八幡のまちかど

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堀川    
八幡西区・中間市・水巻町
  [2015/04/25]
 

 
堀川は、治水・灌漑・舟運のために、江戸時代に開削されました。北九州市八幡西区楠橋の遠賀川から、途中、中間市、遠賀郡水巻町を経由し、八幡西区本城の洞海湾に至る全長12.1kmの運河です。遠賀川は、筑豊を貫流して、北の響灘に注ぎます。筑豊は遠賀川の流域で、川筋と呼ばれる地域です。下流を除く、筑前の嘉穂郡(明治29年嘉麻郡と穂波郡が合併)と鞍手郡、豊前の田川郡が流域でした。1888(明治21)年設立の筑豊興業鉄道の社名で、旧国名の筑前と豊前から筑豊の名称が初めて使われたといわれています。なお、広義では、遠賀川下流の筑前の遠賀郡も筑豊に含まれます。

福岡藩初代藩主として、黒田長政が筑前に入国した当時、遠賀川は現在の鞍手町と中間市の間で二つに流れが分かれていました。西側は遠賀町虫生津から遠賀町を通って芦屋に流れていました。東側は下流で今の曲川の流れになって、八幡西区三ツ頭で江川と合流しました。そして二つの流れは一緒になって、遠賀川河口になりました。遠賀川が流れる遠賀平野は、豊かな穀倉地帯でした。しかし、遠賀川の河床は高く、蛇行していましたので、度々洪水の被害に見舞われました。黒田長政は、1613(慶長18)年、鞍手郡南良津(ならつ、現在小竹町)から御牧郡(後、遠賀郡)芦屋の河口までの遠賀川(当時の御牧川)の拡幅と直線化の大改修工事を始めました。この当時の遠賀川本流は、現在の鞍手町と中間市の間から底井野を通って旧西川につながっていて、西側を流れていました。

1620(元和6)年、豪雨で遠賀川流域は大変な被害を受けました。藩主黒田長政は遠賀川を視察し、洪水緩和のため、底井野付近から枝川を掘り、折尾を経て、遠賀川の水を洞海湾に流す計画を立て、翌1621(元和7)年から堀川開削工事を始めました。藩挙げての大工事で、家老栗山大膳が総責任者に就き、藩召抱えの石工が従事し、農民が夫役として動員されました。工事は、現在の中間市岩瀬、水巻町吉田を経て、八幡西区折尾の一部まで進みましたが、1623(元和9)年長政が死去し、工事は中止されました。

元和の工事では、中間村から岩瀬村までの2kmと吉田村から折尾村までの550mが掘削されました。吉田村から折尾村までの掘削された跡に、いつか水が溜まり人々は大膳堀と呼びました。大膳堀の工事では、硬い岩盤の斜面に赤土が載った軟弱な地質であるため、掘っても掘っても赤土がずり落ちて来る難工事が続きました。貴船神社の神域であったため、神様の祟りだとの農民達の流言が広がりました。

堀川の最初の元和の工事が中止されたのに代わって、遠賀川の流れを東側に替える工事が行われました。現在の中間市垣生から水巻町古賀辺りまで、大川を真っ直ぐに掘り直す工事を1628(寛永5)年に完成させ、それまで西側の遠賀川本流は、この東側の流れが本流になりました。西側への流れは、堤が築かれ、大水の時だけ流れるようにしました。のちに白水道(しらすいどう)と呼ばれました。

黒田長政の父孝高は、織田信長に反旗を翻した荒木村重を説得に行きますが、捕らえられ幽閉されます。幽閉された城が落城の際、孝高は栗田大膳の父、備後守利安に援け出されます。信長は行方の分からない孝高も裏切ったと思い、羽柴秀吉の長浜城にいた孝高の子松寿丸(長政)を殺すように竹中半兵衛に命じますが、半兵衛は密かにかくまいます。後、大名になった黒田長政は、徳川家康の養女を室に迎えます。朝鮮出兵の頃から石田三成を嫌っていた、長浜城時代からの旧知の豊臣恩顧の大名、福島正則や加藤清正を、長政は家康陣営に取り込みました。家康はこの長政の功績に対し、黒田家の子孫まで粗略にしない旨の感状を与えました。この感状のことは、長政の死の間際に、嗣子忠之には隠して、栗田大膳はじめごく少数の重臣にしか明かされませんでした。長政は忠之を後継者としての資質をあやうんでいました。死後の支藩の設立もそのためだといわれています。大膳は日頃より忠之を守りました。このため、長政は大膳らに後事を託しました。

長政が案じた通り、長政の死後も忠之の奇行が続きました。そして、諌言する大膳を遠ざけ、寵愛する倉八(くらはち)十太夫を重用します。忠之と大膳の確執は深くなり、遂には忠之は大膳に切腹を命じます。しかし、重臣達により押し留められ、閉門蟄居されます。1632(寛永9)年、大膳は豊後の幕府総目付で竹中半兵衛の甥、竹中采女(うねめ)に訴状を届けます。その内容は、忠之が、陰謀を企てて切腹させられた駿府大納言忠長に密かに加担していたこと、禁制の大船を建造したことなどでした。翌年、忠之は江戸に召し出され、幕閣の前で弁明しました。また大膳は黒田家重臣らと幕閣の前で対決しました。重臣達は明確に反論しました。幕閣達が大膳に密かに訴えの真意を尋ねますと、主君の性格からすると、黒田家は滅びる恐れがある、自分が悪者になることにより、その所領の幾分かは安堵されるのではないか、と答えました。幕府の裁決は、嫌疑は晴れたが、騒動の責任で領地は召し上げる、しかし、先代長政の功により旧地を与える、というものでした。そして、大膳は主君を訴えた罪により、奥州盛岡に配流、倉八十太夫は追放になりました。以上が後世言われている黒田騒動です。この後、忠之は藩政に励み、現在では、全国的に有名な博多祇園山笠も保護奨励したといわれています。

事件後、堀川の工事は再開されずに放置されました。遠賀川の本流は東側に替わりましたが、大きく蛇行して災害の可能性は残っていました。そのため、1661(寛文元)年頃、楠橋村から下大隈村にかけてバイパスが掘られ、本流は直線化されました。その結果、遠賀川の中に島がつくられました。それが現在の中間市の中島です。1664(寛文4)年、御牧郡は遠賀郡と改称されました。

前述したように遠賀川の河口部は二つの流れがありました。西は現在の遠賀町を通って芦屋町の祇園橋付近に注ぎました。東は水巻町古賀を経て八幡西区三ツ頭に注ぎました。東の流れで、東西二つの流れの間の猪熊・島津間を、その辺りの排水を目的に、寛永年間掘削が行われましたが、水の流れはほとんどありませんでした。これを1685(貞享2)年拡幅し、古賀で遠賀川に合流していた曲川の排水を円滑にしょうとしましたが、洪水時には、その目的は果たせず、曲川沿岸の村は浸水しました。

遠賀川の下流で合流していた曲川の排水を円滑にするため、福岡藩は、遠賀川東岸側の水を洞海湾に引くことを検討しました。しかし、富士山の噴火で幕府が援助金拠出を命じ、藩財政は窮乏しました。更に豪雨や飢饉の災害が続きました。1734(享保19)年、曲川の水引普請について、関係する村の庄屋が吉田村の苗代谷の堀通しを願い出ました。現在の水巻町側から洞海湾に水を引くには、堀川の最初の工事、元和の工事の大膳堀の谷間か、堅い地質の部分を掘り抜くしかありませんでした。1737(元文2)年苗代谷から美吉野の下を通り、現在折尾西小学校がある北の谷にトンネルを通す工事を始めました。しかし、岩盤が固く、工事が進まず、翌年中止になりました。

遠賀川河口部の猪熊・島津間の水路が、十分機能を果たさず、大水の時に曲川沿岸が浸水するため、立屋敷村庄屋入江喜太郎は、命を懸けて改修工事を郡役所に願い出ました。工事は、1744~50(延享元~寛延3)年までの大工事になりました。遠賀川本流を古賀で堰き止め、猪熊・島津間の水路を本流とし、左岸は広渡から島津、右岸は古賀と猪熊に大土手を築き、河口部を直線的にしました。

堀川の工事再開の気運が高まり、堀川の開削は長い年月の後、1751(寛延4、宝暦元)年、工事が再開されました。工事再開に際して、切り抜きの場所の決定には、農民達が祟りと畏怖する貴船神社の前の谷は避けられました。郡方元締に就いた櫛橋又之進は、6代藩主黒田継高の許しを受けて、、藩祖長政が計画した堀川の完成を目指して現地を調査しました。郡奉行・郡代に諮問し、農民の声を聞いて、車返の切貫(くるまがえしのきりぬき)に決めました。車返の谷は、東の大膳堀と西の苗代谷の中間に位置しました。櫛橋又之進は、藩召抱えの石工である郷夫の頭二人に車返の試掘を命じました。1751(寛延4)年5月から準備を終えて試掘を始めました。郷夫頭や郷夫棟梁達の工法研究により、完成の目処が立つようになりました。

1755(宝暦5)年6月、福岡藩は幕府に届を出して、本格的な堀川開削工事が始まりました。総責任者には、2年前に藩の財用元締に就いた櫛橋又之進が当たり、奉行に神崎仁右衛門が就き、90人の郷夫が従事して3人が郷夫頭に就任しました。また多くの農民達が動員されました。最初の元和の工事と違い、農民達にも米銀が支給されました。動員された農民の監督役には、上底井野村出身の一田久作(いちだきゅうさく)が選ばれ、住居を車返に移しました。

1757(宝暦7)年5月、総責任者が、中老に昇進していた櫛橋又之進から郡方元締の浦上彦兵衛に代わりました。この年9月、車返の切貫が幅3間(1間は約1.8182m)で貫通しました。長さは約400m、深さは、一番深い峠の所で、川底まで約20mありました。掘り始めて7年経っていました。幅は当初6間の計画でしたが、時間を要することで、半間の拡幅が行われ、1759(宝暦9)年9月に川幅3間半(約6.4m)の拡幅工事が完成しました。

江戸時代、堀川が曲川と交差する所をどう処理するかが問題でした。堀川は曲川より傾斜があるため、洪水のときには堀川が氾濫するため、二つの川を一緒にすることはできませんでした。そこで、交差する所を石囲いのトンネルにしました。この工法を伏越(ふせこし)といいます。伏越の中を曲川が、その上を堀川が流れました。伏越は、サイフォン原理を利用したものといわれています。簡単に言えば、出発地点が目的地点より高い位置にあれば、液体の移動によって管の内部に真空を作りだし、それにより液体を吸い上げ、目的地まで移動し続ける、というものです。当時の土木技術のレベルの高さを物語っています。1986(昭和61)年の改修工事で、河川の立体交差はなくなり、伏越は取り払われました。

遠賀川からの導水のために、中間村中島に石唐戸(水門)を築きました。しかし、遠賀川の水圧に耐えきれず、石唐戸は2度決壊しました。このため、一田久作が、備前国吉井川に派遣され、密かに優れた唐戸の仕組みを盗み取って、帰国しました。惣社山が選ばれ、その岩盤が切り抜かれ、1762(宝暦12)年、中間唐戸が築かれました。

中間唐戸を設置するとともに、取水口の工事が始まりました。現在の中間市土手の内の西端まで水路が掘られて、遠賀川に接続されました。その対岸は中島になります。しかし、そのままでは堀川への流入がうまくいかないため、水路と中島の間に井手(井堰)が築かれました。遠賀川は中島の反対側にも流れていましたので、井手が築かれた側の流れは東流で、井手は東井手と呼ばれました。この井手の位置は、1661(寛文元)年の遠賀川のバイパス工事の最下流になりました。

宝暦の工事の難工事、車返の切貫工事が完了すると、その上下流の工事が始まりました。上流は中間村と結ばれ、下流は大膳堀の北端と長崎村(現在八幡西区長崎)まで掘削されて、金山川につなぐようにしました。1762(宝暦12)年工事は完了し、洞海湾まで貫通しました。1762(宝暦12)年、東井手の築造で堀川開削工事は完成し、1763(宝暦13)年、堀川は正式開通となり、灌漑用水の取水と通船が開始されました。堀川用水を利用した村々は、中間・岩瀬(現在中間市)二(ふた)・下二(しもふた)・吉田・頃末・伊左座・立屋敷・杁(えぶり)・古賀・猪熊(水巻町)、折尾・本城・御開(おひらき)・陣原・則松(北九州市八幡西区)の16ヶ村でした。

堀川は、治水・灌漑・舟運を目的に開削された運河です。その目的達成のために種々の規制が設けられました。その基本の法令が、1765(明和2)年に制定された「堀川筋条目」で、堀川の管理を担当する一田家が受け継ぎました。堀川工事に功績があった一田久作は堀川受持・通船改方を命じられ、明治初めまで堀川の管理を代々一田家が担当しました。一田久作は河守神社の対岸に屋敷を構えました。一田家は堀川を通行する舟から通船料を徴収し、明治初めまで続きました。

堀川は旱魃時には水量が不足しました。そのため、1766(明和3)年、下大隈村と中島の間の西流に西井手が築かれました。東西の井手の完成で、遠賀川は完全に堰き止められ、船の通行はできなくなりました。そのため、遠賀川と唐戸の水路の途中に船通しという切り抜きが行われ、遠賀川の流水路にもなりました。堀川へ流入する水量の調整のため、船通しと唐戸の間に安政井手が設けられたりしました。

宝暦の工事で、遠賀川を東西井手で堰き止めたため、色々な弊害が発生しました。遠賀川上流の鞍手・嘉麻・穂波郡の沿岸の村々が湿田化しました。また洪水時には井手が破損しました。1802(享和2)年福岡藩は取水口を上流の楠橋に移すことを検討しました。家老野村隼人が実地検分し、10代藩主斉清(なりきよ)の許可を得て、1804(文化元)年、楠橋村寿命(じめ)に取水口を移転する工事に着手しました。郡奉行坂田新五郎の指揮の下、同年6月に完成しました。最初の元和の着工から183年経っていました。この文化の工事の完了で、寿命の取水口から洞海湾まで12.1kmが貫通しました。川幅は広い所で18.2m、狭い所で6.4m、平均で11m(6間)ありました。

堀川の文化の工事で寿命への取水口移転工事が終わると、遠賀川の東西井手が撤去され、遠賀川の旧取水口から黒川までの水路や船通しは埋め戻され、中間唐戸を除いて、関連施設はすべて除去されました。埋め戻された跡には新しい土手が築かれました。堀川が上流に伸ばした文化の工事の後、出水時に真名子川(現在の笹尾川)・黒川の排水に支障が出て、真名子川流域の低地に水害が発生しましたので、その調整のため1809(文化6)年、土手ノ内に唐戸(水門)を設置しました。

平安時代末期から、遠賀川流域の荘園よりの年貢米が川舟で運ばれ、河口の芦屋で集積されて廻船に積み替えられました。江戸時代に入ると、福岡藩の嘉麻・穂波・鞍手・遠賀の四郡から、小倉藩は田川郡からの年貢米の運送に、遠賀川の水運が使われました。遠賀川の水運に使われた川舟は、底が浅く、平たい川艜(かわひらた)が使われ、五平太船とも呼ばれました。荷を多く積み、浅い川を航行できるように造られています。川艜は大小あったようですが、1866(慶応2)年の「木屋瀬村平太御改帳」によると、長さ4丈3尺(13m)、幅8尺(2.4m)、深さ2尺5寸(75.8cm)で、積載量は標準で米100俵、石炭7,000斤(4,200kg)としるされています。帆柱を立てたり、はずしたりできました。中央に寝泊まりできる屋根があるものもありました。

遠賀川流域の嘉穂・鞍手・田川郡では古くから薪の代用として、石炭が使われていました。石炭はそのままでは臭気が強いため、粗製コークスであるガラが1730年代には福岡の城下町でも燃料として使われました。若松の庄屋和田左兵衛により塩焼釜のロストル(火格子)が開発され、塩田の製塩燃料としての需要が増えました。このため福岡城下では石炭が不足する事態となり、1788(天明8)年、石炭を統制下に置きました。

堀川が完成すると、石炭の輸送は一層便利になりました。1815(文化12)年、福岡藩は芦屋・山鹿・若松に焚石(たきいし)会所を設け、全ての石炭を会所に納めさせ、会所から問屋に渡しました。会所では買取と販売価格を決め、その差額は藩の財政に入れました。抜荷がないように遠賀川を下る川艜(五平太船)には庄屋から証明書が発行されました。幕末、財政難に陥っていた福岡藩・小倉藩は、それぞれの藩の仕組法により、筑豊の石炭の採掘、販売を統制下に置き、藩財政の有力な収入源にしていました。

1869(明治2)年の「鉱山解放宣言」により石炭の採掘・販売は自由になりましたが、その取締機能は県に引き継がれました。1872(明治5)年、芦屋・若松の焚石会所が廃止され、石炭の水運の川艜は自由化されました。翌年からは他県移出も認められました。筑豊では石炭の自由掘時代に入りました。福岡県は小坑乱立とそれに伴う石炭乱売を一掃するため、1885(明治18)年坑業組合を設立しました。福岡県庁勧業課で鉱業を担当していた石野寛平は坑業組合の結成につとめ、結成されると官を辞して組合総長に就き、筑豊の石炭産業の近代化につとめました。坑業組合総長を辞した後、若松の築港事業に専念します。1889(明治22)年若松築港会社を出願します。しかし、資金不足のため三菱に援助を乞い、1892(明治25)年開業し、石野寛平は社長に就きました。

1888(明治21)年から翌年にかけて、撰定坑区制が実施されました。最小で19万坪、最大25万坪、総借地面積1500万坪で24坑区の選定が行われました。エネルギー源として石炭の需要が拡大するにつれ、筑豊の石炭が注目を浴び、中央資本も進出してきました。この輸送のために北九州では鉄道と港湾の建設が行われて、近代産業が勃興する基盤が構築されました。筑豊の石炭輸送を目的に筑豊興業鉄道が設立され、1891(明治24)年8月直方-若松間が開通しました。同年2月には、九州鉄道によって現在の鹿児島本線の遠賀川-黒崎間が開通していました。

競争が激しく、収入も多いが危険も多いのが船頭稼業です。きっぷの良さと、喧嘩早いが情にもろい、川艜の船頭達の性格を川筋気質(かわすじかたぎ)と呼びました。主役が鉄道に代わっても、大量の石炭を若松に運びました。若松は日本一の石炭積出港になりました。運ばれた石炭は人力によって貨車から船に積替えられました。この作業に従事していた沖仲仕はごんぞうと呼ばれました。ごんぞう達に川筋気質は引き継がれていきました。

川艜は、1889(明治22)年頃の最盛期には8,000隻を数えました。坑業組合水運部は1886(明治19)年同業組合を組織させ、運賃協定・配船を担当しました。しかし、実際は個別交渉で、運賃の上昇を抑えることはできず、炭坑経営を圧迫しました。鉄道が開通し延長していくと、陸運と水運の比率は1894(明治27)年には半分になりました。大炭坑は鉄道に大きな発言力を持っていました。中小の炭坑は依然として川艜に依存していました。しかし、石炭輸送の形態もしだいに変っていき、遠賀川舟運の川艜(五平太船)はしだいに衰退の道をたどり始めました。鉄道の安さ、早さ、そして安全に負け、1938(昭和13)年に川艜は姿を消しました。

石炭の筑豊で中央資本と伍した地場資本は筑豊御三家と呼びますが、それは麻生、貝島、安川・松本です。この中で安川・松本家は北九州で多く起業し、発展していきます。石炭と鉄は明治の近代産業発展の両輪でした。1901(明治34)年官営八幡製鐵所は東田第1溶鉱炉に火入れし、11月18日伏見宮・農商務相・国会議員や多くの来賓を迎えての作業開始式が行われました。

筑豊興業鉄道の若松停車場は、若松町の隣の石峯村大字修多羅(すたら)に設置されます。修多羅はすぐに市街化され、1898(明治31)年若松町に合併されました。若松築港による築港工事により若松港の区域は拡大し、1906(明治39)年石峰村全域が若松町に合併されました。1914(大正3)年若松市となり、若松港からの石炭積出量は増えていき、日本一の石炭積出港になりました。1940(昭和15)年が若松駅の石炭輸送のピークでした。戦後も、大量の石炭を運び、復興の基礎を支えますが、昭和30年代、エネルギー革命により炭鉱も閉山が続き、若松への石炭輸送もなくなりました。

明治に入っても、遠賀川は何度も洪水の被害を受けました。遠賀川流域の声は、なかなか政府には届きませんでした。1905(明治38)年の水害では、まだかなりの割合、石炭の輸送を遠賀川の舟運に頼っていたため、川岸に坑口や関連施設があり、炭鉱が大きな被害を受けました。石炭産業発展のため、国営事業として、遠賀川の改修工事が行われました。戦後になると、石炭採掘により地盤低下で堤防が下がり、石炭水洗や坑内排水の遠賀川への流れ込みにより、河床が上がって、水害が起こりました。改修工事は続き、炭鉱閉山後も続けられました。

堀川の沿岸の炭鉱の採掘跡では、地盤が沈下し、大雨で流域は洪水に見舞われました。1972(昭和47)年から中間唐戸から洞海湾の堀川を、新々堀川として、都市基盤事業の河川改修工事が行われました。この改修工事の中で、曲川と堀川の立体交差の伏越は、1986(昭和61)年撤去され、堀川は曲川に合流しました。現在堀川は、寿命唐戸(じめからと)から笹尾川までの堀川、笹尾川から黒川までの新堀川、中間唐戸から洞海湾までの新々堀川に分かれています。新堀川に流れはなく、新々堀川は途中の中間市岩瀬で曲川に合流し、その下流とは直接的にはつながっていません。
堀川を上流から訪ねてみます。遠賀川右岸、堤防上の県道73号直方・水巻線を九州自動車道と新幹線の架橋をくぐって下って来た所です。手前左が堀川の寿命唐戸への水門です。遠賀川上流に新幹線、その奥隣に九州自動車道が見えます。
水門から取水された遠賀川の水は、県道73号直方・水巻線の下を通って反対側に出て来て、この水路を通って寿命(じめ)唐戸に向かいます。
   
1804(文化元)年、遠賀川からの取水口として寿命唐戸は、楠橋村寿命(じめ)に築かれました。この文化の工事で、堀川が中間唐戸から上流に延長されました。寿命唐戸の上流側です。  
   
寿命唐戸の下流側です。2階建ての木造の建物の下に、水を堰き止める堰戸が設けられ、そこを開けて、水は通ります。建物の1階の屋根付近が道路の高さになります。寿命唐戸は北九州市指定文化財です。寿命唐戸の構造は中間唐戸と同じなので、詳細は中間唐戸で見てみます。
   
堀川は、塩田橋の先で笹尾川に合流します。下が堀川で、上が笹尾川です。寿命唐戸から笹尾川まで堀川が掘削され、笹尾川・黒川を経て中間唐戸に結ばれました。笹尾川は左に流れて行きます。寿命唐戸から笹尾川まで0.7km、そこから中間唐戸まで2.1kmでした。向こうの山の左端は皿倉山です。
笹尾川を下って行くと、芝谷橋が架かっています。この付近の川や河川敷が整備され、笹尾川水辺の楽校(がっこう)になっています。水辺の楽校プロジェクトは、子供たちが自由に遊び、環境に学ぶ空間として利用し、自然を大切にする心を育ませることを目的に行われています。この先で北九州市八幡西区から中間市に入ります。
中間市に入ってすぐ、笹尾川の土手の左手、中間市土手ノ内に、三菱化学の遠賀川取水場があります。ここで取水され、瀬板の森公園がある瀬板貯水池に送水されます。  
   
三菱化学の遠賀川取水場の先の笹尾川です。笹尾川は左に流れて行きます。手前から堀川の流れが分かれて、右端の方に行きます。現在水の流れはありません。
笹尾川の下流に土手ノ内水門があり、その上は橋になっています。川艜(五平太船)による舟運が失くなっても、堀川の治水と灌漑の役目はありました。しかし、遠賀川の改修計画の一環で、土砂の堆積防止のために笹尾川の土手ノ内水門を常時開放しました。橋の先に新しい水門が造られていますが、通常は開門されています。
   
土手ノ内水門の橋を渡り、三叉路を右折した道路の下に水路があります。笹尾川から新堀川への水路です。  
   
水路がある道路の反対側に水門跡があります。その傍らに「新堀川基点」の小さい石柱が立っています。
   
三叉路を反対側に進みます。水門から200mで、上が黒川で、下が新堀川で、黒川に合流して左に流れます。現在は、新堀川には流れはありません。笹尾川の土手ノ内水門の常時開放で、笹尾川と黒川を結ぶ新堀川に流れ込まず、堀川流域の水田への送水が不可能になりました。このため、パイプによる送水が検討され、1972(昭和47)年、笹尾川土手ノ内ポンプ所から堀川沿いにパイプ工事が完成しました。道は笹尾川と新堀川の間の土手の上を通っていて、新堀川と黒川の合流点の先は、笹尾川と黒川の間の土手の上になります。  
   
県道73号直方・水巻線の黒川河口の橋から見ています。正面の水面が入り込んでいる所が、中間唐戸への水路です。その上が惣社(そうじゃ)山でした。惣社山には神社がありました。唐戸建設のため、その惣社宮は現在の中間市中尾に移されました。こちらの右手の小高い所に水神として弁財天が祀られますが、のち厳島神社と改称されました。
   
県道73号直方・水巻線の黒川河口の橋の先を右折すると、右手の道路の下に1762(宝暦12)年に築かれた中間唐戸はあります。中間唐戸は福岡県指定文化財です。  
   
中間唐戸から金山川との合流点まで8.3km、洞海湾まで9.3kmでした。中間唐戸の横から下に降りて、唐戸を見学することができます。
   
唐戸は、水路の両側の石壁に溝が掘られ、そこに堰板が差し込まれます。板の下の、水路の上の石の板(天井板)までは、堰戸は表戸・裏戸の二重になっていました。備前国吉井川の場合は、前後ニ段に唐戸が設けられましたが、惣社山にはその余地がなく、唐戸の表裏に堰戸が設けられるという独自のものです。天井板の上は、積み重ねた板の向うに見えるように、中戸で溢水を防ぎました。板の上に見える引き上げ軸の回転で、堰板を上下に動かし、水量の調整をしました。木造の建物、上屋(うわや)は堰板などを格納する建物です。現在、堀川には灌漑・舟運の役目はありません。唐戸の下の水路は、半分に狭められています。  
   
中間唐戸から堀川は、新々(しんしん)堀川になります。中間唐戸の少し下流に唐戸の大樟(おおくす)が2本あります。中間市の天然記念物に指定されており、右手のクスノキは唐戸が築かれた時期のものということです。
   
大樟がある公園の中間教育委員会の説明板に掲示されている写真です。  
   
大樟がある公園を下って行くと、上に道路が通っています。その道路を次は通ります。その先の眺めです。左手の建物は中間市役所で、遠賀川に面して市役所はあり、その裏手を堀川は流れています。先方に見えるのは、遠賀川の土手です。
   
中間市役所の前の遠賀川に架かる遠賀橋の中間市役所前交差点から、市役所の横を西に行き、新手交差点を左折します。道路は県道203号中間・水巻線です。この辺りは、炭鉱があった頃は、商店が並んだ中間の中心市街地でした。その賑やかさは、現在ショッピングセンターがある西部に移っています。県道203号中間・水巻線を北に行くと、堀川に出ました。ここは中間市仲町です。川の流れは、川幅の中央部に掘られた水路を流れる程度です。先方は、JR筑豊本線のガードです。
中間市については、「北九州の近隣」の「中間市・鞍手町」をご覧ください。
 
   
堀川右岸の狭い通りを進みます。橋は中間小学校前の片峰橋です。右折し東に行けば、3~400mでJR中間駅に着きます。
   
堀川沿いを下ります。この付近は中鶴で、中鶴炭鉱があったところです。1906(明治39)年伊藤伝右衛門が遠賀郡長津村(中間市)に中鶴炭鉱を開坑し、1914(大正3)年古河鉱業との共同出資で大正鉱業を設立しました。戦後、大正鉱業は財閥解体で古河鉱業との関係は切れ、伊藤家の経営となりました。エネルギー革命、石炭斜陽化の中で、1964(昭和39)年12月中鶴炭鉱は閉山しました。  
   
堀川大橋の先に岩瀬祇園橋があります。ここで、堀川は曲川に合流します。岩瀬祇園橋は両方の川に架かっています。右が新々堀川で、左が曲川です。手前に曲川になって流れます。左側の対岸の橋の下、鋼板の矢板の所が堀川の続きです。
橋を渡って矢板側に来ました。堀川側が一段高く、その先に矢板が打ち込まれています。矢板の左先に曲川排水機場があり、曲川の浸水を防いで、ポンプで排水します。先方に右の新々堀川、左の曲川が見えます。現在は、遠賀川の水が堀川を通って、直接洞海湾に流れ込むわけではありません。
   
矢板側下流の新々堀川です。この先しばらくは堀川沿いの道は歩行者道路になりますので、堀川大橋まで戻り、そこを左折すると、県道203号県道中間・水巻線に出ます。県道を左折し、北に行きますと、大膳橋交差点に出ます。大膳は栗山大膳に由来します。  
   
大膳橋交差点の先に大膳橋は架かっています。大膳橋から下流の眺めです。中間市からこの先は遠賀郡水巻町になります。
   
水巻町の吉田から下流の貴船橋方向の眺めです。右側の山の更に右の奥に、貴船神社はあります。反対側、ずっと左に行った所に苗代谷はありました。現在の八幡西区美吉野の西のJR鹿児島本線の所です。
水巻町については、「北九州の近隣」の「岡垣・遠賀・水巻町」をご覧ください。
 
   
貴船橋の先に新貴船橋が架かっています。その橋の上に伏越の模型があります。ここで再開された宝暦の工事の時、曲川の用水路の吉田川が堀川と交差することになりました。吉田川を掘り下げ、その上に堀川を通し、下の吉田川の交差部分を石囲いのトンネルにした伏越を設けました。三角の右側が天井石で、左側の説明文の所が水が流れる部分です。
   
新貴船橋の先、北九州市八幡西区との境界に近い、水巻町吉田の北部に堀川の守り神の河守(かわもり)神社はあります。
1760(宝暦10)年、河守神社は福岡藩によって建立されました。以前、この地には幸神社(さいのかみしゃ)がありました。河守神社の祭神は、大山祇命(おおやまずみのみこと、山の神)、罔象女神(みずはめがみ、水の神)、興玉命(おきたまのみこと、街道や村境を守る神)で、1920(大正9)年、堀川の工事を再開した藩主黒田継高が祀られました。氏子は、堀川用水を利用したの16ヶ村で構成されていました。現在の社殿は、1914(大正3)年に建築されたものです。  
   
河守神社の前の石垣に、陶板に焼き付けた古い写真が掲げられています。以下3画像紹介します。
   
2つ目画像  
   
3つ目画像
川艜は折尾高校と、芦屋に保存されています。芦屋の川艜は「北九州の近隣」の「芦屋」をご覧ください。
   
河守神社のすぐ下流に車返の切貫があります。ここが堀川開削工事の一番の難所でした。現在もその工事の際のノミ跡が残っています。  
   
車返の先は上りで、その一番上が峠になっています。流れは下らなくてはいけませんので、その付近の掘削が一番深くなります。その付近の堀川の側面に川艜の棹を差した穴があります。
   
峠を下りて行くと北九州市八幡西区に入り、左手の丘陵地に折尾高校があります。その下を堀川は流れます。左端に折尾高校創立者の三好セキ女史頌徳碑が見えます。その向こうが通学路の坂になっています。  
   
折尾駅の南側は道路も狭く、密集しているなど、都市基盤の整備が遅れています。これらの解消のために、折尾地区総合整備事業が2004(平成16)年度に始まりました。平成31年度まで続く大事業です。折尾高校下を下って来た所に新しい道路ができています。都市計画道路折尾・中間線の国道3号線の折尾駅入口交差点から水巻町吉田小学校付近までが、2015(平成27)年3月22日開通しました。堀川の側に直接行くことができませんので、新しい道路を左折して進むと、右折して下って行く道があります。そこを右折して坂を下ると、JR筑豊本線の踏切があります。踏切を渡った所からです。左に堀川が流れています。
   
踏切の先に三好橋が架かっていて、その横に歩道橋が架かっています。歩道橋の横に舫石(もやいいし)の案内があります。堀川沿いの草の中に、中がくり抜かれた背の低い石が並んでいます。これが舫石で、船頭が川艜を停めるため、綱を結びつけた穴が開いています。  
   
東筑橋まで下りて来ました。先方にJRの短絡線の踏切があります。短絡線は折尾駅で乗り換えずに、筑豊本線と鹿児島本線の駅を結ぶ路線です。短絡線は北九州・筑豊・福岡を結ぶ福北ゆたか線の列車が通ります。黒崎・折尾・桂川・博多駅間を福北ゆたか線と呼びます。2001(平成13)年の電化で、鹿児島本線・筑豊本線・篠栗線を通り、北九州・筑豊・福岡を結ぶ路線なので、この愛称が付けられました。東筑橋を右に行った所に東筑高校があり、左に筑豊本線があって、その先の山手に折尾愛真学園のキャンパスがあります。折尾は、他にも大学や高校が多くある学園都市です。
   
JRの短絡線の踏切を越えた先に、堀川橋はあります。堀川橋からの眺めです。先方に橋があるように見えますが、その下は暗渠です。その上の白い所が折尾駅です。駅周辺も、折尾地区総合整備事業で工事中です。  
   
九州鉄道と筑豊興業鉄道の折尾駅は別個でしたが、2階の九州鉄道と1階の筑豊鉄道の立体交差駅の共同駅が1895(明治28)年建てられました。その後、鉄道は国有化され、1916年(大正5)年駅舎は建て替えられました。現在、駅周辺も折尾地区総合整備事業が進行中で、駅舎も新たに建て替えられます。駅周辺は、新々堀川は暗渠になっています。左端の下が暗渠入口です。
折尾駅とその周辺については、「八幡のまちかど」の「折尾駅前」をご覧ください。
   
折尾駅の東を短絡線が通っています。その線路沿いの道路の右手に金光教教会があり、その敷地内に遠賀川疎水碑が建っています。侯爵黒田長成(くろだながしげ、最後の福岡藩主長知の子)の文と筆によるもので、堀川流域16ヶ村の住民により、1897(明治30)年建立されました。堀川開削工事の経過と、開削工事に最も大きな功績を残した一田久作の功績が刻まれています。  
   
折尾駅東口前を北に行き、JR鹿児島本線のガードをくぐって右に行くと、右側の暗渠から堀川が流れ出ます。折尾駅前の暗渠を出た先の堀川です。右側をJR鹿児島本線ガ通っています。この先、折尾警察署の前を流れて行きます。
   
右岸に折尾中学校があり、その先に新々堀川排水機場があります。この下流で金山川と合流しますし、洞海湾の潮位の影響も受けます。ここで堀川の浸水を防いで、ポンプで排水します。左の堰の先が下流です。  
   
合流点の先の本陣橋まで下りて来ました。本陣橋から上流を見ています。左から金山川が、右から新々堀川が流れて来ます。新々堀川と金山川が合流して新々堀川として流れて行きます。
本陣橋の下流の橋は夕原大橋です。夕原大橋の下流にゆうじょう橋と名付けられた歩行者専用橋が架けられています。ゆうじょう橋から下流の眺めです。下流の橋は最下流の本城橋です。本城橋の下流は洞海湾の深奥部になります。洞海湾を渡った先に若松港があります。
かっての若松については、「北九州のみどころ」の「若松南海岸」をご覧ください。


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