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前田・祇園   八幡東区   [2016/08/06]
 

 
江戸時代から明治20年頃までの村は、大字として地名に残っていました。大字前田の東隣は尾倉で、西隣は藤田でした。その当時の前田は、現在の平野や西本町が東端で、桃園が西端でした。江戸時代から1889(明治22)年まで前田村で、1889(明治22)年鳴水・熊手・藤田・前田の4村が合併して黒崎村になり、黒崎村は1897(明治30)年黒崎町になりました。1916(大正5)年黒崎町の前田だけが八幡町に編入されました。翌年の1917(大正6)年八幡町は八幡市になりました。1926(大正15)年黒崎町は八幡市に編入され、その後も折尾・香月・木屋瀬が八幡市に編入されました。1963(昭和38)年五市合併で北九州市が誕生し、市内の住居表示が実施され、その後小倉が南北、八幡が東西の区に分割されました。ここで取り上げる前田・祇園はかっての前田の範囲からいうと、中央部に当たります。前田はその中の北側で、祇園は南側になります。更に南側の山手が祇園原町です。

豊臣秀吉が九州平定の折、ここに前田軍が陣立てした所で、前田の地名はそこから付いたといわれています。祇園の地名は八束髪(やっかひげ)神社の旧名の祇園社からといわれています。髪はかみでなく、ひげと呼びます。前田祇園は、仲宿(なかやど)八幡神社に合祀された八束髪(やっかひげ)神社の祭礼です。

祇園祭の起源についてみてみます。794(延暦13)年平安京に遷都されます。863(貞観5)年神泉苑で御霊会(ごりょうえ)が行われました。疫病で亡くなった天皇や親王の怨霊を慰め、祟りを逃れるための法会・祭礼でした。869(貞観11)年全国に流行った疫病を鎮めるため、諸国の数の66本の鉾を立てて牛頭天王(ごずてんのう)を祀って、神泉苑で御霊会を行いました。牛頭天王は祇園精舎(釈迦が説法するためにつくられた僧園と寺院)の守護神で、神仏習合では、素盞鳴命(すさのうのみこと)と同一とされます。神仏習合は、平安時代以降日本の神と仏教信仰を融合・調和させる説で、神々は仏が化身して現れたという本地垂迹説や、その後その反対の説も出てきます。

京都の八坂神社は、1868(慶応4、明治元)年神仏分離令以前は祇園社と呼ばれました。神仏分離令により廃仏毀釈(仏教排除、仏像・仏具破壊)が広く行われました。祇園社の創建ははっきりしませんが、930年代までには牛頭天王を祭神として創建されていたと思われます。度重なる疫病の流行があり、祇園御霊会が発展し、祇園社の祭礼は、970(天禄元)年からは官祭(朝廷が国家行事として主催する祭り)として、毎年行われるようになりました。室町時代になると、商工業である町衆の自治組織が成立し、町毎に山鉾を作って巡行させるようになりました。

現在の遠賀郡に北九州市八幡東区・八幡西区・戸畑区・若松区、中間市をも含む当時の遠賀郡を治めた麻生氏は、鎌倉時代の1205(元久2)年、疫病退散・五穀豊穣を願って祇園会を行ったと伝えられています。南北朝時代に、麻生氏は花尾城を築城し、幕府との関係も深くなりました。室町時代になると、幕府奉公衆になって更に幕府との関係を深めました。室町時代初め、麻生氏は花尾城下の祇園原に、京都から祇園神を勧請し、祇園社を建立し、祇園会を行いました。この祇園社が八束髪神社です。

1478(文明10)年、麻生家延は挙兵し、家延が立て籠る花尾城は大内政弘の軍に攻められました。家延は敗れますが、和睦の結果、岡ノ庄(現在の遠賀郡岡垣町)が与えられました。前田の盆踊はこの戦いの戦死者を供養するため、その子孫や村人が明応年間(1492-1501)に踊り始めたのが起源といわれています。江戸時代から明治にかけて盛んだった地方歌舞伎の芦屋歌舞伎や植木歌舞伎の影響を受けた遠賀川流域系盆踊の一つです。

八束髪神社から西に行った所が、鳥野原といわれていた所です。そこに鳥野春日神社がありました。奈良の春日大社は藤原氏の氏神です。鳥野春日神社は藤原氏の流れの麻生氏の氏神でした。麻生氏が筑後に移され、花尾城が廃城になると、春日神社は廃れ、一時上ノ名(現在の桃園4町目の桃園運動場から南西の清納1丁目にかけて)に移されていました。江戸時代になり黒崎城の築城に際し、藤田・鳴水村の氏神として移され、春日神社になっています。春日神社は藤原氏の流れの藩主黒田氏に崇敬されました。黒崎城主の井上周防之房は藩祖を祀ることを進言し、黒田如水・長政が祀られました。江戸時代初め、春日神社は祇園原の祇園社を勧請しました。このため、黒崎祇園の発祥は祇園原だといわれています。

神功皇后はこの地で中宿りし、豊山宮を造られたといわれています。1648(慶安元)年、仲宿(なかやど)八幡宮は、その豊山八幡神社(八幡東区春の町4町目)から分霊されました。また、1949(昭和24)年八束髪神社の神霊が合祀されています。仲宿八幡宮の境内には牛守神社があります。これは、製鐵所構内の前田海岸の和井田権現と、台良(だいら)にあった牛守宮を合祀したものです。

前田には、お小夜・狭吾七(さごしち)の悲しい話が残されています。豊前国下毛郡に、早死した庄屋の父の跡を継いだ狭吾七という若者がいました。増税に対し、農民の窮状を訴えたため、役人の追手を受けるようになりました。狭吾七が筑前国遠賀郡前田村に身を隠した頃、巡礼途中この地に身を寄せていた、美しい娘のお小夜がいました。同じような境遇の二人は恋仲になりました。これを快く思わない村の若者達が、八幡宮の祭礼の夜、狭吾七を連れ出し、牛にひかせ、松の木に縛り、ついには火をつけて焼き殺してしまいました。これを悲しんだお小夜は狭吾七の跡を追いました。この後、前田村には火事や牛が死ぬといった災難が多発するようになりました。牛守神社はこの辺りで多発した火事や、災難を鎮めるため祀られました。また、恋の結び神にもなっています。

1874(明治7)年、祇園原に日蓮宗祇園山龍潜寺は日諦(にったい)上人により開山されました。そのため、この付近の人達は、龍潜寺を「にったいさん」と親しみを込めて呼んでいました。山門の右横に幾つかの石碑があります。その中の一つが、ドイツ人カール・キヨラーの墓石です。ずっと奥の、草に覆われた所にあった墓をここに移設したとのことです。

八幡で官営製鐵所が操業を始めるのは、1901(明治34)年11月18日です。当時我国では、近代製鉄設備の操業には不慣れで、外国の技術に依存するしかありませんでした。技師3人と職工長の計約20名のドイツ人が雇われました。ドイツ人技師は、自分の経験だけを押し付け、言論上の問題もあり、成果をあげることができませんでした。創業時の作業は、ドイツ人職工長の協力の下、主に日本人技術者の努力で行われました。これらドイツ人は明治35から37年にかけて雇用は解約されました。職工長の一人カール・キヨラーは、帰国直前の1904(明治37)年9月、病死しました。

前田は官営八幡製鐵所が近いため、創業時から前田職工宿舎が建設されました。八幡製鐵所が規模を拡大するにつれ、従業員は増えていきました。北九州は工業地帯でしたので、戦時中は何度も米軍の空襲を受けました。八幡では八幡製鐵所は当然、中央町から西八幡まで市街地が被害を受け、前田社宅、平野社宅も被災しました。戦後は復興のために八幡製鐵所の生産が期待されました。従業員が被災したり、増員のため、社宅が早急に必要でした。木造社宅を古材も使って建設されました。平野社宅もその1つでした。

戦後5年の1950(昭和25)年からは、鉄筋コンクリートの大規模な社宅群が建設されました。そのうちの2つが前田の東と西に建設されました。東に平野社宅と西に桃園社宅でした。しかし、他にも製鐵所が建設され、更に生産の近代化が進められ、八幡に於ける従業員数が減って行く中で、平野社宅と桃園社宅は撤去されました。現在、平野は主に九州国際大学のキャンパスに、桃園は戸建ての住宅地に変身しています。
祭礼の1週間前の日曜日の午前、旗笹山笠が仲宿八幡宮に向かいます。これは一番山笠です。明治中期まで前田祇園では旗笹山笠だけでした。台車の上は杉勾欄(すぎこうらん)で飾られています。その上には笹が立てられ、その周りに八色の旗が立てられています。杉勾欄の下に水引と注連縄(しめなわ)が張られ、四隅に藁梵天が下げられています。
   
これは二番山笠です。祭礼がおこなわれる1週間前に、お潮井とりを行い、旗笹山笠が仲宿八幡宮に宮入します。その後旗笹山笠は町内を巡行します。
前田祇園は7月第3月曜(海の日)を最終日とする3日間行われます。1日目までに、前田祇園山笠の笹山笠は飾山笠に変身します。神事の後、飾山笠は町内を巡行し、1日目の前日祭の夜は、飾山笠の電飾が点灯されて巡行します。
 
   
2日目は当日祭です。午前、飾山笠は仲宿八幡宮に宮入します。本宮山笠です。
   
仲宿八幡宮に宮入した飾山笠です。左から一番山笠、二番山笠、本宮山笠です。
前田祇園山笠については、下の前田祇園山笠保存会の公式サイトをご覧ください。
 http://www.maedagion.jp/
仲宿八幡宮で出発式があります。神職のお祓いを受け、出発の太鼓の奉納があって、御神幸が始まります。  
   
神輿が仲宿八幡宮から旧八束髪神社跡地のお旅所に向かいます。
   
宮入した飾山笠は、御神幸に随伴します。
二番山笠
 
   
二番山笠
   
本宮山笠  
   
本宮山笠
   
 一番山笠  
   
一番山笠
お旅所に向かう神輿に従った後、飾山笠は各町内を巡行します。
   
3日目は後日祭です。前田祇園山笠は、2001(平成13)年に北九州市無形民俗文化財に指定されました。桃園1丁目交差点から前田1丁目交差点までは車両の通行が止められ、「まえだぎおん山笠通り」と命名されて会場になりました。
左が一番山笠で、右は二番山笠です。
左に二番山笠の一部が見え、右は本宮山笠です。
後日祭の夕方からはイベントがあり、太鼓競演会があります。前田祇園山笠の祇園囃子は、大太鼓・小太鼓・鉦が使われます。本宮・一番・二番山笠から子供と大人の部に3人1組が参加して競います。  
   
太鼓競演会が終わると、前田祇園のフィナーレの飾山笠競演会が始まります。
山笠の最も激しい動きが回しです。かき棒の先端の人が跳ね飛ばされるほど激しいものです。
本宮山笠
   
一番山笠  
   
二番山笠
   
今年の前田祇園も終わりが近づきました。
この地区の主な道は、東西に4本、南北に2本通っています。東西の4本は、北から国道3号線、旧電車通りの県道50号八幡・戸畑線、その南側を通る市立八幡病院前の通り、一番南側の市道山手線です。南北の2本は、東側がさくら通り、西側が祇園と桃園の間の通りです。前田の産土神の仲宿(なかやど)八幡宮は、山手線から少し北に入った所にあります。神社には南、東、北に鳥居が建っています。北側に一番大きな鳥居が建っています。  
   
仲宿八幡宮の本殿・拝殿は北側に向いています。
前田祇園の旗笹山笠は、この地域の山笠の初期の形式を残す祭礼行事として貴重であり、長年地域の人々によって伝えられているとして、前田祇園山笠行事は、2001(平成13)年北九州市無形民俗文化財に指定されました。仲宿八幡宮の拝殿横に、その旨の石碑が立てられています。
   
仲宿八幡宮の境内には牛守神社があります。製鐵所構内の前田海岸の和井田権現と、台良(だいら)にあった牛守宮を合祀したものです。  
   
仲宿八幡宮の北側の鳥居から、少し北に来た所に前田観音堂があります。花尾城主の麻生氏が観世音菩薩を祀ったのがその起源といわれています。お小夜・狭吾七のお小夜がここに逗留していました。狭吾七は実際は沢七といいます。お小夜・沢七の霊を弔うため、その位牌が安置されています。毎月24日には、祀られている菩薩や地蔵尊、お小夜・沢七の供養の祭りが行われています。また、8月24日の地蔵盆(旧暦7月24日が地蔵の縁日で、盆祭の最終日であったので、こう呼ばれます)には前田の盆踊が奉納されます。大番笠の下に地方(じかた、演奏する人)・地謡(じうたい、唄う人)がいて、その周りを輪になって踊ります。市内に残っている遠賀川流域系盆踊の一形態を示すものとして、長年地域の人々に伝承されてきたとして、北九州市無形民俗文化財に指定されています。
   
前田観音堂の脇に沢七の墓があります。豊前下毛郡跡田村の沢七は、1784(天明4)年8月20日に亡くなりました。現在の桃園に葬られ、自然石を置いて墓石にしていました。長年放置されていたため、無縁仏のようになっていましたが、大正時代、お小夜が参籠した前田観音堂に改葬されました。左は、お小夜・沢七地蔵尊です。  
   
前田観音堂の前を更に北に行くと、右手に花尾小学校があります。旧前田小学校の跡に花尾小学校が新築され、2006(平成18)年4月、旧平野小学校の仮校舎から移転しました。桃園や平野のアパート群も無くなり、この地区の高齢化も進み、児童数が減ったため前田と平野小学校が統合されました。花尾小学校の左手の前は、広場のある公園になっています。その西側を祇園と桃園の境の西側の南北の通りが通っています。
   
西側の南北の通りと市立八幡病院前の通りの東西の通りが交差している桃園1丁目交差点と、東側の南北の通りとの祇園1丁目交差点の間は、「まえだぎおん山笠通り」と命名され、前田祇園3日目の競演会会場になります。
かっての前田の東側については「八幡のまちかど」の「八幡駅前」を、西側については「桃園」をご覧ください。
 
   
祇園1丁目交差点から東側の南北の通りはさくら通りと呼ばれています。この通りは平野と祇園の境になります。道路の中央分離帯に、1950~54(昭和25~29)年の桃園や平野のアパート群が建築された頃、桜が植えられました。現在ではこのように立派な桜並木になっています。
花が咲いた時の様子は、「北九州の催事」の「北九州の花見」をご覧ください。
   
さくら通りの西側に、通りに並行して祇園町銀天街のアーケードがあります。北側の入口です。2016年7月12日未明火災があり、入口右側の一角の木造2階建て8棟が全焼し、3階建て雑居ビルの一部も焼けました。軽傷の女性が1人いました。これは7月7日の撮影です。  
   
この商店街は、近くの桃園アパートや平野アパートに人が多く住み、若い町だった頃には、非常に賑わった商店街でした。北九州でも早い時期にアーケードになりました。現在は、お客も店主も老齢化し、シャッターが降りた所もありますが、地域に根付いた落ち着いた商店街です。通りを歩くと何か懐かしい感じがします。
   
南北に伸びる祇園町銀天街のアーケードの南端は市道山手線です。その南側にも商店が点在します。南に向かって、道は上り坂です。  
   
南北のさくら通りと東西の山手線が交差する祇園交差点を南に進みます。南に坂道を上って行きますと、道路の横が人工のせせらぎになっています。
   
せせらぎは平野川からポンプアップした水を流しています。流れ落ちる水の向こうの下が平野川です。皿倉山からの平野川の水を流しています。  
   
せせらぎがある通りから南側の眺めです。正面の山が標高351mの花尾山で、麻生氏の居城花尾城跡です。
花尾山については、「八幡のまちかど」の「花尾山・河頭山」をご覧ください。
   
更に南に上って行きますと、商店街に通じる道と合流します。更に上って行きますと、三叉路になり、その突き当たりに龍潜寺(りゅうせんじ)の山門があります。左の道を更に上って行き、右手の龍潜寺本堂の横に駐車場はあります。  
   
大きな山門で、向かって右に阿形(あぎょう)の仁王像、左に吽形(うんぎょう)の仁王像が立っています。製作当時の極彩色が想像されるほど、明治時代の仏像なので、彩色が残っています。
   
山門の右横に、八幡製鐵所創業時にドイツから来日し、病死して帰国できなかった職工長のカール・キヨラーの墓があります。当初の墓石は上3段であったのを、下の部分は移設の折に、新設されたようです。側面に「製品部有志者建立」と刻まれています。この地の人達は忘れずに、異国で亡くなったドイツ人技術者のお墓を今もきれいに清掃しています。  
   
龍潜寺の境内は、昔よりは狭くなったということですが、山門からは堂宇は見えません。山門から真っ直ぐに伸びた坂道を上って行きます。その先に池のある庭園があります。池の先に塀があり、その内に鐘楼が見えます。
   
鐘楼の前に龍潜寺の本堂があり、本堂に開山堂がつながり、庫裏などがあります。  
   
鐘楼の横に市の保存樹に指定されている樟(くすのき)があります。
   
龍潜寺の山門の前を西に進むと、八束髪(やっかひげ)神社の鳥居があります。祇園原の旧祇園社で、八束は八つの握り(4本指)の長さで、八束髭は非常に長い髭をさし、素盞鳴命(すさのうのみこと)の顔の様相から付けられた名で、素盞鳴命が祭神です。  
   
八束髪神社の鳥居を入ると、仲宿八幡宮に遷された八束髪神社の分霊が祀られた石祠があり、その横に「祇園本宮之趾」の石碑が立っています。江戸時代から明治にかけて尾倉・大蔵・枝光・藤田・熊手・鳴水村、明治になっては黒崎・八幡村の祇園本宮でした。太平洋戦争時の空襲で社殿は焼失し、1949(昭和24)年八束髪神社の神霊は仲宿八幡宮に遷されました。
   
八束髪神社の鳥居の前を西に行き、突き当たりの三叉路を右折すると、右手に鳥野神社があり、鳥野公民館が同居しています。祭神の天兒屋根命(あめのこやねのみこと)を祀ったのは、神武天皇の時代といわれる程古い社でしたが、花尾氏が花尾城を築城すると、他に三神が合祀されて鳥野春日神社になりました。江戸時代、鳥野春日神社は現在の八幡西区藤田に移されますが、もとの天兒屋根命を祀った鳥野神社はここにあります。鳥野神社の前は信号の無い交差点になっています。右折して進むと、桃園球場の横を通って、山手線の平野市民センター交差点に出て、直進は桃園と祇園の境の南北の通りになります。鳥野神社の前を直進すると、花尾中学校裏の奈良時代の官道だったといわれている所に出ます。
この官道については、「八幡のまちかど」の「桃園」をご覧ください。
 


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