北九州の近隣

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中間市・鞍手町
    中間市・鞍手郡鞍手町  [2010/09/25]
 

中間市は北九州市八幡西区の西隣にあり、市の中央部を遠賀川が流れています。中間市の南西に、鞍手町は隣接します。
太古、海が遠賀川流域深くまで湾入して、中間市も鞍手町も丘陵部を除いて、かなりの部分が水中にありました。その畔に縄文時代の遺跡があります。
中間は遠賀郡に属し、鞍手は鞍手郡に属していました。6世紀中頃欽明天皇の世、百済と新羅との戦いで、百済の援軍に来ていた筑紫国造(ちくしのくにのみやっこ、大和王権の地方官)が奮戦しました。百済王は彼に鞍橋君(くらじのきみ)の尊称を贈りました。鞍橋君はこの地の豪族であったため、くらじが転じて鞍手になったといわれています。
中世、花尾城(八幡東・八幡西区)を本拠とする麻生氏は中間を支配下に置きました。鞍手は宗像大宮司家の支配下にありました。しかし戦国時代には、この地は大友氏と大内氏、後には大内氏に代わって毛利氏との争いの場になりました。
江戸時代は黒田氏が筑前に入国し、中間・鞍手は福岡藩となります。しかし、東蓮寺藩が成立すると、鞍手のかなりの部分は東蓮寺藩になりました。直方藩と改称されますが、のち廃絶されて福岡藩に戻ります。中間の底井野に藩主の御茶屋が建設され、後には遠賀・鞍手郡の郡屋が設けられ、郡代が常駐しました。福岡藩は遠賀川の治水、流域の灌漑、舟運のために堀川を開削しました。江戸時代より中間・鞍手とも石炭が採掘されました。石炭は川ひらた(ひらたは舟に帯、別名五平太船)で遠賀川・江川・堀川を通って若松に、鞍手を流れ、遠賀川の河口近くで合流する西川を通って芦屋に運ばれました。若松・芦屋から石炭は積み込まれました。
明治になって鉄道が開通すると、輸送の主役は鉄道に代わっていきました。芦屋には鉄道が敷設されなかったため、芦屋の石炭の積み込みは若松に移っていきました。現在の鹿児島本線・筑豊本線の他に、炭鉱の近くまで鉄道は伸びていきました。1908(明治41)年鹿児島本線遠賀川(遠賀町)から室木(鞍手町)までの室木線、筑豊本線中間(中間市)から香月(北九州市八幡西区)の香月線が開通しました。両線とも炭鉱が閉山された後、1985(昭和60)年廃止されました。
中間北部から水巻にかけて日炭高松1坑がありました。中間南部から香月にかけて大辻炭鉱がありました。1906(明治39)年伊藤伝右衛門が遠賀郡長津村(中間市)に中鶴炭鉱を開坑し、次々に新坑を開坑しました。鞍手郡新入村(現在直方市)で開坑した新入炭鉱は1889(明治22)年三菱の経営になると鉱区を広げていきました。遂には現在の直方市・北九州市八幡西区・鞍手町にまたがる鉱山になりました。新入炭鉱は1963(昭和38)年、中鶴炭鉱は1964(昭和39)年に閉山になりました。
1889(明治22)年遠賀郡長津村・底井野(そこいの)村が成立しました。長津村は1922(大正11)年長津町になり、1924(大正13)年中間町に名称を変更しました。1932(昭和7)年底井野村は中間町に編入され、1958(昭和33)年中間市になりました。中間市の遠賀川の東部は北九州のベッドタウンとなり、住宅地及び市街地になっています。西部は農村部及び炭鉱跡地が工業団地になっています。
1889(明治22)年鞍手郡剣村・古月村・西川村が成立し、剣村が1952(昭和27)年剣町になり、1955(昭和30)年1町2村が合併して鞍手町になりました。炭鉱跡地に工業団地が造成され、農業では果樹や養鶏が盛んです。
北九州市八幡西区三ヶ森から県道48号中間・引野線の永犬丸トンネルを過ぎ、坂を下りて来ると中間市の蓮花寺交差点に出ます。交差点の右向うにはショッパーズ中間が広がっています。交差点を左折して先に行くと、筑豊電鉄通谷駅になります。
1978(昭和53)年通谷駅の前に、ダイエー中間店が進出しました。郊外型ショッピングセンターのはしりでした。筑豊電鉄を利用した黒崎(八幡西区)への買い物客のかなりが、ここに吸収されました。また車を利用したお客を集めました。その後店舗は拡張され、ショッパーズ中間になっています。
蓮花寺交差点を右折して北西に行くと、右手になかまハーモニーホールが、左手に中間市立病院・体育文化センター・人権のまちづくりセンター・中間市民図書館・歴史資料館・中央公民館などの公共施設が並んでいます。
ここは中間市民図書館・歴史資料館の前です。
中間市民図書館・歴史資料館の前に、炭砿偲郷碑が立っています。
1964(昭和39)年閉山した中鶴炭鉱の歴史を記憶し、中鶴に生涯を賭けた人々の顕彰碑として、地底に眠っている殉職者の鎮魂の碑として、1981(昭和56)年建てられました。
1906(明治39)年伊藤伝右衛門が遠賀郡長津村(中間市)に中鶴炭鉱を開坑し、1914(大正3)年古河鉱業との共同出資で大正鉱業を設立しました。戦後、大正鉱業は財閥解体で古河鉱業との関係は切れ、伊藤家の経営となりました。エネルギー革命、石炭斜陽化の中で、1964(昭和39)年12月中鶴炭鉱は閉山しました。
図書館・歴史民俗資料館の前を更に西に進みますと、突き当たりにJR中間駅があります。
1891(明治24)年筑豊興業鉄道(のち筑豊鉄道と改称)によって、直方−若松間の鉄道が開通しました。この時の途中駅は、この中間駅だけでした。この鉄道は後の筑豊本線で、このあと延伸されていきました。
1908(明治41)年ここから分岐されて、香月(北九州市八幡西区)までの香月線が開通しました。当初石炭輸送の貨物専用線でしたが、のち旅客も乗れるようになりました。
中間駅の前で、道は左折して南下します。駅前から少し行くと、左手に石像が並んだ遊歩道が続きます。1985(昭和60)年廃線になった香月線跡が屋根のない博物館になっています。
香月線はかっての遠賀郡長津村(のち町)、のち中間町(現在中間市)を南北に縦断して、隣の遠賀郡香月村、のち香月町(現在北九州市八幡西区)に伸びていました。
香月線跡地は幅を広げられて道路になっています。
香月線跡の屋根のない博物館には、世界の古代石像のミニチュアが並んでいます。これはギリシャのミケーネの獅子門です。他にイースター島のモアイ像、ポリネシアの女性像等多くの石像が並んでいます。
屋根のない博物館が始まる地点まで戻りますと、中間駅寄りに踏切があります。そこを通り過ぎますと、線路沿いの道との交差点になります。そこを直進します。
中間駅前通りには家並が続き、かっては賑わっていた様子が分ります。
先方に昭和町交差点の信号が見えます。県道203号中間・水巻線と交差します。県道沿いにも家並が続き、道路は広くないため、県道203号線の昭和町交差点を中心にした付近は南から北への一方通行になります。
昭和町交差点を直進しますと、堀川に架かった片峰橋に出ます。
遠賀川流域は土地が低いため、雨が降るとすぐに洪水を起こしました。1621(元和7)年福岡藩主黒田長政は、遠賀川を分流するため堀川開削に着工します。しかし、長政が病死したため工事は中止となりました。1751(宝暦元)年藩主黒田継高によって工事は再開され、1762(宝暦12)年遠賀川と洞海湾を結ぶ堀川は開通しました。堀川は治水・灌漑にそして舟運に、その役割を果たしました。堀川を川ひらた(ひらたは舟に帯、別名五平太船)でまず米を運びました。そして筑豊の石炭を若松に運ぶ重要な役割を堀川は果たしました。しかし、鉄道が開通すると、次第に鉄道に主役を奪われ、川ひらたは、1938(昭和13)年に姿を消しました。
県道203号中間・水巻線の昭和町交差点は一方通行なので、踏切の交差点まで戻り、右折して南に行くと、県道203号線に合流します。さらに南に行きますと、県道48号中間・引野線との新手交差点に出ます。そこは蓮花寺交差点を県道48号線を西に行った所になります。新手交差点を右折して、西に行きますと、遠賀川に架かる遠賀橋になります。橋の手前右手は中間市役所です。その交差点を左折し、すぐの交差点を左折します。左折したすぐの右手下に瓦屋根の建物が見えます。中間唐戸(からと)です。
唐戸とは水門のことです。中間唐戸を横から見ています。
1751(宝暦元)年堀川開削工事は再開され、遠賀川からの取水口としてこの中間唐戸(からと)が築かれ、1762(宝暦12)年堀川は開通しました。
中間唐戸を横の石段を降りて、反対側から唐戸を見ています。
屋根のある上屋には、堰板が収納されています。遠賀川が洪水の時、板でその水路に堰をしました。それが堰板で、水路の両側の石壁に溝が掘られ、そこに堰板がさし込まれました。1804(文化元)年遠賀川上流の楠橋に寿命(じめ)唐戸が築かれ、堀川は上流に延長されました。
堀川については、「八幡のまちかど」の「堀川」をご覧ください。
遠賀橋まで戻り、左折して遠賀橋を渡ります。遠賀橋の左岸、西岸からの眺めです。橋の畔の建物は中間市役所です。遠賀橋は2005(平成17)年に架け替えられました。
遠賀橋から遠賀川上流の眺めです。中島で遠賀川は二つの流れに分かれますが、堰の所で合流しています。堰の先の中島までが中間市です。堰で取水された遠賀川の水は、左の東岸にある施設から八幡製鐵所送水されます。取水のための堰や送水するポンプ施設等は、八幡製鐵所の遠賀川水源地として、1910(明治43)年完成しました。
遠賀橋から遠賀川下流の眺めです。先に見えるのは、1891(明治24)年に筑豊興業鉄道によって開通した、現在はJR九州の筑豊本線の鉄橋です。
遠賀橋の左岸、西岸は、県道27号直方・芦屋線との垣生(はぶ)交差点です。垣生交差点を直進して西に進みます。垣生交差点から西の部分は、最近道路の改良工事が行われ、筑前垣生駅の横を通っていた狭い通りは、線路の下が掘られて、直線の広い通りになっています。垣生交差点から上にJR筑豊本線の線路が通っている県道98号中間・宮田線を進み、最初の交差点を左折しますと、坂道を上った右手に垣生公園の駐車場があります。左手一帯が垣生公園になります。交差点の左手、県道と垣生公園の間に、現在交流センターが建設されています。
垣生公園の北側は垣生池になっています。池に朱塗りの太鼓橋が架かっていて、その先の山手に垣生神社があります。
太鼓橋を渡り、石段を昇って行くと、垣生神社の社殿があります。
仲哀天皇・神功皇后が熊襲征伐で西下の折、航海安全を祈り、船魂を祀りました。その由緒により垣生八幡宮として崇敬を集めていました。戦国時代もっと奥にあった社殿が大友軍により焼失したため、1571(元亀2)年花尾城主麻生隆実により現在地に再建されました。戦後多数の神社を合祀したため、現在は垣生神社になっています。
垣生池の西側の小道を奥に入って行くと、右手の丘陵地に垣生羅漢百穴があります。
右手に石段があり、昇って行くと、正面に一番大きな横穴があります。
大きな横穴から右手に行くと、小さな横穴があります。このような横穴が砂岩丘陵地の斜面に32基あったそうです。古墳時代の横穴群集墓です。
垣生公園の前の県道98号線を西に進みます。右手に工業団地がありますが、そこを過ぎて進みますと、左手に小山があってその先に底井野小学校が見えます。
1638(寛永15)年福岡藩2代藩主黒田忠之の時、藩主の別荘をつくりました。その御茶屋跡が校舎の位置で、運動場の位置に池がありました。小山は御座瀬山(ござのせやま)といい、月見の宴が行われました。御茶屋で歴代藩主は鷹狩・月見・花見・雪見を楽しみました。
次の上底井野交差点を右折します。
上底井野交差点の角の家の前に小田宅子(いえこ)生家の跡の石碑が立っています。
上底井野村小松屋の小田宅子と芦屋米伝(こめでん)の桑原久子は、2人とも両替・質屋の商家を、女主人として経営していました。二人とも伊藤常足(つねたり)から和歌の指導を受けていました。1841(天保12)年、歌仲間の2人と2人の女友達に従者3人の計7人で伊勢参りに出発しました。善光寺や日光へも足を伸ばしました。伊勢から先は通行手形を持たないため、裏を抜ける旅でした。宅子は10年後に「東路(あずまじ)日記」を書きました。彼女らの日記と種々の資料を駆使して、小説家田辺聖子は「姥ざかり花の旅笠-小田宅子の『東路日記』」を著しました。小田宅子は俳優高倉健の父方の先祖に当たります。
桑原久子については、「北九州の近隣」の「芦屋」、芦屋歴史の里・歴史民俗資料館の項をご覧ください。
上底井野交差点を右折した道の右手には、用水路が流れています。交差点の少し先の右手に月瀬(つきせ)神社があります。鳥居の前の道路の反対側に、神社の駐車場があります。
月瀬神社の社殿がある高さ20mの丘陵は猫城址です。猫が背を丸めたような形のため、また猫のように攻められた時は高く、攻める時は低くなるということで猫城と付けられたようです。室町時代に築かれた麻生氏の端城の一つでしたが、1578(天正6)年遠賀川の東は麻生領、西は宗像領と取り決めました。1580(天正8)年宗像大宮司氏貞の家臣が守るこの城を鷹取城(直方市)主の軍が攻めますが、城側は守り抜き、氏貞が派遣した援軍により攻め手は逆襲され、犠牲を出して逃げ帰りました。氏貞が亡くなり、宗像氏が滅亡すると、この城も廃城になりました。
県道98号中間・宮田線に戻り、西に進みますと、鞍手町に入ります。西川に架かる木月大橋を渡ります。道成りに先に進むと、鞍手高校鞍手分校が左手にあります。そこを通り過ぎますと、伊藤常足翁旧宅の案内がありますので左折します。県道55号宮田・遠賀線と交差しますので、そこを通り過ぎます。右手にある公民館の前を通り過ぎますと突き当たります。そこを右折して進むとすぐに切通しになります。
そこの道路左側が古門(ふるもん)窯跡です。ここには6世紀後半から7世紀前半の須恵器窯が6基ありました。周辺には多数の窯跡があり、古月(ふるつき)窯跡群と呼ばれます。
先程右折した所まで戻り、そのまま直進して南に行きます。すぐ右手に鳥居があります。鳥居の奥は古物(ふるもの)神社で、参道の右手に伊藤常足(つねたり)翁顕彰碑が立っています。参道の左手の砂利道を行くと、奥に古物神社の駐車場があります。
古物神社の参道を昇って行くと、右手に伊藤常足旧宅が復元されています。
1774(安永3)年に、伊藤常足は古物神社の神官の家に生まれました。この家は、1786(天明6)年に建築されたもので、増改築されていましたが、福岡県有形文化財に指定され、1990(平成2)年復元が完成しました。
伊藤常足旧宅に入ると、左手は座敷になっています。
伊藤常足は亀井南冥に儒学を学び、青柳種信に国学を学びました。1805(文化2)年、九州管内の地誌の「太宰管内志(だざいかんだいし)」の編纂を始め、1841(天保12)年に全82巻を完成しています。
伊藤常足旧宅の右手は広い土間になっています。伊藤家では自家の田作りを行っていました。常足は村の神主として月々や季節の祭事を行いました。和歌会や古事記・日本書紀の講釈を行いました。また、近隣の村に出かけて、学問の指導に当たりました。小田宅子や桑原久子は伊藤常足から和歌の指導を受けました。
伊藤常足は儒学・国学者であり、歌人であり、教育者でした。そして、神主でした。1858(安政5)年85歳で亡くなっています。
伊藤常足旧宅の前の参道を昇ると、古物神社の社殿があります。
古物神社の前の道を南に進みますと、県道293号新延(にのぶ)・中間線に合流します。すぐに県道55号宮田・遠賀線と交差しますので、そこを通り過ぎたすぐの交差点を左折します。県道55号宮田・遠賀線と平行して進みます。右側の崖の下に古月横穴(ふるつきよこあな)の駐車場があります。そこを右折し、途中から右手の山道を登りますと、すぐに下りになり、国指定史跡古月横穴に着きます。山手の南側斜面に、上にも下にも横穴が並んでいます。
古月横穴の横穴墓群は現在40基発見されています。丘陵の固い岩盤をくりぬいてつくられています。築造は6世紀後半から7世紀後半の古墳時代後期になります。
山手の南側斜面を左手に行くと、地蔵像が祀られています。そこを通って、北側の斜面にも横穴が奥の方に並んでいます。
飛鳥時代以前に大和王権の支配が強くなり、聖徳太子が推古天皇の摂政になり、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによる大化改新があり、壬申の乱が起こるなどの飛鳥時代になります。飛鳥時代前とその時代が横穴築造時期に当ります。
北側の斜面を奥まで行き、そのまま斜面を下りて行くと、小山を一周して入って来た所に戻ります。
県道293号線と県道55号線の交差点に戻り、左折して県道55号宮田・遠賀線を南下します。第二新延橋交差点を左折し、鞍手町役場の前を通り、鞍手郵便局前交差点を右折し、中山交番前交差点を右折しますと、県道468号新延・植木線に出ます。県道468号線の交差点を右折し、先に進みますと、上り坂になり、左手に剣岳(つるぎだけ)公園登山口の案内がありますので、左折します。八剣神社や剣岳の案内の方に進みます。カーブミラーのある所を八剣神社の方に右折します。狭い道を進むと、左に八剣神社と右に更に上る道がありますので、右に行きますと剣岳公園の駐車場に着きます。
山頂下にあずま屋があり、東方向の視界が開けています。左の道路は九州自動車道です。右の最高峰は標高901mの福智山です。山の手前に広がっているのは直方市の市街地です。
標高125.6mの剣岳山頂には八剣神社の上宮があります。ここは剣岳城跡で、土塁・空堀・建物跡が見られます。
室町時代の応仁年間(1467-86)に、剣岳城は土豪の梅野土佐によって築かれました。宗像氏の端城となり、その後、宗像氏や秋月氏の支配下で幾多の戦乱に見舞われ、豊臣秀吉が九州を平定した1587(大正15)年頃廃城になりました。
県道468号新延・植木線に戻り、左折します。突き当りの信号を左折し、次の新北(にぎた)の信号を右折します。川の先の鞍手幼稚園の手前を左折し、川沿いに進み、九州自動車道や新幹線のガードをくぐります。右手にある八幡神社の前を通り、次の十字路を左折しますと長谷(はせ)寺に着きます。
奥に行くとこの十一面観音菩薩を祀る観音堂があります。長谷観音と呼ばれる長谷寺は、大和の長谷寺の僧が西下して、平安時代前期の885(仁和元)年に開基されたと伝えられています。
長谷寺の本尊は国指定重要文化財で、一木造りの十一面観音菩薩立像です。平安時代の仏像です。現在は左のお堂の裏手の右の建物に安置されています。毎月17・18日に開扉されます。

県道468号新延・植木線に戻り、来た道を反対に東に進みます。鞍手駅横のJRの踏切を通り過ぎると、遠賀川西岸に出ます。中間市の遠賀橋の上流になります。


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