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桃園     八幡東区  [2015/06/06]

 
桃園は八幡東区の北西部に位置し、その西隣は八幡西区になります。桃園の西側と南側は主に公園で、東側は戸建て住宅とマンションが建つ住宅地です。桃園公園は戦前に用地が買収され、戦後運動公園として計画され、完成しました。住宅地には、戦後八幡製鐵所の社宅として建てられた、鉄筋4階建てのアパート群が建ち並んでいました。現在は1棟もありません。

江戸時代、長崎街道が桃園の北側、現在の前田を通っていました。その当時桃園は前田村に含まれていました。西隣は藤田村でした。1889(明治22)年鳴水・熊手・藤田・前田の4村が合併して遠賀郡黒崎村になり、旧村は大字になりました。1897(明治30)年黒崎村は黒崎町になりました。1917(大正6)年黒崎町は八幡市に編入されました。

古代、大宰府に通じる重要な道路が桃園の南を通っていました。古代の道路は、7世紀の飛鳥時代から計画的に整備され、奈良時代701年の大宝律令の完成により、詳細に規定されたと思われます。当時は、大宰府への山陽道が最重要道路で、山陽道を含む七道がそれぞれの国の政庁がある国衙と国衙を結ぶ幹線官道でした。官道は計画的に直線でつくられたといわれています。途中には、後の宿場に当たる駅家(うまや)が置かれました。

大宰府官道は久爾(くに、福岡市博多区)-夷守(はなもり、福岡市東区)-席打(むしろうち、古賀市)-津日(つひ、宗像市)-島門(しまと、遠賀町)-夜久(やく、八幡西区上津役)-独見(ひとみ、八幡東区前田)-到津(いたむつ、小倉北区到津)-杜碕(もりさき、門司区田野浦)に駅家があり、杜碕で関門海峡を渡って山陽道に入りました。ここは夜久と独見の間になります。北九州市内に4駅ありますが、場所が特定された訳ではありません。独見についても、その場所は現在の前田とも尾倉ともいわれています。

江戸時代に入って黒崎宿が開かれるまで、桃園の南の古道が使われました。東から尾倉、前田、隈崎(仰星学園高校付近)、鳴水を通って、現在の幸神に到るルートでした。中世、この古道の南に花尾山があり、そこに築かれた花尾城を居城とする麻生氏は、洞海湾に接する現在の北九州市の半分を含む遠賀郡を領有する豪族でした。

戦前より、北の電車通りから南の山手線にかけては桃園町と呼ばれていました。1939(昭和14)年ここを八幡市の都市計画事業の記念公園として用地買収が行われました。しかし、戦時中は整地工事は中断されました。戦後は戦災復興による公園事業の一環で、運動公園として計画が決定され、1948(昭和23)年桃園球場、陸上競技場が開設されました。1950(昭和25)年新たに用地が買い増され、国庫補助を受けて桃園公園は整備されました。現在の公園面積は17.3haになります。

戦後の日本の生産や輸送は麻痺状態でした。1947(昭和22)年1月石炭と鉄鋼を最重要産業に指定し、石炭を増産して鉄鋼に配炭し、鉄鋼を増産して炭鉱に鋼材を供給し、その相互作用で増産の効果を加速させるという傾斜生産が採られました。GHQ(連合国総司令部)は、日本の戦争遂行能力を排除し、経済の民主化のために、財閥の解体を命令し、独占禁止法と集中排除法を制定しました。日本製鐵は集中排除法の対象になり、1950(昭和25)年4月八幡製鐵と富士製鐵に分割されました。戦後日本の鉄鋼業は合理化を進めましたが、需要の伸びは暗いものでした。しかし、1950(昭和25)年6月に勃発した朝鮮戦争(1953年7月休戦)により、戦争に伴う特需と共に、世界的な需要の増大により活況に転じました。

八幡製鐵所では、戦時中の社宅等の住宅の撤去、強制疎開があり、空襲により多くの社宅が焼失しました。戦後、戦災を受けた従業員や家族がいて、生産復興により従業員が増加し、住宅事情は深刻になりました。それに対応して、応急的な木造戦災復興小住宅が建設されました。これに続いて、1950(昭和25)年より住宅金融公庫の融資を受け、桃園・平野の鉄筋4階建てアパート、岸の浦地区の社宅団地の建設が行われました。

八幡製鐵所に近いこの一帯は、戦時中の空襲で焼失しました。戦後正式に桃園町となり、復興の区画整理と同時に、八幡製鐵所が社宅用地として取得し、1950(昭和25)年より鉄筋4階建てのアパートが建設されました。1969(昭和44)年桃園と町名変更され、現在は、社宅敷地は戸建て住宅やマンションの住宅地、店舗用地に変わりました。
国道3号線の桃園2丁目交差点です。
   
北の国道3号線の桃園2丁目交差点から南の桃園球場に到る道路で、中央分離帯にワシントン椰子が並んでいます。戦後復興期に植えられました。この道路は、桃園の中央を南北に通り、概ね左手が住宅で、右手と奥が公園です。  
   
次の信号機から右折し、桃園公園に入って行きます。
   
桃園公園に入って行きますと、ロータリーになっていて、正面の階段の先は市民プールになっています。左手に桃園公園は広がっていて、隣に駐車場があります。
市民プールの入口です。屋内と屋外プールがあり、屋外プールは7・8月開館します。  
   
ロータリーを左折し、南に進みます。左手に駐車場があり、その先にテニスコートがあります。
   
右手は小高くなって、一段高い所に、児童文化科学館があります。右の丸い屋根はプラネタリウムです。
児童文化科学館の南はわんぱく広場といいます。そこに蒸気機関車が展示されています。1939(昭和14)年に製造されたD51で、33年間運転されました。  
   
D51の横には、ブルドーザなどの重機が展示されています。
   
D51の南側には遊具があります。
左手の低い所にテニスコートが南北に並んでいます。その南端の先に標高622mの皿倉山が見えます。わんぱく広場とテニスコートの先は市道山手線です。
皿倉山については、「北九州もみどころ」の「皿倉山」をご覧下さい。
桃園公園に入って来た交差点まで戻り、南に向かいます。道沿いの空地や一段高い戸建て住宅が建っている所にも、鉄筋アパートが建っていました。  
   
4階建て鉄筋アパートが建っていた頃の様子です。2009月3月25日に撮影しました。
   
南北の道路は、桃園球場前交差点で東西の市道山手線と交差します。その手前の鉄筋アパートが建っていた道沿いは、ロードサイドショップが建ち並んでいます。  
   
山手線の南は桃園公園になります。桃園球場前交差点を北に入ると、すぐ左手が桃園球場の入口になります。
桃園球場は桃園公園内の野球場で、両翼100m、センターは125mあります。
   
桃園球場の反対の西側は駐車場で、その先は桃園運動場です。  
   
桃園運動場は以前は桃園競技場と呼ばれた陸上競技場でしたが、現在はその規格にあわず、一般に使われる運動場になっています。
桃園運動場の南側に花尾中学校があります。球場と運動場の間の道を南に進み、球場の南端に交差点がありますので、右折して西に進みます。道路の右手、北側は桃園で、左手、南側は東川頭町です。先で花尾中学校の外周の道と交差します。直進しますと道路は石段になります。
   
西進した道と中学校の外周の道との交差点を左折し、南に入るとすぐの駐車場横に、細い石畳の道があります。奈良時代の官道だったといわれています。ここは東川頭町ですが、花尾中学校までが桃園です。  
   
こちら側からは、官道は下り坂です。
   
官道脇の「史跡古官道」と書かれた石碑です。山は皿倉山です。  
   
官道から見た河頭(ごうとう)山です。左の背後に花尾山が見えます。
河頭山・花尾山については、「八幡のまちかど」の「花尾山・河頭山」をご覧下さい。
更に下の官道です。
   
官道を下りた所です。右が官道で、左が現在主に使われている道で、西進した道の先になり、坂が急なので階段になっています。  
   
桃園球場前交差点に戻り、山手線を東に行き、すぐ左に入ります。南北の道路から見えた、一段高い所にあった戸建て住宅です。
   
山手線の北側には、戸建て住宅が建ち並んでいます。  
   
一旦山手線に出て、平野市民センター前交差点を左折し、北に進みます。通りの左側が桃園で、右手は祇園です。
   
右手に公園があり、その右奥に花尾小学校があります。  
   
公園の北の道路沿いに前田市民センターがあります。ここまで通りの右手は祇園で、左手は桃園です。
   
前田市民センターの先の桃園1丁目交差点で左折します。この通りを西に進みますと、左手の桃園アパートの跡にはマンションが建っています。右手は前田です。先に行くとスタートの国道3号線の桃園2丁目交差点に戻ります。
前田・祇園については「北九州点描」の「前田・祇園」をご覧下さい。
 


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