八幡のまちかど

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花尾山・河頭
(ごうとう)山    八幡西区、一部八幡東区  [2016/01/23]
 

 
標高351mの花尾山は、皿倉山の西北西に位置し、山頂を八幡東区と八幡西区の境界線が通っています。花尾山は花尾城跡です。標高213mの河頭(ごうとう)山は、花尾山の北西に隣接し、八幡西区の東北部に位置します。御影石と呼ばれる石材は花崗岩ですが、その一種の花崗閃緑岩が山中に露出しています。

花尾城は、中世、現在の遠賀郡(芦屋・岡垣・遠賀・水巻町)、中間市、北九州市の西半分である戸畑・若松・八幡東・八幡西区を含む、かっての遠賀郡に当たる地域を支配した麻生氏の居城でした。築城時期ははっきりしませんが、長い間に城は改修され、現在残されている遺構は戦国末期のものと思われます。豊臣秀吉の九州平定の後、城主の麻生氏は筑後に移され、花尾城は廃城になりました。

源平合戦の決着は、1185(寿永4、元暦2)年壇ノ浦で源氏が勝ち、平氏は滅亡します。平氏に加担した山鹿秀遠の没収地山鹿荘は、源頼朝の大将御祈祷師であった一品房昌寛(いっぽんぼうしょうかん)に与えられました。建久年間(1190~99)、宇都宮家政は母方の関係で、昌寛より山鹿荘を受け継いだといわれています。家政は東国から下向した御家人で、山鹿荘を拝領した後、山鹿氏を名乗りました。

家政の子の時家は、嫡子に山鹿氏嫡流を継がせました。そして弟の資時に山鹿荘内の麻生荘・野面(のぶ)荘・上津役(こうじゃく)郷の地頭代職を譲っています。これが麻生氏の始まりです。北九州の西部を所領とする麻生氏は、南北朝時代、嫡流の山鹿氏は南朝方につき、庶流の麻生氏は幕府方につきます。そのため、麻生氏は山鹿氏所領の山鹿荘を支配するようになります。麻生氏は山鹿氏を凌いで、勢力を伸ばします。

室町時代、麻生氏は将軍家と直参関係を持ち、奉公衆になっていました。これには、大内氏の後ろ盾がありました。大内盛見が筑前守護になった頃より、麻生氏は将軍奉公衆から、大内氏の被官になっていきました。1433(永享5)年、麻生家春が家督を継ぎます。この翌年の将軍義教の所領安堵状によりますと、麻生荘・野面荘・山鹿荘・感田荘が記されています。現在の洞海湾を取り囲む北九州西部市域、遠賀郡、中間市、直方市の遠賀川流域がこれに当たります。

麻生家春は少弐氏との戦いに大内方として出陣しますが、その子とともに戦死します。家春の孫が継ぐはずでしたが、病死したため、家春の先々代義助の子、弘家が継ぎました。麻生弘家は山口で大内政弘に仕え、側室と間に弘国が生まれました。弘家が重病になった時、内紛が起きました。弘家の跡に先代家春の子、弘助を継がせようとする動きに対し、大内政弘は弘助を殺害しました。麻生氏の本拠花尾城には家春のもう1人の子、つまり、家春とともに戦死した子や弘助と兄弟の家延がいました。この頃、応仁の乱(1467-77)の最中で、大内政弘は上洛していました。その留守中に麻生家延は花尾城で挙兵しました。

応仁の乱が終息すると、大内政弘は大軍を率いて豊前・筑前制圧に乗り出します。1478(文明10)年、花尾城は大内軍によって包囲されました。博多に入っていた政弘は、部将らに花尾城攻略の指示を出しています。家延は抵抗しますが、遂に降伏し、花尾城を出ました。家延は、遠賀郡吉木村(遠賀郡岡垣町)に岡城を築いて移り住みます。家延の子の興春が麻生家を継ぎました。

将軍家の奉公衆であった麻生氏は遠賀川水域の年貢輸送・物流の通行権を支配していましたが、大内氏被官へ変わっていきます。大内政弘の京都への献上品の中に、筑前蘆屋釜が入っていますが、これは麻生弘家から政弘への協力によるものと思われます。この蘆屋釜は京都の茶道界で、非常にもてはやされます。吉木の岡城に移った家延の領内の高倉神社(岡垣町)は蘆屋(芦屋町)の鋳物師達が信仰した神社で、彼らが奉納した銅造りの毘沙門天が残っていますし、山口県長門市の大寧寺にある梵鐘も蘆屋で鋳造されたものです。蘆屋津の船乗り達は古くからの海人達であり、この地を支配した麻生氏は松浦党や宗像氏とともに朝鮮貿易に乗り出しました。

大内義隆は陶隆房(すえたかふさ)の謀反のため、1551(天文20)年自刃しますが、義隆の側近で、隆房と対立していた相良武任(さがらたけとう)は事前に山口を逃れていました。相良武任は花尾城に入り、500の兵で立て籠もりました。しかし、陶の部将野上隠岐守の3,000人に攻められ、花尾城は落城し、武任は自刃します。

陶隆房は大友義鎮(よししげ)の弟の晴英を大内氏当主として迎え、晴英改め大内義長となり、隆房は晴賢(はるかた)となります。大友義鎮は、弟が大内家を継いでいる間、北部九州に進出して来ました。秋月・原田・筑紫・宗像・麻生・杉らの筑前の国人達の掌握に努めました。陶晴賢討伐の機会をうかがっていた毛利元就は、1555(弘治元)年、厳島で撃破します。その2年後、毛利軍に追われて、山口を脱出した大内義長は長府で自刃します。

毛利元就は周防・長門二国を統一すると、豊前・筑前を手に入れるため、九州に侵入します。1554(天文23)年から始まった毛利と大友との門司城争奪戦は1569(永禄12)年まで数多く行われます。門司城は関門海峡をにらみ、貿易の中継点であり、貿易都市博多への九州の足かがりになる所でした。1561(永禄4)年、大友義鎮は門司城に大攻勢をかけました。しかし、本国と戦場が遠い大友方が不利になっていきます。毛利水軍は海を制し、輸送力で優位に立ちました。大友軍は撤退を始めます。これを知った毛利水軍は退路で襲撃し、大きな被害を出して大友軍は豊後に撤退します。

門司城争奪戦に敗れた大友義鎮は剃髪し、宗麟を号しました。1566(永禄9)年、毛利元就が尼子義久を滅ぼすと、元就は豊前の杉・長野・城井、筑前の麻生・高橋・秋月・筑紫・原田・宗像らの国人達を味方につけ、大友方へに反撃態勢を整えていました。

博多に近い立花城(新宮町)は、14世紀前半に大友氏の分家が立花山に築いた城で、その一族は立花氏を名乗っていました。城主の立花鑑載(あきとし)は毛利方について決起します。鑑載は大友軍の奪還に備えて毛利方に援軍を頼みます。大友軍の大軍は立花城攻略に向かいます。内通者の手引きにより城内に攻め入り、立花城は陥落しました。

これに対し、毛利領から動員された大軍は、海を渡って豊前小倉に集結しました。最初の攻撃目標は長野氏の拠点の大三岳(おおみつたけ)城(小倉南区辻三)で、毛利軍に包囲された大三岳城は落城しました。1569(永禄12)年、小倉に毛利軍は平城を築きます。毛利の補給は小早川隆景が率いる小早川水軍が海上輸送しました。蘆屋・宗像・新宮などに基地がつくられました。これらの設営には麻生隆実や宗像氏貞が協力しました。立花城は毛利の大軍に包囲され、大友軍はこれを遠巻きにする状況でした。城中では食糧が尽きかけていました。大友宗麟は開城を命じ、毛利方に城を明け渡しました。

宗麟は新たな作戦を立てました。彼の下に大内義隆の従兄弟の輝弘が庇護されていました。彼に大内氏再興の大義を立て、山口に進撃させました。毛利元就は情勢の急変に驚き、筑前に出陣していた兵力の撤退を命じました。山口に入った大内輝弘は帰国した毛利軍により討たれました。この毛利軍の撤退により、筑前の国人達は動揺し、支援を失った高橋・秋月・原田・筑紫・宗像・麻生氏は大友氏に降伏しました。筑前の騒乱が治まると、宗麟は立花城の重要さを考え、戸次鑑連(べっきあきつら)を城督に任命しました。鑑連は後に立花姓を名乗り、道雪と号しました。

1578(天正6)年、大友宗麟は、島津氏が日向の伊東氏を破って進出してきたため、軍を率いて豊後から南下します。この時、宗麟は正室を離縁してキリシタンとなります。日向の耳川での戦いで、大友軍は大敗し、多くの部将を失います。この戦いの後、大友氏は次第に衰退していき、翌年、宗麟は家督を義統(よしむね)に譲ります。この年、関白豊臣秀吉は島津義久と大友義統に和平を命じました。大友方はこれに従いますが、島津方は拒否しました。島津義久は大友方の本拠の豊後への侵攻を計画していました。

隠居の身であった大友宗麟は、大坂に赴き、秀吉に島津を討つように訴えました。秀吉は宗麟に翌年出陣することを約束しました。豊臣秀吉は毛利・吉川・小早川に先遣を命じ、黒田孝高を軍奉行として準備に入らせました。関白秀吉の命令を拒否した島津義久は、秀吉の進攻の前に、秋月種実に促されて北上します。二手に分かれて、軍事行動を起こします。一手は西側から筑後を経て、筑前に侵入、もう一手は日向より豊後に侵入する作戦でした。花尾城の麻生家氏は小早川軍に加わって香春岳城攻めに参加しています。黒田孝高の宣撫工作も効果を上げ、豊前・筑前から島津勢は一掃されていきました。

秀吉は40ヶ国近くに動員をかけ、20余万の大軍を率いて、1587(天正15)年、出陣しました。義久は、鹿児島に迫っていた秀吉の川内(せんだい)の本営に来て降伏しました。その1ヶ月も経たない後に、大友宗麟は病死しました。九州を平定した秀吉は国割りを行っています。小早川隆景は筑前一国と肥前・筑後の一部、弟の毛利秀包(ひでかね)は久留米の城主、立花統虎は筑後3郡で、柳川の城主になり、彼は後、宗茂と名乗っています。秋月種実の子の種長は日向高鍋、弟の高橋元種は日向延岡に移されました。黒田孝高は、豊前6郡を与えられ、中津城に入りました。残りの企救・田川2郡を秀吉の家臣毛利勝信は与えられ、小倉城に入りました。

島津・大友・竜造寺・松浦・有馬・大村・宗・相良・伊東・五島の各氏は旧領を安堵されました。肥前の鍋島直茂は竜造寺氏から離れて1郡半を与えられました。肥後には佐々成政が、日向2郡に伊集院忠棟が入りました。以上が大名達ですが、大名になれなかった在地領主もいます。麻生氏の当主麻生家氏は小早川隆景の与力として筑後に行きました。城主を失った花尾城は、その後廃城になりました。
市道山手線の祇園交差点から南の山手への坂を上って行きます。龍潜寺の横を通って、花尾町交差点を右折します。県立八幡中央高校の裏手を通って坂を上って行きます。左へのヘヤーピンカーブの都市高速上の高架橋を渡った先で、右へのヘヤーピンカーブがあります。その曲がり際に左に入る細い道があります。花尾東登山口で、そこを左折して入って行き、道はすぐ右にカーブしています。左右に民家が点在している所を過ぎると、左手に墓地があります。左手の石段を登って行き、右に進むと石段があり、そこを登ると更に右手に登る石段があります。そこを登ると、眞田増丸(右)夫妻の墓所があります。
眞田増丸は仏教済世軍・済世幼稚園の創立者です。眞田増丸は、1877(明治10)年築上郡角田村(現豊前市)で真宗本願寺派の住職の子に生まれました。八幡に来て仏教済世軍を創立して布教活動を行い、そのかたわら済世幼稚園を創立しました。
   
眞田増丸の墓所の左手奥に、忠臣蔵の赤穂四十七士の墓所を模したお墓が建てられています。その前に「天野屋利兵衛浮図」と刻まれた大きな石碑が立っています。浮図とは卒塔婆のことで、ここでは天野屋利兵衛の碑とも言ったらいいでしょうか。天野屋利兵衛は赤穂藩出入りの大坂商人で、赤穂浪士の討ち入りを支援したと伝えられます。赤穂浪士に武器を調達したとの密告を受け、奉行所は利兵衛を捕縛します。激しい拷問を受けますが、討ち入りが終わるまで自白しませんでした。激しい拷問を受けた際の台詞の「天野屋利兵衛は男でござる」は、映画や芝居で有名です。しかし、この話は江戸時代に書かれた芝居の「仮名手本忠臣蔵」に取り上げられたため定説になりましたが、人物を含めて、この話は現在では史実ではなく、どのようにしてこのような話が成立したか不明のようです。  
   
1913(大正2)年、児玉恒次郎氏は高輪泉岳寺の許可を得て、津屋崎町(現在福津市)に実物そのままの赤穂四十七士の墓を建てました。しかし、その後児玉氏が事業に失敗したため、枝光(現在八幡東区)に移されます。しかし、土地が軟弱なため大雨で埋没しました。花尾山周辺の地主であった木村孔爾氏によって四十七士の墓は掘り出され、この地に再建されました。右端の大きな墓が大石内蔵助良雄で、奥の背が高い墓は息子の大石主税(ちから)の墓です。
   
道に戻り更に上って行くと、左手にこの看板があり、道が奥に伸びています。右手先に行くと、西登山道に出ます。ここを左手の山道に入って行きます。
1195(建久5)年に花尾城は築城されたと伝えられていますが、鎌倉時代は麻生氏は麻生荘に居て、南北時代になって花尾山に入ったともいわれていて、花尾城の築城時期ははっきりしません。
 
   
山道に入って行くと、分かれ道になります。直進は東登山道で、右に曲がると中登山道です。右に曲がって中登山道を登り、東登山道を下ってここに戻って来ます。
   
中登山道を行くと、途中で坂が急になり、階段になります。そこを登った最初の広場が櫓台跡です。  
   
櫓台跡から東の山頂に向かいます。次のこの広場は四の丸跡です。
   
四の丸跡の次は三の丸跡です。  
   
三の丸跡を後にして登ると、南から登って来た道、西登山道と合流して、左に登って行きます。西登山道は通りませんが、西から南に回って登って来た西登山道は、ここで中登山道と合流します。先に進み、登山道から左手に入ると二の丸跡があります。二の丸の右手に岩があり、その右手を登山道は通っています。
   
二の丸跡から登山道に出て更に登ると、山頂の本丸跡に出ます。本丸跡の中央に国旗掲揚柱が立っています。
本丸跡の東端に「史蹟花尾城」の石碑が立っていて、その向こうに皿倉山が見えます。  
   
花尾山山頂から東側の眺めです。洞海湾の向こうは若松区、右端の向こう側に少し戸畑区が見えます。中央は八幡東区です。左端は八幡西区になります。
花尾山山頂から西側の眺めです。手前の山が河頭山です。洞海湾の向こうは若松区で、こちら側は八幡西区です。麻生氏が支配した区域のほんの一部しか眺めることはできません。
本丸の東は、一段低くなった出丸跡です。向こうの一段高い所に、本丸跡の花尾城の石碑が見えます。
   
出丸跡の北西から、北側に下りて行く急な石段があります。  
   
石段の先に、石積みの井戸の遺構があります。
   
古井戸の先を更に下りて行くと、道は右に曲がり、緩やかに登って行きます。しばらく行くと大堀切になり、左に登って行く道があります。右側は出丸跡の東側から直接下りて来た道です。  
   
大堀切から左に登って来ると、手前左に一段高い所があって、その先は広場になっています。馬場跡です。
   
馬場跡から標高622mの皿倉山が見えます。
皿倉山については、「北九州のみどころ」の「皿倉山」をご覧ください。
 
   
馬場跡の東隅から下りて行きます。その先に堀切があって、左の櫓台跡へ登って行く道があります。
   
櫓台跡にはお墓があります。名前を見ていきますと、二・二六事件の青年将校の名になっています。木村孔爾氏が建てたものでしょうか。  
   
櫓台跡の東側を下りて行くと、東登山道に出ます。しばらく東登山道を下りて行くと、忠魂塔の案内がありますので、左手に入って行くと、岩の上の高い位置に忠魂塔が立っています。陸軍大臣荒木貞夫の書になっています。1931(昭和6)年12月、荒木貞夫は犬養内閣の陸軍大臣となり、五・一五事件で犬養毅首相が暗殺された後の斎藤内閣でも陸軍大臣に就いています。最終階級は陸軍大将でした。その後、第一次近衛内閣・平沼内閣では文部大臣に就任しました。戦後、A級戦犯として東京裁判では終身刑の判決を受けますが、後釈放され、1966(昭和41)年89歳で死去しました。
東登山道に戻り、更に下って行くと、中登山道との分かれ道に戻って来ます。そして「花尾公園 花尾城址」の看板がある所まで戻ります。
   
アスファルトの道を進むと、左に上る道がありますが、行き止まりの案内があります。その道の先が西登山道です。そのまま直進します。車1台が通る細い道です。左に水道施設の花尾分水池があり、そこを左カーブした先が十字路になっていますので、右折して坂を下ると、花尾東登山口に入るもとの道の西側に出ます。こちらが花尾西登山口になります。花尾西登山口から西に坂を下りて行くと第一屋形船バス停があり、右折の道があります。そこを右折し、屋形船車庫バス停を過ぎます。この付近のバス停に「屋形船」という名前が残っていますが、都市高速ができる前は池があり、料亭があって、屋形船が浮かんでいました。
高架の都市高速の先に右に上る道があります。そこを上ると、都市高速の横の駐車場に出ます。
 
   
駐車場の横を都市高速が通っています。左端は都市高速河頭トンネルです。先方の山が、先程登った花尾山です。
駐車場は河頭山の麓にあります。河頭山公園の看板があり、河頭山への登山口に当たります。
   
河頭山の山頂を目指して登って行きます。「河頭山不動明王 頭山満翁」の案内板が出ていますが、後程にします。山頂の下の広場まで登って来ました。  
   
山頂の下の広場の先方の大きな岩の上に、仏像と人物像が建てられています。仏教済世軍・済世幼稚園の創立者眞田増丸の坐像です。
東京帝国大学を卒業した眞田は、真の浄土真宗の信仰を求める求道の道に進みました。1914(大正3)年八幡に来て、製鐵所で働く労働者に対して布教活動を始めました。当時八幡には、各地から労働者が流れ込んでいました。太鼓を叩いて街頭行進して布教しました。翌大正4年仏教済世軍を設立しました。最初耳を傾ける人は余りありませんでした。しかし、人々の心を捉え始め、その活動は全国に広がっていきました。布教の傍ら眞田は済世幼稚園を経営したり、行き倒れの者に食事を与えたり、向学心の青年に学費を送ったりしました。済世第一幼稚園(八幡東区前田)は1914(大正3)年に、済世第二幼稚園(八幡西区幸神)は1924(大正13)年に創立されました。1926(大正15)年、眞田は49歳の若さで病死しました。
   
河頭山山頂に着きました。広場になっています。右の大岩の向こう側にプレートが付けられています。「上人頌徳顕彰碑移設之記」のタイトルがついています。その顕彰碑は、大岩の先の、下に黒崎の市街地が望める広場の端に立っています。かって顕彰碑は河頭山の他の場所にあったのが、この場所に移されたことが記されています。  
   
「南無阿弥陀仏」と刻まれた顕彰碑の下には、「祈雨紀念之碑」と刻まれています。
1878(明治11)年黒崎村(現在八幡西区黒崎)は旱魃による飢饉に見舞われたため、木食(そばくい)上人(源唯行)を招き、河頭山で雨乞いをしていただいたところ、雨が降りました。同じく、1893(明治26)年にも旱魃に見舞われ、その時も上人にお願いし、雨を降らせていただきました。翌年この石碑を建てました。
八幡西区藤田1丁目の浄蓮寺の裏手に、木食(そばくい)上人源唯行の墓があり、、「唯行大行者」と彫られています。詳しくは「北九州点描」の「陣山・紅梅」をご覧ください。
   
「河頭山不動明王 頭山満翁」の案内板の所まで戻り、そこから岩の間に入って行くと、「頭山満翁」と書かれた石碑を下から見ることができます。この辺りの山や土地を所有していた木村孔爾氏が心酔していた、玄洋社の頭山満の名を刻ませた石碑です。裏面に紀元二千六百一年と刻まれていますので、1941(昭和16)年に建てられています。  
   
岩の間を登って行きますと、岩に上に不動明王像が立っています。椿の花が一輪咲いていますが、河頭山はヤブツバキの群生地です。
   
右手の方に下りて行きます。少し下ると、左に入る道があります。そこを曲がると、「忠孝」の文字を刻んだ大岩の碑があります。戦前、頭山満に木村孔爾氏が揮毫してもらったものだそうです。
玄洋社は明治の西南戦争後に、福岡で結成された政治結社で、頭山満は創立メンバーの1人です。昭和の太平洋戦争後、玄洋社はGHQ(占領軍総司令部)によって解散させられました。右翼の玄洋社という面が強調されますが、発足当時から自由民権、国権主義、アジア主義と変遷していき、多面性を持っていたといわれています。
 
   
入った来た所に戻り、下って行きますと、人工的にそこに置いたように、大きな岩がごろごろしています。これは花崗閃緑岩です。以前は、河頭山にも石切り場がありました。
   
河頭山から黒崎の方に下って来ました。黒崎中学の北西から南東方向を見ています。登った山が見えます。手前が河頭山、その先が花尾山です。花尾山の後方に皿倉山が見えます。  


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