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穴生  八幡西区  [12/02/25]
 

 
穴生は洞海湾の南西部で、国道3号線の南側に位置します。室町時代、麻生氏が支配した遠賀郡の村の一つに穴生村があることが文書に記されています。江戸時代から1889(明治22)年まで穴生村で、枝村に瀬板村・陣原村がありました。穴生の北東部は洞海湾が湾入していて、穴生潟と呼ばれる遠浅であったため、江戸時代新田開作が行われました。その結果、陣原村が独立しました。
1889(明治22)年穴生・引野・市瀬・上上津役・下上津役・小峯村の6村が合併して、上津役(こうじゃく)村となり、穴生は大字の一つとなりました。上津役村は1937(昭和12)年八幡市に編入されました。八幡市域は西にそして西南部に広がっていきました。
1953(昭和28)年7月、上津役土地区画整理事業が開始されました。黒崎駅の西約2qの国道3号線の南、東西約1.6q、南北2.8qの広大な平坦な土地に宅地造成するものでした。現在、上津役といわれると、その地域のもっと南側と思われますが、かっての上津役村の地域から考えますと、区画整理事業区域はその北部に当たります。穴生は区画整理事業の中心地域でした。1956(昭和31)年筑豊電鉄の貞元−筑豊直方間が開通し、区画整理事業区域に萩原・穴生・森下駅が開業しました。会社・公団・公社・県・市等の住宅団地が造成されました。穴生地区には、筑豊電鉄の穴生駅が開業し、八幡製鐵所のアパートが建設され、田園地帯から住宅団地に大変貌しました。ここでは、現在の町名の穴生、鷹の巣、鉄竜、相生町、鉄王を取り上げます。  
この地図と次の地図は、国土地理院発行の2万5千分の地形図(八幡、折尾)を使用しました。
昭和25(1950)年の第3回修正測量地図です。穴生は、限られた所に集落があり、溜池が点在する田園地帯であったことがよく分ります。この3年後に区画整理事業が始まりました。
左上に横書きの古屋敷の地名があり、その下32の数字があり、その数字の斜め右上に寺院の記号があります。そこが弘善寺です。古屋敷の下に縦書きの福納の地名があり、その左下に神社の記号があります。そこが鷹見神社です。太文字の上津役は、村の時代(明治33年の地図には上津役村)からその位置に記され、次の昭和44年の地図からは無くなっています。
   
昭和44(1969)年の改測地図です。筑豊電鉄が通り、区画整理事業開始から16年が経過して、住宅地に大変貌した穴生の姿です。
左上に縦書きの穴生二丁目の地名があり、その横の寺院の記号が弘善寺で、斜め右下の神社の記号が鷹見神社です。
 
   
穴生の北側に国道3号線が東西に通り、国道の上を高架橋で、穴生地区を南北に県道11号有毛・引野線が通っています。県道11号有毛・引野線の穴生1丁目交差点の西側に、浄土宗弘善寺があります。この辺りはかって古屋敷と呼ばれる字で、新町名では穴生です。
   
弘善寺は、戦国時代の大永年間(1521〜28)に開山されました。1600(慶長5)年関ヶ原の戦いの結果、黒田長政に筑前一国52万石が与えられました。1604(慶長9)年、長政は井上周防之房(すおうゆきふさ)に黒崎城を築かせ、居城させました。井上之房は弘善寺を再興しました。
1615(元和元)年、幕府は一国一城令を発しました。これにより、黒崎城は廃城となりました。廃城後井上之房は、黒崎城があった城山の西麓の屋敷から陣原の屋敷に移りました。
黒崎城については「八幡のまちかど」の「黒崎」を、陣原の屋敷跡については「北九州点描」の「陣原」をご覧ください。
 
   
弘善寺本堂の裏手に回り、山手に入って行きますと、一番奥に2つの墓があります。右の奥が井上之房の奥方の墓で、左は娘の墓です。
娘は黒田長政の従兄弟に嫁ぎましたが、若くして死別したため、ここに葬られているとのことです。2人とも1618(元和4)年に亡くなりました。
なお、1634(寛永11)年井上之房は没しました。井上之房は、岡垣町高倉の龍昌寺に葬られました。龍昌寺については、「北九州の近隣」の「岡垣・遠賀・水巻町」をご覧ください。
弘善寺の門前に穴生小学跡の石碑が立っています。
1872(明治5)年8月学制がしかれました。華士族・農工商・婦女の別なく教育が受けられるというものでした。1874(明治7)年2月弘善寺境内に穴生小学が設置されました。これは、明治維新後、黒崎村の岡田宮神官羽多野直足(号鷺山)が開いた鷺山(さぎやま)学舎が前身でした。しかし実際の学制実施では、不就学者が多かったといわれています。学校の設置・維持費は住民の負担でしたし、授業料を負担できない家も多かったといわれています。時代が進むと、不就学者も減少していきました。
1893(明治26)年穴生校と引野校が統合され、上津役尋常小学校が開校されました。上津役小学校は八幡西区上の原1丁目4−1にあり、弘善寺から直線で3qを越える距離があります。1953(昭和28)年近くに穴生小学校が開校するまで、穴生地区の生徒達は上津役小学校に通っていました。
   
弘善寺の門前の一角に、1730(享保15)年の銘がある庚申(こうしん)塔が立っています。地元の人達の手で、補修復元されています。
庚申(かのえさる)の夜に眠ると、三尸(さんし、上・中・下尸の三種類)の虫が体内からぬけ出して、その人の罪科を天帝に告げ口するという中国の道教における信仰の、その夜は潔斎して眠らず三尸の昇天をはばむという行事が平安時代に我国に伝わりました。それに仏教と神道とが混交して、一人では夜を過ごすのは難しいため講をつくって集まり、江戸時代には独特の民俗的祭事になったといわれています。この信仰の証として庚申塔が建てられました。
穴生では旧暦2月7日を庚申様の日とし、座をもうけ、夜通し飲み、話に花を咲かせる習慣があったようです。
 
   
弘善寺の前の道を南に進み、突き当りを右折し、すぐに左折して進むと、筑豊電鉄の高架線の手前に鷹見神社があります。
神功皇后の西征の折、帆柱山で戦勝を祈願し、九合目に熊野神を祀り、高見宮と称しました。平城京に遷都される以前の文武天皇の慶雲期(704〜08)、役行者(えんのぎょうじゃ)により祭祀が再興されました。中世この地を治めた花尾城主の麻生氏に、戦国時代には大内義隆により高見宮は崇拝されました。高見宮は穴生に本宮を移転します。江戸時代になると、黒田長政は高見宮を古屋敷に再建します。江戸時代の寛文期(1661−73)にそれまでの高見から鷹見に改称されました。1700(元禄13)年黒田綱政は穴生潟の開墾の安全祈願を鷹見神社にしました。1708(宝永5)年黒田綱政の命により、この地に鷹見神社は遷宮されました。
この辺りはかって福納と呼ばれる字で、新町名では穴生です。
   
鷹見神社の鳥居の前を行くと、県道有毛・引野線に出ます。すぐ右に筑豊電鉄の高架線のガードがあります。ガードの横は穴生駅です。
筑豊電鉄は、1956(昭和31)年貞元−筑豊直方間が開通しました。現在は、北九州市八幡西区黒崎と直方市を結んでいます。
穴生駅の前を東に行くと萩原です。大字穴生の字萩原が新町名の萩原となり、その区域はかっての大字穴生と大字熊手の一部です。
 
   
筑豊電鉄の南側は鷹の巣です。大字穴生の字鷹ノ巣が新町名の鷹の巣として使われています。
県道有毛・引野線の筑豊電鉄の高架線から南に来た、最初の右折できる道を西に入りますと穴生市民センターがあります。そのそばに新池(上保下池)跡の説明文が掲示されています。昭和25年の地図を見ると、その位置とその南に溜池があります。南側は上保上池だったのでしょうか。
新池は1753(宝暦3)年に築造され、福納・古屋敷の田畑を潤しましたが、昭和28年からの区画整理事業で埋立てられました。その跡地に1962(昭和37)年に穴生公民館が建設され、現在の穴生市民センターになっています。田園地帯だった頃の穴生には、溜池が点在していました。
   
穴生市民センターの先、道路を隔てて石段があります。上保公園の入口です。公園の北側、右手はグランドになっています。  
   
県道有毛・引野線に戻り、南に向かいます。少し南に行くと、右手に穴生浄水場の入口があります。穴生浄水場は、遠賀川からの水を浄水するため、1961(昭和36)年に建設されました。遠賀川、頓田貯水池、力丸貯水池から取水します。本城(八幡西区)・井手浦浄水場(小倉南区)と並ぶ基幹浄水場です。
   
穴生浄水場の入口の先、県道有毛・引野線の大池公園の信号から左に入って行きます。右手の公園が大池公園です。公園の角を右に曲がると、大池公園の入口になります。
1953(昭和28)年穴生一帯の区画整理事業が行われた頃まで、ここには1763(宝暦13)年に造られた灌漑用の池の大池がありました。鷹ノ巣・福納・古屋敷の田畑を潤しました。
大池の跡は、公園とその南のプールと隣のグランド、更に南の八幡西生涯学習センターと隣の教育センターになっています。
 
   
大池の跡の南側に八幡西生涯学習センターと隣の教育センターが並んで建っています。西側が市立教育センターです。
教育センターは、教育の充実及び振興を図るために、教育に関する専門的・技術的事項の調査及び研究し、研修や教育相談を行い、資料・情報の収集及び提供を行っています。
   
東側が八幡西生涯学習センターです。各区のある生涯学習センターの一つです。生涯学習センターでは、市民の自主的な活動を支援するため、研修室、会議室等の貸出しを行っています。4階建てのこの建物には、大ホール・視聴覚室・音楽室・会議室・市民ギャラリーがあります。  
   
八幡西生涯学習センターの前に国境石が立っています。
従是西筑前國(是より西筑前国)と刻まれています。1844(天保15)年に福岡藩によって建て替えられたもので、中央公園の総合体育館の横の道路を挟んだ福祉公園に当る場所にあったものです。その後陣原に長く保存されていましたが、1989(平成元)年ここに移されました。
福祉公園については、「北九州のみどころ」の「中央公園」をご覧ください。
   
大池公園の入口まで戻ります。そこから東に進みます。左手が鷹の巣で、右手が鉄竜です。穴生ドーム西交差点に出ます。交差点の南西角に白い屋根の穴生ドームがあり、交差点の東側は鉄竜です。鉄竜は、八幡製鐵所の鉄筋コンクリートの社宅が建てられた新しい街でした。それも現在はなく、戸建ての住宅地に変わっています。
北九州市立北九州穴生ドームは1994(平成6)年に完成しました。ドームは自然光が透過するような素材で造られ、アリーナでは、主に高齢者を主体にしたスポーツができるようになっています。ドームの横には高齢者の社会参加を図り、研修する年長者研修大学校穴生学舎があります。
穴生ドーム西交差点を直進しますと、道は右にカーブして南に上って行きます。坂道沿いに高層マンションが建っています。
かってここに、当時としては珍しい高層アパートが建てられました。そのアパートをマンモスアパートと呼んでいました。
マンションの前、穴生ドームの裏手に山の神池公園があります。山の神池公園からの眺めです。穴生ドームの横に溜池があります。山の神上池といいます。この池を含めた周辺が公園です。
下池は穴生ドームの所にありました。穴生一帯には、昔、たくさんの灌漑用の溜池がありました。そのなかでただひとつ残ったのがこの池です。山の神上池は大池と同じ1763(宝暦13)年に造られ、下池は1775(安永4)年に造られました。両池からの水で、鷹ノ巣、古屋敷、萩原の田畑を潤しました。
山の神池公園前の道路の先は突き当たりの穴生ドーム交差点になります。そこを右折し、西に向かいます。坂を下りた所が鉄竜1丁目交差点になります。
北西角に相生町の市場があります。
 
   
鉄竜1丁目交差点の北側は鉄竜で、左側はこのような戸建て住宅が立ち並びます。右側の先に穴生ドームがあります。
   
鉄竜1丁目交差点の西側は相生町で、商店街になっています。
1953(昭和28)年区画整理を計画した八幡市は、経費捻出のため八幡製鐵所に社宅用地買い上げを依頼しました。穴生から引野にわたる土地に1957〜73(昭和32〜48)年穴生製鉄アパートが建築されました。その中を横断するこの通りを挟んで商店が並び、商業地が形成されました。東西に通るこの通りの両側が相生町で、その北側が鉄竜、南側が鉄王という新しい街がつくられました。
 
   
鉄竜1丁目交差点の南側は鉄王で、左角はスーパーのスピナがあります。その前身は、八幡製鐵所の福祉厚生施設であった厚生課分配所にたどり着きます。現在は西鉄のグループ企業ですが、八幡製鐵所が穴生アパートを建設した当時は、購買会と通称された分配所がここに設置されました。その南のアパートはなくなり、現在、リハビリ施設が建っています。スーパーの先に見える山は、左が標高622mの皿倉山で、右は618mの権現山と490mの帆柱山が重なっています。
鉄竜1丁目交差点を南側の鉄王に向かいます。アパート群が林立していた右手に入って行きます。左手が相生町に近い北側で、右手が南側です。北側にアパートが見え、南側は戸建て住宅地に変わっています。北側のアパートの棟番号が105と106と読めますが、既に空室になり、そのうち戸建て住宅に変わります。
アパートと戸建て住宅の間の道を手前、西に来ると、フェンスに囲まれた墓地とその先が公園になっています。墓地の中に、西側を向いた宮川善五郎の墓があります。
1773(安永2)年天災が続き、引野村でも収穫が半減しました。生死にかかわる悲惨な状況を見かねて、庄屋の宮川善五郎は組頭の善明孫三郎と共に、年貢減免の直訴をします。その結果、年貢は減免されますが、宮川善五郎は国外(福岡藩)追放、善明孫三郎は郡(遠賀郡)追放になります。墓石の側面に、宮川善五郎は1809(文化6)年に死去したこと、この墓は1893(明治26)年に建立されたことが刻まれています。
   
お墓に西側は、新しくつくられた鉄王西公園です。
公園の先を右折して進むと、相生町の通りに出ます。
   
相生町の通りを西に進みますと、県道11号有毛・引野線との竹末1丁目交差点に出ます。県道の西側は竹末です。大字引野の字竹末が新町名の竹末になりました。
竹末1丁目交差点を直進します。最初の信号のない交差点を右折すると、龍王神社がすぐ右手にあります。
初めに伺った鷹見神社も、市瀬にある鷹見神社もその由緒に役行者(えんのぎょうじゃ、役小角えんのおづる のこと)が関わります。役行者は熊野三山の神々を権現山に勧請しました。熊野の神々は、神仏習合の本地垂迹により、権現と呼ばれました。熊野那智大神は飛龍権現として祀られていましたが、1979(天正7)年この地に社殿を造営して祀ったのが、この神社でした。市瀬の鷹見神社については、「北九州点描」の「市瀬」をご覧ください。
この龍王神社の一文字と鉄の字で、穴生製鉄アパートの新しい街の鉄竜と鉄王の町名が付けられました。


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