北九州のみどころ

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和布刈公園
    門司区門司  [2016/09/17]
 

 
和布刈(めかり)公園は、瀬戸内海国立公園の西端に当たります。本州と九州を隔てる関門海峡の中でも、激しい潮の流れの早鞆瀬戸(はやとものせと)に面する九州側の古城山を中心にした丘陵地です。

早鞆瀬戸に面して和布刈神社が建っています。和布刈神社は神功皇后(じんぐうこうごう)により創建されたと伝えられる古い社です。朝鮮への出兵から帰国した神功皇后は、豊浦宮に戻る途中、祖先の神々を祀り、朝鮮への出兵で海路の安全に協力した安曇磯良の魂をここ速門(はやと)に鎮めたことから、和布刈神社はかって速門社(はやとのみや)・速戸社や速戸明神・隼人明神・早鞆明神とも呼ばれました。

「和布」は「にきめ」または「にぎめ」とも読み、「わかめ」のことですが、ここでは「和布」は和訓(わくん、漢字に日本語の読み方を当てはめて)で「め」と読み、「わかめ」を指します。わかめは万物に先んじて芽を出し、自然に繁茂するため幸福を招くといわれ、新年の予祝行事として、新年最初にわかめを刈る和布刈神事が和布刈神社で古より秘かに行われてきました。奈良時代の710(和銅3)年に和布刈神事のわかめが朝廷に献上されました。この神事によってこの社は和布刈神社と呼ばれるようになりました。

古城山の麓の南側海岸には、飛鳥時代の646(大化2)年、都と大宰府を結ぶ交通の要衝として、関門海峡を渡る人や船を調べる門司関が設けられました。。平安時代初期の太政官符に、それより遡る奈良時代746(天平18)年に東九州からの船も門司関を通るように記述され、九州からの船は全て門司関を通ることになっていました。平氏が大宰府を支配下に置くと、その直轄地であった門司関も平氏の支配下に置かれました。

関門海峡では、源平の最後の戦いになった壇ノ浦の戦いがありました。平氏は源範頼・義経兄弟に一の谷、屋島で破れ、壇ノ浦で源氏を迎え撃ちます。1185(寿永4、元暦2)年3月24日、彦島を出て田野浦に集結した平氏の軍船と、満珠・干珠の二つの小島の間に集結した源氏の軍船の間で戦いが始まります。戦いは当初平氏有利が、しだいに源氏有利となり、壇ノ浦で平氏は敗れます。平氏一門は海中に身を投じます。安徳天皇・二位尼(清盛の妻)は入水しました。建礼門院(安徳天皇の母)も入水しますが、救い上げられました。

平氏滅亡後、平氏没官領の門司関に1244(寛元2)年下総親房(しもふさちかふさ)が下向して来ました。平氏の残党が蜂起したことにより、豊前国に地頭職を与えられ、関東で受け取る地頭得分が届かないという訴えに対し、軍船70艘を率いて親房は着任したと伝えられています。門司城は平知盛の命で古城山に築かれたといわれています。その後、門司関に下向して来た下総親房が居城とします。下総氏は鎌倉末期頃より門司氏と称します。その門司氏は水軍力をもって関門海峡を警固したと思われます。

門司氏の所領は門司六郷で、片野(現在の小倉北区三萩野付近)・柳(現在の門司区大里付近)・楠原(現在の門司港付近)・吉志・伊川・大積郷でした。その六ヶ郷に一族を分立させていきました。南北朝時代、一族は南朝方・北朝方に分かれて争いました。しかし、戦国時代にはこの地は毛利・大友両氏の戦いの場となり、豊臣秀吉の九州平定により、その支配下となりました。代わった徳川家康により、豊前国は細川忠興に与えられました。1602(慶長7)年、忠興は小倉城を築きました。元和元(1615)年一国一城令により門司城は廃城となりました。

朝鮮出兵で肥後名護屋城に下って来ていた豊臣秀吉は、母の急病の報せを聞き戻る途中、関門海峡の大里の沖合いの篠瀬(しのせ)で乗った船が座礁します。この責任を取って船奉行の明石与次兵衛は切腹します。その後、小倉藩主になった細川忠興は、明石与次兵衛の死を悼み、また海の難所の示標として塔を建てました。江戸時代後期、江戸出府途中のシーボルトが、この塔のことを書いています。

1612(慶長17)年4月13日、関門海峡にある船島で、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われました。後にこの島は、小次郎の流派名を取って、巌流島と呼ばれるようになりました。巌流島には、一番多い時には30軒ほどの家がありましたが、現在は無人島です。現在の巌流島は、決闘が行われた当時より6倍の広さになっていて、下関の唐戸と門司港からの観光船が発着する観光地になっています。

幕末、長州藩は彦島から長府の間の沿岸約10箇所に砲台を築いていました。1863(文久3)年、攘夷期限を期して、門司田野浦に投錨していたアメリカ商船を、長州藩は艦船で砲撃しました。その後も関門海峡航行の外国船に対し各砲台・艦船の砲が火を吹きました。長州藩の砲は青銅製の旧式砲で大した損害を与えませんでした。これに対し、列強は報復に出て、長州藩の艦船や砲台が破壊されました。

翌年の1864(元治元)年、英仏米蘭の四国艦隊による下関砲撃があり、全ての砲台が破壊されました。四国艦隊は陸戦隊を上陸させ、砲を破壊し、一部を戦利品として持ち去りました。この後長州藩は、開国・倒幕に転換し、明治維新に突き進みました。

1886(明治19)年、陸軍省は全国の重要な地に砲台を築造し、沿海の防備を厳しくすることにしました。当時、定遠・鎮遠という巨大戦艦を有する清国の北洋艦隊の脅威を感じていた関門地区には、関門海峡を挟んだ下関と北九州に砲台と堡塁が築造されました。敵艦船を砲撃するのを砲台、砲台の背面防御し、陸戦砲撃をするのを堡塁としました。和布刈では山上に古城山砲台、海岸に和布刈砲台が築造されました。古城山砲台は1888(明治21)年着工し、1891(明治24)年竣工しました。和布刈砲台は1895(明治28)年に竣工しました。しかし実戦に使われることはありませんでした。

関門海峡を挟む砲台・堡塁を統合した関門要塞は、1895(明治28)年下関要塞と呼称されることが正式に決まり、下関要塞司令部が発足し、砲兵連隊が配備されました。これらの地域は下関要塞地帯と呼ばれました。これらの砲台・堡塁は明治末には廃止となりますが、機密保持のため立ち入りは制限され、地域内の測量・撮影などは1945(昭和20)年の終戦まで要塞司令部の許可が必要でした。

和布刈公園の東にある田野浦の築港は1894(明治27)年に計画が起こり、会社も設立されますが実行されず、引き継がれたり、改称されたりした後、門司築港に引き継がれます。1917(大正6)年の米価高騰に対する米騒動の後、米価の分量調整のため全国7か所に国立米穀倉庫を設置することになりました。当時の門司市は、門司築港の埋立地に誘致することを決めました。1925(大正14)年門司築港の大久保海岸に、国立門司米穀倉庫の設置が決定し、1926(大正15)年に着工し、翌1927(昭和2)年に竣工しました。そして誘致の条件であった鉄道の建設を門司築港が行い、1929(昭和4)年に運送を始めました。

1931(昭和6)年柳条湖事件による満州事変、1937(昭和12)年の盧溝橋事件による日中戦争が始まり、船で門司港から中国大陸に多くの兵士が渡りました。1941(昭和16)年12月8日海軍による真珠湾攻撃と時を同じくして、陸軍を主力にする南方攻略が始まりました。太平洋戦争の始まりです。南方攻略には中国大陸から多くの師団が動員されて南方軍が編成され、その戦域は東南アジア全域にわたりました。

日中戦争では中国で、太平洋戦争では東南アジアで多大な被害を与え、同時に日本軍の戦死・戦傷も多数に上りました。その中で、悲劇的な結末になったビルマ戦線を見てみます。1941(昭和16)年の南方攻略が始まった当時のビルマは、イギリス領でした。アウンサンスーチーの父は、ビルマ独立義勇軍を創設し、日本軍とともに戦い、イギリス軍をビルマから駆逐しました。中国の蒋介石政権を援助する援蒋ルートの拠点が、ビルマ国境から西にあるインド北東部のインパールでした。

1944(昭和19)年3月、インパール作戦を第15軍司令官牟田口廉也中将麾下3個師団、第15(祭)・31(烈)・33(弓)師団が開始します。しかし補給が不足し、前線では戦死の他に補給を絶たれた兵士が多く餓死しました。多くの負傷したり、飢えて衰弱した兵士は、マラリア・赤痢などの伝染病に罹って戦病死しました。8万6,000人が投入され、1万2,000人が帰還して退却しました。この作戦を契機に、アウンサン将軍は日本軍から離反して連合国側につき、抗日運動を始めました。戦後、ビルマは再びイギリスの植民地になりますが、アウンサン将軍は独立運動を続け、1947年7月暗殺されました。翌1948年1月ビルマは独立しました。

戦後の1953(昭和28)年から田野浦に大型船埠頭の建設が始まりました。門司築港は名称を変えていきました。その鉄道は1960(昭和35)年門司市に買収され、市営田野浦公共臨港鉄道になりました。1964(昭和39)年田野浦埠頭の用地造成工事が完了し、翌1965(昭和40)年埠頭まで延伸されていた鉄道工事も完了しました。農林省米穀倉庫は1994(平成6)年に閉鎖されました。田野浦公共臨港鉄道の貨物列車は2004(平成16)年まで運行されていましたが、翌2005(平成17)年営業休止になりました。現在はその路線の一部を利用して、門司港レトロ観光トロッコ列車「潮風号」が運行されています。

1958(昭和33)年、関門海峡の早鞆瀬戸の下に本州と九州を結んだ国道海底トンネルの関門トンネルが完成しました。トンネルは上が車道、下が人道の構造になっています。関門海峡の早鞆瀬戸の上に関門橋が1973(昭和48)年開通しました。関門橋は高速道路の関門自動車道が通ります。橋の全長1,068m、橋脚間712m、航路幅530m、橋桁から橋脚最高部まで65m、橋桁から海面まで61mです。下関インターから門司インター間の関門橋とその前後の道路は、中国自動車道と九州自動車道をむすぶ関門自動車道です。
国道199号線を北上しますと、跨線橋になって国道3号線と合流する手前の西海岸1丁目交差点を右折しますと、西海岸に入って行きます。左手に関門海峡ミュージアムがあります。関門海峡ミュージアムの横の船溜まりからの和布刈公園の眺めです。右手の山が古城山(こじょうさん)で、右端にパゴダの頂上が見えます。左の関門橋の右の橋脚付近までが和布刈公園です。橋脚の間に見える山は、下関市の火の山です。
西海岸1丁目交差点に戻り、左折して跨線橋を通り国道3号線を北上します。国道は鎮西橋交差点から右に曲がり、老松公園前交差点からは国道2号線になり、国道関門トンネルに向かいます。鎮西橋交差点を直進し、更に旧門司1丁目交差点を直進しますと、正面に和布刈神社の大鳥居が現れます。上に見えるのは、関門自動車道からめかりパーキングエリアへの高架橋です。
   
鳥居の左横が小公園になっていて、門司関址の石碑が立っています。飛鳥時代の646(大化2)年、都と大宰府を結ぶ要衝として、ここに関門海峡を渡る人や船を調べる関所を設けた、と横の石碑に書かれています。  
   
門司関址の石碑のある小公園の先に踏切があり、右側に和布刈トンネルがあります。田野浦公共臨港鉄道の貨物列車が2004(平成16)年まで通っていましたが、翌年営業休止になりました。現在は、門司港レトロ観光トロッコ列車「潮風号」が運行しています。
   
踏切の先の左手に、駐車場のある広場があります。ノーフォーク広場といいます。1959(昭和34)年、旧門司市はアメリカ合衆国バージニア州の港町ノーフォーク市と姉妹都市の提携をしていました。北九州市が誕生してからもその関係は引き継がれ、友好関係を記念して1986(昭和61)年この広場は開かれました。  
   
ノーフォーク広場の建物の北側は観潮公園で、中央に北を指した錨があります。奥の海岸沿いの小道がめかり観潮遊歩道の入口です。
   
観潮公園の階段を昇ると、和布刈公園内を通る先程の道路に出ます。そこは三叉路です。右に行くとノーフォーク広場の入口に、左に行くと和布刈神社になります。真っ直ぐ山に上って行く道があります。和布刈公園内の丘陵地を巡る周回道路です。車両は一方通行になっています。  
   
周回路入口の左手の崖の上に明石与次兵衛塔があります。周回道路を少し上り、左手にある石段を昇って行くと塔があります。関門海峡の篠瀬(しのせ)で豊臣秀吉が乗った船が座礁します。この責任を取って船奉行の明石与次兵衛は切腹します。その後、小倉藩主になった細川忠興は、明石与次兵衛の死を悼み、また海の難所の示標として、この塔を建てました。海峡の改良工事や戦争のために塔は放置されていましたが、この場所に移されました。
   
和布刈公園の周回道路を上って行きます。高速道の高架の下で左右の分かれ道に出ますが、右側を上って行きます。左手に駐車場が広がっています。駐車場からの眺望です。左手前が門司港でその右に関門海峡が伸びています。
駐車場から一段上に遊歩道があり、その横にかってあった国民宿舎への道があります。この道の両側に桜が植えられています。この道と駐車場の奥がつながっています。道から標高175mの古城山(こじょうさん)の眺めです。古城山に登ります。周回道路を横切った先に登山道はあります。  
   
明治以来、関門海峡を挟んだ下関・門司の一帯は要塞地帯でした。そのため、戦前までこの和布刈公園一帯も一般人は立入禁止でした。山頂付近には、軍事遺構が残っています。海岸に和布刈砲台が、この古城山に古城山砲台がありました。
山頂下に弾薬庫跡があり、その入口です。左に盛土状に連なっていて、手前から左に入って行く道があり、奥で向こう側に回り込んで、入口の向こう側に戻って来ます。
   
山頂の軍事遺構です。砲台跡とも監視所跡ともいわれます。  
   
山頂には門司城跡の石碑が立っています。下総親房(しもふさちかふさ)が門司関に下向して来て、居城とします。下総氏はのち門司氏と称しました。
   
山頂にある宮柊ニ(みやしゅうじ、1912-86)の歌碑です。歌集「山西省」からの二首です。応召されて1939~43(昭和14~18)年まで華北・山西省(現・河北省)で転戦し、戦地で読んだ歌集です。
波の間に降り込む雪の色呑みて玄海の灘今宵荒れたり
まどろめば胸どに熱く迫り来て面影二つ父母よさらば

中国大陸へは門司港から多くの兵士達が船出しました。
 
   
古城山を眺めた道の反対側へ進むと、かって国民宿舎めかり山荘がありました。1963(昭和38)年国民宿舎めかり山荘はオープンしました。永年幾多の人々が来館し宿泊しましたが、2012(平成24)年3月いっぱいで閉館しました。その後解体されて建物は残っていません。
   
国民宿舎めかり山荘跡地の右手を通って、坂道を下って行きますとパゴダ(仏舎利塔及び寺院)が現れます。1957(昭和32)年、ビルマ(1989年までの名称で、現在はミャンマー)仏教会と旧門司市の合意で、戦没者の供養と世界平和を祈念して建築されました。この世界平和パゴダは、運営資金の不足と僧侶がいなくなったため、2011(平成23)年12月以来休館になっていました。2012(平成24)年8月ミャンマー仏教会から2人の僧侶をお迎いして再開されました。  
   
パゴダの正面です。
   
パゴダの内部です。かっては前の大戦のビルマ戦線の戦友会や戦死者の遺族のお参りが多かったようですが、現在はその方々も高齢化しました。  
   
駐車場から周回道路に戻ります。周回道路は下り坂になります。下りて来た所に展望台があります。展望台の前に壁画「源平壇ノ浦合戦絵巻」があります。この壁画は有田焼の陶板を使って、対岸の壇ノ浦の赤間神宮の社宝の絵図を参考にして描かれています。右側に義経の八艘跳びや合戦の模様、左から二艘目に幼い安徳帝を抱いている清盛の妻で帝の祖母の二位の尼、左に母の建礼門院の入水の様子が描かれています。この部分は一部で、壁画はこの右、左方向に更に描かれています。
周回道路は壁画の前で大きく右にカーブします。その曲がり角は駐車場になり、その先は展望デッキになっています。
展望台からは、南の左手に門司港が、そして関門海峡が一望できます。現在、門司港は北九州第一の観光地になっています。
門司港については、「北九州のみどころ」の「門司港レトロ」をご覧ください。
関門海峡の先に巌流島が見えます。背後の彦島と重なって見えます。その背後の山は、S字にカーブする関門海峡を隔てた先に見える八幡東区の皿倉山です。宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した1612(慶長17)年より、現在の巌流島の面積は6倍程大きくなっています。
巌流島の詳細は、「北九州の近隣」の「下関」をご覧ください。
   
展望台から北西側に、関門海峡に架かる高速道の関門橋がよく見えます。関門自動車道の左手にめかりパーキングエリアが見えます。
周回道路を下りて行きます。関門橋の橋台の前が駐車場になっています。左手に入って行きますと階段があります。その階段を昇って行きますと、高速道のめかりパーキングエリアに出ます。  
   
関門自動車道のめかりパーキングエリアです。
   
めかりパーキングエリアから下関市街地の眺めです。
平たい屋根は水族館の海響館で、その前の波止場が唐戸で、その右側に唐戸市場があります。左の塔は海峡ゆめタワーです。
下関については、「北九州の近隣」の「下関」をご覧ください。
 
   
周回道路を下りて来た所の東側に駐車場があり、その東側に和布刈海水プールがあります。7・8月に営業しています。50mプール、25mプール、幼児用プールがあり、塩水を使っています。
   
和布刈海水プールの道路側が公園になっていて、その東側に電気機関車と客車が展示されています。1961(昭和36)年鹿児島本線の門司港・久留米間、山陽本線の小郡・下関間が電化されました。前者が交流、後者が直流の電化でした。そこで両区間を結ぶ関門トンネル専用の交直両用の電気機関車EF30型が開発されました。展示されているのは、試作車で1号機のEF301です。客車は当時使われていたオアフ33488です。  
   
客車は観光トロッコ列車の運行日、休憩所「かんもん号」として利用されています。その内部です。
   
電気機関車と客車の東側に門司港レトロ観光トロッコ列車の関門海峡めかり駅があります。観光トロッコ列車潮風号は始発の九州鉄道記念館駅を出て、終点のこの駅で折り返し運転をします。3月中旬~11月下旬の土・日・祝日、ゴールデンウィーク期間、春・夏休み期間の毎日が年間運行予定になっています。
北九州銀行レトロライン門司港レトロ観光トロッコ列車潮風号の公式サイトは下記の通りです。
 http://www.retro-line.net/
 
   
観光トロッコ列車潮風号が和布刈トンネルを出て、関門海峡めかり駅の手前に姿を現しました。機関車2両、トロッコ客車2両の編成です。ディーゼル機関車DB10形が前後に連結されています。2006(平成18)年まで南阿蘇鉄道で運行されていました。
   
関門海峡めかり駅の先は利用されていませんが、線路が残っています。田野浦埠頭まで続き、途中支線が分かれていました。和布刈公園の外ですが、海岸沿いの道路を東に進みます。踏切を過ぎると、新しい住宅地に入って行きます。その手前を左に入って行くと、塀の向こうの木立の中に1994(平成6)年に閉鎖された農林省米穀倉庫の事務所棟が見えます。塀沿いに左に行くと、線路の先にかっての農林省米穀倉庫10棟が見えます。  
   
先程の道路に戻り先に進みますと、県道72号黒川・白野江・東本町線の大久保2丁目交差点に出ますので、左折して県道を進みますと、田野浦埠頭前交差点に出ます。変則の交差点で、Uターンする様に鋭角に左折して踏切跡を過ぎると、先程の農林省米穀倉庫の埠頭側に出ます。農林省米穀倉庫は1994(平成6)年に閉鎖されました。田野浦公共臨港鉄道の貨物列車は2004(平成16)年まで運行されていましたが、翌2005(平成17)年営業休止になりました。
   
周回道路を下りて来た所まで戻ります。周回道路を挟んだ駐車場の反対側の高台に、唐人墓といわれるフランス水兵戦死者の慰霊碑が立っています。1863(文久3)年長州藩は攘夷戦を開始し、関門海峡を航行する外国船を砲撃しました。翌1864(元治元)年のイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国艦隊17隻はこれに対して、下関を砲撃しました。その際四国艦隊にも戦死者が出ました。そのうちのフランス水兵の慰霊碑です。1895(明治28)年にフランス人宣教師によって建てられました。  
   
周回道路を下って来た所から関門海峡の東口を眺めますと、下関寄りに二つの小島が見えます。満珠と干珠です。
満珠(右)・干珠(左)は神功皇后が海中から得た玉を納めた島と伝えられています。この二島は下関市長府の忌宮神社の飛地境内です。
満珠・干珠については、「北九州の近隣」の「長府」をご覧ください。
   
海岸を右、西方向に視線を移しますと、海岸は狭くなり流れが激しくなります。対岸に火の山が見えます。火の山一帯は公園になっていて、標高268mの山頂まで車で上ることができます。和布刈公園と同様に、火の山公園からも関門海峡を展望することができます。かっては要塞地帯でしたので、山頂に軍事遺構が残されています。  
   
和布刈公園の北端に門司埼灯台が立っています。この辺りから関門橋にかけては潮流の激しい所です。関門海峡の中でも潮の流れが速く、早鞆瀬戸(はやとものせと)と呼ばれます。潮の干満の都度潮流の方向が変わり、時間を追って早さが変ります。流れの早い時は、川の流れのように流れます。
   
向こうの下関側の関門橋付近を壇ノ浦と呼びます。橋から右に見える最初の建物は、関門トンネルの人道入口の下関側です。国道海底トンネルの関門トンネルは、関門海峡早鞆瀬戸の海底の下を横断しています。  
   
門司側の関門橋付近に、関門トンネルの門司側の人道入口があります。ここからエレベーターで海面下約51m下ります。人道の通行は歩行者は無料です。自転車も通れます。
   
関門トンネルは上が車道、下が人道の構造になっています。関門トンネルは3,461mあり、そのうち人道は780mです。  
   
関門トンネルの人道の途中が山口県と福岡県の県境になります。
   
下関側の人道入口の前は国道9号線で御裳(みもすそ)川河口になっていて、一帯は御裳川公園になっています。国道9号線の前に、2005(平成17)年の大河ドラマ「義経」を記念して源義経の八艘飛びと平知盛の碇潜(いかりかずき)の像が建てられています。源平の壇ノ浦の戦いでの二人の姿を現しています。知盛は海中に身を投じました。  
   
この先が壇ノ浦で、壇ノ浦の戦いで安徳帝を抱いて入水された清盛の妻で、帝の祖母の二位の尼の辞世があります。
今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは
現在の御裳川は、国道と公園の下の暗渠になっています。
   
下関側から早鞆瀬戸を隔てた門司側の眺めです。手前が壇ノ浦で、向こう関門橋の下に和布刈神社があり、その左側に関門トンネルの門司側の人道入口があります。山は古城山です。  
   
 義経・知盛の像の横のあずまやに青銅砲が置かれています。四国艦隊による下関砲撃で全ての砲台が破壊され、長州藩の青銅砲は戦利品として外国に持ち去られました。1966(昭和41)年、渡欧中の下関在住の作家古川薫氏が長州藩の青銅砲をパリ・アンヴァリッド軍事博物館で発見しました。その後1984(昭和59)年貸与で里帰りしました。下関東ロータリークラブ記念事業で、それを原寸大で精密に模造して下関市に寄贈しました。
   
海峡に向いた大砲が並んでいます。ここには壇ノ浦砲台がありました。長州藩で鋳造された当時の青銅製のカノン砲を、FRPで原寸大に復元しています。  
   
門司側に戻ります。関門トンネルの人道入口から海岸沿いの道を関門橋の方に向かいます。関門橋の下に和布刈神社はあります。和布刈神社の境内は、海が迫った場所なので、広くはありません。しかし、非常に古い神社で、時の領主の崇拝を受けてきました。社殿は更に海が迫った場所に建っています。
   
社殿の前に鳥居があって、その先に海に出る石段があり、その先の海中に灯籠が立っています。灯籠の横で和布刈神事は行われます。和布刈神事は旧暦の大晦日の深夜から正月の早朝にかけて行われます。この神事で刈り採られたわかめを朝廷に献上したことが、奈良時代の記録に残されています。
和布刈神事については、「北九州の催事」の「和布刈神事」をご覧ください。
 


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