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河内貯水池     八幡東区河内  [2015/05/23]
 

 
河内(かわち)貯水池は八幡東区河内にあります。ここを流れた出た板櫃(いたびつ)川は、9.7km流れて小倉北区日明(ひあがり)で海に注ぎ込みます。江戸時代、河内には中河内村と呼ばれる大蔵村の枝村がありました。1889(明治22)年尾倉・大蔵・枝光の3村が合併し、八幡村になりました。その後、八幡村は八幡町、八幡市となり市域は拡大し、1963(昭和38)年門司・小倉・戸畑・若松・八幡の五市が合併し、北九州市が誕生しました。大蔵村は合併後大字大蔵となり、河内はその中に含まれていましたが、近年は、貯水池の西岸付近は新町名の河内になっています。

石炭と鉄は明治の近代産業発展の両輪でした。議会が官営製鉄所設立を建議し、1895(明治28)年製鉄事業調査会を設置し、候補地が挙げられました。枝光海岸を敷地とし、大蔵川(板櫃川上流)を用水とする八幡への誘致運動が始まりました。1896(明治29)年6月山内提雲初代製鐵所長官と大島道太郎技監が現地視察しました。山内・大島は大里を第一に考えていました。この年春若松築港会社社長に就いた安川敬一郎は、築港拡張工事を決め、三菱の同意を得て、金子堅太郎・渋沢栄一・和田維四郎を通して山内・大島を説得しました。誘致運動と政治工作が功を奏し、10月八幡に内定しました。

1896(明治29)年11月製鐵所の用地買収が始まりました。当初枝光の10万坪でしたが、大島技監の実地調査で尾倉海岸10万坪を増地しました。1897(明治30)年に第2代製鐵所長官に就任した和田維四郎(つなしろう)は、同年10月欧米調査をした大島の見解を和田意見書として提出しました。その内容は、高炉建設を明確にし、近代的銑鋼一貫製鉄所とし、一般産業用普通鋼材の各種圧延工場を建設し、軍事用鋼材は第二期目標にしました。欧米調査により大島技監らは多品種少量生産を目指すべきで、それにはアメリカよりドイツの技術がふさわしいと判断しました。

ドイツ人の顧問技師や職工長が八幡に招かれました。1900(明治33)年ドイツ人設計の高炉(溶鉱炉)が東田に築かれ、翌1901(明治34)年2月5日ドイツ人技師の指揮の下に溶鉱炉の火入れが行われました。東田の地名は、大字尾倉のうちの豊山(とよやま)八幡神社の東にあった小字の東田からでした。高炉に続き、平炉・転炉の製鋼、コークス炉、分塊、薄板・中形圧延・小形圧延・軌条の圧延工場が完成し、11月18日来賓800人を招いた盛大な作業開始式が行われました。八幡製鐵所は、福岡県遠賀郡八幡町(前年に八幡村が八幡町になる)に位置した官営製鉄所で、当時は単に製鐵所と呼ばれました。

高炉の出銑状況は良くありませんでした。和田長官は第2溶鉱炉を建設し、出銑量を確保しょうとしました。しかし補正予算の見込みがないため、長官の責任で建設に踏み切りました。1902(明治35)年2月和田維四郎は免官され、中村雄次郎が第3代製鐵所長官に就きました。7月高炉作業は中止され、大島道太郎技監らは退任し、創業時の幹部は更迭されました。製鐵所の創立案に関わった野呂景義は、釜石鉱山田中製鉄所でコークス高炉操業を成功させていましたので、就任した中村長官は高炉再建を野呂に託しました。

ドイツ人の技師や職工長は、1902~4(明治35~37)年の間に契約解除されました。野呂景義は高炉を改造し、コークス製造を改良し、1904(明治37)年7月製鐵所は生産を再開しました。日露戦争時には設備を拡充し、和田前長官が手掛けた東田第2高炉は1905(明治38)年2月から操業を開始し、軍事用鋼材も供給するようになりました。しかし鋼材自給率は20%に満たなかったため、自給率を高めるため第1期拡張工事が始まりました。1906~10(明治39~43)年の5ヶ年事業で、東田第3高炉が築かれ、各種工場が新設されたり、機械化が進められました。

1911~16(明治44~大正5)年第2期拡張工事が行われ、東田第4高炉が建設され、製鋼・圧延部門が増強されました。拡張後の生産量は2倍以上に増えました。第一次世界大戦は1914(大正3)7月に始まり、1918(大正7)年11月に終わりました。鉄鋼の需要が高騰し、戦前に国内で創業した民間鉄鋼企業は設備を拡張し、戦時中に多くの中小の製鉄会社が創業しました。戦後は、その反動で長年不況が続きました。多くの中小の製鉄会社は倒産し、比較的大きな民間鉄鋼は大正末期までに財閥の傘下に整理されました。

第一次世界大戦中の鋼材の輸入途絶により、第3期拡張計画が1917(大正6)年から始まり、6ヶ年の予定でしたが、大戦の影響で工事が遅れ、1929(昭和4)年までかかりました。この第3期拡張工事で東田第5・6高炉が建設されました。第1期拡張工事で用水を遠賀川に求めましたが、第3期拡張工事では養福寺・河内貯水池が建設されました。1917(大正6)年の鉄鋼景気の中で、鉄鋼一貫の戸畑の東洋製鉄が、渋沢栄一をはじめとする財界人によって設立されました。高炉は建設されましたが、その後の不況で経営を八幡製鐵所に委託しました。1930(昭和5)年八幡と戸畑を専用鉄道で結ぶ炭滓線(現在のくろがね線)が開通しました。同じく1917(大正6)年西八幡に艦船用厚板製造を目的に安川敬一郎は九州製鋼を設立し、工場は建設されましたが、設備は放置されました。1928(昭和3)年八幡製鐵所は賃借し、大形・厚板工場としました。現在の黒崎播磨の東隣部分です。

洞岡(くきおか)地区は、鉱滓の捨て場として1918(大正8)年頃から埋め立てられ、新たな工場立地を洞岡に求めました。1938(昭和13)年までに4基の高炉が建設されました。1929年に世界大恐慌があり、1923(大正12)年関東大震災があり、日本の経済は慢性的不況が続き、1927(昭和2)年には金融恐慌を経験し、デフレーションが進み、昭和恐慌になりました。1931(昭和6)年4月重要産業統制法が公布され、産業合理化政策によりカルテル形成は進められ、特に重工業・化学工業において促進されました。1934(昭和9)年八幡製鐵所を民営とし、民間製鉄会社を参加させ、半官半民の製鉄会社、日本製鐵株式会社が設立されました。

1937(昭和12)年の盧溝橋に於ける日中の軍事衝突は、その後日中戦争に拡大していきます。1941(昭和16)年12月太平洋戦争が勃発します。八幡製鐵所も空襲を受け、甚大な被害を受けました。1945(昭和20)年8月15日終戦になりました。戦後の日本の生産や輸送は麻痺状態でした。1947(昭和22)年1月石炭と鉄鋼を最重要産業に指定し、石炭を増産して鉄鋼に配炭し、鉄鋼を増産して炭鉱に鋼材を供給し、その相互作用で増産の効果を加速させるという傾斜生産が採られました。

GHQ(連合国総司令部)は、日本の戦争遂行能力を排除し、経済の民主化のために、財閥の解体を命令し、独占禁止法と集中排除法を制定しました。日本製鐵は集中排除法の対象になり、1950(昭和25)年八幡製鐵と富士製鐵に分割されました。昭和30年代になると耐久消費財の需要が増大し、鉄鋼の需要も増大します。戸畑には広大な埋立造成地がありました。ここに一直線にレイアウトされた海に築く一貫製鉄所が建設されました。

鉄鋼各社は消費地に近い場所に、銑鋼一貫製鉄所の建設を立案します。八幡製鐵所は千葉県君津に一貫製鉄所を建設し、高炉に火入れしたのは1968(昭和43)年でした。この時代の八幡製鐵所の最大の役割は光・堺・君津の新製鉄所への兵站基地としての役割でした。特に巨大製鉄所の君津に対しては全力を注入しました。また八幡製鐵所では、鉄源部門を戸畑地区に集約し、八幡地区では高級鋼化を推進しました。高度成長の中、鉄鋼業界は好不況での価格の変動が大きく、過当競争があり、協調もうまくいかず、業界の再編成を迎えました。1970(昭和45)年八幡製鐵と富士製鐵は合併し、新日本製鐵が発足しました。

生産設備の集積と石炭から石油へのエネルギー革命の進行で産業公害が発生し、人口の集中とモータリゼーションの進行で都市公害が発生しました。昭和40年代は状況が深刻になり、官民とも公害対策を迫られました。1972(昭和47)年東田高炉群はすべて休止になりました。昭和50年代に入ると、洞岡高炉群も休止になり、高炉や主力工場は戸畑地区に移転されました。のち遊休地になった東田は再開発されます。

近年の新興国の経済発展は目覚ましく、鉄鋼業界もその例にもれず、世界的な競争の中にいます。2012(平成24)年10月新日本製鐵と住友金属が合併して新日鐵住金になりました。2014(平成26)年4月小倉製鐵所(合併前は住友金属)は八幡製鐵所に統合されました。八幡製鐵所は、室蘭・鹿島・君津・名古屋・和歌山・大分製鐵所と共に新日鐵住金の7製鐵所の1つになっています。

以上、八幡製鐵所が、唯一の官営製鐵所として設立されてから今までを見てきましたが、その歴史の中で、第一次世界大戦により鉄鋼の需要が激増したため、官営製鐵所は第三次拡張計画を立てました。その一環として、河内貯水池は官営製鐵所の用水確保を目的に計画され、1919(大正8)年建設工事が始まりました。土木部長沼田尚徳(ひさのり)の指揮の下、1927(昭和2)年完成しました。大蔵川(板櫃川上流)沿いの小学校、神社を含む集落55戸が水没しました。

その河内堰堤(ダム)は、貯水能力720万立米、堤頂長189m、堤高43.1m、頂上幅3.5m、最大底幅35.1mでコンクリートの両面を石張りにした重力式コンクリートダム(ダムの自重と重力を利用して水圧を支える)です。着工時には東洋一のダムが完成する予定でしたが、1924(大正13)年アメリカの技術指導による機械化で、堤高53mの大井ダム(岐阜県、木曽川)が完成し、東洋一になりました。コンクリート打設の収縮対策として、河内堰堤は7つのブロックに分けられ、その継手部分はコンクリートブロック積で、漏水対策として銅板がモルタルで埋め込まれ、隙間には絶縁塗料が充填されました。

堰堤の表面は切石で覆われています。当時セメントはまだ高価で、なるべく豊富な石材を使用し、コンクリートの使用量を減らしました。土木機械はほとんど使われず、豊富な人力によって施工されました。延人員は90万人に及びました。堰堤周辺には取水塔、管理事務室、弁室、亜字池などの付帯施設があります。これらも石材で覆われています。貯水池周辺には橋が架けられていますが、その中にも石積の橋があります。これらの石材は地元の北河内産の石が使われ、切石・野面・割石・自然石などの多様な組積方式が使われ、石の造形美を見ることができます。また堰堤の東側にある石碑の書、取水塔、管理事務室、弁室に掲げられている書は、明治に育った産業人の漢文と書の素養を窺い知ることができます。

河内貯水池の周辺には、貯水池や貯水池に流れ込む川に5つの橋が架けられていました。これらを河内五橋と呼びます。堰堤側から北河内橋、中河内橋、水無橋、南河内橋、猿渡橋の五橋です。この中で水無橋は架け替えられましたので、貯水池完成時の橋は4つになります。それぞれが意匠や構造が異なっています。一番有名な橋は南河内橋です。赤く塗られた鉄骨が三角形に組まれたトラス橋で、唯一貯水池に架けられています。南河内橋はめがね橋と呼ばれ、現在は歩道橋になっています。他の北河内橋が鉄筋コンクリート橋、中河内橋が自然石積のアーチ橋、猿渡橋が切石積のアーチ橋ですが、車の通行が増えたため拡幅され、橋の半分に往時の姿を残しています。

河内貯水池を設計し、建設を指揮したのは沼田尚徳(ひさのり)です。技師として製鐵所の土木・建設を担ってきました。河内・養福寺貯水池を建設し、洞岡の埋立工事を行い、専用鉄道の炭滓線を開通させました。沼田は1875(明治8)年茨城県水戸に生まれ、1900(明治33)年京都帝国大学理工科大学土木工学科を卒業し、官営製鐵所に入所します。1915(大正4)年英米の視察を命じられました。1921(大正10)年勅任官待遇になり、1923(大正12)年には高等官二等に昇進しています。戦前、国家の職員は官吏と雇員などのそうでない者がいました。官吏は高等官と判任官に分かれ、高等官は最高位の親任官、高等官一・二等の勅任官、三~九等の奏任官に分かれていました。1924(大正13)年沼田は勳三等瑞宝章を授与され、1930(昭和5)年土木部長で退官しました。

河内貯水池の堰堤、付属施設や橋梁は、既に自然に溶け込み、独特の風景を生み出しています。この様な風景を求めて人々は貯水池を訪ねて来ました。中河内橋の近くに製鐵所の保養所ができ、南河内橋のたもとには行楽客のための料理店ができ、貯水池では白鳥が飼われ、泳ぐ白鳥を見ることができました。現在はそれらを見ることはできません。。猿渡橋の上流、田代川沿いにスケートリンクがありましたがなくなり、その跡地に九州民芸村ができました。民芸家具のつくしギャラリーの北山土筆が開きました。民芸家具、焼物、ガラス、染織などの工房があり、制作品の見学、買物、制作体験、それに食事ができる施設でした。のち経営が厳しくなり、大手タクシー会社で、不動産業の第一交通産業が経営することになりましたが、2009(平成21)年九州民芸村は閉村されました。

中河内橋の手前、河内小学校の横を山手に行った高台に、2000年(平成12年)北九州市の公園事業として、河内温泉あじさいの湯がオープンしました。2007(平成19)年には施設改修を行い、リニューアルオープンしました。指定管理者制度で運営されています。更に河内温泉あじさいの湯の先の坂を上った所に、河内藤園があります。私営の藤園で、1977(昭和52)年樋口正男によって開園されました。地元では知られていましたが、手をかけた花の美しさは、2012(平成24)年海外のネットサイトで、世界の絶景10として紹介され、SNSで情報は広がっていきました。最近は、花の時期は国内外からの来客であふれ、河内貯水池周辺の道路はGW期間中は大渋滞です。なお、秋は紅葉がきれいな所です。
八幡東区大蔵から、板櫃川(この辺りは大蔵川と呼ばれている)沿いを通る県道62号北九州・小竹線を山手に上って行きますと、河内堰堤に着きます。県道を挟んで反対側に駐車場があります。中央にあるのが取水塔で、堰堤はコンクリートの表面が切石で覆われています。
堰堤の下に降りて行けます。途中は桜が植えられ、河内桜公園になっています。
   
坂道は下で二手に分かれます。右手に橋が見えます。堰堤の下の鉄筋コンクリート・スラブ橋(床板が桁になった)の太鼓橋です。貯水池完成時に架けられた橋です。その薄いスラブのアーチ橋の形に魅了されます。  
   
太鼓橋から見上げた河内堰堤です。コンクリートという近代的な素材に、石材という伝統的な素材が組み合わされています。まだ当時高価だったセメントを節約するという経済的な要因に、優れた石工の技術が加味されて、独特の景観を創り上げています。
   
太鼓橋を渡って行くと、堰堤の真下に弁室があります。太鼓橋からは木立で見えません。後程堰堤上から見ることにします。対岸を反対側に進みますと、この小橋があります。太鼓橋と同じ意匠で架けられています。  
   
小橋を渡った先に、板櫃川起点の石柱が立っています。
   
板櫃川沿いに進むと、左手に木の吊橋が架かっていて、右手に割石張りのコンクリート造りの建物があります。  
   
建物の先に亜字池があります。上から見ると亜の字に見えるので、亜字池といいます。池にあるのは噴水です。水を曝気して臭いを取るための噴水でした。現在は機能していません。
   
かっては亜字池から自然流水方式で、水路を通って鬼ヶ原配水場に送水されていました。亜字池からは、板櫃川に架かった水路橋の大河原橋を流れて行きました。大河原橋は鉄骨をコンクリートで覆った橋で、貯水池完成時に架けられました。1965(昭和40)年トンネルによる送水管が完成し、半圧力式で送水されています。
水路については、「八幡のまちかど」の「水路跡」をご覧ください。
 
   
亜字池の横の建物の川側は木製デッキになっていて、そこを下ると木の吊橋が板櫃川に架かっています。そこを渡り、河内桜公園の坂道を県道まで戻ります。
   
貯水池側から見た河内堰堤です
堰堤の頂上部です。長さ189m、幅3.5mで、通路になっています。西から東に歩いて行きます。  
   
堰堤の上から貯水池の奥、南西方向を眺めています。奥に見える山は、直方市と八幡西区の境にある標高561.8mの金剛山です。
堰堤の上から北西方向を眺めです。北河内橋が見え、その上に標高622mの皿倉山頂上に立っているアンテナの鉄塔だけが見えます。
   
取水塔は半円形で、割石張りになっています。取水塔の入口には、貯水池竣工当時の第6代製鐵所長官中井励作の書、「風雨龍吟」が掲げられています。製鐵所は当初農商務省管轄の官庁でした。中井長官就任時は農商務省で、貯水池竣工時には商工省の管轄になっていました。  
   
堰堤上から下流側を眺めています。先程行った太鼓橋が見え、右真下に弁室が見えます。弁室はダムからの取水量を調整します。割石張りのコンクリート造りです。
   
弁室入口には、半分草に覆われていますが、着工時の技監服部漸(すすむ)の書、「萬古流芳」が掲げられています。技監は製鐵所の職制の上で、技術系のトップで、概ね長官に次ぐ製鐵所のナンバー2(一時長官に次いで次長のポストが設けられた時期がある)の地位でした。  
   
堰堤の東端の先に岩が積み上げられて、その上と右下中段に石碑があります。竣工時に建てられました。
   
積み上げられ岩の上に、第5代製鐵所長官白仁武の書、「乾坤日夜浮」の石碑が建てられています。白仁武は河内貯水池着工時の製鐵所長官でした。  
   
中段の岩の間にはめ込まれた英文の石碑です。河内貯水池、昭和2年(1927)竣工と書かれ、設計、建設は沼田、足立、松尾の名が読めます。沼田は沼田尚徳、足立は足立元二郎です。
沼田の後のM.AM.SOC.C.E.はMember of American Society of Civil Engineersの略で、沼田尚徳はアメリカ土木学会の会員で、英米視察の経験もありました。
   
堰堤上を戻って行きます。堰堤の延長上、県道の先に石段が伸びていて、その上に建物があります。表面が自然石の玉石で覆われた貯水池管理事務所です。円形2階建てで、現在は立入禁止になっています。  
   
管理事務所入口には、土木部長沼田尚徳の書、「遠想」が掲げられています。
   
県道62号北九州・小竹線に戻り、河内貯水池沿いに南に進みます。県道は、河内貯水池西岸沿いに伸びています。堰堤から最初の貯水池に流れ込む川に、北河内橋が架かっています。その手前を山手に入って行く小道が皿倉山の登山口の一つです。北河内橋の川の上流側が建設当時のものです。鉄筋コンクリート橋のアーチ橋です。橋長19.08m、スパン15.88mで、アーチの桁3本がスラブを支える構造になっています。大正11年4月完成、平成元年3月拡幅の新しい銘盤が取り付けられています。  
   
北河内橋の先にサイクリングセンターがあり、その横に駐車場があります。河内貯水池は周囲6.9kmです。堰堤を含めて、歩行か自転車で貯水池を一周することができます。サイクリングセンターでは、土日曜や祝日、春・夏休みは毎日、自転車の貸し出しが利用できます。
   
サイクリングセンターの先を進むと、右手に三本松駐車場があります。その先に貯水池に突き出した所があります。そこは自転車道が車道と並行して走っています。自転車道から堰堤の方向を見てます。
同じ自転車道を少し先に行って、反対側の貯水池の奥を眺めています。赤い橋は南河内橋、通称めがね橋です。
三本松駐車場を過ぎてしばらく行くと右手に白山宮の鳥居があります。注意していないと通り過ぎてしまいます。白山宮の鳥居をくぐって石段を昇りますと、参道脇の広くなった所に石碑が立っていて、石段を更に昇ると社殿があります。  
   
石碑は沼田泰子記念碑です。沼田泰子(やすこ)は沼田尚徳(ひさのり)の妻で、貯水池完成前後して亡くなっています。河内貯水池竣工の翌年、尚徳によってこの石碑は建てられています。河内貯水池建設工事の頃は、尚徳にとって家庭的には不幸が続きます。4人の娘と三男が亡くなり、遂には内助の功を尽くした妻まで亡くしました。尚徳は、記念碑の後半で、亡き妻に五言絶句(五言の句が四句の漢詩、五絶ともいう)を捧げています。召水は尚徳の号です。
   
沼田泰子記念碑の裏面は、アメリカ土木学会の会員らしく沼田尚徳は英文で書いています。表の内容を短くまとめた文章になっています。  
   
白山宮の石碑の前からの河内貯水池の眺めです。河内貯水池の工事中、養福寺貯水池もつくられていました。沼田は両貯水池の設計者であり、工事責任者でした。河内貯水池を視察した後、養福寺貯水池にも回ったといわれています。貯水池の右手の山手が奥田で、河内から奥田を通って山を越え、市瀬または上津役に抜ける山越えの道がありましたので、歩いて山を越えて養福寺貯水池に行ったと思われます。
先に進みますと、中河内橋が架かっています。貯水池側の中河内橋は、石造りの三連アーチ橋です。橋長30.60m、スパン8mが三連の自然石積のアーチ橋です。実は、中河内橋は離れてもう一連ありますが、後程紹介します。
   
中河内橋の最初に造られた橋の上の道路表面は、石張りになっています。  
   
中河内橋の三連を渡ると、貯水池に突き出た部分があります。奥に帆柱新四国の札所のお堂があり、手前に 遭難五士慰霊碑 が立っています。1932(昭和7)年2月27日、日本航空白鳩号が福岡に向かっていた時、上空で暴風雪に遭い墜落しました。その乗務員5名の慰霊碑です。
   
慰霊碑の先に、もう一連の中河内橋があります。三連と同じ自然石積のアーチ橋です。  
   
中河内橋の手前から県道を右折すると、すぐ右手に河内小学校があります。
   
坂道を上って行くと河内温泉あじさいの湯がありますが、下の駐車場でも駐車して、県道は狭いので、白山宮や中河内橋付近を見学するのが安全と思います。右手には窯元の祐工窯があり、道路の左手に河内温泉あじさいの湯があります。  
   
河内温泉あじさいの湯泉質はアルカリ性単純温泉で、料金は大人840円です。八幡駅と到津の森公園から無料送迎バスが運行されています。運営は株式会社創裕が行っています。
施設や利用内容の詳細は、下の株式会社創裕の河内温泉あじさいの湯のサイトをご覧ください。
  http://www.souyu.co.jp/ajisai/
   
河内温泉あじさいの湯の前の坂を更に上って行くと、右手に河内藤園の案内があります。そのまま直進しますと、林道市瀬・奥田線(4.9km)で、八幡西区市瀬の鷹見神社の前に出ます。右折して河内藤園に入って行きます。入口の前が駐車場になっています。山の斜面に藤園は開かれています。約3000坪あり、青紫、赤紫、紅、白等の色の22種類、約100本の藤が植えられています。  
   
藤園の上にある大藤棚です。花の時期は4月下旬から5月中旬で、見頃はGWの期間になります。入園料は最高が1000円で、開花状況で料金が変わります。
大藤棚がある高台から下を眺めています。長さ80mと220mの藤のトンネルと藤のドームが望めます。
藤のトンネルにもしっかりと藤の花が咲いています。
大渋滞の中をやっとたどり着き、一番高い料金を払っても、一番きれいな時を見ると、それまでのことは忘れます。ネットでワールドワイドに知られ、その美しさを見たさに国内外から大勢の人がやって来ます。
   
秋は11月中旬から12月初旬の紅葉時期に開園します。見頃は11月下旬で、入園料は300円です。もみじの森は藤園の先にあります。  
   
県道62号北九州・小竹線に戻り、中河内橋を渡って先に進みます。正面に貯水池に架かった赤い鉄橋の南河内橋が現れますが、現在は車は通れません。道路は右にカーブして貯水池沿いに進み水無橋を渡ると、右手に奥田川駐車場があります。河内五橋のうち水無橋だけが、1993(平成5)年に架け替えられました。以前は上流20mの所に第一水無橋が架かっていて、その先に第二水無橋が架かっていました。第一水無橋はスパン8.5m、第二水無橋はスパン8.0mのI形鋼を使った同じ形の橋でした。水無橋の下流の貯水池に自転車道の橋が架けられています。水無橋付近から自転車道にかけては、このような親水公園になっています。
自転車道から貯水池側を見ています。南河内橋の横からの眺めです。南河内橋は鉄骨が三角形に組まれたトラス橋です。橋長132.97m、スパン66m×2で、橋脚と橋台は切石積のコンクリート造です。他の橋が貯水池に流れ込む川に架かっているのに対し、この橋だけが貯水池に架けられています。赤く塗られた独特の形で、魚形橋と呼ばれていました。この前の中河内橋がめがね橋と呼ばれていました。しかし、中河内橋が三連アーチ橋であったため、どこかで取り違えられて、この南河内橋がめがね橋と呼ばれるようになりました。
県道を先に進みます。道幅が広くなり、貯水池側が駐車場になっています。貯水池に流れ込む田代川沿いに進むと、左手に橋が架かる左折の道があります。その橋が貯水池の一番奥に架かっている猿渡橋です。猿渡橋の田代川の上流側です。切石積の単連アーチ橋です。下流側が拡幅されています。
このまま県道62号北九州・小竹線を田代川沿いに進みますと、田代で県道61号小倉・中間線に合流します。県道61号を左折しますと、小倉南区合馬を経て国道322号線に到ります。県道61号を右折しますと、八幡西区の畑貯水池を経て国道211号線に到ります。
   
猿渡橋を渡り、県道の反対側を、田代川沿いに下流の貯水池側に進みます。猿渡橋から貯水池にかけての田代川は公園になっていて、河原に下りて水に親しむことができます。左が県道側で、右を進みますと、南河内橋に到ります。  
   
南河内橋のたもとには、車数台が駐車できるスペースがあります。南河内橋はレンティキュラートラス(Lenticular truss)橋です。lenticularはレンズ状の意で、レンティキュラートラスは別名レンズトラスとも呼ばれます。この構造の橋は、南河内橋が我国で唯一の現存橋です。
   
南河内橋は2006(平成18)年に国の重要文化財に指定されました。4.45mの橋門に「大正15年11月 南河内橋」の橋名板が掲げられています。  


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この先をクリックしてください → 河内貯水池
 河内藤園については → 河内藤園2016


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