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高炉台公園    八幡東区中央3丁目  [2016/10/13]
 

 
 
1951(昭和26)年、戦災復興による公園事業の一環として、八幡製鐵所の東田高炉群を望む熊本山公園の総合公園化の計画が決定されました。熊本山と呼ばれるこの丘陵地は、仲哀天皇・神功皇后の征西の際、崗県主(おかのあがたぬし)の祖熊鰐(くまわに)が榊を採った所と伝えられています。九州に向かった天皇の行幸を聞いた熊鰐は、鏡・剣・玉を掛けた賢木(榊)を船の舳先に立てて出迎い、行幸を先導しました。

公園は高炉台公園と命名され、八幡市政40周年の1957(昭和32)年開園しました。公園は旧八幡市の中心部を一望する丘陵地にあり、かっての八幡市の中央公園といえるような存在だったため、記念碑・詩碑・句碑が多く建てられ、野外彫刻も展示されています。開園の年、市政40周年の記念に、八幡製鐵所から寄贈された鉄都誕生記念碑が頂上に設置されました。それは高さ17.5mの高炉(溶鉱炉)を模した塔で、塔の周囲には樽谷清太郎作の自由・労働・平和・青春と題した四体の男女のブロンズ像が建てられました。記念碑は老朽化のため撤去され、1995(平成7)年高炉のモニュメントが設置されています。このモニュメントは展望台にもなっています。

東田は我国の近代製鉄発祥の地ですが、近代化・合理化が行われ、東田が手狭になると埋立てられた隣接地の洞岡(くきおか)に拡張され、戦後は戸畑地区が埋立てられ、高炉や主力工場は戸畑地区に移転されました。遊休地になった東田を再開発するための調査が1987(昭和62)年から始められ、1990(平成2)年テーマパークのスペースワールドが東田でオープンし、1994(平成6)年東田土地整理組合が発足して、総合都市開発事業はスタートしました。高炉台公園からは、高炉からの出銑の炎と音を見聞することはできませんが、新しい街を見ることができます。

1901(明治34)年11月18日、官営製鉄所の八幡製鐵所の作業開始式が行われました。1934(昭和9)年1月八幡製鐵所を民営とし、民間製鉄会社を参加させ、半官半民の日本製鐵株式会社が創立されました。戦後、独占禁止法と集中排除法が制定され、1950(昭和25)年日本製鐵は八幡製鐵と富士製鐵に分割されました。1970(昭和45)年八幡製鐵と富士製鐵は合併し、新日本製鐵が発足しました。2012(平成24)年10月新日本製鐵と住友金属が合併して新日鐵住金となり、戸畑と八幡の新日鐵八幡製鐵所と住友金属小倉製鐵所は新日鐵住金八幡製鐵所になりました。

1889(明治22)年遠賀郡大蔵・枝光・尾倉村が合併して遠賀郡八幡村となりました。三村に八幡神社があり、その八幡をとって命名されたといわれています。1899(明治32)年八幡村は八幡町となりました。1916(大正5)年企救郡板櫃村槻田と遠賀郡黒崎町前田が八幡町に編入されました。1917(大正6)年八幡町は八幡市になりました。八幡市に1925(大正14)年板櫃町の一部、1926(大正15)年黒崎町、1937(昭和12)年上津役村、1944(昭和19)年折尾町、1955(昭和30)年香月・木屋瀬町が編入されました。1963(昭和38)年五市が合併して北九州市が発足し、旧八幡市は八幡区になりました。1974(昭和49)年八幡区は東西に区分され、八幡東区と八幡西区になりました。
県道50号八幡・戸畑線から見た高炉台公園で、県道から公園の頂上のモニュメント下に到る螺旋階段の通路があります。
県道はかっての電車通りで、この左手で復興道路と呼ばれた道路が分かれます。その道路は先で国道3号線となります。
   
県道50号八幡・戸畑線を東に行き、上本町交差点から北に向かいます。高炉台公園の南側を通って、交差点を左折して北に進み、公園の東側を通ります。左折する道が県道50号八幡・戸畑線で、戸畑区幸町が終点になります。県道50号八幡・戸畑線は中央町交差点から始まる県道62号北九州・小竹線と上本町交差点まで重なります。県道62号北九州・小竹線は上本町交差点を直進し、大蔵でかっての電車通りから分れて南に進み、河内貯水池を経由して、鞍手郡小竹町に到ります。  
   
県道50号八幡・戸畑線の上本町交差点から山王交差点までは下り坂です。右手に枝光南市民センターがあり、道はその先で左にカーブします。県道の上を高架で国道3号線戸畑バイパスが通っています。その手前に上本町2丁目交差点があります。そこが高炉台公園の駐車場への入口になります。交差点を左折して、坂道を上って行くと駐車場があります。
   
高炉台公園の駐車場です。隣接して八幡東体育館があり、その先に野球場があります。体育館の前を通って、その先の中央中学校、八幡小学校の前を通って中央に行く道はありますが、体育館前付近で車両は通行できないようになっていますので、そちら方面から車で駐車場に来ることはできません。  
   
駐車場の南側が高炉台公園です。石垣の先、八幡東体育館の前から公園に入って行きます。
   
八幡東体育館の前から階段か、道を昇ると坂道が伸びていて、右手に遊具があります。  
   
坂道の先の左手にトイレがあります。その裏手はステージになっています。その先の上に高炉のモニュメントが見えます。
   
道の反対側は広場になっています。周囲に桜が植えられているさくらの広場です。その左奥の崖の近くに石碑が並んでいますので、そちらに向かいます。  
   
並んでいる石碑の中で一番新しいのが佐木隆三文学碑です。碑の表には代表作「復讐するは我にあり」が刻まれ、裏には
略歴が刻まれています。
佐木隆三(1937-2015)は八幡製鐵所勤務中から文学活動を行い、退職後の1976(昭和51)年「復讐するは我にあり」で直木賞を受賞しました。晩年は北九州市立文学館館長に就任し、北九州の文芸文化の発展に貢献しましたが、2015(平成27)年10月死去しました。
   
『吉岡夫人の手を把んだ松五郎は、直に「奥さん済まん」と叫ぶと、身を翻して飛び出した ― 風の様に、下駄を履かずに闇に消えた―。』「無法松の一生」で有名な「富島松五郎伝」の一節が、祇園太鼓の形の石碑に刻まれた岩下俊作文学碑です。
岩下俊作(1906-80)が「富島松五郎伝」を1938(昭和13)年に書いて、直木賞候補になりました。人力車夫の松五郎は、陸軍大尉吉岡小太郎の未亡人良子と息子の敏雄を思い、生涯純粋な愛を貫きます。明治後期から大正にかけての物語です。岩下俊作は生涯小倉に住み、八幡製鐵所に勤めました。退職後も文芸の振興に努め、後進の育成にも力を注ぎました。35年勤めた八幡製鐵所を望むこの場所にということで、文学碑は1990(平成2)年に建てられました。
「無法松の一生」については、「北九州の催事」の「小倉祇園」をご覧ください。
 
   
「夜の眺め 昼のながめも 大八幡」上野十七八(さかり、1900~78)の句碑です。
八幡で生まれた上野は、八幡製鐵所に勤める傍ら川柳を作りました。1929(昭和4)年上野は川柳くろがね吟社を創設し、主宰しました。
   
「巣立つ子の 夢へ八幡の 空は炎え」子の親として、八幡製鐵所に勤めて川柳を作った石橋陸朗(1911~81)の句碑です。
川柳くろがね吟社により、上野十七八の句碑は1962(昭和37)年に、石橋陸朗の句碑は1975(昭和50)年に建てられました。
 
   
トイレの先に行くと、色鮮やかな鉄鋼彫刻が展示されています。前衛美術家、篠原有司男(うしお)の1993年の作品「兎と蛙の乗ったケンタウルス鉄鋼モーターサイクル」です。半人半馬のケンタウルスのギリシャ神話に題材を求めた作品で、オートバイのケンタウルスに兎と蛙が乗っています。
   
第2回鉄鋼彫刻シンポジウム―北九州’93に招聘された篠原有司男に、北九州市が依頼した作品です。  
   
篠原有司男は1932(昭和7)年東京に生まれます。1969(昭和42)年以降渡米、在住。ニューヨークに拠点を置いて制作活動を行っています。
   
トイレまで戻ります。反対側は野外ステージです。ステージの前に立って半円形の観客席を眺めますと、観客席の後に四体のブロンズ像が立っています。1957(昭和32)年高炉台公園が開園した時、公園の頂上に鉄都誕生記念碑として設置された高さ17.5mの高炉(溶鉱炉)を模した塔の周囲に、樽谷清太郎作の四体の男女のブロンズ像建てられました。塔が撤去された時、ブロンズ像も撤去されましたが、近年ここに再度設置されました。
中央の通路の左側に、左に自由、右に労働と題した像が立っています。
中央の通路の右側に、左に平和、右に青春の像が立っています。
中央の通路を上に立つ高炉のモニュメントに向かって階段を昇ります。上から野外ステージと観客席、その周囲に立つブロンズ像が見えます。野外ステージの向こう側はさくらの広場です。
公園の頂上に高炉のモニュメントとがあります。撤去された塔の跡に建てられました。内部は螺旋階段になっていて、上は展望台になっています。  
   
モニュメントの展望台から東の眺めです。左側の道路は国道3号線戸畑バイパスです。丘陵地の頂上まで家々が立ち並んでいます。
展望台から北の眺めです。左側にジェットコースターが見えます。テーマパークのスペースワールドです。そこから左手が八幡製鐵所発祥の地東田です。右には丘陵地の頂上まで家々が立ち並んでいます。平地にある製鐵所の隆盛と共に、人々が住む家は山の上まで建てられました。
展望台から北西の眺めです。右端のジェットコースターから中央左のロケットまでがスペースワールドです。左側に白い煙突と熱風炉を備えた東田第一高炉のモニュメントが見えます。かって東田には6基の高炉がありました。
展望台から西の眺めです。高架の道路は都市高速です。右側の都市高速の下に国道3号線が見えます。この部分は戦後新たに建設されたため復興道路と呼ばれました。この付近はかっての北九州市の中心地です。
展望台から南西の眺めです。右側に3つの茶色の外壁のビルがありますが、右側2つ目と3つ目のビルの間の低層のビルがかって八幡市役所があった八幡東区役所です。雲がかかっている山は標高622mの皿倉山です。
展望台から降りて、モニュメントの南側に行くと階段があります。そこを降りて行くと、螺旋階段を通って最初に高炉台公園を眺めた県道50号八幡・戸畑線に出ます。
   
南側の階段に隣接したモニュメントの南西側の一段低い所に芳賀種義翁之碑があります。芳賀種義は、官営八幡製鐵所設立時の遠賀郡八幡村の村長でした。碑には日本地図の上に高炉を模した鉄塊が配され、小さな鉄塊が八幡の位置を示し、手前に大隈重信の感謝状が刻まれています。
大隈重信の感謝状です。
製鉄所の誘致では、敷地の一部は無償の献納であったり、買い上げ価格が時価の半額であったり、敷地が途中で倍の広さを求められたり、地元民にとっては厳しいものでした。そんな中、芳賀種義は必死の説得を行い、やっと誘致されました。
日付の明治30(1997)年、松方正義と大隈重信の名を採った松隈(しょうわい)内閣と呼ばれた第二次松方内閣で、大隈重信は外相そして農商務相を兼任していましたが、同年11月に辞職しました。翌年には板垣退助らと憲政党を結成し、いわゆる隈板(わいはん)内閣で、大隈重信は首相に就きました。この年の4年後、明治34(1901)年11月18日製鐵所操業開始の作業開始式が盛大に行われました。
 
   
モニュメントから北西に進むと、展望広場があります。広場の手前側に北原白秋の詩碑があります。
「山へ山へと 八幡はのぼる はがねつむように家が立つ」「八幡小唄」の一節が刻まれています。この詩は、1930(昭和5)年の八幡の情景を歌ったものです。詩碑は1961(昭和36)年に建てられました。
   
展望広場の先に横山白虹と山口誓子二人の句碑があります。
「雪霏々と 舷梯のぼる 眸ぬれたり」 横山白虹
「七月の青嶺 まぢかく 熔鑛爐」 山口誓子
横山白虹は、1937(昭和12)年の「自鳴鐘(とけい)」を創刊主宰しました。白虹の句はその創刊号に載せられたものです。誓子の句は、1927(昭和2)年に若松で詠んだ句です。この時白虹は誓子に会って、強い衝撃を受けたといわれています。
戦後、白虹は小倉市で医院を開き、1948(昭和23)年「自鳴鐘(じめいしょう)」を復刊しました。多くの門弟を育て、小倉市議になり、文化団体の会長を歴任しました。
 
   
展望広場の西端に熊本山の石碑が立っています。昭和9(1934)年1月に建てられています。
仲哀天皇と神功皇后が周芳(すわ、周防のこと)沙麼(さば)の浦から九州に向かった際、崗県主(おかのあがたぬし)の先祖、熊鰐(くまわに)が出迎えにやって来ます。熊鰐は船の舳先に賢木(さかき)を立てて、その枝に鏡・剣・玉を下げました。この賢木(榊)が熊本山で採られたと伝えられています。
   
熊本山の石碑の先の石段を降りると、高炉台公園を巡る通路に出ます。そこから再開発された東田を眺めることができます。すぐ下に八幡小学校があります。
八幡小学校は1874(明治7)年尾倉村・大蔵村・枝光村にそれぞれの小学校が設置されましたが、1878(明治11)年にそれらは統合され、東田に岡東小学校ができました。なお岡は遠賀郡の旧名です。1901(明治34)年に岡東小学校は八幡尋常小学校と改称され、翌1902(明治35)年に現在地の熊本山中腹に移転しました。戦後の1947(昭和22)年に八幡市立八幡小学校となり、1963(昭和38)年五市が合併して北九州市が誕生したことに伴い、北九州市立八幡小学校と改称されました。現在の校舎は1998(平成10年)年に建て替えられました。
 
   
八幡小学校の先に中央中学校があります。
1902(明治35)年中央中学校は八幡高等小学校として開校しました。戦後の1947(昭和22)年八幡市立中央中学校となり、1963(昭和38)年五市合併で北九州市立中央中学校と改称されました。現在の校舎は2002(平成14)年完成しました。
   
高炉のモニュメントまで戻り、更に東に行きますと遊具があります。その中に「わらべ像」が立っています。その先を進むと下り坂になり、鉄鋼彫刻が展示されている所に出ます。  

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