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明治日本の産業革命遺産  九州・山口  [2015/12/26]
2015(平成27)年7月、「明治日本の産業革命遺産」はユネスコの世界遺産リストに登録されました。西洋からの技術移転と日本の伝統文化を融合させ、1850年代の幕末から1910年の明治時代まで急速に発展した製鉄・製鋼、造船、石炭産業の重工業に関する文化遺産です。福岡(北九州・中間・大牟田市)・佐賀(佐賀市)・長崎(長崎市)・熊本(荒尾・宇城市)・鹿児島(鹿児島市)・山口(萩市)・静岡(伊豆の国市)・岩手県(釜石市)の8県11市に点在し、現在も稼動している施設も含まれます。

これらは、1萩、2鹿児島、3韮山、4釜石、5佐賀、6長崎、7三池、8八幡の8エリアの23資産で構成されています。このうち、九州・山口の6エリアは訪ねましたが、3韮山、4釜石の2エリアは未訪です。
21世紀に入って、九州では近代化産業遺産への関心が高くなり、2005年5月には鹿児島でシンポジウムが開かれました。2006年6月九州地方知事会で、九州近代化産業遺産の保存・活用が連携する政策テーマに決まりました。同年11月文化庁に世界遺産暫定一覧表記載に向けた提案書が提出されました。この後も構成資産の見直しが行われ、構成資産の選定には国内外の専門家が産業遺産を一つずつ調査していきました。

当初は「九州・山口の近代化産業遺産群」という名称でしたが、2014年1月「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の名称で、稼動施設もあるため文化庁でなく、内閣官房が世界文化遺産への推薦を決定しました。この推薦を受け、ユネスコ諮問機関イコモスが現地調査をし、2015年5月登録を勧告しました。

韓国政府は以前より、これら産業遺産を世界文化遺産に登録することは反対でした。第二次世界大戦中、構成資産のうちの7つの施設で多くの朝鮮人が徴用され、多くの犠牲者を出したことが主な理由でした。中国政府もまた、中国人が働かされた施設があると登録に反対しました。日本政府は対象年代が徴用された年代と違うと反論しました。日韓両国は登録勧告以降協議を続けました。韓国側は強制徴用の説明を展示に加えればとの妥協案を示し、日本側は歴史的な事実内容の範囲内で明示するとの一定の配慮をみせましたが、2015年7月開会した第39回世界遺産委員会まで調整がつきませんでした。7月5日の土壇場で合意に至り、遺産は登録されました。しかし、その合意は、お互いが主張する玉虫色の決着になりました。

政府が発表した登録の名称は、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」となっています。5月の登録の勧告の際、産業全体でなく重工業に限定されていることを明記するように、サブタイトルの変更をイコモスに提案されていました。日本はこれに同意しました。

登録推進協議会「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の公式サイトは以下の通りです。
   http://www.kyuyama.jp/index.html
エリア毎に観ていきます。

エリア1 萩(山口県萩市)
 資産1 萩反射炉
   2 恵比須ヶ鼻造船所跡
   3 大板山たたら製鉄遺跡
   4 萩城下町
   5 松下村塾
萩の資産は、産業技術導入の産業化初期の時代の遺産群です。幕末に、長州藩は西洋技術を採り入れ、産業化を目指しました。
 
萩へは車を利用しました。北九州からは2時間弱の所要時間でした。松本川に架かる萩橋を渡って、国道191号線の萩シーマート道の駅前交差点を過ぎた先に、コンビニエンスストアがあります。その右手の高台に萩反射炉はあります。現存する2基の反射炉のうちの1つです。もう1つは韮山反射炉です。反射炉は鉄砲や大砲の鋳造のための金属の溶解炉です。反射炉の内部はドームのようになっていて、燃料による炎と熱を天井で反射して集中させることにより、鉄を溶かすことができる高温にあげることができます。
萩反射炉は、長州藩から反射炉の操業に成功した佐賀藩に遣わされた、大工の棟梁が持ち帰った見取図をもとに建造されました。10.5mの安山岩積の煙突部分の遺構が残されています。1856(安政3)年に操業が試みられたとの藩の記録があるのみで、佐賀藩がもとにしたオランダの原書のものより小さいので、実用的なものでなく実験炉だったようです。1924(大正13)年国の史跡に指定されています。
   
萩反射炉の前の国道191号線を少し先に行き、次の信号を左折すると港に出ます。港沿いに北に行くと岸壁の先に石造堤防が見えます。ここが恵比須ヶ鼻造船所跡です。
1853(嘉永6)年のペルー来航を契機に、幕府は海防を強化するために大船建造を解禁します。長州藩は大船建造を要請され、桂小五郎(のち木戸孝允)は、伊豆戸田(へだ)でロシアのスクーナーを建造した大工高崎伝蔵を萩に招聘します。この地で西洋式木造帆船が建造されました。1857(安政4)年に完成し、丙辰丸と命名されます。2本マストの帆船でした。船釘や錨の原料鉄は大板山たたら製鉄が供給しました。
 
   
石造堤防の内側の恵比須ヶ鼻造船所跡は現在も発掘中です。
1859(安政6)年海軍練習専用船として、長州藩は再度帆船の建造を決めます。長崎の海軍伝習所でオランダのコットル船(カッター、小型船舶)の建造を学んだ藤井勝之進が設計しました。1860(万延元)年完成し、庚申丸と命名されます。3本マストのバーク型帆船でした。長さは丙辰丸の2倍近くありました。しかし、蒸気船が主流になる中で、長州藩は外国製蒸気船を購入することに方針を変えました。そのため、その後この造船所は閉鎖されたと思われます。2013(平成25)年、国の史跡に指定されました。
   
大板山たたら製鉄遺跡は萩中心地より北東へ約23km離れています。松陰神社の横を通る県道11号、更に県道10号を北東に進み、山の口ダムへの道に入り、山の口川の最上流に大板山たたら製鉄遺跡はあります。手前は元小屋と呼ばれる建物の跡です。屋根が見える所は砂鉄洗い場で、砂鉄から不純物を取り除いた所です。一番奥が高殿と呼ばれた鉄がつくられた中心施設に、製鉄炉と天秤ふいごがありました。
江戸時代中期から後期にかけての石見系たたら製鉄遺跡で、2012(平成24)年国の史跡に指定されています。
 
   
江戸初期までは、たたら製鉄は野外で臨時的に鉄をつくっていました。石見系たたらでは恒久的な製鉄炉をもつ高殿という建物を中心に、長期的・継続的に鉄をつくりました。ここでは、約50年間隔で3回操業されました。3回目の幕末の操業で、恵比須ヶ鼻造船所での丙辰丸の建造に、船釘や錨の原料鉄を供給しました。
原料の砂鉄は、石見から北前船で奈古(なご)港に陸揚げされ、荷駄でここに運ばれました。左側は砂鉄培焼炉で、木部の下の部分が左右に見えますが、そこが天秤ふいごの跡、その間の細長い部分が製鉄炉跡です。
   
関ヶ原の戦いで敗れて周防・長門2国に減封された毛利輝元は、1604(慶長9)年指月山の麓に萩城(指月城)築きます。萩城下町は阿武川によって形成された三角州にあり、阿武川下流の松本川と橋本川に囲まれています。萩城はその北西端にあります。
幕末から明治維新にかけて、近代国家形成を主導したのは西南雄藩でした。その1つが長州藩で、その中心拠点が萩城下町でした。城を中心に城下町は形成されていきました。城に近い所に重臣達の屋敷、離れて商業活動、経済活動を行う町人達の町が形成されていきました。萩城下町は城跡、旧上級武家地、旧町人地の3地域から構成されています。萩城跡、萩城城下町は国の史跡に指定されています。重臣達の屋敷がある堀内地区は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
この通りは、旧町人地の菊屋横丁です。
 
   
松本川の東、東萩駅から少し南に行った所に松陰神社があります。その境内に松下村塾はあります。松下村塾は長州藩兵学者吉田松陰(1830-59)が主宰した私塾です。
吉田松陰は、アヘン戦争を知って山鹿流兵学に時代遅れを感じ、西洋兵学を学びに九州に遊学したり、全国各地を巡ります。
1854(嘉永7)年ペリーが再航した際に、黒船に乗って米国に渡航しょうとしますが失敗し、自首して伝馬町に投獄されます。その後国元に移送され、野山獄に入獄されます。1855(安政2)年出獄を許され、実家の杉家に幽囚されます。その「吉田松陰幽囚ノ旧宅」が同じく松陰神社境内にあり、国の史跡に指定されています。野山獄の時は囚人達に、幽囚中は門人達に松陰は講義を行っていました。
   
1857(安政4)年、実家の敷地内に建てた八畳一間で、叔父の松下村塾を引き継ぎました。松下村塾は武士や町人など身分にかかわりなく塾生を受け入れました。この八畳の部屋が講義室で、のち手狭になったので、入口にある十畳半の控室が増築されました。1858(安政5)年、日米修好通商条約を締結したことに吉田松陰は激怒し、老中首座間部詮勝の暗殺を計画し、野山獄に投獄されました。翌1859(安政6)年安政の大獄で伝馬町に移送され、斬首されました。
2年10か月の間に、約90の門人が吉田松陰の指導を受けたといわれています。倒幕に大きな役割を果たした高杉晋作や久坂玄瑞等、明治になり日本の近代化や工業化に尽力した伊藤博文、山形有朋、品川弥二郎、山田顕義等を輩出しました。
 
   
エリア2 鹿児島(鹿児島県鹿児島市)
 資産1 旧集成館
     旧集成館反射炉跡
     旧集成館機械工場
     旧鹿児島紡績所技師館
   2 寺山炭窯跡
   3 関吉の疎水溝
鹿児島の資産は、旧集成館に関連する遺産群です。アヘン戦争(1840~42)の後、欧米列強の脅威を感じた薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)は、産業と軍備の近代化を感じ、富国強兵と殖産興業を唱え、集成館事業を推進しました。
   
JR九州を利用して鹿児島に行きます。仙巌園(せんがんえん)へは鹿児島中央駅東口バス乗り場からカゴシマシティビュー・まち巡りバスに乗りました。このバスは鹿児島市内の観光地を周遊します。
仙巌園は1658(万治元)年薩摩藩主島津光久によって築造された島津家の別邸です。明治になると、本邸としても使われました。桜島や錦江湾を取り込んだ雄大な庭園を有し、奇岩や楼閣には中国や琉球の影響も見られます。磯庭園と呼ばれるように磯地区にあります。この磯地区に1851(嘉永4)年、島津斉彬は大砲を鋳造する反射炉やガラス工場等の工場群「集成館」を築造します。
   
名勝庭園仙巌園の入口を入ったすぐの右手、一段高い所に反射炉跡はあります。性能の劣る青銅製の大砲より、鉄製大砲を鋳造しょうと反射炉を築造しました。オランダ人ヒュゲニンの著書の図面を参考に、在来の石工技術で切石を組み。薩摩焼の技術で耐火煉瓦を焼き、自力で築造しました。1号炉では失敗しますが、1857(安政4)年完成の2号炉で大砲は鋳造できました。
島津斉彬はこの製鉄の他、造船に力を入れ、1854(安政元)日本初の洋式帆船いろは丸をつくり、1855(安政2)年には蒸気機関船雲行(うんこう)丸を建造しました。
1858(安政5)年島津斉彬は急死します。財政問題で集成館事業は一時縮小されます。1862(文久2)年生麦事件が起き、翌年その事件が原因の薩英戦争で集成館は焼失しました。
 
   
1863(文久3)年薩英戦争で英国海軍の強さを目の当たりにし、集成館事業の重要さを感じた斉彬の後継忠義と後見役久光は事業の再興を目指します。幕府の長崎製鉄所を参考に、オランダから工作機械を輸入しています。その際の1863年製造のオランダ製形削機が現存していて、国の重要文化財に指定されています。機械工場は1865(慶応元)年に竣工しています。
仙巌園に隣接している尚古集成館本館の石造建物は旧集成館機械工場です。加工機械が設置され、蒸気機関の動力で駆動していました。金属加工、艦船・蒸気機関の修理や部品の加工が行われました。
この建物は、1923(大正12)年からは島津家の歴史と集成館事業を紹介する博物館、尚古集成館本館になっています。敷地は1959(昭和34)年国の史跡に指定されています。建物は1962(昭和37)年国の重要文化財に指定されています。
   
仙巌園・尚古集成館の前の国道10号線を鹿児島中心地方向に少し戻ると、国道の反対側にある洋風建物の通称異人館が旧鹿児島紡績所技師館です。1867(慶応3)年、島津忠義は鹿児島紡績所を建設しました。機械工場と技師館の間に位置しました。紡績所では、1台の蒸気機関が綿花から綿や糸をつくる機械が27台、織機を100台駆動させました。近代的機械紡績の先駆けであった鹿児島紡績所で使う機械を英国から買い付けると同時に、工場設計と技術指導に7人のイギリス人技術者を招きました。1867(慶応3)年、彼らのために建てた宿舎が旧鹿児島紡績所技師館です。木造瓦葺きで、建設当初は四面建具のない、ベランダを巡らせたコロニアル様式の西洋建築でした。  
   
鹿児島中央駅東口バス乗り場から南国交通中別府団地線に乗って約40分、少年自然の家入口バス停下車し、緩やかな登り道になります。少年自然の家の前を通り過ぎて徒歩30分、林の中に入って行くと寺山炭窯跡があります。
集成館事業を進める上で大量な燃料が必要でしたが、薩摩藩内で石炭が産出しないため木炭に着目しました。1858(安政5)年、島津斉彬は磯地区の北東の照葉樹林が広がる吉野台地に寺山炭窯を建設しました。壁には凝灰岩切石が積まれ、現在は失われていますが、屋根は粘土でドームが形成されていました。旧集成館の附属として国の史跡に指定されています。
   
鹿児島中央駅東口バス乗り場から南国交通緑ヶ丘団地線に乗って約30分、関吉の疎水溝入口バス停で下車して徒歩約5分の所に関吉の疎水溝はあります。稲荷川の上流です。先方上流に堰跡や取水口跡があります。
元来、仙巌園には関吉から水を供給する吉野疎水が築かれていました。蒸気機関が本格的に導入されるまでは、動力は水車に頼っていました。
 
   
1852(嘉永5)年、島津斉彬はこの疎水を再整備し、集成館事業に利用しました。稲荷川の上流の関吉で、凝灰岩で狭まった川幅を利用して堰き止め、取水口から水路に取り込み、台地上を流れ、台地の端から集成館に一気に流れ込み、一部は水車を動かしました。その動力は大砲の穴開けや、高炉への送風などに使われました。
川幅が狭いここで堰き止めました。左端が取水口跡で、その右側が堰の跡です。
   
次の2エリアは未訪です。他のエリアとの関連がありますので、概略を説明します。
エリア3 韮山(静岡県伊豆の国市)
 資産1 韮山反射炉
韮山の資産は、韮山反射炉です。アヘン戦争を機に、薩摩や佐賀などの英明な藩主のいる藩では西欧の先進的技術の導入が行われましたが、幕府に於いても江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)をはじめとする官僚達により軍事技術や制度の導入が図られました。韮山代官江川英龍は鉄製大砲鋳造のために、1854(安政元)年反射炉の建設に着工しますが、完成を待たずに英龍は死去し、息子の英敏の手により1857(安政4)年連双式2基(4炉)の反射炉が完成します。

実際に幕末に稼働した反射炉として、唯一現存しています。建設に当たっては、西洋の書物をもとに、日本の伝統技術も使われました。また、築造が順調にいかない中で、当時の技術先進藩の佐賀藩との技術交流もありました。稼動当時、隣接する川の水を動力にした大砲の砲身のくり抜く錐台(すいだい)小屋や細工小屋など、大砲生産の建物が周囲にありました。維新後は陸軍省に移管されました。
  エリア4 釜石(岩手県釜石市)
 資産1 橋野鉄鉱山
釜石の資産は橋野鉄鉱山です。橋野鉄鉱山は、鉄鉱石の採掘場跡、運搬路跡、高炉場跡から構成されています。盛岡藩士の大島高任(たかとう)は、前年釜石市大橋に建設した日本で初めての洋式高炉で、1858(安政5)年連続出銑に成功します。それまでの砂鉄を原料としたたたら製鉄での大砲製造では、西欧の大砲の性能に太刀打ちできませんでした。大島の成功により、盛岡藩は製鉄を直営事業とします。大島の指導により、1858(安政5)年から1860(万延元)年にかけて、釜石市橋野に3基の高炉が建設されました。

明治初期には釜石には13基の高炉が建設されましたが、橋野が国内最大の鉄鉱山でした。大島高任は明治政府においても技術者として高い評価を受けました。橋野の高炉は1894(明治27)年まで操業されました。1957(昭和32)年、橋野高炉跡は現存する最古の洋式高炉跡として国の史跡に指定されています。

釜石の高炉群の成功により、明治政府は官営釜石製鉄所を建設し、1880(明治13)年に操業を開始しますが、1883(明治16)年に廃業します。明治政府は、東京の政府御用達金物商田中長兵衛に払い下げます。引き続き官営時代の技術者が操業を試みますが、すべて失敗します。1886(明治19)年幾多の失敗の末に、出銑に成功します。

1887(明治20)年すべての製鉄所設備の払い下げを受けて、釜石鉱山田中製鉄所が設立されます。1894(明治27)年東大教授の野呂景義が顧問に迎えられます。それまで高炉の燃料は木炭でしたが、野呂が提唱したコークス利用の製鉄法を、官営時代の高炉を改修、大型化して試み、日本初のコークスを燃料にした出銑に成功しました。1903(明治36)年平炉による製鋼を始めて、銑鋼一貫製鉄所になりました。しかし、第一次世界大戦後の不況に見舞われ、1924(大正13)年三井鉱山の傘下に入ります。1934(昭和9)年日本製鐵の発足に伴い、同社の釜石製鐵所になりました。
エリア5 佐賀(佐賀県佐賀市)   
 資産1 三重津海軍所跡
三重津には、佐賀藩海軍の訓練所があり、船を修理する日本に現存する乾船渠(ドライドッグ)の遺構があり、日本初の実用蒸気船凌風丸を造った造船所がありました。
   
三重津海軍所跡には車で行きました。北九州からは九州自動車道を利用し、八女ICから国道442号線を西進し、大川市内で国道208号線で筑後川を渡ります。2つ目の橋を渡ると、川沿いの国道444号を進み、日本赤十字社の創始者佐野常民の記念館に到ります。佐野常民記念館の前、筑後川の支流の早津江川の河畔が三重津海軍所跡です。
佐野常民記念館3階展望テラスからの眺めです。三重津海軍所跡は船屋地区、稽古場地区、修覆場地区に分かれていますが、これは船屋地区から稽古場地区にかけてです。跡地は発掘後埋め戻されています。佐野常民記念館の建物内各所に三重津海軍所跡に関するコーナーがあります。
佐賀藩主鍋島直正は、藩財政を改革し、藩校弘道館を拡充して有能な人材を育成し、登用しました。長崎警備を担う佐賀藩は幕府が財政難であるため、独自に西洋の軍事技術の導入を図りました。科学技術の研究機関の精錬方を置き、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関等の研究開発を行いました。1850(嘉永3)年築地(ついじ)反射炉(佐賀市)を築造し、大砲を鋳造しますが成功せず、1852(嘉永5)年やっと成功しました。
   
1853(嘉永6)年幕府は海防を強化するために大船建造を解禁し、佐賀藩に大船建造を要請します。佐賀藩はオランダに蒸気軍艦を発注し、蒸気船築造を計画しました。また、1855(安政2)年藩士を幕府の長崎海軍伝習所に伝習生として参加させ、操船技術、造船、機械工学を学ばせました。1858(安政5)年藩が和船を管理していた三重津船屋を拡張しました。同年オランダから電流丸を購入しました。翌年、船屋の南を拡張して稽古場とし、訓練場を設置しました。1865(文久元)年までに三重津の南側、修覆場地区に洋式船を造船、修船を行う作業場やドックが整備されました。1865(慶応元)年には日本初の実用蒸気船凌風丸を築造しています。発掘の結果、木組構造の乾船渠が発見されました。ドックで電流丸を修理したり、蒸気機関のボイラーの製造なども行っています。三重津海軍所跡は2013(平成25)年に国の史跡に指定されています。
前の眺めの右側で、左から中央は稽古場地区で、右端が修覆場地区の一部です。修覆場地区はずっと右側に続きます。佐野常民記念館での海軍所の映像や、屋外の跡地の前でのVR(バーチャルリアリティ)の機器を使って、当時の様子を見ることができます。
 
   
エリア6 長崎(長崎県長崎市)
 資産1 小菅修船場跡
   2 長崎造船所第三船渠
   3 長崎造船所ジャイアント・
     カンチレバークレーン
   4 長崎造船所旧木型場
   5 長崎造船所占勝閣
   6 高島炭坑
   7 端島炭坑
   8 旧グラバー住宅
幕末、幕府が大型船造修所の必要のために建設したのが長崎鎔鉄所で、改称されて長崎製鉄所になります。維新後は官営となり、1884(明治17)年、岩崎弥太郎が創業した三菱の経営になり、長崎造船所と改称されます。その長崎造船所関連が4資産あります。トーマス・グラバーが薩摩藩とともに完成させた、蒸気機関で船を引揚げる装置のあるドックが小菅修船場跡です。明治政府の長崎製鉄所が管理していましたが、1887(明治20)年三菱の所有となります。

幕末、欧米列強の圧力で日本は開港します。外国蒸気船の燃料として石炭の需要が高まり、1868(慶応4)年佐賀藩とトーマス・グラバーは高島炭坑の開発を始め、翌1869(明治2)年に着炭します。1874(明治7)年高島炭坑は官営になった後、後藤象二郎に払い下げられ、1881(明治14)年三菱に譲渡されます。端島炭坑は明治になって採掘が始められます。1890(明治23)年深堀鍋島家所有の端島炭坑は、隣接の高島炭坑を所有する三菱に買収されます。小菅修船場や高島炭坑の経営を通じて、日本の近代化に貢献したのがスコットランド生まれのトーマス・グラバーです。彼の居宅であった旧グラバー住宅が資産に入っています。
長崎にはJRで行きました。長崎駅からは、長崎駅前南口バス停から長崎バスで小ヶ倉団地線に乗り、小菅町バス停で下車します。所要時間は14分で、1時間に2本程度しかバスはありません。バス停から道路下に小菅修船場跡はあります。
日本に船を修理する施設がないため、1869(明治元)年にトーマス・グラバーと薩摩藩によって竣工されたのが小菅修船場です。小菅修船場は、日本で初めて蒸気機関を動力にした、船を陸に曳き揚げて修理するスリップ・ドックでした。曳揚げ機械やレールは英国から輸入しました。レールに船を載せるための台(船架)がそろばんに見えたので、「ソロバン・ドック」と呼ばれました。曳揚げ小屋は「コンニャクレンガ」と呼ばれる扁平なレンガが使われた日本最古の煉瓦造建築です。小菅修船場跡は1969(昭和44)年国の史跡に指定されています。
   
三菱重工業長崎造船所内の第三船渠、ジャイアント・カンチレバークレーン、占勝閣は、操業中の造船所敷地内にあるため、公開されていません。遠くから外観を見るため、長崎駅前バス停から長崎バス神の島-大浦-田上線に乗りました。岩瀬道町バス停で下車します。所要時間は12分で、1時間に5本程度バスはあります。バス停付近から見える長崎造船所本館の大きな建物の右下に第三船渠はありますがほとんど見えず、この様に海側のほんの一部か、上部の一部しか見えません。
造船所の船渠(ドック)は、第一船渠が1879(明治12)年、第二船渠が1896(明治29)年、第三船渠が1905(明治38)年に竣工しました。そのうち第三船渠だけが現存しています。第三船渠は3回拡張されましたが、竣工時のシーメンス社製排水ポンプは現在も稼動中です。
 
   
岩瀬道町バス停付近から見て、長崎造船所本館の左手に見えるクレーンがジャイアント・カンチレバークレーンです。
1909(明治42)年に飽の浦岸壁に設置された、当時最新式の電動クレーンです。カンチレバーとは梁の一端が固定されていて、他方が動く状態をいいます。英国アップルビー社製で、150トンの吊り上げ能力を持っていて、大型機械の船舶への積み込みや陸揚げに使われました。当時長崎造船所は東洋最大の造船所で、機械部門でも陸用・船舶用タービンを国産化していました。1961(昭和36)年現在地の水の浦岸壁に移設され、現在も機械工場で製造されたタービンや大型船舶用プロペラの船積み用に稼動しています。
長崎造船所史料館に行くバスの中から、造船所に入ってジャイアント・カンチレバークレーンを見ることができます。ただし、構内ですので撮影禁止です。
   
現在、長崎造船所史料館になっている旧木型場は見学できます。入館は有料ですが、長崎駅前からバスで送迎してくれます。事前の申し込みが必要です。下記公式サイトをご覧ください。館内の撮影は、一部を除いて許可されています。
http://www.mhi.co.jp/company/facilities/history/

旧木型場は、1898(明治31)年に鋳物工場に併設された長崎造船所に現存する最古の建物です。鋳物製品の木型の工場建物で、木骨煉瓦造の2階建てです。骨組はクイーンポストトラス組です。三角形をつくって構造を構成するトラスのうち、中央に真束と呼ばれる支柱があるのがキングポストトラスで、中央に真束がなく、その代わりに対束と呼ばれる2本の束をもった形式をクイーンポストトラスといいます。屋根は瓦葺きで、切妻です。1915(大正4)年に増築されています。
 
   
長崎造船所史料館では、前身の長崎溶鉄所から現在までが展示され、 日本最古の工作機械や最初の国産蒸気タービンの技術など、珍しい品々や写真等で長崎造船所の歴史を紹介しています。
旧木型場の中央の吹き抜け部分で、階上や屋根の骨組みが分かります。中央の2本の鋳鉄柱は、他の工場で使われた明治初期の建屋の支柱です。
   
岩瀬道町バス停付近から見て、長崎造船所本館の右手横に見える洋館が占勝閣です。
1904(明治37)年に完成した長崎造船所所長の邸宅として建築された木造2階建て洋館です。曾禰達蔵の設計です。曾禰達蔵は、辰野金吾とともに英国人のジョサイア・コンドルに学んだ日本人建築家の1期生といわれています。しかしこの洋館は邸宅としては使用されず、迎賓館として使われ、風光景勝を占めるとの意で占勝閣と命名されました。現在も迎賓館として使われています。
 
   
高島と端島へは日帰りツアーを利用しました。長崎に行けば、長崎港から数社の高島・軍艦島上陸クルーズ船が出港しています。海上に架かる女神橋を過ぎ、長崎湾を出て、高島の波止場に着きました。
1868(慶応4)年佐賀藩とグラバー商会は英国人技師モーリスを招いて、日本で初めての蒸気機関による竪坑の開削を始めました。翌1869(明治2)年に深さ43mで着炭し、北渓井坑(ほっけいせんこう)と命名されました。坑外の蒸気機関で巻揚機を稼動させて石炭を運び、蒸気ポンプで排水し、坑外の風車で換気しました。この様な技術は筑豊炭鉱や三池炭鉱に伝わっていきました。北渓井坑は1876(明治9)年海水の浸水で廃坑になりました。高島では他の炭坑も開削され、後藤象二郎の手を経て、1881(明治14)年三菱に譲渡されます。高島炭坑が閉山されたのは1986(昭和61)年でした。高島北渓井坑跡は2014(平成26)年国の史跡に指定されています。
   
高島から端島に向かいます。端島は、島の形が軍艦土佐に似ていたことから軍艦島とも呼ばれます。軍艦土佐は、1920(大正9年)年長崎造船所で起工されますが、ワシントン海軍軍縮条約の締結により、1922(大正11年)年建造が中止されます。未完のまま海軍に引き渡され、実験に使われ、1925(大正14年)年高知県沖で自沈しました。端島には波止場がなく、島に直接接岸して上陸しますので、荒天では上陸できません。
1870(明治3)年天草の小山秀(こやまひいで、秀之進から改名)が端島での石炭採掘に着手しました。1877(明治10)年台風の直撃で被害を受け、小山秀は廃業します。1882(明治15)年、端島炭坑は旧佐賀藩深堀領主鍋島孫六郎の所有になりました。1890(明治23)年三菱は鍋島孫六郎から端島炭坑を買収します。明治30年代に入ると島の周辺を次々と埋め立て、護岸工事を行っていきます。端島で産出される石炭は良質であったため、明治末には八幡製鐵所に原料炭として供給されました。
 
   
1916(大正5)年、端島に日本初の鉄筋高層アパート5階建てが建設され、すぐに7階建てに増築されます。端島に建物が林立していきます。その姿から、長崎市民には悲劇の軍艦の姿と重なり軍艦島と呼ばれるようになりました。1931(昭和6)年の埋立で現在の形になりました。最盛期には6.5haの島に約5,300人が住んでいました。1974(昭和49)年1月端島炭坑は閉山し、同年4月端島に住む全員が離島し、端島は無人島になりました。2009(平成21)年見学通路や場所が整備され、端島に上陸することができるようになりました。2014(平成26)年端島炭坑は国の史跡に指定されています。
   
旧グラバー住宅があるグラバー園へは、小菅修船場跡への長崎バスの小ヶ倉団地線の途中のグラバー園入口バス停で降りるか、長崎電気軌道の大浦天主堂下電停で降りるといいでしょう。
旧グラバー住宅はスコットランド生まれのトーマス・グラバーの居宅でした。1863(文久3)年に建築された日本最古の木造洋風建築です。英国のコロニアル様式と日本瓦や土壁などの日本の伝統技術が融合する建物になっています。施工は、同じグラバー園内にある旧オルト住宅、旧リンガー住宅、近くにある大浦天主堂を建築した小山秀といわれています。小山秀は端島の石炭採掘で紹介しました。
 
   
旧グラバー住宅の応接間です。左がトーマス・グラバー、右は妻のツルです。トーマス・グラバーは貿易業のグラバー商会を設立し、維新以前は生糸や茶を輸出し、幕府や諸藩に武器・弾薬を売りました。そして、維新後は小菅修船場や高島炭坑の経営を通じて、造船や石炭産業の近代化に貢献しました。高島炭坑が三菱の経営になった後は、高島炭坑の所長になり、その後は三菱の相談役になりました。
   
エリア7 三池
(福岡県大牟田市、熊本県荒尾市・宇城市)
 資産1 三池炭鉱、三池港
     三池炭鉱宮原坑
     三池炭鉱万田坑
     三池炭鉱専用鉄道敷跡
     三池港
 資産2 三角西(旧)港

江戸時代、三池では三池藩と隣接して柳川藩が石炭を採掘していました。1873(明治6)年三池炭鉱は官営となり、1889(明治22)年三井に移管されました。官営の三池鉱山局技師であった團琢磨(だんたくま)は、三井三池炭鉱の事務長に就き、炭鉱経営の近代化と合理化を進めます。宮原坑と万田坑の操業を開始し、三池炭鉱専用鉄道を敷設し、三池港を開港しました。明治政府は、オランダ人技師の計画に基づいて、1887(明治20)年三角西(旧)港を開港しました。三池港開港以前は、三角西(旧)港が三池炭鉱の積出港となり、上海などにも輸出されました。
三池炭鉱と三池港は日帰りツアーで行きました。宮原坑と三池港は福岡県大牟田市にあります。
宮原坑は三井の経営になって初めて開削された炭坑です。第一竪坑は1895(明治28)年に開削に着手し、1898(明治31)年に操業を始めました。第二竪坑は1899(明治32)年に開削に着手し、1901(明治34)年に操業を始めました。第一・二竪坑には当時世界最大級の英国製デビーポンプ(高価な蒸気機関は坑外に据え、坑底の押し上げポンプを駆動させた)2台を置き、三池炭鉱で難題であった排水に対処しました。第一竪坑は揚炭、入気、排水が主で、第二竪坑は人員昇降が主で、揚炭、排気、排水を兼ねていました。官営時代から囚人を採炭に使役していました。三池炭鉱の労働力不足を補うため、1883(明治16)年三池集治監(のち三池刑務所)が開庁しました。囚人、女性、子供の坑内労働が禁止され、1931(昭和6)年三池刑務所は閉庁されました。四山・宮浦坑が開削され、同年昭和恐慌の影響もあり、大浦・勝立・七浦坑と共に宮原坑は閉坑されました。現在、第二竪坑の竪坑櫓と巻揚機室が遺されています。竪坑櫓の左はデビーポンプ室の壁です。施設は1998(平成10年)年国の重要文化財に指定され、宮原坑跡は2000(平成12)年国の史跡に指定されています。
   
万田坑は熊本県荒尾市にあります。第二竪坑櫓と巻揚機室が見えます。
宮原坑に次いで、その南側を採掘するため万田坑が開削されました。1902(明治35)年に第一竪坑、1908(明治41)年に第二竪坑が完成しました。第一竪坑は揚炭と入気、第二竪坑は人と資材の昇降、排気を目的にしていました。明治後期には大牟田市と荒尾市にある三池炭鉱の坑口は専用鉄道で繋がり、石炭は三池港から輸出されました。三井三池炭鉱事務長に就いた團琢磨は、その経営に成功しました。1909(明治42)年には三井鉱山会長になり、三池は三井のドル箱ともいわれました。1914(大正3)年には團琢磨は三井合名会社の理事長になり、三井財閥のトップになりました。昭和恐慌の際の財閥批判の矢面に立ち、1932(昭和7)年日本橋三井銀行本店玄関前でピストルで暗殺されました。この事件を血盟団事件といいます。
 
   
万田坑第二竪坑櫓です。櫓は滑車にロープを掛けて、ゲージを吊り下げる設備です。ロープを巻揚げる機械があるのが巻揚機室です。巻揚機室には外国の機械や三池製作所の巻揚機が当初の姿で残っています。万田坑は1951(昭和26)年採炭を中止しています。1997(平成9)年三池炭鉱閉山まで、万田坑の施設は坑内の排水を行っていました。
ここにある第二竪坑櫓、巻揚機室、倉庫及びポンプ室(旧扇風室)、安全燈及び浴室(旧機械室)、事務所(旧扇風室)、山ノ神祭祀施設は1998(平成10)年国の重要文化財に指定されています。第一竪坑跡を含む万田坑跡は2000(平成12)年国の史跡に指定されています。
   
宮原坑第二竪坑の横です。三池炭鉱の各坑口と三池港を結ぶ三池炭鉱専用鉄道敷跡です。
三井鉱山局が1878(明治11)年大浦坑と大牟田川(大牟田駅の北を流れ、三池港の北で有明海に流れ込む)河口の間に鉄道馬車を敷いたのが最初です。三井に移管された後は、1891(明治24)年大牟田川河口と七浦坑の間の鉄道が開通し、1897(明治30)年には九州鉄道(のちの鹿児島本線)とつながります。1905(明治38)年には三池港に延長されます。1909(明治42)年に電化工事に着手し、1923(大正12)年に完了します。切土や盛土による造成、鉄道敷跡の路床、煉瓦の橋台・橋梁等が現存しています。
 
   
陸地側展望所から見た1908(明治41)年に竣工した三池港です。遠方から両側に砂泥を防ぐ堤防が設けられています。堤防の手前は三角形になった汐待する内港で、その手前が道路の向こうの船渠です。内港より小さい三角形の船渠の入口には、中央に閘門が設けられています。観音開きの閘門の扉は木材と鋼材でつくられています。木材は強度と耐久性のある南米産のグリーンハートが使われています。扉の上は海水を通すようになっています。閘門は18.5mの船が通過でき、閘門を閉じると船渠内は8.5mの水深が保たれ、1万トンクラスの船が接岸できます。閘門の左右にはスルースゲートが設けられています。扉が上下する水門です。大型船が入港した際、海水を逃がすために設けられています。閘門の右にある建物は、閘門を動かすポンプ室です。これらの施設は、開港以来現在も稼動しています。
   
有明海は干満の差が激しく、干潮時には三池炭鉱の沖合には干潟が現れ、大型船の通行は難しく、大牟田川河口から艀(はしけ)で対岸の口之津や長崎まで運んで、大型船に積み込んでいました。このため大牟田での築港が計画されました。1902(明治35)年に着工し、潮止めの防波堤を築き、防波堤内を掘削し、閘門を設置し、1908(明治41)年に三池港は竣工しました。
この建物は、1908(明治41)年三池港開港時に開庁した長崎税関三池税関支署です。閘門のある船渠の奥の南側に位置します。1965(昭和40)年税関は対岸の新庁舎に移転されました。その後は三池港関連施設として使われました。旧長崎税関三池税関支署は大牟田市の文化財に指定され、2011(平成23)年度に調査・修理が行われました。
 
   
三角には車で行きました。九州自動車道の御船ICから国道3号線を経由して、有明海を望む国道57号線を西進すると三角西(旧)港に到ります。三角西(旧)港の南側石積埠頭です。右上端に三角から天草上島を結ぶ天草五橋の一号橋(天門橋)が見えます。
三角西(旧)港は、明治政府により、オランダ人のローエンホルスト・ムルドルの設計で築港されました。1884(明治17)年着工し、熊本から三角への道路建設と三角西(旧)港の築港が1887(明治20)年に竣工しました。1899(明治32)年九州鉄道によって現在の三角東港の位置まで鉄道が開通(現在の三角線)し、1924(大正13)年際崎港(現在の三角東港)の修築工事に着手しました。そのため三角西(旧)港は衰退し、明治の港湾施設がそのまま残っています。756mの石積埠頭、階段、石橋、排水路が築かれ、それらは2002(平成14)年国の重要文化財に指定されています。埠頭には当時浮桟橋が3箇所設置されていました。
   
三角西(旧)港の北側石積埠頭で、先は西側にカーブしています。右側は旧三角海運倉庫です。
内務省勤務で、熊本県兼務の熊本県土木課三角出張所長の技術者の下、小山秀に率いられた天草の石工達が施工しました。グラバー住宅を始め外国人の住宅や大浦天主堂を建築したが、端島での石炭採掘に失敗していた小山秀に三角築港の声がかかりました。天草五橋の一号橋を渡った付近の大矢野島の飛岳から安山岩を切り出し、石積埠頭、階段、石橋、排水路を完成しました。
1889(明治22)年、三角西(旧)港は特別輸出港に指定され、米、麦、麦粉、石炭、硫黄などが輸出されました。特に石炭は、1893(明治26)年から9年間、三池炭鉱の積出港として上海などに輸出されました。
 
   
以下三角西(旧)港にある旧三角海運倉庫、龍驤(りゅうじょう)館、旧三角簡易裁判所、旧宇土郡役所庁舎は、国の有形文化財に登録されています。
石積埠頭の側にある旧三角海運倉庫です。三角西(旧)港が隆盛の頃、数多くの倉庫が埠頭に面して建っていました。この倉庫は開港時の1887(明治20)年に建てられました。土蔵造りの倉庫です。
現在は、三角築港記念館、オランダ館としてレストランとして利用されています。この北側には宇城市指定文化財の旧高田回漕店があります。
   
旧三角海運倉庫の南に龍驤(りゅうじょう)館があります。明治天皇即位50周年記念事業として計画しましたが、1912(明治45)年天皇の崩御により明治天皇を偲ぶ頌徳記念館として宇土郡教育館、郡公会堂として1918(大正7)年に建設されました。1872(明治5)年、明治天皇は肥後藩が献上した軍艦龍驤で熊本県を巡視しました。その折に風雨を避けて三角湾で仮泊しました。そのお召し艦名に館名は由来します。
現在館内では三角西(旧)港の歴史が紹介されています。ここは小泉八雲の紀行文「夏の日の夢」に出てくる浦島屋の跡地です。浦島屋は洋式ホテルで、小山秀によって建築され、1893(明治26)年長崎からの帰途、小泉八雲は三角西(旧)港を訪ねました。1905(明治38)年浦島屋は解体され、大連に運ばれました。浦島屋は1992(平成4)年度設計図をもとに、このすぐ近くに復元されました。現在は喫茶コーナーのほか、港築港当時の資料や写真、小泉八雲に関する資料が展示され、イベントの開催にも使われています。
 
   
龍驤館裏手から国道57号線を横切り、山手に進むと石段があり、その上の左手に旧三角簡易裁判所があります。寄棟造の瓦葺の木造平屋建です。1890(明治23)年に開庁し、当初は三角西港の中町に設置されていました。1920(大正9)年に現在地へ移転新築され、1992(平成4)年まで簡易裁判所として使われました。
   
旧三角簡易裁判所から右手の方に昇って行くと、九州海技学院本館があります。この建物は、旧宇土郡役所庁舎です。1902(明治35)年に建てられた寄棟造の瓦葺木造平屋建の洋風庁舎です。モルタル塗外壁に目地を切って石造風に見せています。  
   
エリア8 八幡(福岡県北九州市・中間市)
 資産1 官営八幡製鐵所
     官営八幡製鐵所旧本事務所
     官営八幡製鐵所修繕工場
     官営八幡製鐵所旧鍛冶工場
   2 遠賀川水源地ポンプ室
官営釜石製鉄所の失敗でそれまで反対であった議会は、1995(明治28)年日清戦争を機に急増した鉄鋼の需要に応じるように官営製鉄所設立を建議しました。製鉄事業調査会で野呂景義らが創立案を作成しました。1896(明治29)年山内提雲が初代製鐵所長官に大島高任の息子の大島道太郎が技術のトップである技監に就き、建設地を八幡に内定しました。1897(明治30)年に欧米調査をした大島技監は近代的銑鋼一貫製鉄所とし、多品種少量生産を目指すべきで、それにはアメリカよりドイツの技術がふさわしいと判断しました。小さく生んで大きく育てる創立案と相違するものでした。大島技監には導入技術、顧問技師の雇い入れ、溶鉱炉・機械の注文などの権限が委任されていました。

ドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ(GHH)社に製鐵所の設計、建設指導を依頼しました。高炉が東田に築かれ、1901(明治34)年2月ドイツ人技師の指揮の下に溶鉱炉の火入れが行われました。この時、釜石鉱山田中製鉄所から7人の作業員が派遣されています。ドイツ人技師の雇用は大した成果もなく、作業はドイツ人職工長の協力の下に、ドイツ研修から帰国したばかりの日本人技術者の努力によって推進されました。同年11月官営八幡製鐵所の盛大な作業開始式が行われました。しかし、火入れされた高炉の出銑状況は良くなく、その状況は作業開始式を過ぎても同じで、出銑量は半分で、銑質は不良でした。1902(明治35)年2月第2代製鐵所長官和田維四郎は免官され、7月高炉作業は中止され、大島道太郎技監らは退任し、創業時の幹部は更迭されました。

ドイツ人の技師や職工長は、次第に契約解除されました。官営製鐵所の創立案に関わった野呂景義は、釜石鉱山田中製鉄所でコークス高炉操業を成功させていましたので、第3代製鐵所長官に就任した中村雄次郎は高炉再建を野呂に託しました。野呂景義は高炉を改造し、コークス製造を改良し、1904(明治37)年7月製鐵所は生産を再開しました。日本の鋼材自給率は低く、自給率を高めるため官営八幡製鐵所の第一期拡張工事が始まりました。1906~10(明治39~43)年の5ヶ年事業で、高炉が築かれ、各種工場が新設されたり、機械化が進められました。1930(昭和5)年までに第二・三期拡張工事が実施され、周辺に多くの産業が立地し、北九州工業地帯が形成されました。
官営八幡製鐵所の資産は、稼動中の新日鐵住金八幡製鐵所の構内にあり、老朽化も進んでいますので公開されていません。旧本事務所だけは、近くに眺望スペースが設けられ、外観だけは少し離れた所から見たり、写真撮影ができます。眺望スペースは、テーマパークのスペースワールドの正面ゲート前の歩道橋を渡り、その先の地下道をくぐった先にあります。2015(平成27)年の起業祭のイベントとして旧本事務所見学会がありましたので、旧本事務所を間近で見ることができました。
官営八幡製鐵所旧本事務所は、創業2年前の1899(明治32)年に建てられ、屋根は和瓦葺の煉瓦造2階建です。設計図によると、1階には長官室、経理室、庶務室など事務系の部屋があり、2階は技監室、外国人顧問技師室など技術系の部屋になっていました。
旧本事務所の裏手です。次の2つの資産は、外観は見ることはできましたが、撮影は不許可でした。
旧本事務所の後方西側に修繕工場があります。修繕工場は、創業1年前の1900(明治33)年にグーテホフヌンクスヒュッテ(GHH)社の設計で、同社の鋼材を使って建てられました。鉄骨造で、以後3回増築されました。製鐵所で使用する機械や設備の修繕だけでなく、機械工場としての役割を果たしていました。この地区には機械工場群があり、修繕工場はその中心的施設でした。修繕工場は現在も稼動していて、現存する最古の鉄骨建築物です。
旧本事務所の裏側、後方南側に旧鍛冶工場があります。1900(明治33)年に修繕工場の北側に、同工場と同様にグーテホフヌンクスヒュッテ(GHH)社の設計で、同社の鋼材を使って建てられた鉄骨造工場です。鍛造品を製作していました。新たに鍛冶工場が建てられ、1917(大正6)年に現在地の修繕工場東側に移設され、製品試験所として使用されました。
中間市役所の前に、遠賀川に架かった遠賀橋があります。遠賀橋の約500m上流に取水堰があります。その横、遠賀川東岸に遠賀川水源地ポンプ室があります。遠賀川側からのポンプ室です。
官営八幡製鐵所の創業時の水源は主に大蔵川(板櫃川上流)でした。工場の増強で水源が不足し、第一期拡張工事を機に本格的水源地開発として遠賀川に水源を求めました。遠賀川水源地ポンプ室は取水した工業用水を八幡製鐵所に送水する施設です。1910(明治43)年に建設された鉄骨骨組煉瓦建造物です。当初の動力は蒸気で、英国製のボイラーと蒸気ポンプが使われましたが、現在は電気ポンプになっています。
   
反対側からのポンプ室です。
ボイラー室・ポンプ室の建屋、沈砂池が現存しています。現在も稼動しています。外観だけ見ることができます。
この後第二・三期拡張工事が実施され、更に工場は増強されます。遠賀川水源地もさらに増強され、新たな水源が求められました。1921(大正10)年東洋製鉄の経営を受託し、紫川水源地を継承しました。1927(昭和2)年養福寺貯水池、河内貯水池を建設しました。
 

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