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手向山公園
   小倉北区赤坂4丁目  [2013/05/11]
 

 
手向山(たむけやま)公園は、門司区との境界に近い小倉北区の北東部にある、足立山から海に伸びる丘陵地の最先端にある標高76mの手向山を整備した公園です。江戸時代、宮本武蔵の養子の宮本伊織が山頂に宮本武蔵の碑を建てました。明治になると砲台が築かれ要塞地区になったため、一般の人の立入りはできなくなりました。戦後手向山は公園化され、山上では巌流島の決闘を記念して、毎年その日の4月13日に近い日曜日に武蔵・小次郎まつりが行われています。

1612(慶長17)年4月13日、手向山から約5q北北東にある船島で、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われました。後にこの島は、小次郎の流派名を取って、巌流島と呼ばれるようになりました。宮本伊織(1612-78)は、播磨印南郡米田村の田原家の次男に生まれました。若くして宮本武蔵の養子になりました。1626(寛永3)年、播磨明石に到った武蔵を明石城主小笠原忠政(のち忠真)は召抱えようとしますが、それを断り武蔵は養子の伊織を仕官させます。、武蔵の推挙により小笠原忠真の近習に出仕した伊織は15歳でした。

伊織は20歳で家老となり、翌1632(寛永9)年細川忠興から豊前小倉を引き継いだ忠利は肥後熊本に移封され、播磨明石より小笠原忠真は豊前小倉に移封され、武蔵も伊織もこれに従いました。伊織の石高は2,500石でした。1638(寛永15)年の島原の乱では、伊織は小倉藩家老として出陣し、武蔵も参陣しました。その功により伊織は加増され4,000石になり、筆頭家老になりました。1640(寛永17)年、武蔵は肥後熊本藩主細川忠利に客分として招かれます。晩年、武蔵は「五輪書」(ごりんのしょ)を書き表し、1645(正保2)年肥後熊本で亡くなりました。

伊織は、拝領した手向山に、武蔵没9年後の1654(承応3)年に、熊本より遺骨を移し、骨壷・銅鏡・古文書を埋葬し、その上に宮本武蔵の碑を建てました。このため手向山は武蔵山とも呼ばれました。また、現在は手向山ですが、かっては田向山と記されました。1887(明治20)年、明治政府は手向山で砲台の築造を始めました。このため、宮本武蔵の碑は西隣の丘陵地延命寺山に移されました。かってその山上には延命寺がありましたが、明治維新前夜の第二次長州征討戦小倉口の戦いで焼失し、大正時代、延命寺山の西側に再建されました。戦後、再び宮本武蔵の碑は手向山山頂に戻されました。

手向山の北は関門海峡です。東から関門海峡を見ていくと、周防灘から海峡に入り、海峡で一番狭い早鞆の瀬戸から南西に向かい、大瀬戸と呼ばれる彦島との間の海峡を通って、手向山の北で北西に向きを変えて響灘に出ます。1864(元治元)年8月5日、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国艦隊が、関門海峡周辺の長州藩の砲台を砲撃しました。1886(明治19)年、陸軍省は全国の重要な地に砲台を築造し、沿海の防備を厳しくすることにしました。当時、定遠・鎮遠という巨大戦艦を有する清国の北洋艦隊の脅威を感じていた関門地区には、関門海峡を挟んだ下関と北九州に砲台と堡塁が築造されました。

陸軍は、敵艦船を砲撃するのを砲台、砲台の背面防御し、陸戦砲撃をするのを堡塁としました。北九州では、田向山(手向山)・笹尾山・矢筈山・古城山・和布刈砲台が、また富野・高蔵山堡塁が築造されました。1994(明治27)年8月日清戦争が勃発しました。清国の北洋艦隊は壊滅し、1895(明治28)年4月日清講和条約は調印されました。関門海峡を挟む砲台・堡塁を統合した関門要塞は、1895(明治28)年下関要塞と呼称されることが正式に決まり、下関要塞司令部が発足し、砲兵連隊が配備されました。これらの地域は下関要塞地帯と呼ばれました。これらの砲台・堡塁は明治末には廃止となりますが、機密保持のため立ち入りは制限され、地域内の測量・撮影などは1945(昭和20)年の終戦まで要塞司令部の許可が必要でした。  
手向山公園の山頂広場です。山頂広場は北東から南西かけての細長い形状になっています。周囲に桜が植えられています。北東側に展望台があります。北西側の左手からは関門海峡が望めます。右手手前には宮本武蔵の碑があり、先方の黄色の花が咲いている所に佐々木小次郎の碑があります。
展望台より桜の山頂広場を見ています。左手は手向山より高い丘陵地で、先方は手向山より低い丘陵地です。その右手は延命寺山と呼ばれました。手向山から低い丘陵地の先、西側を流れる延命寺川にかけてが赤坂です。手向山と高い丘陵地の間を道が通り、低い丘陵地を越えて行きます。その峠が鳥越峠です。現在はその道の横を都市高速が通っています。
第二次長州征討戦小倉口の戦いでは、赤坂は激戦地でした。その様子は「北九州点描」の「赤坂」をご覧ください。
   
展望台の北側は関門海峡が望めます。北西の眺めで、先方は響灘に出ます。右手は関門海峡の大瀬戸、そして早鞆の瀬戸に到ります。右手の陸地は下関市彦島です。左手の煙突が見える所は、小倉北区の新日鐵住金小倉製鉄所です。
1612(慶長17)年4月13日の巌流島の決闘を記念して、戦後間もなく武蔵・小次郎まつりが行われました。地域の祭りとして毎年その日に近い日曜日に山頂広場で行われます。二つの碑の間に設けられた祭壇で、武蔵・小次郎の鎮魂の神事が行われます。
   
武蔵・小次郎まつりでは剣道の形が奉献されます。
   
武蔵を祖とする二天一流が奉献されます。午後からは、少年剣士達の剣道大会があります。  
   
山頂広場の南東側に二つの石碑が立っています。西側が宮本武蔵の碑です。
4.5mの巨石の宮本武蔵の碑は、1654(承応3)年宮本武蔵の養子伊織が建てました。「小倉碑文」とも呼ばれ、千百余字の漢文が刻まれた石碑です。
武蔵が最初に試合をしたのは13歳の時で、相手は有馬喜兵衛でした。その後、京都に出て吉岡一門と闘い、打ち破ります。武蔵は京を去った後、諸国を巡り武者修行を行います。
   
宮本武蔵の碑の碑文です。石碑の前に北九州教育委員会によって立てられた説明文に記されたものです。碑文は、武蔵と交友のあった熊本泰勝寺の春山和尚が、武蔵の生涯の事跡を記したものです。  
   
東側が佐々木小次郎の碑です。「小次郎の 眉涼しけれ つばくらめ」の碑文が刻まれています。村上元三の小説「佐々木小次郎」の完成を記念して、1951(昭和26)年建てられました。
1612(慶長17)年、武蔵は豊前小倉に来て、旧知の家老長岡佐渡を訪ねます。当時剣の達人で、小倉藩(当時藩主は細川忠興)に召抱えられていた佐々木小次郎との試合の仲介を頼みます。許された試合は4月13日船島で行われました。小次郎は船島に藩の舟で渡りますが、武蔵は下関より船島に向かいます。決闘は武蔵が木剣で小次郎を一撃で倒します。船島は小次郎の号巌流に因んで巌流島と呼ばれるようになります。
   
展望台の北東側は木立になっています。その中に、1983(昭和58)年北九州吟詠連盟よって「吟心舞魂」と刻まれた石碑が建てられています。裏面には、巌流島の決闘を謳った「巌流島懐古」と題した漢詩が書かれています。
   
石碑の北東は海側の展望が開けています。北東方向の関門海峡の大瀬戸です。手前から左側が福岡県北九州市門司区、反対側が対岸の山口県下関市です。手前の白い塔は関門海峡海上センターです。海上保安庁の施設で、関門海峡の安全航行のために航行管制をしています。その上の左右にかすかに棒状ものが見えますか。早鞆の瀬戸に架かっている高速道路の関門橋の橋脚です。
巌流島をクローズアップしました。遠方の下関市市街地の手前に巌流島の一部が見えます。その手前は下関市の彦島です。巌流島は下関市に属する無人島です。
巌流島については、「北九州の近隣」の「下関」をご覧下さい。
関門海峡が展望できる場所から窪地を経て下に降りて行くことができます。その窪地が、砲台があった時代の砲座でした。それは次に説明しますが、一旦降りて行った先の左奥、北東の手すりから身を乗り出して手前真下を見ると、コンクリートの工作物跡が見えます。砲台の観測所跡と思われます。砲座より関門海峡は見えないので、砲台の左右にあった観測所からの連絡で砲撃するようになっていました。こちらは東の観測所です。
   
山頂広場の一段下は、上って来た車の駐車場になっている広場です。上って来た所は東西方向で、その先は山頂広場に沿って北東方向にその広場は伸びています。その先、車は進入できませんが、歩いて北東奥の関門海峡が展望できる場所がある窪地に来ることができます。この広場と山頂広場の間の斜面を利用して砲座は築かれました。ここから広場入口までの間に6砲座が築かれました。  
   
砲座には倉庫が付属していました。それらの入口は現在はふさがれていますが、入口の上には番号が付けられていて残っています。倉庫は砲座と砲座の間にありました。第一号倉庫跡です。
   
東から二番目砲座跡です。山頂広場に昇る階段があります。山頂広場の展望台の東奥に出ます。砲座には2門の24センチ臼砲が備えられました。臼砲は口径が砲身に比べて大きく、射角が大きい砲でした。  
   
第二号倉庫跡です。
   
東から三番目砲座跡です。砲座は山の斜面を削った半摺鉢状になっていました。  
   
第三号倉庫跡です。
   
東から四番目砲座跡です。ここが下の広場の中央に位置しますので、山頂広場に昇るメインの階段があります。階段を昇って左側に宮本武蔵の碑があり、右側に佐々木小次郎碑があります。  
   
第四号倉庫跡です。銘板が掲げられています。
   
第四号倉庫の銘板です。「明治二十年九月起工 明治二十一年九月竣工」と刻まれています。  
   
東から五番目砲座跡です。これまでの四砲座は一直線に並んでいます。ここと次の砲座は逆くの字状の下の部分のように、やや内側に向いて並んだ折線砲列になっていました。
   
第五号倉庫跡です。  
   
東から六番目、西端の砲座跡です。その中に大瀬戸第一号導灯の高い塔が建っています。
   
大瀬戸第一号導灯の高い塔です。東から六番目砲座跡の左手の西側から山頂広場に到る道から見ています。山の麓の国道脇の低い塔と一対になっています。
関門海峡の安全航行のために、この導灯の他に、灯台、信号所、潮流信号所が要所に設置され、信号や無線で航行情報を提供し、航行管制する関門海峡海上交通センターが置かれています。
 
   
車が通る道路を駐車場から下りて行き、右に大きくカーブした所を左に入って行くと、砲台の西側の観測所跡はあります。左の階段を昇って屋上部に出ます。
   
観測所跡の屋上部です。現在は木立があって眺望は良くありませんが、その当時は関門海峡の大瀬戸から響灘への眺望が開けていたと思われます。  
   
道路に戻り、下って行くと次は左に大きくカーブし、その先で又左に大きくカーブします。そこを右に入って行くと探照灯台座跡があります。探照灯は、夜間関門海峡に侵入する敵艦船を照射するものです。中央の四角の部分に台座があり、90cmの探照灯が設置されていました。砲台から北西170m、標高50mに位置します。
   
探照灯が設置された外側の、円形のレンガ上部のセメント部に、その方向の地名や砲台がある山の名前が刻まれています。  
   
手向山の麓まで下りて来ました。道路は180°近くに曲がります。そのため車はターンして方向を変えて進みます。そのための広場があります。その前の山側に、フェンスを隔ててレンガ造りの建物跡があります。先程の探照灯の電気を発電する旧陸軍の火力発電施設跡です。
レンガ造りの建物跡の前の広場でターンして手向山の麓の道路を北側の国道3号線に向かいます。山側の道路脇に宮本家の墓所があります。明治時代、手向山砲台が築かれるまでは、山頂の宮本武蔵の碑の横にあったそうです。砲台築造に際してこの場所に移されました。一段高い中央に伊織の墓はあります。
   
墓石には「忠厳紹徳居士覚霊」と刻まれ、左下に宮本伊織貞次の名が読めます。
   
国道3号線の手向山公園入口交差点の先の国道です。手向山は海岸近くまで張り出していましたので、国道はその北端を削ったり、トンネルを掘って通っています。その手向山トンネルが先方に見えます。手向山の北側を国道3号線が通り、その北側にJR鹿児島本線が通り、海岸線になっていました。その赤坂海岸は埋立てられ、国道199号線が通り、臨海工場地帯になっています。赤坂海岸の前は、関門海峡の大瀬戸です。
左上に見えるのは、大瀬戸第一号導灯です。船の進むべき方向の延長線に当たる陸上に、低い塔と高い塔が一組になって立っていて、これが導灯と呼ばれるもので、導灯で船舶を誘導しています。関門海峡では6組の導灯で船舶を誘導しています。これは低い塔で、高い塔は手向山の山上で見ました。
   
手向山の南側には高い丘陵地がありますが、そちらの富野台からの手向山の眺めです。手前の道路は都市高速で、その向こうの白い建物の間の下に鳥越峠を越える道路があります。中央の一番高い木立のすぐ下に白い塔がありますが、大瀬戸第一号導灯の高い塔です。その右の木立の上に青い物が見えます。山頂広場の展望台の頂上部分です。


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