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大蔵
    八幡東区  [2013/06/08]

1889(明治22)年大蔵・枝光・尾倉村が合併して八幡村となり、大蔵は大字となりました。1899(明治32)年八幡村は八幡町となり、1901(明治34)年官営製鐵所の作業開始式があり、1917(大正6)年八幡町は八幡市になりました。かっての大蔵はかなり広範囲な区域でした。

戦国時代永禄年間(1558-70)に、豊前国企救郡内の宇佐宮領到津荘の代官、清末氏の私領に「大クラ」の記録があります。クラの意味するのは渓谷です。大蔵は大蔵川(板櫃川の上流)の流域です。安土桃山時代天正年間(1573-92)の記録には、大蔵が御牧郡(江戸時代寛文年間遠賀郡と改称)の小倉(尾倉のこと、江戸時代寛永年間尾倉となる)郷の枝郷の記録もあります。現在の大蔵中学校から高見神社の裏山にかけての丘陵地に、麻生氏の砦であった笹原城がありました。麻生氏は、花尾城を本城として、中世、現在の北九州市の半分と中間市を含む遠賀郡を領有していました。1587(天正15)年豊臣秀吉は九州を平定しました。麻生氏は筑後に移され、多くの麻生氏の山城は廃城となりました。

江戸時代から1889(明治22)年までは遠賀郡大蔵村でした。枝村に猪倉・中河内・田代・中尾村がありました。1662(寛文2)年尾倉郷の宗社の豊山(とよやま)八幡神社を大蔵村に勧請して乳山(ちやま)八幡神社を創建しました。大蔵村の北を長崎街道が通っていました。1892(文化9)年1月27日伊能忠敬は小倉城下から黒崎宿間を測量しています。「伊能忠敬測量日記」には「それより黒田備前守領筑前国遠賀郡大蔵村枝清水立場、右枝光村、左尾倉村・・・」と記述されています。清水は現在の大蔵1丁目で、かって清水町と呼ばれ、大字大蔵字清水に当たります。立場(たてば)は宿と宿の間の距離がある所や難所に設けられた旅人の休憩施設で、茶屋や売店があったといわれています。

1889(明治22)年大蔵・枝光・尾倉村が合併して八幡村となり、大蔵は大字となりました。三村に八幡神社があり、その八幡をとって命名されたといわれています。1891(明治24)年4月、九州鉄道により黒崎・門司間の鉄道が開業しました。この時の黒崎・小倉間は、現在のJR鹿児島本線の海岸ルートと違い、内陸ルートでした。この間は駅はありませんでしたが、1898(明治31)年、大蔵駅が開設されました。

1897(明治30)年遠賀郡八幡村に製鉄所の立地が決まり、その年八幡村枝光に製鐵所(唯一の官営製鉄所のため、こう呼ばれた)が開庁され、翌年から建設が始まりました。1899(明治32)年八幡村は八幡町となり、1901(明治34)年官営製鐵所の作業開始式がありました。しかし、本格操業は1904(明治37)年からでした。創業当時、官舎は構内と構外の尾倉に建てられました。また職工官舎は、大蔵の神田職工官舎と当時黒崎町だった前田職工官舎が建てられました。

1906(明治39)年農商務省は企救郡板櫃村大字槻田の一部の農地を製鐵所官舎用地として買い上げ、隣接の遠賀郡八幡町大字大蔵の製鐵所用地と合わせて整地しました。この官舎用地は、西から一条から七条に区分され、職工用の槻田官舎が建設されました。三条から七条にかけての山手には、長官・高等官官舎が構内の高見山から移設されたり、判任官(下級官吏)の職員官舎が増設されました。これらは高見官舎と呼ばれました。大正時代初期よりこの地区は高見町と呼ばれました。

1902(明治35)年、現在のJR鹿児島本線の海岸ルートが開業され、内陸ルートは1911(明治44)年廃線となり、大蔵駅もなくなりました。門司東本町・黒崎駅前間の電車は、九州電気軌道(九軌)によって1911(明治44)年開通します。1942(昭和17)年同社は他社と合併し、西日本鉄道(西鉄)となりました。1916(大正5)年黒崎町前田と板櫃村槻田の一部が官舎用地になったため、両地区は八幡町に編入されました。翌1917(大正6)年八幡町は八幡市になりました。

1900(明治33)年大蔵川(板櫃川の上流)の左岸に製鐵所の大蔵貯水池が建設されました。大蔵貯水池は製鐵所の初めての貯水池でした。大蔵川の上流の河内で、1919(大正8)年製鐵所の河内貯水池の建設工事が始まりました。大蔵川沿いの小学校、神社を含む集落55戸が水没して、1927(昭和2)年河内貯水池は完成しました。当時、日本有数のダムでした。

製鐵所の創業期の職工は職人気質が強く、定着率が低かったといわれています。そこで職工を養成し、計画的に教育訓練する場が必要になり、1910(明治43)年幼年職工養成所が大蔵に設立されました。1927(昭和2)年職工養成所は廃止され、教育制度が大幅に改定されて教習所が発足しました。その講堂として親和会館が1934(昭和9)年に建設されました。戦後、新しい産業教育にふさわしい施設や機材を充実するために、中尾に教育センターが開所されました。親和会館はその後文化施設に転用されました。

官営製鐵所は、1934(昭和9)年官民が合同して日本製鐵となり、戦後は民営の八幡と富士など4社に分割されました。1970(昭和45)年に八幡と富士は合併して新日本製鐵となりました。2012(平成24)年10月新日本製鐵と住友金属が合併して新日鐵住金となりました。その間に多くの八幡製鐵所の社宅と同じように大蔵の社宅はなくなり、大蔵貯水池は埋立てられました。教習所、親和会館、教育センターも現在はなくなっています。1992(平成4)年砂津・黒崎駅前の西鉄電車は廃止になりました。

かっての大字大蔵は、現在の町名で表すと、中尾・中畑・高見・大蔵・上本町・中央・末広町・羽衣町・勝山・豊町・景勝町・大平町・猪倉町・田代町・河内と広範囲になります。ここでは新町名の大蔵を訪ねます。  
この二つの地図は上の右図とほぼ同じ範囲の地図です。左は国土地理院発行の5万分の1の地形図(小倉)を使用しました。右は国土地理院発行の2万5千分の地形図(八幡)を使用しました。
左は明治33年(1900)側図です。左に八幡村と書かれています。右書きで清水に道路が通っています。当時はまだ江戸時代の長崎街道の道筋通りでなかったかと思われます。その南側を鉄道が通っていて、大蔵駅が見えます。八幡村の八の字の左に学校の記号が見えます。明治11年(1878)に開校した岡東小学校で、明治34年(1901)に八幡尋常小学校に改称された、現在の八幡小学校です。大蔵の文字の左に神社の記号があります。乳山八幡神社で、その下の神社の記号は勝田神社です。乳山八幡神社の右前に集落が見えます。その辺りが大蔵村の本村だったと思われます。右下斜めに太い破線が見えます。東の企救郡と西の遠賀郡の郡境を示します。江戸時代は豊前国と筑前国の国境でした。大蔵村は遠賀郡の郡境の村でした。遠賀郡は猪倉・中尾を含んで、右上に破線が見えます。鉄道が大蔵川を渡河した北側で郡境は方向を転じて、丘陵地の南側を北東に進みます。この先は金比羅山の東を通って北に伸びて行きます。

右は昭和44年(1969)改測図です。鉄道はなくなり、その北側を電車が通っています。清水町の文字の下に学校の記号があります。大蔵中学校です。下の方にも学校の記号があります。大蔵小学校で、一番下は移転前の八幡高校です。清水町の文字の下に八幡製鐵所の一条社宅の文字が見えます。下の方に貯水池の文字が見えますが、八幡製鐵所の大蔵貯水池です。  
県道62号線北九州・小竹線の大蔵交差点を南側から北側を見ています。旧電車通りで、かってここには大蔵電停がありました。正面のマンションはかっての八幡製鐵所の教習所跡地に建てられています。現在両国橋の東側から中央にかけて片側3車線に道路拡幅工事中です。県道62号線は、北九州市八幡東区中央から両国橋の手前の大蔵2丁目交差点を右折して、河内貯水池を経由して鞍手郡小竹町に到ります。両国橋の先を東進するのは、県道296号大蔵・到津線です。
   
県道62号線北九州・小竹線の南側で、大蔵交差点の西側に大蔵公園があります。ここには1911(明治44)年になくなるまで、大蔵駅がありました。  
   
1891(明治24)年4月、九州鉄道により黒崎・門司間の鉄道が開業しました。この時の黒崎・小倉間は駅はありませんでしたが、1898(明治31)年、大蔵駅が開設されました。1902(明治35)年、現在のJR鹿児島本線の海岸ルートが開業されました。1907(明治40)年九州鉄道は国有化され、内陸ルートは1911(明治44)年廃線となり、大蔵駅もなくなりました。九州鉄道大蔵駅跡の説明板の下の小さな石柱は、県道の拡幅工事に伴って公園整備の際に見つかった九州鉄道の境界石です。
   
大蔵交差点を南側から北側に渡ると、左右に上り坂があります。右側の坂道を上ると、マンションの角地に、旧民社党委員長佐々木良作筆による故伊藤卯四郎(1894-1974)の顕彰碑が建っています。伊藤卯四郎は労働運動家で、1946(昭和21)年社会党の衆議院議員になり、1960(昭和35)年民社党が結成されると参加し、1962(昭和37)年副委員長に就任しています。  
   
左右のマンションの間を南北に道路が通っています。明治時代、大蔵と槻田の官舎用地を整備した際、西側から一条から七条に通りで区分されましたが、その一条の通りです。その西に八幡製鐵所の教習所があり、東に一条社宅がありました。
西側マンションの北側の駐車場の入口ですが、かって通りに面してこの付近に親和会館がありました。
   
一条の通りはすぐに突き当たりになり、そこを東西に細い道が通っています。この通りが長崎街道跡です。そこを右折して旧街道を歩いてみます。所々に路面に長崎街道と書かれた石板が埋め込まれています。下り坂になって四つ角に出ます。その先から来た道を振り返っています。右の下り坂が旧街道筋です。角に長崎街道跡の案内が立っています。左は官舎用地になって整備された通りです。旧街道筋は右側に伸びて行きましたが、官舎用地になって整備された通りになります。左下に行く通りが二条通りになります。。現在の大蔵1丁目は二条までで、三条から七条は高見町となり、現在は高見になりました。
旧街道筋を東に行くと豊前と筑前の国境になりますが、その詳細は「八幡のまちかど」の「高見」をご覧ください。
 
   
一条の通りの突き当たりまで戻り、反対側に行きます。道は右の曲って上り坂になります。旧街道筋はそのまま直進して旧教習所用地の中を通り、県道62号線北九州・小竹線の北側から県道に出る階段がありますが、当時は坂道だった所を降りて、現在の県道を西に行きました。
右に曲がって行く坂道を上って行きます。坂道の先右に曲がってこの道があります。この道は大蔵からの大蔵中学校の通学路です。この途中に伊藤卯四郎の旧居がありました。
   
1956(昭和31)年9月1日、大蔵中学校は、中央及び枝光中学校から生徒が編入して開校しました。中央中学校は1902(明治35)年八幡高等小学校として、八幡小学校の北側で創立されました。枝光中学校は枝光北中学校と統合されて現在は枝光台中学校になっています。
大蔵中学校は笹原城跡に建てられていますが、城跡はほとんど残っていません。笹原城は、大蔵中学校地から東の高見神社裏手の山にかけてあり、中世、麻生氏が東端の砦として築いたものと思われます。
大蔵中学校の前から南側の眺めです。かっての広範囲な大蔵です。左の手前の山の向こう反対側に、猪倉や中尾はあります。右の山は標高622mの皿倉山です。左の裾野奥に河内貯水池があり、そこから流れ出た大蔵川は、板櫃川となって関門海峡の西出入口に面する小倉北区日明(ひあがり)泊地に流れ込みます。
猪倉を槻田川は流れています。槻田川については「北九州点描」の「槻田川」をご覧ください。
大蔵交差点まで戻ります。交差点の南側に伸びた通りはしんわ通りと呼ばれます。  
   
大蔵交差点から県道62号線北九州・小竹線を東に行きます。両国橋手前の大蔵2丁目交差点を右折して、県道62号線北九州・小竹線は南に伸びています。その東側を大蔵川は流れています。そこに架かっている歩行者専用の森ヶ谷橋から下流の両国橋を眺めています。県道の拡幅工事に伴い両国橋の架け替え工事が行われています。かっての豊前と筑前を結ぶ橋で、両国橋と命名されています。1911(明治44)年に九州電気軌道(九軌)が開通する直前に架設されました。1925(大正14)年に架け替えられ、直前の橋は1976(昭和51)年に架け替えられました。両国橋の手前の上流に、かっての九州鉄道は通っていました。
   
森ヶ谷橋から上流の大蔵橋です。そのすぐ上流に神田橋が架かっています。ここから大蔵川の右側、左岸(上流から見て左側)を訪ねます。両岸ともかっての大字大蔵です。
左側、右岸は「八幡のまちかど」の「羽衣町・勝山・景勝町」をご覧ください。
 
   
大蔵橋のすぐ横が大蔵橋交差点です。大蔵橋は左側にあり、県道62号線北九州・小竹線は右手前から左に伸びています。右に行くと大蔵交差点の南に伸びたしんわ通りの南側に出ます。交差点の向うに神田市場が見えます。日曜日でしたので休みでした。
   
大蔵橋交差点の先、神田橋の横からです。県道62号線北九州・小竹線は左側を通っています。その左は大蔵川になります。右の道は旧道で、道沿いは神田町商店街になっています。新道から商店街近くまで、かっては八幡製鐵所の神田社宅が建ち並んでいました。  
   
旧道の商店街の中を進みます。本日は日曜日でほとんどが休業しています。新道ができるまで商店街の中をバスが通っていました。神田町は大蔵の字神田(じんでん)に由来します。
   
旧道の商店街の中を進みますと、中程の右手に乳山(ちやま)八幡神社の鳥居があります。鳥居を入って行くと、参道の石段が続き、途中に鳥居があって、昇って行くと社殿があります。  
   
参道の石段の途中の鳥居から振り返っています。鳥居の前が旧道の商店街です。左に薬の看板があり、その右に茶色のマンションがありますが、その間に新道があり、その先に大蔵川が流れています。薬の看板の建物と商店街の間に神田社宅は建ち並んでいました。
小倉(尾倉)郷の本宗は豊山八幡神社(現在八幡東区春の町4丁目)だったので、大蔵村から参詣していました。しかし、大蔵村からは遠いので、江戸時代の1662(寛文2)年、この地に豊山八幡神社から産土神として招請したのがこの乳山(ちやま)八幡神社です。豊山八幡神社が尾倉村の、枝光八幡神社が枝光村の、ここの乳山八幡神社が大蔵村の八幡神社です。三村に八幡神社があることから、三村合併に際に八幡村と付けられました。
豊山八幡神社については「八幡のまちかど」の「中央・春の町」をご覧ください。枝光八幡神社については「八幡のまちかど」の「枝光」をご覧ください。
   
社殿の左手に鎧姿の神功皇后、乳飲み子の応神天皇を抱いた武内宿禰(たけのうちのすくね)を描いた陶板画があります。乳山八幡神社がある乳山は、神功皇后が皇子(後の応神天皇)に乳を与えた地と神功皇后伝説にいわれている所です。  
   
石段の途中の鳥居を少し下りた途中に参道を横断する小道があります。左折して北に進みますと、この四つ角がありますが、そのまま直進します。
ここを左折すると乳山幼稚園の下に出ます。右折すると商店街に出ます。
   
小道を直進すると、この教会の横を通って坂道の通りに出ます。坂道を上って行くと末広町、丸山町に到ります。坂道を下ると、大蔵公園の南側の道に出ます。この付近はかって園田町と呼ばれていました。大蔵の字園田に由来します。
坂道を下り、突き当りの大蔵公園の南側の道に出ます。そこを右折して進むと、しんわ通りの南側に出て、その先で大蔵橋交差点に出ますので、右折して県道62号線北九州・小竹線の新道を進みます。
 
   
県道62号線北九州・小竹線の新道やその道沿いの建物は、八幡製鐵所の神田社宅跡地に建設されました。この建物は北九州地域職業訓練センターのマイテク・センター北九州です。
   
先方の交差点は大蔵小学校下交差点です。大蔵川を渡って左に行くと大蔵小学校の一部が見えています。大蔵小学校は、1912(明治45)年に大蔵尋常小学校として創立しました。右手のマンションは八幡製鐵所の神田社宅跡地に建設されました。正面の山は皿倉山です。
大蔵小学校下交差点の先に県道を進みます。道は右にカーブします。その先で左手を見ています。道の側に杉の実保育園があります。ここから先に住宅がありますが、ここにはかって八幡製鐵所大蔵貯水池の浄水場施設がありました。この付近で旧道が新道に合流します。  
   
県道は左にカーブして坂を上ります。平坦になった所の左手に戸建て住宅やこの集合住宅があります。県道の東側で、この付近から南側は八幡製鐵所大蔵貯水池の跡地です。
   
その先に社会福祉法人年長者の里の本部があり、そこから南は、年長者の里の種々の老人福祉施設があります。
年長者の里の施設の北端付近の県道の右手に、急な坂道が山手に伸びています。河内貯水池から水路で皿倉山の山腹を流れてきた水はこの上で分水され、この坂を流れ落ちて、大蔵貯水池に流れ込みました。現在は大蔵貯水池も水路もありません。  
   
水路跡の道を少し登りました。東を向いています。下の左右の道路が県道62号線北九州・小竹線です。その道路に交差している道路から右、南側が年長者の里です。交差している道路の突き当りに車2台見えますが、その先が大蔵川です。その先から丘陵地の上までかっては大字大蔵ですが、勝山町と呼ばれ、新町名では勝山です。
   
大蔵貯水池に流れ込む水路跡の、一番上に近い所まで登って来ました。現在河内貯水池からはトンネルによる送水管が完成し、1927(昭和2)年に完成した水路は、水路の上部は蓋をされ、舗装されてサイクリングロードになっています。
この上の水路跡については、「八幡のまちかど」の「水路跡」をご覧ください。
 
   
年長者の里の施設の南端まで来ました。この付近までが大蔵貯水池跡地です。右端の高層集合住宅は、大蔵川の対岸の勝山北団地です。
   
勝山バス停付近です。先方に見えるのは都市高速の高架橋です。バス停の先から左手に入って行く道があります。新町名の大蔵は、県道62号線北九州・小竹線の左手の都市高速までです。左に入って行った所から都市高速の先は景勝町で、大蔵川の対岸は勝山です。  


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