八幡のまちかど

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枝光  
八幡東区    [2012/09/22]
 

北部九州には多くの神功皇后伝説が残されています。仲哀天皇と神功皇后が熊襲征伐に、長門の豊浦宮から九州に向かって出発の際、崗県主(おかのあがたぬし)の先祖、熊鰐(くまわに)が出迎えにやって来ます。熊鰐は船の舳先に3本の榊を立てて、その枝に鏡・剣・玉を下げました。熊鰐が榊を採った所が高炉台公園のある熊本山で、それらを枝に架けた所が枝三つで枝光といわれています。または、神功皇后がこの地で海路の平安を祈って榊に神宝を飾ったところ枝で光ったので、枝光の地名が付いたともいわれています。

南北朝時代以降、北九州市の西半分を含む当時の遠賀郡は、花尾城主の麻生氏によって領有されていました。当時の枝光村の西隣、尾倉村(当時は小倉村と記されていた)に豊山八幡神社があり、麻生氏に崇敬されていました。八幡神(やはたのかみ、はちまんじん)は応神天皇ですが、豊山八幡神社もそうですが、多くの八幡神社が父の仲哀天皇、母の神功皇后を共に祀っています。安土・桃山時代末、枝光村に勧請され、枝光村、戸畑村、中原村の氏神になり、その後、戸畑村、中原村に分祀されました。江戸時代になると、豊山八幡神社は前田村、大蔵村にも勧請されました。江戸時代には、水深の浅い洞海湾沿岸は干拓され、枝光村も新田が開作されました。

江戸時代から1889(明治22)年まで枝光村でした。1889(明治22)年、枝光村、大蔵村、尾倉村の三村が合併して八幡村になりました。三村に八幡神社があることから、八幡になったといわれています。人口は1,229人でした。明治政府は富国強兵の中、日清戦争を契機に製鐵所の設置場所を検討していました。若松の安川敬一郎宅に、平岡浩太郎・長谷川芳之助・芳賀與八郎若松町長・芳賀種義(與八郎の息子)八幡村長が集まり、八幡への誘致運動を始めました。八幡村は10万坪の土地提供を決めました。若松築港会社社長に就いた安川敬一郎は、築港拡張工事を決め、三菱の同意を得て、金子堅太郎・渋沢栄一・和田維四郎を通して山内提雲初代製鐵所長官と大島道太郎技監を説得しました。1896(明治29)年枝光海岸を敷地とし、大蔵川(板櫃川上流)を用水とする案で、製鐵所は福岡県遠賀郡八幡村に内定します。
 
製鐵所の用地買収が始まりました。当初枝光の10万坪でしたが、大島技監の実地調査で尾倉海岸を増地し、20万坪が必要となりました。この時尾倉の村民は元照寺(現在八幡東区尾倉)に「村長を殺せ」と槍を持って立て籠もりましたが、芳賀種義八幡村長がなんとか説得しました。敷地の一部は無償の献納であったり、買い上げ価格が時価の半額であったり、買収費は低廉に抑えられました。創立予算の土地買収費が25万円であったのに対し、9万円で済んだため、大隈重信首相は芳賀種義八幡村長に感謝状を贈っています。高炉台公園(八幡東区中央)にある芳賀種義翁之碑の石碑に、この感謝状は刻まれています。1896(明治29)年末の八幡村の人口は2,278人でした。

1891(明治24)年、九州鉄道により黒崎・門司間の鉄道が開業しました。この時の黒崎・門司間のうち、黒崎・小倉間は、現在のJR鹿児島本線の海岸ルートと違い、内陸ルートでした。この間は駅はありませんでしたが、1898(明治31)年、大蔵駅が開設されました。しかし、1902(明治35)年、海岸ルートが開業され、この線は1911(明治44)年廃線となり、大蔵駅もなくなりました。

下の地図は、国土地理院発行の5万分の1の地形図(小倉)を使用しました。明治33(1900)年側図で、上の現在の地図とほぼ同じ範囲です。横書きの地名は右書きになっています。現在も同じ場所にあるのは、中央下の縦書きの尾倉の左側、神社の記号が豊山八幡神社です。同じく、右側中程の横書き上方の上の下、神社の記号が枝光八幡宮です。

1897(明治33)年八幡村は八幡町になります。1901(明治34)年11月18日製鐵所の作業開始式が盛大に行われました。この当時の製鐵所敷地が現在の東田です。翌年の海岸ルートの鉄道は、工場敷地の外側を通っていました。現在の位置から言えば、鹿児島本線は枝光駅から南下して県道50号八幡・戸畑線の西沿いに通り、国道3号線の北沿いに八幡駅に到るルートでした。当時、八幡製鐵所は単に製鐵所と呼ばれ、それは官営製鐵所を指していました。この間に多くの人が流入し、人口7,164に急増しました。1916(大正5)年製鐵所の官舎が建設された板櫃村槻田と黒崎町前田を八幡町に編入しました。この時点で人口は71,519人になっていました。1917(大正6)年八幡町は八幡市になりました。

日本の近代化を支えた八幡製鐵所自身も、近代化・合理化が行われます。官営製鐵所は1934(昭和9)年官民が合同して日本製鐵となり、戦後は民営の八幡と富士など4社に分割されました。1970(昭和45)年に八幡と富士は合併して新日本製鐵となります。東田が手狭になると、埋立てられた隣接地の洞岡(くきおか)に拡張され、戦後は戸畑地区が埋立てられ、高炉や主力工場は戸畑地区に移転されました。

遊休地になった東田を再開発するための調査が1987(昭和62)年から始められました。1990(平成2)年4月テーマパークのスペースワールドが東田でオープンしました。1994(平成6)年東田土地整理組合が発足して、総合都市開発事業はスタートしました。現在の鉄道は、東田の中を通るルートとなり、枝光駅と八幡駅の間にスペースワールド駅が開設されました。
ここで取り上げる枝光の範囲は、現在の町名の荒手、枝光、宮田町、大宮町、日の出、枝光本町、白川町、諏訪、山王にあたります。 
手前が県道50号八幡・戸畑線で、ここは山王交差点です。道路の向こう側は東田地区です。向こう、西側に進むとテーマパークのスペースワールドの横を通って、スペースワールド駅の前に出ます。県道50号八幡・戸畑線沿いに、かってJR鹿児島本線が通っていました。製鐵所用地の外周を通っていたのです。また県道50号八幡・戸畑線には、1985(昭和60)年まで西鉄電車が通っていました。1911(明治44)年九州電気軌道により門司東本町・黒崎駅前間が開通しました。1923(大正12)年枝光線のうち中央町・枝光駅間が開通しました。後、経営は合併により西日本鉄道(西鉄)になりました。1985(昭和60)年枝光線・戸畑線は廃止になりました。
山王交差点から東田の反対側、南西方向に少し行くと沖重医院があり、その横の道路沿いに沖重豊美句・楢山碧波書の「風まどい夏色の影夢二のあと」の句碑が立っています。ここは、大正期の愁いのある美人画で有名な竹久夢二の若い時代の居住跡です。
竹下夢二(1884-1934)は本名茂次郎といい、1884(明治17)年、岡山県邑久(おく)郡本庄村に生まれました。生家は酒の醸造と販売をしていましたが、1900(明治33)年、官営製鐵所が開設されたばかりの八幡に、家族揃って移住します。製鐵所で短期間図工として働きますが、翌年夢二ひとり上京します。家族は20余年、枝光に住んでいました。
   
山王交差点に戻ります。山王交差点は五差路になっています。北側に伸びる県道でない、細い方の道を進みます。右手に諏訪1丁目公園があります。中央、公園の向こうの一角が舞台状に少し高くなり、その横に夢二の歌碑が立っています。
上京した夢二は、早稲田実業学校に入学します。1906(明治39)年以降、挿絵画家竹下夢二としてスタートします。この頃、2歳年上で、一男一女を残して夫に先立たれたたまきと知り合い、翌年結婚します。
 
   
歌碑には、夢二の最も有名な詩の「宵待草」の一節、「宵待草のやるせなさ」が刻まれています。
目の大きな美人のたまきをモデルにして、夢二の美人画の世界を作り出します。1909(明治42)年、出版した画集がベストセラーになり、その後、続々と出版されます。そして、各地で展覧会が開かれ、叙情画家夢二の名前は世に知れ渡ります。この頃、たまきと離婚しますが、彼女とは、度々別居と同棲を繰り返します。
   
諏訪1丁目公園で、毎年9月の第2日曜日、夢二まつりが行われます。前日の土曜日が前夜祭です。歌碑には供物があげられ、横の一段高いところにはステージがつくられます。1978(昭和53)年から夢二まつりは行われています。公園内にテントが張られて食物や飲物が売られ、ステージの歌や踊りを楽しんで、終日賑わいます。
1914(大正3)年、12歳年下の画学生彦乃と出会います。しかし、彦乃の父は二人の仲を許さず、二人はひそかに、京都で暮らします。しかし、彦乃は病床に伏し、父親に連れ戻されますが、23歳の生涯を閉じます。2年足らずの生活でしたが、彦乃は夢二にとって、終生忘れられない永遠の女性でした。モデルとしてお葉がやって来て、彼女と共に生活するようになり、夢二の代表作が次々と制作されます。1931(昭和6)年、夢二は欧米への旅行をしますが、この頃より体の異常を訴え、1934(昭和9)年、信州の療養所で50歳の生涯を終えます。
 
   
諏訪1丁目公園の横の道を先に進みますと、諏訪1丁目交差点に出ます。交差点を左折すると、県道50号八幡・戸畑線に出ます。その枝光本町交差点と諏訪1丁目交差点の間に、枝光本町商店街があります。昔からの商店街で、いかにも庶民の市場といった趣ですが、お客は老齢化しています。
   
諏訪1丁目交差点を右折して山手に進みます。広い道路が少し狭くなる辺りの左手に、枝光八幡宮の鳥居が立っています。
1194(建久5)年、下野国の麻生上野介重業(しげなり)が花尾城主になり、領地の鬼門の宮田山に、宇都宮八幡大神を勧請したのが枝光八幡宮の由来です。江戸時代寛永期(1624−44)、ここ諏訪山に 移って社殿が築かれました。その際、諏訪山にあった諏訪神と須賀神が共に祀られました。
豊山八幡神社に残る古文書「波多野家文書」によると、安土・桃山時代末、豊山八幡神社が枝光村に勧請され、枝光村、戸畑村、中原村の氏神になり、その後、戸畑村、中原村に分祀されました。
   
社殿の右には貴船神社が、左のこちらには中臣神社が祀られています。いずれも製鐵所用地になった枝光の地にあったものがこちらに遷されています。  
   
諏訪1丁目交差点に戻り、右折します。諏訪1丁目公園から諏訪1丁目交差点を直進した格好になります。次の白川町交差点を過ぎて行くと、道は二又に分かれます。左は北九州八幡ロイヤルホテルに行きます。後程行きます。右に行くと、北九州八幡ロイヤルホテルの裏手に階段があります。枝光公園の入口です。
   
長い階段を昇ると枝光公園の頂に着きます。  
   
枝光公園の頂の北側にグランドがあります。その先は遊具のある公園になっています。更にその先は、枝光の丘陵地の中腹を通るバス通りがあります。
   
先程の三叉路に戻り、北九州八幡ロイヤルホテルに向かいます。
ここに1922(大正11)年竣工した2代目八幡製鐵所本事務所が建っていました。鉱滓レンガ造り3階建てで、長さ100mを超える堂々たる建物でした。1990(平成2)年戸畑区飛幡町に総合センターができるまで、事務管理業務が行われました。1923(大正13)年関東大震災後、レンガ造りの建物は制限され、最後の大規模なレンガ造り建築といわれていましたが、保存が難しく1991(平成3)年解体撤去されました。
1899(明治32)年竣工した赤レンガ造り2階建ての初代本事務所は、スペースワールド駅の東端の北側の製鐵所構内に現存しています。
 
   
北九州八幡ロイヤルホテルの前から北側の眺めです。中央が北九州八幡ロイヤルホテルの下を通る県道50号八幡・戸畑線です。県道50号八幡・戸畑線は、車が停まっている枝光交差点を右折して、右側のくろがね線の鉄橋の下をくぐって、枝光駅の前に到ります。県道50号八幡・戸畑線の左手はスペースワールドです。
北九州八幡ロイヤルホテルの前から南側の眺めです。スペースワールドと県道50号八幡・戸畑線の間を、かっては鹿児島本線が通っていました。
くろがね線の高架橋の枝光橋の先に来ました。1921(大正10)年八幡製鐵所は戸畑にあった東洋製鉄を合併します。戸畑で製造された熔鉄を船で運びました。八幡製鐵所は、エネルギーの蒸気を製造した燃料の残滓の石炭殻と、鉄の精錬過程で出てくる鉱滓を戸畑に埋め立てる必要がありました。1930(昭和5)年八幡製鐵所は、八幡からの石炭殻と鉱滓を戸畑に、戸畑からは熔鉄を八幡に輸送するために専用の鉄道6qを建設しました。この鉄道は炭滓線と命名されました。石炭がエネルギー革命で石油に代わったためか、この鉄道は鉱滓線と呼ばれました。石炭殻と鉱滓の輸送がなくなり、鉄源が戸畑に集中し、大量の銑鉄を八幡に輸送する必要があり、鉄道の改修が必要でした。これを期に1972(昭和47)年、この鉄道はくろがね線と命名されました。
   
ろがね線の鉄橋、枝光橋の先から山手を見ています。右側が宮田山です。洞海湾沿岸に建設された製鐵所を中心に、八幡には人々が集まり、山の上に上に家が建てられました。その典型を、この枝光に見ることができます。
高炉台公園に北原白秋の「八幡小唄」の詩碑がありますが、「山へ山へと 八幡はのぼる はがねつむように家が立つ」と刻まれています。
県道八幡・戸畑線を少し先に行くと、左手にJR枝光駅があります。本事務所や関連企業の事務所に通勤する人達、山手の九州国際大学(以前は八幡大学)やその付属高校を含めた学生達が利用していました。現在は、本事務所はありませんし、大学は八幡東区平野に移転しています。今は、かってほどの乗降客はありません。
貨物専用線は、枝光駅を通らずに、海岸寄りを通って戸畑駅に到ります。旅客用の線路は、枝光駅から山手のトンネルを通って、戸畑駅に着きます。
 
   
枝光駅の先の枝光3丁目交差点のもう一つ先の交差点、九国大付属高入口交差点を右折して、山手に上って行きます。この通りは余り広くありませんが、丘陵地の中腹を通るバス通りです。枝光小学校の横を通り、しばらく行くと、右手に九州国際大学付属高校・中学の看板が出ています。そこを左折して、もう一段高い所に向かいます。道路を挟んで右が九州国際大学付属中学校・高等学校で、左に市立枝光台中学校の一部が見えます。
枝光台中学校の校門で、校舎や校庭は一段下にあります。枝光台中学校は、2001(平成13)年4月枝光中学校と枝光北中学校が統合して発足しました。校舎は枝光北中学校跡地にあります。枝光中学校は、山の口小学校(現在ひびきが丘小学校)と並んでありました。
   
道路の右手が九州国際大学付属中学校・高等学校です。八幡大学時代から付属高校が設置されました。その当時から男子部と、女子部に分かれていました。1989(平成元)年大学が九州国際大学になり、九州国際大学付属高等学校に改称されました。2000(平成12)年中学校が併設され、九州国際大学付属中学校・高等学校となり、中高一貫教育が開始され、大学は移転しました。2010(平成22)年男子部、女子部が廃止され、男女共学になりました。  
   
バス通りまで戻ります。右折して上って行った道のすぐ横に、階段の道が上と下に伸びています。バス通りから上に昇る階段の道です。この下をくろがね線の宮田山トンネルが通っています。
   
バス通りから下に降る階段の道です。こちらを降りて行きます。降りて行くと、右側に更に下に降りて行く道があります。くろがね線の宮田山トンネルの横を降りて行く道です。  
   
宮田山トンネルの前に、くろがね線の上に架かった歩道橋があります。歩道橋からの宮田山トンネルの八幡側入口です。トンネルの上に下りてきた階段の道が見えます。
宮田山トンネルは標高106m宮田山に掘削された全長1,200mのトンネルです。1927(昭和2)年着工し、2年後に貫通しました。くろがね線は電気機関車によって牽引されています。入口の門は花崗岩の切石積みで、八幡側はギリシャ・ローマを思わせる意匠になっています。
   
枝光からは離れますが、宮田山トンネルの戸畑側入口の門は、欧州の城郭を思わせる意匠になっています。
そこまでの道程を案内しますと、バス通りを先に行くと日の出3丁目交差点に出ますので、左折します。八幡東区から戸畑区に入って行き、道は上りから下りに変わります。次の交差点を左折すると、その先で道は二又に分かれますので、右の下りの道を行きます。戸畑高等技術専門学校交差点を左に行きますと、くろがね線の跨線橋尼堤橋(あまつづみばし)が架かっています。尼堤橋からの眺めです。
 
   
もとのくろがね線宮田山トンネルの八幡側入口の先です。先の方に鉄橋が見えます。県道50号八幡・戸畑線から見た枝光橋です。右側が旧橋で、左側が新橋です。前述したように、鉄源が戸畑に集中し、大量の銑鉄を八幡に輸送する必要があり、150tのトーピードカーが導入されました。トンネル内の離合は禁止されました。かっては複線であったのが単線になっています。旧橋では強度不足のため、1972(昭和47)年横に新橋が完成しました。現在、銑鉄・製鋼工程が戸畑に集中しているので、くろがね線では圧延材料や製品が運ばれます。旧橋やトンネル内の片側を通っている配管は、戸畑から八幡へのLPGのパイプラインです。
トーピードカーは、「北九州のみどころ」の「東田」の東田第一高炉跡の部分をご覧ください。
   
階段の道をバス通りまで戻ります。先に行くと大宮町バス停があり、その先に右に下って行く細い道がありますので、その先からの眺めです。
右の白い建物は北九州八幡ロイヤルホテルです。山は標高622mの皿倉山です。左端の山は、先程階段を昇った枝光公園です。バス通りを先に行きますと、枝光公園の横に出ます。こちらからは階段を昇らずに枝光公園に行くことができます。
枝光公園・日の出1丁目バス停を過ぎた先に、日の出2丁目バス停があります。その付近から西側の眺めです。一番高い山は皿倉山です。右端の緑の部分は枝光公園です。眼下の手前の方は枝光の南側の家並です。
日の出2丁目バス停付近から東側の眺めです。左端低層の横に広い建物は、これから行くひびきが丘小学校です。その横に緑が帯状に見えますが、中央から右の部分が枝光八幡宮の鎮守の森です。
バス通を先に行くと日の出3丁目交差点に出ます。そこを左に行くと戸畑に行き、宮田山トンネルの戸畑側入口の門を見に行きました。日の出3丁目交差点を右折します。国道3号線に出る手前の右側にひびきが丘小学校があります。
ひびきが丘小学校は、2003(平成15)年山の口小学校と大場谷小学校が統合して開校しました。校舎は山の口小学校の跡地にあります。山の口小学校は1921(大正10)年開校しました。1940(昭和15)年山の口小学校から分かれて、大場谷小学校が開校しました。
ひびきが丘小学校の敷地には、かって山の口小学校と枝光中学校が並んでありました。
 
   
ひびきが丘小学校の前は、国道3号線とのひびきが丘小学校前交差点です。左がバス通りで、右が国道3号線で、先は戸畑方向です。バス通りをひびきが丘小学校前交差点で国道3号線を横切って行くと、すぐに直進と右に下って行く道があります。直進すると大蔵方面に向かいます。右折して国道沿いに進むと、右折して国道の下をくぐって行く道に出ます。国道の下を通り、坂を下りて行くと、枝光八幡宮の前に出ます。その前を通り過ぎ、諏訪1丁目交差点を左折し、諏訪1丁目公園の前を通り、最初の山王交差点に戻ります。山王交差点を左折して、南に向かいます。
   
山王交差点から南に向かう道は上り坂で、上本町に向かいます。左手高層の市営上本町団地ある手前を右手に入って行くと、高台にこの建物が見えます。
キリスト教の教会に見違えますが、浄土真宗の寺院です。1915(大正4)年建築の徳養寺本堂は、鉱滓レンガ造りの一部二階建ての一階建てでした。設計は製鐵所の建築担当職員、上田敬吉が当たりました。1945(昭和20)年8月8日の八幡大空襲で、レンガの外壁を残して焼失しました。1950(昭和25)外壁のレンガを利用して再建されました。しかし、外壁のレンガも内部も老朽化が激しく、2003(平成15)年その形とレンガ造りを引き継いで現在の本堂は建立されました。
 
   


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