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黒崎    八幡西区   [2016/10/29]

  
 
1587(天正15)年、豊臣秀吉は九州を平定し、国割りを行います。そのうち北九州関係を見てみますと、筑前国は小早川隆景に与えられ、黒田孝高(よしたか、官兵衛、後如水と号す)は、豊前6郡を与えられ中津城に入りました。残りの企救・田川2郡を秀吉の家臣毛利勝信は与えられ、小倉城に入りました。北九州の在地領主は大名にはなれませんでした。

現在の遠賀郡(芦屋・岡垣・遠賀・水巻町)、中間市、北九州市の西半分である戸畑・若松・八幡東・八幡西区を含む、かっての遠賀郡に当たる地域を主に領地にしていたのが麻生氏でした。麻生氏の当主麻生家氏は小早川隆景の与力として筑後に行き、知行を得ています。その後、浪人をしていますが、後、筑前に入国した黒田長政に召抱えられています。

1600(慶長5)年関ヶ原の戦いの後、黒田孝高の長男、黒田長政は筑前国52万石を与えられ、初代福岡藩主となります。毛利・黒田氏の後の豊前一国と豊後国国東・速見郡の39万石が細川忠興に与えられました。1604(慶長9)年、長政は井上周防之房(いのうえすおうゆきふさ)に黒崎城を築かせ、居城させました。黒崎を含めて若松(中ノ島)・鷹取(直方市)・大隈(嘉穂町)・小石原(東峰村)・麻底良(までら、左右良、朝倉町)の国辺防備のための六端城の構築を進めました。

黒崎城主井上之房は、黒田家の大身で、御牧郡(みまきぐん、遠賀郡のことで、1664年までこう呼ばれました。)のうち、1万7000石が与えられました。黒崎城は洞海湾に突き出た岬の丘にあり、北・東・西は海に囲まれ、南麓には外郭の堀を有していました。城山の南麓一帯には之房や家臣の屋敷が設けられました。これによって黒崎の町が形成されました。黒崎城が築かれた城山は黒崎山と呼ばれていました。ここから黒崎の地名になったと思われます。

城下には民家はなかったため、築城後、藤田村の上ノ名(かみのみょう、現在の桃園競技場から清納1丁目付近)や隈崎(現在の清納2丁目付近)から城下の藤田へ人家が移されました。熊手村の山寺や菊竹名(現在の熊西1丁目付近)から城下の熊手へ民家が移されました。藤田村の本村は上ノ名でしたが、城下の藤田が本村になり、熊手村の本村は山寺でしたが、城下の熊手が本村になりました。これにより宿駅ができ、街道は山手側の鳴水村経由の古道から黒崎宿経由に変わりました。

1615(元和元)年、一国一城令により黒崎城は廃城となります。黒崎城があった城山は、井上之房が号していた道伯に因んで、道伯山と呼ばれるようになりました。廃城後、城下の黒崎宿は整備されました。田が埋められ、田町がつくられ、構口が設けられます。そして、本陣(御茶屋)が田町に移されます。1635(寛永12)年には参勤交代が制度化され、長崎街道筑前六宿東端の口留番所(自藩の境界や交通の要所などに設置した番所)を有する宿駅となります。

長崎街道は小倉から長崎までですが、福岡藩内には東から黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家(やまえ)・原田(はるだ)の筑前六宿があり、福岡藩は街道の整備に力を入れていました。参勤交代が制度化される以前の1612(慶長17)年、冷水越えが開通し、峠を挟んだ内野宿と山家宿が開かれました。現在ではこの年に長崎街道は開通したといわれます。黒崎宿には黒崎湊が付設されていました。黒崎湊は大坂(明治以降大阪)と九州を結ぶ船が発着していました。

当時現在の黒崎駅付近まで海で、特に現在のふれあい通りから岸の浦、黒崎中学校付近まで深い入江になっていました。1687(貞享じょうきょう4)年幕府に届けて入江に堤を築き、新田開発を計画しましたが失敗しました。その後入江はしだいに干潟となり、1696(元禄9)年黒崎駅付近から先の工事に着手しました。この工事には黒崎城の石垣の石が使用されました。このことにより、1699(元禄12)年の竣工後、干拓地に城石村が誕生しました。しかし、堤が波浪に耐えず壊れたため、1738(元文3)年修築工事に着手しました。この工事には遠賀・鞍手・嘉麻・宗像・糟屋5郡の夫役3万が動員されたといわれています。この新田開発を城石開作といいます。

城石開作の西隣の撥川と割子川の間の貞元開作に着手し、1762(宝暦12)年に竣工しました。1872(明治5)年城石開作の先に、藤田の久我庄七が開作を出願し、この五反(五段)開作は1981(明治14)年完成しました。1920(大正9)年三菱合資はこれらの干拓地の6割を取得しました。大正に入ると、若松築港は、大工場誘致を目的にした前田から本城に到る埋立の工事を申請し、若松周辺から洞海湾一円の築港工事を行うようになりました。しかし、その工事は大幅に遅れました。三菱合資が取得した土地の海側も含まれていました。その埋立地は、1935~38(昭和10~13)年に操業した日本タール工業・日本化成工業に譲渡されました。

1891(明治24)年、九州鉄道により現在のJR鹿児島本線が開通しました。この時、黒崎駅ができました。1911(明治44)年、九州電気軌道(九軌)により門司東本町・黒崎駅前間の電車の営業が始められました。1914(大正3)年、この電車は折尾まで延長されました。1942(昭和17)年、同社は他社と合併し、西日本鉄道(西鉄)となります。

かって石炭産業が隆盛の頃、中央の財閥に対し、安川・松本は貝島、麻生とともに筑豊御三家と呼ばれ、安川敬一郎と二男松本健次郎は明治以来筑豊で炭坑経営を行っていました。1908(明治41)年明治鉱業を設立し、豊富な資金で1909(明治42)年技術者養成を目的に戸畑町中原に明治専門学校を開校しました。のち国に移管され、戦後は九州工業大学になっています。その後石炭産業は斜陽化し、1969(昭和44)年明治鉱業は解散します。安川・松本父子は明治紡績(福島紡績に合併・吸収され敷島紡績となる)、安川電機、黒崎窯業(現在ハリマセラミックと合併し黒崎播磨となる)等を設立しました。

安川敬一郎の五男安川第五郎は、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、日立製作所に1年勤務した後、米国のウェスティングハウスで研修します。帰国後の1915(大正4)年、筑豊の炭坑への製品納入を目的に小規模な安川電機製作所を創立します。これとは別に兄の清三郎が社長の同名の株式会社が1919(大正8)年に創立され、後、第五郎の安川電機製作所は吸収されます。創業以来欠損が続いていましたが、製造品目を電動機に集中して業績が向上してきました。1936(昭和11)年兄清三郎が死去すると第五郎は社長に就き、同時に兄が関係していた会社を安川・松本一族を代表して引き継ぎました。

1889(明治22)年前田・鳴水・熊手・藤田村が合併して黒崎村となりました。1897(明治30)年黒崎村が黒崎町になりました。1916(大正5)年前田が八幡市に編入されます。1926(大正15)年黒崎町は八幡市に編入されました。1932(昭和7)年、黒崎駅前土地区画整理事業によって、現在の黒崎駅を中心にした放射線状の町割りができました。戦後の1956(昭和31)年、筑豊の直方まで筑豊電鉄が開通しました。沿線に新しい町ができました。そして1963(昭和38)年、北九州市が誕生しました。

三菱鉱業と旭硝子の出資により日本タール工業は設立され、1935(昭和10)年黒崎工場(現:黒崎事業所)が開設されました。翌年、日本化成工業と改称されました。1944(昭和19)年旭硝子を合併して、三菱化成工業が発足し三菱直系の総合化学メーカーになりました。戦後、日本化成工業、旭硝子、新光レイヨン(現在三菱レイヨン)の三社に分割されますが、1952(昭和27)年日本化成工業は再び三菱化成工業と改称します。その後も開設や合併が行われ、1988(昭和63)年三菱化成工業が三菱化成と改称され、1994年(平成6年)三菱化成と三菱油化が合併して三菱化学が発足しました。

安川電機製作所の安川第五郎(1886-1976)は、戦後の1946(昭和21年)年、石炭庁長官に就任しますが、同年、戦時中玄洋社理事に就いていたことから、GHQにより公職追放を受けました。1949(昭和24)年安川電機製作所会長に復帰し、その後、1955(昭和30)年、日銀政策委員を始めとして多くの経済団体の役員を歴任し、1963(昭和38)年東京オリンピック組織委員会会長に就任しました。安川電機製作所は、機械工学、電気工学、電子工学、情報工学の知識・技術を融合させるメカトロニクスを1972(昭和47)年 商標登録(現在は商標権を放棄)し、1991(平成3)年社名を安川電機に改称し、現在は産業用ロボット等メカトロニクス製品の製造を行うメーカーになっています。

八幡西区の黒崎は、黒崎駅を中心にした北九州市の副都心といわれます。しかし、周辺を含むこの地域から人口が流出し、郊外に大型店ができ、地域では大型店の閉店・閉鎖が相次ぎました。それに加えて、小倉が北九州の中心としての地位を高め、若者を中心に福岡への関心が高まるにつれて、黒崎の地位は相対的に低くなっていきました。モータリゼーションの発達により、西鉄電車は路線維持が困難となり、1992(平成4)年砂津・黒崎駅前間が廃止になりました。黒崎駅前・折尾間も2000(平成12)年廃止になりました。かっての黒崎のにぎわいを取り戻そう、との官民挙げての取組みが現在行われています。
洞海湾の対岸の若松区石峰山からの黒崎の眺めです。手前の海面が洞海湾です。左側の小山が道伯山(城山)です。道伯山の手前の海面は黒崎泊地です。道伯山の向こう側から高架の国道3号線黒崎バイパスが横に伸びています。黒崎バイパスのすぐ向うに横長の7階建て大型複合商業施設メイト黒崎が建っています。メイト黒崎の右横が黒崎駅になります。メイト黒崎の黒崎パイパスの手前側の白色の建物が安川電機です。右側に三菱化学の赤白の煙突がが見えます。安川電機の海側、及び安川電機の右隣からずっと右手が三菱化学です。黒崎バイパスのすぐ向う隣にJR鹿児島本線が通っています。その先は黒崎の市街地です。
国道3号線の八幡西区紅梅1丁目交差点から北側に斜めに入って行く道があります。かっての長崎街道筋になります。JRの踏切を渡ります。黒崎バイパスの高架道の先が、黒崎バイパスと並行する道路との田町東橋交差点です。長崎街道筋はそのまま直進します。交差点の角に田町歴史の径と名付けられた休憩場所があります。後程見学するとして、道伯山山頂を目指します。交差点のすぐ先に右折して坂を上る道があります。そこの曲がりくねった道を上って行き、突き当りを左に進むと、山頂下の駐車場に着きます。駐車場の北側から石峰山が見えます。桜の幹の右側の山上から黒崎を見ていました。
   
1604(慶長9)年黒崎城は築かれます。山頂の南西側に左側の黒崎城阯の石碑が立っています。黒田家第13代当主、侯爵黒田長成(ながしげ)の書によるものです。1615(元和元)年、幕府は一国一城令を発しました。これにより、黒崎城は廃城となりました。黒崎城の遺構は、現在ほとんど残っていません。廃城後、井上周防之房は陣原の屋敷に移り住みました。
井上之房の屋敷跡については「北九州点描」の「陣原」を、墓については「北九州の近隣」の「岡垣・遠賀・水巻町」を、井上之房の妻や娘の墓については「八幡のまちかど」の「穴生」をご覧ください。
黒崎城阯の石碑の先、道伯山山頂の南西に展望台があります。展望台から西方向、黒崎駅から北側の眺めです。左にカーブした道路の白線が見えます。その上から右手の一角が安川電機です。安川電機の右手及び向う側、煙突の先までが三菱化学黒崎事業所です。
道伯山山頂展望台から南西方向、黒崎駅から南側の眺めです。黒崎の市街地が広がっています。右側の高架の国道3号線黒崎バイパスの向こう側、南側に黒崎メイトの建物が見えます。そのすぐ右側に黒崎駅があります。
道伯山(城山)の山頂は平らで、遊歩道やトイレなどがあり、整備されています。山頂付近から北側半分の麓までは城山緑地になっています。  
   
国土地理院発行の5万分の1地形図(小倉)の明治33(1900)年側図の一部です。上の右図と比較されるとよく分かると思います。この時代になっても、道路は江戸時代の長崎街道筋が主要道路になっています。その街道筋に沿って人家が並んでいます。文字の横書きは右からです。黒崎駅の北、撥川の東側が城石開作、その北側が五反(五段)開作、撥川の西側が貞元開作による水田です。貞元は定本と書かれています。昭和10年代にこの地図の海側が更に埋立てられ、黒崎駅の北側は工場地帯に変わっていきます。道伯山(城山)は標高65mと書かれています。現在は63mで、現在山頂は公園化され平らになっています。城があった当時は三段になっていたといわれています。屋敷は秋月藩蔵屋敷跡からの地名といわれています。黒田宮は春日神社で、岡田神社も見えます。
   
黒崎バイパスと並行する道路との田町東橋交差点の角に、田町歴史の径と名付けられた休憩場所がありますがそこまで戻ります。黒崎宿の説明板が立てられています。長崎街道筋の数個所に説明板が立てられています。左が黒崎バイパスと並行する道路で、右が旧長崎街道筋です。  
   
田町歴史の径に黒崎湊にあった常夜灯が移設されています。これは灯台として、1849(嘉永2)年、黒崎湊の入口に建てられたものです。湊からは下関や上方へ船が発着していました。
   
城石村開作成就の碑も移設されています。この碑には「元文三年午五月城石村開立成就」と記されています。城石開作地に建てられていました。城石開作は1699(元禄12)年竣工しましたが、堤が波浪に耐えず壊れたため、1738(元文3)年修築工事に着手しました。  
   
旧長崎街道筋を東から西に進みます。海蔵庵というお寺の前に、黒崎宿東構口(かまえぐち)跡の石碑が立っています。構口は方位に関係なく、上りが東、下りが西と呼びました。黒崎城が廃城になると、城の南側にあった堀を埋めて、道の両側に石垣を築いた構口を設け、旅人を監視しました。長崎街道の出発点の豊前国小倉からの旅人はこの東構口から入って来ました。黒崎宿は国境の宿場でしたので、警備も一段と厳しいものでした。黒崎宿東構口から西構口までは1.1kmです。
   
東構口の先の十字路で街道筋は直角に左に曲がり、南に向かいます。そのまま直進して黒崎湊の方向に進みます。すぐに県道273号築地・汐入線に出ますので、右折して北に向かいます。道伯山の西側に出ます。道伯山の西側には、現在は埋立てられていますが、江戸時代には黒崎湊がありました。道路はこの先山の北側に向いて右にカーブします。
右カーブの所の道路端に五卿上陸地の石碑が立っています。1863(文久3)年、八・一八の政変で、公武合体派に敗れた尊王攘夷派の七卿は長州へ落ちました。途中二人が欠けた三条実美(さねとみ)以下五卿は、第一次長州討伐の結果、大宰府に配流となり、1865(元治2)年1月15日、ここに上陸しました。  
   
五卿上陸地の石碑の先、右に入る道があります。入ったすぐの左手に秋月藩蔵屋敷跡の石碑が立っています。ここは、福岡藩の支藩秋月藩の年貢米を一時貯蔵した蔵屋敷跡です。ここには、米蔵のほか、藩主の別館や海辺には波止場も設けられました。この辺りの屋敷という地名は、この蔵屋敷に由来します。
   
県道273号築地・汐入線に入って来た所まで戻り、更に東構口の先の十字路まで戻り街道筋を進みます。街道筋は直角に曲がり、南に向かいます。右手にに末松商店の建物があります。末松家は醸造業を、そして八幡製鐵所が開設されると、その関連の仕事をしていました。1919(大正8)年この建物は建てられ、多岐な業務を行う株式会社末松商店の社屋として建設されました。外装はモルタル塗りですが、その構造には鉱滓レンガが使われています。  
   
右端に末松商店がみえます。その南には末松家の住居がありました。これら一帯に、江戸時代には町茶屋(脇本陣)がありました。向かい側には町屋が並んでいました。末松商店の先は黒崎バイパスに並行する道路に出て、高架の黒崎バイパスの下になります。黒崎バイパスの下から来た道を振り返っています。この辺りが藩主の宿舎の御茶屋(おちゃや、本陣)がありました。この辺りは田を埋めて町をつくったということで、田町と呼ばれ、宿場の中心地でした。藤田村内でしたが、行政的には独立していました。新しい市道とバイパス道路の工事に先駆け、2003(平成15)年秋から発掘作業が行われ、遺跡調査は完了しています。その結果が田町歴史の径の説明板に記載されています。
   
黒崎バイパスの先はJRの踏切で、そこを渡ると右手にマンションが建っています。そこに桜屋がありました。桜屋は薩摩藩や熊本藩の定宿で、幕末の当主古海東四郎正顕は勤皇の志があり、西郷隆盛や坂本竜馬、そして、大宰府配流の途中の三条実美ら五卿も泊まりました。かって桜屋の離れの庭に建てられていた歌碑二つが踏切横に建てられています。
右側下の古海正顕「さかまほし大内山の鶯の こころつくしにもらす初音に」に対し、
右側上が三条実美「九重のはるにもれたるうくいすは 世のことをのみなけきこそなけ」 
左側は、実美と共に配流された東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)が明治42年太宰府天満宮参詣の帰路読んだ「さすらひし昔の跡のしるしとて 植し小松の千代に栄よ」
 
   
マンションの入口の前に、桜屋跡地の石碑があります。
   
マンションの前は、国道3号線の藤田2丁目交差点です。交差点を横断し、左折して国道3号線沿いに東に行きます。しばらく行くと、浄土宗の浄蓮寺があります。  
   
藤田2丁目交差点に戻ります。国道付近に、江戸時代は制札場(せいさつば)がありました。法令を掲示して民衆に周知させる場所です。交差点から南に進みますと、街道藤田通りの入口です。この通りが長崎街道筋です。その入口の左手の店の左前に人馬継所(じんばつぎしょ)跡の石碑が立っています。人馬継所では、大名などの往来の際の人馬の引継ぎが行われました。その前には関番所がありました。関番所では、旅人の手形改めが行われました。石碑の先に春日神社の鳥居が見えます。
   
春日神社は、中世この地を治めた麻生氏が崇拝する神社でしたが、井上之房はこの地に移します。それが中央の右の神額の鳥野春日大明神です。奈良の春日大社は藤原氏の氏神です。鳥野春日神社は藤原氏の流れの麻生氏の氏神でした。藩主黒田氏も藤原氏の流れでした。後、福岡藩祖の黒田孝高(如水)・初代藩主黒田長政を黒田大明神として祀りました。それが中央左側の神額です。  
   
中央の他に左右に神額が掲げられています。左側には黒田長政の重臣黒田二十四騎を合祀し、二十四騎霊神が掲げられています。福岡藩が江戸末期に御用絵師尾形洞霄(おがたどうしょう)に描かせた「絹本著色黒田二十四騎画像」が春日神社に奉納されています。これは右側の神額で、大比叡神社はこの地にあった神社です。須賀神社は祇園祭りの祭神素盞鳴命(すさのうのみこと)を祭っています。
春日神社・岡田神社・一宮神社の祇園祭りが黒崎祇園です。詳しくは、「北九州の催事」の「黒崎祇園」をご覧ください。
   
人馬継所の石碑がある所から西に入る街道藤田通りの入口に戻ります。かっての藤田銀天街の入口で、アーケードの商店街でしたが、そのアーケードが撤去されています。老朽化し、営業する商店が少なくなったためです。2008(平成20)年10月通りは整備されて、街道藤田通りに生まれ変わっています。藤田2丁目交差点から南に来て、右折して西に街道藤田通りを進むのが旧長崎街道筋です。  
   
街道藤田通りの半ば付近の左手に浄土真宗正覚寺があります。戦国時代1564(永禄7)年の開基です。
   
街道藤田通りの西端近くの右手に、江戸時代には郡家(ぐんや)と代官所がありました。郡家は町方・村方の役人の集会所で、代官所は黒崎宿の行政担当者の役所でした。店舗の間に代官所跡の石碑があります。代官所の右手に郡家がありました。  
   
街道藤田通りの先、熊手に入る道路に囲まれた三角形の一角が、黒崎宿案内の休憩場所になっています。熊手の前の道路を宿場通りといいます。宿場通りを渡ると、上市くまて通りです。イラストで黒崎宿を通った歴史上の人物が描かれています。手前に橋のモニュメントがあります。この道路には中橋川が流れ、中橋が架かっていました。江戸時代は、東構口からここまでが藤田村で、この先西構口までは熊手村でした。
   
くまて通りはアーケード街です。江戸時代、遠賀・鞍手・嘉麻・穂波・宗像の者は豊前小倉まで行っていましたので、黒崎宿は、新市設置を願い出ました。福岡藩は、1704(宝永元)年、黒崎に市を立てることを許可しました。市が立つのが毎月2・6・11・16・21・26日でした。この市により、岡田神社の前から東側を上市、西側の構口までを下市と呼びました。熊手村の上市・下市には役所はなく、商人の町でした。  
   
くまて通りの西寄りに興玉神(こうぎょくしん)が祀られています。祭神の猿田彦命は日向高千穂峰降臨の際の道案内であり、古来より街道や村境を守り、福を招く鞘の神、塞の神、幸の神、庚申興玉神として崇敬されています。
   
東西に通るくまで通りのアーケードを出ると、右手に黒崎駅から南北に通るカムズ黒崎のアーケードの南端の入口があります。右がくまで通りで、左がカムズです。  
   
街道筋は西方向ですが、南に向かいます。南に向かうと市道山手線との交差点になります。その左手前、北東角に浄土真宗善定寺があります。江戸時代1661(寛文元)年の開基です。
   
カムズ黒崎のアーケードの南端の入口まで戻り、街道筋を西に進みます。次の十字路です。南側に市道山手線に立つ岡田神社の鳥居が見えます。これから西構口までは、江戸時代は下市でした。  
   
南側の山手線を横断して、岡田神社に向かいます。岡田神社の由緒は古く、古代豪族の熊族の祖神から始まったといわれています。かっては洞海湾の菊竹ノ浜にありました。神武天皇や神功皇后の神事が伝わるお宮で、その地は熊手(現在の熊西1丁目付近)と称されていました。黒崎城築城の翌年の1605(慶長10)年、岡田神社は城下の熊手へ移されました。
   
神門の「岡田社」の神額の奥に「天地人」の神額が掲げられています。1707(宝永4)年貝原益軒の高弟鶴原君玉が奉納した天の時・地の利・人の和を表す三文字の神額です。
黒崎祇園は岡田神社・春日神社・一宮神社の祇園祭りです。
 
   
先程の十字路に戻り、西に向かいます。ふれあい通りに出ます。江戸時代、通りの両側に石垣を築いた黒崎宿西構口がありました。黒崎宿の西端です。前の道路が駅からのふれあい通りで、西構口を出た旅人は石碑の向うに見える道を西に進みました。
   
そのまま西に進みます。小さな川が流れています。撥(ばち)川です。そこに乱(みだれ)橋が架かっています。江戸時代、この先に遊郭があったといわれています。寄るかどうか、心が乱れたので付けられたといわれています。街道筋は、橋を渡ると、すぐに左に曲がり南に向かいます。  
   
南に向かった先、市道山手線を越えると曲里の松並木になります。次の宿場は木屋瀬です。
黒崎宿と木屋瀬宿の間は、「八幡のまちかど」の「曲里・石坂」をご覧ください。
   
曲里の松並木の左手、東側は厚生年金病院跡地でしたが、2012(平成24)年に黒崎ひびしんホールが、その隣に八幡西図書館が新設されました。右側が八幡西図書館で、中央が黒崎ひびしんホールです。左側の建物の前の芝生広場が曲里の松並木公園になっています。
曲里の松並木公園の前は市道山手線で、その東側の交差点は黒崎駅前の南北の通りのふれあい通りの南端になります。
ふれあい通りを北に進み黒崎駅の前に来ました。駅前はペストリアンデッキ(人工地盤)になっていて、地上より高い所に駅前広場があります。向こう側が黒崎駅で、手前の道路は国道3号線です。  
   
黒崎駅前のふれあい通りの横にこの石碑があります。ふれあい通りを含めて、黒崎駅を中心に放射線状のまちづくりになっています。これは、1932(昭和7)年の黒崎駅前土地区画整理事業によって町割りされたものです。
   
更に東に行くとカムズ黒崎の入口になります。カムズ黒崎は横幅も高さもあるアーケード街です。
ペストリアンデッキ(人工地盤)の上には、四方から階段、エレベーター、エスカレーターで昇ことができます。
ペストリアンデッキ上の黒崎駅前広場の南端からふれあい通りを眺めています。この通りは黒崎祇園山笠競演会の会場になります。  
   
黒崎駅を南側から見ています。現在の黒崎駅は1984(昭和59)年に建てられ、現在建て替え中です。橋上駅で、高架の連絡道で各方面とつながっています。
   
黒崎駅前広場から東側の眺めです。ペストリアンデッキ(人工地盤)でつながっているのはメイト黒崎です、黒崎駅前までの国道3号線を、1992(平成4)年まで西鉄電車が通っていました。黒崎駅東地区市街地再開発事業による大型複合商業施設メイト黒崎は、1979(昭和54)年に竣工しました。黒崎そごうがキーテナントで入店しましたが、2000(平成12)年7月そごうが破綻すると、黒崎そごうは同年12月閉店しました。ふれあい通りにあった黒崎井筒屋が、翌2001(平成13)年10月に黒崎そごう跡に移転開業しました。
黒崎駅前広場から西側の眺めです。ペストリアンデッキ(人工地盤)でつながっているのはコムシティです。道路は国道3号線です。黒崎駅西地区市街地再開発事業による大型複合商業施設コムシティが2001(平成13)年11月にオープンしました。この場所には西鉄電車の車庫・電停の跡地、筑豊電鉄の電停や民家がありました。コムシティは、バスターミナル、筑豊電鉄の電停、物販・飲食の商業施設、ビジネスホテル、市立の子供の館がある複合ビルでした。しかし、第三セクターの運営会社がわずか1年半で破産し、2003(平成15)年5月に商業施設は閉鎖されました。2007(平成19)年商業フロアーは売却され、商業施設を再開する予定でしたが成功せず、北九州市に買い取りを依頼しました。2011(平成23)年から市は行政機関の移転、商業フロアーの運営主体、八幡西区役所の移転を発表しました。2013(平成25)年改装が完了し、逐次移転、オープンしました。ビル全体としては、ほぼ10年後の再開でした
黒崎駅の中を改札口の前を通って北側に行きます。跨線橋を渡って行くと安川電機の前に出ます。左が本社屋で、右がみらい館です。
安川電機みらい館の入館は、公式サイトの見学のご案内をご覧ください。
   https://www.yaskawa.co.jp/company/tour
みらい館の1階です。安川電機の産業ロボットを見ることができます。また安川みらい研究所でこれからの社会を考えます。2階では、ロボットを相手にゲームをするアトラクションがあったり、超小型ロボットがミニカーを作ったりします。
他に別棟の安川電機歴史館も見学できます。更にロボットがロボットを作る工場を見学できます。
 

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