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若松南海岸  若松区  [2016/02/06] 

 
 
筑豊炭田を背後に控える若松は、かって日本一の石炭の積出港でした。鉄道や船の輸送機関、役所、銀行、商社、問屋、鉄工所、商店、その他サービス業により、若松南海岸にはバンドと呼ばれる帯状の港湾都市が形成されました。
江戸時代より、米とともに石炭が遠賀川から堀川や江川を利用して洞海湾の奥に入り、その出口に近い若松に運ばれました。底の浅い舟の川艜(かわひらた)、別名五平太船で運ばれました。福岡藩は芦屋・若松に焚石(たきいし)会所を設け、石炭をその管理下に置きました。小倉藩は、一時若松焚石会所での販売を福岡藩に委託しました。

明治になると、石炭は自由販売になりました。嘉麻・穂波・鞍手・遠賀の筑前の四郡と田川の豊前の一郡、いわゆる筑豊(筑前と豊前からの命名)の石炭は若松に運ばれ、若松には石炭関連の業者が次々に生まれました。エネルギー源としての石炭の重要性は増し、筑豊炭田には三菱・住友・古河の財閥が進出し、貝島・麻生・安川などの地場資本も加わって、急速に開発が進みました。川艜は、明治20年代前半の最盛期には7,000隻を越えました。1888(明治21)年産業界の要望で筑豊興業鉄道会社が設立されました。1889(明治22)年の遠賀郡若松村は人口2,764人でした。

1890(明治23)年、港の水深が十分でなく、港口が泥砂で塞がれているため、防波堤を築造し、航路を浚渫し、海の浅い場所を埋立てる若松築港会社が設立されました。1891(明治24)年若松村は若松町になり、同年若松‐直方間の筑豊興業鉄道が開通しました。若松駅は若松町の西隣の石峯村大字修多羅(すたら)に設置されます。金比羅山麓の砂浜が埋立てられ、数条の線路が敷設され、石炭車の操車場と荷卸場が設けられました。1894(明治27)年筑豊興業鉄道は筑豊鉄道と改称されます。

若松築港により防波堤が築かれ、浚渫工事が進められ、1893(明治26)年から船舶の入港料の港銭(こうせん)の徴収が認められることになりました。浚渫土砂捨場は若松町連歌浜沖合の水面が許可されていました。1895(明治28)年日清戦争が終わり、戸畑沿岸改修と葛島(かつらじま)周辺埋立工事が許可されました。日清戦争後、我国は重工業の発達に力を入れ始めたため、その基礎資材の鉄の需要が高まり、1997(明治30)年洞海湾岸の遠賀郡八幡村に官営製鐵所が設立されました。同年筑豊鉄道は九州鉄道(現在の鹿児島本線の前身を開通させた)と合併し、九州鉄道になりました。若松駅のある修多羅はすぐに市街化され、1898(明治31)年若松町に合併されました。洞海湾岸の工業の発達に従い数次の港湾工事の拡張が申請されました。 
   
若松築港により浚渫工事が進められ、浚渫土砂による埋立工事が進められため、若松の地形も変わっていきました。その変遷を国土地理院の地形図で見ていきます。左は1900(明治33)年5万分の1の小倉、中は1922(大正11)年2万5千分の1の八幡、右は1969(昭和44)年の八幡の地形図の一部です。ほぼ同じ区域の地図です。

1901(明治34)年官営製鐵所は操業を開始しました。1905(明治38)年日露戦争は終わりますが、その間に船舶・鉄道・工場の動力源である石炭の需要は急速に高まりました。また若松築港による築港工事により若松港の区域は拡大していきました。1906(明治39)年石峰村全域が若松町に合併されました。1907(明治40)年九州鉄道は国有化されました。

1914(大正3)年若松市が発足しました。この年の人口は36,915人でした。この年第一次世界大戦が勃発しました。この大戦は欧州が戦場であったため、我国の重工業は発展し、石炭の需要も増加し、北九州工業地帯も発展しました。若松でも、地元資本の会社、工場、商社が多数設立されました。若松駅の駅舎は手狭になり、1920(大正9)年約500m東寄りの現在地に移転新築されました。若松築港は、大工場誘致を目的にした前田から本城(現在の八幡東区から八幡西区の湾岸)に到る埋立の工事を申請し、若松周辺から洞海湾一円の築港工事を行うようになりました。

遠賀川川筋の川艜は、約5トンの石炭を積み、月に2~5回若松に運びました。自然災害に弱い川艜に替える目的で鉄道は開通しました。鉄道が開通した翌年の1892(明治25)年は川艜で67万トン、鉄道で12万トン若松に運びました。4年後の1896(明治29)年には川艜83万トン、鉄道124万トンとその比率は逆転しています。大正時代(1912~)に入ると、川艜での水運量は全輸送量の10%を切るようになり、昭和(1926~)になると1%台になり、歴史上の役割を終えました。若松駅の開業当時は、石炭は貨車から一旦降ろされ、船に積み込まれました。すべて人力でした。しかし、1895(明治28)年には駅構内の岸壁にホイストクレーンが設置されました。翌年には石炭荷役桟橋とクレーンが設置され、機械による船積が行われました。

1914(大正3)年石炭船積を強化するために、若松駅構内を藤ノ木に拡張して、船積専用高架桟橋が完成しました。石炭車は底開きで、石炭は高架桟橋の上からシュートを通じて、接岸された船に積み込まれました。この桟橋の山側に貯炭場がありました。貯炭場は、直接船積される以外の配船遅れのための一時保管的な役割でしたが、石炭の需要に対応する保管場所になりました。貯炭場からは高架桟橋を跨いで船積する必要があり、この作業は人力で行われました。海上での作業の沖仲仕(おきなかし)に対し、陸上での作業は陸仲仕(おかなかし)によって行われました。1935(昭和10)年貯炭場からの荷役の機械化のために、2基のガントリークレーンが藤ノ木の船積専用高架桟橋の山側に完成しました。東洋一の設備といわれました。

連歌浜沖合の埋立は北湊まで進んでいましたが、北湊は荷置場になって放置されていました。1936(昭和11)年北湊への若松市営貨物電車が開通しました。若松駅を出て、中川通りを通って北湊に到る軌道でした。石炭の運搬がスムーズになり、臨海工業化に寄与しました。1938(昭和13)年若松港は県営化され、若松築港によって徴収されていた港銭は廃止されました。1937(昭和12)年日中戦争が始まり、1939(昭和14)年には欧州で第二次世界大戦が勃発しました。この年に若松と戸畑の中間にあった中ノ島の切取工事が始まり、翌1940(昭和15)年に完了しました。戦争の進展に伴い、1940(昭和15)年の全国の出炭量は5,700万トン、筑豊で2,049万トンで、若松港の着炭量も史上最高で1,921万トンでした。1941(昭和16)年太平洋戦争に突入しました。

若松に集められた石炭は、大正時代まで主に帆船で瀬戸内海を通って主に瀬戸内海沿岸や阪神に運ばれました。一本マストの日本式帆船から、明治末期には3本マストの西洋式帆船に改造が行われましたが、風待ちの航海には変わりはありませんでした。帆船に漁船の焼玉エンジンを取り付ける改良がなされ、補助帆船の時代になりました。昭和初期の不況の時代に、効率の良い、マストだけを残してエンジンだけで動く機帆船に変わっていきました。帆船は当初は30~50トンで、100トンになると大型でした。機帆船は150~200トンで5人が乗り組んでいました。これらの船主は、その船頭や船長を務める瀬戸内海沿岸や島々の個人資本の海運業でした。

曳船(ひきぶね)によって曳航されるのに、被曳船(ひえいせん)があります。函型で、長さは短く幅が広く、喫水が浅く200~300トン積めました。個人資本の帆船と違い、海運会社や石炭商社が所有していました。積載された被曳船6・7隻が一船団として曳航されました。大正時代の初めが最盛期でした。同じく曳航され、港内の運搬用に使われたのが艀(はしけ)です。100~200トンで船底が広く喫水が浅く、船尾に船室があり、そこに夫婦が住み込みで働きました。自営業で、子供や老人は若松港周辺の陸上で生活しました。石炭を燃料にする汽船や石炭輸出の船積には艀が必要でした。1隻の汽船の積込みには10~20杯の艀が必要で、その作業は沖仲仕によって行われました。大正時代には、若松港に年間1,200~1,300隻の汽船が入港し、石炭の積込みが行われました。若松港の艀は門司港まで出かけ、外国航路の汽船の石炭の積込みも行いました。

帆船、機帆船、被曳船そして艀も木造でした。小型船が鋼船化するのは、戦後、それもエネルギー革命後になります。石炭が唯一のエネルギーであった時代は過ぎ、汽船は重油も使うようになり、燃料積込みの寄港も減り、汽船による石炭の一括輸送も減っていきました。また港では、施設の改良により汽船の接岸荷役が容易になりました。艀は1935(昭和10)年頃を境に減少していきました。

1945(昭和20)年8月15日終戦になります。阪神工業地帯が復興すると、若松駅の石炭輸送も復活してきました。1950(昭和25)年朝鮮戦争が勃発し、世間は特需景気で沸返り、石炭の需要は急増しました。しかし、1960年代世界的にエネルギー革命があります。我国では、1962(昭和37)年原油の輸入が自由化され、エネルギーの主役は石炭から石油に代わっていきました。同年、若松と戸畑の間の洞海湾に若戸大橋が架けられ、翌年には五市が合併し、若松市は北九州市若松区となりました。

筑豊の炭鉱は閉山が相次ぎ、若松港の着炭量も減り、昭和40年代後半には石炭車が連結された筑豊からの石炭列車の姿も消えました。石炭荷役の諸設備は解体・撤去されました。中川通りを通っていた貨物電車も1975(昭和50)年廃止されました。1982(昭和57)年若松駅の貨物取扱いは廃止となりました。1984(昭和59)年現在の若松駅に建て替えられ、広大な若松駅構内はニュータウンに生まれ変わることになりました。
高塔山公園の展望台からの眺めです。洞海湾に架かる若戸大橋の手前若松側の下付近から、西側、右側方向の洞海湾沿岸を若松南海岸といいます。
展望台からの他の眺望は「北九州のみどころ」の「高塔山公園」をご覧ください。
対岸の戸畑側、若戸大橋の下から若松南海岸の東の眺めです。中央の茶色の建物は若築建設の社屋です。
   
若戸大橋から西の若松南海岸の眺めです。右側高層マンションの下に、船が接岸している若戸渡船の若松渡場が見えます。手前左手の先に戸畑渡場があります。渡船は若松渡場の左側を目指して進み、手前で右旋回して接岸します。
国道495号線弁財天前交差点の洞海湾側に、海に降りる石段があります。この場所を弁財天上陸場(べんざいてんじょうりくば)と呼びます。1917(大正6)年頃若松市によって建設された海陸連絡施設で、仲仕や港で仕事する人々が乗降したり、荷役作業を行った場所でした。左右にあるのは常夜灯で、地元の商店主等によって建てられました。
道路を挟んで北側に厳島神社があります。祭神は宗像三女神です。弁財天は七福神の中で唯一の女神で、神仏習合において、宗像三女神のうちの市杵島姫命(いちきしまひめ)と同一視されます。
 
   
弁財天上陸場の隣に旧ごんぞう小屋があります。このごんぞう小屋は、1904(明治37)年~1965(昭和40)年の間、ごんぞう(仲仕)達の詰所として使われました。紐と紐を通す部分が布で作られた藁草履をごんずと呼び、このごんず草履を武者わらじ、権蔵(ごんぞう)とも呼びました。このごんず草履を仲仕が履いていたことから、他に「ごんぞう」という力の強い人がいたことから、とごんぞうの語源ははっきりしません。
   
復元されたこの建物は休憩所になっていて、かっての若松の写真や資料が展示されています。記録によりますと、若松港の仲仕数は、明治40年代には750人でしたが、明治末から大正にかけて急増し、1915(大正4)年には最高の3,141人に達しました。ごんぞう小屋に掲示された説明によりますと、1940(昭和15)年頃の仲仕(ごんぞう)は約1,500人、小頭が約70人でした。石炭荷役は石炭商業組合から請負業組合が請負い、小頭組合の各組に配分されました。
火野葦平の父親で、沖仲仕の組「玉井組」の小頭玉井金五郎と妻マンを描いた実名小説「花と龍」は、1903(明治36)年愛媛と広島を後にした二人が門司で出会い、1936(昭和11)年玉井組創立30周年で終わっています。若松港が一番華やかな時代を舞台に、沖仲仕達の生活が描かれています。かって玉井組の事務所が道路の反対側にありました。
 
   
旧ごんぞう小屋の隣に、片山正信の版画「石炭荷役ごんぞう図」が石碑になっています。ごんぞうは、バイスケに石炭を入れて天秤棒を担いで運びました。バイスケは吊縄が付いた竹で編んだ籠のことで、バスケットが転じたといわれています。
仲仕達の性格を川筋気質(かわすじかたぎ)と呼びます。この川筋は遠賀川で、遠賀川を通って石炭を五平太船が若松に運んで来ました。競争も激しく、収入も多いが危険も多く、気風の良さと喧嘩早いが情にもろい、五平太船の船頭達の性格を本来川筋気質と呼びました。このような性格は、多少誇らしげに、遠賀川川筋の筑豊炭田の炭坑夫達や、積出港の若松の荷役作業に携わる仲仕達に引き継がれていきました。義理と人情が、何のこだわりもなく受け容れられる世界でした。
   
ごんぞう小屋の先を東に行くと、すぐ右手に石炭会館があります。1905年(明治38年)に若松石炭商同業組合の建物として建てられました。木造2階建てで、外装はモルタル塗りです。組合員には、個人の他に、三井物産・三菱鉱業・古河鉱業の中央資本や安川松本商店の地元資本が加盟していました。  
   
旧古河鉱業若松ビルは、1919(大正8)年古河鉱業若松支店として建てられた、レンガ造りの2階建てです。コーナーの入口の上に3階建ての塔があり、堂々とした建物です。若松南海岸のシンボル的建物でしたので、補修・整備されて、2004(平成16)年9月地域のコミュニティ拠点としてオープンしました。
   
かっての社員の通用口であった西側の出入口から入ります。正面玄関の横の小道を入ると出入口があります。入ると正面に階段があり、そこまでの中廊下の右手、海岸通り側にこの営業室があります。右側が正面玄関で、そこを入るとカウンターになっています。中廊下の左手には会計室がありました。現在は受付事務室になっています。2階も中廊下が通じていて、廊下で事務室を連結するという、能率的なアメリカの事務所建築から学んだオフィスビルで、このようなビルは若松では初めてのものといえます。
現在の旧古河鉱業若松ビルの各事務室は、会議室や多目的ホールとして利用できます。旧古河鉱業若松ビルの公式サイトは下記の通りです。
 http://www.k4.dion.ne.jp/~fkw/
 
   
石炭会社や税関の建物が並び、人の往来もにぎやかだった風景はなくなりましたが、石炭積出港として繁栄していた若松の面影がこの通りには残っています。通りは拡幅され、半分は歩道になっています。石畳があったり、ウッドデッキやベンチがあります。しかし、当時の建物はしだいに消えていっています。若松南海岸のシンボル的建物の旧古河鉱業若松ビルの手前、現在マンションが建っている所に旧麻生商店若松支店がありました。マンションの前にその建物の意匠が残されています。
   
これは2004年の撮影です。旧麻生商店若松支店は、1925年前後(大正末から昭和初め)に建てられました。木造2階建てで、道路を挟んだ旧古河鉱業若松ビルの入口と対称的に、建物の東側隅に入口が置かれていました。筑豊の地元石炭資本のひとつ麻生は、三井物産による一手販売を解消して、1918(大正7)年麻生商店を発足させ、独自の販売経路を開きました。  
   
もう一つ、消えてしまった建物を紹介します。上野ビルの西側、現在マンションが建っている所にあった大正ビルです。2001年の撮影です。その数年後には解体されました。ビル名からして大正時代の建設だったのでしょうか。この様にして、歴史を物語る建物が数多く消えていったと思われます。
   
洞海湾は高度成長期には死の海といわれました。公害都市であった北九州市は、官民の協力があって、現在環境先進都市になりました。それとともに洞海湾は蘇りました。
旧古河鉱業若松ビルの前に、さらに生態系を利用して浄化する筏の施設が設置されています。2002(平成14)年に設置されたこの施設では、ムラサキイガイ(ムール貝)が赤潮プランクトンを摂食して水質を浄化します。
 
   
若松渡場の左手前に上野ビルがあります。1913年(大正2)年に三菱合資若松支店として建てられました。レンガ造り3階建てです。左は同じ敷地内にある倉庫で、三菱のマークが見えます。石炭を取扱う三菱財閥の商社事務所として機能しました。
   
若戸渡船の若松渡場です。北九州市営若戸渡船は、若戸大橋の下を若松と戸畑を結び、人と自転車を運びます。湾内に出入する船の本航路を横断して往復します。若松と戸畑の間には、昔から渡船はありました。1889(明治22)年以降若松村・若松町と戸畑村・戸畑町はそれぞれ渡船経営に当たりました。使われたのは二挺艪の伝馬船でした。1910(明治43)年若松・戸畑両町は委員会をつくり、前後両方に推進器と舵のある汽船を発注しました。日本で始めて渡船に汽船が就航しました。1919(大正8)年若松市・戸畑町の共同事業になりました。1930(昭和5)年4月2日若松恵比須祭の初日、第一わかと丸が沈没しました。死者73名の国内最大の海難事故でした。この後、復元性能が向上した大型で、速力、安全性が向上した渡船が建造されました。1936(昭和11)年から若松・戸畑両市の直営事業になりました。1962(昭和37)年若戸大橋が開通すると渡船は廃止される予定でしたが、利用者の要望で存続となり、翌1963(昭和38)年五市が合併すると、北九州市営になりました。  
   
若戸渡船の若松渡場から見た戸畑側で、若戸大橋の橋台の横に戸畑渡場があり、その右側にニッスイ戸畑ビルが建っています。鉄筋コンクリートの4階建てで、1936(昭和11)年に建築されました。1895(明治28)年の日清戦争後、若松築港により戸畑沿岸改修と葛島(かつらじま)周辺埋立工事が行われ、一文字島が造成されました。川艜(五平太船)によって一文字島に石炭は運ばれました。取引が成立すると、川艜や艀で汽船、機帆船、被曳船に積まれました。1926(大正15)年一文字島が埋立てられ、一文字島埠頭が竣工しました。1929(昭和4)年共同漁業(日本水産の前身)が下関から一文字島埠頭に移転し、遠洋漁業のトロール船の基地となり、製氷会社が建設され、諸設備が備えられていきました。
   
若松渡場の前に洲口公園があり、その一角にこの石碑が立っています。ここは洲口(すぐち)番所跡です。江戸時代の正徳年間(1711~16)に、福岡藩が船による人や品物の出入を監視する番所を設置しました。
若松渡場の東側から若築建設の先までの海側に歩道が新設されています。
 
   
若松渡場の先、若戸大橋の下に栃木ビルはあります。1920年(大正9)年建築の鉄筋コンクリート3階建てです。造船と船舶代理業の栃木商事の本社として建てられました。設計は、門司港レトロにある国の重要文化財の旧門司三井倶楽部を設計した松田昌平です。
   
栃木ビルの裏手の海側で、若戸大橋の下になります。若松渡場を出た渡船は若戸大橋の下を通り、橋脚の向こう側から右に旋回して戸畑渡場に接岸します。
若戸大橋の下には、かって周囲600mほどの中ノ島がありました。古くは河と(白に斗の字)島と記され、「かばしま」とも「かわとじま」とも呼ばれました。1600(慶長5)年筑前国に入った福岡藩主黒田長政は、中ノ島に端城の若松城を築き、三宅若狭家義を城主にしました。若松城には、多くの船を備え、番所を設けて洞海湾を往来する船を取り締まりました。1615(元和元)年幕府の一国一城令で、若松城は廃城になりました。明治になると、中ノ島にはコークス工場・貯炭場・造船場が建設されました。しかし、洞海湾の築港の進展により、1940(昭和15)年中ノ島は切り取られ、その姿を消しました。
 
   
海沿いを東に進みます。1890(明治23)年若松築港会社は設立され、1892(明治25)年埋立工事、港の維持管理のため港銭(こうせん、入港料)収入所を設置し、翌1893(明治26)年から1938(昭和13)年まで港銭を徴収しました。この建物は不正監視のために、1931(昭和6)年設置された出入船舶見張り所です。
   
更に進みますと若築建設があります。1890(明治23)年設立された若松築港会社は、若松港を築き、洞海湾を浚渫埋立てて発展しました。戦後は全国各地、海外で工事を行い、一部上場され若築建設と社名を改め、東京に本社を移転しました。
洞海湾の築港工事は、北九州の経済史を物語るものです。それらやそれ以前の史料が、若築建設の3階の「わかちく史料館」に展示されています。
 
   
若築建設の先に行くと通りに出ます。左に行くと、若戸大橋の若松側橋台があります。1962(昭和37)年に開通した若戸大橋は、片側一車線で歩道がありました。この橋台にエレベーターがあって、大橋の歩道に昇るようになっていました。若戸大橋は、車輌交通量の増加に対処するため、1984(昭和59)年両側四車線拡張に着工し、1987(昭和62)年歩道は廃止され、1990(平成2)年に竣工しました。
その橋台の西側に片山正信の版画をもとにした壁画が掲げられています。5つ掲げられていましたが、これから訪れる3つを紹介します。いずれも懐かしい風景が描かれています。これは次に訪れる若松恵比須神社の春の例祭の様子です。
   
旧若松区役所の壁画です。1922(大正11)年若松市役所として建てられました。鉄筋コンクリートの地下1階、地上2階建てです。1963(昭和38)年五市が合併し北九州市が発足すると、若松区役所になりました。若戸大橋の拡幅工事に伴い、1989(平成元年)解体されました。  
   
これはかっての若松駅の操車場です。後程その跡地を訪れます。
   
若戸大橋の若松側橋台の西側の取付高架橋の下は、若松恵比須神社の参道になっています。その北側に若松恵比須神社があります。1月10日の十日えびすの祭りが行われていました。恵比須神社の社伝によりますと、神功皇后が洞海に入られた時、熊襲成敗の吉凶を占うため釣糸を垂れました。すると、海中に光り輝くものがあり、海士(あま)に採らせたところ、見事な霊石であったので、事代主のお告げであろうと、事代主神を海浜に祀ったと伝えられています。この霊石が恵比須神社のご神体であり、祭神は事代主命と大国主命です。若戸大橋の架橋、拡幅工事により、若松恵比須神社の境内は往時より狭められています。恵比須神社の北側は、明治時代の築港工事以前は海岸でした。北側の連歌浜は埋め立てられていきます。恵比須神社の左横には市役所が建てられ、埋立てられた現在の浜町2・3丁目、桜町が市街化されます。北浜に製油会社が建設され、北湊が築港され、その周りが埋立てられます。  
   
若松恵比須神社の参道になっている若戸大橋の取付高架橋の下を進むと、国道495号線の交差点に出ます。その北側に現在の若松区役所は建っています。庁舎の右手が南側で、区役所の駐車場になっています。その南側を取付高架橋が通っています。旧区役所はその横に建っていました。現在の若松区役所はその北側に、1990(平成2)年に建てられました。
   
国道495号線を南に行きます。突き当たった所が最初の弁財天前交差点です。国道495号線はそこを右、海岸沿いを西に行きます。次の交差点で、若松の中心街を通ると中川通りと交差します。中川通りを挟んで洞海湾沿いの両側に、ベイサイトプラザ若松があります。市街地再開発事業が行われ、道路を挟んで2棟の建物が建てられました。スーパーを含む商業施設、オフイスの業務施設、住宅、図書館、駐車場があります。中央の中川通りを1975(昭和50)年まで貨物電車が通っていました。市街地再開発事業が行われて、中川通りは広くなり、7月下旬の金・土・日曜に行われる若松みなと祭りの会場になります。
若松みなと祭りについては、「北九州の催事」の「若松みなと祭り」をご覧ください。
 
   
海岸沿いを更に西に行きます。洞海湾にカギ形に突き出た若松南荷揚場になっています。左端が埠頭にある事務所が入っている建物マリンコアです。
1914(大正3)年市制を施行した若松市は、若松駅構内のこの付近から若松南海岸にかけて、岸壁を築造して水深6mに浚渫し、1921(大正10)年3,000トン級が3隻、5,000トン級が2隻が一度の繋船できるようにしました。現在若松南荷揚場はポートサービス船を収容する小型船溜りです。
   
若松南荷揚場には遊歩道が設けられていますので、荷揚場の先端まで歩いて行けます。若松南海岸を海側から眺めることができます。若松南荷揚場の先端からの眺めです。左側から弁財天上陸場、その隣の旧ごんぞう小屋、石炭会館、旧古河鉱業若松ビル、上野ビル、若戸渡船の若松渡場、訪ねて行った建物が見えます。
若戸大橋は、工事が1959(昭和34)年3月に始められ、1962(昭和37)年9月27日に開通しました。全長は約2.1㎞、吊橋部は627m、橋脚間は367m、主塔の高さは83.9m、海上から橋までの高さは40mです。当初片側1車線の歩道付きでしたが、1984(昭和59)年5月~1990(平成2)年3月の工事により、歩道はなくなり、片側2車線に拡幅されました。若戸大橋を通っている道路は国道199号線で、橋の管理は北九州市道路公社が行っています。右端に戸畑側のニッスイ戸畑ビルが見えます。
若松南荷揚場のカギ形に曲がる個所から南側の眺めです。対岸の丘陵地は戸畑区の牧山です。かって都島がありましたが、埋め立てられて牧山海岸になっています。右の山は八幡東区の標高622mの皿倉山です。  
   
若松南荷揚場のカギ形に曲がる個所から北西側の眺めです。海岸沿いの建物は、分譲や公営の集合住宅からなる久岐の浜ニュータウンで、かっての若松駅の操車場跡です。その左側の先は見えませんが、海に張り出した岬の山(はなのやま)になり、更に先は山側にかって若松工場、若松車両センターがあり、海側に藤ノ木駅まで貯炭場がありました。
若松南荷揚場の北側に国道495号線の久岐の浜団地入口交差点があり、その交差点から国道495号線は右に曲がって北に進みます。道路の右手が若松市民会館で、左はJR若松駅になります。国道495号線はその先の若松駅前交差点で国道199号線と交差合流します。
若松市民会館の右手、南側には大小のホール、楽屋、練習場があり、左手北側には五平太船展示コーナー、火野葦平資料館、階上に会議室などがあります。
   
若松市民会館1階左手北側表に川艜(五平太船)が復元されて展示されています。入って行くと火野葦平資料館があります。
表のガラス窓越しに川艜を見ることができます。1976(昭和51)年川艜最後の船匠中西吉兵衛によって製作されました。長さ15m、幅2.5m、高さ1.5m、積載量6トンの大型のものです。
火野葦平については、「北九州点描」の「河伯洞」をご覧ください。
 
   
若松市民会館の前がJR若松駅です。三代目の駅舎になります。1891(明治24)年筑豊興業鉄道は直方-若松間の鉄道を開通、その時ここより西500mの所で若松駅は開業しました。年々石炭輸送量が増えるにつれて、石炭貨車の操車のために駅構内が狭くなりました。1920(大正9)年構内を拡張し、駅舎は現在地に移転しました。石炭輸送がなくなった1984(昭和59)年、現在の駅舎に建替えられました。筑豊本線の折尾・桂川間と篠栗線が2001(平成13)年電化され、鹿児島本線を通って黒崎・折尾・桂川・博多駅間を福岡・北九州・筑豊を結ぶということで福北ゆたか線と呼ぶようになりました。筑豊本線の折尾・若松間は電化されず、若松線と呼ばれ、ディーゼル車が運行されています。
   
若松駅の南は広場になっています。昭和30年代後半のエネルギー革命により、石炭需要が急減し、炭鉱も閉山が続き、遂には石炭輸送もなくなりました。広大な駅構内は不要となり、集合住宅が建ち並ぶニュータウンに衣更えします。この広場は、かっての広大な駅構内の東端になります。
広場の南側の一隅に、蒸気機関車9600型19633号が展示されています。1917(大正6)年の製造貨物用機関車です。1973(昭和48)年まで若松機関区で走り続けました。
 
   
蒸気機関車の後方に若松駅操車場跡の石碑が立っています。筑豊から鉄道で若松駅に運ばれた石炭は、若松港で船に積み込まれました。若松駅は石炭の鉄道輸送から海上輸送への中継基地でした。駅構内の操車場は、数次の拡張で、1954(昭和29)年にはひとつ前の藤ノ木駅近くまでの3kmの長さに広がっていました。1940(昭和15)年の最盛期には、1日最高2,300両の貨車が48本の石炭列車で3万5千トンの石炭を運びました。エネルギー革命により、石炭産業は衰退し、若松駅の貨物取扱量も激減していき、1982(昭和57)年貨物取扱いは廃止されました。
   
若松駅の国道199号線側の裏手に、石炭を運んだ貨車、15トン積みのセム1形式石炭車が展示されています。国鉄若松工場創立80周年記念の石碑が立っています。1972(昭和47)年のことです。若松工場は、岬の山(はなのやま)の先、現在の若松警察署の手前にありましたが、現在はありません。最後は若松車両センターと改称し、国鉄の民営化に伴って廃止され、撤去されました。  
   
若松駅前交差点左折して、国道199号線を西に向かいます。左手のショッピングセンターの先の修多羅2丁目交差点を右折したすぐに、福岡藩修多羅米蔵跡の石碑が立っています。1717(享保2)年、福岡藩は、遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡の年貢米の集積地を芦屋から若松に移しました。その米蔵がこの場所に建っていました。若松港が発展する出発点がここにありました。ここから大坂の蔵屋敷に運びました。
   
修多羅2丁目交差点の先、国道199号線に並行して、右手の山側に一段高い所を細い道が通っています。この道にJRの線路、国道を跨ぐ歩道橋が架かっています。最初の若松駅はこの付近にありました。そこから山側に長い石段が伸びています。石段を昇って行った先に金比羅神社はあります。この修多羅と古前の境にある山を金比羅山と呼びました。金比羅神社の祭神は、海から現れる大物主神で、讃岐の金刀比羅宮を本宮として、海上交通の守り神として江戸時代に全国に広まりました。  
   
 金比羅神社境内から東の眺めです。


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