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戸畑祇園     戸畑区  [2015/08/01] 

 
 
江戸時代の1802(享和2)年、戸畑村で疫病が蔓延したため、祭神の須賀大神に祈願したところ終息しました。翌1803(享和3)年7月、村人が山笠をつくり神社に寄進しました。このことが戸畑祇園の始まりといわれています。須賀大神は八坂神社の祭神と同じ須佐之男(すさのお)命です。筑前国遠賀郡戸畑村と隣の中原(なかばる)村には須賀大神を祭った八幡宮や天満宮がありました。

古代、戸畑は鳥旗と記され、古代から中世にかけて飛幡・戸幡・戸端・都波多・鳥羽田とも書いて「とばた」と呼びました。それは、洞海(くきのうみ、洞海湾のこと)の狭い入口である岫門(くきと)の端のことといわれています。その南の海岸は汐(塩)井崎で、現在の戸畑駅付近になります。鳥旗の北側で、外海に突き出た岬は名護屋岬で、現在は埋立てられ、新日鐵住金八幡製鐵所戸畑地区の構内になっています。

天籟寺(てんらいじ)は戸畑区の中南部になります。そこに菅原神社があり、菅原道真が祭られています。菅原氏は代々学問に優れた家柄で、道真も学問の家を継承していました。宇多天皇は道真を抜擢し、宇多天皇による政治改革を道真は推進しました。宇多天皇は醍醐天皇に譲位します。道真は右大臣まで昇進しましたが、藤原氏をはじめとする有力貴族の反発を買いました。901(延喜元)年、左大臣藤原時平の讒言により、道真は大宰権帥(だざいのごんのそつ)に左遷され、大宰府に赴きました。その途中、道真は天籟寺に一泊したと伝えられています。

鎌倉時代、東国の御家人宇都宮氏は山鹿荘に入り、山鹿氏を名乗りました。その一族のうちで、山鹿荘内の麻生荘・野面荘・上津役郷の地頭代職に就き、麻生荘に因み麻生氏を名乗りました。南北朝時代以降は、麻生氏は本家山鹿氏に代わって、花尾城(八幡東区・八幡西区)を本拠に、現在の北九州市の半分に当る戸畑区・八幡東区・八幡西区・若松区を含む遠賀郡を支配するようになりました。浅生の地名は、戸畑にあった麻生荘によるものです。

安土桃山時代の天正年間(1573-92)、現在の枝光八幡宮から八幡大神を戸畑村・中原村の産土神として汐井崎に分祀しました。麻生氏が筑後に移されると八幡神社は衰退し、江戸時代の寛文年間(1661-73)鳥旗に社殿は移されました。また、中原村の八幡神社は独立し、現在の中原八幡宮となりました。1920(大正9)年、八幡神社は浅生に遷されました。現在の飛幡(とびはた)八幡宮です。

1889(明治22)年、戸畑村と中原村は合併して戸畑村になり、洞海湾の築港工事の一環として戸畑の洞海湾岸部は埋め立てられました。1895~1900(明治28~33)年に汐井崎から牧山の干潟が埋立てられました。その埋立地や臨海部に多くの工場が立地するようになりました。また現在の南鳥旗町には1890(明治23)年戸畑村役場が設置され、戸畑村は1899(明治32)年には戸畑町になり、1924(大正13)年には戸畑市になりました。1933(昭和8)年に移転するまで、そこに市役所がありました。戸畑駅の北側が戸畑の中心でした。

現在の鹿児島本線は九州鉄道によって建設され、1891(明治24)年4月、黒崎-門司間が開通しましたが、その時の黒崎-小倉のルートは、現在と違い、戸畑は通らない内陸ルートでした。1897(明治30)年、八幡村に官営製鉄所が開設され、若松港が石炭積出港として飽和状態になっていましたので、対岸の戸畑に港が建設されていました。そんな状況の中、海岸ルートの要望が高くなりました。

1902(明治35)年12月、戸畑を通る路線が開業され、当時の駅舎は線路の北側にありました。戸畑が発展するとともにその中心は南に移っていきました。1964(昭和39)年、戸畑駅の駅舎も南側に建替えられました。その駅舎は現在より120m東にありました。駅の西側の工場(日立金属)が撤去されたため、戸畑駅前の区画整理が行われ、JR戸畑駅は、1999(平成11)年西側に移動し、新築されました。

1933(昭和8)年、旧戸畑市役所は現在の新池に建設されました。東側の玄関側からは2階建てに見えますが、敷地の傾斜を利用していますので、鉄筋コンクリート造り3階建てです。1963(昭和38)年、五市が合併して北九州市になり、9年間北九州市の仮庁舎になりました。その後戸畑区役所になり、現在は戸畑図書館になっています。旧戸畑市役所の南東に市民会館や福祉文化センターがありましたが、戸畑駅の移転、新築に伴い、その東隣のウエルとばたに移転し、その跡地に戸畑区役所の新庁舎が完成し、2007(平成19)年1月から業務を開始しています。

戸畑祇園は7月第4土曜を含む前後3日間行われます。その土曜日夕方からの戸畑祇園大山笠競演会は、戸畑区役所前の浅生第1公園の周りの道路が会場になります。3階建ての戸畑区役所の外部が階段状になっていて、戸畑祇園大山笠競演会の観覧席になっています。

戸畑祇園大山笠は東・西・天籟寺・中原の4基あります。戸畑祇園は飛幡八幡宮、菅原神社、中原八幡宮三社の夏祭りです。その祭礼に供奉する氏子の山笠行事の戸畑祇園大山笠行事は、国の重要無形民俗文化財に指定されています。戸畑祇園大山笠は、昼は幟山笠で、夜は提灯山笠に変わります。

戸畑祇園大山笠行事の日程や戸畑祇園大山笠の詳細については、下記の戸畑祇園大山笠の公式サイトをご覧ください。
 http://tobatagion.jp/
県道271号下到津・戸畑線はかって浅生通りと呼ばれていました。現在は拡張され、中央通りと呼ばれています。中央通りは、西側で道は二つに分かれ、右の南側が中央通りです。二つの道路に挟まれて浅生第1公園があります。公園の東側にも道路が南北に通っています。公園の形は三角形で、公園とそれを取り巻く道路周辺が戸畑祇園大山笠競演会会場になります。浅生第1公園の東側に戸畑区役所があります。中央右側の高層の建物の手前が戸畑区役所で、3階建の建物外部が階段状になっていて、戸畑祇園大山笠競演会の観覧席になっています。左側の茶色のタイル張りの建物が旧戸畑市役所で、現在の戸畑図書館です。
この付近の様子は、「北九州点描」の「浅生」をご覧ください。
中央通りの南側、戸畑区浅生2-2-2に飛幡八幡宮はあります。かっては浅生八幡神社と呼ばれていて、1920(大正9)年、鳥旗から浅生に遷されました。東大山笠の宿はここにあります。
   
菅原神社は戸畑区菅原1-10-15にあります。菅原道真が左遷されて、豊前から大宰府に陸路を行く時に、この地に泊ったという話が残されています。天籟寺大山笠の宿はここにあります。  
   
中原(なかばる)は戸畑区の北東部で、小倉北区と隣接しています。かって中原は、境川を境にした筑前と豊前の国境地域の地名で、境川の西側は筑前福岡藩の遠賀郡中原村でした。中原村は、近世初期に戸畑村から分村したと思われます。中原八幡宮は戸畑区中原東3-12-1にあります。安土桃山時代の天正年間(1573-92)、花尾城主の花尾氏が現在の枝光八幡宮から八幡大神を戸畑村・中原村の産土神として塩(汐)井崎に分祀しました。その後戸畑村から分村した時期なのか、中原村の八幡神社は独立し、現在の中原八幡宮となりました。中原大山笠の宿はここにあります。
   
中原大山笠のお汐井汲みの場は中原先の浜にあります。境川の河口部ですが、周りは沖合まで埋立てられ、工場が立地しています。境川泊地の奥で、泊地を出ると関門海峡の西部に出ます。ここで山笠を清める海水を汲みます。  
   
西大山笠の宿は戸畑区北鳥旗町9-6の恵美須神社の前にあります。西大山笠と東大山笠が飛幡八幡宮の大山笠です。恵美須神社の前を北に行くと市営若戸渡船の戸畑の渡船場があります。
   
若戸渡船の戸畑の渡船場を東に行き、洞海湾岸の若戸大橋の下を東に行くと、東・西・天籟寺大山笠のお汐井汲みの場があります。  
   
金曜日から各神社がある地域で、祇園行事が行われます。土曜日の午前中に、飛幡八幡宮社殿横に東・西大山笠と小若山笠が並びます。そこに天籟寺大山笠と小若山笠が加わり、大山笠3基とそれぞれの小若山笠3基の計6基が勢揃いします。
東大山笠の前です。戸畑祇園の昼間の姿は、本来の山笠の姿といわれている幟山笠です。山笠の台の上に黒漆塗りの勾欄付の台座があり、台座の中心には分霊を納めた祠が置かれています。勾欄台の左右に6本ずつ12本の幟が立てられています。縁取りがされた紅白の幟が交互に並べられます。山笠の正面に左右一対の白い大きな菊花が上下に取り付けられています。前花といいます。
   
東大山笠の後です。円形の装飾が取り付けられています。見送りといいます。東大山笠の見送りは鷲です。  
   
西大山笠の前です。勾欄の下の山笠の台の周りを二段に幕が架かっています。勾欄のすぐ下に張り巡らされているのが水引幕で、中央の凹部の昇降部に架かっているのが前掛幕です。台の最下部の4面に架かっているのが4枚の切幕です。
   
西大山笠の後です。西大山笠の見送りは布袋です。  
   
天籟寺大山笠の前です。
   
天籟寺大山笠の後です。天籟寺大山笠の見送りは唐獅子です。  
   
東大山笠の右横です。勾欄の角に御幣が置かれ、勾欄に沿って数多く並べられているのは「てまりこ」です。竹の先端に色とりどりの奉書紙や染紙で球状に作ったものを取り付け、下に幣を垂らしています。
   
西大山笠の左横です。勾欄や幕の古いものの一部に江戸時代のものが現存し、現存する幕類の古いものの大半は、明治初期から中期に作られたものです。これらは福岡県の有形民俗文化財に指定されています。現在使われている幕類は、昭和37・8年に作られました。上の水引幕、下切幕には緋のラシャ地に武者絵が金糸銀糸で刺繍されています。  
   
正午頃から飛幡八幡宮拝殿では神事が行われ、その後、拝殿前の神輿に神霊が移されます。中原大山笠は、中原八幡宮で神事が行われます。
   
飛幡八幡宮の社殿がある所の一段下の駐車場に、各町内の子供山笠が参集しています。
午後1時頃、お汐井汲みの場への大下りが始まります。反対に大山笠が神社の神前に参ることは大上りといいます。  
   
飛幡八幡宮の神輿です。
   
神事の後、御分霊が移された祠が山笠へ奉戴され、神輿に随伴します。大山笠の装束は、上より鉢巻、法被、腹巻、帯、半股下、鳶足袋で、法被の後ろには大山笠の頭文字が赤く染められています。  
   
途中JRのアンダーパスを通り、高さ制限があるため、大山笠の幟が取り外されています。祇園囃子には笛、鉦、太鼓、合わせ鉦が使われます。
   
東・西・天籟寺大山笠がお汐井汲みの場に揃いました。恵美須神社の西大山笠の宿前で、各大山笠は幟を立てて、お汐井汲みの場に向かいました。  
   
洞海湾のお汐井汲みの場で、神職が榊の枝でお汐井を山笠や山笠関係者にかけてお祓いをして、祭りの安全を祈願する神事が行われます。東・西・天籟寺大山笠はこの場所で、お汐井汲みの神事が行われます。中原大山笠は中原先の浜お汐井汲みの場で行われます。
中央通りの南側に中本町商店街はあります。中央通りの南に並行したそのアーケードを戸畑駅側から抜けた先の旧電車通りを直進すると、飛幡八幡宮の参道です。戸畑祇園の間は、参道の両側に露店が並びます。境内の駐車場も露店が並びます。
   
土曜夕方、大山笠競演会会場に各大山笠が集まって来ました。中原大山笠の前です。  
   
中原大山笠の見送りは虎です。
   
戸畑祇園大山笠競演会会場です。道路の向こう側が本部になり、手前は戸畑区役所外側の有料観覧席です。手前の道路を底辺とすると、左右の道が先の方で合流し、会場は三角形になります。周辺は観客でいっぱいになります。18:30からの開会式が終わったところです。
東・西・天籟寺・中原大山笠4基、それぞれの小若山笠4基、計8基の幟山笠が運行を開始します。「ヨイトサ、ヨイトサ」の掛け声で、歩調を合わせて山笠は運行されます。
幟山笠から提灯山笠へ変身します。  
   
台上から祠が置かれた台座以外すべてが取り外されます。山笠台は釘は使われず、藤葛(ふじかずら)で締められています。提灯山笠の頂上部の五段が横に用意されています。
   
山笠台の四隅に、提灯がついた木枠を取り付ける柱が立てられます。  
   
五段を若い衆が担ぎ、下から長い竿で支えられて、一気に頂上に担ぎ上げます。これが五段上げで、6段目から12段目までが瞬く間に組み上げられます。12段、309個、重さ2.5トンの提灯大山笠が完成します。
東・西・天籟寺・中原大山笠4基、それぞれの小若山笠4基、計8基の提灯山笠が完成しました。既に日没しています。
提灯山笠の運行が始まりました。
四つの大山笠には、それぞれ四つの小若山笠があります。大山笠より小振りに作られた小若山笠は、それぞれの校区の中学生によって担がれます。一通り提灯山笠の運行が終わると、小若山笠4基の運行が始まります。
20:00を過ぎました。小若山笠の運行が終わり、これから大山笠4基の自由演技が始まります。
自由演技が始まりました。  
   
大山笠4基が一斉に動き出しました。
重い大山笠が思ったより早く動きます。
   
追いつき、追い越せと大山笠は走ります。走った後は担ぎ手は一斉に交代します。  
   
4基の大山笠のうち3基が団子状態になっています。
   
とうとう追い越しました。  
   
走り終わりました。左が中原大山笠、右が天籟寺大山笠です。
   
同じく左が東大山笠、右が西大山笠です。  
   
21:00を過ぎています。大山笠競演会は三本締めで終わります。
明日の日曜は、各山笠は地元地区を運行します。


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