八幡のまちかど

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中央町・春の町(大谷・天神町の一部を含む)    八幡東区  [2013/08/17]
 

 
中央は、1971(昭和46)年まで中央町と呼ばれていました。1960(昭和35)年までは中央区でした。中央区・中央町には、1963(昭和38)年の五市合併まで八幡市役所があり、ビジネス街もある工業都市八幡の都心でした。春の町は中央の西に位置します。1960(昭和35)年までは、今より狭い範囲でした。八幡駅は、1955(昭和30)年に現在地に移転するまで、春の町の北にありました。

両地区の北側には広大な八幡製鐵所の工場が広がり、中央の北側には八幡製鐵所の東門、春の町の西隣の西本町の北側には南門があり、そこからの従業員の出入りにより、周辺に商店街が形成されました。両地区の北側に位置するのは製鉄所発祥の地の東田です。この東田から高炉の操業が停止され、工場の主力が戸畑に移行しました。また光・堺製鉄所への人員の移動があり、更に君津製鉄所の建設に於いては八幡製鐵所からの大規模な移動がありました。1970(昭和45)年に八幡と富士は合併して新日本製鐵となります。その後、富士の大分製鉄所への移動もありました。それと地域の高齢化によって、八幡の都心であった中央からは、昔日の面影はなくなっていきました。

中央・春の町はかって一部は枝光村、大部分は尾倉村に属していました。古くはこの地は小倉(おぐら)荘と呼ばれ、鎌倉時代前期、宇佐八幡宮の神宮寺、弥勒寺の寺領荘園から石清水八幡宮に譲渡されました。その荘園の区域は小倉(尾倉)、前田、大蔵、枝光、戸畑、中原でした。荘園制が崩壊していくと、それぞれは村になっていきました。中世、これらの地域を含め、現在の八幡東・西区、戸畑区、若松区、中間市を含む当時の遠賀郡を支配したのは麻生氏でした。

1587(天正15)年豊臣秀吉は九州を平定します。麻生氏当主麻生家氏はこの地を離れ、小早川隆景の与力として筑後に行き、知行を得ています。その後、浪人をしていますが、筑前に入国した黒田長政に召抱えられています。1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いの後、黒田長政は筑前国に入り、初代福岡藩藩主となります。小倉(おぐら)は隣国豊前に小倉(こくら)がありましたので、寛永年間(1624−44)に尾倉と書き改められました。

小倉(おぐら)荘の守護神は豊山(とよやま)八幡神社でした。八幡神(やはたのかみ、はちまんじん)は応神天皇ですが、豊山八幡神社もそうですが、多くの八幡神社が父の仲哀天皇、母の神功皇后を共に祀っています。安土・桃山時代末、枝光村に勧請され、枝光村、戸畑村、中原村の氏神になり、その後、戸畑村、中原村に分祀されました。江戸時代になると、豊山八幡神社は前田村、大蔵村にも勧請されました。

1889(明治22)年、枝光村、大蔵村、尾倉村の三村が合併して八幡村になりました。三村に八幡神社があることから、八幡になったといわれています。人口は1,229人でした。明治政府は富国強兵の中、日清戦争を契機に製鐵所の設置場所を検討していました。若松の安川敬一郎宅に、平岡浩太郎、長谷川芳之助、芳賀與八郎若松町長、芳賀種義(與八郎の息子)八幡村長が集まり、八幡への誘致運動を始めました。八幡村は10万坪の土地提供を決めました。若松築港会社社長に就いた安川敬一郎は、築港拡張工事を決め、三菱の同意を得て、金子堅太郎、渋沢栄一、和田維四郎を通して山内提雲初代製鐵所長官と大島道太郎技監を説得しました。1896(明治29)年枝光海岸を敷地とし、大蔵川(板櫃川上流)を用水とする案で、製鐵所は福岡県遠賀郡八幡村に内定します。

製鐵所の用地買収が始まりました。当初枝光の10万坪でしたが、大島技監の実地調査で尾倉海岸を増地し、20万坪が必要となりました。この時尾倉の村民は元照寺(現在八幡東区尾倉)に「村長を殺せ」と槍を持って立て籠もりましたが、芳賀種義八幡村長がなんとか説得しました。敷地の一部は無償の献納であったり、買い上げ価格が時価の半額であったり、買収費は低廉に抑えられました。創立予算の土地買収費が25万円であったのに対し、9万円で済んだため、大隈重信首相は芳賀種義八幡村長に感謝状を贈っています。1896(明治29)年末の八幡村の人口は2,278人でした。

1891(明治24)年、九州鉄道により黒崎・門司間の鉄道が開業しました。この時の黒崎・門司間のうち、黒崎・小倉間は、現在のJR鹿児島本線の海岸ルートと違い、内陸ルートでした。この間は駅はありませんでしたが、1898(明治31)年、大蔵駅が開設されました。しかし、1902(明治35)年、海岸ルートが開業され、大蔵線は1911(明治44)年廃線となり、大蔵駅もなくなりました。1911(明治44)年九州電気軌道により門司東本町・黒崎駅前間の電車が開通しました。1923(大正12)年枝光線のうち中央町・枝光駅間が開通しました。後、経営は合併により西日本鉄道(西鉄)になりました。1985(昭和60)年枝光線・戸畑線は廃止になりました。1992(平成4)年砂津・黒崎駅前間も廃止になりました。

1897(明治33)年八幡村は八幡町になります。1901(明治34)年11月18日製鐵所の作業開始式が盛大に行われました。この当時の製鐵所敷地が現在の東田です。翌年の海岸ルートの鉄道は、工場敷地の外側を通っていました。現在の位置から言えば、鹿児島本線は枝光駅から南下して県道50号八幡・戸畑線の西沿いに通り、国道3号線の北沿いに八幡駅に到るルートでした。当時、八幡製鐵所は単に製鐵所と呼ばれ、それは官営製鐵所を指していました。この間に多くの人が流入し、人口7,164に急増しました。1916(大正5)年製鐵所の官舎が建設された板櫃村槻田と黒崎町前田を八幡町に編入しました。この時点で人口は71,519人になっていました。1917(大正6)年八幡町は八幡市になりました。

八幡村役場は豊山八幡神社の東側にあったようですが、現在の八幡東区役所の位置に、1910(明治43)年八幡町役場が建設されました。1921(大正10)年八幡市役所として増築しました。1928(昭和3)年八幡市役所は新築されました。1963(昭和38)年の五市合併で八幡区役所になり、1974(昭和49)年の7区への区分で、八幡東区役所になりました。この間、市域は拡大されましたが、1962(昭和37)年の八幡市の人口は約345,000人でした。

八幡製鐵所の工場の主力が戸畑に移行し、八幡地区では洞岡と東田の北側一部に工場はあります。遊休地になった東田を再開発するための調査が1987(昭和62)年から始められました。1990(平成2)年4月テーマパークのスペースワールドが東田でオープンしました。1994(平成6)年東田土地整理組合が発足して、総合都市開発事業はスタートしました。現在の鉄道は、東田の中を通るルートとなり、枝光駅と八幡駅の間にスペースワールド駅が開設されました。2012(平成24)年10月新日本製鐵と住友金属が合併して新日鐵住金となりました。中央・春の町両地区の北側の東田はニュータウンに変貌しつつあります。中央・春の町はかっての活気はありませんが、落ち着いた町になっています。
この地図は、国土地理院発行の2万5千分の地形図(八幡市)を使用しました。昭和25(1950)年の第3回修正測量地図で、上の右図の範囲に概ね該当します。この地図にあるが現在はないものを挙げますと、「やわた」と書かれた八幡駅です。戦後復興計画の一環として移転開業したのは1955(昭和30)年でした。鉄道の北側は八幡製鐵所構内の東田でしたが、現在は再開発されています。当時の国鉄、現在のJR九州は、現在はここを通っていません。東田の中を通り、スペースワールド駅は1999(平成11)年7月東田の玄関口として開業しました。西鉄電車は1985(昭和60)年に枝光線・戸畑線が、1992(平成4)年に砂津・黒崎駅前間が廃止になりました。
   
中央の後背地の東丸山町の高台から中央を見ています。ここではこれから訪ねる場所の左右端を除いた中央部分を眺めています。左右の木立と中の戸建住宅地付近は東丸山町で、その先が中央です。中央の茶色のマンションの右側のグレーのビルがレイボープラザです。左端に大谷球場が見え、その手前のビルは大谷会館で、町は大谷です。大谷球場の上の都市高速の高架橋の先が春の町です。
東丸山の東側の末広町の高台から、前の右端の中央の東側を眺めています。緑の部分は高炉台公園です。熊本山が公園化されています。その左端に八幡小学校の体育館が見えます。
高炉台公園については、「北九州のみどころ」の「高炉台公園」をご覧ください。
高炉台公園の西端からの八幡小学校と中央中学校です。左の屋上にプールがある校舎が八幡小学校です。その体育館と校庭は左側にあります。右端の建物が中央中学の校舎で、その左横にあるのが校庭です。体育館は校舎の背後にあります。八幡小学校の前身は1878(明治11)年に東田に開校された岡東小学校で、枝光・大蔵・尾倉村の三村にあった小学校が合わされて開校されました。岡は遠賀を指し、遠賀郡の東の意の命名と思われます。古代「おか」が「おんが」に転じていったといわれています。その後、三村が合併して八幡村になり、八幡町になりました。1901(明治34)年製鐵所の作業開始式があった年、八幡尋常小学校と改称され、翌年、この地に移転しました。中央中学校は1902(明治35)年八幡高等小学校として、八幡小学校の北側で創立されました。戦後の1947(昭和22)年八幡小学校と中央中学校に改称されました。
旧電車通りの上本町から前田までは、現在県道50号八幡・戸畑線になっています。その県道の中央町交差点の東から西の眺めです。1992(平成4)年砂津・黒崎駅前間が廃止になるまで、道路の中央を西鉄電車が通っていました右端の建物はみずほ銀行八幡支店です。交差点を挟んだ向こう側の低層のビルは大八木眼科になっていますが、戦前百貨店がありました。1932(昭和7)年九州百貨店(丸九と呼んでいました)が開店しました。戦後、戦災で焼失していたのが再建され、八幡丸物百貨店(京都丸物百貨店の系列店)となりましたが、1963(昭和38)年閉店されました。その後福岡銀行の支店が建築されましたが、その後現在に到っています。
中央町交差点から北側の眺めです。
みずほ銀行八幡支店は、統合合併する以前は富士銀行八幡支店でした。中央町交差点は西鉄電車の分岐点でした。1985(昭和60)年に廃止された枝光線が、交差点から北の戸畑に向かって伸びていました。この交差点から南に伸び、黒崎に到るのが市道の山手線です。
中央町交差点から県道を少し西に行くと、中央区商店街の入口があります。中央区商店街南側入口2つのうち、東側の入口です。  
   
中央区商店街のアーケードは南北2本、東西1本、延べ440mです。東側のアーケードが交差した場所から東西のアーケードを眺めています。
   
西側のアーケードが交差した場所で、催事の時の広場に使われます。南北のアーケードの西側が見えます。  
   
県道50号八幡・戸畑線の中央町交差点の北西は、中央区商店街が広がり、南西角に、このレインボープラザはあります。以前は勤労者会館と呼ばれていました。建物が建つ前は、広場のある公園でした。
   
中央町交差点を南側に行く道は市道の山手線で、少し南に行きますと、左手に八幡東区役所があります。かっては、右の石垣の上に旧八幡市庁舎がありました。1963(昭和38)年の五市合併以降は、八幡市役所は八幡区役所になり、1974(昭和49)年八幡区は八幡東区と八幡西区に分区され、ここは八幡東区役所になりました。  
   
右の階段を昇ると、八幡東区役所の本館があり、その前に旧八幡市の市章と市歌が刻まれた石碑が立っています。
八幡市市歌作詞は八波則吉、作曲は矢野勇雄です。以下市歌の歌詞を掲載します。

天の時を得、地の利を占めつ、人の心の和さえ加わり、たちまち開けし文化の都 八幡八幡われらの八幡市、市の発展は、われらの任務
焔延々、波涛を焦がし、煙もうもう天に漲る、天下の壮観我が製鉄所 八幡八幡われらの八幡市、市の進展は、われらの責務
高き理想を帆柱山に、深き希望を洞海湾に、愛市の真心神こそ知るらめ 八幡八幡われらの八幡市、市の隆昌は、われらの歓喜 
   
市道の山手線はレインボープラザの南で、西方向にカーブします。そこに八幡東警察署があります。建替えられる前の建物は、八幡警察署として1936(昭和11)年に建てられ、一角に火の見の望楼がありました。八幡に初めて警察署が設置されたのは、1906(明治39)年の八幡警察分署でした。1877(明治10)年芦屋警察署が設けられ、若松と黒崎に分署が置かれます。1889(明治22)年若松が本署、芦屋と黒崎が分署となります。芦屋警察署の黒崎分署が若松警察署の黒崎分署となり、1906(明治39)年8月黒崎分署は八幡分署と改称され、同年12月分署は八幡警察署になりました。これらの変遷は、明治期の遠賀郡の町の隆盛の変遷を物語っています。  
   
八幡東署の前の山手線を西に行くと、左手に大谷球場が見えますので、その手前を左に入って行きます。その先左手に大谷会館があります。
八幡製鐵所の厚生施設の会館として、1927(昭和2)年に完成したアールデコ調の建物です。鉄筋コンクリ―ト2階建て、地下1階です。今は市民を対象に、結婚式場や会合に幅広く利用されています。
大谷会館の奥、大谷球場の裏手は広場になっています。11月の起業祭の会場になります。通常は駐車場として使われています。奥に見えるのは都市高速の高架橋です。その前に見えるのは広場より一段高い所のある八幡製鐵所の大谷体育館が建っています。
起業祭については、「北九州の催事」の「起業祭」をご覧ください。
   
広場の中を通り、大谷体育館の前の坂道を上って行くと、左手は都市高速大谷出入口の螺旋形高架橋の橋脚が林立しています。ここにはかって八幡製鐵所の貯水池、大谷池がありました。その後、池は埋立てられ、1956(昭和31)年、先代の大谷体育館が建てられました。  
   
螺旋形高架橋の橋脚が林立している所の手前の道路から、西側斜面を昇って行く階段があります。そこを昇った所からの北側の眺めです。左に大谷球場があり、右に大谷会館が見えます。大谷球場は、1928(昭和3)年八幡製鐵所によって建設されました。八幡製鐵所と国鉄の門司鉄道管理局との間の製門戦は長く続いた定期戦でした。2003年の都市対抗を最後に、社会人野球の新日鉄八幡は廃部になりました。現在も大谷球場は、高校野球をはじめ、多くの野球の試合に使われています。一番手前の駐車場は一段高い所にある大谷体育館の駐車場です。
   
階段の先を更に奥に進むと、殉職弔魂碑が建っています。白仁武官営製鐵所長官の書で、1921(大正10)年に建てられています。  
   
螺旋形高架橋の橋脚が林立している場所の横の道路を、西に進みますと交差点に出ます。そこを左折すると、すぐ左手に鳥居が見えます。都市高速の高架橋のすぐ横下の位置になります。奥に菅原神社の小さな社があります。菅原道真が大宰府に下向中、後程訪れますが、影見池(かげみいけ)で休憩しますが、左大臣藤原時平の放った追っ手の難を避けるため、山手の丘に身を隠したと伝えられています。後、その地に菅公の遺徳をしのび、村人が祠を建立しました。このため、この菅原神社は、災難除けに霊験あらたかと伝えられています。この付近の天神町の地名はこの神社に由来します。
   
菅原神社の横の道の正面には標高622mの皿倉山が見えます。道の突き当りを左に行くと、都市高速の大谷出入口になります。右に行くと、帆柱方面へ行き、皿倉山の麓になります。山手線の南で、この道路の右、西は天神町です。かって、突き当たりを右に行くと、天神小学校がありました。現在は平原(ひらばる)小学校と統合されて皿倉小学校になり、平原小学校の場所にあります。天神小学校の跡地は住宅地になっています。
この道路の先で右側、西側に平行して通っている道路に入って行きます。
 
   
菅原神社の横の道から西側に平行して通っている道路に入って行きますと、正面の道路より一段高い所にあるのが八幡製鐵所の鬼ヶ原配水場です。河内貯水池からここに送水されます。河内貯水池については「北九州のみどころ」の「河内貯水池」をご覧ください。

現在の天神町に、1901(明治34)年の官営製鉄所の創業当初から門田官舎と鬼ヶ原官舎がありました。鬼ヶ原官舎には、お雇い外国人が住んでいました。現在の高見に官舎が建設されるのは、この後になります。そして構内にあった稲光官舎は門田に移されました。
高見の官舎については、「八幡のまちかど」の「高見」をご覧ください。
   
鬼ヶ原配水場の横の道を北に行くと、山手線に出ます。山手線の北側は春の町です。その天神町交差点を更に北に進みます。最初の交差点を左折します。春の町と尾倉の境に来ました。左手の階段を降りて行くと道路の下にも道路があります。  
   
下の道に降りました。これは、1891(明治24)年開通した九州鉄道の尾倉橋梁です。上の道路は、当時は、鉄道だったのです。この沿線一帯は鉄町と称されていました。
現在の鹿児島本線は九州鉄道によって建設され、1891(明治24)年4月、黒崎−門司間が開通しました。しかし、その時の黒崎−小倉間は、現在の海岸沿いではなく、内陸部を通る、大蔵を経由するルートでした。内陸ルートにしたのは、現在の海岸ルートにすると、距離は長くなるし、戦時に敵の艦砲射撃を受けやすいという理由でした。
   
九州鉄道尾倉橋梁の内部の側面です。
1897(明治30)年、八幡村に官営製鐵所が開所し、戸畑村では築港が行われており、海岸ルートの要望が高くなりました。1902(明治35)年12月、海岸ルートは開通します。九州鉄道は1907(明治40)年国有化されます。海岸ルートは複線化されますが、内陸ルートは1911(明治44)年廃線となりました。
 
   
上の道路を更に西進しますと、大きな道路に出ます。そこの尾倉3丁目交差点を右折して、北に進みます。県道50号八幡・戸畑線との尾倉交差点に出ます。そこを直進し、次の西本町交差点を右折します。次の国道3号線の交差点の手前の左手に、この赤レンガの建物があります。旧百三十銀行八幡支店です。辰野金吾の設計で、1915(大正4)年に建てられた、実は鉄筋コンリート造りです。1993(平成5)年、ギャラリーに生まれ変わり、現代美術を発信する市民の拠点になっています。
百三十銀行は大阪を本店とする銀行でした。当時、西本町は八幡製鐵所の南門前の人々の往来の多い場所でした。その後、銀行合同があり、1939(昭和14)年まで安田銀行八幡支店として使用されました。戦後、財閥解体により安田銀行は富士銀行になります。
戦後、復興道路(国道3号線)の建設のため、建築場所から南西に80m曳き家工事をして、現在地に移動しました。戦後、八幡市の所有となり、1986(昭和61)年、北九州市の文化財に指定されました。その後、修理工事が行われ、1993(平成5)年、貸ギャラリーに生まれ変わりました。
   
西本町1丁目交差点を右折して、国道3号線を東進します。次の春の町4丁目交差点を右折し、次の交差点を右折すると、豊山八幡神社の鳥居がみえます。その手前左手南側に菅公御手洗之池があります。菅原道真が大宰府に赴く途中、この池に姿を映して、無念の気持ちを歌に詠んだということで、影見池、姿見池と呼ばれました。その歌は次の通りです。
海ならず たたへる水の 底までも 清き心は 月ぞ照らさむ
その昔、この水は豊山八幡神社の飲み水に使われたとのことです。
 
   
豊山八幡神社の鳥居です。神社に伝わる由緒によりますと、朝鮮出兵の後、神功皇后は宇美で応神天皇を出産され、この地に行幸された際、岡県主熊鰐(おかのあがたぬしくまわに)が御衣を献上します。喜んだ神功皇后は弓矢をこの山に納め、世の中が豊かになるように祈り、豊山(ゆたかやま)と名付けたと伝えられています。
   
豊山八幡神社の社殿です。1930(昭和5)年に建築されたものです。
飛鳥時代の推古天皇の世(593-628)に、八幡大神の神託があったため、現在の西本町に八幡大神を祭ります。平安時代の光孝天皇の世(884-887)に神託があり、現在地の遷され、神殿が建立されました。
 
   
社殿に掲げられた額です。小倉(おぐら)荘の守護神は豊山八幡神社でした。1593(文禄2)年枝光村に、1667(寛文7)年大蔵村に勧請されます。1889(明治22)年、枝光・大蔵・尾倉の三村が合併して八幡村になりました。三村に八幡神社があることから、八幡になったといわれています。豊山八幡神社は八幡の地名の発祥の地ということができます。
   
国道3号線の春の町4丁目交差点に戻り東進します。次の春の町5丁目交差点の手前に横断歩道橋が架かっています。その上からの眺めです。春の町5丁目交差点の先左手、北側にパチンコ店の位置に旧八幡駅はありました。戦後復興計画として幹線街路が計画され、八幡駅の移転と駅前街路の整備、通過交通のための幅員30mの上本町・西前田線(通称復興道路)の新設がその復興計画の中心事業でした。この国道はその時の復興道路で、八幡駅は西側の西本町に1955(昭和30)年に移転開業しました。八幡駅前広場は復興道路と立体交差するように、復興道路は地下道化されました。昭和40年代初め戸畑バイパスが完成し、国道3号線と中央で接続し、八幡東区中央から小倉北区上到津は戸畑バイパスが国道3号線になりました。  
   
国道3号線の春の町5丁目交差点を右折して南に行きますと、県道50号八幡・戸畑線に出ます。その途中の右手に済生会八幡総合病院があります。県道との春の町交差点を左折して県道を東進します。右手に製鉄記念八幡病院があります。総合病院が隣接してあります。製鉄記念八幡病院は官営製鐵所操業当初から、従業員や家族のための事業所付属病院は発足していました。創業時は構内の診療所でしたが、1908(明治41)年現在地に病院を建設しました。現在は一般開放され、地域の中核病院としての役割を果たしています。
更に県道を東に行きますと、最初の中央区商店街の前に出ます。


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