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門司港レトロ    門司区  [2014/04/12]
 

 
交通の要衝としての役割が低くなり、門司港は往時の賑わいがなくなっていました。1995(平成7)年、大正ロマンの香りを醸し出す観光地門司港レトロとして蘇り、現在北九州有数の観光地になっています。

東の周防灘、瀬戸内海、西の響灘、玄界灘をつなぐ関門海峡は古代より重要な海路で、その名称の元になった北に面する本土側の下関と、南に面する九州側の門司は交通の要衝でした。古代から中世にかけて、門司には関門海峡を渡る人や船を調べる関所、門司関が置かれました。鎌倉時代に入ると、門司関の守りとして下総親房が門司に入り、後その一族は門司氏と名乗ります。現在和刈布公園の中の古城山にあった門司城を居城としました。室町時代になると、中国地方の守護大名大内氏の力が強くなり、北部九州はその支配下に入りました。大内氏は明との勘合貿易で財力を高めていきました。その貿易船の港の一つが門司にありました。

江戸時代に入ると、門司城は廃城になります。小倉藩の城下町小倉は長崎街道の起点であり、関門海峡を渡る港でもありました。その北で、門司港の南の、現在門司駅がある大里まで街道は整備され、ここからも海峡を渡りました。門司港は、その当時は塩田がある農・漁村でした。北国米を日本海を下り、関門海峡を通り、瀬戸内海から大坂に運ぶ北前船の航路が開発されました。その寄港地として下関は大変賑わいました。それを補助する港として、門司港の北側にある田野浦も発展しました。

大里に比べて渡海するには、門司は三方が山に囲まれ、強い風雨の影響が少なく、本州に近いという利点があり、明治に入ると門司築港の機運が盛り上がり、それと同時に鉄道の早期開通が期待されました。1889(明治22)年門司港は石炭・米・麦・硫黄・麦粉の5特定品目の特別輸出港に指定され、同年門司築港会社が設立されました。工事が開始され、海面が埋め立てられ、1890(明治23)年には第一船溜まりができ、第一船溜まりの東側を東海岸、反対側を西海岸をいいますが、白木崎に到る西海岸を埋め立てました。第一船溜まりの北側の塩田が埋め立てられ、1897(明治30)年には、その北側に第二船溜まりが完成し、両船溜まりは運河で結ばれました。1891(明治24)年九州鉄道は門司-高瀬(現在の玉名駅、熊本県)間の鉄道を開通させ、博多の仮本社から門司清滝に本社を移しました。1894〜95(明治27〜28)年の日清戦争を経て、門司は九州の玄関口として、石炭の積出港として急速な発展を始めました。

門司港は輸出制限撤廃を要求し、1899(明治32)年一般開港場になりました。筑豊炭は、門司港から上海、香港、シンガポール等に輸出されました。そのため、門司港には金融機関の支店が進出しました。1998(明治31)年日銀西部支店が門司に新築され、下関から移転して来ました。1917(大正6)年門司支店と改称され、戦後北九州市が発足すると、その翌年の1964(昭和39)年小倉に新築移転し、日銀北九州支店になりました。1889(明治22)年小森江・門司・田野浦村が合併して文字ヶ関村が発足しました。1894(明治27)年文字ヶ関村は門司町となり、1899(明治32)年北九州で最初に市制が布かれ、門司市になりました。1901(明治34)年門司・下関間の鉄道連絡船が就航しました。

1904〜05(明治37〜38)年の日露戦争では、門司港は前進基地になりました。この間戦争景気でしたが、その後経済は不振に見舞われ、明治の末になって持ち直してきました。門司港の入港船舶は、明治末には神戸・下関港に続いて3位で、次が横浜でしたが、大正の初めには全国第1位になり、その順位は終戦まで変わりありませんでした。輸出は石炭が首位でしたが、急速に減少して若松港に並ばれ、後には逆転されました。石炭に代わって首位になったのは、精糖でした。1905(明治38)年には輸入が輸出を上回り、その後はその差が開いていくばかりでした。輸入品は原料綿、原料糖、原料小麦、肥料の原料の豆糟でした。

関門海峡沿いの門司、大里、小倉の沿岸、製鐵所が建設された(明治34年操業開始)洞海湾沿いの戸畑、八幡、黒崎、若松の沿岸には多くの工場が立地しました。1907(明治40)年九州鉄道は国有化されました。1911(明治44)年九州電気軌道(九軌)により門司・黒崎駅前の軌道が開通し、その後、若松を除く各地を結ぶように拡張されました。この路線が後に西鉄電車北九州線になりました。

関門海峡は浅瀬と岩礁が散在していました。船舶の往来が増加するに従い、海難事故が頻発しました。そのため、関門海峡改良工事と関門両港修築工事が行われました。関門海峡改良工事は1910(明治43)年着工され、1928(昭和3)年に竣工しました。航路の水深が10mになるように浚渫され、浅瀬と岩礁が取り除かれました。関門両港修築工事は1911〜27(明治44〜昭和2)まで浚渫工事が行われました。これにより、門司泊地は1万トン級の外国船が停泊可能になりました。1914(大正3)年関門連絡船への乗り継ぎを考慮して、門司駅が移転新築されました。現在の門司港駅で、1942(昭和17)年関門鉄道トンネルの開通で、大里駅が門司駅、門司駅が門司港駅に改称されました。

門司築港は1899(明治32)年に工事を終えて解散しますが、その工事は海面埋め立てと艀(はしけ)や小型船船のための港湾整備にすぎませんでした。大蔵省は外国貿易施設の整備のため、1917(大正6)年第一船溜まりの北側の東海岸を第二船溜まりを含めて埋め立て、水深3.6mの岸壁を築きました。そして1920(大正9)年、そこに鉄道を敷き、上屋(税関手続きのため、貨物の積み卸し、一時的に保管する倉庫)2棟建てました。その北端には防波堤が築かれ、その内側は第一船溜まりと運河でつながった船溜まりになりました。東海岸の外国貿易により、内国取引は岸壁を失いました。そこで、1919(大正8)年門司市は防波堤の更に北側に防波堤を築き、船溜まりに続く内側の旧門司を埋め立て、岸壁を築いて、船溜まりを拡張して第2船溜まりとし、内国取引施設にしました。しかし、両施設とも小型船しか係留できず、依然として沖荷役に頼っていました。

1914〜18(大正3〜7)年の第一次世界大戦期、欧州が戦場であったため、遠い日本の経済は発展しました。産業は重化学工業化し、動力が電力に代わっていきました。京浜・中京・阪神と並んで、北九州が四大工業地帯と呼ばれたのもこの頃です。門司港に大型船を接岸係留し、鉄道に対応する港湾施設が必要になり、1919(大正8)年内務省による門司港修築第1期工事を着工し、1931(昭和6)年に竣工しました。この西海岸埠頭造成工事は次の様なものでした。現在の港湾合同庁舎付近から白木崎(現在の風師と葛葉の境界)までを水深10mの係船岸壁を築き、外国貿易用に1万トン級の船が7隻係留できるようにしました。その東、第一船溜まり入口までを埋め立て、内国取引用に岸壁を築きました。第一船溜まりの南隅を埋め立て、艀荷役の岸壁を築きました。白木崎の南から現在の片上海岸北端までを埋め立て、貯炭場を移し、石炭荷役用にしました。

1921(大正10)年日本郵船の箱根丸が寄港し、それ以降欧州航路・上海航路が開設されました。門司港周辺は銀行・商社・商店が開設され、先端的なオフィス街になりました。海外に門戸が開かれた門司港には、西洋の文化や思想がいち早く入って来て、大正モダニズム・大正デモクラシーと表現される時代の先端を体現できる街でした。1923(大正12)年関門海峡の南側の大里町が門司市に編入されました。現在の門司港駅舎の西側の国道198号線まで海岸線でしたが、西海岸埠頭造成工事により埋め立てられ、20m先に岸壁が築かれました。1930(昭和5)年第一船溜まりの入口にかけての岸壁に、関門連絡船、大阪商船等の国内航路用5つの桟橋が設けられました。1932(昭和4)年合同庁舎の西に、門司税関1号上屋が建設され、欧州・上海航路の国際旅客ターミナルになりました。1939(昭和7)には大連航路定期船が岸壁に係留されました。この頃には、大阪、神戸、横浜発の大連、天津、青島、上海、ロンドン、リバプール行きの外国航路船が寄港しています。

外国貿易施設は整備されましたが、内国取引施設は不備で、大型船は沖合係留で、小型船の荷揚場も不足していました。門司市は東海岸の外国貿易地域の内国取引地域への転用を陳情し、1936(昭和11)年大蔵省から門司区に払い下げになりました。しかしここも小型船の荷揚場にすぎず、大型船の施設が必要になりました。1938(昭和13)年内務省による門司港修築第2期工事を着工し、1942(昭和17)年に竣工しました。旧門司沖の防波堤を撤去し、その先の沖合に防波堤を築き、東海岸の北側に、既設の岸壁に平行して突堤を築き、その南側を埋め立てました。突堤の外側の西側の岸壁は水深9mで、突堤の内側の東側は水深3mの荷揚場になりました。この後鉄道が敷かれ、上屋が建設され、起重機が設置されました。しかし、これらの施設は1945(昭和20)年の空襲で焼失しました。

1937(昭和12)年勃発の日中戦争により、門司港は大陸戦線への兵站基地になりました。西海岸埠頭から出征兵士が乗せられ、軍事物資が積み込まれました。1941(昭和16)年12月太平洋戦争が勃発します。1942(昭和17)年関門鉄道トンネルが開通し、大里駅が門司駅、門司駅が門司港駅に改称されました。1929(昭和4)年には東郷村、1942(昭和17)年には松ヶ枝村が編入され、周防灘側も門司市になりました。1945(昭和20)年3月からの米軍の空襲で港湾施設は被災し、投下された機雷により関門海峡の航行は不可能になり、門司港は閉鎖状態になりました。同年8月終戦になりました。

1945(昭和20)年10月から関門海峡の機雷の掃海が開始されました。1949(昭和24)年10月掃海の終了で、関門港の安全開港宣言が行われました。しかし、掃海作業はこの後30年続きました。門司港の港湾施設は戦後米軍により接収されました。1952(昭和27)年外国貿易施設の一部を残して接収は解除されました。完全に返還されたのは1972(昭和47)年になってからでした。1950〜53(昭和25〜28)の朝鮮戦争の間門司港は国連軍の兵站基地に指定され、接収が一部解除後も西海岸埠頭が接収されたままでした。そこで、門司港の北側の田野浦に大型船の埠頭の建設を1953(昭和28)年に着工し、1958(昭和33)年完成しました。その後田野浦埠頭は近代化が進められ、西日本最初のコンテナターミナルになりました。門司港では、西海岸の南側、それに続く小森江、大里地区の改修を行いました。

1958(昭和33)年関門国道トンネルが開通しました。昭和30年代に入ると、日本は高度成長期を迎えます。門司港の外国貿易も増加していきました。北九州は他の工業地帯と違い、背後に山がある細長い地域であるため、地域ごとに海岸を埋め立てて発展拡大してきました。1963(昭和38)年五市が合併して北九州市が合併しました。高度成長に対処するために、翌年門司・小倉・洞海の3港を統合して北九州港になりました。1962(昭和37)年門司の周防灘側の海岸の埋め立てが始まりました。この地区は新門司と名付けられています。戦時中の東海岸の門司港修築第2期工事の南側で第一船溜まりまでが埋め立てられ、1965(昭和40)年岸壁が築かれました。

1964(昭和39)年国鉄の関門連絡船は廃止になりました。戦前は横浜、神戸とともに門司港は三大貿易港でした。戦時中の機雷封鎖で、戦後その解除が遅れ、荷動きの変化もあり、定期航路の寄港地の指定がはずされていました。このため北九州港は港湾の整備と近代化を進めました。門司港には、1964(昭和39)年には欧州航路の定期船や中国船の寄港が始まりました。また西海岸の南や大里地区では港湾の整備と近代化が進められました。

1973(昭和48)年、関門海峡の早鞆瀬戸(はやとものせと)に関門橋が開通し、本州と九州は高速自動車道でつながりました。1972(昭和47)年、工業用地として埋め立てられていた新門司の新港では、フェリーが就航しました。その後も埋め立ては続けられ、フェリーターミナル、物流センターとして発展しています。海上輸送のコンテナー化に対処するため、田野浦の東隣の太刀浦にコンテナターミナルの建設が進められ、1979(昭和54)年から供用が開始されています。

米軍による港湾施設接収は1972(昭和47)年まで続き、コンテナ化による外国貿易機能は田野浦、太刀浦に移り、関門トンネル、関門橋の開通は門司港の交通の要衝としての機能を低下させていきました。そのため、1984(昭和59)年船舶の大型化に対応する埠頭の建設と国道の渋滞緩和を目的にした、門司港西海岸再開発のための埋め立て工事が始まりました。港湾合同庁舎の前から西の2号上屋前まで沖合130mが埋め立てられ、水深11mの岸壁が築かれました。また、港湾合同庁舎の前から東に、関門連絡船の桟橋があるマリンゲートの先まで埋め立てられ、その前に防波堤が築かれ、その内側は船溜まりになりました。1985(昭和60)年、西鉄電車北九州線のうちの門司線が廃止になりました。

1988(昭和63)年門司港の歴史的建造物の保存と瀬戸内海国立公園和刈布地区の整備の関連を計り、新たな観光拠点を創出することが計画されました。この計画により既に着工されていた門司港西海岸再開発は変更され、当初埋め立てられる予定であった第一船溜まりは残されることになりました。北九州市の都市型観光拠点を創ろうとする門司港レトロ事業は1988(昭和63)年に開始され、1995(平成7)年3月門司港レトロはグランドオープンしますが、その後も事業は続けられました。

年間を通して、門司港レトロでは色々な催事が行われます。それらの情報は下の「門司港レトロ倶楽部」のサイトをご覧ください。
   http://www.retro-mojiko.jp/  
門司港駅は、現在、老朽化が進み、駅舎保存修理のため解体工事中です。駅舎全体に覆いがかけられています。そこに階段とデッキが付けられ、白い覆いの一部が透明のパネルになっています。見学デッキから透明のパネルを通して工事の様子を見ることができます。
タブレットも用意され、デッキ上で工事現場に取り付けられたカメラの映像を見ることができます。改修工事は、2012年に始まり、2018(平成30)年3月に完了する予定です。
   
改修工事前の2012(平成24)年9月の門司港駅です。
1891(明治24)年、現在九州鉄道記念館がある場所で門司駅は開業しました。しかし、門司駅と連絡船桟橋が離れていたため約200m移転されて、1914(大正3)年駅舎は新築されました。それがこの門司港駅です。
九州で一番古い木造の駅舎で、左右対称の堂々とした大正ルネサンス調の駅舎で、国の重要文化財です。
1942(昭和17)年関門鉄道トンネルが開通して、トンネルを通った列車は隣の大里駅に着くようになります。このため、隣の大里駅が門司駅になり、それまでの門司駅は門司港駅と改称されました。
改修工事中は、西端から駅構内に入って行きます。
入って右側に、関門連絡船連絡通路跡があります。駅と連絡船桟橋との間には100m程通路がありました。
1964(昭和39)年関門連絡船は廃止されましたが、現在も下関の唐戸との間は、民間の関門汽船の連絡船が、桟橋があるマリンゲートから発着しています。
 
   
左に進むと改札口があります。改札口を入ったすぐに、九州の鉄道の起点をしめす0哩(ゼロマイル)標の石碑が立っています。その前に鐘があります。「旅立ちの鐘」といい、1914(大正3)年の現駅舎の開業時、発車時に鳴らされた鐘です。2009(平成21)年旅人の出発を祝福する鐘として設置されました。観光客が自由に鳴らすことができます。
   
改札口から左手に行きますと、「帰り水」と呼ばれた水飲み場があります。その後は洗面所です。
門司港には海外からの帰国者、そして戦後は復員や引揚者が上陸しました。それらの人達が水飲み場の水を飲んでほっとしたといわれています。誰ともなくこの水は「帰り水」と呼ばれました。
 
   
「帰り水」の後の洗面所です。これは元々便所の横に、洗面専用に昭和初期つくられました。男女別に、もっとたくさんの大理石の洗面台があったのですが、老朽化したため、その一部がここに移されて残されています。
   
洗面所の前を奥に行くと、トイレがあります。男女の便所の間に、「帰り水」と同じに、駅建設時からの手水鉢があります。戦時中の金属供出からも免れたため、幸運の手水鉢と呼ばれています。  
   
門司港駅の隣のこのビルは、1937(昭和12)年松田軍平設計で、三井物産の3代目の門司支店として建てられました。当時としては近代的なオフィスビルでした。
1953(昭和28)年国鉄に買収され、国鉄九州総局の第一庁舎として使われました。国鉄が民営分割後、JR九州の所有となりました。その後この旧JR九州第一庁舎は、2005(平成17)年北九州市の所有となりました。現在内部は、観光案内所、カフェ、休憩所等になっています。
   
旧JR九州第一庁舎の前に旧門司三井倶楽部があります。門司港レトロのシンボル的建物です。1921(大正10)年松田昌平設計で、三井物産の社交倶楽部として山手の谷町に建築されました。木造2階建てです。昌平は軍平の兄です。兄弟の設計の建物が道路を挟んで建っています。
1949(昭和24)年国鉄所有になり、門鉄会館として使われました。1990(平成2)年移築・復旧され、国の重要文化財に指定されています。
 
   
1922(大正11)年、ノーベル賞授賞の有名な物理学者アインシュタイン夫妻が来日し、門司三井倶楽部に宿泊しました。2階にアインシュタインメモリアルルームがあり、宿泊した部屋が復元されています。アインシュタイン夫妻は出版社に招かれて、43日間日本に滞在し、10都市で講演しました。門司港で1週間過ごし、船で離日しました。その間に、列車で博多を訪ねています。
当時の日本は、大正デモクラシーが高まり、自由な思想や新しい科学の知識が求められていました。
   
旧門司三井倶楽部の2階には、「放浪記」で有名な林芙美子資料館もあります。生前愛用された品々が展示されています。
林芙美子は、1903(明治36)年生まれています。林芙美子は「放浪記」の中で、「私が生まれたのはその下関の町である。」と書いています。下関市田中町には、林芙美子生誕の碑が建てられています。
芙美子の実父宮田麻太郎から、下関で当時4歳の芙美子を見た麻太郎の幼馴染横内種助は、門司市小森江のブリキ屋の2階で生まれたと聞かされます。のち若松で6歳の芙美子と5歳の横内の娘の佳子は知り合い、生涯の友となります。佳子の息子の井上貞那氏の考証により、門司区小森江には林芙美子文学碑が建てられています。
 
   
旧門司三井倶楽部の前の交差点から、横の道を裏に行きますと船溜まりに出ます。この第一船溜まりの周辺が、門司港レトロの中心になります。第一船溜まりの手前を左に行きます。
1998(平成10)年門司港ホテルはオープンしました。建築はイタリアの故アルド・ロッシ、インテリアは内田繁がデザインしました。
門司港ホテルの道路を隔てた前に旧大阪商船があります。
1917(大正6)年河合幾次・内海鶴松の設計で、大阪商船門司支店として建てられました。 当時は1階が中国大陸航路の待合室として、2階が事務所として使われました。当時は海側に専用の桟橋がありました。
現在は1階が多目的ホールで、2階にわたせせいぞうと海のギャラリーがあります。
わたせせいぞうは、1945(昭和20)年神戸で出生後、北九州に移りました。そして、高校まで北九州で育ちました。
門司港ホテルから、第一船溜りの周辺を反時計回りします。
複合商業施設海峡プラザがあります。お土産や雑貨店、レストランの他に、オルゴール・ガラス工芸の美術館などがあります。
   
第一船溜りの北側に国際友好記念図書館があります。
これは北九州市と大連市の友好都市締結15周年を記念して建てられました。大連にある帝政ロシア時代に建てられたドイツ風な建物を複製したものです。1階がレストラン、2階が中国・東アジア関係の図書館、3階は資料展示室になっています。
 
   
国際友好記念図書館の前、第一船溜まりの入口付近に旧門司税関はあります。
門司税関は1912(明治45)年に建てられました。1927(昭和2)年税関は西海岸に建設された合同庁舎に移転されました。
旧門司税関はレンガ造り2階建てで、1933(昭和8)年民間に払下げられました。しばらく事務所として使われましたが、その後倉庫に転用されました。
現在は1階は喫茶・休憩室・展示室、2階はギャラリー・展望室になっています。
第一船溜まりの入口に、はね橋ブルーウイングもじが架かっています。船溜まりの入口の両岸を結ぶ歩行者専用の橋で、定時に開閉します。船溜まり周辺の回遊性を高めるために建設され、1993(平成5)年完成しました。
はね橋を渡った門司港ホテルの横からの関門海峡の眺めです。
北側の早鞆瀬戸に、高速自動車道の関門橋が架かっています。1973(昭和48)年開通しました。
   
はね橋ブルーウイングもじを戻ります。橋の前に港ハウスや地ビール工房があります。港ハウスの1階は物産店、2階はレストランになっています。  
   
旧門司税関の前、国際友好記念図書館の後に高層マンションが建っています。故黒川紀章氏がデザインしました。その31階は門司港レトロ展望室と呼ばれ、有料ですが一般公開されています。
   
展望室から門司港レトロの眺めです。
手前が旧門司税関、その先が門司港ホテル、その左後に旧門司三井倶楽部、その右後が門司港駅です。
夜の展望室から門司港レトロの眺めです。街路樹もイルミネーションで飾られています。門司港レトロは、冬の期間イルミネーションで飾られます。
展望室から北側の眺めです。
関門橋の対岸付近は壇ノ浦です。船溜まりは第二船溜まりです。かって第一船溜まりと第二船溜まりは右側の陸地側にあった運河でつながっていました。左端が突堤です。
関門橋の門司側から右の古城山付近にかけては和布刈(めかり)公園になっています。
和布刈公園については、「北九州のみどころ」の「和布刈公園」をご覧ください。
門司港レトロ展望室がある高層マンションの北側は市営駐車場で、その東側に倉庫を利用した出光美術館(門司)があります。
出光美術館は出光佐三が永年蒐集し、愛蔵した美術品を公開するため開館したもので、東京・大阪に続いて2000(平成12年)年開館しました。
出光興産の創業者で、宗像の赤間で生まれた出光佐三(1885-1981)は、1911(明治44)年門司で石油店出光商会を設立しました。
 
   
踏切を渡って東に行きます。県道261号門司東本町線を北側に進みますと、東本町1丁目交差点があります。その角に、NTT門司電気通信レトロ館があります。現在、昔懐かしい電信・電話機器を集めた博物館になっています。
1924(大正13)年逓信省技師山田守の設計で、門司郵便局電話課の建物として建てられました。鉄筋コンクリート3階建てですが、電話交換機を収納していたため、通常よりかなり高い建物になっています。当時の憧れの職業であった電話交換手が300人近く勤務していました。
   
東本町1丁目交差点を右折して東に行くと、国道2号線と交差する東本町2丁目交差点になります。その角に岩田家住宅があります。
1922(大正11)年建築されたもので、2000(平成12)年まで酒店を営業していました。
建物の左右にある赤レンガは、防火壁の煉瓦塀です。
 
   
東本町1丁目交差点に戻り、県道を南に進みますと、鎮西橋交差点に出ます。この交差点で県道が国道と合流します。この付近が国道2号と3号の接続点です。交差点を右折すると、旧門司税関の前の通りに出ます。
昭和初期まで第一船溜りと第二船溜りは運河で結ばれていました。その堀川のこの場所に鎮西橋が架かっていました。堀川は、この交差点から国道2号線、その関門トンネルの入口前から甲宗八幡神社の手前を通り、第二船溜りに到っていました。
交差点の西側に立っているこの橋柱だけが、鎮西橋を偲ばせます。
   
鎮西橋交差点を左折し、東に行くと栄町銀天街の北側入口になります。
栄町銀天街のアーケードを南に進みます。
 
   
栄町銀天街の南側入口の道路を横断し、その先を更に南に進みますと、坂を上った突き当たりの石垣の上に料亭だった三宜楼(さんきろう)があります。
この木造三階建ての建物は、1930(昭和5)年に建てられました。百畳間と呼ばれる舞台付大広間を持つ高級料亭で、門司港の繁栄を物語るものでした。
しかしながら、建物は老朽化し、売却取壊しの危機にありました。後世に残すために土地・建物購入を市民の力で実現しました。2012(平成24)年から改修工事が行われ、2014(平成26)年4月26日)から営業が再開されます。1階に和食店が入り、門司港の歴史を紹介する展示場が設けられます。2階の大広間は、有料で貸し出されます。
   
栄町銀天街の南側入口まで戻り、西に行くと国道3号線の交差点に出ます。その角に北九州銀行門司支店があります。
この建物は、1934(昭和9)年桜井小太郎の設計で、横浜正金銀行門司支店として建てられました。鉄筋コンクリート2階建てで、敷地は門司駅跡地でした。
 
   
国道3号線の交差点から門司港駅側に進み、北九州銀行の裏手を左折しますと、2003(平成15)年オープンした九州鉄道記念館があります。
1891(明治24)年九州鉄道はここで門司駅を開業しました。車両展示場の屋根の先に、明治期の門司駅開業時には駅舎があり、大正期に現在地に移転新築されました。
開業時の0哩標が、九州鉄道記念館の入口前に復元されています。
   
九州鉄道記念館の中央ゲートを入ると車両展示場になっています。
59634 1922(大正11)年川崎造船所製造
1913(大正2)年から国産初の貨物機関車として製造された9600型は、770両製造され、キュウロクの愛称で呼ばれました。
展示車両を列記します。
C591 1941(昭和16)年汽車会社製造機関車
EF1035 1941(昭和16)年東芝製造直流電気機関車
ED721 1961(昭和36)年東芝製造交流電気機関車
 
   
キハ0741 1937(昭和12)年日本車両製造
クラッチで変速される気動車です。1952(昭和27)年にディーゼルエンジンに変更されるまで、ガソリンエンジンでした。大分県九重町と熊本県小国町を結ぶ宮原線で使用されました。これはキハ0741の客席です。
この先の車両を列記します。
クハ481−603 1969(昭和44)年日本車両製造交直両用電気特急
クハネ581−8 1967(昭和42)年日立製作所寝台電車特急
セラ1239 石炭専用の底開き式のホッパー車
   
九州鉄道記念館の本館は、1891(明治24)年、九州鉄道の本社屋として建てられました。鹿児島本線は1907(明治40)年国有化され、この建物は国鉄によって使用されました。1987(昭和62)年国鉄は分割民営化され、九州は現在JR九州になっています。
九州鉄道記念館の本館内部です。2階から見ています。入口正面には明治時代の客車が展示されています。2階建赤レンガつくりの建物内では、鉄道関係の色々なものが展示されています。
九州鉄道記念館の北側には、子供達が喜ぶミニ鉄道公園になっていて、ミニ列車が運行されています。
 
   
九州鉄道記念館を出て、国道3号線から門司港駅前に通じる通りに戻りました。この通りは、本町から門司駅前岸壁までの通りで、桟橋通りと呼ばれました。
桟橋通り沿いの踏切手前の、明治34年開業の旅館群芳閣の前に、バナナの叩き売り発祥の碑が立っています。門司は日本で最初のバナナ荷揚げ地でした。
熟成が進んだり、傷ついたバナナは廃棄にするしかなかったのですが、それらを大量に安く仕入れて、ここ桟橋通りで、売り子に安く売らせました。
バナナの叩き売りのはじめは大正初期といわれ、板状のものでバナナが並んでいる板を叩きながら、独特の節で口上を述べてバナナを売りました。
   
群芳閣の前の踏切を、門司港レトロ観光トロッコ列車「潮風号」が通ります。この線路は門司港と田野浦の間の貨物専用線でしたが、使用されなくなっていました。
2009年4月26日、門司港から古城山のトンネルの先の和布刈公園までの間を、スポンサーの銀行名を冠したやまぎんレトロラインとして、「潮風号」は運行を開始しました。その後スポンサー名の変更があり、北九州銀行レトロラインになっています。
門司港の乗り場は、旧門司三井倶楽部の前の交差点を、南に入ったところにあります。運行主体は平成筑豊鉄道で、トロッコ客車2両を小型のディーゼル機関車DB―10が前後をはさんだ編成になっています。3月中旬〜11月下旬の土・休日、春・夏休み期間が年間運行予定になっています。
門司港レトロ観光トロッコ列車「潮風号」の公式サイトは、下の通りです。
 http://www.retro-line.net/
 
   
門司港駅まで戻って来ました。門司港駅の横を通り、駅前の桟橋通りを通って国道3号線に合流するのが国道198号線です。0.6kmの短い国道です。
門司港駅前の交差点を西に渡って、関門海峡方向に向かいますと、門司港と下関の唐戸を結ぶ関門汽船の関門連絡船の乗り場マリンゲートがあります。関門連絡船は海峡を横断して下関の唐戸に着きます。5分の短い船旅ですが、海峡の潮流の速い時は、その流れを横切るので、潮流を体感することができます。
   
マリンゲートの前に門司港出征の碑が建てられています。
1937〜45(昭和12〜20)年、満州事変から終戦まで、門司港第一岸壁から200万の将兵が出征しました。そのうち100万人が帰還できませんでした。
 
   
門司港出征の碑の少し南に、出征軍馬水飲み場があります。
満州事変から終戦まで、馬も門司港から出征しました。全国の農耕馬100万頭が軍馬として徴発され、戦地に運ばれました。再び帰って来ることはありませんでした。ここが日本で最後の水飲み場となりました。周辺数個所あった水飲み場もここだけになっています。
   
海峡側に海峡ドラマシップがあり、通りをはさんだ反対側に、1929(昭和4)年に建設された旧大連航路上屋(うわや)があります。門司税関1号上屋として建てられました。上屋は税関構内で、陸揚げ及び船積みする貨物を一時格納する倉庫です。この前が岸壁でした。海側は埋立てられ、その上に海峡ドラマシップは建っています。当時、岸壁には外国航路の船が発着しました。特に多かったのが、大連航路の定期船でした。
道路のある西側の入口から内部に入ります。現在は左手は門司港の歴史の展示場になっていて、右手は松永武氏が収集した映画・芸能関係の資料を、北九州市に寄贈した松永文庫があり、一般公開されています。当時は上屋で検査場や事務室がありました。
2階に上がると、現在は休憩室になっていますが、当時は待合室になっていました。この建物は、いわゆる外国航路の国際旅客ターミナルでした。これは2階の岸壁に面した回廊、コリドーです。
 
   
コリドーから階段を下りて、北側から出ます。そこが当時の入口です。入口の左側に「階下 旅具検査場」、右側に「階上 待合室」と右書きされています。
2003(平成15)年海峡ドラマシップがオープンしました。建物の外観は船の形をしています。海峡ドラマシップの内部は関門海峡の歴史を再現した「海峡アトリウム」「海峡歴史回廊」や「海峡レトロ通り」等のミュージアムになっています。また海峡を望む展望室があります。
「海峡アトリウム」は2階から4階までの吹き抜けになっていて、周りのスロープでゆっくり上って行くようになっています。音と光と映像で、中央部分に関門海峡時空の旅が表現されます。
「海峡アトリウム」「海峡歴史回廊」は有料ゾーンで、「海峡歴史回廊」は関門海峡の歴史が人形や模型で展示されています。
   
「海峡レトロ通り」は無料ゾーンです。
「海峡レトロ通り」では大正期の門司の街角が再現されています。手前の像はバナナの叩き売りです。右に今はなくなった路面電車で、時代を感じる古い車体です。
 
   
海峡ドラマシップの前の岸壁には、門司港レトロの催事の度に、帆船、海上保安庁の巡視船、海上自衛隊の護衛艦が寄港します。
手前は帆船海王丸です。独立行政法人航海訓練所の練習船で、2代目になります。初代は1930(昭和5)年に進水し、1989(平成元)年に退役し、2代目が就役しました。
2004(平成16)年10月20日、海王丸は台風23号により富山港の防波堤に座礁し、強い台風のため乗組員は翌日まで救助されず、離礁まで35日かかりました。海王丸の概要は次の通りです。
総屯数2,556トン、純屯数863トン、全長110m、幅13.8m、マストの高さ水面上約50m、ディーゼル機関1,500馬力2台
   
海王丸と同時に日本丸も寄港しました。2013(平成25)年11月北九州市50周年を記念して寄港しました。
帆船日本丸は独立行政法人航海訓練所の練習船で、2代目になります。初代は1930(昭和5)年に進水し、1984(昭和59)年に退役しました。その美しい姿から「太平洋の白鳥」、「海の貴婦人」と呼ばれました。1984(昭和59)年2代目が就役しました。2代目の概要は次の通りです。
総屯数2,570トン、全長110m、幅13.8m、ディーゼル機関1,500馬力2台
 


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