北九州の近隣

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岡垣・遠賀・水巻町
  遠賀郡  [2010/07/17]
 

遠賀郡の4町のうち、芦屋町を除いた岡垣・遠賀・水巻町の3町を紹介します。
かって遠賀郡は、現在の北九州市八幡東区・八幡西区・戸畑区・若松区、中間市をも含む広い地域でした。東と西に山地が連なり、中央部に南から遠賀川が流れて北の響灘に流れ込み、その流域に農地が広がっています。
遠賀は岡から変化したものといわれています。現在の岡垣町から芦屋町にかけて、岡が続いていたからだといわれています。
古代、郡内に垣崎荘と山鹿荘が成立します。平安末期、山鹿荘は山鹿城(現在芦屋町山鹿)主の山鹿秀遠(やまがひでとお)に支配されますが、平家滅亡により、平家方の山鹿氏も滅亡します。西下した宇都宮氏の一族が山鹿荘を支配し、しだいに勢力を拡大します。その子は麻生氏を名乗り、一族は花尾城(八幡東区・八幡西区)を本拠に遠賀郡を支配します。麻生氏は一大勢力の大内氏と関係を結びますが、大内氏滅亡後は、北部九州は大友氏と毛利氏の争いとなります。
関ヶ原の戦いの後、黒田氏が筑前国に入ります。遠賀郡は福岡藩の東北部に当たりました。江戸時代、福岡藩は遠賀川の治水につとめ、流域の灌漑、舟運のために堀川を開削しました。遠賀郡でも江戸時代より石炭が採掘されました。石炭は川ひらた(五平太船)で遠賀川・西川・江川・堀川を通って若松に運ばれました。明治になって鉄道が開通すると、輸送の主役は鉄道に代わっていきました。遠賀川は明治以来戦後まで改修工事が続きました。
八幡市・若松市・戸畑市・中間市が成立すると、遠賀郡は4町になりました。石炭産業は、戦後の復興期まで基幹産業でしたが、昭和30年代石油へのエネルギー転換で、炭鉱閉山が相次ぎ、昭和40年代には炭鉱はなくなってしまいました。
現在は北九州市の近郊のため、ベットタウン化が進んでいます。更には福岡市への通勤圏にもなっています。
1889(明治22)年、内浦(うつら)・手野・波津・原・三吉・吉木の6村が合併して岡県(おかあがた)村になりました。同年、海老津・黒山・上畑・高倉・戸切・糠塚・野間・山田の8村が合併して矢矧(やはぎ)村になりました。1907(明治40)年、岡県村と矢矧村が合併して岡垣村になり、1962(昭和37)年、岡垣町になりました。
1889(明治22)年、今古賀・尾崎・鬼津・島津・広渡の5村が合併して島門(しまと)村になりました。同年、木守・虫生津(むしょうづ)・下底井野の3村が合併して浅木村になりました。1929(昭和4)年、島門村と浅木村が合併して遠賀村になり、1964(昭和39)年、遠賀町になりました。
1889(明治22)年、古賀・猪熊・頃末・杁(えぶり)・立屋敷・下二(しもふた)・吉田・伊佐座・二(ふた)の9村が合併して水巻村になり、1940(昭和15)年、水巻町になりました。
なお、芦屋町は、「北九州の近隣」の「芦屋」をご覧ください。
国道3号線を北九州市八幡西区から西に行きます。北九州市から西側の国道3号線は、遠賀バイパス・岡垣バイパス・宗像バイパスが完成して、現在は遠賀町・岡垣町・宗像市の市街地は通りません。遠賀バイパスを過ぎ、岡垣バイパスの東側で、左折して旧国道筋に進みます。旧国道筋は途中から県道287号線岡垣・宗像線になります。海老津駅前交差点を左折して、山手に進むと海老津駅があります。
1907(明治40)年、岡県村と矢矧村が合併した時、岡県とかってあった垣崎荘から一字づつとって、岡垣村としました。岡垣・遠賀・水巻町には、それぞれJR鹿児島本線の駅が一つづつあります。
1890(明治23)年11月九州鉄道により赤間‐遠賀川間が開業されました。海老津駅は城山トンネルが開通した翌1910(明治43)年11月に開業しました。1907(明治40)年には九州鉄道は国有化されていました。地元からは九州鉄道に駅設置の陳情が行われましたが実現せず、複線化やトンネル掘削に地元の協力が必要になり、やむなく設置されました。そのため、山手の不便な場所に設置されました。駅前の通りや駅舎は、1988(昭和63)年に新たに建設・建築されたものです。
県道287号線岡垣・宗像線に戻り、西に向かいますと、海老津中村交差点があります。そこをを左折しJR鹿児島本線のガードをくぐり、その先を右折します。その先に行くと、右手に九州鉄道・海老津赤レンガアーチがあります。ここまで来た道が県道287号線岡垣・宗像線で、この先宗像市武丸に到ります。
1889(明治22)年12月11日九州最初の汽車が、九州鉄道によって千歳川仮停車場に向けて博多を出発しました。その先久留米まで開通したのは翌1890(明治23)年3月でした。同1890(明治23)年9月博多‐赤間間が開業し、赤間‐遠賀川間は同年11月に開業しました。この時赤間‐遠賀川間には駅はありませんでした。この赤レンガアーチはその時建造されました。この西に城山東麓の標高80mの城山(じょうやま)峠があります。列車の前後に機関車が付き、峠を上り、下りて来ました。線路の複線化に伴い1910(明治42)年11月、城山峠の下に城山トンネルが開通しました。このトンネルは峠越えの線路の2・30m北に掘られました。そのため赤レンガアーチの北側に新たな線路が敷設されました。
県道287号線岡垣・宗像線を海老津駅前交差点まで戻ります。そこを左折して、県道288号原・海老津線を北に向かいます。高架の国道3号線バイパスの下をくぐり、坂道を上ると、右手にサンリーアイがあります。
サンリーアイは、ハミングホール・ウエーブアリーナ・図書室などがある岡垣町の複合施設です。後方に駐車場があります。
サンリーアイの前の県道288号原・海老津線を進みますと、すぐにけやき公園交差点があり、そこを直進します。その先を進むと信号のある交差点がありますので、そこを左折します。
道の先は左にカーブしますが、そこを直進する道があります。直進は狭い道路になり、すぐに突き当たりになり、高倉神社の鳥居があります。
鳥居の先、左手の石段の上に拝殿があります。
仲哀天皇と神功皇后が西下した時、仲哀天皇の船は響灘から岡浦に入って来ますが、そこで船は進めなくなります。水先案内を務めていた崗県主(おかのあがたぬし)の先祖熊鰐(くまわに)は、この浦のほとりの男女二神のせいだと言います。そこで、お祓いをすると、船は前進し、岡浦から上陸します。この二神が大倉主・菟夫羅媛(つぶらひめ)で、高倉神社はこの男女二神を祀っています。
拝殿の左手に綾杉の古木があります。神功皇后が朝鮮出兵の帰途、戦勝のお礼にお手植えされたと伝えられています。戦国時代、大友宗麟の軍により拝殿などが焼打ちされた時、綾杉の一方の樹皮が焼け残り、そこから枝葉が生えて成長したため、中は空洞になっていたと伝えられていますが、1970(昭和45)年に再度炎上しました。
綾杉から更に左手に行き、少し山手に登りますと、銅製の毘沙門天立像(びしゃもんてんりゅうぞう)が立っています。室町時代後期の作品で、1491(延徳3)年大江貞盛によって鋳造されました。大江貞盛は芦屋の鋳物師でした。当時芦屋では芦屋釜が盛んに鋳造され、茶釜の他にこの毘沙門天像や梵鐘も鋳造されています。
芦屋釜については、「北九州の近隣」の「芦屋」をご覧ください。
高倉神社の最初の鳥居に戻り、左の山手に上って行きます。途中左右に仁王さんが立っている山門を通り、上りつめると龍昌寺があります。
龍昌寺は、この後訪れる岡城を築いた、麻生家延の孫の弘繁が創建しました。その子隆守は大友軍に攻められて自刃し、この寺も衰微していましたが、江戸時代初め、黒崎城(八幡西区)を築いた黒田家武将の井上周防之房(すおうゆきふさ)によって再興されました。
龍昌寺の裏手に井上周防之房の墓所があります。
1600(慶長5)年黒田長政は筑前国に入り、重臣に6城築かせ、国内の守りを固めました。その一つが黒崎城で、1604(慶長9)年、井上周防之房に築かせ、居城させました。井上之房は黒田家の大身で、御牧郡(みまきぐん、遠賀郡のことで、1664年までこう呼ばれました。)のうち、1万7000石が与えられました。1615(元和元)年、一国一城令により黒崎城は廃城になりました。井上之房は黒崎城があった城山の西麓の屋敷から陣原の屋敷に移り、1634(寛永11)年没しました。井上周防之房は道柏と号しました。井上之房の奥方と娘の墓が北九州市八幡西区穴生の弘善寺にあります。二人とも1618(元和4)年に亡くなりました。
黒崎城については「八幡のまちかど」の「黒崎」を、弘善寺については同じく「穴生」を、陣原の屋敷については「北九州点描」の「陣原」をご覧ください。
左折して来た県道288号原・海老津線に戻り、左折して県道を進みます。坂道を上り、下りになった右手に小山があります。岡城跡です。標高40mの山頂に本丸跡があり、道路脇から登り道があり、登って行けば本丸跡に着きます。その先の下に二の丸・三の丸跡があります。麻生家延により築かれた城で、石垣はなく、岩肌が城構えに使われています。
麻生家では跡継ぎをめぐって内紛がありました。麻生家が仕えていた大内政弘に対し麻生家延は花尾城で挙兵しました。丁度応仁の乱の最中で、乱が終息すると、1478(文明10)年、花尾城は大内軍によって包囲されました。家延は敗れますが、和睦の結果、岡ノ庄が与えられ、この吉木の地に築城しました。
花尾城の合戦については、「八幡のまちかど」の「花尾山・河頭山」をご覧ください。
岡城本丸跡から北東方面の眺めです。城下の吉木が見え、先の左に緑が帯状に見えるのは、三里松原で、その先は響灘になります。
1546(天文15)年、大友氏の家臣、瓜生貞延によって岡城は攻められ、落城しました。城主の麻生隆守は内浦の海蔵寺で自刃しました。この後、瓜生貞延が岡城主になりましたが、豊臣秀吉が九州を平定した頃、岡城は廃城になりました。瓜生貞延は、黒田長政が筑前国に入国後、その下に入りました。
岡城跡横の県道288号原・海老津線を更に進みますと、芹田交差点で国道495号線と交差します。その交差点を左折し、国道495号線を少し進むと、右折する道があります。成田山不動寺への道です。そこから国道495号線の先を眺めています。
この先に標高108mの垂見(たるみ)峠があります。遠賀郡岡垣町内浦(うつら)と宗像市池田を結びます。
奈良時代、全国の道路網が整備され、駅家(うまや)が設けられ、公務で往来する者に馬や食料が提供されました。特に中央と地方の間を結ぶ経路は、国によって整備されました。これを官道と呼びますが、九州内には大宰府を中心に設けられた官道がいくつかあります。その一つが垂見峠を通っていました。現在の宗像市と遠賀町にあった駅家を結ぶ官道でした。
国道495号線を右折して、成田山不動寺への坂道を上って行きます。途中にゆうれい坂があります。この坂ですが、上り坂のように見えるが、実は下り坂です。先の方が急坂になっているため上り坂に見えます。空き缶を置くと先の方に転がっていきます。
成田山不動寺は、1964(昭和39)年成田山新勝寺から不動明王をお迎えして、湯川山中腹に開山されました。この本堂の前で、年3回祈願成就の護摩焚きが行われ、火渡りの行が行われます。それは、4月第2日曜日の春の大祭、9月第3日曜日の開創大祭・紫灯大護摩、12月28日の納め不動祭・おたきあげの時です。
成田山不動寺本殿の一段下の駐車場から北東方向の眺望です。海岸には三里松原が帯状に、芦屋町の遠賀川河口まで伸びています。三里松原は飛砂防止のための防風林として、江戸時代中期から植林され、保護されています。
国道495号線の芹田交差点に戻り、左折し、海の方に向かいます。波津(はつ)海岸に出ます。神功皇后が旗を立てたということで、旗ノ浦といわれ、それが波津になったといわれています。波津海岸には、数軒の旅館と活魚料理店があります。
波津海岸の西側の眺めです。手前に波津漁港があり、その先が岬になっています。この岬を波津城(はつしろ)といいます。岬は波津漁港の北西風を遮る防波堤の役割をしています。岬で道は左にカーブし、海岸を通って宗像市鐘崎に到ります。宗像市については、「北九州の近隣」の「宗像」をご覧ください。
波津海岸の東側の眺めです。ここは夏は海水浴場になります。三里松原の西端になります。波津海岸の東は新松原海岸になり、東端は芦屋海岸になります。
芹田交差点に戻って左折し、国道495号線を東進します。国道は最初三里松原の中を通り、その先は松原の南を通ります。芦屋と遠賀との分岐点の交差点に到りますので、遠賀方面の右の県道286号黒山・広渡線を進みます。すぐに遠賀町に入ります。
この付近を垂見峠を越えて来た官道が通っていたのでしょうか。左端の丘陵地は遠賀町若松で、その左側に鬼津の集落があります。他の山地は遠賀川の対岸になります。道の左の田圃は鬼津に入ります。古代にはこの辺りは遠賀川の河口近くの西側に入り込んだ入江でした。鬼津の集落がある所がその当時の岡県の港と思われます。
先に進みますと、人家のある所に入って行きます。そこから左に入ると島門(しまと)小学校があります。1889(明治22)年、今古賀・尾崎・鬼津・島津・広渡の5村が合併して島門村になりました。古代の駅家(うまや)があった島門駅に由来した村名でした。その島門駅は島津にあったといわれています。
県道286号黒山・広渡線を更に進み、松の本(元)交差点を左折し、県道285号浜口・遠賀線を北に進みます。戸切川の鬼津橋を渡り、前川に架かった橋の住吉橋交差点に到ります。
県道285号浜口・遠賀線の住吉橋交差点を右折し、川沿いに進み、しばらく細い道を通ります。前川・戸切川は西川に合流しています。その西川に架かった島津橋の前に来ました。前方の丘陵地に4〜5世紀の前方後円墳1基、方墳1基、円墳3基の5基の古墳があります。それらの古墳群を中心に整備され、この丘陵地は遠賀町島津・丸山歴史自然公園になっています。
島津橋を渡り、右側の西川沿いの細い道に入って行きます。遠賀町島津・丸山歴史自然公園の北側の入口があります。
歴史自然公園の入口から坂道を登って来ますと、島津丸山古墳があります。全長57mの遠賀川流域最古の前方後円墳で、遠賀川下流域の有力な豪族の墓と思われます。左手前が後円部、右先方が前方部で、高くて大きい後円部、低くて細い前方部という前期古墳の特徴を持つ墳丘です。
島津丸山古墳の隣に右手前の丸山2号墳があります。これは一辺18mの方墳で、島津丸山古墳より古く築造されたと思われます。
更にその隣に左先の丸山3号墳があります。これは直径17mの円墳です。3つの古墳が並んでいますが、その築造順は明らかではありません。
この先を下りて行き、歴史自然公園の南の入口近くから右の斜面を登って行くと、もう2つ古墳があります。円墳の小古野(こぶるの)1・2号墳です。
遠賀町島津・丸山歴史自然公園になっている丘陵地の北側に伊豆神社があります。そこから北に行き、西川に架かった橋の東側で県道26号北九州・芦屋線に出ますので、そこを右折します。
県道26号北九州・芦屋線を東に進みますと、遠賀川に架かった御牧(みまき)大橋に出ます。御牧大橋から遠賀川の上流の眺めです。1982(昭和57)年、御牧大橋のすぐ下流に遠賀川河口堰が完成しました。治水と利水を目的にした可動堰で、完成後の遠賀川の下流は、細長いダム湖のような水面になっています。
御牧は遠賀郡を改称した郡名です。馬の牧場が多いので御牧郡と呼ばれましたが、改称の時期ははっきりしませんが、室町時代といわれています。遠賀郡に戻されたのは、江戸時代の1664(寛文4)年でした。古代より江戸時代まで遠賀川は二つの流れに分かれて、この付近のもっと東と西で河口部に流れ込みました。現在見る流れではありませんでした。
右の岸は西岸で、遠賀川の左岸(下流に向かって左岸)です。手前は遠賀町の島津で、中央の丘陵地の右側が島津・丸山歴史自然公園です。島津の先、上流は広渡です。
古代、水路の人は島門駅を発着し、江川を往来しました。陸路の人は島津から南に行った、広渡付近で遠賀川を渡河し、次の駅家がある夜久(やく、八幡西区上津役)に向かいました。
御牧大橋から遠賀川の上流の眺めです。上流の遠賀川橋が線になっています。その右の岸は西岸、遠賀川の左岸で、遠賀町広渡です。広渡の手前は島津です。遠賀川橋の左の岸は東岸、遠賀川の右岸で、水巻町立屋敷です。それから手前に、杁(えぶり)・古賀そして猪熊です。
遠賀川の下流・河口部は歴史上大きく変わりました。遠賀川が流れる遠賀平野は、豊かな穀倉地帯でした。しかし、遠賀川の河床は高く、蛇行していましたので、度々洪水の被害に見舞われました。江戸時代の初めの遠賀川の下流は、東側が現在の曲川の下流で、西側が西川の下流に当たり、本流は東側でした。筑前に入った藩主黒田長政は遠賀川の改修に力を注ぎ、15年の歳月をかけて直線化と拡幅を図りました。そのため、地続きであった広渡と立屋敷の間を開削しました。また、古賀付近から島津と猪熊の間を開削し、遠賀川の下流の流れを三つにしましたが、川幅が狭く、効果は余りありませんでした。
遠賀川の東岸、右岸です。手前から中央の小山付近までが猪熊、その先から上流の山の手前が古賀、その山付近が杁、その先が立屋敷です。遠賀川の左手、東側に遠賀川に沿って曲川が流れています。御牧大橋を渡って東に行った先で、曲川は江川に合流します。江川は洞海湾と遠賀川の河口を結びます。
開削した猪熊・島津間の流れはほとんどありませんでした。それを拡幅し、当時猪熊の上流の古賀で遠賀川に合流していた曲川の排水を円滑にしょうとしましたが、洪水時にはその目的は果たせませんでした。立屋敷村庄屋入江喜太郎は、命を懸けて改修工事を郡役所に願い出ました。工事は、1744〜50(延享元〜寛延3)年までの大工事になりました。遠賀川本流を古賀で堰き止め、猪熊・島津間の水路を本流とし、左岸は広渡から島津、右岸は古賀と猪熊に大土手を築き、河口部を直線的にしました。この遠賀川下流域の工事と堀川の開削で、遠賀川の水害を減少することができ、灌漑用水の供給が円滑に行われるようになりました。
明治に入っても、遠賀川は何度も洪水の被害を受けました。石炭産業発展のため、国営事業として遠賀川の改修工事が行われました。戦後になると、石炭採掘により地盤低下で堤防が下がり、石炭水洗や坑内排水の遠賀川への流れ込みにより、河床が上がって、水害が起こりました。改修工事は続き、炭鉱閉山後も続けられました。
御牧大橋から遠賀川の左岸・西岸の県道27号直方・芦屋線を南進します。広渡交差点を直進し、国道3号線とJR鹿児島本線のガードの間の広渡南交差点を右折し、次の交差点を直進しますと3号線に出ますので、そこを左折して進みますと、左手に遠賀川駅があります。
1890(明治23)年11月九州鉄道により赤間‐遠賀川間が開業された時、遠賀駅は現在の駅より東の遠賀川沿岸につくられました。しかし、西川沿いの炭鉱から石炭を運ぶ目的で遠賀川‐室木間の室木線が計画され、本線の複線化などに備え駅構内の拡幅が行われ、1907(明治40)年に駅舎は現在地に移転されました。なお、室木線は1908(明治41)年に開業し、1985(昭和60)年に廃止されました。
遠賀川駅の前を西に進みますと、西川に架かった橋を渡った先に交差点があります。そこを左折し、JR鹿児島本線の跨線橋を渡って進みますと、道が右にカーブする所に左からの道が合流する交差点を左折します。この辺りは浅木です。
東進しますと農地が広がります。遠賀川下流域の遠賀平野です。晴天であれば、はるか先に左から最高峰が皿倉山の帆柱山系から最高峰が福智山の福智山系の山々が望めます。
前方に遠賀川の堤防上の道路が見える所から、右の集落に入って行きます。集落の中に老良(おいら)神社があります。この辺りは老良です。
日本武尊(やまとたけるのみこと)と砧(きぬた)姫の間に男子が生まれます。その子砧王がこの里の守令に任ぜられてから、ここは老楽の里と呼ばれるようになりました。この神社は砧王を祀っています。その後砧王の子孫が4代守令を連綿と続けたそうです。いつの頃からか、この里は老良と呼ばれました。
砧姫の物語は、遠賀川の対岸、水巻町立屋敷の八剣(やつるぎ)神社に伝わっていますので、のちほど紹介します。
老良神社の横を通り、遠賀川の堤防上の道路に出て、左折して北進します。前方に遠賀川に架かったJR鹿児島本線の鉄橋と、国道3号線が通っている遠賀川橋が見えます。鉄道と国道のガードをくぐった先の広渡交差点を左折しますと、国道3号線に出ます。
国道3号線の遠賀川橋を渡ると、水巻町に入ります。水巻町の前身の水巻村は、1889(明治22)年、古賀・猪熊・頃末・杁・立屋敷・下二(しもふた)・吉田・伊佐座・二(ふた)の9村が合併したものです。水巻は遠賀川河口部の水が渦巻いた様をいうとされましたが、遠賀郡の旧郡名の御牧郡は、水巻郡とも書いたといわれています。
橋を渡ってすぐに左折し、川沿いの道を左折して、国道と鉄道のガードをくぐり抜けます。
先ほど北進した川沿いの道の対岸を南進します。先方に道路の両側に銀杏の木があります。遠賀川が改修される前は、八剣神社境内の夫婦銀杏樹でした。八剣神社は堤防上の道路の手前左下にあります。
夫婦銀杏樹の川側に看板が出ています。立屋敷遺跡あとです。
古代、遠賀平野での稲作適地は、遠賀川が土砂を運び形成した沖積土三角州の周辺地域でした。ここから出土した弥生前期の土器は遠賀式土器と呼ばれ、紀元前2世紀には南は薩南諸島の一部、東は伊勢湾沿岸と丹後半島を結ぶ線まで広がっていました。米は道具との交換が可能でした。それは財産として価値を持っていました。
八剣(やつるぎ)神社には日本武尊と砧姫命が祀られています。日本武尊が熊襲征伐の途中に立屋敷に泊られた時、砧(きぬた、洗濯の後、布を打って柔らかくし、つやを出すための木の道具)を打つ音がします。訪ねて行くと若い女が打っていました。尊が話を聞くと、都の宮中に仕えていたが、仲間の讒言が嫌になり、この里に暮らしていると涙ながらに話しました。尊は哀れに思い、身近において身のまわりの世話をさせました。熊襲を平定して立屋敷に戻ると、砧姫は身重になっていました。都に帰らなければならない尊は、姫と別れなければなりませんでした。尊は契りの思い出に一本の銀杏を植えました。それが境内にある樹齢1900年の大銀杏樹です。
いつの頃か、この樹のこぶを削って煎じて飲めば、乳の出ない母親の乳が出るということで、参詣者が多かったそうです。
山鹿城主の山鹿秀遠や大内・小早川・黒田氏によって八剣神社の社殿は5度造営されました。
境内には合祀神社が沢山ありますが、その中に五穀豊穣祈願の保食宮があります。江戸時代の1670(寛文10)年、この神のお告げで、立屋敷庄屋蔵富吉右衛門が鯨油を害虫駆除に使いました。これが日本における害虫防除の始まりといわれています。一般的に使われたのは、後の天明・寛政期(1781〜1801)になります。
立屋敷遺跡あとの看板の所から、車で遠賀川河川敷に下りて行けます。手前がJR鹿児島本線の鉄橋で、その後に国道3号線の上下専用の2本の橋が架かっています。総称して遠賀川橋と呼びます。左岸は遠賀町広渡で、右岸は水巻町立屋敷です。
国道3号線に戻り、東に進みますと、前方に歩道橋のある交差点があります。そこを右折し、踏切の手前の左手に水巻駅があります。
1891(明治24)年2月九州鉄道により遠賀川‐黒崎間が開業され、同年4月黒崎‐門司港間が開業されました。当時、遠賀川‐黒崎間の駅は折尾駅だけでしたが、遠賀川‐折尾間に、1961(昭和36)年水巻駅ができました。
国道3号線に戻り、東に進みますと、すぐに中間・若松は左への案内が出ますので、左に入って、国道下の交差点を右折します。
国道3号線下の交差点を右折し、県道203号線中間・水巻線を南下します。JR鹿児島本線のガードをくぐると吉田になります。吉田グランド前交差点を過ぎ、次の吉田小学校入口交差点を左折し、すぐ先の橋の手前を川沿いに進みます。道は広くありません。川は堀川で、先に行くと、対岸に河守(かわもり)神社があります。
遠賀川流域で、土地が低いため雨が降るとすぐに洪水を起こしました。憂慮した福岡藩主黒田長政は、堀川を開削し、遠賀川を分流して洞海湾に流すことを計画し、1621(元和7)年着工しました。しかし、長政が病没したため工事は中止となりました。
1623(元和9)年以来中断されていた堀川開削の工事が、1751(宝暦元)年再開されました。神社の先にある車返しの切り通しの難工事を突破して、1762(宝暦12)年堀川は完成しました。
河守神社は大山祇神のほか、再工事を始めた藩主黒田継高が祀られています。
神社の前を先に進み、車返しの切り通しがあります。岩盤に残された当時のノミ跡を見ることができます。
堀川の完成により、遠賀川の水害は緩和され、流域には灌漑用水が供給されました。それと同時に、年貢や荷物輸送の舟運が便利になり、筑豊の石炭が運ばれました。川ひらた(五平太船)による若松までの石炭輸送は、明治になってますます盛んになりました。
筑豊の石炭輸送を目的に、1891(明治24)年8月直方-若松間の鉄道が開通しました。そのため石炭輸送の主役は鉄道に奪われていきました。
この様な堀川の歴史が、河守神社の石垣の所に陶板で紹介されています。
堀川についての詳細は、「八幡のまちかど」の「堀川」をご覧ください。
吉田小学校入口交差点から、県道203号線中間・水巻線を国道3号線下の交差点まで戻り、そのまま直進して北に進みます。坂を上った所に信号がある交差点があり、そこを左折すると、すぐに右折して図書館・歴史資料館への道が伸びています。左手は総合運動公園になっています。坂道を上ると、水巻町図書館・歴史資料館があります。
図書館・歴史資料館の前の駐車場の脇に炭鉱就労者の像「躍進」が立っています。日炭(日本炭礦)高松二鉱の坑口付近にありましたが、閉山後は日炭事務所跡地に移されていました。2004(平成16)年水巻町に寄贈され、翌年水巻町の文化財に指定されました。戦時中、軍需生産美術推進隊によってつくられました。作者は圓鍔勝三(えんつばかつぞう)です。
かって、日炭関係者とその家族で町の人口の約8割を占めていたというように、水巻町の近代化は石炭産業に負うところが大でした。
図書館・歴史資料館の背後の坂を上り、その先の曲がり角をそのまま進むと墓地があり、その一番高い所にこの十字の塔があります。
太平洋戦争中、捕虜になった外国人が連れて来られて、炭鉱などで働かされました。水巻町にも4回にわたって、アメリカ人70人、イギリス人250人、オランダ人800人がこの近くの収容所に送られて来ました。坑内の労働が厳しいため病気で倒れたり、耐えかねて脱走して処罰されたりして、多くの人がこの地で亡くなりました。終戦になって、捕虜を監督していた日本炭礦は遺体処理に困り、連合国の戦犯調査委員が到着する前に慌ててこの塔をつくりました。
炭鉱も閉山して、戦争の記憶も薄れていた1985(昭和60)年、水巻に収容されていたオランダ人が訪ねて来ました。水巻町はこれを機に、不幸な戦争を繰り返さないように平和を願って、十字の塔を伝えていくことになりました。
その後十字の塔を横に拡張して、水巻で亡くなったオランダ兵53名の他に、日本各地で亡くなったオランダ兵818人名が銅板に銘記されました。2000(平成12)年にはオランダでつくった871名の銘板に取り替えられました。
図書館・歴史資料館の背後の一段高い所に駐車場があります。そこからの眺めです。
かってここには日炭(日本炭礦)高松二鉱がありました。そこが現在は住宅地になっています。中央の緑の帯の先は北九州市八幡西区になります。
水巻では江戸時代から石炭は発見され、明治後期、三好徳松が炭鉱を経営しました。三好徳松が死去すると、1934(昭和9)年鮎川義介の日本鉱業に売却され、日本炭礦が設立されました。日炭高松炭鉱は水巻町の全域、隣接する北から若松市(現在北九州市若松区)、八幡市(八幡西区)、中間町(中間市)に広がっていました。1952(昭和27)年、日炭株の買い占めがあり、オーナーが鮎川義介から茨城県の高萩炭鉱に代わりました。1953(昭和28)年若松の二島まで坑道が開削されました。その後二島鉱と各鉱が坑道でつながり、二島鉱から揚炭し、洞海湾の二島から積み出されました。しかし、エネルギー革命の進行により、二鉱は1965(昭和40)年採炭中止になり、1971(昭和46)年の若松鉱業所の閉山で、日本炭礦は閉山となりました。
上の駐車場から山手に登って行きます。すぐに広場に出ます。炭鉱があった頃、ここは二鉱山ノ神(大山祇神社)の拝殿がありました。現在はなくなり、多賀山自然公園として整備されています。
右手に「殉職者招魂碑」が立っています。裏面に昭和12年建立、日本化学工業株式会社遠賀礦業所になっています。左手には鉱業報国碑があり、その横に大山祇神社の鳥居が解体されて横たえられています。その建立年・者は招魂碑と同じです。1937(昭和12)年、日本炭礦は一時日本化学工業と改称されました。これらはその年に建立されています。
図書館・歴史資料館から坂を下って、総合運動公園との間の道を西に下って行くと、曲川を渡り、遠賀川右岸・東岸の県道73号直方・水巻線に出ます。そこを右折して下流に向かいますと、先方に御牧大橋が見えます。河川敷にコスモスが植えられ、秋になると一面花が咲きます。道路を挟んで河川敷の反対側、猪熊1丁目のみどりんぱぁーくで水巻町コスモスまつりがあります。詳細は下の水巻町の公式サイトをご覧ください。
 http://www.town.mizumaki.lg.jp/

 
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