北九州のみどころ

ホーム

 

東田    八幡東区  [2014/11/22] 


1901(明治34)年11月18日、遠賀郡八幡町に建設された八幡製鐵所で盛大な作業開始式が行われました。溶鉱炉(高炉)や工場が建設されたのが東田ですが、現在はテーマパークや博物館、ショッピングセンターがある新しい街に生まれ変わっています。

石炭と鉄は明治の近代産業発展の両輪でした。議会が官営製鉄所設立を建議し、1895(明治28)年製鉄事業調査会を設置しました。製鉄事業調査会は東京横浜・大阪神戸・尾道三原・広島呉・門司馬関を候補に挙げ、門司馬関の関門海峡を第一候補としました。全国から誘致運動が起こりました。1896(明治29)年春若松の安川敬一郎宅に、平岡浩太郎・長谷川芳之助・芳賀與八郎若松町長・芳賀種義(與八郎の息子)八幡村長が集まり、八幡への誘致運動を始めました。枝光海岸を敷地とし、大蔵川(板櫃川上流)を用水としました。

1896(明治29)年4月金子堅太郎製鉄事業調査会委員長が視察し、5月には八幡村は10万坪の土地提供を決めました。6月山内提雲初代製鐵所長官と大島道太郎技監が現地視察しました。8月大島技監は建設地決定のため来訪し、枝光・板櫃・大里を精密に調査しました。洞海湾の水深が浅いということで、山内・大島は大里を第一に考えていました。この年春若松築港会社社長に就いた安川敬一郎は、築港拡張工事を決め、三菱の同意を得て、金子堅太郎・渋沢栄一・和田維四郎を通して山内・大島を説得しました。誘致運動と政治工作が功を奏し、10月八幡に内定しました。

1896(明治29)年11月製鐵所の用地買収が始まりました。当初枝光の10万坪でしたが、大島技監の実地調査で尾倉海岸を増地し、20万坪が必要となりました。この時尾倉の村民は元照寺(現在八幡東区尾倉)に「村長を殺せ」と槍を持って立て籠もりましたが、芳賀種義八幡村長がなんとか説得しました。敷地の一部は無償の献納であったり、買い上げ価格が時価の半額であったり、買収費は低廉に抑えられました。

この買収地のほか作業開始までに官舎用地として、神田・大蔵・槻田・前田・門田(かどた)・鬼ヶ原(おにがわら)の用地を買収しました。貯水池として大蔵・大谷を追加し、開業時の用地面積は26万坪近くにのぼりました。構内の正門近くの小高い丘の高見高等官舎や南門近くの判任官(高等官の下の役人、天皇の委任を受けた行政庁の長が任命)官舎、門田の官舎、鬼ヶ原のお雇い外国人の異人官舎が建築されました。

1897(明治30)年に第2代製鐵所長官に就任した和田維四郎(つなしろう)は、同年10月欧米調査をした大島の見解を和田意見書として提出しました。その内容は、高炉建設を明確にし、近代的銑鋼一貫製鉄所とし、一般産業用普通鋼材の各種圧延工場を建設し、軍事用鋼材は第二期目標にしました。また製鐵所自身による原料確保を打ち出し、筑豊の高雄炭坑、新潟県の赤谷鉱山を買収し、中国の大冶鉄鉱との長期購入契約を結びました。

欧米調査により大島技監らは多品種少量生産を目指すべきで、それにはアメリカよりドイツの技術がふさわしいと判断しました。大島技監には導入技術、顧問技師の雇い入れ、溶鉱炉・機械の注文などの権限が委任されていました。ドイツ人の顧問技師や職工長が八幡に招かれました。1900(明治33)年ドイツ人設計の溶鉱炉(高炉)が東田に築かれ、翌1901(明治34)年2月5日ドイツ人技師の指揮の下に溶鉱炉の火入れが行われました。東田の地名は、大字尾倉のうちの豊山(とよやま)八幡神社の東にあった小字の東田からです。溶鉱炉に続き、平炉・転炉の製鋼、コークス炉、分塊、薄板・中形圧延・小形圧延・軌条の圧延工場が完成し、11月18日来賓800人を招いた盛大な作業開始式が行われました。製鐵所は、福岡県遠賀郡八幡町(前年に八幡村が八幡町になる)に位置し、官営製鉄所で、当時は単に製鐵所と呼ばれました。

高炉は火入れされたものの出銑状況は良くありませんでした。その状況は作業開始式を過ぎても同じで、出銑量は半分で、銑質は不良でした。和田長官は第2溶鉱炉を建設し、出銑量を確保しょうとしました。しかし補正予算の見込みがないため、長官の責任で建設に踏み切りました。1902(明治35)年2月和田維四郎は免官され、中村雄次郎陸軍中将が第3代製鐵所長官に就きました。7月高炉作業は中止され、大島道太郎技監らは退任し、創業時の幹部は更迭されました。製鐵所の創立案に関わった野呂景義は、釜石鉱山田中製鉄所でコークス高炉操業を成功させていましたので、就任した中村長官は高炉再建を野呂に託しました。

ドイツ人技師の雇用は大した成果もなく、創業時の作業はドイツ人職工長の協力の下に、日本人技術者の努力によって推進されました。約20人のドイツ人の技師や職工長は、1902~4(明治35~37)年の間に契約解除されました。野呂景義は高炉を改造し、コークス製造を改良し、1904(明治37)年7月製鐵所は生産を再開しました。日露戦争時には設備を拡充し、和田前長官が手掛けた東田第2高炉は1905(明治38)年2月から操業を開始し、軍事用鋼材も供給するようになりました。しかし鋼材自給率は20%に満たなかったため、自給率を高めるため第1期拡張工事が始まりました。1906~10(明治39~43)年の5ヶ年事業で、東田第3高炉が築かれ、各種工場が新設されたり、機械化が進められました。

1911~16(明治44~大正5)年第2期拡張工事が行われ、東田第4高炉が建設され、製鋼・圧延部門が増強されました。拡張後の生産量は2倍以上に増えました。第一次世界大戦は1914(大正3)7月に始まり、1918(大正7)年11月に終わりました。鉄鋼の需要が高騰し、戦前に国内で創業した民間鉄鋼企業は設備を拡張し、戦時中に多くの中小の製鉄会社が創業しました。戦後は、その反動で長年不況が続きました。多くの中小の製鉄会社は倒産し、比較的大きな民間鉄鋼は大正末期までに財閥の傘下に整理されました。

第一次世界大戦中の鋼材の輸入途絶により、第3期拡張計画が1917(大正6)年から始まり、6ヶ年の予定でしたが、大戦の影響で工事が遅れ、1929(昭和4)年までかかりました。この第3期拡張工事で東田第5・6高炉が建設されました。第1期拡張工事で用水を遠賀川に求めましたが、第3期拡張工事では養福寺・河内貯水池が建設されました。1917(大正6)年の鉄鋼景気の中で、鉄鋼一貫の戸畑の東洋製鉄が、渋沢栄一をはじめとする財界人によって設立されました。高炉は建設されましたが、その後の不況で経営を八幡製鐵所に委託しました。1930(昭和5)年八幡と戸畑を専用鉄道で結ぶ炭滓線(現在のくろがね線)が開通しました。同じく1917(大正6)年西八幡に艦船用厚板製造を目的に安川敬一郎は九州製鋼は設立し、工場は建設されましたが、設備は放置されました。1928(昭和3)年八幡製鐵所は賃借し、大形・厚板工場としました。現在の黒崎播磨の東隣部分です。

洞岡(くきおか)地区は、鉱滓の捨て場として1918(大正8)年頃から埋め立てが始められました。八幡地区に拡張余地はなく、新たな工場立地を洞岡に求めました。東田高炉群は海抜15mに建てられたのに対し、洞岡高炉群は海岸に建てられ、海に築く製鉄所の先駆けになり、大型高炉建設の先駆けにもなりました。洞岡第1高炉は1930(昭和5)年に火入れがあり、その後順次建設が続き、1938(昭和13)年に洞岡第4高炉が建設されました。

1929年10月24日、ニューヨークウォール街の株価暴落から世界大恐慌は始まりました。1923(大正12)年の関東大震災後日本の経済は慢性的不況が続き、1927(昭和2)年には金融恐慌を経験していました。デフレーションが進み、若い人達の就職難、賃金の不払い、労働争議激増、失業者の増加などが起こりました。特に深刻だったのは農業で、繭の価格は暴落しました。このような恐慌状態を昭和恐慌と呼びます。1931(昭和6)年4月重要産業統制法が公布され、大恐慌を契機に、産業合理化政策によりカルテル形成は進められました。特に重工業・化学工業において促進されました。

1933(昭和8)年2月、官民製鉄事業を整理統合し、合理化を図って我国の製鉄事業の基礎を固め、低廉で豊富な鉄鋼を供給するため、八幡製鐵所を民営とし、民間製鉄会社を参加させ、半官半民の製鉄会社を設立するとした日本製鐵株式会社法が議会に上程されました。1934(昭和9)年1月日本製鐵株式会社は創立されました。この結果それまで通称であった八幡製鐵所が正式名になりました。日本製鐵株式会社は日鉄と呼ばれました。前述の洞岡第3・4高炉は日鉄発足後に建設されました。また我国最初の連続式圧延工場(ストリップミル)の建設が戸畑で1936(昭和11)年に始められ、1940(昭和15)年に冷間圧延作業を、翌年には熱間圧延作業を始めましたが、その能力を発揮させるのは戦後になります。

1937(昭和12)年7月の盧溝橋に於ける日中の軍事衝突は、その後日中戦争に拡大していきます。1941(昭和16)年12月太平洋戦争が勃発します。1944(昭和19)年6月16日八幡製鐵所は空襲を受け、8月20日の2回目の空襲で最大の被害を受けました。3回目は1945(昭和20)年8月8日でした。その直後の8月15日終戦になりました。戦後の日本の生産や輸送は麻痺状態でした。1947(昭和22)年1月石炭と鉄鋼を最重要産業に指定し、石炭を増産して鉄鋼に配炭し、鉄鋼を増産して炭鉱に鋼材を供給し、その相互作用で増産の効果を加速させるという傾斜生産が採られました。

GHQ(連合国総司令部)は、日本の戦争遂行能力を排除し、経済の民主化のために、財閥の解体を命令し、独占禁止法と集中排除法を制定しました。日鉄は集中排除法の対象になり、1950(昭和25)年八幡製鐵と富士製鐵に分割されました。同年から1957(昭和32)年にかけて、第一次合理化工事が行われました。製鋼部門では平炉を増強し、新技術の転炉の工場を新設し、平炉・転炉の併存が行われますが、この後の製鋼工場はすべて転炉になっていきます。第1次合理の最重点は戸畑ストリップ工場の増強と西八幡に新厚板工場の新設でした。

昭和30年代になると耐久消費財の需要が増大し、鉄鋼の需要も増大します。引き続き第2次合理化計画が立案されました。第一次合理化計画が老朽設備の更新や近代化だったのに対し、銑鋼一貫設備の強化を目指しました。戸畑には広大な埋立造成地がありました。ここに一直線にレイアウトされた海に築く一貫製鉄所が建設されました。八幡地区でも合理化が進められました。

昭和36年になると我国は驚異的な経済発展があり、高度経済成長を果たします。鉄鋼各社は消費地に近い場所に、銑鋼一貫製鉄所の建設を立案します。八幡製鐵所は千葉県君津に一貫製鉄所を建設し、高炉に火入れしたのは1968(昭和43)年でした。この間第3次合理化工事が行われました。この時代の八幡製鐵所の最大の役割は光・堺・君津の新製鉄所への兵站基地としての役割でした。特に巨大製鉄所の君津に対しては全力を注入しました。

国内各地に新鋭製鉄所が建設され、産業構造の高度化により品質の高度化が要求され、八幡製鐵所の競争力の低下ははっきりしていました。1969(昭和44)年八幡製鐵所マスタープランは発表されました。その内容は鉄源部門を戸畑地区に集約し、八幡地区では高級鋼化を推進することでした。高度成長の中、鉄鋼業界は好不況での価格の変動が大きく、過当競争があり、協調もうまくいかず、業界の再編成を迎えました。1970(昭和45)年八幡製鐵と富士製鐵は合併し、新日本製鐵が発足しました。

1971(昭和46)年金・ドルの交換が停止されるニクソンショックがあり、1ドル360円であった円はこの後円高を更新していきます。生産設備の集積と石炭から石油へのエネルギー革命の進行で産業公害が発生し、人口の集中とモータリゼーションの進行で都市公害が発生しました。昭和40年代は状況が深刻になり、官民とも公害対策を迫られました。1972(昭和47)年東田高炉群はすべて休止になりました。1973(昭和48)年中東戦争をきっかけに原油の需給が逼迫し、石油価格が高騰するオイルショックに見舞われます。昭和50年代に入ると、洞岡高炉群も休止になります。

高炉や主力工場は戸畑地区に移転されました。遊休地になった東田を再開発するための調査が1987(昭和62)年から始められました。隣接する枝光には1922(大正11)年竣工した2代目八幡製鐵所本事務所が建っていました。1990(平成2)年戸畑区飛幡町に総合センターができるまで、事務管理業務が行われましたが、保存が難しく1991(平成3)年解体撤去されました。跡地は北九州八幡ロイヤルホテルになっています。1990(平成2)年4月テーマパークのスペースワールドが東田でオープンしました。1994(平成6)年東田土地整理組合が発足して、総合都市開発事業はスタートしました。

JRの鹿児島本線は、東田の外側を通っていました。現在は東田の中を通るルートとなり、1999(平成11)年7月東田の玄関口として、枝光駅と八幡駅の間にスペースワールド駅が開設されました。八幡製鐵所が創業して100年になるのを記念して、2001(平成13)年北九州博覧祭が東田で開催されました。翌年2002(平成14)年、その地で北九州市立自然史・歴史博物館いのちのたび博物館が開館しました。これは、市内に分散していた自然史博物館、歴史博物館を統合したものです。

スペースワールドは宇宙体験型テーマパークとして開園しました。開園後集客目標を達成することができず、3年目から絶叫マシンを中心に集客することに方針が変更されました。しかしそのことは巨額な設備投資を常に行うことが要求されました。景気の悪化や設備更新の遅れで集客低下や採算悪化に陥りました。経営主体の新日鐵は、スペースワールドの経営権を観光開発で知られる加森観光(本社札幌市)に譲渡することに決めました。累積損失は新日鐵が引き受けて清算しました。2005(平成17)年7月加森観光の完全子会社になりました。

環境配慮のまちづくりを進めるために産学官民協働で「八幡東田グリーンビレッジ構想」を取りまとめました。この構想が2003(平成15)年国の「環境共生まちづくり」を進めるためのモデルとなる提案に選定されました。2010(平成22)年、「次世代エネルギー・社会システム実証」を行う地域を国が公募し、全国4地域の一つに選定された北九州市が行う北九州スマートコミュニティ創造事業の実施地区が東田です。2012(平成24)年10月新日本製鐵と住友金属が合併して新日鐵住金となり、戸畑地区と八幡地区の新日鐵八幡製鐵所と住友金属小倉製鐵所は新日鐵住金八幡製鐵所になりました。東田には八幡製鐵所からコークス製造に伴い発生する水素と、天然ガスコージェネレーション(熱電併給)発電所から電力が提供されています。
白枠内が標高622mの皿倉山山頂からの東田の眺めです。東田の北側(中央の上)にある八幡製鐵所の工場を除いた東田の範囲を白線で示しています。東田西部の北側(左の上)が洞岡です。
JRスペースワールド駅は東田の玄関口です。駅の北側で北東から南西に伸びる道路と駅前を南東に伸びる道路が接続します。駅前から南東の伸びる道路は東田大通りです。左手にスペースワールドがあり、その先にイオン八幡東ショッピングセンターがあります。反対側の右手は、ミュージアムゾーンになっています。駅の反対側、北側には八幡製鐵所の条鋼工場があります。
   
スペースワールドのエントランスはスペースワールド駅から北東に行った道路沿いにあります。駐車場はエントランスの前に道路を隔ててがあります。
メインエントランスを入ると、インフォメーションがあったり、色々なショップがあるスペースバザールです。左手(東側)から園内を巡ります。
アトラクション、ショー、パレードや様々なインフォメーション等、詳細は下記のスペースワールドの公式サイトをご覧ください。
   http://www.spaceworld.co.jp/
 
   
スペースバザールから左手に行き、時計回りに巡ります。エイリアンパニックエボリューションは恐怖と不思議の館で、宇宙版の幽霊屋敷とでもいえます。
隣のイメージマジックです。誕生月のゲストを祝うゲストバースデイパーティのショーや「さがしにいけるアイドル」の「すぺわの」のショーがあります。
   
イメージマジックと次のギャラクシーシアターの建物の間を入って行くと、ザターンがあります。ザターンは130kmの最高時速、最大傾斜角度89°、最頂部65mの絶叫マシンです。  
   
ギャラクシーシアターは巨大スクリーンの映画館です。21.5×28.3mのスクリーンで、宇宙、自然やアニメの映像を見ることができます。
北東部には夏季限定のプールエリアがあります。
   
東側にはトレジャースターの山があり、その向こうにタイタンVがあります。タイタンVは高さ60mから急降下の1,530mのひねりとアップダウンのある絶叫マシンです。  
   
トレジャースターの山から手前に下りて来るウォーターアトラクションが2種類あります。ツインマーキュリーという子供向きのファンファンクルーズと、こちらはスリルのあるアドベンチャークルーズです。
   
東側から南に向かいます。スペースドームがあります。この建物の中に数種類のアトラクションが入っています。スリルのあるもの、キッズ向きのもの、ゲーム、アイススケートができるフリージングボートがあります。  
   
スペースドームの先にショーが見られるビッグバンプラザがあり、その前に広場を挟んだ南側に激流下りの惑星アクアと、この3D映像と体感シートで立体映像を楽しめる4Dヴィジョン ポップステラがあります。
   
南から西方向です。手前に大観覧車ビッグアイがあり、その先にスペースシャトルが見えます。スペースシャトルの手前に宇宙博物館があります。ロケット、カプセル、エンジン、宇宙服などの実物が展示され、それらや宇宙に関する映像、写真を見ることができます。  
   
正面にスペースシャトルディスカバリーの実物大モデルがあります。その前にヴィーナスGPのコースです。ヴィーナスGPは、ひねりがきいた複雑なコース設計になっています。ループがあるスリル満点の絶叫マシンです。
   
スペースシャトルから北東のエントランスに向かいますが、すぐ先のアストレスタです。ここに月の石はあります。アストレスタには、開園当初スペースキャンプがありました。スペースキャンプ財団のライセンスにより設置され、宇宙飛行士の訓練が体験できる施設でした。スペースワールドの経営権の譲渡に伴い、スペースキャンプは終了になりました。この建物の2階に、アポロ12号が持ち帰った月の石が展示されています。開園当初から展示され、宇宙博物館も継続展示されています。  
   
レストラン街を通り過ぎると、ビッグバンプラザがみえます。ここでスペースワールドのラッキーラビットやヴィッキーラビットなどのオリジナルキャラクターが出るショーを見ます。
ヴィッキーが主役のピンクのレビューショー「ヴィッキー・ザ・ライブ」
冬の夜のスペースワールドではイルミネーションショーが楽しめます。
   
2014年はワールドイルミネーションとしてベルギー、マレーシア、日本、フィリピン、フランス、アメリカの6か国をテーマにしたイルミネーションを見ることができます。  
   
スペースワールド駅から南東に伸びる東田大通りの右手に北九州市立自然史・歴史博物館いのちのたび博物館があります。通常いのちのたび博物館と呼びます。博物館の前に有料駐車場があります。
博物館の展示は地球の誕生から始まります。その先、建物中央の吹き抜け部分にある、中生代の恐竜の骨格標本はその大きさに圧倒されます。2階から見ています。手前はティラノサウルスの中で有名な「スー」のレプリカです。その後ろは最大の恐竜セイスモサウルスで、全長35mあります。
いのちのたび博物館の展示内容やイベント内容等は下の公式サイトをご覧ください。
   http://www.kmnh.jp/
ティラノサウルスの「スー」のレプリカです。ティラノサウルスは最大級の肉食恐竜で、「スー」はその中で最大級のもので、良い状態で発見されました。シカゴのフィールド博物館に展示されています。
   
手前が3本の角を持つトリケラトプス、後ろがのティラノサウルスです。  
   
約1万5000前の新生代更新生後期までアジアに生息したナウマン象です。日本でも多く化石が発見されます。
   
数千年前の更新生末期まで生息していたといわれるマンモスです。  
   
動物の剥製標本や昆虫の標本が数多く展示されています
北九州の自然が分かるように展示されています
北九州を中心にした歴史も有史以前から現代まで展示されています。古代の竪穴式住居が展示され、古代人の生活が視覚化されてます。
かって筑豊の石炭はこの船で北九州に運ばれ、北九州から積み出されました。この船は川艜(かわひらた)といいますが、五平太船とも呼ばれました。船底が浅く、広い荷を積むのに向いた川船です。鉄道にとって代られましたが、江戸時代から昭和の初め頃まで使われました。
   
博物館内にはちょっと懐かしい住まいがあります。これは、明治時代に建てられた小倉南区の農家の母屋の一部を復元しています。  
   
また昭和30年代の八幡製鐵所の木造平屋建ての社宅が再現されています。
   
スペースワールド駅から南東に伸びる道路が東田大通りです。東田2丁目交差点から東田3丁目南交差点の東田大通りの西沿いの土地が東田大通り公園です。当初は広大な広場でしたが、庭園に小径があったり、築山や林がある公園になっています。
東田大通り公園の中間に東田3丁目交差点があります。そこが複合商業施設イオンモール八幡東の入口です。(平成18)年11月にオープンしました。
東田3丁目交差点から西に行くと、いのちのたび博物館の裏の通りに環境ミュージアムがあります。
環境ミュージアムの展示内容やイベント内容等は下の公式サイトをご覧ください。
   http://eco-museum.com/
 
   
北九州市は一時期公害発生都市でしたが、これを克服した歴史が展示されています。
   
北九州市は環境先進都市になりました。環境ミュージアムは環境学習施設です。
環境ミュージアムの北西、博物館の西側に、2007(平成19)年4月北九州イノベーションギャラリーが開館しました。これは北九州の産業技術を保存継承し、技術革新の機会を生む場にしょうとするものです。
北九州イノベーションギャラリーの展示内容、利用方法、イベント内容等は下の公式サイトをご覧ください。
   http://www.kigs.jp/kigs/index.php
イノベーションギャラリーの北側は道路を隔てて東田第一高炉史跡広場になっています。イノベーションギャラリーから歩道橋が架かっています。
東田第一高炉は、1901(明治34)年に火入れされ、その後10回ほど改修されました。1962(昭和37)年現在の姿となり、1972(昭和47)年その役割を終えました。その後、ここは東田記念公園として見学できるようになり、残された東田第一高炉はその記念物となりました。東田の総合都市開発事業が始まり、1996(平成8)年東田第一高炉跡地は市の史跡に指定され、高炉は近代製鉄発祥のモニュメントとして整備されています。1901のプレートが架かっている所が高炉の部分になり、3つの白い円柱状のものは熱風炉で、右端は煙突です。
高炉の下まで来ました。1901(明治34)年の作業開始時には東田第一高炉1基でしたが、明治時代末までには2基が増設され、更に増設され、東田には6基の高炉が並びました。隣接する洞岡には4基の高炉が建造されました。しかし、戦後、八幡地区の東田・洞岡から高炉は消えました。高炉は戸畑地区だけになり、現在は1基が操業するのみになっています。
東田第一高炉の煙突の東側に測量原点があります。1929(昭和4)年、東西に並んだ東田高炉群の中心を結ぶ東西線と開業時の本事務所を通る南北線が交わった点を測量原点としました。1899(明治32)年竣工した赤レンガの初代本事務所は製鐵所構内に現存しています。1922(大正11)年に2代目本事務所が竣工し、新日鐵になった後、1990(平成2)年戸畑区飛幡町に総合センターができるまで事務管理業務が行われました。その後、解体撤去され、ホテルが建てられました。
 
   
東田第一高炉の2階に昇って来ました。高炉を取り巻くのは熱風炉からの熱風環状管です。その下から高炉の内部を見ることができます。
   
高炉内です。高炉には鉄鉱石などの原料と燃料のコークスが交互に入れられ、熱風炉からの1000℃~1200℃の熱風を吹きつけてコークスを燃やし、原料を溶かします。溶けた銑鉄を高炉から取り出します。高炉から流れ出た銑鉄は床につくられた溝を流れて行きます。作業員は耐火服を着て作業します。銑鉄と同時にできる副産物の鉱滓(スラグ)は、比重の差を利用して別の口から取り出されます。  
   
1階に降りて、高炉の建物から北側の外に出ます。
高炉から流れ出た銑鉄は鍋台車に載せられて、鉄道で混銑炉に運ばれました。後にトーピード・カーが使われるようになりました。しかし、八幡地区ではトーピード・カーが使われることはありませんでした。戸畑地区から運ばれた、機関車に連結されたトーピード・カーが展示されています。形が魚雷(トーピード)に似ているので、その名が付けられています。トーピード・カーでは、リン・イオウなどの不純物を取り除く熔銑予備処理が行われ、銑鉄を転炉に運びます。
外に転炉も展示されています。
転炉では、銑鉄にクズ鉄や生石灰を入れて、酸素を吹き込んで粘りのある強い鋼鉄をつくります。
   
スペースワールド駅の北側から北東に進み、スペースワールドのはずれの県道50号八幡・戸畑線との枝光交差点を左折して、洞海湾岸まで直進します。洞海湾に面したウォーターフロントは、1998(平成10)年10月東田親水緑地公園として整備されています。この辺一帯は洞海湾の八幡泊地で、対岸は八幡製鐵所の洞岡です。
ウォーターフロントには、1997(平成9)年7月オープンした日本中央競馬会の場外馬券発売所ウインズ八幡があります。  
   
ウインズ八幡の西には、千草ホテル経営のマリコレウエディングリゾート&レストランがあります。
   
スペースワールド駅まで戻り、JRと都市高速が通っている駅の西側に進みます。東田高炉広場入口交差点を右折します。東田の西側には多くの商業施設がオープンしています。大型ホームセンターのホームプラザナフコ八幡東店です。  
   
ナフコの前の道を西に進みますと、左手にディスカウントストアのミスターマックス八幡東店があり、右手は情報サービス産業が進出したメディアパークです。
   
メディアパークの先の交差点を通り過ぎて振り返っています。北側の左手にスーパーのトライアル八幡東田店あり、右手に釣具のポイント八幡本店があります。  
   
交差点を南に進みますと、ビジネスホテルのホテルAZ北九州八幡店があり、その先は都市高速沿いに左に曲がって行きます。その先の左に大型家電店のコジマ×ビックカメラ八幡店があります。その前の都市高速の下に通路があります。JR八幡駅への公共連絡路の入口です。都市高速と線路の下を通り、八幡駅の駅舎の東側に出ます。

You Tube でこのページの動画がご覧になれます
この先をクリックしてください → 
東田


トップへ

北九州のみどころへ

ホームへ