。現在の鞍手郡鞍手町、中間市、遠賀郡遠賀町の遠賀川西岸を灌漑しました。上境の彦山川の東岸で取水する岡森堰が築かれました。感田(がんだ)村大庄屋渡辺善吉の奮闘と福岡藩郡奉行島井市太夫の助力により、1772(明和9)年に岡森堰は完成しました。下境・赤池・頓野、現在の北九州市八幡西区木屋瀬・楠橋の遠賀川東岸を灌漑しました。

江戸時代より石炭が採掘され、川艜(かわひらた、別名五平太船)で遠賀川を下り、芦屋や堀川を経由して若松に運ばれました。明治になると新入炭鉱に中央資本の三菱が進出し、炭鉱開発を行いました。1891(明治24)年8月筑豊興業鉄道(のち筑豊鉄道と改称)によって直方-若松間の鉄道が開通しました。筑豊興業鉄道は南の小竹まで延ばし、直方から金田まで支線を開業し、そののち小竹から飯塚に延長しました。豊州鉄道により行橋‐伊田間が開通していました。九州鉄道は筑豊鉄道を更に豊州鉄道や多くの鉄道会社を合併します。九州鉄道は金田‐伊田間を開通させました。1907(明治40)年九州鉄道は国有化されました。

筑豊炭田を背景に直方に鉄工業が起きてきました。筑豊は遠賀川の下流域を除く、支流を含めた広い流域です。鞍手・嘉穂郡(明治29年に嘉麻・穂波郡が合併してできる)と田川郡の3郡の地域を指し、かって日本最大の炭田地帯でした。旧藩時代の筑前(前の2郡)と豊前(後の1郡)の国名をとって明治以降筑豊と呼ばれました。筑豊は直方・鞍手の直鞍(ちょくあん)地区、嘉穂・飯塚・山田の嘉飯山(かはんざん)地区、田川郡の田川地区に分かれます。直方は鉄道網の中心で機関区や操車場が置かれました。また直鞍地区の中心で、商業が盛んになりました。

貝島は安川・松本、麻生とともに筑豊御三家の一つです。貝島太助は、1845(弘化2)年鞍手郡直方町(現在の直方市)の貧農の子として生まれました。8歳から坑夫として働き、1883(明治16)年鞍手郡宮田に大之浦炭鉱を開いたのが発展のきっかけとなりました。一時は苦境に陥りますが、日清戦争時の好況により苦境を脱しました。大辻炭鉱(現在の北九州市八幡西区香月にあった)を買収し、貝島鉱業を設立しました。太助は1916(大正5)年死去しました。その後貝島鉱業は数社を合併して、貝島礦業と改称しました。

江戸時代から1889(明治22)年まで直方町でした。1889(明治22)年、直方町と山部村が合併して直方町になりました。1925(大正15)年、直方町と新入・頓野・福地・下境村が合併し、直方町になりました。 1931(昭和6)年市制を施行し、直方市になりました。1955(昭和30)年に植木町と合併して直方市になりました。1958(昭和33)年に小竹町赤池の一部を編入しました。

戦後、朝鮮戦争までの復興期、石炭は大増産でしたが、エネルギー革命により石油が主役となり、炭鉱は次々と閉山していきました。鉄道による石炭の輸送はなくなりました。1987(昭和62)年、国鉄は分割民営化され、筑豊本線はJR九州の運営となりました。伊田線(直方‐田川伊田)、糸田線(金田‐田川後藤)、田川線(行橋‐田川伊田)は、第3セクターの平成筑豊鉄道が1989(平成元)年に発足し、運営されています。直方市では石炭産業の代わりに工業団地が造成され、隣接する北九州市のベットタウンになっています。
八幡西区馬場山から国道200号線バイパスを南下します。左手にイオン直方ショッピングセンターが見えます。その先に竜王峡の案内がありますので、そこでパイパスを出ます。パイパスを出た所で、バイパスを高架で横断する県道28号直方・行橋線と交差しますので、左折して県道を進みます。この辺りは直方市上頓野になります。点滅信号がある所が交差点になっています。内ヶ磯(うちがそ)入口で、後ほど戻って来て南に曲がりますので、まずは直進します。
前方に尺岳が見えてきました。竜王峡の案内がありますので、県道から右手に入って行きます。尺岳は標高608mで、山頂は北九州市八幡西区と直方市の境になります。尺岳の麓に竜王峡はあります。
   
竜王峡には水の神が祀られた竜王神社があります。谷川に架かった小橋を渡ると、鳥居があります。その先を少し行くと、竜王神社の石祠があります。その横に一の滝があります。  
   
竜王神社の奥を2・3分登ると、右に二の滝と並んで三の滝が落下しています。
竜王峡の谷川沿いの傾斜地は、キャンプ場になっていて、バンガローが点在しています。
県道28号直方・行橋線を戻り、点滅信号がある所を左折します。
   
道は内ヶ磯に入って行きます。道沿いに高取焼の窯元が点在します。左手にダムの堰堤が望まれます。そこを左手に入って坂道を上って行くと、堰堤の上に出ます。1953(昭和28)年完成したアースダム(台形状に盛土をして建設したダム)の内ヶ磯ダムの堰堤上からです。奥に福智山ダムが見えます。左手を奥に進みます。  
   
福智山ダムは、1975(昭和50)年着工し、2003(平成15)年完成した重力式コンクリートダム(コンクリートの質量を利用して、ダムの自重で水圧を支えるダム)です。
   
福智山ダムの堰堤横の駐車場から貯水池の奥を望んでいます。湖底には高取焼内ヶ磯窯跡があります。ここから標高901mの福智山が望めます。左側の福智山山頂は、北九州市小倉南区・福智町・直方市の境界になります。
福智山ダム沿いの道路の車両運行は、時計回りの一方通行になります。ダムの奥に福智山への登山道があります。堰堤の向こうにダム管理棟がありますが、車での帰りはその前を通らず、その手前からトンネルを通って下りて行きます。トンネルの手前に駐車場があり、ダムの展望台があります。トンネルを抜け、内ヶ磯ダムの畔を通り下って行きます。
内ヶ磯ダムの横を通り、曲がりくねった道を進むと突き当たり、道は左右に伸びています。左に坂を上って行くと、会議・宴会・宿泊施設、体育施設があり、更に温泉施設もある直方いこいの村になります。  
   
右折した所まで戻り、直進します。右折する道と左に直進する道に分かれます。福智山ろく花公園の案内が出ていますので、左の方向に進みます。右手に福智山ろく花公園駐車場があります。駐車場から花公園の反対側を見ています。道路の先には中小企業大学直方校があります。山は右の高い山が標高901mの福智山で、その左下が標高633mの鷹取山です。鷹取山は他に、高取・高鳥居・鷹取居山との別名があります。鷹取山山頂は鷹取山城跡です。
   
道路横の駐車場の一段下に花公園に近い駐車場があり、その駐車場の先に花公園はあります。福智山ろく花公園には四季折々の花が咲いています。花の見頃や開花状況は、下の公式サイトでお確かめください。
 http://www.fukuchi-sanroku-hanakouen.jp/
 
   
福智山ろく花公園の山手側の道路を東に向かいます。突き当りの道を左に行くと、右手の先に池があり、木立の中の道路脇の右手にこの石碑が建っています。ここは高取焼発祥の地の永満寺宅間(えいまんじたくま)窯跡です。
   
突き当りの所まで戻り、来た時とは反対側の道を下って行きます。道幅が狭いですが、進んで行くと突き当りに出ます。右に行くと福地小学校がありますが、左折します。県道22号直方・田川バイパスの上境交差点に出ますので、そこを左折します。上境交差点のすぐ先の福地川に架かった橋を渡って、バイパスから左折して川沿いに入って行きます。道は川を離れてすぐに水町遺跡に着きます。
こちらは駐車場横の横穴墓A群です。低い丘陵地を利用した古墳時代後期(6世紀中頃から7世紀後半)の横穴墓(おうけつぼ)群で、反対側、水町池側にも横穴墓B群があります。丘陵地の上には弥生時代の遺跡もあります。
県道22号線直方・田川バイパスの上境交差点まで戻り、左折します。先に行くと十字路になり、そこを左折し、福地川に架かった橋を渡ります。そのまま直進しますと、彦山川に着きます。そこに近代的な可動堰の岡森堰があります。  
   
岡森堰から堤防上の道路を上流に少し進むと、左手に建物があります。そこは江戸時代の岡森堰の水番邸跡です。その前には岡森水神碑をはじめとする石碑が立っています。
   
左折して福地川を渡ったもとの通りまで戻り、先に進みます。すぐに右に進む道がありますので、右に行きます。しばらく行きますと、右手に須賀神社の鳥居があります。更に行くと右からの道が合流します。そこにも須賀神社の鳥居があり、駐車場があります。須賀神社に向かいます。  
   
平安時代初期の861(貞観じょうがん3)年、須賀神社境内に隕石が落下しました。近年の調査で、目撃記録を伴う世界最古の隕石といわれています。その記念の石碑が本殿前にあります。
   
須賀神社の本殿前を右に出ると、先ほど来た道に出ます。神社の裏手に廻りますと、左に入る道があり、そこに建武の板碑があります。
1336(建武3)年2月新田義貞らとの戦いに敗れた足利尊氏は、態勢を整えるために九州に渡って来ました。各地で戦いがありました。その当時南禅寺名僧明窓禅師が上野(あがの)の興国寺に来ていました。明窓禅師は尊氏に会い、亡くなった人達の供養を勧めます。尊氏は明窓禅師に供養を依頼しました。明窓禅師が供養のためにこの碑を建てたといわれています。碑には建武3年の年号があります。1336(建武3)年3月尊氏は多々良浜で菊池武敏らの軍を破り、その後東上し、6月には京に入ります。
三つの石碑のうち中央のものがその碑です。ただ、粥田荘の有力者が亡父をしのんで建てたものとの説もあります。
 
   
須賀神社の駐車場から右に出ます。しばらく行くと県道22号線直方・田川バイパスに戻ります。左折して北上します。高架で交差している国道200号直方バイパスをくぐり抜けて直進しますと、国道200号線に突き当たります。そこが頓野交差点で、そこを左折し、遠賀川に架かった日の出大橋の手前を右折します。遠賀川の土手の道路を進み、次の信号を右に入って行きます。踏切の手前の右に小山があります。その小山に阿高宮(あたかぐう)という神社があります。その手前で右に行きます。
阿高宮の鳥居の前に感田の堰跡があります。洪水の時、道に板を渡して水の侵入を防ぐ施設で、板をはめ込む石柱やその周りの石垣が残っています。道の両側にあったのですが、片側だけが残っています。
   
阿高宮には、室町時代の1490(延徳2)年、遠賀川が大洪水となり、上流の川崎町安宅から祠が流れ着いたので、ここに祀ったと伝えられています。その境内には樹齢500年の大樟があります。  
   
阿高宮の手前を右に曲がらず道成りに進むと、踏切になります。踏切の右は筑豊電鉄の感田(がんだ)駅です。電車で左、西に行くと終点の筑豊直方です。かって長崎街道は感田電停の西側を通っていました。踏切を渡り、コンビニの先を右手に行ったすぐに、柴田丹兵衛の墓があります。
1733(享保18)年島原藩主が帰国の際、川の氾濫で一行は渡れず、上流の彦山川の長崎街道下境店屋(てんや)の渡しで瀬踏みしていた家臣の柴田丹兵衛が流され、その遺体が感田に流れ着きました。村人達が手厚く葬り、その勇気をたたえ、長く語り継ぎました。柴田丹兵衛の墓は、おこり(マラリア性の熱病)を治す神として、更には子供の成長が祈願されています。
   
国道200号線に戻り、日の出大橋を渡ります。日の出大橋の西詰から上流の眺めです。左端の彦山川が遠賀川に合流する地点です。右端に大イチョウが1本立っていますが、長崎街道があった時代の直方の渡し場の目印になっていました。ここが長崎街道の渡し場になる以前は、上流の下境店屋渡しで彦山川を渡り、赤地店屋渡しで遠賀川を渡りました。
遠賀川の堤防と彦山川の堤防の間の河川敷は、公園になっています。
日の出大橋から遠賀川の左岸を上りますと、すぐに河川敷の駐車場の入口になります。
毎年4月上旬、遠賀川と彦山川の間の河川敷で、チューリップフェアが開催されます。駐車場から、遠賀川の左岸の直方市役所の前付近の河川敷に架かった橋を渡ると、チューリップフェアの会場になります。チューリップフェアの第1回は1997(平成9)年でした。
 
開催期間や開花状況については、下記の直方市のチューリップフェアの公式サイトをご覧ください。
 http://www.city.nogata.fukuoka.jp/kankou_turipfair 
日の出大橋から真っ直ぐ西に行くと、突き当たりがJR直方駅です。駅舎は2011(平成23)年に建て替えられました。駅舎は水戸岡鋭治のデザインで、先代より南側に建てられています。先代の駅舎は、開通時より北側に移転して、1910(明治43)年に建築されました。駅構内にはJR九州の筑豊本線のホームと平成筑豊鉄道の伊田線のホームがあります。
   
直方駅前に2014(平成26)年、地元直方市出身の元大関・魁皇の銅像が設置されました。現在浅香山親方の元大関・魁皇は、1972(昭和47)年直方市で生まれ、中学校卒業後大相撲に入門しました。昭和63年3月場所の初土俵から平成23年7月場所引退までの23年間で、幕内優勝5回、通算1047勝を記録しました。  
   
直方駅から直方市街地を歩きます。直方駅前にアーケードの入口があります。駅前から東西のアーケード、明治はいから通りです。この通りを東に行って、南北のアーケード、ふるまち通りと接続します。このふるまち通りがかっての長崎街道筋になります。東からの長崎街道は、遠賀川を渡河し、ふるまち通りで南に向かいます。
アーケードの途中で道路と交差します。その右角に旧福岡銀行南支店で現在アートスペース谷尾があります。アーケードから右折してレンガ造りの建物の側面から見ています。1913~4(大正2~3)年に十七銀行直方町支店として建築されました。右端のアーケードに面した角に、建設当初ドーム屋根がありました。福岡銀行南支店閉鎖後は、1997(平成9)年明治屋産業創立者の谷尾欽也氏のアートスペース谷尾として開館しました。
   
アーケードから右折して、その先に行きますと跨線橋が架かっています。その左手下を進みますと、公園があります。旧長崎街道筋は公園の左手を通り、突き当たりを左手に進みます。公園の奥まった所に貝島太助の像が立っています。第12師団軍医部長として小倉に赴任していた森鷗外は、「小倉日記」の中で、貝島太助に会ったことが記されています。ここは貝島邸跡です。  
   
アーケードのふるまち通りまで戻り、アーケードを通り抜けます。この辺りは殿町です。すぐに十字路があります。左折すると直方市役所があります。交差点の右角に讃井小児科医院がありますが、1996(平成8)年に閉院しました。建物は、1922(大正11)年に建築された、木造モルタル造りの2階建てです。建物の周囲のコンクリートの垣には十字架が施されています。現在は、向野堅一(こうのけんいち)記念館になっています。向野堅一(1868-1931)は、地元出身の明治から昭和初期の実業家です。日清戦争時には密偵として働き、その後は満洲の経済界で活動しました。
   
先に進むと、左手に江浦耳鼻咽喉科医院があります。建物は、1901(明治34)年に建築された瓦葺木造2階建てで、現役の医院として使われています。  
   
江浦医院の先、左手に直方谷尾美術館があります。この建物は、奥野医院として1917(大正6)年に建築された、煉瓦造り2階建てです。院長の死去で1990(平成2)年に閉院しましたが、1992(平成4)年谷尾氏が美術館として開館しました。死後直方市に寄贈されて、直方谷尾美術館になっています。収蔵品には氏が収集した青木繁・児島善三郎・中川一政らの絵画があります。
   
直方谷尾美術館から西に行く道があります、そこを進みますと、突き当たりの三叉路になりますので右折します。右折した通りは、貝島邸跡の公園の先を左折した通りで、旧長崎街道筋になります。通りには、骨董品や民芸品を扱うギャラリーのぐちの店舗が点在しています。先に進みますと、左手に多賀神社の鳥居があります。この鳥居を入り、人道の跨線橋を渡ると、多賀神社の門と直方石炭記念館の中間に出ます。鳥居の東側にある寺院、双林院付近は東蓮寺藩主館跡です。  
   
鳥居をくぐり石段を昇り、下にJR筑豊本線が通っている人道の跨線橋を渡って振り返ると、直方の市街地が望めます。手前の木立付近に東蓮寺藩主館がありました。右の高い山が福智山で、その右下の建物が直方市役所です。
多賀神社の本殿は、この門の中になります。妙見山の多賀神社を北のこの地に移し、多賀神社があった山上に藩主の居館を建てました。多賀神社の創建は不明の程古く、日本神話の日本列島を形づくった神の伊邪那岐(イザナギ、男神)伊邪那美(イザナミ、女神)を祭っています。
   
人道の跨線橋を渡った所まで戻ります。その先を進むと、直方石炭記念館に到ります。屋外には、石炭を運んだ蒸気機関車が展示されています。これは、コぺル32号蒸気機関車とロト22号石炭車です。コぺル32号蒸気機関車は、鞍手郡宮田の大之浦炭鉱が、1915(大正14)年にドイツから輸入した炭鉱専用の蒸気機関車です。  
   
C11-131号蒸気機関車とセム1号石炭車です。C11-131号蒸気機関車は、1938(昭和13)年に日本車輌で製造されました。最初は旅客列車を牽引していましたが、1970(昭和25)年まで約30年間筑豊の石炭輸送に使われました。
   
直方石炭記念館の建物は3つあります。この建物は本館で、1910(明治43)年に炭鉱経営者で組織された筑豊石炭鉱業組合の直方会議所として建てられました。石炭関係の資料など筑豊の石炭の歴史が展示されています。その右は新しい建物の別館で、機械器具や装備が展示されています。本館の右の通路を隔てた小さな建物は、石炭を原料にした製品を紹介した石炭化学館です。  
   
直方石炭記念館本館の背後には、救護訓練坑道があります。本館が完成した際、独英の救命器を購入して備え付けました。その後傘下の炭鉱の合同訓練の必要性が認められ、1912(明治45)年第1回練習会が行われ、1922(大正11)年筑豊石炭鉱業組合救護練習所になりました。同年練習所の救護隊員訓練施設として、救護訓練坑道はつくられました。
   
石炭記念館の本館と石炭化学館の間の通路の坂を上ると、切通しになっていて、右の多賀神社と左の多賀公園を結ぶ歩道橋が上に架かっています。先に行くと左にある体育館に行く道路に突き当たります。その手前の左側に多賀公園に登る歩道があります。1688(元禄元)年黒田長寛の弟の長清は5万石で直方藩を再開しました。妙見山の多賀神社を現在地の北に移し、この山上に藩主の居館を建てました。その跡は多賀公園になっています。広場の周囲には桜が植えられ、桜の名所になっています。  
   
北側から多賀公園に登って来ましたが、南側に下りますと、体育館の裏手に出ます。表側に回ると道路に出ます。その道路沿いの一段高い所に歩道があります。歩道を進むと、この石碑が立っています。石碑は直方城になっていますが、この頃一国一城令のため城と呼べず、御館(おたて)と呼びました。そのため妙見山は御館山と呼ばれました。1720(享保5)年長清が死去すると、継嗣がなく直方藩は廃藩となり、本藩に併合されました。
   
体育館からの道路を下って行きます。石炭記念館への分岐点まで戻り、更に真っ直ぐ下りて行きますと、県道21号福岡・直方線に出ます。そこの左側に山部庚申(こうしん)社があります。猿田彦大神を祀っていて、毎月5日が縁日で、12月5日に大祭があります。  
   
庚申社の先を北に行きます。同じ左側に随専寺があります。この付近はかっては湧水が豊富で、寺の周囲は蓮池で、池の小島に弁天堂が建っていました。その弁天堂は右端で、寺の前に移されています。寺の裏手の墓地には、江戸時代の俳人諸九尼(しょきゅうに)と有井浮風(ありいふふう)の比翼塚があります。諸九尼は庄屋の妻でなみといい、浮風は直方藩士で、なみの俳句の師匠でした。意気投合した二人は駆け落ちし、京で俳諧活動をし、多くの弟子を育てました。諸九はなみの俳号です。浮風が亡くなると、諸九は剃髪して各地を行脚し、俳諧活動を行い、1778(安永6)年に直方に戻って来ました。諸九尼は浮風の菩提を弔い、俳諧の生活を過ごし、1781(天明元)年68歳の生涯を終えました。遺徳を偲ぶ弟子達によって比翼塚は建てられました。
   
随専寺の先に雲心寺があります。東蓮寺藩初代藩主黒田高政の塔所(墓所)があります。
随専寺の前に跨線橋があり、三叉路になっています。跨線橋は貝島邸跡の公園の横に架かっています。跨線橋への歩道は、随専寺のすぐ前の歩道橋が連絡しています。跨線橋を渡ると、アーケードのふるまち通りと交差します。ここまでは直方駅から歩きでした。
 
   
直方駅前の津田町交差点から県道27号直方・芦屋線を北上し、直方北小学校入口交差点の先の右手に、筑豊電鉄筑豊直方駅があります。
1959(昭和34)年八幡貞元‐直方の筑豊電鉄が開通しました。戦前から黒崎から筑豊を経由して福岡に到る計画がありました。しかし、色々な事情や太平洋戦争もあり、戦後に到りました。1955(昭和30)年に西鉄が設立した筑豊電気鉄道により着工され、4年後に全線が開通しました。戦前の構想から41年が経っていました。完成時には、沿線の主要産業の石炭産業は斜陽化し、福岡への延長は実現することはありませんでした。
   
県道27号直方・芦屋線を更に北に行き、左手のJR筑豊本線新入(しんにゅう)駅前を通り、犬鳴川の天神橋に着きます。天神橋を渡った所が植木交差点です。この交差点は変則な五差路です。左右の犬鳴川の堤防上の道路があり、直進の道路があり、右手の堤防上の道路と直進の道路の間に右手堤防下に下りる道があります。そこに入って行きます。
下って左にカーブする右側に、植木の堰跡があります。ここも片側だけしか残されていませんが、感田の堰跡と同じ構造です。支流を含めた遠賀川流域は、長い間洪水に悩まされました。
 
   
その左手に天満宮の鳥居があります。朱塗りの欄干があり、、天神橋から直進の道が橋で架かっています。神社はその先にあります。
天神橋を渡ったこの付近は植木です。1955(昭和30)年まで、鞍手郡植木町でした。
   
天満宮の鳥居の前の道を北に進みます。左に曲がる道がある三叉路になります。そこを左折します。先に行くと鳥居があり、車はここまでです。この先は日吉神社の参道です。鳥居をくぐって行くとJR筑豊本線の踏切があり、渡ると道路があり、その先に石段があり、昇って行くと日吉神社があります。
平安時代空也上人が始めたという念仏踊の流れをくむ地方歌舞伎がありました。彼ら植木役者が全国を巡業し、帰国して正月の申(さる)の日に、日吉神社で植木三申踊(みさるおどり)が奉納されました。しかしその植木歌舞伎も明治時代に絶えました。植木三申踊は、現在は4月の日吉神社の春祭りに奉納されます。
江戸時代より各地に巡業し、明治になって絶えた地方歌舞伎は、近くでは芦屋歌舞伎があります。芦屋歌舞伎については、「北九州の近隣」の「芦屋」をご覧ください。
 
   
日吉神社から参道を振り返っています。手前の線路がJR筑豊本線です。植木の市街地が広がっています。その先の山々の一番高い山が福智山です。
   
日吉神社に来た三叉路まで戻ります。三叉路から左折して北に進み、県道27号直方・芦屋線に出ます。直進して県道を横断し、犬鳴川の河川敷に出ます。そこを右折して上流に行くと、花ノ木堰があります。
1658(万治元)年この地に最初の堰がつくられました。遠賀川中流の東側は岡森堰が灌漑し、西側は花ノ木堰が灌漑しました。1976(昭和51)年に現在の可動堰が完成しました。手前にあるのは昔の堰の縮小模型です。犬鳴川は、この先の下流で遠賀川に合流します。
 
   
犬鳴川の西岸にある大木は、花ノ木堰の大公孫樹(おおいちょう)で、樹齢千年といわれ、かっては石炭を運ぶ川艜(五平太船)の船頭達が目標としていました。


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