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行橋市
  [2010/08/14]
 

行橋市は平尾台の南を発した長峡(ながお)川、英彦山から発した今川・祓(はらい)川が流れる沖積平野で、市の北東部で三川は周防灘に注ぎます。北西部は平尾台カルスト台地に接します。
古くから開けた土地で、縄文時代からの遺跡がありますが、そんな中で古墳時代後期といわれている御所ヶ谷神籠石(ごしょがたにこうごいし)が有名です。景行天皇が筑紫に到り、長峡県(ながおのあがた)に行宮を営んだのでみやこと呼ばれ、京都(みやこ)郡名の起こりといわれています。かっては京都郡と仲津郡に分かれていましたが、1896(明治29)年一緒になって、京都郡になりました。
江戸時代、行事村に小倉藩屈指の豪商玉江家がありました。屋号を飴屋といい、飴で財を蓄え、酒・醤油・質商を行い、遂には藩御用商人になりました。
1889(明治22)年行事・大橋・宮市の3村が合併し、行事と大橋からとって行橋町としました。1895(明治28)年小倉‐行事間の鉄道が開通し、同年行橋‐伊田間が開通しました。その後、鉄道は延長され、行橋は日豊本線と田川線の分岐駅となり、京築(けいちく、京都郡・築上郡に因む)地方の商業の中心になりました。
1954(昭和29)年、行橋町・簑島村・今元村・仲津村・泉村・今川村・稗田村・延永村・椿市村が合併して行橋市が誕生しました。日豊本線の複線化に伴って、北九州のベッドタウンとして宅地化が進み、工場も進出していますが、周辺農村地帯では農業も健在です。
国道10号線を南下し、国道10号行橋バイパスの横断歩道橋のある金屋交差点を左折し、県道246号大橋・沓尾線に入って行きます。金屋から今井に入ります。
今井祇園の大祭1日目の提灯山曳きです。今井祇園は須佐神社の祭礼です。須佐神社の起源は、鎌倉時代の1254(建長6)年、この地方に疫病が流行り、今井村の地頭が京都の祇園社を勧請しました。それよりも早い、平安時代の898(昌泰元)年とする伝えもあります。かって今井祇園は7月15日から8月3日に行われていました。現在は7月15日から行われ、大祭は8月初頭にかかる金・土・日曜の3日間あります。今井祇園は福岡県の無形民俗文化財に指定されています。
金屋は、かっては今井に属していました。他の土地にも金屋の地名がありますが、それらと同様に、かって鋳物師が住んでいました。関ヶ原の戦後、細川忠興が豊前国に入り、小倉城下に鋳物師町をつくると、国中の鋳物師達は移って行きました。
今井祇園大祭2日目の車上連歌です。
連歌は長句(五七五)と短句(七七)を詠みつなげて完成させる詩歌の形式ですが、中世以降盛んになりました。今井祇園で須佐神社に奉納される連歌は、室町から戦国時代に入った頃の1530(享禄3)年に始まり、連歌が廃れてからも続けられています。奉納される一巻は笠着連歌です。誰でも参加できる連歌で、かっては笠を着たまま、その場で参加したのでそう呼ばれました。今井西町の山周辺での車上連歌と呼ばれる笠着連歌は、今はここにしか残ってないといわれています。
今井は祓川の左岸に位置する、かっては河口部近くでした。今井は今居とも書き、新開地を意味するといわれています。中世、県道の北側は根津の浜、今井津と呼ばれた海岸線でした。現在は、簑島まで干拓されて、陸続きになっています。
大祭2日目の須佐神社の周辺は夜祇園(よぎおん)で賑わいます。祓川を渡った先の今元小学校が臨時駐車場になり、元永にある須佐神社まで歩いて行きます。今井にあった須佐神社は、安土・桃山時代に元永に移されました。
中世、今井津は港湾都市として栄え、鋳物師達が住む金屋も今井に含まれていて、職人の町としても 栄えていました。豊前仲津郡を領していた村上良成(りょうせい)は、跡を子に継がせて、浄土真宗の蓮如の下で得度し、1495(明応4)年今井に浄喜寺を開基しました。江戸時代、浄喜寺は細川忠興に寄進を受け、藩主が小笠原氏に代わっても寄進を受けました。浄喜寺は浄土真宗の九州の拠点でありましたので、今井は門前町としても発展しました。
かって、今井祇園には6基の山がありました。今井東町・今井西町・今井中須町・金屋が曳山、元永・真菰が舁山でした。曳山は車輪が付いていて、山を曳きます。舁山は車輪はなくて、山を舁き(担いで運ぶ)ます。残念ながら、現在は今井西町の曳山だけになりました。今井西町の曳山を見てみますと、約1.5mの樟の車輪の上に二層の吹き抜けの屋形があり、2本の柱が立っています。そびえ立つその姿は、京都祇園祭の山鉾の系譜であることが分ります。車輪は、日頃は祓川の河口に埋められていて、祇園祭の前に掘り出されます。
八ツ撥(やつばち)という、神童になぞらえた男女の子供が若者の肩車に乗って奉幣するという、伝承されたきた祇園行事がありますが、お聞きすると、最近は行われてないようです。
伝統を守って、祭礼を維持するのが大変なことだと思います。反対に、往時の今井の繁栄ぶりが想像できます。江戸時代には、大祭には小倉藩主から奉幣使が遣わされ、郡中最大の祭りとして、今井祇園の名は広まっていました。
大祭3日目今井西町の飾り山曳きが行われます。
今井は、江戸時代から1889(明治22)年まで仲津郡今井村でした。明治22年、金屋・今井・真菰・都留・沓尾・元永村の6村が合併して、今井と元永から名をとった今元村が誕生しました。1896(明治29)仲津郡は京都郡の一部となり、京都郡今元村になりました。1954(昭和29)年町村の合併があって行橋市が誕生し、今元村も行橋市に入りました。
浄喜寺は今井を通る県道246号大橋・沓尾線より南に位置します。県道が広くなった所から右折して南に下る道を進むと、右手に参道があり、奥に浄喜寺の門があります。車の場合は、県道の手前の点滅信号の交差点を右折すると、浄喜寺の駐車場があります。
村上良成が得度して慶善と称し、1495(明応4)年浄喜寺を開基しました。第三世良慶の時に、石山本願寺と織田信長の間で石山戦争がありました。
石山戦争については、「北九州の歴史」「安土・桃山時代」の「石山戦争」をご覧ください。
石山戦争で、軍学・武術にも優れた良慶は教如上人を援け、命の恩人と言わせました。関ヶ原の戦後、小倉藩主となった細川忠興は良慶に帰依しました。教如上人が東本願寺を創建すると、良慶は東本願寺派(大谷派)に参加しました。
現在の本堂は、1817(文化14)年に再建されたものです。
今井を通り、祓川を渡ると岐路になり、長井浜とお宮と書かれた案内があります。左の長井浜方向が県道246号で、右のお宮方向が県道248号元永・高瀬線です。お宮の方に進むと、右手に須佐神社の鳥居があります。この辺りは元永です。鳥居には「大祖大神社 須佐神社」と二つの神社が書かれた額が掲げられています。
鳥居をくぐり、石段を上って行くと、正面にお城を思わせるような石垣が現れます。そこを左に行くと更に石段が続きます。
1945(昭和20)年、当時の宮司が豊前をはじめ、豊後・筑前・筑後・長門から寄進を集めて、10年がかりで拝殿・回廊・石垣・石段などを築造しました。
石段を昇りつめると拝殿があります。右に大祖大神社、左に須佐神社が並んでいます。参拝も二つの神社にそれぞれ参拝します。本殿は別ですが、拝殿は二社一宇になっています。
安土・桃山時代の天正年間(1573-92)に、今井にあった祇園社が元永の妙見宮社地に移って来ました。
妙見社が大祖大神社で、祇園社が須佐神社になっています。
県道246号と県道248号の岐路に戻り、右折して県道246号大橋・沓尾線を進みます。今元小学校の横の祓川沿いを進みますと、また、岐路に出ます。直進するのが県道246号で、後程行きますが、右に行く道を進みます。左にある林の前に着きます。その左手に入ると長井海水浴場ですが、後程行きます。そのまま進み、次の左折できる道に入ります。先に行くと、海岸沿いの細い道に突き当たります。そこから海岸に下りて行きます。
長井浜から南方向の眺めです。干潮時でした。
長井浜から北方向の眺めです。
左の小山の手前が長井海水浴場で、小山の向こう側に祓川河口の沓尾(くつお)漁港があります。
長井海水浴場の案内がある林の前まで戻り、海側に入って行くと長井海水浴場です。海の家が海岸沿いに建っています。
海水浴場から北側の眺めです。橋は沖合につくられている新しい漁港への連絡橋です。
祓川沿いの岐路まで戻り、右折して祓川沿いの県道246号大橋・沓尾線を進みます。突き当りを左折します。沓尾橋の手前を右折し、河口まで進みます。
祓川の河口です。中央の山が北にある、現在は陸続きになっている簑島です。
祓川の河口の右手に沓尾漁港があります。干潮時には泊地内には海水がありません。河口部であるため、泊地内の土砂の堆積で激しく、漁港の機能が果たせなくなったため、沖合に新しい漁港がつくられています。それが先方に見えます。
小倉藩は戊辰戦争で出兵し、奥羽戦線で転戦しますが、3度の出兵は沓尾から出港しました。また最後の小倉藩主で、豊津藩知事であった小笠原忠忱(ただのぶ)が職を解かれ、海路を東京に向かったのも沓尾からでした。
沓尾橋まで戻り、橋を渡り、右折して川沿いに進みます。途中岐路がありますが、細くなっても川沿いを進み、車1台しか通らない道を進みますと、行橋総合公園の前に出ます。行橋総合公園は市民体育館、テニスコート、武道館、弓道場、多目的グラウン等が整備されています。
ここをはじめ、今井と簑島の間は、干拓の結果陸地になりました。北に今川、南に祓川があるため土砂の堆積が進み、遠浅の海岸でした。江戸時代には干拓が行われました。その最大のものは、1861〜62(文久元〜2)年に行われ、その結果文久新地が開作されました。現在文久の地名が付いています。文久新地の先簑島までの干拓が1947(昭和22)年に始まり、1953(昭和28)年に完成し、簑島は陸続きになりました。
行橋総合公園の前を進みますと、ゴルフ練習場のネットが見えます。その横を通り過ぎ、突き当りを右折します。左手に魚市場があります。その先の交差点を左折して進むと、魚市場の先に蓑島漁港があります。蓑島漁港は今川の河口部にあります。左手が魚市場です。
蓑島漁港の横を奥に進み、右折してカキ直売場の前を通り、その先を左折して細い道を行くと、長峡川と今川の河口部に出ます。周防灘からの漁船は、左手の蓑島漁港への水路が隔壁で確保されていて、その上に誘導灯が立っています。その向こうは長峡川河口で、対岸は苅田町の日産自動車九州工場になります。
長峡川を上って行きますと、行橋駅の北北東に草野があります。古代には、この辺りまで海岸で、草野津(くさのつ、かやのつ)と呼ばれた港でした。官人達はここから上陸して、大宰府に向かいました。その草野津の入口に簑島は位置し、古代より知られた島でした。
魚市場の先の交差点まで戻り、反対側の蓑島の南側に進みます。蓑島は、最高峰が60mの3つの山からなる周防灘の島でした。
蓑島の南側の海岸から南方向の眺めです。海岸の南端には菅原神社があり、海の向こうに沓尾の沖合につくられている漁港が見えます。
祓川の沓尾橋を渡り、県道246号大橋・沓尾線を戻ります。今井から国道10号行橋バイパスの金屋交差点まで戻ります。金屋交差点を直進して、県道246号大橋・沓尾線を進みます。今川の今井渡橋を渡った先に、市役所前の信号から右に入る細い道があります。そこを進みますと、道は右に曲がった先で突き当たります。その右手に大橋公園があります。
大橋公園の奥に中央公民館があります。
ここには江戸時代、小倉藩主が領内巡察の際に休息したり、宿泊したりする御茶屋がありました。1870(明治3)年1月藩校育徳館が豊津に開校しました。現在の県立育徳館高校(旧豊津高校)です。この年10月この御茶屋の建物を利用して、育徳館分校として大橋洋学校が開設されました。翌年1871(明治4)年オランダ人ファン=カステールが英語・ドイツ語講師として招聘されました。1872(明治5)年8月学制発布があり、藩校育徳館は一旦廃校となりますが、その後私立育徳学校になりました。翌1873(明治6)年4月大橋洋学校は育徳学校に吸収されました。
大橋公園の北隣に大橋神社があり、大橋太郎を祀っています。大橋村の名は、大橋太郎が村を開いたことに由来するといわれています。明治になり行事・大橋・宮市の3村が合併の際、行事と大橋からとって行橋町となり、1954(昭和29)年周辺の町村が合併して行橋市になりました。
大橋は長峡川と今川の最下流の沖積部にあり、江戸時代から昭和期まで開作が行われ、埋立てられてきました。
鳥居の右奥に大橋太郎の碑が見えます。鎌倉時代、豊後の地頭だった大橋太郎が鎌倉に赴いた時、身に覚えない罪を着せられます。やがて疑いが晴れ、豊後に帰国の途中この地に着いた時、厚いもてなしを受けました。太郎はこの地が好きになり、家族を豊後から呼び寄せ、これを知った豊後の人達がたくさんやって来ました。
大橋公園の前を西に進みますと、中町交差点に出ますので、そこを左折し、次の川越交差点を右折します。行橋駅前の通りです。魚町交差点を左折し、次の大通りの交差点を直進した先の左手に正八幡宮の鳥居があります。参道を進むと境内に入り、池に架かった橋を渡ると拝殿の前に着きます。正八幡宮は、江戸時代の寛永年間(1624−44)に草野の正ノ宮正八幡神社の分霊を勧請しました。
正八幡宮の境内の御神木です。
大正時代までは正八幡宮の周辺は田圃が広がっていました。耕地整理事業により、昭和に入ると、商店や住宅が建てられ、旧街道筋周辺以外にも市街地にも広がり、現在の駅前の市街地が形成されていきました。
駅前通りに戻り、駅方面に進みますと行橋駅東口に着きます。
1895(明治28)年4月九州鉄道は小倉から分岐させ、小倉‐行事間を開業しました。一方、行橋町に本社を置く豊州鉄道は、同年8月行橋‐伊田間を開業しました。しかし、行事駅と行橋駅は450mほど離れていたため、8月に間に合うように両社は長峡川に鉄橋を架け、線路を敷設しました。行事駅は廃止され、行橋駅を共同駅としました。この後豊州鉄道は行橋‐長洲間を開業しましたが、1901(明治34)年同社は九州鉄道に吸収合併され、1907(明治40)年九州鉄道は国有化されました。現在小倉‐鹿児島間はJR日豊本線となり、行橋‐伊田間は第三セクターの平成筑豊鉄道田川線になっています。
1999年(平成11年)に行橋駅は高架駅になりました。それまでは駅の東側が駅前で賑わっていましたが、現在は駅の西側にショッピングモールができ、新しい店舗も増え、賑やかになっています。駅の1階部分で東西はつながっています。
行橋駅東口を北に進みますと、長峡川に架かった橋を渡った先で、国道201号線に突き当たります。そこを右折して東に進み、2つ目の信号、行事交差点の1つ手前を右折します。突き当たりの手前右側に貴船神社があります。
この辺りは行事ですが、行事は北側の小波瀬川と南の長峡川に挟まれた沖積地です。貴船神社は水の神様です。境内に駐車させていただき、街道筋を散策します。
貴船神社の前の道は、かっての田川への街道筋です。そこを左、東方向に進みます。次の十字路の手前左手に旧飴屋門があります。飴屋、玉江家の屋敷は中津街道を挟んで東西にありました。この門は御成門と呼ばれ、小倉藩主が巡察の際に、お迎えした門といわれています。
飴屋を始めた玉江家は、酒屋・質屋・呉服商で繁昌し、藩から菜種座の指定を受け、他の商人から綿実座の権利を買い取り、藩御用商人になり、小倉藩屈指の豪商になりました。
明治維新後は、多くの事業を整理し、もとの飴屋を専ら行ったようです。
十字路からの眺めです。旧飴屋門が見えますが、その前の通りが田川方面への街道筋で、東西の通りになります。手前の南北の通りが旧中津街道筋です。ここを少し左に行くと万年橋になります。
玉江家の屋敷は十字路まであり、中津街道を隔てた東側には、酒蔵・醤油蔵等が建っていました。
長峡川に架かる万年橋から上流の眺めです。江戸時代末に描かれた地図「行事・大橋・宮市村絵図」によりますと、長峡川に架かった橋はこの万年橋だけで、川の右側(下流を向いて左側なので左岸)は行事村ですが、左側(右岸)の川沿いも行事村で、右岸の下流が大橋村で、大橋公園にあった御茶屋を中心に大橋村が行事村と接していました。上流に見える橋から上流付近の左側(右岸)が宮市村でした。
江戸時代、万年橋の下流の両岸(行事村・大橋村)に御蔵所がありました。旧中津街道筋はこの付近はそのまま残されています。街道筋は正八幡宮の東を通って今川に到りました。街道筋に沿って西側に長峡川と今川つなぐ運河の船路川がありました。京都郡・仲津郡の米が長峡川・今川・船路川を通って、御蔵所に集められ、ここから小倉や大坂に運ばれました。
港湾施設が整い、物資の集散が行われ、商業活動が活発なこの地区は繁栄し、1889(明治22)年、行事・大橋・宮市の3村が合併して行橋町になりました。
万年橋を渡って進みますと、突き当りの三叉路に出ます。街道筋は左折ですが、一旦右折して少し行きますと、レンガ造りの建物が左手にあります。
旧百三十銀行行橋支店です。八幡東区西本町1丁目にある旧百三十銀行八幡支店と同じで辰野金吾が関係し、1年早い1914(大正3)年の建築のようです。百三十銀行は大阪を本店とする銀行でした。行橋で創業した第八十七国立銀行は本店を小倉に移し、百三十銀行と合併しました。その後、銀行合同があり、百三十銀行は安田銀行となり、戦後は富士銀行になります。
現在、建物は「行橋赤レンガ館」といって、展示施設として市民に開放されています。
旧百三十銀行八幡支店については、「八幡のまちかど」の「中央・春の町」をご覧ください。
三叉路に戻り、反対側の街道筋を進みます。しばらく行くと、岐路になり、商家の前に道標が立っています。六角形の石柱に「南中津道 西小倉道 東今元道」と書かれています。江戸時代のものではありません。今元村が誕生したのは1889(明治22)年ですから、それ以降のものです。
右に行くと中津街道筋で、駅前通りに出ます。左に行くと、中町交差点に出て、その先は大橋公園に到ります。
国道201号線に戻り、行橋駅東口からの交差点を過ぎ、田川方面に進みます。国道201号国道から平尾台の案内のある県道28号線に右折します。更に右折の平尾台の案内がある方向が県道28号線ですが、そこを直進して、延永の信号を過ぎて、右カーブした先の左手に墓地があります。墓地の道を登って行きます。その一番上にビワノクマ古墳はあります。
1955(昭和30)年墓地造成中に発見されました。竪穴式石室を擁する、径が25m、高さ4.5mの5世紀前半の円墳です。古墳の盛土の下からそれ以前の箱式石棺や土壙墓が発見されていますので、古い時代からこの辺一帯には墳墓群があったと思われます。
墓地の下の道を先に進みますと県道28号線に出ます。そこを左折して先に進みます。。正面に標高396m塔ヶ峰が見えます。左端が塔ヶ峰です。塔ヶ峰は平尾台を挟んで南北に2つあります。北側は北九州市小倉南区井手浦の東にあります。南側は行橋市のこの峰です。県道28号線は山間を縫って、塔ヶ峰を左に見て小倉南区に入り、平尾台に到ります。
突き当たりの信号を右折し、更に次で左折するのが県道28号線ですが、そのまま直進します。左手に低い丘陵地がある手前で左折して、田圃の中の細い道を進みます。右手の人家の先に参道があり、その先に現在は願光寺のお堂がありますが、古代寺院跡である椿市(つばきいち)廃寺です。
椿市廃寺は、7世紀末から8世紀初めに建てられた寺院で、南から塔・金堂・講堂が南北に一直線上にある四天王寺式伽藍配置になっていました。この花崗岩の穴は、直径65cmの柱穴で、三重塔の心礎と推定されます。
552年百済の聖明王より仏像と経論をおくられ、しばらくは蘇我氏によって保護されますが、布教は許されませんでした。6世紀末蘇我氏は物部氏を倒して、実権を握ります。593年推古天皇が即位し、聖徳太子が摂政になります。寺は建立され、仏教は発展します。それから1世紀後、710(和銅3)年平城京に遷都されますが、その前後にここに、東西74m、南北100mの寺院が建立されました。
県道28号線に戻り、県道からビワノクマ古墳のある墓地の下の道を通って、延永の信号に到り、そこを右折します。国道201号線の吉国の交差点を直進し、長狭川に架かった橋を渡ると、右手に王野神社の鎮守の森があります。その先の四つ角の手前の右側が神社の参道になります。この辺りは下検地です。
この神社の境内を中心に、毎年5月3・4日下検地楽(しもけんちがく)が行われます。豊前・豊後地方で行われる楽打ち(太鼓踊り)の一つです。下検地楽は笛吹き・親楽の大人を除いた、太鼓打ち・鉦打ち、楽の初めに祝詞をあげる言立(いいだて)を子供がします。
参道横の四つ角を右折して進むと、長峡川沿いに出ます。最初の橋の熊本橋を右折して渡ります。すぐに十字路になりその右向こう側に末松謙澄(けんちょう)生誕之碑が立っています。
1855(安政2)年末松謙澄は前田の大庄屋の四男として生まれました。水哉(すいさい)園に学び、16歳で上京し、東京日日新聞に入社しました。ここで伊藤博文の知遇を得て、官界に投じました。ケンブリッジ大学に留学し、帰国後伊藤博文の次女と結婚しました。第1回衆議院議員選挙に地元から立候補し、以後3回当選します。伊藤内閣の閣僚を歴任して、貴族院議員をなりました。のち枢密顧問官に就き、子爵・学士院会員に選ばれました。この間政務のかたわら法学・文学・史学・美学や教育にわたる数多くの著作を残しました。
熊本橋を渡り、長峡川沿いの道に戻り、上流に進みます。朱塗りの欄干の橋が二つあります。幅員がある二つめの宮田橋たもと付近に駐車し、宮田橋を渡り、長峡川の左岸を上流に進みますと立派な生垣が見えます。中も手入れが行き届いた庭園です。ここは水哉園跡です。
ここ上稗田に生まれた村上仏山(ぶつざん)は幕末の儒学者で、秋月の原古処(こしょ)に学びました。1835(天保6)年26歳の時に、この地に私塾水哉園を開きました。号の仏山は後ほど訪れるホトギ山に由来します。
水哉園は全寮制の漢学塾で、人間づくりの倫理教育が行われました。先程の末松謙澄をはじめ政治家・学者・僧侶・医師を多く輩出しました。
敷地の一角にある建物は仏山堂文庫で、塾で使った教科書の版木、書画、漢詩、手紙などが所蔵されています。その横に「佛山先生墓」と題した石碑が立っています。実際の墓は山手にあるとのことで、仏山の顕彰碑になっています。題字は伊藤博文の書です。
1879(明治12)年村上仏山は70歳で亡くなりました。水哉園はその5年後まで続けられました。
宮田橋に戻り、そこから南方向の眺めで、標高216mの馬ヶ岳があります。右が西側の一ノ岳で、左が東側の少し低い二ノ岳です。
山頂に馬ヶ岳城跡があり、一ノ岳が本丸跡で、二ノ岳が二の丸跡になります。平安時代の藤原純友の乱で大宰大弐で下向した源経基が、942(天慶てんぎょう5)年に築城したと伝えられています。南北朝時代には新田義基が入り、新田氏が3代続いたといわれています。
1587(天正15)年、豊臣秀吉は九州平定に乗り出します。島津側の秋月古処山城主秋月種実は家臣に岩石城(添田町と赤村境界の岩石山)を守らせます。秀吉は馬ヶ岳城を岩石城攻めの本陣とします。豊臣軍の大軍に攻められ岩石城は落城しました。その戦後、豊前6郡を与えられた黒田如水が中津城を築城するまで、馬ヶ岳城を本城にしました。江戸時代に入った1615(元和げんな元)年の一国一城令で、馬ヶ岳城は廃城になりました。
やはり宮田橋から南方向の眺めで、馬ヶ岳の西にある標高246.9m御所ヶ岳(ホトギ山)です。ホトギ山中の「蔵誌巌」と刻まれた巨石の下に、村上仏山の詩稿が眠っています。
御所ヶ岳から西に伸びる尾根の主に北斜面に広がる遺跡が御所ヶ谷神籠石(ごしょがたにこうごいし)です。そちらに向かいます。
宮田橋からひとつ下流の稗田橋に戻ります。その交差点を右折して南に向かいます。県道58号椎田・勝山線に出て、そこを右折します。県道58号を西に行って、津積の信号を左折します。
津積の信号から南に向かいます。突き当たりますので右折し、次も突き当たりますので左折しますと、御所ヶ谷神籠石の案内があります。その先を進みますと坂道になり、そこを上ると住吉池沿いの道になります。堰堤下には広い駐車場があります。
住吉池の水辺には遊歩道が整備されています。
住吉池沿いの道は車1台ほどが通れるアスファルトの道です。神籠石の入口は池の奥で、堰堤下から歩いてもそれほどかかりません。入口は広場なっています。左方向の東門と直進の中門のルートがありますが、東門から訪ねます。細い山道を登って行きますと、少し広い所に出ます。そこが東門です。
御所ヶ谷神籠石は、かっては霊域を示すといわれて、それで神籠石の名称が付けられました。現在では山城跡といわれています。城の外周は3kmにも及ぶ大規模なものです。方形の切石の列石を基礎にして、板で枠をつくり、土や砂利を入れ一層ごとつき固めながら積み上げていく版築(ばんちく)工法で、高さ3〜5mの土塁を2km山中に巡らせました。
登って来た方向からは右、西方向に谷に下りて行きます。しばらくすると、下の方に建造物が見えます。東門に比べるとはるかに大規模な石塁の中門です。入口を真っ直ぐ登って来てもここに到ります。中央の下には排水口が設けられています。
7世紀朝鮮半島では新羅・高句麗・百済の3国が争っていました。唐は新羅と関係を深めていきます。唐・新羅軍は百済を攻め滅ぼします。百済と友好関係にあった日本は再興しょうとする百済を援けるため、数度大軍を送ります。663年白村江(はくすきのえ)で唐・新羅の水軍の前に日本の水軍は敗退します。この後、日本は唐・新羅がさらに軍事的圧力をかけてくることを恐れ、西国の国土防衛を図りました。こうした状況の中で築かれた山城だと思われます。しかしその当時築かれた遺跡と違い、記録が一切残されていません。
下から中門を眺めて、右、西方向に石塁に沿って登って行きます。しばらく行きますと、景行天皇を祀った景行神社があります。この辺りは山城の城内になります。
景行神社の背後に建物の礎石跡があります。景行天皇はここに行宮を設けたと伝えられています。御所ヶ谷はこれに由来します。
建物の礎石跡の奥を下って行くと、馬立場(うまだてば)の案内がありますので、そちらの谷間に下りて行きますと広場になります。馬立は馬繋の意味があります。谷間の広場なので、そのように名付けたようです。手前に石塁がありますので、この広場は貯水池施設と伝えられています。
馬立場から下って行きますと、西門に着きます。下から見ています。右手の石塁が主で、左手も残っていますが、中央部は崩壊しています。この城には7つの城門があります。主だったものだけ見て回りました。それぞれ地点までの行程は10〜15分程度です。
更に下って行きますと、住吉池の畔に出ます。住吉池の畔を進むと、神籠石の入口の手前に出ます。


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