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曲里・石坂  八幡西区  [2015/03/14] 

 
   
江戸時代、長崎街道は、主要な街道の五街道に続く脇街道の一つで、豊前小倉と唯一海外に開かれた肥前長崎を結ぶ、25の宿場がある重要な街道でした。1612(慶長17)年、冷水峠が開削され、内野宿が開設され、峠を挟んだ西側の山家(やまえ)宿とつながり長崎街道は全通しました。これらの宿場を含めて、福岡藩の黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田宿を筑前六宿(ちくぜんむしゅく)と呼びます。

1635(寛永12)年、将軍徳川家光によって武家諸法度が改訂され、大名の参勤交代が制度化されました。それに伴い、長崎街道は整備されたといわれています。筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の諸大名の参勤交代、長崎奉行・西国筋郡代の交代、長崎出島のオランダ商館長や中国人の江戸参府、交易品・献上品の運搬に長崎街道は使われました。

出島に荷揚げされた砂糖は、街道を通って京・大坂、江戸に運ばれました。街道筋には砂糖を使った西洋菓子の製法も伝えられ、全国的に有名な銘菓が誕生しました。このため、長崎街道は砂糖の道、シュガーロードと呼ばれます。1728(享保13)年、将軍吉宗に献上される白象が街道を通って、江戸まで旅をしました。ベトナムからの2頭の象は唐船で長崎に来ましたが、雌の1頭は間もなく亡くなり、雄の1頭だけが江戸に向かいました。この時、街道筋は大騒ぎだったといわれています。

豊前小倉城下の紫川に架かる常盤橋が長崎街道の起点です。西に進み、豊前から筑前に入った最初の宿場が黒崎宿です。ここでは黒崎宿と木屋瀬宿の間の長崎街道跡を訪ねます。江戸時代後期、伊能忠敬は17年の歳月をかけて全国を測量し、日本地図を完成させました。黒崎宿から木屋瀬宿を測量したのは、1812(文化9)年1月29日でした。黒崎宿と木屋瀬宿の間でも、特に曲里(まがり)の松並木と石坂の立場茶屋銀杏屋(たてばぢゃやいちょうや)を中心に紹介します。

黒崎宿西構口を出て長崎街道を西に進みます。撥(ばち)川に架かった乱(みだれ)橋を渡ると、すぐに左折します。長崎街道は南に方向を変え、上り坂になります。市道山手線に出ます。その先に曲里の松並木があります。松並木の西側に並行して、国道200号線が通っています。山手線の松並木の北の入口は、山手線の岸の浦2丁目交差点と国道200号線の東曲里交差点の間になります。曲里の松並木の長崎街道は南方向の上り坂です。

曲里の松並木の南の入口前の道路の先、幸神(さいのかみ)にも松並木が続きます。松並木が途切れる辺りに幸の神(さいのかみ)の祠があります。幸神はこの付近の地名になっています。この西側を、国道200号線が並行して通っています。緩やかな上り坂が続きます。幸の神の祠の先、鳴水と国道200号線を結ぶ道路を越えますと、すぐ左に幸神の一里塚跡の石碑が立っています。その先道は少し下り坂になり、すぐに上り坂になり、国道200号線に出ます。

しばらく国道200号線と長崎街道は重なり、八幡工業高校前からは下り坂になります。都市高速の高架道が架かる引野口交差点に出ます。国道200号線は引野口交差点を右折しますが、直進は国道211号線になります。長崎街道は国道211号線の東側を並行する道になります。引野口交差点からは上り坂になります。上った先が上の原で、左手に涼(すずみ)天満宮があります。ここで道が国道に合流し、国道211号線と長崎街道は重なります。

涼天満宮のすぐ先、中の原1丁目交差点の右手にやから様と呼ばれる祠があります。この交差点から先は急な下り坂です。下上津役(しもこうじゃく)4丁目交差点まで下り坂です。そこから上り坂になります。上り切った先に町上津役東交差点があります。ここから長崎街道は右に離れて、国道211号線の西を並行し、緩やかな下りになります。

町上津役に入って右手に蛭子神社があり、その先を進むと八児(やちご)小学校あり、その前に地蔵堂があります。これらの前を通り過ぎた先で道は国道に合流し、国道211号線と長崎街道は重なります。国道に都市高速の高架道が架かっています。その先の国道の右手に小嶺の一里塚跡の石碑が立っています。この先の小嶺から石坂の間の様子は、昔とは随分変わってしまったようです。昔は、一里塚の先から山を上り、その頂上からアケ坂という峠を通り、中の谷の谷底から石坂の急坂を上りました。

国道211号線の千代1丁目交差点の先まで上り坂で、その先小嶺台2丁目交差点まで緩やかに下りて行き、小嶺台2丁目交差点を右折して国道を離れ、石坂の坂道を上って行きます。上り切った先に大名達の休憩所であった立場茶屋銀杏屋があります。その先道路は左にカーブして坂を下って行きますが、長崎街道は曲がらずに直進し、石畳を通り、その先は石段になります。昔は岩盤が露出し、石坂の急坂といわれた難所でした。

長崎街道の石段を下りた所で道路と合流します。その先の黒川に石坂橋が架かっています。上流に畑貯水池があります。ここから木屋瀬宿までは大きな坂はありません。池田1丁目交差点を過ぎた先の池田小学校入口交差点で国道211号線に出ます。国道211号線の反対側に香徳寺があります。国道211号線を少し行った先の馬場山交差点で国道を離れ、右に入っていきます。

再び国道を離れて長崎街道を進みます。右手に大日堂があります。この辺りは茶屋の原です。都市高速の高架道の下を進んだ先の右手に茶屋の原の一里塚跡の石碑があります。小嶺とこの茶屋の原の一里塚の間は実は1里ありません。六合道と呼ばれていました。アケ坂や石坂の険しい坂道を考慮したものといわれています。先に進み、笹尾川に架かった真名子(まなこ)橋、筑豊電鉄の踏切を通り、高架の九州自動車道の下を通った先で木屋瀬宿の東構口跡に着きます。 
黒崎宿西構口跡です。黒崎駅から南の市道山手線に到るふれあい通りに面しています。左に行くと山手線の岸の浦2丁目交差点です。長崎街道はふれあい通りを横切り西に向かいます。
黒崎宿の詳細は、「八幡のまちかど」の「黒崎」をご覧ください。
   
現在改修工事中の撥(ばち)川に架かった乱(みだれ)橋を渡ると、長崎街道はすぐに左折し南に向かいます。市道山手線の向こうに曲里の松並木が見えてきました。曲里の松並木に入ります。曲里の松並木は約600mほど続きます。そのうち310mは、市指定史跡になっています。
曲里の松並木の西側の国道を挟んだ両側に、かって三菱化成(現在三菱化学)の社宅が並んでいました。その跡地にプリンスホテルが進出しました。それも撤退し、そこにショッピングモールやショッピングセンター等の店舗が進出しています。  
   
曲里の松並木の東側にはかって厚生年金病院が建っていました。病院は独立行政法人地域医療機能推進機構九州病院と改称され、かって八幡製鐵所の社宅が建っていた南側の岸の浦に移転し、新築されています。厚生年金病院跡地に手前が北九州市立八幡西図書館、その向こうに黒崎ひびしんホールが建っています。
   
松並木の中に古街道の石碑が立っています。昭和9年(1934)の年号が入っています。  
   
松並木途中に東(あずま)屋があり、その先にこの石碑があります。松並木の中間点になります。背後の建物は、ホテルクラウンパレス北九州です。前は北九州プリンスホテルでした。北側にあったプリンスホテルのアリーナや付属施設の跡地が各種ショッピングセンターになっています。
   
曲里の松並木の石碑の先にこの松があります。並木の松の多くは伐採され、松並木の景観が失われる恐れもありましたが、現在は立派に整備され、松並木の景観が保存されています。松並木のほとんどの松は江戸時代の松ではありません。その後に植栽されたものです。この松は、街道松として生き残った松です。  
   
松並木を道路が横断して、その先に残り半分の松並木が続きます。この切り株は、1999(平成11)年台風で倒れ、枯死した松です。幕末の1856(安政3)年に植え付けられたといわれています。
   
曲里の松並木の南の入口を出て、道路を横断した先の幸神(さいのかみ)にも松並木が続いています。  
   
幸神の松並木のはずれ、先ほどの松と同様に、しめ縄が締められた古い松があります。その松の前、右手に幸の神(さいのかみ)の祠があります。幸の神は鞘の神・塞の神ともいわれ、祭神は猿田彦大神で、街道や村境を守り、生殖や生産を祝う神様です。
   
幸の神の祠の先の十字路を直進しますと、すぐ左に幸神の一里塚跡の石碑が立っています。一里塚は塚に松などを植えて、旅人の距離の目安にしたものです。1里は約4kmで、1里は36町、1町は60間でした。黒崎宿ができる以前は、街道は平野・川頭・鳴水を通ってここに来ていました。それは右の道です。長崎街道は手前の道を右に進みます。  
   
一里塚跡の先を進むと、道は少し下り坂になり、その底の右手に、曲里の松並木内にも立っていた古街道の石碑があります。先方の坂の上が国道200号線です。しばらく長崎街道は国道と重なります。
   
国道200号線から211号線になり、引野口交差点からは国道の東を通っていた長崎街道が国道に重なる上の原に、涼(すずみ)天満宮があります。昔、境内の大松の木陰で、旅人が涼んで休憩したので、この名が付きました。その松も今はありません。正徳年間(1711~16)、長崎の人、熊部新治郎が所用で京都に上る途中、ここで休憩し、金の入った荷物を松の木に掛けたのを忘れて出掛けます。翌年、帰りに立ち寄りますと、荷物はそのまま残っていました。新治郎は天神様に感謝し、鳥居を寄進しました。その鳥居は、その後損壊しました。そのため、この鳥居を天明年間(1781~89)に再建しました。  
   
涼天満宮のすぐ先、中の原1丁目交差点の右手に祠があります。やから様です。ここには次のような話が伝わっています。
鎌倉幕府の追討を平家の人々は散り散りになって逃れていました。通りかかった乳飲み子を抱いた乳母と母親は、野宿のため街道脇の谷間に休んでいました。そこを追手の伊藤兵衛尉(ひょうえのじょう)一行が通りかかりました。運悪く夜泣きの癖が始まりました。一行はこれを聞きつけました。母親はわが子を短刀で刺し殺し、母親も乳母も自害しました。母親は虫の息の中で、ここに葬っていただければ、夜泣きで悩む母親を見守ってやりたいと言って、息を引き取りました。伊藤兵衛尉は祠を建てました。幼子がむずかったり、親を困らすことを「やから」ということから、やから様と呼ばれるようになりました。
   
町上津役(まちこうじゃく)東交差点で、右に入る道があります。旧長崎街道はそちらになります。交差点の先の右手に蛭子神社があります。  
   
蛭子神社の境内右手に、2つの石塔があります。左の石塔は貴船社です。
   
右の石塔は幸神尊天です。幸神尊天には享保九年(1724)の年代が刻まれています。旱魃の時には川底に漬けて、神様を怒らせて雨が降るのを祈ったといわれています。  
   
蛭子神社の前を南に行きます。八児(やちご)小学校前の左手、藤棚の下に地蔵堂があります。江戸時代からあり、八児地蔵と呼ばれています。その先に金山川が流れています。上流なので小川です。
金山川については、「北九州点描」の「金山川」をご覧下さい。
   
地蔵堂の先で、長崎街道は国道211号線と重なります。国道の上を都市高速の高架道が通っています。高架の都市高速を過ぎたすぐの国道の右側に、小嶺の一里塚跡の石碑があります。小嶺から石坂一帯は、黒崎宿と木屋瀬宿の間の最大の難所でした。殿様は駕篭を降りて、急坂を越えていました。  
   
国道211号の小嶺台2丁目交差点から、長崎街道は右折します。その付近が石坂で、上り坂になっています。坂道の頂上付近の左手に駐車場の案内があり、その先の右手に、立場茶屋銀杏屋(たてばぢゃやいちょうや)はあります。大名達の休憩所で、屋敷内に目印になる大銀杏があったので、銀杏屋の名が付けられました。現在の銀杏屋は、1836(天保7)年の火災により焼失後建築されたものです。前の所有者の清水家は、江戸時代香月村の組頭を勤めたこともある農家で、明治になると醤油の醸造を行っていました。立場茶屋銀杏屋は北九州指定の文化財で、月曜と年末年始を除いて、毎日無料で見学できます。
立場茶屋銀杏屋の庭の銀杏の木に枯れた幹がありますが、火災の被害を受けました。残された根株から芽が出て、この様な大木に育ちました。
   
3月3日の桃の節句、ひなまつりの前後には屋敷内に数多くのおひな様が飾られます。「竹びな」は、内裏様とおひな様が竹の中に鎮座しています。お顔は描かれていませんが、かわいい姿です。通りに面した所に、列をなして置かれています。入って来る人の、まずは目を引きます。  
   
立場茶屋銀杏屋の入口を入った所は土間です。土間から見ています。屋敷中おひな様でいっぱいです。天井からは、「さげもん」や「大小の糸まり」が飾られています。
   
奥に人の大きさほどの「巨大びな」が飾られています。立場茶屋銀杏屋の管理運営委員会の方による手づくりです。ここが上段の間と呼ばれる8畳間です。その手前が中の間と呼ばれる6畳間、更にその手前に8畳間の座敷があり、3つの座敷が続いています。立場茶屋銀杏屋は、長崎街道で、上段の間を持つ唯一の立場茶屋の遺構です。  
   
土間に近い、上段の間の右隣、8畳間の右奥に箱階段があります。その手前は天井裏への階段があります。上段の間と中の間の天井裏に、天井の上に空間を作り、竹を敷き、その上に藁を置き、土を塗った土天井になっています。これは防火、防犯、保温などが考えられますが、はっきりは分からないようです。
   
銀杏屋の先を進みますと、道路は左にカーブしています。そこを曲らず直進しますと、下り坂の小道が新しい石畳に整備されています。こちらが旧長崎街道です。  
   
石畳の先は階段になっています。ここは石坂の急坂といわれ、昔は階段などはなく、当時は岩盤が露出していました。この坂は、木屋瀬から来た旅人の難所でした。
   
坂を下りた所に興玉神(こうぎょくしん)が祀られています。祭神の猿田彦命は日向高千穂峰降臨の際の道案内であり、古来より街道や村境を守り、福を招く鞘の神、塞の神、幸の神、庚申興玉神として崇敬されています。  
   
立場茶屋銀杏屋の先で道路は左にカーブして、その先で右にカーブして下りて行き、興玉神の前に出ます。そこで道路と長崎街道が重なります。その先に、黒川に架かる石坂橋があります。そこから上流の眺めです。先の方に畑貯水池の堰堤が見えます。黒川にはゲンジボタルが生息し、この下流の香月はホタルの名所です。黒川は中間市で遠賀川に合流します。
畑貯水池については、「北九州点描」の「畑貯水池」をご覧下さい。
   
黒川を渡り、池田1丁目交差点を過ぎ、国道211号線に出た所が池田小学校入口交差点です。国道の反対側に浄土宗香徳寺があります。1592年の文禄の役で、朝鮮出兵の基地になった肥前名護屋に向かう徳川家康に、信誉存道上人が十念(10回の念仏)を授けました。存道上人が開基したのが香徳寺です。1935(昭和10)年にこの地に移転されたといわれています。  
   
国道211号線を少し進み、次の馬場山交差点を右折します。まもなく右手に大日如来を祀った大日堂があります。存道上人が十念を家康に授けた時の、上人が立たれた石の上にお堂を建てたと伝えられています。
   
肥前名護屋に向かう豊臣秀吉が休んだ茶屋があったということで、茶屋の原という地名が付いたといわれています。大日堂の先に都市高速が通っていて、その先の右手に茶屋の原の一里塚跡の石碑ががあります。小嶺と茶屋の原の一里塚の間はアケ坂や石坂の急坂の難所があったため1里はありませんでした。  
   
先に進み、真名子(まなこ)を過ぎると、笹尾川に出ます。この川付近が遠賀郡と鞍手郡の境でした。真名子には、1855(安政2)年、福岡藩は砂鉄の製鉄場を設けました。1868(慶応4)年には廃止になっています。
   
笹尾川を渡り、筑豊電鉄の踏切を渡り、高架の九州自動車道をくぐると、木屋瀬宿東構口跡に到ります。
木屋瀬宿の詳細は「北九州のみどころ」の「木屋瀬宿」をご覧ください。
 


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