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木屋瀬宿     八幡西区  [2016/11/12]
 

江戸時代、長崎街道は脇街道のひとつで、豊前小倉と唯一外国に門戸を開いていた肥前長崎を結ぶ主要道でした。多くの人が長崎街道を通り、多くの物が街道を通って運ばれました。歴史上の有名人が通り、白象も通って将軍吉宗に献上されたといわれています。豊前小倉の常盤橋を出立し、小倉藩から福岡藩に入り、筑前黒崎宿に着きます。黒崎宿の次が木屋瀬(こやのせ)宿です。現在の木屋瀬は、宿場町の町並が良く保存されています。

時代を更にさかのぼって鎌倉時代初め、筑後の善導寺をはじめ、多くの浄土宗の寺を創建した鎮西上人(聖光房弁長)は、穂波郡の明星寺(現在飯塚市)を再興しました。その際、水運に便利なこの付近に木屋をかけて、寄付された木材を保管したのが、木屋瀬の由来であると伝えられていますが、それ以前から木屋の地名は記録されています。

室町時代、木屋瀬は遠賀川の水運上の拠点として、北九州の有力豪族の麻生氏の所領であったことが記録されています。応仁の乱後、連歌師の宗祇は大内政弘から山口に招かれます。大内氏は、麻生氏を含めて在地領主がいる北部九州を支配していました。1480(文明12)年宗祇は大宰府を訪れる途中、木屋瀬にあった筑前守護代陶(すえ、大内氏家臣)氏の館で、連歌の会を開いています。この筑紫紀行を宗祇は「筑紫道記(つくしのみちのき)」に著しています。

参勤交代が制度化される以前の1612(慶長17)年、冷水越えが開通し、峠を挟んだ内野と山家(やまえ)宿が開かれました。長崎街道の東から黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田(はるだ)は筑前六宿といい、福岡藩はその街道整備に力を入れていました。

1635(寛永12)年には参勤交代が制度化されました。豊前小倉を起点にした長崎街道は、25宿を経て肥前長崎に到ります。木屋瀬宿は、そのまま直方に南下する長崎街道と、遠賀川を渡って、博多・唐津に到る唐津街道の赤間宿への追分宿でもありました。また、米をはじめとした水運の遠賀川中流の中心地として、木屋瀬は発展しました。

木屋瀬から博多に出た伊藤小左衛門吉次は、米の売買や海外交易で財をなし、豪商末次家の娘を嫁にします。活動の拠点を貿易で栄えていた長崎に移し、福岡藩の資金を動かすほどになります。伊藤小左衛門吉次は、木屋瀬村の産土神、野面(のぶ)にある八所神社の正殿を造営しています。

幕府は鎖国政策を採ります。二代目の伊藤小左衛門吉直は、福岡藩の御用商人として国内の商売に力を入れ、巨万の富を手に入れていました。1667(寛文7)年10月、小左衛門長男甚十郎の婚礼の日、博多浜口町の屋敷に役人が踏み込み、小左衛門以下37人が処刑されました。その罪は密貿易でした。小左衛門は多くの人々に慕われていました。その死から50年後、近松門左衛門は「博多小女郎浪枕」を著しました。海賊の毛剃九衛門は小左衛門をモデルにしているといわれています。

長崎街道がシュガーロードと呼ばれるのは、出島に運ばれた砂糖が長崎街道を通って上方、江戸に運ばれたからです。それと同時に砂糖を大量に使う西洋菓子も伝えられ、長崎街道周辺では新しい菓子が作り出され、近代になっても菓子メーカーの創業者を輩出しています。

江戸時代は福岡藩領鞍手郡木屋瀬村でしたが、福岡藩の支藩、直方藩(東聖蓮寺藩)領の時期もありました。1889(明治22)年、木屋瀬・野面・笹田・金剛が合併して鞍手郡木屋瀬村となり、1898(明治31)年木屋瀬町になりました。1955(昭和30)年八幡市に編入されました。

江戸時代、遠賀川では川艜(かわひらた、五平太船)を使って、年貢米の輸送をはじめ、水運に利用されました。江戸中期から明治時代にかけては、石炭の輸送に利用されました。木屋瀬の下流の九州自動車道、山陽新幹線の先の右岸に、楠橋の寿命(じめ)唐戸があります。1804(文化元)年からは、石炭はここから堀川を下り、洞海湾を経て、若松港に運ばれました。

木屋瀬では、住民の活動で宿場や街道に関する資料館なども運営されてきました。その後、2001(平成13)年1月1日北九州市立長崎街道木屋瀬宿記念館がオープンしました。木屋瀬出身の放送作家伊馬春部は、生家を寄贈しました。その旧高崎家住宅は、江戸後期の宿場町の商家建築として常時一般公開されています。

伊馬春部(1908-1984)、本名高崎秀雄は、明治41年、鞍手郡木屋瀬町(現在の北九州市八幡西区木屋瀬)に、高崎家の長男として生まれました。国学院大学国文科を卒業し、新宿ムーランルージュの座付き作家となり、軽演劇の台本を多数書きました。戦後、NHKのラジオドラマ「向こう三軒両隣り」の台本を複数人で書き、その後、ラジオ・テレビドラマの台本を多数執筆しました。60歳で日本放送作家協会理事長に就任しますが、昭和59年、75歳で死去しました。
長崎街道の黒崎宿を西に出ると、街道は曲里の松並木を通り、現在の国道と重なったり、少し離れたりしながら国道200号線、そして引野口からは国道211号線を南下します。小嶺に到った後、国道211号線を離れて石坂の立場茶屋銀杏屋(たてばぢゃやいちょうや)に寄り、その先をここまで来ました。水路が流れています。水路は岡森用水路といいます。江戸時代、直方市下境岡森の遠賀川支流の彦山川に堰が築かれ、用水路によって下境・頓野から木屋瀬・楠橋の水田が灌漑されました。
   
岡森水路の横は木屋瀬宿東構口跡です。構口は方位に関係なく、上りが東、下りが西と呼びました。道の両側に石垣を築いた構口がありました。
黒崎宿は「八幡のまちかど」の「黒崎」を、黒崎と木屋瀬の間の街道は「八幡のまちかどの」の「曲里・石坂」をご覧ください。
 
   
木屋瀬宿東構口跡の反対側に江戸あかりの民芸館があります。裏にある菜の花診療所の佐藤伸一院長の所蔵品が展示されています。
   
江戸あかりの民芸館の1階は無料ですが、2階は有料の施設で係の人が詳しく説明してくれます。歴史や時代小説に興味がある方にはお勧めします。これは2階の様子です。  
   
街道筋を進むと左手に道はカーブします。その曲がり角に井上家があります。1993(平成5)年より、11月の第1日曜に、筑前木屋瀬宿場まつりが催されています。宿場まつりの当日、宿場内の旧家数軒の内部が公開される町並み資料館になります。井上家住宅は約150年前の江戸後期の町屋です。
   
昭和初期まで質屋を営んでいたということで、井上家の座敷には質屋の帳簿や主人の趣味の浄瑠璃の台本や衣装なども飾られていました。  
   
左にカーブする所の右手に、木屋瀬3丁目広場があります。その横の小径を右に入って行きます。その先を進んで行くと道は広くなります。真っ直ぐ行った先に石段があります。そこを昇って行くと扇天満宮があります。
室町時代応仁の乱後、大内政弘を頼って京から下った連歌師宗祇が、1480(文明12)年の筑紫紀行の際、木屋瀬に泊まりました。その夜、天神と名乗る男から扇をもらう夢を見ました。その後、大宰府で実際に扇をもらったことから、扇天満宮の名が付けられたといわれています。宗祇はこの時紀行文「筑紫道記(つくしのみちのき)」を著しています。
   
扇天満宮の祠の右手に伊藤常足(つねたり)の石碑が立っています。1852(嘉永5)年、扇天満宮の由緒を記した伊藤常足の石碑が建てられました。伊藤常足は地誌「太宰管内志(ださいかんだいし)」を著した国学者で、遠賀川の西側の鞍手郡鞍手町古門(ふるもん)の古物(ふるもの)神社の横に旧居があります。
伊藤常足については、「北九州の近隣」の「中間市・鞍手町」をご覧ください。
 
   
扇天満宮の横を、遠賀川沿いの県道73号直方・水巻線が通っています。県道の横に鳥居が立っていて、その南側の県道上に二本の大銀杏が立っています。大銀杏は扇天満宮の神木です。扇天満宮は、1917(大正6)年土手改修の際、少し北の土手の外に移されました。土手に残された神木は、県道の中央に立っています。それが左端に見えます。

遠賀川の東側の北九州市八幡西区木屋瀬と、西側の直方市植木の間に中島橋が架かっています。中島橋の下流で、向こうの犬鳴(いぬなき)川がこちらの遠賀川に合流します。かって、犬鳴川と遠賀川の間に島があったので、中島の名が付いたといわれています。中島橋を県道280号植木・上上津役線が通っています。中島橋から県道を600mほど西に行くと、JR筑豊本線のの筑前植木駅があります。かっては、筑豊の石炭を運ぶ大動脈の筑豊本線でしたが、福岡・筑豊・北九州を結ぶ旅客中心の鉄道になっていて、福北ゆたか線とも呼ばれます。鹿児島本線の熊本県に植木駅がありますので、こちらは国名の筑前が付けられています。
扇天満宮から木屋瀬3丁目広場に戻る途中に、カーブミラーが立った、人が一人通る位の道が右手にあります。右に入って行きますと曹洞宗永源寺の山門の前に出ます。
   
永源寺の本尊の聖観音像は、鎌倉時代の作で、樟(くす)の一木造です。境内に右のクスノキの大木と、左にはイチョウの大木があります。その間に裏門が見えます。  
   
裏門を見に、山門を出て小径を塀沿いに廻って行きます。永源寺裏門は、木屋瀬宿本陣の門が移築されています。明治になって本陣が廃止された時、この寺の正門に移築され、大正期にここに移されたとのことです。ここから県道上の二本の大銀杏を真近に見ることができます。
   
永源寺から街道筋に出て、右折して南に進みます。その先で街道筋から左に入ります。左手に浄土真宗の西元(さいがん)寺の門があります。  
   
2013(平成25)年11月西元寺本堂の落慶法要がありました。
   
西元寺の先の右手に須賀神社があります。須賀神社の祇園祭は7月に行われます。  
   
須賀神社の神殿・拝殿は1925(大正14)年に改築されました。室町時代に祇園社が勧請されましたが、乱世で荒廃していたのを、江戸時代の1625(寛永2)年木屋瀬の豪商伊藤宗伯が再建しました。明治以前は祇園神社でしたが、以降は須賀神社と改称されています。
   
須賀神社の向かいに祇園山笠会館があります。昔の祇園祭の山笠は、高い岩山に人形を飾り、その高さは9mを超すほどでした。電線の架設により、現在は4m程度の人形飾山になっています。  
   
街道筋に戻り、左折して南に向かいます。左側にレンガ塀があります。そこが郡屋(郡家、ぐんや)跡です。郡内の村役人と福岡藩の役人の集会所で、大名などの通行の割当、年貢の調整、普請の打ち合せが行われました。
   
その先に高野家があります。木屋瀬に移り住んだのは明治末以降といわれています。家業は表具屋でした。ここも宿場まつりの日だけ、町並み資料館として屋内が公開されます。  
   
高野家の内部です。当主は永源寺の世話人を長くつとめました。その折に懇意にした禅僧から仏画や達磨絵を譲り受けました。仕事上多くの絵師や有力者とも付き合い、多くの書画骨董が残されています。
   
この先が木屋瀬宿の中心地です。街道は「く」の字に曲がります。こちらからは左に曲がります。本来、宿場の家並はのこぎり型になっていました。現在は、通り沿いに注意してみると、所々に残っています。「く」の字に曲がった通りやこぎり型家並は、戦闘時の防御を考慮した町づくりになっていました。
手前右側には、藩主が宿泊する本陣に当たる御茶屋(おちゃや)がありました。その先のみちの郷土史料館には脇本陣に当たる町茶屋がありました。角を曲がった先のこやのせ座にも町茶屋がありました。左側の角には問屋場(といやば)がありました。
左側の角の問屋場跡です。問屋場は人馬継や飛脚・荷物を扱う場所でした。
   
みちの郷土史料館は宿場の史料を展示しています。有料施設で、月曜が休館日になっていて、一般の料金が200円です。木屋瀬宿を巡るにもここを観覧することをお勧めします。ここと次のこやのせ座を合わせて、市立長崎街道木屋瀬宿記念館になります。
芝居小屋を模したイベントホールのこやのせ座です。かってこの地にあった芝居小屋大正座を模しています。
木屋瀬宿場踊りは8月13~15日のお盆の間に踊られますが、宿場まつりでも長崎街道木屋瀬宿記念館前で踊られます。木屋瀬宿場踊りは、享保年間(1716-36)に伊勢参りをしたお土産に伊勢音頭を伝え、これに大名行列の奴の仕草などが加わってできた踊りです。手甲脚絆に男は三度笠、女は妻折笠の道中姿で踊ります。  
   
木屋瀬宿記念館前から振り返った宿場まつり当日の人出です。宿場まつりには木屋瀬宿に近い長崎街道筋や遠賀川流域、その他の近郷近在に伝えられている盆踊りが一堂に会します。その会場になる郡屋跡の前になる医院の前まで戻ります。
   
直方の日若踊りは県指定無形民俗文化財で、遠賀川の上流の直方市の日若宮、現在の多賀神社に伝わる日若舞に、直方藩士と大坂の役者が持ち込んだものとが融合した踊りです。現在は盆の時期に踊られます。  
   
中間の下大隈里踊りは、遠賀川の下流、中間市の西岸の下大隈に伝わる盆踊りです。江戸時代末期に流行した芦屋歌舞伎の流れをくむものです。
   
植木の三申踊りは県指定無形民俗文化財で、木屋瀬の遠賀川対岸の直方市植木に伝わる踊りです。平安時代空也上人が始めたという念仏踊りの流れをくむ地方歌舞伎がありました。彼ら植木役者が全国を巡業し、帰国して正月の申(さる)の日に、日吉神社に踊りは奉納されました。しかしその植木歌舞伎も明治時代に絶えました。植木三申踊は、現在は4月の日吉神社の春祭りに奉納されます。また8月の盆踊りとして踊られています。  
   
芦屋のはねそは県指定無形民俗文化財で、遠賀川河口の芦屋町に伝わる盆踊りです。1782(天明2)年歌舞伎役者尾上三十郎から伝授されたものです。はねそは跳ね裾が転じたもので、本来飛び跳ねていた舞が、尾上三十郎の振り付けにより優雅な舞になったと思われます。
   
鐘崎の盆踊りは県指定無形民俗文化財で、玄界灘に面した宗像市鐘崎に伝わる盆踊りです。鐘崎は鐘崎海人の発祥の地です。海を通じて各地のものが採り入れられています。口説き(同じ旋律で繰り返し歌うもの)は佐渡、太鼓は輪島、踊りは南方からのものといわれています。  
   
神湊の盆踊りは宗像市無形民俗文化財で、玄界灘に面した宗像市神湊に伝わる盆踊りです。神湊は海上交通の要衝で、多くの船が出入りしました。江戸時代、江州商人(近江商人)が村の若者に京の手踊りを教えたのが神湊の盆踊りの始まりといわれています。
   
江戸時代から明治にかけて盛んだった地方歌舞伎の芦屋歌舞伎・植木歌舞伎の影響を受けた盆踊りが残されていますが、八幡西区の野面(のぶ)の盆踊りもその一つです。遠賀川流域系の盆踊りに共通するように、技巧的で、洗練されています。野面の盆踊りは中間の盆踊りを習得したといわれていますが、踊りの合間に「ほめ言葉、返し言葉」が入るのは中間の盆踊りと同じです。  
   
みちの郷土史料館の前で、右手にこやのせ座があり、左手は問屋場跡です。街道筋を南に、西構口跡に向かいます。
   
左に入って行く道があります。左折して進むと、浄土宗の長徳寺の門前に着きます。長徳寺はかっては天台宗で、鎮西上人が度々訪れました。1235(嘉禎元)年、上人開基の浄土宗寺院となりました。鎮西上人(聖光房弁長、1162-1238)は、平安時代末期、筑前国遠賀郡香月の領主香月氏の一族として生まれました。鎮西上人は法然上人の教えを継ぐ浄土宗の第二祖と呼ばれます。
鎮西上人については、「北九州の催事」の「吉祥寺藤まつり」をご覧ください。
 
   
長徳寺の本堂です。長徳寺には、江戸時代に悲劇の豪商と呼ばれた伊藤小左衛門の本家筋に当たる、木屋瀬の豪商伊藤宗伯らの墓があります。
   
街道筋に戻り南に進みます。県道280号植木・上上津役線に出ます。右に行くと中島橋になります。街道は県道を横切って南に進みます。県道を渡り、すぐに左に入る小径がありますので、左折します。次の角が代官所跡になります。代官以下3~5人が常駐し、年貢の取立てなどを行っていました。  
   
街道筋に戻ります。少し南に行くと、右側に船庄屋跡(梅本家)があります。江戸時代、木屋瀬は年貢米の集積場で、その輸送は、権利を持った川艜に限られていました。それらを束ねるのが船庄屋でした。ここも宿場まつりの日だけ、町並み資料館として屋内が公開されます。この建物は、江戸時代末期建築されました。梅本家は江戸時代は酒造業を、明治になると、醤油の醸造業を営んでいました。
   
梅本家の内部です。土間が奥に長く続き、その横に表の間・中の間・奥の間と続きます。典型的な商家の造りになっています。土間のここは、吹き抜けになっています。この他に、中の間から突き出た形の角(つの)座敷があります。  
   
梅本家のすぐ先の右側に、愛宕山護国院があります。室町時代、香月の聖福寺の末寺として建立されました。ここに奉納されていた「板絵著色木屋瀬宿図絵馬」は、市の有形民俗文化財に指定され、いのちのたび博物館に保存されています。
その絵馬には、江戸末期から明治期の木屋瀬の絵師、麻生東谷(あそうとうこく)が、明治初期の木屋瀬宿の様子を描いています。
   
護国院の先に駐車場があります。伊馬春部(いまはるべ)生家駐車場です。その横が旧高崎家(伊馬春部の生家)です。
旧高崎家の2階の梁に墨書銘があり、建築時期は1835(天保6)年と考えられます。高崎家は櫨(はぜ)の実から蝋(ろう)を絞る絞蝋(こうろう)業を、明治に入ってからは醤油醸造業を営んでいました。この建物は1998(平成10)年3月修復工事を終えて、江戸後期の宿場町の商家建築として、また、伊馬春部の資料も併せて、常時一般公開されています。
右端の道路に面した戸は、右は閉められていて、中と左は一部か開けられています。これは、摺り上げ戸(すりあげと)といい、溝に沿って上げられ、昼間は上に吊るします。左側の出入口の戸は通常は吊り上げられています。これは大戸口(おおとぐち)といい、夜間は戸を閉めて、大戸に設けられているくぐり戸から出入りしていました。
 
   
旧高崎家住宅の土間の奥が吹き抜けになっています。その吹き抜け部分に明り取りの工夫がされています。木屋瀬に残されている商家は二階家になっていて、土間は吹き抜けになっています。2階は大半が物置になっています。遠賀川は、昔は氾濫することが珍しくありませんでした。その時は、1階の荷物・家財道具を、滑車を使って土間から2階に引き上げたといわれています。現在は吹き抜けの階上部分は壁になっていますが、当時は開口していたといわれています。
   
旧高崎家の先の右手に、村庄屋跡(松尾家)があります。松尾家は安政年間、木屋瀬村全体を統括する村庄屋を勤めました。この建物は、江戸時代末期建築されました。  
   
松尾家も宿場まつりの日だけ、町並み資料館として屋内が公開されます。天井に吊り上げ階段があります。江戸時代、街道筋側の2階は、表を通る行列を見下すことを禁じられていました。表側2階は主に物置に使い、使用する時だけ、階段が下ろされました。
   
先に進むと、道の両側に石が積み重ねられています。木屋瀬宿西構口跡です。ここと東構口の間約900mが木屋瀬宿になります。構口は石垣に練塀が築かれていました。  
   
西構口の前に小径が交差しています。その角に追分道標があります。右赤間道、左飯塚道と刻まれています。この先、長崎街道は遠賀川沿いに南下し、現在の直方市の日の出橋付近で遠賀川を渡り、次の飯塚宿に向かいました。赤間には右に行き、この先の土手から遠賀川を船で渡って唐津街道赤間宿に向かいました。赤間から博多・唐津に通じていました。木屋瀬宿は長崎街道と唐津街道への追分宿です。この道標はレプリカで、実物はみちの郷土史料館にあります。
   
西構口から遠賀川に向かいます。木立の間を通ると、右手に興玉(おきたま)神社があります。
祭神の猿田彦命は日向高千穂峰降臨の際の道案内であり、古来より街道や村境を守り、福を招く鞘の神、塞の神、幸の神、庚申興玉神として崇敬されています。
 
   
土手の県道73号直方・水巻線を越えると、遠賀川です。すぐ先に渡し場があり、そこを舟で渡り、中島を通って、犬鳴川を渡ると、植木になりました。赤間宿は山の向うになります。


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