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小倉城     小倉北区城内  〔2016/04/16〕
 

 
小倉城は細川忠興によって築かれましたが、それ以前にも小倉に城はありました。その歴史を見てみます。鎌倉幕府は関東武士を北九州に派遣します。彼らは麻生・門司氏として北九州の在地領主の中でも力をつけていきます。南北朝の動乱時期から室町時代にかけて、北九州を含めた北部九州は中国地方の大内氏と豊後の大友氏の勢力争いの場となり、在地領主もどちらかに加担することになります。その大内氏は毛利氏に取って代わられます。小倉は本州と九州を隔てる関門海峡に面し、紫川の河口部にある海上交通の要所であり、筑前と豊後への陸上交通の接点でもありました。その時代には、既に交通の枢要部である小倉には城がありました。

大友義鎮(よししげ、後の宗麟)は大宰府の宝満山・岩屋城主に高橋鑑種(あきたね)を任じます。しかし、高橋鑑種は毛利元就の説得により、毛利方に通じるようになりました。鑑種は反旗を翻しました。北部九州で毛利と大友は激突します。鑑種は毛利と大友の緩衝地帯の小倉に移されました。1587(天正15)年、豊臣秀吉は九州平定に乗り出します。九州平定後、企救・田川二郡6万石が秀吉の家臣毛利勝信(中国地方の毛利氏とは別)に与えられ、小倉に入りました。それまでの小倉城の位置は不明ですが、高橋鑑種と毛利勝信が居城した小倉城は、後の小倉城の本丸・北ノ丸・松ノ丸がある標高10mの高台の平城でした。現在のJRの線路付近が当時の海岸線で、紫川西岸の旧電車通りの国道199号線(勝山通り)との間と、後の三ノ丸が城下町でした。

1600(慶長5)年関が原の戦いの功で、豊前国と豊後二郡(検地39.9万石)を細川忠興は与えられました。当初入城していた中津城から、1602(慶長7)年築城していた小倉城に移りました。細川忠興は紫川と西の板櫃川を天然の濠としました。板櫃川の河道は現在と異なり、到津からJR日豊本線沿いに流れ、現在の竪町付近から西流し、平松町の南で現在の河道になりました。1934(昭和9)年に板櫃川は改修され、現在の河道に変更されました。足立山を発し、船場町で紫川に合流する寒竹川(のち神岳川、現在は神嶽川と記されることが多い)も利用しました。三本松付近(古船場町の南)に水門を設け、そこから北の海に濠を掘り、寒竹川の水を流しました(現在の砂津川)。寒竹川とその水を利用した外濠と紫川に囲まれた内側を新しく開いて東曲輪としました。従来からの紫川西岸を西曲輪としました。

東西曲輪の北端は海岸線で、南端は豊後橋の南、東曲輪の東端は現在の砂津川、西曲輪の西端はかっての板櫃川でした。これらの境界の陸上部には濠が設けられていました。東西曲輪を結ぶ紫川の橋は二つでした。北の常盤橋は細川忠興の築城以前から架けられ、当時大橋と呼ばれていました。南の豊後橋は、築城後、豊後二郡の農民によって架けられたといわれています。尚、豊後橋は1868(明治初)年に流失し、1983(昭和58)年に新たに架けられました。

東西曲輪の城の総構えは40万石の大名にふさわしく広く、そのため周囲の濠の延長は大変長くなっていました。その反面、紫川の西岸にある本丸・二ノ丸・三ノ丸の城郭部分は狭くなっています。本丸の北・西・南を囲む形で二ノ丸があり、二ノ丸の西と南に三ノ丸がありました。三ノ丸の外側、二ノ丸と三ノ丸の間、二ノ丸と本丸の間にも濠が設けられました。本丸の北側の二ノ丸との間に北ノ丸、本丸の南側の二ノ丸との間に松ノ丸がつくられました。

天守閣は本丸北東角に築かれました。天守閣は破風(はふ、切妻造、入母屋造の妻の部分の造形)のない五重で、内部は六層になっていました。下から四重までは壁が白く、五重目は二段に分かれていて、下段の壁は白く、上段の壁は黒く、下段より張り出して大きく造られたいわゆる唐造りというものでした。本丸・北ノ丸・松ノ丸の主郭は、石垣と濠で守られていました。石垣は野面(のづら)積みで、足立山からの自然石が使われました。本丸には本丸御殿がありました。政務や接客のための表向きと藩主の私生活の奥向きの多くの座敷があったと思われます。

新たに開いた東曲輪は京都の町のように碁盤の目の町割りにしました。板櫃川が西流する所の北側は沼沢地でした。そこの海に面した個所が埋め立てられた帯曲輪といわれる個所に鋳物師町(いもじまち)をつくり、近国から集めた鋳物師には賦役を免除しました。この鋳物師町に忠興は祇園社を創建し、京都の祇園祭りを取り入れました。

1632(寛永6)年、細川氏は肥後に転封され、豊前国の企救・田川・京都・仲津・築城の五郡と上毛郡の一部の15万石が、譜代大名で明石城主であった小笠原忠真(ただざね)に与えられ、忠真は小倉に入部しました。他の細川氏の旧領には小笠原一族が入部しました。幕府はこれら小笠原一族の代表の小倉藩に、九州探題の役目を担わせました。小笠原氏になっても、小倉城は修繕はあっても築城時と大きな変化はありませんでした。

常盤橋(大橋)の北の紫川河口部の西岸に船着場がありました。東西曲輪と城外との間には門が設置されていました。それらの門は濠に面していました。常盤橋(大橋)は長崎街道の起点で、西曲輪の南端の門を除いて他の5つの西曲輪の門は長崎街道に通じていました。東曲輪では、海岸に近い門の門司口は、大里・門司への門司往還に通じていました。中津口は中津街道に通じていました。香春口は、香春・田川・秋月に到る秋月街道に通じていました。西方向では、小倉・戸畑・芦屋・赤間・博多・唐津に到る唐津街道がありました。長崎街道の木屋瀬宿から分かれて赤間に到る唐津街道のルートもありました。

1837(天保8)年失火により天守閣をはじめ本丸の建物はすべて焼失しました。直ちに再建されましたが、藩の財政は窮乏しており、天守閣が再建されることはありませんでした。

幕末の1864(元治元)年、幕府は長州藩に征討令を発します。小倉藩は西側の前線基地になります。しかしこの第一次長州征討では戦闘はありませんでした。1866(慶応2)年、第二次長州征討戦が始まります。四方向で戦闘が始まり、三方向の戦いでは、短期間で長州藩の大勝で終りました。しかし、小倉口の戦いは、6月17日未明に始まり、8月1日小倉藩は小倉城を自焼して、田川郡香春に撤退します。この後、小倉藩は単独で、企救郡に進出して来た長州藩との間でゲリラ戦を繰り広げます。1867(慶応3)年1月22日小倉藩と長州藩との間で止戦協定が締結されました。小倉を含む企救郡は長州藩によって管轄されました。小倉藩は香春に藩庁を移します。

1870(明治3)年、小倉藩は更に豊津に藩庁を移し、長州藩は企救郡から撤退し、企救郡は日田県の管轄に入ります。1871(明治4)年7月廃藩置県が行われ、豊津藩は豊津県になりました。同年11月豊前の豊津・中津・千束県が統合されて小倉県になりました。この際に企救郡は小倉県の管轄下に入りました。小倉県の県庁は小倉室町に置かれました。

1871(明治4)年廃藩置県を前に、西海道鎮台の本営が小倉に置かれました。後、熊本に移転します。1875(明治8)年熊本の歩兵第26大隊が小倉に駐屯し、それが歩兵第14連隊として小倉城内で発足しました。1877(明治10)年西南戦争が始まります。乃木希典連隊長以下の第14連隊に出動命令が下ります。本隊は田原坂で西郷軍と衝突します。激戦の中で連隊旗が奪われ、乃木連隊長は自刃しょうとしますが、部下によって止められました。1912(明治45)年明治天皇崩御の後を追った乃木夫妻の自刃は、軍旗を失ったことの責によると伝えられています。

1885(明治18)年歩兵第12旅団本部が松ノ丸に設置されます。1888(明治21)年、歩兵第12旅団司令部と改称されます。1898(明治31)年本丸に第12師団司令部が開庁します。こうして小倉は軍都となり、小倉城はその中心になりました。第一次大戦後の不況で財政は窮乏し、軍備縮小が行われました。

1925(大正14)年第12師団司令部は久留米に移転し、歩兵第12旅団司令部は福岡に移転し、野戦重砲兵第2旅団司令部が下関から移転して来ました。こうして小倉の軍事機構は縮小されます。1928(昭和3)年城内の歩兵第14連隊は北方の歩兵第47連隊跡に移転します。歩兵第47連隊は第12師団開設時に発足し、この時は大分に移駐していました。

歩兵第14連隊跡地とその南側の西端部を除いたかっての西曲輪の民有地を買収し、兵器生産工場の小倉工廠(こうしょう)の建設を始め、1930(昭和5)年に竣工しました。鋳物師町の祇園社は、明治になると八坂神社と変わりました。1934(昭和9)年八坂神社は鋳物師町から北ノ丸に移って来ました。1937(昭和12)年盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まります。

1940(昭和15)年小倉工廠は小倉陸軍造兵廠と改称されます。1941(昭和16)年には太平洋戦争が始まります。1945(昭和20)年8月6日広島に原爆が投下されます。8月9日テニアン島を離陸した原爆2号機B-29ボックスカーが小倉に飛来します。小倉陸軍造兵廠を目視して原爆を投下することが厳命されていました。爆撃手は小倉陸軍造兵廠を目視できませんでした。小倉上空で燃料を浪費したボックスカーは第2目標の長崎に向かいます。しかし、曇天のため長崎の上空も雲で覆われていました。一瞬雲の切れ間から長崎の市街地が見え、工業地帯を目標に原爆を投下しました。

1945(昭和20)年8月15日終戦になりました。小倉陸軍造兵廠は米軍により接収され、1959(昭和34)年解除されました。この年小倉城天守閣が再建されました。1963(昭和38)年五市が合併して北九州市が誕生しました。1972(昭和47)年北九州市庁舎が完成しました。

1959(昭和34)年に鉄筋コンクリートで再建された現在の天守閣は、外観上もかっての天守閣と少し違います。かっての天守閣は五重六層でしたが、現在の天守閣は四重五層です。またかっての天守閣には最上層の入母屋破風を除いては破風がありませんでしたが、現在の天守閣は入母屋破風、唐破風、千鳥破風が施されています。
1972(昭和47)年完成した北九州市庁舎です。南側の小文字通りからの眺めです。15階建てで、屋上部に展望室があります。展望室から小倉城が一望できます。
   
北九州市庁展望室の東側の眺望です。紫川を挟んで向こうが東曲輪でこちらが西曲輪でした。右の橋は市庁舎の南を通る小文字通りの中の橋です。歩道には太陽の花・ひまわりがタイルであらわされています。ひまわりは北九州市の花です。江戸時代には、北の下流にある常盤橋と南の上流にある豊後橋の二つの橋しか、城下の紫川には架かっていませんでした。向こうから紫川に流れ込む神嶽川が見えます。手前に川に張り出した所があります。1995(平成7)年10月つくられた洲浜広場です。江戸時代には湾のようになっていて、手前の水面を挟んだ向こう側と南側の奥に米蔵が並んでいました。舟が出入りし、その入口は下屋敷の南側で、向こうの蔵のある場所に橋が架かっていました。  
   
展望室の北側の眺望です。真下は下屋敷跡の庭園と書院造り等の施設の小倉城庭園です。小倉城庭園沿いの外側のカギ形の道を行った先が虎ノ門口になります。右上の茶色の建物の前が虎ノ門口です。左に鳥居が見えますが、八坂神社の鳥居です。
   
小倉城庭園の北にある5色の建物は複合商業施設のリバーウォークで、高層の建物はタワーマンションです。リバーウォークがある位置は北側の二ノ丸跡です。  
   
展望室の北西側の眺望です。天守閣は本丸の北東の角にあります。濠を隔てて、鳥居を入って行くと北ノ丸の八坂神社に到ります。
   
展望室の西側の眺望です。天守閣の左側から奥が本丸です。左側の石垣の開口部が大手門口で、入ってすぐに直角に右に曲がった所が大手門跡です。左の石垣の上、花見用のブルーシートが多数敷かれている所が松ノ丸です。石垣の前は広場になっていて、小倉城大手広場と呼ばれています。  
   
展望室の南西側の眺望です。かっての二ノ丸と三ノ丸の跡、小倉陸軍造兵廠の跡の一部が現在は勝山公園になっています。緑の丸い屋根の建物は北九州市立中央図書館で、その手前の部分が市立文学館です。この一帯が勝山公園で、中央図書館の後方、後方の道路を挟んだ右側、そして中央図書館の左側に公園は広がっています。文学館の左にトンネルが見えますが、公園の北と南の道路をトンネルでつなぎ、その上は公園用地になっています。
   
展望室の南側の眺望です。市庁舎の南側にある勝山公園です。橋は中の橋の上流に架かっている紫川橋です。。かっての二ノ丸と三ノ丸の跡に、明治になると歩兵第14連隊が発足しました。それ以来、そこは陸軍用地で、そこに架けられた橋でしたので、陸軍橋と呼ばれました。  
   
北九州市庁舎の反対側の北側出入口から出て行き、左手の紫川に向かいます。この付近は、江戸時代末には干潟や洲が広がっていたそうです。そのことが連想できるような洲浜広場が、1995(平成7)年10月つくられました。その工事の途中で、石垣が出てきました。角の部分の古い石垣は、その時出てきた石で昔の姿を再現しています。
   
紫川沿いを北に行き、リバーウォークの手前を左折すると濠があります。右側の二ノ丸と隔てる濠です。  
   
左に入って行きます。虎ノ門口です。道を右に曲がったすぐが虎ノ門跡です。虎ノ門は天守の北東、丑寅の方向にあり、鬼門を守ります。
   
虎ノ門口を右に曲がり、道は小倉城庭園の横を通って、次に左に曲がります。その角から見た小倉城庭園です。小倉城庭園は藩主の下屋敷の跡地にあります。細川時代は長岡佐渡の屋敷がありました。小笠原時代になると、本丸の東側一帯は家臣に屋敷は与えられませんでした。
松井康之は家老として細川氏を支えました。松井興長は康之の二男で、その跡を継ぎました。細川忠興と共に関ヶ原を戦った興長は長岡姓を賜り、長岡佐渡と名乗りました。細川忠興が隠居し、忠之が藩主になった後、肥後に転封されます。忠興は八代城に入ります。忠興の死後、八代城主に興長はなり、その後代々松井氏が八代城主になりました。
小倉城庭園の入口は右端です。
 
   
小倉城天守閣の濠を挟んだ反対側に小倉城庭園の入口があります。小倉城庭園には書院造り、庭園、展示棟が建築されています。小倉城庭園に入り、左に向かいますと書院の入口になります。その手前の左手は茶会などがある座敷や立礼(りゅうれい)席があります。右手は庭園になっています。書院に行く前に、庭園に降りてみます。庭園から書院造りを見ると、広縁が池に張り出している懸造り(かけづくり)になっているのがよく分かります。
書院から庭園を見ています。当時の下屋敷の池は、紫川と通じていて、河口に近いこのあたりでは、海の干満で水位が上下したそうです。小笠原氏が転封された後、長岡佐渡の屋敷跡が藩主の下屋敷になります。そこに庭園が築かれたのは、5代藩主忠苗(ただみつ)の藩主時代(1791-1804)であったといわれています。
書院は上段の間・一の間・二の間・取次ぎの間からなります。これは一の間と右手にある上段の間です。一の間の左手に二の間・取次ぎの間があります。
   
小倉城庭園の入口の反対側は展示棟です。小笠原氏は小笠原礼法の祖ですから、礼法に関するものが常設展示されています。ほかに企画展が行われます。  
   
小倉城庭園展示棟の中庭です。屋根の向こうに天守閣が見えます。
   
小倉城庭園の前に八坂神社の鳥居があります。江戸時代、小倉城庭園を出た所は二ノ丸から虎ノ門を入り、下屋敷沿いに来た所になります。左に行けば大手門口になりますが、まっすぐ北ノ丸に向かいます。1934(昭和9)年、八坂神社は鋳物師町から北ノ丸に移って来ました。鳥居をくぐって、左手にある天守閣の北側の濠沿いに進みます。反対側の奥には慰霊碑がたくさん立っていますが、小笠原時代は下台所がありました。  
   
天守閣の北側の濠沿いを進むと、八坂神社の門があります。豊前総鎮守の額が掲げられています。そこを入ると道は右に曲がります。左手の本丸との間に空濠があります。そこにかっては北口門がありました。そこを進むと本殿前に出ます。
   
細川忠興は、愛宕山や片野にある祇園社の祠を鋳物師町に移し、祇園社を創建し、城下の総鎮守とします。そして京都の祇園祭りを取り入れました。この祇園社が八坂神社となります。この八坂神社の夏祭りが祇園太鼓の小倉祇園です。
小倉祇園の詳細は「北九州の催事」の「小倉祇園」をご覧ください。
 
   
八坂神社の拝殿の左手に東楼門があります。濠に架かった橋を渡り、東楼門を通って境内に入って来ることもできます。リバーウォークからはこちらの門を入ります。
   
小倉城庭園前の鳥居横の濠端から天守閣を見ています。下から三重(かっての天守閣では四重)までは壁が白く、四重目(五重目)は二段に分かれていて、下段まで壁は白く、上段の壁は黒く、下段より張り出して大きく造られています。現在は五階建てで、かっては六階建てでした。現在の天守閣の高さは28.7m、水面から石垣の高さ18.8m、水面から天守閣の高さは47.5mです。かっての天守閣の高さは22.9m(12間3尺5寸)、水面から石垣の高さ17.3m(9間半)、水面から天守閣の高さは40.2m(22間5寸)でした。  
   
天守閣下の濠沿いを南に向かいます。左手に市庁舎が見えます。そのまま、小倉城大手広場の方に直進します。そこに大手門の手前の大手先門がありました。右端付近です。大手門広場の中程に大手門口があります。左端が大手門口です。
小倉城大手広場は7月の第3土曜日を中心に前後3日間行われる、小倉祇園の小倉祇園太鼓競演大会の会場になります。
   
大手門口の石垣に囲まれた道を入ると、すぐに右に直角に曲がります。その先に大手門がありました。現在は真っ直ぐ行っても本丸に行けますが、当時は石垣で囲まれていました。  
   
小倉城は北九州の桜の名所です。
   
大手門の先を左折すると、本丸に入る槻(けやき)門がありました。槻門は藩主や重役の登城に使われました。この先に鉄(くろがね)門がありましたが、藩主や重役以外の家臣の登城に使われました。  
   
天守閣は本丸の北東角にあります。左側は天守につながった小天守です。
天守閣に入ると、ジオラマで城下町の小倉が紹介されています。
同じくジオラマで、町屋の様子や小倉の祇園祭りが紹介されています。
その先1階では藩主や城下町小倉の歴史的資料が展示されています。そこで迎い虎(雄虎)が来客を迎えます。
   
同じく1階に大太鼓が置かれています。かってこの大太鼓は天守閣の最上階に置かれていて、城下に急を知らせました。1866(慶応2)年の第二次長州征討戦での小倉城炎上の後、長い間行方不明となりますが、1968(昭和43)年発見されました。  
   
2階の城内体験ゾーンで、島原の乱出陣前の作戦会議の御座所の様子が、人形で再現されています。正面が藩主小笠原忠真で、左端が宮本武蔵の養子伊織です。1612(慶長17)年、武蔵は豊前小倉に来て、旧知の家老長岡佐渡を訪ねます。当時剣の達人で、藩主細川忠興の小倉藩に召抱えられていた佐々木小次郎との試合の仲介を頼みます。許された試合は4月13日関門海峡の船島で行われ、武蔵が小次郎を打ち破ります。1632(寛永9)年細川忠興から豊前小倉を引き継いだ忠利は肥後熊本に移封されました。播磨明石より小笠原忠真は豊前小倉に移封され、武蔵も伊織もこれに従いました。前年伊織は20歳で家老となり、石高は2,500石でした。
1638(寛永15)年の島原の乱では、伊織は小倉藩家老として出陣し、武蔵も参陣しました。その功により伊織は加増され4,000石になり、筆頭家老になりました。1640(寛永17)年、武蔵は肥後熊本藩主細川忠利に客分として招かれます。晩年、武蔵は「五輪書」(ごりんのしょ)を書き表し、1645(正保2)年肥後熊本で亡くなりました。
2階に小倉祇園の古船場町山車が展示されています。1857(安政4)年建造で、福岡県の有形民俗文化財に指定されています。
3階にはからくりシアターがあり、映像で城下町の様子が紹介されていす。4階は市民の大広場になっています。5階は展望台になっています。
 
   
帰りの3階で、送り虎(雌虎)が見送りします。
迎い虎、送り虎とも宇佐神宮の能楽殿の作品や勅使の間の襖絵などが残されている佐藤高越画伯の作品で、昭和35・36年の2年かけて完成されました。
   
天守閣を出て西方向に行くと、右手に復元された着見櫓(つきみやぐら)があります。ここで当時は沖からの船の通航を監視しました。現在は漬物処糠蔵(ぬかぐら)という漬物の店になっています。藩政時代から小倉は糠漬けが盛んで、糠漬けの糠を使ったイワシやサバの糠炊きは小倉の郷土料理でもあります。  
   
本丸の中央を南方向に行きます。木立の下に石碑が立っています。第12師団司令部跡をしめすものです。第12師団は1898(明治31)年に設置され、翌年、森鷗外が軍医部長として着任します。
小倉の森鷗外については、「北九州点描」の「森鷗外旧居」をご覧ください。
   
第12師団司令部は1925(大正14)年、軍縮によって久留米に移転します。石碑の先に赤レンガの門があります。これは第12師団司令部の正門です。  
   
第12師団司令部の正門の先は鉄(くろがね)門跡になります。当時より2倍の広さになっています。左側半分が当時の広さで、石垣も当時のものです。鉄門は藩主や重役以外の家臣の登城に使われました。
   
鉄門の先は松ノ丸です。そこに門があり、その先に歩兵12旅団司令部跡の石碑が立っています。1885(明治18)年、歩兵第12旅団は、歩兵第14連隊と翌年福岡で創設される歩兵第24連隊を指揮することになり、ここに司令部が置かれました。  
   
松ノ丸の一番奥に櫓風のものが見えます。この塔は幕末期、岩松助左衛門が設計した白州灯台を模したものです。白州は藍島の西の響灘の岩礁で、海の難所です。小倉藩に命じられて、難破船の救助に当たっていた庄屋の岩松助左衛門は、白州灯台建設の必要を感じ、私財を投じ奔走します。しかし1872(明治5)年病気で死去します。半年後のその年、明治政府の手で点灯されます。
藍島から眺めた現在の白洲灯台は、「北九州点描」の「藍島」をご覧ください。
   
松ノ丸と二ノ丸の間に、大手門に対して搦手門の西ノ口門がありました。西ノ口門跡を過ぎますと、松本清張記念館があります。1909(明治42)年、現在の小倉北区で生まれた松本清張は、1953(昭和28)年「或る『小倉日記』伝」で、芥川賞を受賞します。上京後、社会派推理小説というジャンルを開き、1992(平成4)年死去するまで、歴史小説、古代史・現代史研究とその活動は多岐にわたります。
この記念館では、清張が執筆していた書斎・書庫・応接室が再現されています。そして、松本清張を体系的に理解できるように展示・紹介されています。
 
   
松本清張記念館から清張通りと名付けられた大通りに出て左に行くと、小倉北署前交差点になります。交差点を直進しますと、左手に駐車場があり、その先を左に入ると中央図書館があります。道路から入った左手に、歩兵第14連隊跡の石碑が立っています。1875(明治8)年、小倉城の南側の二ノ丸と三ノ丸に歩兵第14連隊が創立されました。1928(昭和3)年歩兵第14連隊は北方に移転します。その跡地とその南の民有地を買収し、小倉工廠は建設を始めました。
   
西側から見た市立中央図書館です。正面が入口で右側の棟が中央図書館で、左側が市立文学館です。文学館は、明治以降の北九州の文芸のあゆみと、ゆかりのある文学者を紹介しています。ほかに企画展示があります。
中央図書館の周辺は勝山公園になっています。小倉城は別名勝山城と呼ばれましたので、城内の公園は勝山公園と呼ばれます。中央図書館の南側の勝山公園です。清張通りを隔てた西側にも勝山公園はあり、中央図書館の東側で市庁舎の南側にもあります。これらの勝山公園は小倉陸軍造兵廠跡地で、小倉陸軍造兵廠は更に南に広がっていました。
中央図書館のすぐ南側の勝山公園内に、平和記念碑と長崎の鐘があります。1945(昭和20)年8月9日原爆2号機が小倉に飛来しますが、爆撃手は小倉陸軍造兵廠を目視できませんでした。爆撃手にはこの点が厳命されていました。原爆2号機は第二目標に変更し、長崎に投下しました。戦後この事実が明らかにされました。1973(昭和48)年平和の碑は建立され、長崎から長崎の鐘が贈られました。北九州市庁舎に長崎の鐘は展示されていますが、その複製がここに置かれています。  
   
中央図書館付近は、その東側より一段高くなっています。左側の赤レンガ敷の通りが東側の高さです。中央図書館の南側の勝山公園から東側の勝山公園へは、右側の高架の歩道橋で連絡されています。赤レンガ敷の通りの向こうの上は公園で、下はトンネルになって、中央図書館の東側で市庁舎の南側の勝山公園で分断されている南北の道路を連絡しています。
中央図書館南側の勝山公園から東側の勝山公園に歩道橋を渡って、トンネルの上にやって来ました。勝山公園の高い所から北側を眺めています。小文字通りを隔てた向こうの右側に北九州市庁舎、左側に小倉城天守閣、その間の後方にリバーウォークが見えます。
  勝山公園はここから東は下り斜面になって、紫川まで広がっています。向こうの建物は紫川の対岸にあります。左手に小文字通りが通っています。


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