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角島・川棚温泉  下関市豊北町・豊浦町  [2014/08/30]

   
2005(平成17)年に下関市と合併した豊北町(ほうほくちょう)とその南の豊浦町(とようらちょう)を中心に、その南の戦前に下関市に編入された、北から吉見、安岡、川中の三地区も併せて紹介します。これらの地区は日本海の響灘沿岸で、国道191号線が通っています。角島と川棚温泉は、豊北町と豊浦町の代表的な観光地です。

国道191号線は山口県下関市から島根県益田市を経由して広島県広島市に到る国道です。かっての街道山陰道は、京都を出て日本海側の山陰地方を通り、益田を経由して内陸部に入り、小郡で瀬戸内海側の山陽道に合流して下関に到りました。益田から分岐して、日本海側を通り下関に到る街道を北浦街道、又は赤間関街道を呼びました。益田市から下関市までは現在の国道191号線に重なります。またJR山陰本線が並行して走っていて、長門二見から北の阿川までが離れて内陸部を通っています。日本海の長門市川尻岬から西、福岡県宗像市大島辺りまでの海域を響灘と呼びます。

下関市は、2005(平成17)年に豊浦郡の菊川町、豊田町、豊浦町、豊北町と合併し、豊浦郡は消滅しました。こうして新しくなった下関市は山口県で一番大きな市で、この年中核市になりました。交通の要衝であった下関には、鎌倉時代に関が置かれ、赤間関と称されていました。赤間関は赤馬関とも記され、赤を略されて馬関(ばかん)とも呼ばれました。1889(明治22)年の市制施行時の名称は、赤間関(あかまがせき)市でした。当時の市域は、関門海峡沿いで、東は壇ノ浦に流れ込む御裳(みもすそ)川から、西は小瀬戸に面した伊崎まででした。1902(明治35)年下関市と改称されました。律令制度の下、山口県の瀬戸内海から関門海峡にかけて、上関(熊毛郡)・中関(防府市)・下関(下関市)が、関門海峡の対岸には門司関(北九州市門司区)が置かれました。赤間関市が発足する以前から、下関の名は一般に使われ、国内外ともに知られていました。この後、周辺地の併合が進められ、下関市の市域は拡大されていきました。

かって豊浦郡は、現在の下関市を含み、美祢市の一部を含む広い地域でした。長門国は豊浦郡の他、厚狭・美祢・阿武・大津の5郡からなっていました。関門海峡を間にして下関市の対岸は福岡県北九州市門司区で、双方の名をとって関門というように、関門は陸海の交通の要衝として古代より発展してきました。古代、関門は一体になった山で、その下に船が往来できる洞があったと考え、関門海峡は穴戸と呼ばれました。下関側の国名も穴戸でしたが、穴という字を忌み嫌って、長門になったという説があります。1185(元暦2)年関門海峡の壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡します。

山口県はかって東の周防と西の長門からなっていて、鎌倉時代には周防には大内氏、長門には厚東氏という有力豪族がいました。南北朝時代に入ると、大内氏は厚東氏を討ち、周防・長門の防長2国を統一しました。室町時代になると、大内氏は中国地方を代表する守護大名となり、足利将軍を庇護して、大内氏は明との勘合貿易を独占しました。1551(天文20)年、大内氏は家臣陶晴賢(すえはるかた)に討たれます。1555(弘治元)年安芸の毛利元就は陶晴賢を破り、戦国大名として地位を築きます。安土桃山時代になり、織田信長の夢の天下統一を豊臣秀吉が果たし、徳川家康が引継ぎ江戸時代になります。豊臣政権下では中国8国を領有していた毛利氏は、関ヶ原の戦いでは西軍で、東軍が勝利したため徳川幕府の下では、防長2国の長州藩藩主になりました。

毛利秀元は輝元の養嗣子でしたが、嫡子秀就(ひでなり)が生まれると別家を興し、山口を本拠に20万石を領有していました。しかし、毛利輝元が関ヶ原の戦では豊臣方についたため、領地を減封され、長門・周防の2国のみになりました。秀元は長府に移り、豊浦郡で長州藩の支藩、長府藩が成立しました。当時豊浦郡は豊西郡(ぶんざいぐん)・豊東郡(ぶんとうぐん)・豊田郡(とよたぐん)の3郡に分立していましたが、1664(寛文4)年に統合されました。5万石の領内には、赤間関・長府の町方と豊浦の郡方がありました。長州藩領内の下関には本藩長州藩の直轄地があり、幕末には倉庫・金融業を行う役所の越荷方(こしにかた)を置き、多くの収入を得ていました。

1889(明治22)年に赤間関市が成立した時、豊浦郡は31村でした。1910(明治43)年豊西中村は安岡村と改称されました。1914(大正3)年に豊西下村が川中村、1914(大正3)年には豊西上村が吉見村と改称されました。1925(大正14)年安岡村は安岡町になりました。1937(昭和12)年安岡町と川中村が、1939(昭和14)年には吉見村が下関市に編入されました。戦後の1954(昭和29)年には豊田町が、1955(昭和30)年には菊川町、豊浦町、豊北町が周辺の村を合併して町制を施行し、この結果、豊浦郡は4町になりました。
豊浦町は、下関市の北に漁村と田園地帯が広がる地域で、一部ベッドタウンとして開発されました。町内に川棚温泉があります。豊北町は豊浦町の北に位置し、漁港が多く一次産業の町で、北長門海岸国定公園の一部を構成し、角島も町内に含まれます。他の豊田町、菊川町の豊浦郡4町と下関市は、2005(平成17)年合併しました。その結果、豊浦町は下関市豊浦町に、豊北町は下関市豊北町になりました。
下関市の中心市街地については、「北九州の近隣」の「下関」を、同じく長府については「長府」をご覧ください。
関門国道トンネルを下関側に出ると、左側の道に入ります。下関市街と山陰に分かれますので、右の山陰側に入って行くと、県道258号武久・椋野線に合流します。県道を進みますと、幡生で山陰本線と国道191号線の跨線橋になり、それを過ぎると長州出島の案内がありますので、そのまま進みます。左手に島が見え、交差点を左折しますと、島への橋がありますが、一般の人は立ち入り禁止です。
この島は1995(平成7)年着工された、響灘垢田(あかだ)沖の人工島です。公募の愛称で長州出島と名付けられました。東アジアとの物流拠点を目指しています。2009(平成21)年に一部の供用が開始されました。
交差点を右折して、長州出島への橋の反対側、東に進み国道191号線を右折します。綾羅木駅前交差点を過ぎた先に中山神社入口の交差点があります。そこを左折した先に中山神社の鳥居が見えます。鳥居の先に神門があり、その先に社殿があります。
中山神社は、幕末に尊皇攘夷で活動し、1864(元治元)年に暗殺された公家、中山忠光が祭神です。姉が明治天皇の生母なので、叔父に当たります。早くより勤王の志士達と交わり、密かに京都を脱し、長州藩に身を寄せていました。禁門の変、下関戦争、第一次長州征討戦により長州藩内は俗論派が台頭し、豊浦郡田耕(たすき)村(現在下関市豊北町大字田耕)で中山忠光は暗殺されました。
   
中山神社の左手の境内に愛新覚羅社があります。愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)、妻嵯峨浩(さがひろ)、長女慧生(えいせい)が浩の遺言で祭られています。溥傑の兄が愛新覚羅溥儀で、清朝最後の皇帝、いわゆるラストエンペラーでした。1931(昭和6)年満州事変以降、満洲は旧日本陸軍の関東軍により占領され、関東軍の主導で満州国が建国され、溥儀は皇帝に就きます。戦後、溥儀は中国の労働改造所に収容されますが、釈放後は共産党協商会議の委員会に勤務し、後には委員に選出され、1967年死去します。
嵯峨浩は中山忠光の曾孫で、嵯峨侯爵家の長女でした。溥傑と結婚し、娘2人が生まれました。終戦後やっとの思いで日本に引き揚げます。夫の溥傑は兄とともに労働改造所に収容されていました。学習院大学に在学していた慧生は同級生と天城山で心中します。溥傑が釈放されると、浩は中国に帰り共に暮らします。1987年浩が死去し、1994年溥傑が死去しました。
 
   
中山神社入口交差点に戻り左折し、国道191号線を北上します。綾羅木川を渡り、考古博物館の案内がありますので、小川沿いの道を右折し、山陰本線の踏切を渡りますと、左方向に考古博物館入口の道があります。
下関市立考古博物館の正面入口です。綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡の南側にあり、1995(平成7)年に開館しました。綾羅木郷遺跡は綾羅木川の北側の台地にあり、弥生時代の集落と古墳時代の埋葬跡です。特筆すべきは、弥生時代前期中頃から中期前半の約1000基の貯蔵穴が発見されました。明治時代に発見されましたが、硅砂採掘業者の重機で遺跡が破壊されたため、国の史跡に1969(昭和44)年に緊急指定されました。
下関市立考古博物館の公式サイトは以下の通りです。
 http://www.koukohaku.shimonoseki.yamaguchi.jp/
   
下関市立考古博物館の内部です。綾羅木郷遺跡の他に近隣遺跡の出土品や研究成果が展示されています。  
   
考古博物館の裏の屋外に、弥生と古墳時代の竪穴住居が建てられ、展示されています。こちらは弥生時代の竪穴住居です。
   
弥生時代の竪穴住居の内部です。中央に炉が掘られています。  
   
考古博物館の裏の左手に円墳があります。6世紀後半の岩谷(いわや)古墳です。下関市椋野町にありましたが、中国自動車道の建設のため、ここに移築されました。
   
岩谷古墳の内部です。  
   
考古博物館の裏の西側の丘は、古墳時代の埋葬跡です。その中の一番大きい古墳が前方後円墳の若宮1号墳です。5世紀中頃に築かれ、長さ39.7m、後円部の高さ4.3m、直径21.0mです。この北側にはこの古墳より古い墳丘墓があり、横や手前には6世紀中頃までに築かれた円墳が点在します。
これまでが川中地区で、その次の安岡地区を過ぎ、国道191号線は海岸沿いに出て、吉見地区に入ります。下関フィッシングパークの案内がありますので、左折して進みますと、漁港方面とフィッシングパーク方面に分かれます。左に進みますと、海が見えてきます。その先に下関フィッシングパークがあります。
   
分かれ道まで戻り、左折して吉見漁港方向に進みます。吉見漁港の右側に停泊している船は、蓋井島(ふたおいじま)航路下関市営渡船です。1日に3便ほど発着します。
国道191号線に戻り北上しますと、毘沙ノ鼻の案内がありますので、左折して県道245号永田郷・室津・川棚線を進みます。途中県道は右折して行きますが、そのまま直進します。道なりに進みますと山手に入って行き、市の環境センター処理場の前に着きます。そこを右に坂を上って行きますと、毘沙ノ鼻の駐車場に着きます。駐車場から西に200m歩きますと、本州最西端の毘沙ノ鼻に着きます。
真正面の西側に蓋井島が見えます。
毘沙ノ鼻からは180°の海が望めます。その北側です。手前の陸地の最先端は観音崎です。その先のぼんやり見えるのは豊北町の神田崎と最先端は角島です。  
   
毘沙ノ鼻から南側の海です。ぼんやり見える右側の島は北九州市若松区の白島(しらしま)です。中央より左寄りに見える島は小倉北区の藍島(あいのしま)です。左側の島は下関市の六連島(むつれじま)です。
県道245号から国道191号線まで戻り、国道を北上します。豊浦町に入り、黒井を過ぎて進みますと、左手に豊浦コミュニティ情報プラザがあり、その一部が川棚温泉駅の駅舎になっています。現在は無人駅です。その前が川棚交差点です。そこを東に県道40号豊浦・清末線を進みます。駅から約1.8km行くと川棚温泉の入口になります。この間の県道は青龍街道と呼ばれています。川棚温泉には青龍伝説が伝えられています。豊浦の森の泉に棲んでいた1匹の青龍を祭ったことにより温泉が湧き出したと伝えられています。
   
川棚温泉の入口を入るとすぐ右手に「元祖瓦そばたかせ」の本店があります。その斜め前に別館、右手の高台に新館があり、駐車場が完備されています。
川棚温泉はこの入口から東の高台にかけて温泉旅館が点在しています。
 
   
「元祖瓦そばたかせ」の新館で食べた瓦そばです。2人前で、熱い瓦の上に茶そば、細切りの牛肉、錦糸卵、小ネギ、海苔、スライスされたレモンにもみじおろしが乗っています。
西南戦争の際、熊本城を囲んだ薩摩軍の兵士が瓦を使って野草や肉を焼いて食べたという話から、高瀬慎一が考案したといわれています。
川棚温泉入口は交差点になっています。県道40号は右折して南に向かいます。左折して行くと次の交差点の右手に川棚グランドホテルがあり、その中の「お多福」も瓦そばを提供しています。
   
川棚グランドホテルの前の交差点を直進し、その先左折する道がありますので左折し、道なりに進みます。川を渡り、右折して県道262号豊浦・豊田線を進みます。川棚のクスの森の案内がありますので右折すると、山手に駐車場があります。その一段高い所にクスノキの巨木があり、樹齢は1千年以上といわれています。川棚のクスの森は1922(大正11)年天然記念物に指定されています。1本のクスノキが森と見間違う程に生育しています。幹周り11.2m、樹高27mです。幹から18本の枝が伸びていて、東西に58m、南北53m枝が張っています。
県道262号に戻り北上します。先で県道260号宇賀・山陽線に出ますので、左に進みます。左手に風力発電の風車が連なって山上に立っています。坂を下りて行くと、豊浦町宇賀で国道191号線に出ます。右折して北上しますと国道は海岸沿いになります。方向が北西方向で左手の海岸がよく見えてきます。先方に二つの岩に注連縄(しめなわ)が架けられた長門二見の夫婦岩が車中からも見えます。道路の右手に駐車スペースがあります。この付近からは豊北町です。
江戸時代末の嘉永年間(1848-54)から、豊漁と海での安全を祈願して注連縄張りが行われ始めました。現在は1月2日夜明けより縄打ちを始め、褌姿の若者が潮で禊ぎをして夫婦岩によじ登り、注連縄を張り替えます。
長門二見から山陰本線は内陸部に入って行きます。国道は海岸沿いを進みます。一旦内陸に入り、海岸近くになってきた時に、土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアムの案内がありますので、国道を左折して進みます。
人類学ミュージアムは土井ヶ浜遺跡に隣接して、人類学の専門博物館として1993(平成5)年に開館しました。土井ヶ浜遺跡は弥生時代前期から中期にかけての墓地遺跡です。発見は戦前に遡りますが、本格的な調査は九州大の金関丈夫教授を中心に1953(昭和28)年から始められ、1962(昭和37)年に国の史跡に指定されました。2000(平成12)年まで19次の調査で、約300体の弥生時代の人骨が出土しました。
土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアムの公式サイトは以下の通りです。
 http://www.doigahama.jp/
 
   
館内では出土した人骨が展示されています。海岸に近い砂丘に埋葬されているため、砂の中の貝殻の石灰分が骨のカルシウムの保存に適しているため、人骨は良好な状態でした。出土した中で次のような代表的なものがあります。壮年の女性の人骨で、胸の部分で鳥の骨が発見されました。鵜を抱いて埋葬されたと考えられ、この女性は霊的な能力のあるシャーマンだったと思われ「鵜を抱く女」と呼ばれます。「英雄」は体格のいい成人男子で、胸から腰にかけて15本の石鏃が打ち込まれていて、戦士であったと思われます。右腕に南方のゴホウラ貝でつくった腕輪をしていました。
   
土井ヶ浜遺跡は海岸から300m離れた砂丘にあり、これに直交する砂丘を利用して墓地はあります。
人類学ミュージアムの斜め前に土中への入口があります。ここは人骨の密度が最も高い所に、ドームを設けて発掘時の姿が復元されています。
 
   
ドームの内部です。展示されているのはレプリカです。砂地を掘って遺体を安置し、砂を覆うといった簡単な埋葬が大半です。顔は西に向けて埋葬されていました。
国道191号線に戻り北上します。道の駅の案内があり、国道の左手に「道の駅北浦街道 豊北」があります。2012(平成24)年にオープンしました。
   
道の駅の入口近くの左手に高台があり、和久古墳があります。標高16.5mの海を望む尾根の先端に位置します。なお、道の駅の敷地はここより10m高い丘陵地であったといいます。  
   
高台上の和久遺跡は復元整備されています。原形の遺跡は墳丘の土が流れ出て、石室が露出していました。直径10m、高さ2.5mの円墳であったといわれています。
   
和久遺跡からの眺めです。眼下に和久漁港があり、遠くに角島と本土をつなぐ角島大橋が見えます。  
   
国道191号線を先に進みます。豊北町特牛交差点を右折し、美祢方向に国道435号線を約2.5km行った先に特牛(こっとい)駅はあります。信号もない交差点を左折して、少し坂道を上った所に駅はあります。難解駅名で知られ、これによって特牛の名は知られるようになりました。特牛に由来は牝牛、入江の名、強健な牛からと諸説あります。懐かしい雰囲気のある無人駅舎です。
   
これは駅舎の隣にあります。2005(平成17)年に公開された映画「四日間の奇蹟」で、この駅名でこの駅は撮影されました。  
   
豊北町特牛交差点に戻り、国道191号線を進みます。すぐ次の交差点の左手が特牛港です。2000(平成12)年角島大橋が完成するまで、特牛港から角島の元山港・尾山港に渡船が発着していました。1923(大正12)年から77年の歴史でした。
   
国道191号線の坂を上り、坂を下りて行った所を左に入って行くと、肥中(ひじゅう)漁港があります。南から和久、特牛、肥中と入江ごとに港があります。中世の大内氏の時代、山口と肥中をつなぐ街道がありました。現在の国道435号線と重なります。肥中は大内氏が行っていた明や朝鮮との交易の要港でした。江戸時代になると、南隣の特牛港に地位を取って代わられました。  
   
肥中漁港の北側の集落の中の細い道を入って行くと、途中の右手に石段があり、その上の高台に恩徳寺があります。1551(天文20)年、大内義隆の奥方が建立した寺と伝えられています。
   
石段を昇った先の本堂の左手前に、恩徳寺の結びイブキがあります。イブキはヒノキ科の常緑針葉高木です。高さ4.5m、幹周り3.4mですが、2m程の高さで、分岐した幹と多くの枝が不思議な形で結び合ったり、癒合したり、塊になったりしています。1955(昭和30)年国の天然記念物に指定されています。  
   
国道191号線に戻り北上します。国道から左への県道275号島戸港線に入って行きます。左手に角島大橋が見えてきました。橋の先に海士ヶ瀬公園があり、駐車場もあります。海士ヶ瀬公園からの角島大橋の眺めです。
角島大橋は、角島と下関市豊北町神田の間の海士ヶ瀬戸に架かる全長1780mの橋で、1993(平成5)年9月に着工し、2000(平成12)年11月に開通しました。
角島大橋を渡った、左手の瀬崎陽の公園からの角島大橋の眺めです。途中の島は鳩島です。北長門海岸国定公園内にあるため、橋脚の高さは低く抑えられ、景観に配慮されています。萩市、阿武郡阿武町、長門市、下関市豊北町の海岸線が中心に国定公園に指定されています。
県道276号角島・神田線は角島大橋を渡り、角島を横断します。瀬崎陽の公園から県道に出てすぐ右折するか、対向車線の通行が多い場合は、元山港の案内がある所から左折し、次を右折すると港に行くので、左折します。県道の上を高架で通り、公園からすぐ右折した道と合流して、角島の北東部に進みます。途中から車1台程の狭い坂道を上りますと、牧崎風の公園の駐車場に着きます。そこから北西の牧崎の先端まで歩いて行きます。そこから東側の眺めです。駐車場の北の方向になります。
牧崎の先端から南東の眺めです。
県道276号に戻り角島を西に進みます。角島中央の一番狭い所の県道の南側に、食堂や直売所があるしおかぜの里角島があります。そこを過ぎて、右手の下に駐車場が見えます。その北側が角島海水浴場で、その東側につのしま自然館があります。
つのしま自然館は、北長門海岸国定公園や角島の自然を紹介します。
つのしま自然館の公式サイトは以下の通りです。
 http://www.tsunoshimashizenkan.com/
   
つのしま自然館の先はキャンプ場になっています。キャンプ場の一番奥にこの建物があります。
映画「四日間の奇蹟」は主に角島で撮影されました。その時建てられた教会です。監督は下関市出身の佐々部清、吉岡秀隆、石田ゆり子が出演し、尾高杏奈がこの映画のオーディションで選ばれ出演しています。
撮影後はキャンプ場のトイレの建物になっています。
 
   
県道276号を西に進みます。信号のない十字路になりますので右折します。坂を下りて行くと、左手に角島灯台が見えます。
角島灯台は花崗岩の石造りで、角島北西端の夢崎に建てられ、1876(明治9)年に点灯されました。高さは29.62mで、イギリス人のリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計です。ブラントンは1868(慶応4)年から1876(明治9)年の8年間日本に滞在中、26の灯台を設計しました。近くでは北九州市門司区の部埼(へさき)灯台、下関市の六連島灯台があり、この角島灯台は彼の日本での最後の仕事になりました。
   
角島灯台の先の夢崎にはハマユウが自生しています。日本では黒潮によって南方から運ばれ、沿岸部の砂丘に自生します。花は夏に咲きます。


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