北九州の催事

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若松えびす祭
    若松恵比須神社 若松区浜町1丁目2-37  [2013/12/21]
 

九州の熊襲(くまそ)の謀反の知らせで、仲哀天皇と神功皇后は西下します。崗県主(おかのあがたぬし)の先祖、熊鰐(くまわに)が出迎えます。仲哀天皇の船は響灘から岡浦(現在の芦屋)に向かいます。神功皇后は仲哀天皇とは別の船で洞海(くきのうみ・洞海湾)に入って行きました。恵比須神社の社伝によりますと、神功皇后が洞海に入られた時、熊襲成敗の吉凶を占うため釣糸を垂れました。すると、海中に光り輝くものがあり、武内宿禰(たけのうちのすくね)が海士(あま)に採らせたところ、見事な霊石であったので、事代主のお告げであろうと、事代主神を海浜に祀ったと伝えられています。この霊石が恵比須神社のご神体であり、祭神は事代主命と大国主命です。

後、武内宿禰が再びこの海浜を訪れ、若々しい松が連なっているのを見て、わが心も若やぐと言いました。この故事から若松の地名が生まれたと伝えられています。若松恵比須神社の春季例大祭(4/2〜4)と秋季例大祭(12/2〜4)を若松えびす祭といいます。他に十日えびす祭(1/9〜11)があります。

「古事記」や「日本書紀」の神話によりますと、天照大神のいる高天原(たかまがはら)を追放された素盞鳴命(すさのうのみこと)は、出雲にやって来て、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、奇稲田姫(くしいなだひめ)の間に多くの子孫をもうけます。その一人が大国主命(おおくにぬしのみこと)です。大国主命にも因幡の白兎の話や、根の国にいる素盞鳴命が大国主命に試練を与える話があります。

それらの試練に耐えて大国主命は国作りを始めます。大国主命などの国神(くにつかみ)の指導で地上は繁栄します。しかし、高天原の天神(あまつかみ)にとっては、それは秩序のない状態でした。高天原から国譲りのために大国主命の元に使者が遣わされます。何人も遣わされますが失敗し、強い神が遣わされます。遂に、大国主命は国譲りについては子供が返事しますと答えます。大国主命の子の事代主命(ことしろぬしのみこと)は高天原の天神に国を譲ると答えました。

大国主命は国譲りを決意しますが、私の屋敷も天孫のものと同じような壮大なものにしてくださいと要求し、その通りの壮大な出雲大社が築かれることになりました。天照大神の孫(天孫)が地上に降臨し、天孫が皇室の祖先になります。事代主命が国譲りの答を迫られた時、事代主命は釣りをしていました。その時の状態から、事代主命が釣竿を持ち鯛を抱えたえびす様に比定されます。大国主命の大国がだいこくと読めることから大黒様と比定されます。七福神は本来インドや中国の神様ですが、えびす様だけは日本古来の神様です。えびす様は古くから漁業の神様であり、海の神様で、遠くからやって来ることで、夷、戎、胡、蛭子と書き表されます。恵比須神社も恵比寿や恵美須とも表記されます。平安時代後期には市の神としてえびす様は祭られます。中世になると商業が発達し、商売繁盛の神となります。そして福の神として七福神の一員となります。

若松は、江戸時代福岡藩の米積出港として、江戸時代から昭和まで石炭積出港として繁栄してきました。海上安全の神様として若松恵比須神社は多くの人々の崇敬を集め、商売繁盛の神様として「おえべっさん」と呼ばれ、古くから遠くからも多くの人々がお参りしました。若松恵比須神社は、現在も洞海湾の近くにありますが、明治20年代の初めまで、その北側は海岸でした。船でお参りする人もいたといわれています。1962(昭和37)年洞海湾に若戸大橋が架けられます。若戸大橋の架橋、その後の拡幅工事に伴い、若松恵比須神社の境内が次第に縮小されました。そして、社殿が移転建替えになりました。
高塔山公園の山頂の展望台からの、洞海湾を挟んだ若松と戸畑の眺めです。かって洞海湾の湾口は、右手の若戸大橋付近でした。それから左の部分は、若松も戸畑も大部分が明治20年代初めからの埋立地です。若戸大橋の若松側の陸上部が右にカーブする所があります。その左の建物が若松区役所です。そこから左側に少し手前に引いた線が、概ね明治20年代初めまでの海岸線です。それから先は戸畑も含めて埋立てられました。若松側の左側の下の海面は北湊です。その先の陸地が安瀬で、一番先の陸地は響町です。その辺りが現在の洞海湾の入口です。
若松の北側の埋立の経緯については、「北九州点描」の「響町」をご覧ください。
若戸大橋の陸上部が右にカーブする所の横にある若松区役所が分かりますでしょうか。高塔山公園の展望台から東の方向に当たります。その右奥に若戸大橋に隠れていますが、若松恵比須神社本殿の屋根の一部が見えます。その左手、北側は明治20年代初めまで海でした。
若松の若戸大橋の右手の街中を通って、若松恵比須神社の秋季例大祭に参拝します。まず一つは、ここにはありませんが、右側手前のJR 若松駅から商店街を通るルート、二つ目は戸畑から渡船に乗って来て、渡船発着所からのルートです。
JR 若松駅です。駅名表示の上に見えるのが高塔山公園の山頂の展望台です。
1891(明治24)年、直方・若松間の筑豊興業鉄道が開通しました。若松駅は筑豊からの石炭到着駅でした。その量は日本一で、ここから船積みされました。人力で船積みされた時代を舞台にしたのが、火野葦平の小説「花と龍」です。筑豊本線終着駅の若松駅には貨車の操車場がありましたので、その構内は広大でした。しかし、時代は移り、駅は旅客専用となり、操車場や桟橋の跡地はマンションなどのニュータウンに生まれ変わりました。現在の若松駅は、かっての駅構内の北東の一部分にしか当たりません。
   
若松駅の北東にある交差点を渡ります。ここで国道495号線が国道199号線に合流します。駅前商店街のウエル本町に入って行きます。先方にホテルルートインが見えますが、その前の通りが中川通りです。  
   
ウエル本町には、このような井戸の手押しポンプが5個所あります。すべて現役で、井戸水を汲み上げることができます。
   
中川通りに出ました。交差点の先はエスト本町のアーケードです。  
   
エスト本町のアーケードの中です。西から東に進みます。
   
エスト本町のアーケードの東側近くで明治町銀天街が交差しています。南から北に進みます。  
   
明治町銀天街の北側です。若戸大橋の陸上部の橋脚の向こうに、大正市場の文字が見えます。その右にゑびす市場があり、左手に行った所に大黒市場があり、この一帯は若松の台所といった趣がありましたが、中川通りの南端にサンリブがメインテナントのベイサイトプラザ若松がオープンして以来、そちらに重心は移っています。
   
若戸大橋の陸上部の橋脚沿いに東に向かいます。高塔山公園の山頂の展望台から眺めた若松区役所が見えてきました。1990(平成2)年に竣工しました。  
   
1962(昭和37)年若戸大橋が開通しました。若戸大橋の下の陸上部が、恵比須神社への参道となっていて、えびす通りと呼びます。
   
えびす祭の期間露店が出ます。
橋脚を門に見立てて、参道の部分にはそれぞれ名前が付いています。西から出会いの門、祭りの門、港の門、祈りの門、商いの門になります。
 
   
参道の途中から左に入って行くと、若松恵比須神社の西側の鳥居があります。鳥居には蛭子社の額が掲げられ、天保五年(1834)の年号が刻まれています。この鳥居は再建されたもので、その前は、1607(慶長10)年に若松城主三宅若狭家義により建立されていましたが、暴風により倒壊しました。
   
戸畑から渡船に乗って来て、渡船発着所から若松恵比須神社に参拝するルートを紹介します。戸畑駅の北口を北進すると、若戸大橋の橋脚の横に若戸渡船の戸畑側発着所があります。そこを出た渡船は、左後方に見える、西側にあるニッスイ戸畑ビルの前を通って若松に向かいます。ニッスイ戸畑ビルは、1936(昭和11)年共同漁業ビルとして建設されました。翌年日本水産が発足しました。
ニッスイ戸畑ビルについては、「北九州点描」の「川代・銀座」をご覧ください。
 
   
若戸大橋付近にはかって周囲500mほどの中ノ島がありました。慶長年間ここに、福岡藩主黒田長政は、三宅若狭家義に若松城を築城させました。若松城には、多くの船を備え、番所を設けて、洞海湾を往来する船を取り締まりました。幕府の一国一城令で、若松城は廃城になりました。明治になると、中ノ島にはコークス工場・貯炭場・造船場が建設されました。しかし、洞海湾の築港の進展により、1940(昭和15)年中ノ島は切り取られ、その姿を消しました。
若戸渡船の若松側発着所は、若戸大橋の若松側橋脚の少し南側にあります。後方の山は八幡東区の皿倉山で、手前の小山は戸畑区の牧山です。西側に進んだ渡船はUターンするようにして着岸します。
   
若戸渡船は人と自転車を運ぶ3分間の船旅です。1962(昭和37)年9月若戸大橋が開通しました。当初片側1車線の歩道付きでしたが、1984(昭和59)年5月〜1990(平成2)年3月の工事により、歩道はなくなり、片側2車線に拡幅されました。若戸渡船の若松側発着所は市営バスの停留場になっています。その前に通勤・通学用に駐輪場があり、その横は小公園になっています。
渡船発着所の前を手前、北側橋脚の方に向かいます。
 
   
橋脚の先、若戸大橋の陸上部の下に来ました。右手駐車場の先に若築建設があります。1890(明治23)年設立された若松築港会社は、若松港を築き、洞海湾を浚渫埋立てて発展しました。戦後は全国各地、海外で工事を行い、一部上場され、若築建設と社名を改め、東京に本社を移転しました。洞海湾の築港工事は、北九州の経済史を物語るものです。それらやそれ以前の史料が、若築建設の3階の「わかちく史料館」に展示されています。
   
若戸大橋の橋脚の先は、陸上部の橋梁になり橋台があります。若戸大橋に歩道があった頃、橋台の内部のエレベーターで地上から橋上の歩道の間を昇降していました。橋台の西側の壁面に、片山正信氏の版画をもとにした5つの壁画が掲げられています。左からかっての若松駅構内の操車場、脇之浦のはだか祭、中央は若松みなと祭り、春のえびす祭、右端は旧若松区役所です。旧若松区役所は1922(大正11)年若松市役所として建てられました。鉄筋コンクリートの地下1階、地上2階建てでした。1963(昭和38)年五市が合併し北九州市が発足すると、若松区役所になりました。若戸大橋の拡幅工事に伴い、1989(平成元年)解体されました。その跡地に現在の区役所が建設されました。
橋台の先、若戸大橋の陸上部の下は若松恵比須神社への参道になっています。右手に境内が見えてきましたので、右折しますと若松恵比須神社の東側の鳥居があります。1780(安永9)年に寄進されたもので、貝原益軒の撰文、亀井昭陽の書が刻まれています。  
   
境内の北側に若松恵比須神社本殿はあります。拝殿には、向かい合わせの夫婦鯛のしるしがついた御神燈が飾られています。この拝殿の奥の本殿の屋根が、高塔山公園の山頂の展望台からちらっと見えました。
夜のなると人出が増えてきます。
   
拝殿前には、参拝者が列をつくっています。  
   
秋の若松えびす祭の初日12月2日の夜には、福神玉替神事の「かえましょ」が行われます。参加する人は鯛土鈴を1個300円で求めます。
   
特設舞台で神主による神事があります。  
   
「かえましょ、かえましょ」とはやしたてながら、福を求めて他の人の鯛土鈴と替えていきます。鯛土鈴は、境内に集まった人々の渦の中を、手から手へと移っていきます。
   
鯛土鈴には番号がはいったシールが張られています。抽選が行われ、運のいい人は替えた土鈴で福を当てます。  
   
拝殿の左横に、方位石が置かれています。年号も寄進者も刻まれてないですが、江戸末期のものといわれています。方位石の上部には、内側の円には北が○で、東西南北が表され、外側の円には十二支の文字が表されています。
   
東側の鳥居に刻まれた銘文は、現在読むのは困難ですが、貝原益軒の撰文、亀井昭陽の書で、「日本之西朝鮮之東石門表海蛭子之宮昔者樟船乗波順風斯降紫陽垂神無窮」と刻まれています。  
   
東の鳥居を出て、通りを北に行くと、若松恵比須神社の北東角に常夜灯が立っています。明治20年代初めまで、この先の北側は波打際でした。


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