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高塔山公園
    若松区修多羅  [2016/07/09]
 

中世、北九州市の半分を含む当時の遠賀郡を麻生氏が領有していました。高塔山には、麻生氏の家臣、大庭隠岐守種景(たねかげ)の居城があったと伝えられています。山麓の安養寺は大庭種景が開基した浄土宗の寺院です。安養寺には、芥川賞受賞の郷土の作家、火野葦平が葬られている玉井家の墓があります。標高124mの高塔山には、1931(昭和6)年7月久留米の工兵第18大隊によって、山麓から頂上までの登山道路が3日で開通しました。同年9月満州事変が始まり、翌1932(昭和7)年1月上海事変が始まります。同2月上海郊外で一等兵3名が破壊筒を持って、敵陣を破壊しょうと突入し、自らも爆死しました。いわゆる肉弾三勇士で、彼等が所属していた部隊が工兵第18大隊でした。1934(昭和9)年幅員4mの高塔山登山道路が完成します。1937(昭和12)年高塔山に高射砲陣地が構築されました。

1940年(昭和15年)高塔山公園は都市計画公園に指定され、2年の継続事業として着工します。しかし、1941年(昭和16年)太平洋戦争に突入したため、1942(昭和17)年高塔山公園は閉園となりました。1945(昭和20)年終戦となり、1952(昭和27)年高塔山公園の本格的整備が始まり、1954(昭和29)年当時の若松市の事業として竣工して開園しました。その後、敷地や施設が寄贈され、1958(昭和33)年には麓から頂上にロープウェイが開通しました。1962(昭和37)年に若松と戸畑を結ぶ若戸大橋が完成し、その開通を記念し、また翌年の五市合併のキャンペーンとして2か月余りの会期の若戸博覧会が開催されました。会場は戸畑側が大橋桁下で、若松側が高塔山公園でした。この開催を控え、1934(昭和9)年完成の登山道路の改良工事が行われ、会場の敷地造成は自衛隊の施設大隊によって行われました。1963(昭和38)年旧五市が合併し、北九州市が発足しました。

博覧会終了後、恒久施設は残され観光客の誘致に寄与しますが、次第に老朽化し、ロープウェイも1971(昭和46)年に廃止になり、観光活動は沈滞化し、しだいに施設も撤去されていきました。高塔山公園は桜の名所ですが、近年は公園内に地元住民によるあじさいの植栽が行われ、あじさいの名所として有名になっています。平成11年度からは毎年、6月に若松あじさい祭りが開催され、次第ににぎわいを取戻しつつあります。このような機運の高まりにより、頂上広場を改修して芝生広場にし、展望台を耐震補強してスロープによるバリアフリー化し、市民プール跡地や音楽堂周辺の整備が行われました。今後も整備が進み、あじさいの植栽も拡大されます。

高塔山公園に隣接する、また園内にある施設等を紹介します。登山道路入口の右手にあるのが佐藤公園です。かって佐藤公園がある場所に石炭商の佐藤慶太郎(1868‐1940)の邸宅と庭園がありました。1934(昭和9)年別府に転居するに際し、この地を若松市に寄贈しました。高塔山山麓のこの地は公園となり、佐藤公園と名付けられました。佐藤慶太郎の父孔作は遠賀郡陣原村(現在八幡西区陣原)、現在は本陣橋が架かっている渡場付近で商売をしていました。慶太郎は明治法律学校(現明治大学)を出て、石炭積出港の若松の石炭商山本商店に勤めます。その後山本の義妹と結婚し、独立します。商売に才覚を発揮し、炭鉱経営にも乗り出します。しかし、若い時からの胃腸病に苦しみ、第一線から引退します。

慶太郎は事業を整理し、財産を社会奉仕に使うようにしました。別府に病院を建て、若松に医療の財団法人を設立しました。また、慶太郎の寄付金で東京府美術館が上野公園に開館しました。妻が亡くなると別府に移り、若松の邸宅は若松市に寄付しました。晩年は食生活改善を勧め、生活刷新運動を行いました。1940(昭和15)年に死去しましたが、遺産は寄付に使われるように遺言しました。佐藤慶太郎の寄付金のみで、1926(大正15)年上野公園に建設された東京府美術館が開館しました。その後老朽化したため、1975(昭和50)年現在の東京都美術館が建設されました。彼は、自分の財産は社会からの預かり物という考えを持っていました。

登山道路入口の右手に白山神社の鳥居が建っています。石段が山の斜面に伸びています。1629(寛永6)年、白山を神体とする白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ、石川県白山市)の分社の白山神社が隣の藤木村にあり、そこから修多羅(すたら)の産土神として勧請されました。白山神社は色絵武者図磁器絵馬を所蔵しています。1717(享保2)年、福岡藩は、遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡の年貢米の集積地を芦屋から若松に移しました。その米蔵は国道199号線修多羅2丁目交差点付近にありました。担当の奉行が伊万里焼の磁器絵馬を奉納しました。鎧姿の神功皇后、乳飲み子の応神天皇を抱いた武内宿禰(たけのうちのすくね)が描かれています。この磁器絵馬は北九州市の有形民俗文化財に指定されています。

高塔山山上から南西に行った所に仏舎利塔があります。1956(昭和31)年、仏舎利塔は釈尊入滅2500年を記念して建立されました。インド政府から贈られた仏舎利が納められています。

公園内を紹介します。山頂広場に河童封じの地蔵尊が安置されたお堂があります。これは高塔山の麓にある安養寺のお堂です。地蔵尊の正式な名称は虚空蔵菩薩です。地蔵尊の背中には大きな釘が打たれています。修多羅村には河童の話が伝えられています。馬を川に引きずり込もうとした河童が失敗し、庄屋に捕まりました。庄屋は地蔵の背中に大きな舟釘を打ち込み、釘がある間は、河童にいたずらしないように誓わせました。火野葦平は、河童好きで有名ですが、この話をもとに「伝説」(昭和15年)という小編を書いています。のち「石と釘」と改題されています。

「石と釘」の概要は次のようなものです。島郷の河童と修多羅の河童が、時折縄張争いで空中戦をします。朝になると、畑は戦死した河童の死体が青いどろどろの液体になって、農作物の被害は大変なものでした。ひとりの山伏が鍛冶屋に無理を言って、大きな釘を1本作ってもらいました。高塔山頂上のお堂の中に石の地蔵尊がありました。山伏堂丸総学(どうまるそうがく)は石の地蔵尊が軟らかくなるように祈祷していました。河童封じの祈祷をしていることを知った河童達は、あらゆる手を使って妨害しました。何日か過ぎたある日、やせ細った山伏が石の地蔵に触れると、へこんでいました。彼は釘と金槌を手に取りました。手に持っていた経文が下に置かれました。この時を狙って河童達が山伏を襲いました。血だらけになって、山伏は必死になって釘を打ちました。力尽きて山伏が倒れました。河童達は青いどろどろの液体になりました。

高塔山公園の北側には県木の森があり、南側には万葉植物園があります。県木の森は1968(昭和43)年につくられました。福岡県はツツジ、東京都はイチョウ、北海道はエゾマツで、各都道府県の木が日本列島を形取ったそれぞれの場所に植えられています。万葉植物園には万葉集の歌に書かれた植物が植えられ、その歌が紹介されています。ここは1954(昭和29)年、当地選出の代議士であり、実業家でもあった石崎敏行氏の遺族によって寄贈されました。

万葉植物園の先に火野葦平文学碑が建てられています。火野葦平(1907~1960)は1938年(昭和13年)「糞尿譚」で第6回芥川賞を戦地で授賞し、兵隊三部作をはじめ、「花と龍」「革命前夜」等の作品があります。1960年(昭和35年)自宅「河伯洞」の書斎で自らの命を絶ちました。葦平碑前祭が、文学碑の前で1月24日の命日の前の日曜日に行われます。

高塔山山上の駐車場の横の高台に吉田磯吉像が建てられています。吉田磯吉は火野葦平の「花と龍」にも登場します。銅像の横に石碑「銅像建設を記念して」があり、長男の吉田敬太郎が書いています。吉田敬太郎は国会議員でしたが、戦時中軍部に逆らい投獄されました。獄中で聖書に出会い、クリスチャンとなり、出獄後牧師となりました。戦後は若松市長として活躍されました。碑文には1987年晩秋と書かれていますが、その翌年他界しました。

碑文の概要は次の通りです。吉田磯吉(1867~1936)は芦屋で生まれ、遠賀川の石炭輸送の川舟の船頭となり、船頭仲間の中で頭角を現してきました。その後、故郷を出て、京大阪で遊侠の徒と交わり、大親分と呼ばれます。しかし、帰郷して正業につき、炭砿経営や石炭販売に努めます。1915(大正4)年、突如総選挙に出て、衆議院議員に当選します。中央・地方のために尽力しました。その葬儀には人徳を慕って、多くの人が参列したと伝えられています。

碑文には次のようなエピソードが記されています。「大正4年3月19日の夜半対岸牧山山上の市の予備貯水池の堤防が決潰し山下の旭硝子会社の新設された許りの工場を破壊し・・・市政の一大危機に直面したのですが父の側面的努力接渉と三菱側岩崎社長等の格別なる御厚志によって幸いにも無償で円満解決・・・」碑文では、当時の若松市の財政は13万円で、工場破壊の直接・間接被害の合計は約40万円であったと記されています。

若松は石炭積出港として発展していました。若松には水源地がなく、飲料水は山手の井戸、船舶用は洞海湾の対岸の戸畑の牧山の井戸からでした。1906(明治45)年若松町は、八幡製鐵所が遠賀川から取水した原水から分水を受け、対岸の戸畑町牧山に浄水場を建設し、配水本管を洞海湾に敷設して給水を開始しました。しかし、貯水池がないため、導水管が炭鉱の陥没事故により断水を予期なくされることが年に何回もありました。このため、牧山浄水場に隣接して貯水池を1914(大正3)年に完成させました。この貯水池に貯水している時に上記の事故が起きました。前年に若松町は若松市になっています。その後、1925(大正14)年に若松市内に菖蒲谷貯水池と畑谷浄水場が完成しています。
JR若松駅の前から見た高塔山です。標高124mの山頂に展望台が見えます。
   
国道199号線の若松駅前交差点を西に行き、次の若松駅西交差点を右折して北に行き、若松中央小学校前交差点を左折して西に行きます。高塔山登山道路に入る手前の左手に佐藤公園があります。佐藤公園の入口付近に2009(平成21)年佐藤慶太郎胸像が建てられました。佐藤公園には佐藤慶太郎の邸宅と庭園がありました。  
   
朝倉文夫(1883‐1964)が佐藤慶太郎胸像を制作し、東京府美術館の開館以来半世紀、館内に飾られました。1975(昭和50)年現在の東京都美術館が建設され、2012年(平成24)のリニューアルに際し、佐藤慶太郎記念アートラウンジがオープンし、佐藤慶太郎胸像が展示されています。東京都内を中心にしたインフォメーション・ラウンジですが、佐藤慶太郎の資料が展示され、美術館の歴史も紹介されています。
   
佐藤公園の奥に登って来ました。佐藤公園にもあじさいが植えられています。佐藤公園は若松あじさい祭りの会場の一つになります。
佐藤公園と高塔山公園は桜の名所でもあります。その様子は、「北九州の催事」の「北九州の花見」をご覧ください。
 
   
登山道路入口の左手が佐藤公園の入口で、その右手に白山神社の鳥居が建っています。傾斜の厳しい石段が伸びています。登山道の先の建物が公民館で、登山道路から右折します。
   
登山道路を右折すると、上に行く道と下に行く道に分かれます。上の道は白山神社本殿に行き、下の道を進むと途中の鳥居の横に駐車場があります。途中の鳥居の先の参道は、コンクリートの階段です。この階段は、公民館の前で右折した道を跨ぐように架けられています。  
   
階段の先に門が見えます。門の先に白山神社の拝殿があります。
   
公民館の前の登山道路に戻り、左にそして右にカーブして上って行きます。道はヘアピンカーブになります。カーブを曲がった所で、車は一方通行になります。そこが一方通行の始点であり、帰りの終点になります。一方通行の坂を上り切ると、上下二車線の広い道に出ます。左手は芝生広場で、先の左手に駐車場があります。駐車場の前の道路を横断した反対側の歩道です。あじさいが咲き誇っています。  
   
上って来た道を戻って行きますと、右手に芝生広場が見えます。6月の土・日曜に若松あじさい祭りがあります。芝生広場はそのイベント会場になります。祭りの2日間は車で高塔山公園に上ってくることはできません。祭りの間は、臨時駐車場が開設され、シャトルバスが運行されます。日程やイベントについては、若松あじさい祭り実行委員会の公式サイトをご覧ください。
 http://www.h2.dion.ne.jp/~aji1/PC/
   
芝生広場から北に下りて来ました。斜面の下に野外音楽堂が見えます。ここも先程の芝生広場と同様にイベント会場になります。左手の台地上に1968(昭和43)年に開設され、2002(平成14)年に廃止された市民プールがありました。また手前の右に水連が咲く池がありましたが、それらは撤去され、視界が開けたこのような状態に、平成23年度に整備されました。もっと右手は県木の森ですが、後程訪ねます。音楽堂の背後に見えるのは、北湊の工場地帯で、その先は響灘です。  
   
野外音楽堂を取り巻く斜面のあじさいです。
こちらも斜面のあじさいです。高塔山公園には約67,800株のあじさいが植えられています。地元の小中学生はあじさいの里親として苗を預かり、一定期間後、高塔山に植樹して増やしてきました。現在、あじさいの里親は、高塔山を訪れる一般の人々にも広がっています。
野外音楽堂の裏手の先にあじさい広場とあじさいの小径があります。右手の斜面にあじさいが植えられています。
   
小径を進むと、左手の斜面にあじさいが植えられているあじさい広場があります。こちらは林の間にありますので、まだ咲かないあじさいが残されています。あじさい祭りが終わっても花はこれから楽しめそうです。  
   
あじさい広場の横は三叉路です。上りの道を先に進みます。このあじさいの小径も花はこれからです。
   
あじさいは紫陽花と書かれますが、これは唐代の詩人白居易(白楽天)が別の花に付けたといわれる漢字を、平安時代、源順(みなもとのしたごう)があじさいに当てたことから誤って広まりました。
あじさいは、花びら(花弁)といわれる部分はがく(萼)です。一般的には、花びらの外側の付根の小さな緑の小さな部分ががくと呼ばれる部分です。雄しべと雌しべが退化し(中性花といいます)、この様にがくが発達した花を装飾花といいます。
 
   
ガクアジサイは日本原産のあじさいです。ガクアジサイがヨーロッパに渡り、品種改良されてセイヨウアジサイとして日本に戻って来ました。
   
ガクアジサイは周りに装飾花があり、中に雄しべと雌しべを持つ両性花があります。  
   
あじさいの花の色は、アントシアニンという色素によるものです。この色素にアルミニウムのイオンが作用すると青色になります。土壌が酸性だとアルミニウムが溶け出して吸収され、花が青色になります。土壌がアルカリ性か中性だとアルミニウムが吸収されず、花が赤色になります。根からのアルミニウムの量で、同じ株でも違う色になることもあります。また遺伝的要素で青色にならないものもあるといわれています。
   
あじさいの小径を過ぎると、先程上って来た登山道路に出ます。右折して登山道路を上って行きます。右手に県木の森があります。入って行きます。一番南の沖縄県のリュウキュウマツです。各県の樹木が植えられていますので、これを含めて4つ程紹介します。  
   
宮崎県のフェニックス
   
栃木県の栃ノ木  
   
北海道のエゾマツ
   
野外音楽堂を取り巻く斜面の近くに戻って来ました。県木の森の樹木は日本地図に沿って植えられています。この碑は日本の北の位置にあります。  
   
芝生広場に戻り、石段を昇ると展望台のある山頂広場になります。展望台の下は休憩所になっています。展望台には左右の階段で昇れます。また右側に、車椅子の人も昇れるように、芝生広場から展望台までスロープが改修工事で供えられました。山頂広場の北側に地蔵堂があります。河童封じの地蔵尊が祀られています。
   
地蔵堂には河童封じの地蔵尊が祀られています。  
   
地蔵尊の背中に舟釘が打ち込まれています。
   
これから5つは、高塔山展望台からの眺望です。
東側の眺望です。真下に広がる若松市街地と洞海湾を戸畑区と結んだ若戸大橋です。若戸大橋は、1962(昭和37)年に完成しました。その下を若戸渡船が航行し、人と自転車を運びます。橋の上の一番高い山は、門司区の標高517.8mの戸ノ上山です。
若戸大橋から洞海湾の湾口方向を見ていきます。
右上の洞海湾の対岸は新日鐵住金八幡製鐵所戸畑地区です。その左は洞海湾の湾口です。明治時代の埋立が始まる以前は若戸大橋付近が湾口でした。大正時代、鉄鋼一貫の一大製鉄所をつくる目的に、戸畑に東洋製鉄が設立されました。第一次世界大戦後、日本は戦後恐慌に見舞われたため、東洋製鉄の経営は八幡製鐵所に委託され、八幡製鐵所戸畑作業所となりました。その後、戸畑の埋立ては進みました。戦後、八幡製鐵所の重点は八幡から戸畑に移されていきます。1970(昭和45)年に八幡と富士は合併して新日本製鐵となりました。鉄鋼業界は大型化と新鋭化が進められ、八幡製鐵所の鉄源部門は戸畑地区に集約されていきました。2012(平成24)年10月新日本製鐵と住友金属が合併して新日鐵住金になりました。
北側の眺望です。陸地の先端は響灘大橋によってつながった埋立地のひびき灘臨海工業団地です。その北端の海岸沿いに10基の風力発電の風車が並んでいます。その先の海は響灘です。左側の2つの島は白島(北九州市若松区)で、左端が女島、その右側が男島です。中央は蓋井島(ふたおいじま、山口県下関市)です。右側に平ぺったい藍島(あいのしま、北九州市小倉北区)があり、右端は下関市の山です。
若戸大橋の反対側、南側の眺望です。手前が若松区、洞海湾を隔てて左側が戸畑区、中央の泊地への水路を隔てて右側が八幡東区です。戸畑区の手前の丘陵地は牧山です。八幡東区の手前の緑の部分はかっては島で、葛島(かつらじま)です。埋立で陸続きになって、八幡製鐵所八幡地区の一部になり、葦が生い茂っていましたが、植樹されて森になっています。その先は八幡製鐵所八幡地区の洞岡(くきおか)です。その先の山は、標高622mの皿倉山です。
展望台の反対側、西側の眺望です。一番手前は山頂広場で、右側に河童封じの地蔵尊が祀られている地蔵堂があります。その先一段低い所が芝生広場です。その先、若松東部を南北に分ける最高峰302mの石峰山の峰々が続いています。  
   
山頂広場の南側を下りて行きます。高塔山公園の石塔が立っています。下はあじさいの花が咲いて見えませんが、高塔山公園の由来が刻まれています。大庭隠岐守種景の城があったことから始まり、戦前の都市公園に着工したこと、戦後の本格的な整備があり、高塔山公園が竣工したことなどが記されています。1957(昭和32)年5月に建てられ、当時の若松市長吉田敬太郎の名が刻まれています。
   
芝生広場の南東端に立っている高塔山公園の石塔の背後の道を進み、展望台の南側の階段を下りて行きます。右手に万葉植物園が広がっています。万葉植物園には万葉集の歌に書かれた植物が植えられ、その歌が紹介されています。たくさんの植物が植えられていますが、植物を3つ程紹介します。
榎木(えのき)
 
   
馬酔木(あしび)
   
たぶのき  
   
万葉植物園の前を通って下りて行くと、火野葦平文学碑があります。碑には、「泥によごれし背嚢にさす 一輪の菊の香や」の碑文が刻まれています。「泥によごれし背嚢にさす 一輪の菊の香や 異国の道をゆく兵の 眼にしむ空の青の色」の前半が刻まれています。
高塔山の麓には火野葦平の自宅「河伯洞」があります。河伯洞については、「北九州点描」の「河伯洞」をご覧ください。
   
高塔山山上の駐車場の前まで戻って来ました。駐車場の前は二車線の道路です。駐車場の反対側に降りて行く階段があります。階段を降りて行くと自由広場・多目的広場になっています。斜面は草ソリ場になっています。  
   
駐車場の先は高台になっていて吉田磯吉像が建っています。その横に長男の吉田敬太郎が書いた石碑「銅像建設を記念して」があります。
   
二車線の道に戻り、更に下って行きます。この道は一方通行ではありません。下り切った所が交差点になっています。左手前にもう一つ駐車場があります。右手に行くと小石方面に出ます。こちらは一方通行ではありません。左手は一方通行です。一方通行の登山道路入口の所に戻ります。直進しますと仏舎利塔に行きます。交差点の右向こうは、高塔山広場です。ジョギングコースやトリム施設が備わっています。  
   
直進して進むと、突き当りに仏舎利塔が建っています。
   
仏舎利塔の内部です。この上は円天井になっています。  


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