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紫川     小倉北区  [2012/11/03] 
 

紫川は、小倉南区の福智山山系に源を発し、ます渕ダムを経て、小倉南・北区を貫いて北流します。北九州の中心市街地を通って北九州港の浅野フェリー埠頭と新日鐵住金小倉製鐵所の埠頭がある海面に流れ込みます。
1988(昭和63)年、紫川は建設省の「マイリバー・マイタウン整備河川」に指定され、北九州市はシンボルリバーとしての整備事業を進めました。そのマイリバー・マイタウン整備事業は、洪水を防ぎ、水辺を生かしてまちづくりを行うというものでした。その整備事業のひとつに、下流に架かる橋の整備がありました。10の橋が架け替えられたり、新しく架けられました。紫川10橋として自然を統一テーマとして、橋それぞれがデザインされ、別名が付けられています。
JR小倉駅の北側の埠頭から、この10の橋を中心にした紫川下流の河畔の様子を、国道3号線が通る橋まで紹介します。
   
2012(平成24)年10月20・21日(土・日)、B-1グランプリin北九州が開かれました。その会場が紫川が流れ込む海に面したシーサイドと紫川沿いにあるリバーサイドでしたので、まずは、B-1グランプリin北九州の様子を紹介します。
シーサイド会場は、小倉駅の北口(新幹線口)の北、国道199号線北側にあさの汐風公園がありますが、そこがシーサイドA会場でした。全会場で全国から63団体が参加しました。
あさの汐風公園の東側に西日本総合展示場がありますが、そこの北側の駐車場がシーサイドB会場でした。開催時間は10~16時でした。
リバーサイド会場は、北九州市役所の南側を通る小文字通りの南側で、紫川の西側に広がる勝山公園でした。北九州市役所の南側の勝山公園がリバーサイドA会場でした。開催2日間の全会場の入場者は61万人でした。
市立中央図書館の南側の勝山公園がリバーサイドB会場でした。B-1グランプリは今回の開催で7回目です。B-1グランプリin北九州の1位に輝いたのは、リバーサイドB会場の八戸せんべい汁でした。
小倉駅北口(新幹線口)から北側にペデストリアンデッキが伸び、その両側に歩く歩道が設けられています。北側から小倉駅北口を望んでいます。ペデストリアンデッキの下には国道199号線が通り、小倉駅北口広場と国道を結ぶ道路が通っています。
現在の鹿児島本線は九州鉄道によって建設され、1891(明治24)年4月黒崎-門司間が開通しました。開業時の小倉駅は現在の西小倉駅の位置にありました。1958(昭和33)年、小倉駅は現在の位置に新築移転します。山陽新幹線は1975(昭和50)年博多まで開通し、小倉駅の北側が新幹線駅になりました。現在の駅舎は1998(平成10)年3月建設されました。この時、1985(昭和60)年より開業していました小倉南区の志井とを結ぶモノレールも小倉駅から発着するようになりました。
   
小倉駅の北の国道199号線北側にあさの汐風公園があります。2011(平成23)年9月に完成しました。ペデストリアンデッキの北端からのあさの汐風公園です。手前南から噴水、ステージ、芝生広場になっています。噴水は音楽と連動し、踊っているように見えます。その先のステージまでが一段高くなっています。他に、レンズ型風力発電や太陽光発電パネルが設置されて、公園内の電気に供されています。
あさの汐風公園の東側にはAIMビルと西日本総合展示場新館があります。手前が西日本総合展示場新館で、その奥東側が8階建てのAIMビルです。AIM(アジア太平洋インポートマート)は輸入促進地域プロジェクトの中核施設として1998(平成10)年4月に開業しました。
AIMビル、西日本総合展示場新館、西日本総合展示場新館の先の西日本総合展示場、AIMビルの東側の北九州国際会議場を含めてこの一帯はコンベンションゾーンになっています。
あさの汐風公園の西側には小倉記念病院が建設され、2010(平成22)年12月小倉北区貴船町より移転開院しました。
あさの汐風公園の芝生広場まで来ました。その東側には西日本総合展示場があります。新館に対し本館といえます。本館は展示面積が7,000㎡、新館は8,000㎡です。

この辺一帯は浅野です。その地名は浅野総一郎(1848-1930)に由来します。浅野総一郎は現在の富山県氷見市に生まれ、上京して商売に励み、コークスをセメント製造の燃料としてセメント会社に納めて巨万の富を得ました。セメントの将来に着目して官営深川セメント製造所を払い下げられました。これが浅野セメントの基礎になりました。浅野セメントは日本セメント、現在の太平洋セメントになります。この頃、渋沢栄一が浅野総一郎の後ろ盾になります。渋沢栄一は第一国立銀行や大阪紡績会社を創立した明治の実業家です。
 
 1896(明治29)年浅野総一郎は欧米視察に出掛け、我国の港湾開発の遅れを痛感します。
浅野総一郎は、港湾を近代化し、臨海工業地帯を国の援助を受けずに独力で建設することを計画します。この計画に安田善次郎が支援します。安田善次郎は安田銀行(戦後、富士銀行)を中心にした安田財閥の祖です。大正から昭和にかけて当時の東京市から横浜市の海岸部が埋立てられ、浅野造船所(のち日本鋼管と合併)など多くの会社を設立し、浅野財閥が形成されていきます。

浅野総一郎は、1893(明治26)年浅野セメント門司工場を現在の門司区風師1丁目に設立します。1918(大正7)年、許斐町(このみまち)の東京製綱小倉製鋼所を浅野総一郎は買収し、浅野小倉製鋼所が設立されます。浅野小倉製鋼所と小倉鉄道は小倉築港を出願し、1925(大正14)年事業が開始されます。現在の鹿児島本線の北側は海岸でした。砂津川の河口を中心に東の延命寺川から西の紫川河口までの埋立てが進められました。

1930(昭和5)年小倉鉄道は埋立事業から撤退します。翌1931(昭和6)年浅野小倉製鋼所は、小倉築港を設立して埋立事業を継続します。砂津川河口の先に小倉港が建設されます。その東と西の埋立地に岸壁が築かれ、1935(昭和10)年開港します。現在地である浅野は砂津川河口から紫川河口までの西部埋立地で、同年竣工しました。
浅野の北側先端に浅野フェリー埠頭があります。ここからフェリーさんふらわあの小倉-松山航路のフェリーが発着します。浅野フェリー埠頭は2003(平成15)年に完成しました。当時関西汽船が運航していた小倉-松山航路のフェリーは、北九州国際会議場裏にあった砂津埠頭から発着していましたが、手狭になったため浅野フェリー埠頭が建設され、移転しました。2009(平成21)年商船三井グループのダイヤモンドフェリーと関西汽船の親会社としてフェリーさんふらわあが設立され、2011(平成23)年両社はフェリーさんふらわあに統合されました。
フェリーの発着時間等については、下のフェリーさんふらわあの公式サイトをご覧ください。
  http://www.ferry-sunflower.co.jp/index.html
   
浅野の北側は海面を隔てて許斐町(このみまち)の埋立地で、新日鐵住金小倉製鐵所があります。右に行けば関門海峡の西側に出ます。左に行けば紫川の河口です。
許斐鷹助は現在の直方市の生まれで、筑豊の炭坑経営者でした。許斐は1897(明治30)年小倉の海面埋立を計画し、内部の埋立を小林徳一郎が請負います。1900(明治33)年着工し、翌年、埋立の一部を小倉駅の用地として九州鉄道に譲渡します。許斐の資金が続かず、小林の手によって1902(明治35)年1万坪が埋立てられました。1906(明治39)年許斐鷹助は病気で没しました。小林徳一郎は許斐鷹助の業績を後世に残すために、埋立てた土地を許斐町と登記しました。

許斐町の埋立地に東京製綱小倉製鋼所が建設され、1916(大正5)年に操業が開始されます。1918(大正7)年東京製綱小倉製鋼所は浅野総一郎に買収され、浅野小倉製鋼所になります。1931(昭和6)年埋立事業を分離独立させ、小倉築港を設立します。この会社が現在の小倉興産になります。1936(昭和11)年浅野小倉製鋼所は小倉製鋼と改称します。この当時まで、許斐町の埋立地は、紫川河口を隔てて浅野の埋立地の西にあり、その北端は浅野の埋立地の北端と大差ない位置でした。浅野小倉製鋼所の当初はワイヤロープ製造でしたが、小倉製鋼になると銑鋼一貫体制を目指して高炉を建設し、1939(昭和14)年第1高炉が稼働します。高炉スラグの処理のために、許斐町埋立地の先の埋立に着工します。

戦後、朝鮮戦争を契機に鉄鋼の需要に応えるために、小倉製鋼は第2高炉の火入れを行うなど積極策を採りますが、朝鮮戦争後、鉄鋼市況は冷え、同社の業績は急速に落ちていきます。一方住友金属は高炉を所有せず、原料を屑鉄に依存していましたが、その入手が難しくなり、良質で安価な銑鉄の入手が求められていました。このため住友金属は、1953(昭和28)年小倉製鋼を吸収合併し、住友金属小倉製鐵所になりました。戦前に着工された埋立は戦後竣工しましたが、日本経済の復興及び成長に伴い、数次の埋立工事が行われ、現在では、許斐町地先の埋立は浅野の埋立地の北側にも拡張されています。2012(平成24)年10月新日本製鐵と住友金属が合併して新日鐵住金となり、ここは新日鐵住金小倉製鐵所になりました。
あさの汐風公園の南の国道199号線小倉駅北口交差点を西に行きます。紫川に架かる国道199号線の紫川大橋の手前の北側の眺めです。
紫川河口の右岸は小型船が係留されています。
 
   
国道199号線が通る紫川大橋です。右手が下流の海側です。
   
上流側からの紫川大橋です。紫川河口に架けられています。1993年4月完成に完成した紫川大橋は海の橋とも呼ばれ、橋の街路灯は船のマストを、橋脚は舳(へさき)をデザインしています。
紫川大橋の上流には、手前の山陽新幹線とその先に鹿児島本線と日豊本線の鉄道橋が架かっています。  
   
鉄道橋の上流に室町大橋が架かっています。
   
上流側からの室町大橋です。1991年4月完成した室町大橋は火の橋と呼ばれ、鵜飼の明かりをデザインしたガス灯があり、週末や祝祭日の夜点火されます。希望すると有料で点火してもらえます。明治時代には、紫川でも鵜飼が行われていたといわれています。
室町大橋のすぐ上流に常盤橋が架かっています。1995年3月完成した常盤橋は木の橋と呼ばれ、歩行者専用橋です。  
   
常盤橋の東詰に、広告柱が立っています。森鷗外(1862~1922、本名は森林太郎)は、1899(明治32年)6月小倉の第12師団軍医部長として赴任し、1902(明治35)年3月小倉を離れました。この時代に立っていたもので、当時の1/3の大きさで、新たに建てられました。鷗外の小倉3部作の第2作の「独身」(明治43年、1910)の冒頭に広告柱は出てきます。
   
常盤橋を東から西に渡って来ました。西詰から見た常盤橋です。江戸時代、ここから西に長崎街道が伸びていきました。  
   
上流側からの常盤橋です。常盤橋はかっての長崎街道の基点でしたので、新しく木材を使って橋を架け替え、往時の雰囲気を出しています。江戸時代には城下の東曲輪と西曲輪を結ぶ橋は、この常盤橋と上流の豊後橋しかありませんでした。
常盤橋のすぐ上流で、下流から4番目の橋が勝山橋です。河口の紫川大橋を国道199号線が通っていますが、勝山橋を通るのは、南側を通るもうひとつの国道199号線です。東側の砂津で、国道3号線と合流します。
   
勝山橋を通る国道199号線を橋の反対側に行きますと、リバーウォーク北九州の道路を挟んだ反対側に、木造二階建ての洋風の建物があります。かってここにあった小倉県庁の建物の一部といわれています。
現在の門司区・小倉北区・小倉南区に当たる企救郡は、幕末の第二次長州征討戦の小倉口の戦いの結果、長州藩によって管轄されました。1870(明治3)年2月長州藩は企救郡から撤退し、企救郡は日田県の管轄に入ります。1871(明治4)年西海道鎮台が小倉に配置され、廃藩置県が行われました。1871(明治4)年11月豊津・中津・千束県が統合されて小倉県が置かれました。この際に企救郡は小倉県の管轄下に入りました。小倉県の県庁は小倉室町に置かれました。1876(明治9)年4月小倉県は廃止されて福岡県に合併されました。旧小倉県のうち宇佐・下毛両郡が大分県に移管されました。小倉県庁は福岡県に統合後、裁判所や警察署になりました。
 
   
勝山橋に戻ります。2000年8月完成の勝山橋は石の橋と呼ばれ、小倉城の石垣とかっての路面電車道を連想させる広い石畳の歩道があります。
1911(明治44)年、九州電気軌道(九軌)によって門司・東本町-黒崎駅前間の電車は開業しました。その開業時から後継の西日本鉄道(西鉄)の電車、北九州線は勝山橋を通っていました。1992(平成4)年、砂津‐黒崎駅前間の電車は廃止になりました。
歩道にある屋根は、2010(平成22)年に完成した勝山橋太陽光発電ルーフです。屋根に太陽光パネルが貼られています。発電した電気は、この後訪れる水環境館に供給されます。
   
勝山橋から上流の眺めです。次の橋は鷗外橋です。右側手前は、1995年7月完成の人工の滝で、紫川側のリバーウォークの前になります。その先、右側の建物は北九州市庁舎です。左端は紫江`S(しこうず)です。
紫江`S(しこうず)の1・2階には中華料理などの飲食店や雑貨店が入っています。地下は、マイリバー・マイタウン整備事業のひとつ、2000年7月に完成した水に関する体験学習施設の水環境館になっています。背後の茶色の建物は小倉井筒屋本館で、右の白い建物は新館です。  
   
水環境館では、紫川の生物をはじめとして、紫川のことは勿論、北九州の水環境を広く知る展示が行われています。また、水環境館には厚さ25cmのアクリル板の観察窓があり、紫川の水面下の様子が観察できます。
昭和30年代後半から40年代の前半にかけて、全国の都市の河川の例に漏れず、家庭排水や工場排水によって、紫川は汚染されていました。沿岸住民の浄化運動や下水道の完備によって、現在、紫川の水質は改善されています。
   
水環境館の入口は紫川の下流側にあり、出口は上流側にあります。紫江`S(しこうず)の上流側から対岸のリバーウォークを見ています。勝山橋の西岸の室町に、かってデパート小倉玉屋、スーパーダイエー、小倉北区役所等がありました。その跡地に、2003(平成15)年4月にリバーウォーク北九州がオープンしました。芸術・文化・情報発信・商業の複合施設です。美術館、劇場、映画館、新聞社、放送局、飲食店、物販店が入っています。  
   
歩行者専用の2000年3月完成の鷗外橋を東から西に渡ります。鷗外橋は水鳥の橋と呼ばれます。その中央部は広くなって、上流側に淀井敏夫の彫刻「鷗」が置かれています。
   
鷗外橋を渡って、リバーウォークの南側に来ます。小倉城の濠端になります。
リバーウォークのある室町は、かっては小倉駅前でした。1891(明治24)年開業した小倉駅は、1958(昭和33)年、現在地に移転しました。小倉駅があった現在の西小倉駅の場所は貨物駅になり、その後はそれも移転してしまいました。その後、地元の陳情により、日豊本線だけが停車する駅になります。そして、1987(昭和62)年、西小倉駅は普通列車がすべて停車する一般駅になりました。
 
   
リバーウォークの南側の紫川寄りには、かっては虎ノ門がありました。虎ノ門跡を通り、カギ形に曲がった道を進むと、小倉城庭園入口の前に出ます。その前に濠があり、石垣の上に小倉城天守閣がそびえ立っています。現在の天守閣は1959(昭和34)年に再建されました。かっての天守閣は五重六層でしたが、現在の天守閣は四重五層です。またかっての天守閣には最上層の入母屋破風を除いては破風がありませんでしたが、現在の天守閣は入母屋破風、唐破風、千鳥破風が施されています。細川忠興は1602(慶長7)年、小倉城の築城を始めました。天守閣の一から四層までは壁が白く、四層には屋根のひさしがなく、五層は黒く塗られ、四層より大きく造られました。いわゆる唐造り(南蛮造り)というものでした。
小倉城の詳細は、「北九州のみどころ」の「小倉城」をご覧ください。
   
小倉城の東側の紫川沿いに北九州市庁舎はあります。北九州市庁舎は15階建てで、その上は展望室になっています。そこから紫川を眺めてみます。
紫川の下流から手前の上流にかけて、室町大橋、常盤橋、勝山橋、鴎外橋の4つの橋が見えます。
右側は市役所の南側の通り、小文字通りに架かる中の橋です。歩道には太陽の花・ひまわりがタイルであらわされています。ひまわりは北九州市の花です。左側に紫川に流れ込む神嶽川が見えます。そこに2008年1月完成の歩道橋の月の橋が架かっています。月の橋の先に、宝来橋が2006(平成18)年に架け替えられました。  
   
ここまでが北九州市庁舎屋上の展望室からの眺めです。
B-1グランプリin北九州開催前に来ました。小文字通り南側、紫川の西岸の勝山公園でB-1グランプリin北九州のリバーサイドA会場の準備が進められていました。
   
北九州市庁舎横からの上流側の鴎外橋です。
鴎外橋から東に行くと、小倉井筒屋本館と新館の間を通り、みかげ通りでアーケードに入り、小倉駅前の平和通りに出ます。その先、鍛冶町を進むと、森鴎外旧居の前に到ります。
森鴎外の小倉時代については、「北九州点描」の「森鴎外旧居」をご覧ください。
 
   
紫川に流れ込む神嶽川に歩道橋の月の橋が架かっています。月の橋から眺めると、左の北九州市庁舎、その右の小倉城、この二つの建物が月明かりに浮かぶという情景を考えて、月の橋と名付けたようです。
   
下流からの小文字通りに架かる中の橋です。右端に洲浜が見えます。  
   
この付近は、江戸時代末には干潟や洲が広がっていたそうです。そのことが連想できるような洲浜広場が、1995年10月つくられました。その工事の途中で、石垣が出てきました。右の古い石垣は、その時出てきた石で昔の姿を再現しています。
   
上流から中の橋です。1992年5月完成した中の橋は太陽の橋と呼ばれます。下流側の歩道には太陽の花・ひまわりがタイルであらわされ、車道に近い方に7体のオブジェ「光に向かって」が立っています。  
   
中の橋の上流の西岸には水辺ステージがつくられ、コンサートなどが行われます。この右手にはボートの格納庫があります。この日はカヌーの体験イベントが行われていました。
   
小文字通りの南、紫川の西岸は勝山公園です。芝生広場になる以前は、噴水や小倉市民会館があった場所です。年間を通して、イベントの際は会場になります。
水辺ステージの上流に紫川橋が架かっています。紫川橋から右に行くと、勝山公園の南にある小倉北区役所に到ります。1998年12月完成した紫川橋は、鉄の橋と呼ばれる鉄のアーチ橋です。かって紫川橋は陸軍橋と呼ばれていました。西岸には、戦時中まで旧陸軍の兵器工場、陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)小倉工廠がありました。  
   
紫川橋の上流は中島橋です。橋の上にあるモニュメントが目印です。
   
1992年7月完成した中島橋は風の橋と呼ばれます。モニュメントは「銀河の舟」という題で、高さ35mで風で動きます。
新宮晋の作品ではないかと思いますが、詳細は分かりません。
 
   
中島橋の上流に紫川10橋の最後の豊後橋が架かっています。1983年6月完成の豊後橋は音の橋と呼ばれます。豊後橋は斜張橋で、ハープをイメージしています。
江戸時代初めの細川氏の治世下、免租のための労役として、豊後国の領民がここに橋を架けたのが橋名の由来です。江戸時代は、この橋と下流の常盤橋だけが城下町に架かっていました。
   
紫川西岸の歩道を、紫川沿いに遡って来ました。歩道の横を車道が通り、上に高架の都市高速が通っています。上流に国道3号線が通る貴船橋が架かっています。その先に都市高速がカーブして通っています。左の建物がある所は、浅野に移転した小倉記念病院の跡地です。  
   
国道3号線に出ました。道路の向こう側にこの建物があります。新日鐵住金紫川取水場ポンプ室です。1917(大正6)年東洋製鉄が渋沢栄一らによって設立され、1918(大正7)年戸畑製鉄の用地に、東洋製鉄は戸畑製鉄を合併して立地しました。その際にこの施設は建設されています。貴船橋の上流に取水堰があり、取水されてポンプ室から送水されます。下流からその堰までが紫川は汽水域(淡水と海水が混在した区域)になります。
1919(大正8)年に操業した東洋製鉄は、第一次世界大戦後の不況に遭遇し、1921(大正10)年八幡製鐵所は戸畑にあった東洋製鉄を合併し、戸畑作業所にしました。これが八幡製鐵所の戸畑進出の足掛かりになりました。
   
この先、紫川の中流域は「北九州点描」の「蒲生」、「長行」、「小嵐山」をご覧ください。

支流の東谷川流域は「北九州点描」の「呼野」、東谷川に流れ込む井手浦川流域は「北九州点描」の「井手浦」をご覧ください。

支流の合馬川流域は「北九州のみどころ」の「合馬の竹林・三岳梅林」をご覧ください。

紫川上流域は「北九州点描」の「紫川上流」を、その支流の畑川流域については「北九州点描」の「菅生の滝」をご覧ください。

紫川の源流については「北九州点描」の「ます渕ダム」をご覧ください。
 


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