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羽衣町・勝山・景勝町    八幡東区  [2014/03/01]
 

 
皿倉山の東から北東の麓を板櫃川が流れます。下流では到津を経て、日明で海に流れ込みます。到津が転化して板櫃とも、その逆ともいわれますが、同根の地名です。さて、板櫃川の上流を地元では大蔵川と呼びます。その谷間が大蔵です。かっての大蔵は広い地域でした。江戸時代の大蔵村には、板櫃川の源流に当たる中河内村や田代村、一つ東側の谷を流れる支流の槻田川の上流の中尾村、その源流の猪倉村が枝村になっていました。大蔵の地名のくらは谷間を指し、大渓谷を意味するのではないかといわれていますが、次のような話もあります。

勝山勝田神社の祭神の一神に大倉彦がいます。大倉彦は大倉主の子孫といわれています。熊襲征伐に仲哀天皇と神功皇后が西下した際、仲哀天皇の船は響灘から岡浦(遠賀川の河口部、古代は入江のようになっていました)に入って来ますが、そこで船は進めなくなります。水先案内を務めていた崗県主(おかのあがたぬし)の先祖熊鰐(くまわに)は、この浦のほとりの男女二神のせいだと言います。この二神が大倉主と菟夫羅媛(つぶらひめ)で、そこでお祓いをすると、船は前進し、岡浦から上陸できました。この二神を祭っているのが岡垣町の高倉神社と芦屋町の岡湊神社です。大倉主は古代遠賀郡から企救郡にかけての北部九州を支配していた地方豪族と思われます。古代、大蔵谷を大倉彦が支配していました。大蔵は大倉彦に因んだ地名ともいわれています。

神功皇后が朝鮮出兵の際、勝山勝田神社の背後の勝田山の竹を旗竿にしました。帰朝後、勝利したため、この山を勝山と名付けたと伝えられています。勝山の地名はこの故事に由来します。板櫃川(大蔵川)の対岸に、江戸時代の1662(寛文2)年、豊山八幡神社から産土神として招請したのが乳山(ちやま)八幡神社です。乳山八幡神社がある乳山は、神功皇后が皇子(後の応神天皇)に乳を与えた地といわれています。豊山八幡神社が尾倉村の、枝光八幡神社が枝光村の、乳山八幡神社が大蔵村の八幡神社です。三村に八幡神社があることから、1889(明治22)年の三村合併に際し、八幡村と名付けられました。

かっての大蔵は広大な地域で、現町名の羽衣町・勝山・景勝町はその一部に当たります。現町名でいえば、大蔵川の左岸の下流が大蔵で、上流が景勝町です。右岸は下流から羽衣町、勝山になります。景勝町の県道62号線北九州・小竹線から山手の傾斜地に、大正期に開園された桜の名所の景勝園がありましたが、戦後廃園となり、現在は住宅地になっています。景勝町はこの景勝園から付けられた町名です。
県道62号線北九州・小竹線は、旧電車通りを通り、板櫃川(大蔵川)に架かっている両国橋の手前を南に曲がり、川沿いに山手に進みます。両国橋の上流に大蔵橋、神田橋が架かっています。神田橋の手前からの眺めですが、左の橋の対岸の坂道に進みます。神田橋は狭いので、すぐ下流の大蔵橋を渡ります。橋の手前は大蔵で、羽衣町に渡ってすぐに右折し、坂道を上って行きます。
   
道路は狭かったのですが、一部拡幅されています。急な坂道になります。右手のこんもりした頂上付近が勝田公園です。その右側にアンテナの鉄塔が立っていますので、それを目標に上って行きます。  
   
左手から上って来ました。道は三叉路になっています。左折すると、このアンテナの鉄塔の側の道が勝田公園の入口になります。この先に進むと、左手にトイレがあり、その先からは車両は進入禁止になります。
   
車両進入禁止の所から南西方向の眺めです。標高622mの皿倉山北東山麓に景勝町の家並が見えます。右下の高層の建物は勝山北団地です。
かっての大蔵や現在の大蔵については、「八幡のまちかど」の「大蔵」をご覧ください。
 
   
 同じ場所から北方向の眺めです。左上の山は若松です。その下に見える緑と工場は、新日鐵住金八幡製鐵所八幡の洞岡(くきおか)地区で、その右の洞海湾の反対側は戸畑区牧山です。洞岡の下は洞海湾の新日鐵住金八幡泊地です。その海岸の下、左側の観覧車付近が東田のスペースワールドです。その右は枝光です。スペースワールドの下の緑は高炉台公園です。更に手前の緑は、大蔵川対岸の大蔵にある乳山(ちやま)八幡神社の森です。
勝田公園は、大蔵川右岸の北東から南西にかけての丘陵上にある細長い公園です。この辺りで一番高い所に勝田公園はあります。羽衣町ですが、東の中尾と西の勝山に隣接しています。
   
勝田公園を南から北に進みます。途中に遊具があります。  
   
勝田公園の林の中を進んで行きますと、北端は広場になっています。その勝田公園広場の北側に、丸太で組まれた展望台と国旗掲揚台があります。
   
展望台から北西方向の眺望です。遠くの若松の山で一番高いのは、標高302mの石峰山です。その下が洞海湾で、更にその下が新日鐵八幡泊地です。中央にスペースワールドがあり、その下に高炉台公園があります。その手前左端は乳山(ちやま)八幡神社の森で、その横に乳山幼稚園とマンションが見えます。
展望台の右手国旗掲揚台から北東方向の眺望です。手前は八幡東区の祝町、高見で、その先の帯状の緑の丘陵地は、八幡東区・戸畑区・小倉北区の境界にある中央緑地及び中央公園です。その先は小倉北区の西部で、その先の海は関門海峡の西側です。その先の島は下関市彦島で、一番先の山並みは本州下関市です。関門海峡の関門橋は右上付近にかすかに見えます。
国旗掲揚台から東方向の眺望です。手前左手の家並は八幡東区東部になります。遠くの右の高い山は、小倉北区と小倉南区の境界にある標高597.8mの足立山です。その麓に見えるのは、小倉北区の家並です。左の高い山は、門司区の標高581mの戸ノ上山です。
大蔵橋に戻り、橋を渡って交差点を左折して県道62号北九州・小竹線を河内方面に進みます。途中で今いた左手の川向こうを見ます。山上の森が勝田公園で、左の方に坂道が見えます。傾斜地の家並は羽衣町です。手前に板櫃川(大蔵川)が流れています。  
   
前の南側です。勝田公園のアンテナの鉄塔が左上に見えます。その麓に右側の大蔵小学校があります。次の交差点は大蔵小学校下です。そこを左折して勝田橋を渡り、すぐ右折します。左手が大蔵小学校です。そこからは勝山です。
   
大蔵小学校は、1912(大正元)年大蔵尋常小学校として開校しました。  
   
大蔵小学校の前の板櫃川(大蔵川)には、せせらぎや水車が作られ、川の水に親しむように整備されています。
   
その先に皿倉山が見えます。ここは皿倉山の北東の谷間になります。  
   
大蔵小学校の東側の裏手の通りです。大蔵小学校の後の山手に勝山勝田神社はあります。
   
大蔵小学校の後の通りの中間付近に、勝山勝田神社の鳥居が立っています。  
   
鳥居の先を進むと、石段の先に拝殿があり、その左に本殿が並んでいるのが見えます。神功皇后が朝鮮出兵の際、この神社の背後の山の竹を旗竿にしました。帰朝後、勝利したため、この山を勝山と名付けたと伝えられています。
   
拝殿の前に来ました。祭神は山の神と武運の神2神の3神が主神です。他に大倉彦を始めに多くの神々が合祀されています。  
   
大蔵小学校の前の道路を南西に進んで行くと、市営の勝山北団地に着きます。川沿いは高層で、その前に低層の集合住宅が建っています。
ここは八幡高校の跡地です。団地入口の左手に「創立の地」の石碑が立っています。1971年(昭和46年)まで八幡高校、そして、1919(大正8)年創立の前身の旧制八幡中学がここにありました。現在、八幡高校は八幡東区清田に移転しています。
   
勝山北団地入口前の道路を左折して、敷地の外周を回り、団地の背後の橋を渡った所に溝上酒造はあります。ここから景勝町です。溝上酒造では皿倉山の伏流水で、清酒「天心」他が醸造されています。1931(昭和6)年、溝上酒造は、皿倉山の麓のこの地に、酒造りの命である清らかな水を求めてやって来ました。創業は1844(弘化元)年で、現在の大分県中津市でした。毎年2月に蔵開きが行われます。その様子は後程紹介します。  
   
溝上酒造は、河内方面への県道62号北九州・小竹線の勝山バス停から川沿いに入った所にあります。溝上酒造の前を右折すると、県道に出ますので、左折して河内の方に進みます。次のバス停は景勝園です。景勝園はありませんが、バス停には今もその名が使われています。以前、県道から山手の傾斜地に桜の名所の景勝園がありました。現在はこの様に住宅地になっています。
   
溝上酒造では、毎年2月の土・日曜日に蔵開きが行われます。南側にある入口が開放されます。色々な食品業者の出店も出ています。
溝上酒造の公式ホームページは、下記の通りです。
 http://www.sake-tenshin.co.jp/
 
   
横断幕の手前の左の倉庫で、粕汁と甘酒が振舞われていました。奥の右手の倉庫では、新酒の試飲ができます。そこで新酒の即売を行っています。新酒の時しか飲めない酒もあります。
   
蔵開きの折には、操業してませんが、酒造工場の中を見学することができます。横断幕のすぐ先の左手の階段を2階に昇って行きますと、醪(もろみ)室があります。  
   
3階には麹室(こうじむろ)があります。


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