北九州の近隣

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みやこ町
  京都郡  [2010/10/09]
 

京都郡みやこ町は、2006(平成18)年3月20日、京都郡勝山町・豊津町・犀川(さいがわ)町の3町が合併して誕生しました。みやこの呼名や京都(みやこ)郡の起こりは、景行天皇が筑紫に到り、長峡県(ながおのあがた・現在の行橋市)に行宮を営んだとの伝えに由来します。
竜ヶ鼻近くの平尾台の南斜面から発した長峡川は旧勝山町を流れ、英彦山山地の鷹ノ巣山の西北斜面からの今川と鷹ノ巣山の北斜面からの祓川(はらいがわ)は旧勝山町・豊津町を流れます。3つの川は下流の行橋市を通り、周防灘に流れ込みます。
みやこ町は古くから開けた土地で、遺跡も多く残っています。古代には周防灘と大宰府をつなぐ官道が通っていました。豊津の台地には豊前国府がありました。
古代・中世には荘園があり、豪族達が活躍しますが、戦国時代には大内・大友氏の戦場にもなりました。江戸時代になると細川、続いて小笠原氏が所領する小倉藩となりました。
幕末、第二次長州征討戦で長州藩と戦った小倉藩は敗れ、小倉城を自焼して香春に藩庁を移します。更に1870(明治3)年豊津に藩庁を移します。1871(明治4)年7月廃藩置県が行われ、豊津藩は豊津県になりました。同年11月豊前の豊津・中津・千束県が統合されて小倉県になりました。小倉県の県庁は小倉室町に置かれました。1876(明治9)年4月小倉県は廃止されて福岡県に合併されました。
1889(明治22)年6村が合併して諌山村が、2村が合併して久保村が、5村が合併して黒田村が成立しました。1955(昭和30)年諌山・久保・黒田の3村が合併して勝山町が誕生しました。
1870(明治3)年小倉藩主小笠原氏の藩庁が香春から豊津に移されて城下町になり、豊津町になりました。1871(明治4)年豊津村と改称し、1877(明治10)年再度豊津町と改称されました。1889(明治22)年豊津町、国分・彦徳(けんどく)村の1町2村が合併して豊津村が成立しました。1955(昭和30)年豊津村と祓郷村の一部が合併して豊津町が誕生しました。
今川の中流域の集落は、今川がその境に流れ、塞ノ神が祀られていたことから、今川は犀川とも呼ばれたと伝えられています。1904(明治37)年東犀川・西犀川・南犀川村の3村が合併して犀川村が成立しました。1943(昭和18)年犀川町になり、1956(昭和31)年城井(きい)村・伊良原(いらはら)村を併合しました。
勝山町・豊津町・犀川町の3町が合併して誕生したみやこ町は、農業・林業を中心にした地域といえます。
小倉南区から国道322号線を南下し、金辺トンネルを通って香春町に入ります。国道322号線から東西に走る国道201号線に入り、東に進みます。前方に仲哀峠の下を貫く新仲哀トンネルが見えてきます。トンネルを境に手前が田川郡香春町、向うが京都郡みやこ町になります。
トンネルの直前100m程手前に左に入って行く道がありますので、そちらに入ります。2007(平成19)年3月まで、こちらが国道201号線の新仲哀トンネルでした。右手に現在の新仲哀トンネルが見えますが、仲哀峠の下のトンネルは3代目になります。
先代の新仲哀トンネルは1967(昭和42)年に開通しました。2代目新仲哀トンネルの西側です。
このトンネルの上方右手に、標高333.5mの仲哀峠はあります。北の標高427.3mの障子ヶ岳と南の573.0mの飯岳山(大坂山)の鞍部にあります。障子ヶ岳には障子ヶ岳城跡があります。障子ヶ岳城は平氏一族により築城され、のち千葉氏の居城となりました。豊臣秀吉の九州平定の際、秀吉の宿舎になりました。1589(天正17)年城は破却され、廃城となりました。
これから訪れる仲哀隧道を通る峠道は狭く、曲がりくねっていましたし、増加する交通量に対処するためこの2代目のトンネルが建設されました。全長1,220mです。
交通量は更に増えました。そのため、2代目新仲哀トンネルの南隣に3代目新仲哀トンネルが建設されました。道幅は広げられ、2代目になかった広い歩道が設けられています。全長1,365mです。3代目が開通すると、2代目は閉鎖されました。
2代目新仲哀トンネルの横から山手に上ります。曲がりくねった峠道の先に初代の仲哀隧道の西側に出ます。
仲哀隧道は仲哀峠の頂上の下に掘削され、1890(明治23)年開通しました。全長432mです。1929(昭和4)年拡張工事が行われました。この下に2代目新仲哀トンネルが開通した後は、利用されていません。仲哀隧道は国の有形文化財に指定されています。
仲哀峠を仲哀天皇が熊襲征伐のために越えたと伝えられています。仲哀天皇は神功皇后とともに西下しました。仲哀峠は七曲峠とも呼ばれます。この峠と今は廃道になっています北側にあった石鍋越は、古代、大宰府と豊前国府や周防灘沿岸を結ぶ、東西に伸びていた大宰府官道のひとつが通っていました。
仲哀隧道は通り抜けられませんので、国道201号線まで戻り、新仲哀トンネルを通ります。トンネルを抜けると、京都郡みやこ町です。トンネルの先、最初に左折できる道がありますので、そこを左折します。道はUターンするように国道沿いに戻り、右にカーブします。先に行くと、左右の分岐点がありますので、そこを左折します。すぐに菩提廃寺や仲哀公園の案内標識があり、通り抜けができないとの案内もある角を左折します。
先に進むと、かっての国道201号線に出ます。右側に2代目新仲哀トンネルの東側が見えます。右手の一段高い所のお宅の庭先に、菩提廃寺の塔の跡があります。
菩提廃寺の創建は8世紀の後半ということですので、奈良時代になります。これは塔の礎石跡で、中央の大きな石が塔の心礎です。
仲哀公園の案内標識があった角まで戻り、左折して仲哀峠の方に上って行きます。仲哀峠は七曲峠とも呼ばれ、沿道には桜が植えられ、現在は桜の名所の仲哀公園になっています。
峠道の途中から東方向を見ています。手前はみやこ町で、遠くは行橋市で、その先は周防灘です。
峠道を上って行きます。仲哀隧道の東側に着きました。入口は赤レンガが積まれ、縁石は花崗岩の切石になっています。トンネルの手前に車止めが設けられていて、通行止めになっています。
菩提廃寺に行った左右の分岐点まで戻ります。国道201号線からは右から来ましたが、左に曲がります。先に行くと、点滅信号の交差点に出ます。そこを直進します。先方に人家が見えます。
道路沿いに家並が続きます。江戸時代、新町は峠下の商業・宿場町として新たに集落が形成されました。交通の要衝であったので、物資の集散、中継が盛んに行われ、富裕な商人の屋敷が建ち並んでいた様子が感じられる町並です。
町並の先は、国道201号線と県道58号椎田・勝山線の新町交差点に出ますので、左折して国道201号線を東に進みます。
国道201号線の長峡川に架かった黒田橋交差点を左折して、川沿いの県道253号上矢山・中黒田線を上流に進みます。
左が長峡川で、先方に見える山が標高680.6mの竜ヶ鼻です。北九州市小倉南区、田川郡香春町、京都郡みやこ町の境界に位置します。南端が急斜面のため、その形から竜の鼻に例えられて、山名が付けられています。平尾台からのカルスト台地が南に高くなり、その南端が断層により陥没して、この山形が形成されています。
先方に見える点滅信号の交差点から左折して、長峡川を渡ります。
長峡川沿いの道を上流に行きます。左手の狛犬が道の両側にいる道に入って行きます。その先の丘陵地に扇八幡神社はあります。鎮守の森でこんもりした小山の下に鳥居が立っています。そこをくぐり、石段を昇って行くと扇八幡神社の社殿があります。社殿の左手に扇八幡古墳があります。
扇八幡古墳は全長58mの前方後円墳で、古墳時代後期の6世紀前半に築造されたものといわれています。手前が前方部で、低い所が周壕部です。この古墳を含む扇八幡神社の鎮守の森は、照葉樹林の自然林です。
点滅信号の交差点まで戻り、県道を横断して直進し、すぐの突き当たりを右に進みます。
勝山神社の前を通り、次の四つ角を左折します。角には綾塚古墳の案内があります。勝山中学校の横を通り、左手を注意深く見て行きますと、綾塚古墳入口の案内があります。左の小道を歩いて行くと、鳥居が立っている国指定史跡の綾塚古墳があります。
綾塚古墳は古墳時代後期の7世紀前半頃築造された直径約40m、高さ7mの円墳です。丘陵の先端部を利用して築造されています。地元では景行天皇の妃を祀り、女帝神社と呼ばれています。
花崗岩の巨石をでつくられた綾塚古墳の横穴式石室は全長19mあり、前室は長さ2.4m、幅2.2m、玄室は長さ3.5m、幅3.5mです。玄室には凝灰岩でつくられた家型石棺が安置されています。綾塚古墳は平安時代から開口していたと思われます。綾塚古墳は次の橘塚古墳とともに、北部九州を代表する巨大な横穴式石室を持つ古墳です。
綾塚古墳の前の道路の次の四つ角を右折し、突き当たりを右折します。右手先方に黒田小学校が見えますので、手前の黒田保育園前の空地に駐車します。そこから小学校のプールの裏手にある古墳が見えます。橘塚古墳は黒田小学校の敷地内にありますので、小学校の正面入口横の受付で許可をとります。受付に古墳のパンフレットがあります。
国指定史跡の橘塚古墳は、古墳時代後期の6世紀末頃築造された方墳です。円墳といわれていましたが、平成7・8年の発掘調査の結果、方墳ということが判明しました。平地に築造されていて、墳丘は南北37m、東西39mで、高さは現在4m程です。その周囲に方形の周壕が取り巻いています。
玄室と前室の複室構造の橘塚古墳の横穴石室は、花崗岩の巨石が使われています。石室の長さは16.3mで、玄室は長さ4.0m、幅3.2mです。前室は羨道と同じ幅です。綾塚古墳と同じように、平安時代から開口していたと思われます。
橘塚古墳は綾塚古墳より若干古く、被葬者は同族か親密な関係の首長とみられます。
黒田小学校の前の道路を西に進みます。四つ角がありますので左折し、国道201号線の交差点を直進しますと、みやこ町役場があります。
みやこ町役場は旧勝山町役場です。みやこ町役場の周囲に、みやこ町勝山体育館や図書館やホールのあるサングレートみやこという公共施設があります。
交差点に戻り、左折して国道201号線を西に向かい、新町交差点を左折して県道58号椎田・勝山線を東に向かいます。途中で行橋市に入ります。右手に馬ヶ岳や御所ヶ岳が見えます。この辺りについては、「北九州の近隣」の「行橋市」の終わり部分をご覧ください。
しばらく進むと、先方正面に標高93.3mの矢留山が見えてきます。今川の天生田橋を渡り、矢留山の南を通ります。
県道58号椎田・勝山線の矢留山の南を通り過ぎると、行橋市からみやこ町の旧豊津町に入ります。県道58号線の八景山(はっけいざん)交差点を通り過ぎて進みますと、二つ目の交差点に豊前国府跡公園の案内がありますので右折し、南に進みます。すぐ右手に駐車場がありますが、更に進むと奥に駐車場があります。奥の方が見学には都合がよいと思います。
豊前国府は豊津の台地の国作(こくさく)・惣社(そうじゃ)地区に広がっていた地方都市で、豊前国の政治・文化の中心地でした。国府の中心地の政庁には奈良・平安時代の8〜12世紀官衙(役所)が建設されていました。
奥の駐車場は政庁跡地の南にあります。当時は、政庁の南に大宰府官道が通っていました。更に 南に国分寺がありました。駐車場の奥、西側に政庁を区画する築地塀が復元されています。この場所に築地塀の雨落ち溝が発見されています。
政庁跡地は東西79m、南北105mの長方形です。南側から政庁跡地に入って行きます。手前が中門跡で、その奥に東脇殿跡、左に正殿跡が見えます。
豊前国府政庁跡には、南側に中門跡があり、反対の北側にこの正殿跡があり、右側の東側に東脇殿跡があり、反対の西側に西脇殿跡があります。
律令制の下での地方政治を行った都市が国府で、その行政機関群が置かれた区域が国衙(こくが)でした。その中枢で、国司を中心に行われる行政、これに伴う儀式や饗宴が行われた施設が政庁でした。
県道58号線の八景山交差点まで戻り、左折して国道496号線を南方向に進みます。すぐに八景山自然公園の案内がありますので、そこを右折します。しばらく坂を上りますと、右手に古墳が見えます。
甲(かぶと)塚方墳です。古墳時代後期の6世紀後半に築造された東西43m、南北35m、高さ9mの九州で最大級の方墳です。頂上付近を除いて全体に葺石(ふきいし)が敷き詰められています。この古墳の南に東西方向に大宰府官道が通っていました。
道路から古墳の手前、南側に入って行きますと、このように石室が開口しています。こちらが南側で、方墳の四方がそれぞれの方向に面しています。
甲塚方墳の石室内です。盗掘にあったため、副葬品は残されてなかったようです。前方後円墳から大型の円墳・方墳に変化していきますが、横穴式石室の構造は引き継がれていき、その規模は大きくなり、使われる石材は巨大になりました。甲塚方墳の周囲には周壕が巡らされていましたが、石室入り口の前にも周壕があり、その南側に大宰府官道が東西方向通っていました。
なお八景山付近には多くの円墳が残されています。
甲塚方墳の先は、県道58号線に架かった橋になっています。そこを過ぎ、右にカーブし、先を左にカーブして八景山を上って行きますと、展望台に着きます。道は狭く、駐車場はありません。そこに葉山嘉樹(はやまよしき)と次の鶴田友也(つるたともや)の文学碑が立っています。二人とも豊津の出身です。
葉山嘉樹(1894−1945)は旧制豊津中学を卒業し、早大に進みますが、学費未納で除籍になりました。各種労働争議を指導し、1923(大正12)年には投獄されています。獄中で執筆し、その後プロレタリア作家として活躍しました。
鶴田友也(1902−1988)は旧制豊津中学を卒業し、若い頃同じくプロレタリア作家として活躍しました。「コシャマイン記」で、1936(昭和11)年上半期の第3回芥川賞を受賞しています。
八景山展望台付近から北西方向を望んでいます。左は標高93.9mの矢留山で、すぐ右の遠くの山が900.6mの福智山です。更に右の山が680.6mの竜ヶ鼻です。葉山嘉樹の文学碑の左下に、「不思議な幻想的な形に横たはる竜ヶ鼻の山容」と葉山嘉樹の文章が刻まれています。
八景山を下り、国道496号線に戻り、右折するとすぐに右に入る道がありますので、国道から右折します。
国道496号線から入って行くと、左手に墓地があります。墓地の前に駐車して、その中央付近から墓地に入って行くと郡長正(こおりながまさ)の墓の案内があります。それに従って行くと、墓前に出ます。
郡長正は会津藩の家老萱野(かやの)家の次男として生まれました。1868(明治初)年の戊辰戦争の会津戦争で会津藩は敗れ、青森県の下北半島の小藩、斗南藩(となみはん)に国替されました。家老の長正の父は、責任を取って自刃しました。そのため、萱野家は断絶し、遺族は郡を名乗るようになりました。斗南藩は、ともに幕府軍として戦った小笠原藩の藩校育徳館に6名の若者を留学させました。その中でも、郡長正は文武にわたって特に優秀でした。
ある時、長正が故郷に宛てた手紙の中で、寮の食事について書き添えました。それが他の者の目に留まったといわれています。それが問題になり、遂には会津武士の精神についてまで言及されるまでなりました。長正はその名誉を守るためか、1871(明治4)年5月1日切腹しました。わずか16年の生涯でした。
国道496号線に戻り、右折して更に南に行きます。二つ目の交差点の左の向こう角には観光案内所があります。そこを左折します。先方左手に三重塔が見えます。その豊前国分寺の山門が見える通りを過ぎて、次の角を左に曲がります。奥に広い駐車場があります。そこから坂を昇ると、芝生の広場になります。ここは現在の豊前国分寺の裏手に当たる、豊前国分寺跡です。
741(天平13)年、聖武天皇によって国分寺創建の詔が出され、鎮護国家を目指して国々に国分寺・国分尼寺が建てられました。豊前国分寺もそのひとつです。その当時の講堂の基壇跡が発掘で確認され、復元されています。
講堂基壇跡は東西が約26.7m、南北が13m以上ありました。当時の金堂は、南側の木立の反対側にある現在の本堂の位置にあったと思われます。
講堂の基壇跡から現在の豊前国分寺に入って行きます。講堂基壇跡から現在の本堂が南北の線上にあり、西の位置に三重塔が建てられています。1895(明治28)年に完成しました。その後老朽化し、1987(昭和62)年修復工事を行いました。福岡県の文化財に指定されています。
本堂の南にこの鐘楼門があり、更に南に行った所に山門があります。
この地にあった堂塔は、天正年間(1573−92)大友氏の兵火によりすべて焼失しましたが、江戸時代に入って復興されました。
観光案内所がある交差点まで戻ります。左折して、国道496号線を南に100m程行った左手に堺利彦記念碑があります。
堺利彦(1871−1933)は大坂村(現在みやこ町の旧犀川町)に生まれ、旧制中津中学を出て、新聞記者として活躍しました。社会主義に共鳴し、日露戦争の開戦に際し、非戦論を主張するため幸徳秋水とともに平民社を結社し、平民新聞で社会主義運動を展開しました。弾圧され、投獄されますが、日本の社会主義運動の指導者として活躍しました。
堺利彦記念碑の1軒先左手に、周囲を土塁に囲まれた土地があります。市井方(しせいかた)役所跡です。藩庁・県庁が置かれた豊津の整備と町方の人を管理する役所跡です。1871(明治4)年廃藩置県され、小倉県になり県庁が小倉に移ると、その機能は停止されます。藩校育徳館の分校の大橋洋学校にオランダ人ファン=カステールは招聘されました。学制発布で藩校が私立育徳学校になると、1873(明治6)年彼は豊津に移って来て、ここの建物に住みました。そのため、ここはオランダ屋敷と呼ばれました。
大橋洋学校、ファン=カステールについては「北九州の近隣」の「行橋市」をご覧ください。
国道496号線を更に南に進みます。右に入ると、みやこ町豊津支所(旧豊津町役場)になる所を直進します。その先の右手にみやこ町豊津体育館があり、その前の左手にこの黒門があります。
幕末、第二次長州征討戦で長州藩と戦った小倉藩は敗れ、小倉城を自焼して香春に藩庁を移します。藩校思永館も焼失してしまいます。更に1869(明治2)年錦原に藩庁を移し、翌1870(明治3)年錦原を豊津と改称し、豊津に藩校育徳館を開設します。この門が育徳館の正門で、黒門と呼ばれています。
黒門の先を左に曲がると福岡県立育徳館中学校・高等学校の正門です。藩校育徳館は私立育徳学校になり、1879(明治12)年豊前地方唯一の県立豊津中学校となりました。戦後学制改革で県立豊津高校になり、2004(平成16)年からは中高一貫校になり、福岡県立育徳館中学に第1期生が入学しました。2007(平成19)年4月より豊津高校は福岡県立育徳館高校になりました。
正門を入ってすぐ左手にあるこの建物は、福岡県の文化財に指定されている講堂の思永館です。思永館は1902(明治35)年に建築されました。
思永館は小倉藩時代の藩校名です。小倉藩は石川麟州を京都より招きました。1758(宝暦8)年麟州は自宅に「思永斎」を開き、儒学を講じました。1788(天明8)年、藩主小笠原忠総(ただふさ)は小倉城三の丸に藩校「思永館」を創設しました。初代学頭に麟州の子の彦岳(げんがく)が就きました。その思永館は小倉城自焼の際、焼失しました。
旧制豊津中学校の出身者の中で、文学者や文化人の数人については、これまで文学碑や記念碑を見てきましたが、小宮豊隆についても触れなければいけません。
小宮豊隆(こみやとよたか 1884-1966)は久富村(後7村が合併して東犀川村になる)に生まれ、旧制豊津中学校を出て、旧制第一高等学校に入り、その後東京帝国大学文学部独文科に入学します。在学中に夏目漱石の弟子になり、漱石の「三四郎」のモデルであることは有名です。独文学者・文芸評論家・演劇評論家など幅広い文芸活動を行い、大学教授や学長を勤めました。また漱石全集や寺田寅彦全集の編纂者として大きな功績を残しました。
みやこ町豊津支所(旧豊津町役場)に入る所まで戻り、左折して豊津支所の前を通り、県道201号豊津・犀川線に出て、左折します。県道を西に、豊津の台地から坂を下って行きます。しばらく進むと平地に出て、農地が広がります。
県道201号豊津・犀川線から右手の北方向の眺めです。行橋市を通って豊津に向かっていた時、山の反対、北側を右手南方向に見ていました。右の二つの峰は馬ヶ岳です。中央左の高い所が御所ヶ岳です。ずっとと左側の見えない所に飯岳山(大坂山)があります。
旧豊津町から旧犀川町に入り、県道201号豊津・犀川線は途中道が狭いところもありますが、しばらく西に向かって直進しますと、平成筑豊鉄道田川線の犀川駅に着きます。
犀川駅がある建物はユータウン犀川といい、多目的ホールや会議室があり、町民が利用できるようになっています。右のシンボルタワーの中には、町内の蔵持山の樹齢400年の檜が寄贈されて立っています。旧犀川町は北東側を除いて周囲に山があり、峠を越えて行くような地形です。建物の中の木製のテーブルや腰掛は、山林の町を思わせます。
犀川駅前を南に県道239号木井馬場・犀川停車場線を進みます。みやこ町犀川支所(旧犀川町役場)の先、犀川教会との間を左折します。今川の支流高屋川を渡ると、長寿の里公園の入口になります。公園には3つの池があります。そこから西方向を見ています。右の高台の建物は総合コミュニティセンターで、左の建物はみやこ町犀川支所(旧犀川町役場)です。その右上の山は飯岳山(大坂山)です。
県道239号木井馬場・犀川停車場線に戻り、更に南に進みます。上本庄の信号を右折します。犀川公園の案内がありますので、左に入って行きますと、本庄池の畔に出ます。本庄池は、すぐ近くの今川の支流の喜多良(きたら)川から取水しています。池の周囲が整備されて犀川公園になっています。池に架かっているのは浮き桟橋です。
上本庄の信号まで戻り、県道239号木井馬場・犀川停車場線を南に進みます。高屋川を渡り、山手に向かい、峠を越えると祓川に出ます。祓川を渡り、川沿いの国道496号線を上流に上って行きます。すぐに赤い欄干の橋が先方に見えます。
背後の山は城山と呼ばれ、神楽城跡です。
鎌倉時代の1185(文治元)年、源頼朝に平家残党追討を命じられ、豊前地頭職に任じられた下野国宇都宮信房は西下しました。信房は、この地城井郷を本拠として神楽城を築き、城井氏を名乗りました。近隣を平定した信房は、領内に一族を配置しました。豊前宇都宮氏は城井氏を中心に豊前南部に勢力を伸ばしました。数代後、城井宇都宮氏は本拠をここから一つ東にある城井川が流れる城井谷の本庄(築上郡築上町)に移しました。城井谷の急峻な谷奥まで多くの城を築いて守りを堅固にしてきた宇都宮氏は、九州を平定した豊臣秀吉に国替を命じられました。これを拒否した宇都宮氏に対し、豊前国に入った黒田孝高は、1587(天正15)年長政に城井谷を攻めさせました。城井谷の諸城は落城し、城井宇都宮氏は滅びました。
祓川に架かる赤い欄干の橋を渡ると、神楽山の麓に木井神社があります。木井神社は宇都宮信房が下向した折に祀られてといわれています。社殿の下の石段の側にイチイガシの大木があります。樹齢450年といわれています。
この辺りは木井馬場で、江戸時代から1889(明治22)年まで木井馬場村でした。1889(明治22)年近隣4村が合併して城井村になりました。祓川流域の城井村と上流の伊良原村は、1956(昭和31)年犀川町に併合されました。
祓川沿いの国道496号線に戻り、上流に向かいます。左手に城井小学校があり、その先を右折して橋を渡り、その先を左折します。右手に即伝寺があります。その駐車場から徒歩で、田圃の先に見える地蔵堂を目指します。あぜ道を進みますと、地蔵堂の横に下枝董村(しもえだとうそん)の旧居跡があります。
下枝董村は小倉藩士で能書家でした。第二次長州征討戦後この地に住むようになり、道具不足で、かずらやわらの筆で揮毫しました。対岸の見我峰(けんがみね)の中腹にある大岩の鏡岩に下枝董村は眠っています。
国道496号線に戻り、祓川の上流に向かいます。国道496号線のバイパスに出ますので右折します。祓川に架かった橋の左手が公園になっています。川から水が引かれた水路があるほたる公園です。ほたる公園には駐車場やトイレがあります。
国道496号線をしばらく南に上って行きます。人家は見えません。両方から山が迫った所があり、下伊良原のそこに県営伊良原ダムの堰堤が築かれます。伊良原ダムは、祓川の洪水調整と水道水の供給確保を目的に、堤高81.3m、堤頂長295.0m重力式コンクリートダムが築かれ、2018年の完成が予定されています。
視界が開けて右手に鳥居があります。鳥居をくぐり橋を渡ると、下伊良原の高木神社があります。ここでは子供達による雅な舞の豊国楽(とよくにがく)が5月4・5日の神社の神幸祭に奉納されます。
国道496号線を先に行くと、左手に赤い釉薬瓦の明秀寺が見えます。その先に橋が架かってB代替地の案内がありますので、渡って山手に上って行きます。代替地の手前で祓川が流れる谷を振り返っています。
向こうの山の麓に赤い釉薬瓦の明秀寺が見えます。何年か先にはダム湖の底になります。この坂の先の代替地に新しい住宅が建てられ、国道496号線の付替工事が行われています。ダムの西側になります。
国道496号線に戻り、祓川沿いを南に上って行きます。左手の高台に伊良原小学校の校舎が見えます。道が左にカーブした先の左手に、学校への入口があります。校庭の先に木造の校舎が見えます。
伊良原小学校の前身は、明治の初めに創立されています。火災にあいますが、この校舎は1948(昭和23)年に建設されました。
伊良原ダムが完成しますと、ここは水面下になり、付替えられた国道496号線はこの付近の上をダムの東側から西側に通って下流に向かいます。
国道496号線を南に上って行きます。左手の高い所に新築の人家が見えます。伊良原ダムの東側の代替地になり、付替えられた国道496号線がその側を通ります。
祓川沿いの国道496号線の横に神木の大木が立っています。その先に上伊良原の高木神社があります。5月4・5日の神幸祭で、上伊良原神楽が奉納されます。
祓川を遡った先に英彦山があります。1729(享保14)年に法皇より英の字が与えられるまで彦山でした。古代より山そのものがご神体として信仰されていて、神仏習合の修験道の霊場として多くの崇敬を集めました。その対象は彦山権現で、寺号は彦山霊仙寺(ひこさんりょうぜんじ)と称しました。彦山霊仙寺は寺領を嵯峨(さが)天皇から与えられ、彦山神領が成立しました。彦山は彦山神領内の各村に、822(弘仁13)年鎮守神の大行事社を置きました。ここの高木神社の鳥居の額には大行事社と書かれています。1868(明治元)年神仏習合を禁止する神仏分離令が出されます。この後、各地の大行事社は高木神社に改められたようです
上伊良原の高木神社の前の祓川です。右側に堰が設けられて、中央部から流れ出るようになっています。
祓川を下って行ったみやこ町から行橋市に入ったすぐ、祓川の西岸近くの草場に豊日別宮(とよひわけぐう)があります。祭神の豊日別は、イザナギ・イザナミが産んだ大八島の一つの筑紫島の4つの顔の一つが豊日別で、豊の字は豊の国(豊前・豊後)を指します。
採銅所(田川郡香春町)で宇佐八幡宮の神鏡を鋳造し、採銅所から神鏡を宇佐八幡宮に奉納する途中、豊日別宮で祭事を行いました。その際、祓川で禊を行い身を清めたのでその名が付いたといわれています。
宇佐八幡宮の神鏡の鋳造については、「北九州の近隣」の「香春町・赤村」の採銅所の項をご覧ください。
国道496号線を南に行きますと、左手に伊良原中学校があります。校庭にダム天端(てんば)213.0mの表示があります。伊良原ダムの一番高い部分の標高を表しています。伊良原中学校の先に行くと、南端の国道496号線の付替工事が行われています。
国道496号線の先を進むと、谷あいの山里帆柱に入ります。右手にある大山祇神社の隣に、1998(平成10)年に伊良原小学校に統合された旧帆柱小学校の校舎が残されています。昭和初期の建物といわれています。
国道496号線を奥に行くと、楠木橋の手前の右手に国の重要文化財に指定されている永沼家住宅があります。茅葺(かやぶき)入母屋造りの直屋(すごや、長方形)民家で、江戸後期の1840(天保11)年に建てられました。現在は母屋だけが残されています。日曜日だけ公開されています。
永沼家住宅の内部に入ります。右の土間の「にわ」に入り、その奥に板張りで囲炉裏のある「だいどころ」があり、ここは炉がきられた「ひろま」で、左に「なかのま」、更にその左に「まえざしき」があり、その奥に「おくざしき」があります。
永沼家は大庄屋をするような旧家で、藩役人が使えるように造られ、一般には許されない書院や式台があります。
国道496号線を更に上って行きますと、蛇淵(じゃぶち)キャンプ場に着きます。左手に駐車場があり、その先に吊り橋が架かっています。その橋からも見えますが、橋のたもとを下りて行きますと、蛇淵の滝の滝壷近くに下りて行けます。
キャンプ場の先は山道が曲がりくねって続きます。上り切った所が野峠で、大分県中津市との境になり、東に行くと奥耶馬溪に行きます。西に行くと田川郡添田町の英彦山になります。


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