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足立公園    小倉北区小文字・妙見町・黒原  [2016/04/30]
 

足立(あだち)公園は、小倉北区の市街地に近い森林を整備した公園です。小倉北区と小倉南区境にある足立山から北に連なる山裾に位置し、近くには歴史を物語る寺社があります。寺社については、足立山のいわれのもとになった和気清麻呂によって創建されたと伝えられる足立山妙見宮と、足立公園のかなりの部分がかっての寺域である広寿山福聚寺(こうじゅさんふくじゅじ)を主に紹介します。

奈良時代769(神護景雲3)年、法王道鏡を皇位に就ければ天下泰平になるとの宇佐八幡宮の神託がありますが、これを確かめに和気清麻呂が遣わされます。清麻呂は、神は道鏡が皇位に就くことを許していないと称徳天皇に奏上します。これを聞いた道鏡は怒り、清麻呂は大隅国に流されます。清麻呂は、道鏡の命により足の筋を切られて流され、途中宇佐の海岸に着きました。そこに猪が現れ、その背に乗った清麻呂は宇佐八幡宮に詣でました。宇佐八幡宮で清麻呂は神のお告げを受けます。清麻呂は神馬を借りて規矩(企救)郡竹和山の麓の石川村に着き、湯川の霊泉を浴びます。たちどころに足の傷は治ります。このことにより、竹和山は足立山と呼ばれるようになりました。

和気清麻呂は足立山の西側にある妙見山に登り、日本神話の天地創造に際し最初に姿を現した造化三神に皇統安泰、道鏡の退除を祈願しますと造化神が降臨し、願いを聞き入れるとの神託がありました。妙見信仰は、北極星を神格化した中国の思想に仏教の思想が入り、北辰妙見菩薩を信仰するものとなり、神道の天御中主神と習合したといわれています。称徳天皇が崩じると、770(宝亀元)年道鏡は失脚し、下野の薬師寺に追放されます。清麻呂は都に呼び戻されます。清麻呂は息子を遣わして、造化神が降臨した山上に妙見宮を創建しました。

772(宝亀3)年、国司により山頂の上宮に対し、葛原(小倉南区)に下宮の足立山平愈寺が建立されました。この地は、現在の安部山公園の奥の葛原八幡宮旧跡地と思われます。817(弘仁8)年清麻呂の子真綱(まつな)が、宇佐八幡宮への勅使の帰途、下宮に父とその祖を合祀しました。1601(慶長6)年下宮を現在地に移しました。明治以降は、神仏分離により足立山妙見宮と足立山平愈寺を御祖神社(みおやじんじゃ)と改称しました。昭和20年以降は足立山妙見宮と再度改称しました。

1632(寛永6)年、豊前小倉藩の細川氏は肥後に転封され、豊前国の企救・田川・京都・仲津・築城の五郡と上毛郡の一部の15万石が、譜代大名で明石城主であった小笠原忠真(ただざね)に与えられ、忠真は小倉に入部しました。他の細川氏の旧領には小笠原一族が入部しました。幕府はこれら小笠原一族の代表の小倉藩に九州探題の役目を担わせました。

小倉小笠原藩初代藩主小笠原忠真(ただざね)は、宇治の黄檗宗大本山萬福寺から長崎の崇福寺に帰る途中の即非如一(そくひにょいつ、萬福寺開山の隠元隆琦の高弟)に寺院の建立を依頼します。1664(寛文5)年広寿山福聚寺は即非如一により開山されました。1679(延宝7)年、二代藩主小笠原忠雄(ただかつ)により寺地が現在地に改められ、七堂伽藍が造営されました。
小倉北区三萩野のメディアドーム前から東方向の眺めです。右端の一番高い山が標高597.8mの足立山で、その手前に標高519mの妙見山が重なっています。左端は366m小文字山です。この間の連山の山裾を帯状に伸びているのが足立公園です。
足立公園の西側の平地を県道264号湯川・赤坂線が南北に通っています。県道264号の黒原(くろばる)交差点から東に入って行きます。左手に平和公園があります。公園にはイチョウと桜の木が植えられています。
   
平和公園の奥に忠霊塔が立っています。1974(明治7)年の佐賀の乱以降の戦没者並びに公務死亡者が祀られています。  
   
平和公園の前の道を公園に沿って進みますと、左に曲がる道と、右に大きく曲がり、坂を上る道に分かれます。右に曲がって坂を上ります。曲がりくねった坂を上ると、足立山妙見宮の鳥居の前に出ます。
   
鳥居をくぐり石段を昇ると、狛犬でなく、猪が左右に置かれています。和気清麻呂が大隅に流される途中、豊前の宇佐の海岸に着きます。道鏡の追手から守るように多くの猪が現れ、清麻呂を一頭の猪の背に乗せて宇佐神宮に送り届けました。この故事に則り猪が置かれています。右の猪の右手に神楽殿が新たに建てられています。
更に石段を昇ると拝殿があります。妙見宮には、造化三神の天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)・神皇産霊神(かみむすひのかみ)、和気清麻呂、その祖の鐸石別命(ぬてしわけのみこと)が祀られています。
 
   
妙見宮の拝殿の前を右に行きますと薬師堂があり、中に6体の木造の仏像が祀られています。このうち4体は、平安時代初期太政大臣藤原良房が奉納したものを、室町時代中期に模作したものと考えられています。
   
妙見宮拝殿の一段下の神楽殿とは反対の北側に、横山白虹の句碑があります。
 夕桜 折らんと白き のど見する
横山白虹(1899-1983)は九州帝大医学部を卒業し、小倉市で外科病院を開業しました。1927(昭和2)年福岡の吉岡禅寺洞主宰の「天の川」の編集長になり、1937(昭和12)年小倉で「自鳴鐘」を主宰創刊ししました。戦中は休刊しますが、戦後復刊しました。多くの門弟を育て、小倉市議になり、文化団体の会長を歴任しました。
 
   
横山白虹の句碑の横の石段を降り、朱塗りの灯篭が立った参道を進み、右手に入って行きます。右手に猪に乗った和気清麻呂像が立っています。戦前は銅像でしたが供出され、戦後この石像になりました。和気清麻呂像の背後が、足立山と妙見宮の上宮がある妙見山への登山口です。
足立山や和気清麻呂については、「北九州点描」の「竹馬川」や「安部山公園」もご覧ください。
   
和気清麻呂像から灯篭のある参道に戻り、北側の石段を降りて行くと最初に着いた鳥居の前の道に出ますので、鳥居の方に戻りますと、石碑が立っています。
小倉藩士秋山光彪(みつとら)が、師である村田春海(はるみ、賀茂真渕の弟子、歌人・国学者)の17回忌の1827(文政10)年に建てた歌塚です。
 
   
歌塚の裏面です。歌塚を建てた以後、毎年この碑の前に同士が集まったとのことです。光彪の弟子から優れた歌人・国学者である西田直養(なおかい)・佐久間種(たね)らを輩出しています。
撰文は秋山光彪で、書は西田直養です。
   
妙見宮の鳥居の前の道を北に進みます。これから先の景色を見ています。
一つ小さな橋を渡り、二つ目の小さな橋付近から林に入ります。その付近からが足立公園です。車が通る道から、こもれびの小径と呼ばれる遊歩道が分かれています。車が通る道は観光道路と呼ばれています。  
   
先に行くと、左に下りと右に上りの分れ道になります。左の下りは後程にして、右の観光道路を進みます。
   
右に上る道路はすぐに左にカーブします。その付近の桜の花の様子です。観光道路の幅員が狭いので、車を利用する場合は、分れ道を下って行った先にある赤松林駐車場を利用するのが良いと思います。  
   
更に先に行って振り返りますと、桜の花の先に妙見山が見えます。
   
道の下に林が広がっています。そこを通る遊歩道も整備されています。
   
観光道路を更に先に進みます。左手に駐車場があります。メモリアルクロスへの入口です。その左横、林の中の小道脇に五百羅漢があります。江戸天明期、小倉京町の商人が願い出て、福聚寺の境内のこの地に五百羅漢を建てます。首のない石仏は明治の廃仏毀釈で壊されたものといわれています。しかし、以前に比べて首の無い石仏がほとんどになっています。
   
駐車場の北端を左の小道に入って行きますと、林が開けた所に、メモリアルクロスと呼ばれる大きな十字架が建っています。朝鮮戦争時、連合国軍の米軍小倉師団の司令官達が建てた記念碑で、日本側に引き渡され、県と旧五市で改装されました。  
   
メモリアルクロスから振り返ると、東にある標高366mの小文字山が見えます。1948(昭和23)年福岡県下で第3回国体があり、当時の小倉市も会場になりました。選手を歓迎する意味で、10月21日この山で京都の大文字焼きになぞらえた小の文字が焼かれました。それに由来してこの山は小文字山と呼ばれています。翌年からは8月13日に焼かれるようになりました。
   
メモリアルクロス前の観光道路を更に北に進みます。左手に小公園があり、トイレがあります。そこから左の坂道を上って行きます。  
   
右手の老人ホーム望玄荘の前を通り過ぎると、駐車場になり、展望台があります。ここは富野堡塁跡の展望広場です。富野堡塁は1889(明治22)年に築造され、小倉からの上陸戦への対応と手向山・笹尾砲台の側面防御を目的に砲16門が配置されましたが、使うことなく明治末には廃止されました。その跡は現在残されていません。
   
展望台から北西方向の小倉の眺めです。右端の建物の左側の高架になっている部分は新幹線で、その左は在来線で、その左がJR小倉駅の駅舎です。手前の運動場があるのは福岡教育大附属中学校と小学校です。その左側の高架道は都市高速です。
展望台から南西方向です。小倉北区の市街地です。帽子のような建物はメディアドームで、ビッグイベントが開催できるイベント施設と競輪場という複合目的の全天候ドームです。
観光道路の分かれ道まで戻り、右折して坂を下りて行きます。道の左側に赤松林が広がっています。その先に赤松林駐車場があります。
赤松林駐車場の前が足立青少年の家の入口です。  
   
赤松林駐車場の先の白壁の中は小笠原忠真廟所です。木々の先の屋根が見える所が忠真の墓で、一段下の手前が夫人の永貞院の墓です。忠真は小笠原家菩提寺として、広寿山福聚寺を建立しました。道路の反対側にも小笠原家の墓所があり、二代忠雄、八代忠嘉、九代忠幹と小倉で逝去した藩主の墓があります。
   
坂道を下りると道は左にカーブしますが、そこから右に入る道があります。そこを右折すると、福聚寺の門前に着きます。ここは裏門に当たりますが、門前に駐車スペースがありますし、現在はこちらからしか入れません。門を入って行くと、門の横に鐘楼が復元されています。江戸時代のものが同じ場所にありましたが、老朽化していたため復元され、新しくなっています。創建時の梵鐘は大戦中に供出されました。つくり変えられた梵鐘は本堂前の鐘楼にあります。  
   
二代藩主忠雄は現在地に七堂伽藍を造営しますが、江戸天明期に火事により全焼してしまいます。1802(享和2)年再建されます。しかし、幕末期、小倉藩は長州藩との戦いで香春に退却の際、福聚寺に火をつけますが、この仏殿(本堂)は焼失を免れました。扁額の「吉祥寶殿」は開山の即非の書です。
本堂の前に不二門があります。この門も幕末の焼失から難を逃れました。この扁額の書も即非のものです。
   
本堂の右横に西山宗因の句碑があります。
いざ桜 われもそなたの 夕嵐
西山宗因は江戸初期の連歌師・俳人で、談林俳諧の祖です。小倉には幾度も訪れ、小笠原忠真や即非にも会っています。二代住職法雲から剃髪得度されますが、石碑の句はその際の作です。
 
   
仏殿(本堂)の裏の塀の中には入れませんが、祠堂や開山堂があります。
裏門を出て、表門である総門に向かいます。これから道が狭いので、歩いて行きます。門前の右の道に入り、塀沿いに進みます。
   
総門です。その姿から黒門とも呼ばれます。扁額の「第一関」は即非の書です。即非は師の隠元やその跡を継ぐ木庵とともに黄檗三筆と呼ばれます。彼らによって黄檗宗という新しい禅が中国から日本にもたらされました。それは明朝の様式を伝えるものでした。明朝の様式の禅の黄檗宗により、その関連の黄檗美術も伝えられました。その書・画・彫刻・工芸は明からその後の清の美術様式でした。福聚寺にも黄檗美術品が伝えられています。  
   
総門から入って行くと不二門の表に出ます。扁額に「広壽名山福聚禅寺」と即非によって書かれています。こちらから中に入って行くことはできません。
   
総門から出て行くと、門前に狭い道がまっすぐ伸びています。そこを出るとバスが通る道に出ますので、そこを右折します。しばらく行くと、右手に広い広場があり、その奥に曹洞宗宗玄寺があります。もとは小笠原忠真の父秀政が信州松本に建てた寺で、忠真の転封の度に明石、小倉と移って来ました。最初馬借にありましたが、1976(昭和51)年にこの地に移って来ました。  
   
宗玄寺の巨大な鐘楼です。
   
福聚寺の門前の駐車場まで戻ります。そこから小笠原忠真廟所の手前まで戻ると、右に入る道があります。狭い道ですが、その先は広くなります。その広くなる手前の右手に黄檗宗圓通寺があります。圓通寺の前の道を進むと、最初の平和公園の奥で二手に分かれた所に出ます。  
   
福聚寺の住職であった林隆照和尚は女流俳人杉田久女(1890-1946)と親交がありました。1979(昭和54)年、圓通寺住職林文照和尚は、父林隆照和尚と親交のあった杉田久女の句碑を宗圓通寺の境内に建てました。
   
三山の 高嶺つたひや 紅葉狩
杉田久女の句碑です。
 
   
無憂華 樹かげはいつこ 仏生会
この石碑は、福聚寺で詠んだ句を、1989(平成元)年杉田久女の長女で俳人の石昌子によって圓通寺に建立されたものです。
無憂華(むゆうげ)は菩提樹、沙羅双樹とともに仏教の三大聖樹の一つの無憂樹の花。懐妊していた麻耶夫人が郷里に帰る途中、ルンビニの園で、無憂華を採ろうと手を伸ばしたところ右脇から釈迦が誕生したと伝えられています。仏生会(ぶっしょうえ)は灌仏会ともいい、釈迦の誕生を祝う花祭のことです。
杉田久女については、「北九州点描」の「櫓山荘跡」と「板櫃川河口」をご覧ください。


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